こんにちは、ちゃむです。
「余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
46話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 運命の蝶の導き
ふと、一瞬だけ目にした「あの男」の記憶が脳裏をよぎった。
(あの男も、ここに閉じ込められていたのだろうか。カーディエンと同じように、何かの実験や手術を受けさせられたのだろうか……)
(もし、あの男がここから脱出して地上へ出たのだとしたら――)
思考に没頭しかけた、その時だった。
――ヒュッ!
突然、鼓膜を震わせるような、空気を切り裂く鋭い音が響いた。
その瞬間、
――キィン!
甲高い音を立てて私の周囲に防護膜が展開され、何かが激しく弾き返された。
「な、何!?」
心臓が跳ね上がり、驚いて音のした方へと勢いよく振り向く。しかし、周囲の闇が深すぎて何も見えない。
息を呑んだ次の瞬間、今度は背後から凄まじい風切り音が迫った。
――ガンッ!
再び自動で展開された防護膜が、飛来した質量を完全に防ぎ切る。
直後、ちっと軽く舌打ちする音が暗闇に響き、続けて背筋が凍るような陰鬱な声が低く鼓膜を揺らした。
「……魔法か」
「……どちら様ですか?」
警戒を込めて問いかける。だが、相手は私の言葉を鼻で笑うように応じた。
「それはこっちのセリフだ。どうやってここへ入り込んだ?」
男は私の返事を待つ気など端からないようで、冷笑を浮かべた気配を漂わせながら言葉を紡ぐ。
「まあ、答える必要はない。どうせすぐ死ぬ命だからな」
言い放つと同時に、男は立て続けに猛烈な連撃を仕掛けてきた。
そのたびに防護膜が火花を散らして展開し、男の容赦ない攻撃を防いでいく。けれど、この防御がいつまで持つのかは分からない。
(な、何なの、一体!?)
予想外の急襲に、心臓が早鐘を打つ。必死に呼吸を整え、冷静さを取り戻そうと試みた。
本当ならこちらも魔法で応戦したい。けれど――暗すぎて相手の位置がまったく掴めないのだ。
「ふん、小娘め。今さら後悔しても遅い。貴様らはここで死ぬのだ!」
対する男は、この常闇に慣れきっているのか、一寸の迷いもなく正確に私を狙って突進してくる。
このまま防戦一方でいては勝ち目がない。
(どうしよう……!)
いっそ防護膜を自ら解除し、相手が肉薄してきた一瞬の隙を突いて能力を解放するしかないのだろうか。
視界の効かない闇の中で必死に対策を練っていた、まさにその時だった。
……。
突然、辺りが不気味なほど静まり返った。
さっきまで容赦なく叩きつけられていた攻撃が、ぴたりと止んだのだ。
(諦めた……の?)
だが、安堵よりも先に、心臓を冷たい手で掴まれるような予感が胸をよぎる。そんなはずはない。あの襲撃者は、どう見ても邪神イグリド側の人間だ。侵入者である私たちを、このまま生かして帰すわけがない。
(いや、違う――!)
――ドォン!!
鼓膜を破らんばかりの激しい爆発音とともに、猛烈な突風が全方位から吹き荒れた。
「うっ……!」
怪我こそなかったものの、その衝撃波に抗えず、私の体は大きく後ろへと吹き飛ばされる。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
突風が巻き上げた酷い埃を吸い込み、激しく咳き込んだ。そしてその瞬間、私は己の最大の過ちに気づき、血の気が引いた。
激突の衝撃で、握っていたカーディエンの手を離してしまっていたのだ。
「カっ……カーディエン!?」
慌てて手元の明かりを強く灯し、必死に彼の姿を探す。
幸いにも、カーディエンは私からそれほど離れていない床の上に倒れていた。
「カーディエン……!」
すぐに彼のもとへ駆け寄ろうとした、その時だった。
――スッ。
物音ひとつ立てず、ゆっくりと起き上がったカーディエン。しかし、その佇まいは異様だった。感情の光が完全に消え失せた瞳で、彼はじっと一方向を見つめている。
その視線の先から、勝利を確信したような男の不気味な笑い声が響いた。
「ククク……。一人で私を相手にするつもりか? 大した自信だな」
闇の奥から、ゆらりと黒い人影が姿を現す。
「いいだろう。まずは貴様から始末してやる」
言い終えるや否や、その影は狂暴な速度でカーディエン目がけて一直線に突進した。
(ダメ! 今のカーディエンは意識がない状態なのに……!)
私は歯を食いしばり、必死にカーディエンへと迫る人影に向かって右手を伸ばした。
速すぎる。目で追うのがやっとの動きを、捕まえられる自信なんてない。けれど――せめて足止めくらいはできるはずだ。
そう信じて魔法を発動しようとした、その瞬間。
――パッ。
目の前から、不自然にカーディエンの姿が消え失せた。
「え……?」
呆気に取られた次の瞬間、前方から引き裂くような悲鳴が響き渡った。
「うわああああっ!?」
唖然としながら悲鳴のした方へ視線を向けると、そこには、さっきまで目の前から消えていたはずのカーディエンが立っていた。
――襲撃者の男の首を、片手で無造作に締め上げた状態で。
「……え?」
状況が理解できず、私は呆けた表情のままその光景を見つめることしかできなかった。
カーディエンの全身から溢れ出ていた禍々しい魔力が、まるで濁流のように男の体内へと吸い込まれていく。男は苦しげに手足をバタつかせ、絶叫を上げていたが、彼の首を掴むカーディエンの鉄の腕は微動だにしなかった。
――ギリッ。
骨がきしむ音が響き、息が絶えようとする掠れた声が聞こえた直後、何かが激しく破裂するような異音が地下空間に響いた。
――ボトッ。
カーディエンの足元へ、真っ黒に焦げ付いた肉の塊が転がり落ちる。
――ドサッ。
カーディエンはまるで興味を失ったかのように、命の消え失せた男の体を無造作に放り投げた。その遺体は、皮肉にも部屋の中央にある祭壇の上へと転がっていった。
――ギッ。
不意に、カーディエンの首がゆっくりとこちらへ回った。
私はごくりと固唾を呑み込み、震える声を絞り出す。
「カ……カーディエン?」
「……」
当然、求めていた返事は返ってこない。彼の周囲では、なおも禍々しい黒い魔力の渦が狂暴に吹き荒れていた。
『近づけば、殺される』
生物としての本能が、最大級の警鐘を鳴らしている。目の前にいるのは、私の知っている心優しいカーディエンではない。魔力に呑まれ、敵味方の区別もなく殺戮を繰り返すだけの、冷酷な抜け殻だ。
(分かってる。そんなこと、分かっているけれど……)
胸が締め付けられる。
(それでも、カーディエンなんだから)
どんな姿になっていようとも、彼をここに置いて一人で逃げるなんて選択肢は、最初から私の中には存在しなかった。
私は決意を込めた眼差しで、まっすぐにカーディエンを見つめた。
彼を包み込む暴走魔力は、まるで分厚い鎧のようだ。他者を拒絶し、完璧に防ぎ切るための孤独な鎧。
(じゃあ、今の私は、彼にとって『敵』なのかな……)
自嘲気味な苦い笑みがこぼれた。
(全部、私のせいだ)
私がカーディエンをこんな危険な場所に連れてきてしまったから。
(もっと早く、あの時に馬車に乗って逃げるべきだったんだ)
いや、分かっている。あの時はそんな状況ではなかった。唯一の出口は完全に塞がれていたし、私から離れれば、ようやく落ち着きかけていた彼の魔力暴走がまた始まってしまっていただろう。
それに、私の力で一度魔力を鎮めたとしても、カーディエンはしばらく意識を失ってしまう。彼が自力で動けるようになるには、少しずつ魔力を馴染ませていくしかなかったのだ。
それでも――、
(こういう不測の事態くらい、あらかじめ予想しておくべきだったのに)
そして、どんな手段を使ってでも、最悪のケースに対する対処法を見つけておくべきだったのだ。私の見通しが甘かったのだ。だから――。
「……私が、責任を取ります」
私はカーディエンに向かって、そっと優しく微笑みかけた。
私を射抜く彼の瞳は、いまだ光を失い、虚ろなままだ。
「分かっています。私には、他に方法がないことくらい」
いつか、あなたがそう言っていたから。
私はこれまでの人生で一度もないほど、体内の魔力を強く、深く練り上げた。両手いっぱいに眩い銀色の光を集め、そのまま迷うことなくカーディエンへと手を伸ばす。
カーディエンの乾いた紫色の瞳に、少しずつ近づいていく私の姿が映り込んでいく。
「……大丈夫です」
それはカーディエンに向けた言葉であり、同時に、恐怖に震えそうになる自分自身に言い聞かせるための呪文でもあった。
大丈夫。きっとうまくいく。だから――。
「私はまだ、死ぬつもりはありませんから」
――ぎゅっ。
そのまま私は、狂暴な魔力の渦に抗いながら、カーディエンの体を強く抱きしめた。
私の放つ銀色の光が一滴たりとも漏れることなく、彼の中へと届くように。彼から吹き荒れる漆黒の嵐に、私の体が吹き飛ばされてしまわないように。
手のひらから溢れ出した聖なる銀色の光は、いつしかカーディエンの全身を包み込み、黒い霧を浄化するように輝きを増していく。
「……っ!」
カーディエンの喉から、苦しげなうめき声が漏れた。
次の瞬間、反発した魔力の嵐が、凄まじい衝撃となって私を一気に飲み込んだ。
私は奥歯を強く噛み締めた。全身の血液が逆流するような、内臓がひっくり返るほどの激しい苦痛が襲いかかる。意識が飛びそうになるのを必死に繋ぎ止め、私は彼をさらに強く、壊れんばかりに抱きしめ続けた。
私たちを巻き込み、地下空間の中心で激しい嵐のような魔力が狂い咲く。
――ゴォォォォ――!!
そのあまりの衝撃に耐えかねて、周囲の古い壁が何枚も崩落し、轟音を立てて崩れ落ちていった。
それでも私は動じることなく、彼の強張った背中をゆっくりと、あやすように撫でながら、耳元で静かに囁き続けた。
「……大丈夫です。全部、大丈夫ですから……」
正直に言えば、自分でも何がどう大丈夫なのかは分からなかった。それでも私は、銀色の光を宿した手でカーディエンの背を優しくさすり続け、祈るようにその言葉を繰り返した。
そして――。
「……り……ば……?」
かすかに震える掠れた声が聞こえ、私は驚いて顔を上げた。
一瞬だけ、その紫色の瞳に確かな焦点が戻ったカーディエンが、小さく呻きを漏らす。
次の瞬間、
――ギリッ。
私たちを包み込んでいた禍々しい魔力の残滓が、急速に縮小を始め――カーディエンの体内へと吸い込まれていった。
私は直感的に悟った。彼は、暴走していたはずの魔力を、自らの意志で制御し、力尽くで抑え込んだのだと。
私は目を見開いた。
原作の物語において、カーディエンが己の暴走する魔力を自在に操る場面など、ただの一度も描かれていなかった。彼は物語の最後までその呪われた力に苦しみ続け、救われることなく最期を迎えたはずだった。
なのに今、カーディエンは初めて、自らの意志でその魔力を抑え込んでみせたのだ。
最後の一筋まで魔力が彼の体へと還元されると、それまで辺りを荒らし回っていた漆黒の渦は、嘘のように跡形もなく消え去った。
だが、その代償はあまりにも大きく――。
――ドサッ。
「カーディエン!」
張り詰めていた糸が切れたように、彼の体がその場に崩れ落ちた。
一瞬呆然としたものの、私は慌てて彼の体を抱き起こす。カーディエンは深い意識の底に落ちてしまったように固く目を閉じたまま、ぴくりとも動かなかった。
動転する心を抑え、急いで彼の口元に手を当てて呼吸を確かめる。幸いにも、呼吸は浅いながらも規則正しく刻まれていた。
「……よかった……」
カーディエンの無事を確認した瞬間、全身の緊張が抜け、私はその場にへたり込んだ。
心臓が、肉体の中で壊れてしまいそうなほど激しく脈打っている。まるで誰かに、心臓を力任せに握り潰されているかのような凄まじい残響だった。
「はぁ……っ、はぁ……」
大きく息を吐き出し、乱れた呼吸を整えながら周囲を見回した。
相変わらず薄暗い空間だったが、目が闇に慣れてきたのか、少しずつ周囲の壊滅的な様子が視認できるようになってくる。
そして――私は、本当の意味で絶望的な現実に直面することになった。
「……最悪だわ」
先ほどの魔力の衝撃で崩れ落ちた壁の瓦礫によって、私たちが降りてきた階段のある入口が、完全に塞がれてしまっていたのだ。
さらに最悪なことに、身につけている魔道具の腕輪も、先ほどの防御と光の放出で力を使い果たしてしまったのか、まともに魔法を発動できなくなっていた。かろうじて灯りを行使できる程度が限界だ。
「はぁ……」
私は気絶したカーディエンを抱きかかえたまま、深いため息をついて冷たい床に座り込んだ。
(これから、どうしたらいいの……?)
出口は完全に消失し、カーディエンは意識を失ったまま。その上、私の頼みの綱だった腕輪の魔法もほぼ機能していない。
(終わった、かもしれない……)
底知れない不安が一気に押し寄せてきた。このまま、誰にも気づかれずにこの閉ざされた空間に閉じ込められたら、私たちはどうなるのだろう。
他のみんなならともかく、あの高名なメルチェデス公爵が神殿で行方不明になったのだ。地上では間違いなく大規模な捜索隊が組まれるはずだ。
けれど――果たして、彼らがこの隠された場所にたどり着けるだろうか。予知夢の導きがあって、ようやく発見できたこの未知の地下空間に?
私は弱気になりそうな首を振り、腕の中で深く眠り続けるカーディエンを見つめた。
もし、今カーディエンが目を覚ましていたら、状況は違っていただろうか。……きっと彼なら、どんな過酷な状況であっても、冷徹に脱出する方法を見つけ出していただろう。そうなれば、私はあの学院の時のように、また彼の背中に守られ、助けられていたはずだ。
(……でも、それが本当に一番いいことなの?)
その時になって初めて、私は自分が無意識のうちに、思っていた以上にカーディエンという存在を精神的支柱にしていたことに気づかされた。
考えてみれば、夢の記憶だけを頼りにこんな危険な地下まで降りてきたのも、「カーディエンが一緒なら、最悪何とかなる」という甘えが心のどこかにあったからかもしれない。私は知らず知らずのうちに、彼に寄りかかりすぎていたのだ。
「……ごめんなさい。私の不甲斐なさのせいで、あなたをこんな危険な目に遭わせてしまって」
誰もいない暗闇の中、小さく呟いた。
どうせ今の彼には、この謝罪の言葉は届かない。それでも、この言葉は彼に向けたものであり、同時に、自分の甘さを律するための誓いでもあった。
「……だから」
私はカーディエンの頭をそっと床に横たえ、服の汚れを払ってゆっくりと立ち上がった。
「今度は、私がやります」
ここで膝を抱えて座り込んでいるだけなんて、私らしくない。もしカーディエンが起きていたら、「落ち込んでいる暇があるなら、一秒でも早く脱出方法を探せ」と、あの冷ややかな声で私を叱り飛ばしたはずだ。
(落ち着こう。冷静になるのよ)
私は静かに目を閉じ、これまでの記憶を整理した。
何か、重要なことを見落としている。引っかかる違和感があるはずだ。
(あの男は、間違いなくここにいた)
魔力暴走を起こした、あの記憶の中の男。私は以前、彼から流れ込んできた記憶の断片を思い返した。彼は確かに、かつてこの閉ざされた場所に収容されていた。しかし、彼は最終的に自力でここから脱出しているのだ。
(でも、私たちが来た扉は、外側から厳重に施錠されていた……)
私が氷魔法で破壊した、あの頑丈な錠前を思い出す。錠前が外側につけられていたということは、あの扉は中にいる者を『閉じ込める』ためのものであり、内部からの脱出を想定した出口ではない。
(じゃあ、あの男は一体、どこから外へ出たの?)
その時、ひらめくように、男の記憶のワンシーンが脳裏をよぎった。
私は勢いよく振り返る。
視線の先にあるのは――部屋の中央に鎮座する、あの不気味な祭壇だった。
私は一瞬だけ躊躇したものの、意を決して祭壇へ向かって歩き出した。
「まさか、ね……」
祭壇の上には、先ほどカーディエンによって半ば焼け焦げ、命を落とした襲撃者の死体が横たわっている。込み上げてくる強烈な吐き気を必死にこらえながら、私は両手に力を込め、その死体を祭壇の上から力任せに横へと押しのけた。
――ズズッ……ドサッ!
死体が床へ転がり落ちる鈍い音が、静まり返った地下空間に重々しく響き渡る。
私は震える足を必死に踏ん張りながら、剥き出しになった祭壇の表面へと視線を走らせた。
あの記憶の男も、確かにこの祭壇を執拗に調べていたはずだ。私は彼と同じように身をかがめ、祭壇の表面を凝視した。すると、そこには複雑な模様の溝が刻まれていることに気づく。先ほど男が流した生々しい血液がその深い溝を満たしていき、まるで血管のように、ある文字列を浮かび上がらせていった。
まさに、血によって紡がれた文字だった。
私は息を呑みながら、その不吉な文字列を指先でゆっくりとなぞっていく。
(帝国語じゃない……)
見慣れない、歪な形状の文字。だが、私は知識の引き出しから、それが何であるかをすぐに弾き出した。
「古代語……」
指先で文字の凹凸をなぞりながら、頭の中でゆっくりと翻訳し、読み進めていく。
「ここに……その場所が……」
「ここに、その場所はある。 神が望むものは、ただ一つ。 我らが神の完全なる復活」
「完全なる復活……」
その忌まわしい言葉を口にした瞬間、全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。
理由のない、根源的な恐怖が背筋をぞぞりと駆け上がり、私は思わず背後を振り返った。――だが、当然そこには気絶したカーディエン以外、誰もいない。
冷や汗を拭い、再び祭壇へと視線を戻す。
(神って……やっぱり邪神イグリドのことを指しているのよね?)
(だとすれば、イグリドの信徒たちの本当の目的は、単なる崇拝ではなく、邪神をこの世に完全復活させること……?)
でも、そんなこと――。
(そんな不条理なこと、本当に可能なの?)
どう考えても現実味のない、お伽話の悪夢のような話だった。それに、神の復活だなんて、常軌を逸している。どんなに敬虔な狂信者であっても、「神を復活させる」という発想には普通は至らないはずだ。神とは、その存在そのものが永遠であり完全なもの。わざわざ「復活」という言葉が使われるということは、それは一度『死んだ』、あるいは『滅ぼされた』存在に対してのみ成り立つのではないか。
しかし、思考を巡らせる私の前に、祭壇はさらなる痕跡を提示していた。
ひときわ大量の血が濃く染み込んでいる中心部へ目を向けると、そこには、不自然に深く抉られた六角形の穴が存在していた。まるで、特定の何かをはめ込むために誂えられたかのような、奇妙な窪み。
(一体、過去にこの場所で何が行われていたの……?)
(一体、ここで何が起きていたっていうんだ……?)
ごくりと乾燥した唾を呑み込み、私はさらに深く腰をかがめた。そして、祭壇の構造的な隙間、その下側へと恐る恐る手を伸ばし、何か仕掛けがないか探っていく。
ねっとりとした生温かい血液が指先にまとわりつき、強烈な気味の悪さに思わず手を引っ込めそうになったが、それでも私は必死に歯を食いしばり、腕をさらに奥へと差し入れた。
(きっと、この中に、男が使った仕掛けが――)
――カチッ。
その瞬間、指先が明確な突起を押し込む感触を捉えた。
同時に、
――ゴゴゴゴゴ……!!
地響きのような重苦しい音を立てて、祭壇の後方にあった分厚い石壁が、ゆっくりと横へスライドし始めた。
私は慌てて血に汚れた手を引き抜き、開いていく壁へと目を凝らす。
そこには、大人が一人がやっと通れるほどの、狭く暗い細い通路が現れていた。
「あそこだわ……!」
確信があった。あの記憶の男がここから脱出したのは、間違いなくあの隠し通路だ。
(非常用の脱出口……! 助かった……!)
一筋の希望の光が見え、私はすぐにカーディエンのもとへと駆け寄った。
「カーディエン、あと少しだけ耐えてください。私たち、ここから脱出できます!」
心の中で彼に声をかけながら、カーディエンの逞しい腕を自分の肩へと回し、彼を支えて立ち上がろうとした――まさにその瞬間、私は己が犯していた致命的な盲点に気づかされることになった。
「お、重い……っ!?」
それは物理的な現実だった。カーディエンの体重は、か弱い私一人の力で担げるような、生易しいものではなかったのだ。
もともと彼は、普通の成人男性よりも頭一つ分は背が高く、衣服の上からは細身に見えても、その下には鍛え上げられた大柄な骨格と筋肉が詰まっている。しかも、完全に意識を失って泥のように重くなった人間を、私一人の力で抱えて運べるなどと考えていたこと自体が、あまりにも無謀な誤算だったのだ。
(こんなに重いなんて、信じられない……!)
「うぅぅぅっ……!!」
全身の筋肉をきしませ、どうにか立ち上がることはできたものの、一歩を踏み出すどころか、その場を維持することだけで文字通り精一杯だった。
しかも、限界を迎えているのは私の体力だけではない。魔力の過剰行使と先ほどの衝撃によるダメージで、私の肉体もまた、いつ崩れ落ちてもおかしくない臨界点を迎えていたのだ。
その証明をするかのように、
――ぽたっ、ぽたっ……。
冷たい床に、赤い液体が点々と落ちていく。
自分の鼻から、鮮血がぽたぽたと滴り落ちていた。
(嘘……本当に、終わったの……?)
私は制服の袖で乱暴に鼻血を拭い、目の前に開かれた隠し通路の闇を、呆然としたまま見つめた。
どうすればいいのだろう。私一人だけでひとまず脱出し、地上で助けを呼んで戻ってくるべきか?
(いや、ダメよ。カーディエンをこんな場所に一人きりになんて、絶対にできない!)
私がいない間に、もし彼の魔力が再び暴走してしまったら? あるいは、先ほどの男の仲間であるイグリドの配下が、増援として再びこの部屋に現れでもしたら――。
(もし本当にそうなったら、彼は……!)
一人で焦燥感に駆られ、狂いそうになりながら思考を巡らせていた、その時だった。
不意に、新しく開いた壁の向こう――あの隠し通路の奥から、微かな異音が聞こえてきた。
――コツ、コツ……。
静まり返った地下空間だからだろうか、その足音は不気味なほどはっきりと響き渡る。
しかも、その音は確実に、だんだんとこちらに向かって近づいてきていた。何者かが、この部屋を目指して歩いてきている。
「ど、どうしよう……!?」
私は心臓を激しく波打たせながらも、なりふり構っていられず、とにかくカーディエンの腕を必死に掴み、彼を引きずるようにして祭壇の裏側の死角へと身を隠した。
私たちが祭壇の陰に息を潜めるとほぼ同時に、隠し通路の奥から、ひとつの黒い人影が部屋の中へと姿を現した。
「ふむ……」
男が低く、落ち着いた声で呟くと、その手が掲げたランタンの明かりが、一瞬にして暗闇の部屋を白日の下に晒した。
その光に照らされ、侵入者の姿がはっきりと浮かび上がる。
どこにでもいそうな平凡な顔立ち。しかし、その身には純白の豪奢な法衣をまとっていた。
(……神官?)
なぜ、こんな最奥の禁忌の場所に神官が平然と現れるのか。
(やっぱり、神殿の上層部とイグリドの信徒は、裏で深く繋がっていたの……!?)
最悪の結末が頭をよぎる中、男の静かな声が部屋に響いた。
「……おや? ここではないのかな?」
男は怪しむ風でもなく、淡々と周囲の瓦礫や荒れ果てた惨状を見回している。
ふと、彼の視線がこちらの祭壇の方向へと向き、私は心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けて、慌てて頭を引っ込めた。
(理由は分からない。でも――絶対に、あの男に見つかってはダメだ)
生物としての本能が、かつてない強さでそう告げている。
(お願いだから、気づかずに早くどこかへ行って……!)
祈るように目を閉じ、息を限界まで潜めていると、再び男の声が鼓膜に届いた。
「ここだと思うのですが……誰もいませんかね?」
「……」
「ふむ」
彼は何かを深く考え込むように、小さく鼻を鳴らした。
私は指先を血が滲むほど握り締め、じっと相手の出方をうかがう。しかし次の瞬間、男が何気なく放った独り言の一言に、私は思わず目を見開いた。
「そういえば、私の『運命の蝶』は確かにこちらの方へと飛んでいったはずなのですが……おや、私の見間違いだったのでしょうか?」
あまりにも唐突で、不自然な独り言だった。
けれど私は、その言葉が持つ本当の意味を、誰よりもはっきりと理解していた。
(まさか……嘘でしょ?)
「……レモン、さん……?」
私は祈るような思いで、おそるおそる祭壇の陰から顔をのぞかせ、消え入りそうな小さな声で呼びかけた。
すると、その言葉に反応した男が、鋭い動きで勢いよくこちらを振り向く。
やはり、その顔は私の知らない平凡な男のものだった。
(しまっ――早まったかな!?)
一瞬、強い後悔が脳裏をよぎったものの、男はすでに迷いのない足取りで、こちらへと足早に近づいてきていた。
やがて私の目の前までやってきた男は、真意の読めない冷徹な瞳で私をじっと見つめたあと――ふっと、いつものように困ったような笑みを浮かべた。
「リビアさん、ご無事だったのですね。よかった。本当に心配したんですよ?」
先ほどまでの低く重々しかった声は綺麗に消え去り、私のよく知る、レモン特有の柔らかく軽やかな口調へと戻っていた。
「……本当に、レモンさんなんですか?」
「ああ、確かにこの姿では分かりませんよね」
彼は小さく可笑しそうに笑うと、おもむろに己の顎の下へと手を伸ばした。
――ビリッ、ビリビリッ。
肉の裂けるような奇妙な音を立てて、彼の顔の皮膚が――まるで精巧な仮面を剥がすかのように、ゆっくりと不自然に剥がれ落ちていく。
「わあ……」
それはあまりにも奇妙で、怪奇映画の一幕のような光景だった。顔が丸ごと剥がれていく様は少し不気味だったけれど、命の恩人を前にして嫌悪の表情を浮かべるわけにもいかず、私は引きつったぎこちない笑みを浮かべるのが精一杯だった。
やがて顔の皮膚が完全に剥がれ落ちると、その下から、ようやく私の見慣れた『本物』の顔が現れた。
光を浴びて淡く輝く白金色の髪に、吸い込まれそうなほど美しいレモン色の瞳を持つ、あの端正な顔立ちだ。
「わあ……本当にレモンさんだったんですね。神官に変装して潜入していたんですか?」
さっきの聞き慣れない重苦しい声も、どうやらお得意の声帯模写による変声だったらしい。
彼は満足そうに頷き、いつもの穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「ええ。この厳戒態勢の神殿に怪しまれずに忍び込むには、この方法しかありませんでしたから」
私は感心すると同時に、思わず自分の頭をかいた。
正規の招待状を手に入れられなかったレモンは、この怪しげな儀式の全貌を暴くため、神官の一人を気絶させてすり替わり、潜入する力業を選んだのだろう。
「儀式の最中というのは、信徒も神官も皆気が動転していますからね。誰が誰なのかなんて、いちいち細かく確認する者はいませんから」
まさか、神聖なる儀式の裏で、名だたる情報ギルドの若きマスターが完璧な変装術で紛れ込んでいるとは、神殿の誰も夢にも思わなかっただろう。
(事の重大さを考えれば、予想はしていたけれど……)
実際に彼の神業とも言える変装術と行動力を目の当たりにして、私は改めて、このレモンという男の底知れなさに深く感心させられるのだった。
-
カーディエンの魔力制御と気絶
暴走するカーディエンをリビアが命がけで抱きしめて鎮めた際、原作にはない「自らの意志で魔力を抑え込む」という変化をカーディエンが見せたが、そのまま彼は意識を失い倒れてしまった。
-
隠し通路の発覚と新たな謎
崩落により入り口が塞がれるも、リビアは過去の記憶をヒントに祭壇の仕掛けを解き、隠し通路を発見した。同時に、祭壇に刻まれた古代語から、邪神イグリドの信徒たちの目的が「神の完全なる復活」であることを知る。
-
レモンとの合流
身動きが取れなくなったリビアのもとに足音が近づくが、現れたのは神官に変装して神殿へ潜入していた情報ギルドのマスター、レモンであり、絶体絶命の状況で頼れる味方と合流を果たした。