こんにちは、ちゃむです。
「余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
42話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 嫌な予感
皇太子を無視してしまったようで気まずくなり、私は申し訳なさそうに頭を下げた。
「い、いえ。皇太子殿下、お初にお目にかかります」
「そうか。名前は……?」
「リビア・フリントンと申します」
「ああ、そうか」
彼は感心したように頷いた。
「だから、どこか聞き覚えのある名前だと思ったんだ」
「え?」
「リビア・フリントン嬢」
そう言うと、彼はふいに私へ顔を近づけてきた。突然の行動に目を丸くした、その瞬間――大きな背中が私とヒステリオンの間に割って入った。
「皇太子殿下、お久しぶりでございます」
カーディエンが挨拶すると、ヒステリオンは私へ近づけていた顔をゆっくりと離した。一歩下がったヒステリオンは、にこりと笑みを浮かべる。
「そうか、メルツェデス公爵。まさかこんな場所で君に会うとは思わなかったよ」
そう言いながら向けられた緑色の瞳の奥には、どこか茶目っ気のある光が宿っていた。
「君は死んでも洗礼式には出席しないと聞いていたが……。では今、私の前にいるのは公爵の亡霊か?」
「……」
一瞬、静寂が流れた。
『わあ……』
カーディエンの背後に隠れながら二人のやり取りを聞いていた私は、心の中で感嘆した。意外と気さくな人なんだな。
原作のヒステリオンも、こんな性格だっただろうか。いや、違った気がする。もっとも、原作でヒステリオンが登場する場面は、たいていヒロインが一緒にいるか、政治的な問題が起きている時だった。そういう緊迫した場面ばかりだったからこそ、彼がこんな一面を見せる機会はほとんどなかったのだろう。
それにしても……。
「ん? どうしてそんな目で見るんだ? ……ああ、まさか私まで光に撃たれて死んで、幽霊になったと思ったのか? メルツェデス公爵の幽霊だと?」
『それはさすがに気さくすぎるでしょ!』
相手が皇太子で、ここが神聖な洗礼式の場でなければ、カーディエンはとっくに剣を抜いていただろう。……いや、カーディエンならあり得る。皇太子相手だろうと、式の最中だろうとお構いなしに剣を抜きかねない気がして、私は「落ち着いて」という意味を込めて、そっと彼の背中を軽く叩いた。
すると、カーディエンは小さく肩を震わせ、私を見下ろした。
「落ち着いてください、公爵様」
ここで皇太子に剣を向ければ、軽くて皇族侮辱罪、重ければ皇太子暗殺未遂や反逆未遂の罪に問われる。私はメルツェデス家の滅亡を防ごうとしているのに、そんなくだらない理由ですべてを台無しにはできない。
どうやら私の気持ちが伝わったのか、彼は小さくため息をついた。
『よし、そのまま落ち着いて……』
「……その減らず口、少しは慎んだらどうですか、殿下」
『うわぁっ!?』
容赦ないカーディエンの一言に、私のほうが肝を冷やした。確かにカーディエンとヒステリオンは親しい間柄で、政治的にもカーディエンのほうが優位に立っているのは知っている。それでも、いくらなんでも遠慮がなさすぎる。
そう思って慌てたのは、どうやら私だけだった。ヒステリオンはくすりと笑い、肩をすくめた。
「言っただろう? 私が滅びれば、帝国も道連れになるって」
「……」
もしかしてヒステリオンは、口先だけで人を言いくるめてきたわけではなかったのだろうか。違うと誰よりも分かっているはずなのに、その一瞬だけそう疑ってしまうほど、ヒステリオンは飄々としていた。もっとも、その態度を向けている相手がカーディエンというのが問題ではあるけれど……。
ともかく、ひとまずこの場を離れよう。私はそっと辺りを見回した。
ヒステリオンの護衛たちが周囲をぐるりと囲んでいたおかげで、こちらのやり取りは外から見えていないようだった。それにしても、護衛がずいぶん多い。数えてみれば軽く十人以上はいる。
もっとも、皇室は今、冷戦状態だからだ。皇太子派と第二皇子派。先日の毒殺未遂事件で、皇帝が一度は命を落としかけたことで、これまで暗黙のうちに保たれていた皇位継承問題が一気に表面化した。今は皇帝が無事とはいえ、双方とも強い危機感を抱いているはずだ。慎重になるに越したことはない。
それにしても、カーディエンがヒステリオンを軽んじるような発言を周囲に聞かれなくて、本当に良かった。私の方が気が気じゃない。正直なところ、できることなら私一人だけでも、この場からさっさと抜け出したい。
でも、現実はそう都合よくはいかなかった。私がいない間に、カーディエンに何かあったら困る。例えば突然ヒロインが現れて、あっさりとカーディエンが彼女に惚れてしまうとか……それだけは絶対にダメだ。想像しただけでもぞっとする。
だからといって、いつまでもここで立ち話を続けているわけにもいかない。私は心の中で深くため息をつき、二人に向かって言った。
「えっと……ひとまず、プライベートルームへ移動しませんか?」
普通の舞踏会ならバルコニーがあるけれど、この神殿には建物の構造上それがない。その代わりに用意されているのが、個室としてのプライベートルームだった。
私の提案に最初に反応したのはヒステリオンだった。彼は軽くうなずく。
「それがいいな。ちょうど私も話したいことがある」
よかった、話が通じる人で。まあ、物語の重要人物なんだから当然か。……とはいえ、普通の人なら当たり前に受け入れるような提案でも、隣にいるのは普通じゃない人だ。私はそっとカーディエンの方を見た。
視線が合うと、カーディエンは黙って私を見返してくる。
『お願いだから、ここで騒ぎを起こさないでください』
そんな私の祈るような視線に応えるように、やがてカーディエンが口を開いた。
「……嫌だ」
口元をわずかに歪め、冷ややかな笑みを浮かべたカーディエンは、嘲るように言った。
「私はもう、お前と話すことはない」
「……」
そうだった。この人は、もともとこういう容赦のない人だった。私がほんの少し忘れていただけだ。でも、むしろその方が都合がいいかもしれない。私は何としてでも、この緊迫した状況を終わらせたかった。ここまで言われたら、さすがの皇太子も食い下がらないだろう。
私は残念そうな風を装ってヒステリオンへ視線を向けた。
「それでは、仕方ありませんね……」
そう言って、この場を辞そうとした――その時だった。
ヒステリオンがこちらを振り向いた。そして私と目が合った瞬間、彼の口元がゆっくりとつり上がる。
『嫌な予感……』
「なら仕方ないな。公爵はここで失礼するといい。――代わりに」
「えっ!?」
次の瞬間、ぐいっと体を引き寄せられたかと思うと、気づけば私はヒステリオンの隣に立っていた。あまりにも一瞬の出来事で、私は呆然と瞬きをしながら彼を見上げる。カーディエンまでもが驚いたような表情でこちらを見ていた。
そして、ヒステリオンが不敵に口を開いた。
「私が先生に用事があるんだ。君は一人で行ってくれ」
そう言って、ヒステリオンはにやりと笑った。私は呆れた表情で彼を見つめる。
『どう見ても、私を口実にしてカーディエンを引き留めたいだけじゃない』
人選を間違えましたね、殿下。カーディエンは、私みたいな小細工で釣れるような人じゃありません。見ようが見まいが、「好きにしろ」と言って、さっさと行ってしまうに決まっている。私は内心焦り始めた。今にもカーディエンが私を置いて立ち去ってしまいそうだったからだ。
――ところが。
『あれ?』
カーディエンは私を置いて行かなかった。それどころか、その場に立ち塞がるようにして、ヒステリオンを射殺さんばかりの鋭い眼差しで睨みつけていたのだ。
ゆっくりと彼の唇が開く。
「……今、何をするつもりだ?」
北方の嵐よりも冷たく荒々しい声が、強烈な威圧感を帯びて響いた。さっきまで控えていたヒステリオンの護衛たちでさえ、思わず身構えてカーディエンを警戒するほどだった。
ヒステリオンは護衛たちに「大丈夫だ」という合図をするように片手を軽く上げると、相変わらず余裕たっぷりの口調で答えた。
「何をするって? 公爵が行くのを引き止めるつもりはないさ。私は先生に――」
「……先生だと?」
皮肉を帯びた声でヒステリオンの言葉を遮ると、カーディエンは一歩踏み出し、私の手首をぐっと掴んだ。
ヒステリオンに軽く肩を掴まれていたはずなのに、私は再び一瞬でカーディエンの隣へと引き戻されていた。それだけではない。カーディエンはまるで私を隠すかのように、自分の後ろへ押しやってから言った。
「……先生と呼ぶな。彼女は俺の先生だ」
まるで自分の所有物だと主張するかのように、低い声で警告する。私は思わず唇を噛んだ。
『俺の先生、お前の先生なんて言い争うこと自体がおかしいのに……なんだか変な気分』
胸のあたりが、なぜかむずがゆくなる。こんなにもはっきりと、私が自分の側の人間だとカーディエンが示したことは、これまでなかったからだろうか。エデンでも似たようなことは言っていたけれど、あの時とは、少しだけ気持ちが違っていた。
『あの時は、ただ呆れるだけだったけど……今は――』
その時、肩をすくめたヒステリオンが穏やかな表情で言った。
「公爵がどうしてそこまで怒っているのか、私には分からないな」
「……分からないだと?」
カーディエンは冷たく言い返したが、ヒステリオンは気にも留めずに頷く。このあたりから、感情の読めないヒステリオンのほうが怖く思えてきた。
「話は終わりだと言って先に立ち去ろうとしたのは公爵のほうだろう? 私は去る公爵を引き止めようともしていない。それに……フリントン令嬢には最初から用があっただけだ。どうしてそこまで腹を立てるんだ?」
「……」
思わず私まで頷きそうになった。どう見ても、ヒステリオンは私を口実にしてカーディエンを引き止めたのは間違いない。それなのに、その言い分だけを聞くと妙に筋が通っているようにも聞こえてしまう。
「自分の用事ではない」と言い張って引き止められたら、相手は何も言い返せない。なんだか、この睨み合いは終わりそうになかった。だからといって、皇太子であるヒステリオンを振り切ってカーディエンを連れて逃げることもできず、私は小さく息をついて口を開いた。
「公爵様、それでしたら少しだけ……」
理由が問題なら、その理由をなくしてしまえばいいだけだ。大したことではないのだから。「すぐ戻ってきますので、少しだけ待っていていただけませんか」――そう言いかけた、その時だった。
一歩先に、冷ややかな声が静かに響く。
「いいだろう。しばらく彼女を借りよう。ただし、一つ条件がある」
「条件……?」
ヒステリオンへゆっくりと歩み寄ったカーディエンは、低い声で囁いた。
「彼女に手を出すな」
一瞬きょとんとしたヒステリオンは、カーディエンを見つめると、やがて吹き出して笑った。
「ははっ。いいだろう。メルツェデス公がそうおっしゃるなら従おう。もう勝手に彼女へ触れたりはしない」
「……」
「では、行こう」
先を歩き出したヒステリオンを、カーディエンはしばらく無言で見送り、それからゆっくりと後を追い始めた。私は自然とカーディエンの隣にぴったり寄り添い、その表情をそっとうかがう。途中から話の流れがどうなっているのか、もうよく分からなくなっていた。
『うわ……』
カーディエンの表情を見た私は、ごくりと唾を飲み込んだ。事情はよく分からないけれど――ものすごく怒っている気がする。
青紫色の瞳からは、凍りつくような冷気があふれ出ていた。まるで、彼と初めて出会った時のようだった。
『やっぱり……私のせいだよね?』
私が人質のような形で連れて来られたから、カーディエンも仕方なく従っているのだ。正直、少し理不尽だとは思うけれど、好きで捕まったわけではない。だからといって、身分制度が厳しいこの世界で、没落貴族出身の公爵家の家庭教師にすぎない私が、皇太子の要求を拒めるはずもなかった。
理不尽だとは思ったが、それでも怒っている様子のカーディエンを気遣い、私は慎重に声をかけた。
「えっと、公爵様」
カーディエンがちらりと私へ視線を向ける。冷たい紫色の瞳と目が合った瞬間、私は思わず身をすくませた。やっぱり、ここ最近ずっと穏やかな彼を見ていたせいで、すっかり平和な空気に慣れてしまっていたみたいだ。私は息を整え、意を決して口を開く。
「その……ごめんなさい。すごく……怒っていますか?」
するとカーディエンはしばらく私を見つめたあと、何も言わずに再び前へ視線を戻した。返事はない。
『……やっぱり、すごく怒ってる』
予想はしていたけれど、思っていた以上に拒絶をにじませる彼を見て、胸がぎゅっと締めつけられた。そんなことを考えているうちに、私たちはプライベートルームの前へと到着した。
プライベートルームは、ホールから少し離れた静かな廊下にあった。人通りもほとんどなく、内密な話をするにはうってつけの場所だった。部屋の前で私は足を止めた。
「私はここで待っています。お二人で話してきてください」
二人の会話は、きっと私が聞いてはいけない内容だろう。だいたいの予想はつくけれど、余計なことはせず、ここで待っているのが一番だ。
ヒステリオンは頷いたが、カーディエンはどこか納得していない様子だった。その視線がまるで私を信用していないように感じられて、私は慌てて付け加えた。
「どこにも行きません。この方たちと一緒に、ここで待っていますから」
「この方たち」というのは、ヒステリオンの護衛たちのことだった。すると、なぜかカーディエンの表情がさらに険しくなった。
だが、それもほんの一瞬。彼は部屋へ入ろうと足を踏み出したかと思うと、すぐに踵を返し、まっすぐ私のほうへ歩いてきた。