こんにちは、ちゃむです。
「憑依者の特典」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
143話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 魔王領からの脱出
「……ああはさせない」
静まり返った空気の中に、ぽつりと真剣な呟きが落ちる。
彼を『信頼できる人』だと決めつけ、完全に無防備になっていたアイレット・ロヴェラインは、今まさにその彼の腕の中に抱かれていた。
テシリドは彼女を見下ろしながら、細めた目の奥に冷徹な光を宿す。
最後まで自分のか弱い精神が崩れ落ち、堕落してしまうのではないかと心配していたアイレット。そんな不要な心配を浮かべる彼女を見ていると、哀れみを通り越してむしろ滑稽にすら思えてくる。
ならば、今からでも教えてやるべきだろうか。
自分という存在は、すでに手遅れなのだと。
「……」
テシリドは現実から目を背けるように、ゆっくりとまぶたを閉じた。
ゴゴゴゴゴ……と、魔界の軍勢がこちらへ進軍してくる激しい地鳴りが、容赦なく大地を揺らす。
今はまず、この混乱と悪がはびこる世界から彼女を連れて無事に脱出することが最優先だ。その後のことは、追って考えればいい。
『これからどうしたものか』
息苦しくなるほど脆い己の心を、もう少し都合よく作り変えておく必要があった。そうしてこそ、衝動的に魔剣を手に取り、破滅へ突き進むような最悪の事態を防げるだろう。
彼が容易な道を捨て、あえて険しい道を選ぶ理由は単純だった。
リードが守り抜いた世界を、まず彼女の手で壊させるわけにはいかないからだ。
「……行こう、アイ」
テシリドは腕の中のアイレットをそっと抱き直した。
そして、百回目の回帰でリードが選ばなかった、もう一つの『亀裂』の中へと足を踏み入れた。
共に、堕落の深淵を解き明かす時が来たのだ。
「目が覚めた?」
低く落ち着いた声が、ぼんやりと漂っていた私の意識を捕らえ、現実という水面の上へと引き上げる。
重いまぶたを開き、なんとか焦点を合わせた。最初に視界に飛び込んできたのは、少し身をひねってこちらを覗き込んでいる、美しい青年の横顔だった。
揺れる炎の明かりが落とす陰影が、その整った目鼻立ちをいっそう際立たせている。
いつからだっただろうか。神降臨の反動の後には、いつもテシリドが私のそばにいてくれた。
「ここは……?」
這うようにして周囲を見回す。
ひとまず、人間界ではないことだけは確かだった。
傾いた低い天井を見るに、どこかの古びた建物の最上階にある屋根裏部屋のようだ。少し身じろぎするだけで床がきしむ音を立てる。
なかでも特に異彩を放っていたのは、壁を構成している木の板だった。
〈ううう……〉
老人の顔のような奇怪な木目が、ゆっくりと口を開いて呻く。人面木だ。
崩れた天井の隙間から見える空は、どこか妖しく紫がかった色をしている。まさに魔界の、それも特有の風景だった。
私はこれまでの記憶を辿り、大まかに状況を察した。
以前、私は『勇者たちの死体が埋まる童話の地』と呼ばれる場所を訪れたことがあった。魔王たちが領地争いを繰り広げ、互いの勢力を削り合うための前線だ。
もしあの時、封鎖されたボス部屋でおとなしく出口ゲートの生成を待っていたなら、私とテシリドは大規模な戦争に巻き込まれていただろう。
しかし幸運にも、あの地下室には三人の魔王がリードのために開いておいた『亀裂』があった。つまり、それぞれの領地へ通じる安全な抜け道が用意されていたのだ。
テシリドは、その亀裂の一つを通って私を連れ出したに違いない。
脳内のアグネスが、私の推測を肯定するように声を響かせた。
〈リードが選ばなかった別の亀裂に入ったから、こんな妙な屋根裏部屋に出たんだよ〉
「なるほど……」
私は再び天井を見上げた。空を覗くには十分な隙間に、月がはまるように浮かんでいる。
それはまるで溶けかけたような、不気味な紫色をした超新月だった。
魔界では、それぞれ特徴的な月の姿が特定の魔王を象徴している。この不吉な月を見ただけで、ここが誰の領地なのかはすぐに計り知れた。
私は一度咳払いをしてから、確信を口にした。
「ここは、アビシニスの魔王領みたいですね」
魔王序列第一位――混沌の黙示官、アビシニス。
アビシニスには、魔王の中でもかなり奇妙な一面があった。自らを混沌神の使徒と称し、その魔王領を人間界の『エルペハイム帝国』になぞらえて統治しているのだ。つまり、混沌神を崇拝しながらも、秩序と善を模倣するという矛盾した性質を持つ変わった魔王だった。
『なら、ここは彼らが造った神殿の一つかもしれない……』
念のためシステムマップを開いてみる。
【地域】 『混沌神の神殿18号』
アビシニス魔王領の外郭に位置する混沌教の神殿の一つ。悪魔大司教テズリハルが管理している。
幸いにも、魔王アビシニス本人が鎮座する中央神殿ではないようだ。
その時、古びた床板の隙間から、うっすらと光が漏れ始めた。どうやらこの屋根裏部屋の真下は、広いホールになっているらしい。
頭の先からつま先まで黒いローブで身を包んだ痩せた魔族たちが次々と入ってきて、聞き取れない不気味な呪文を唱えながら、床に描かれた逆五芒星の魔法陣の周囲をぐるぐると回り始めた。
まるで古典的な絵画から抜け出してきたかのような、異様な儀式だ。
しばらくすると、どこからかパイプオルガンの重厚な演奏まで聞こえてきた。床を這うように低く、そして重く響くその音色に、私は強い聞き覚えがあった。
以前、聖皇庁の礼拝堂で誰かを見送りに行った時に耳にした、あの鎮魂曲だ。
『リード……』
彼の名を思い出した途端、地下室で起こった凄惨な出来事が一気に脳裏へ押し寄せてきた。
脱出計画は後でゆっくり立てればいい。今はもっと、向き合うべき重要なことがあった。
「……テリー」
長い眠りから覚めたばかりで、まだ喉が十分に開いていない。彼の名を呼ぶ私の声は、自分で聞いても驚くほどかすれて低かった。
私から少し離れた場所に座っていたテシリドが、その呼びかけにぴくりと反応した。だが、わずかに頭を動かしただけで、床へ向けていた視線を私に向けることはしなかった。
「……」
「……」
部屋に、気まずい沈黙が流れる。
無理もない状況だった。神降臨のペナルティを受けている間は、私も彼も身動きが取れない。だから今は、リードのせいで地下室の悪夢を見せられた直後の、あの重苦しい空気のまま凍りついているのだ。
普段はおしゃべりなアグネスも沈黙を守り、気がつけば神々までもが息を潜めていた。
静寂を埋めるのは、階下の礼拝堂から響いてくる荘厳で陰鬱な音楽だけ。
このままでは、気まずさに押し潰されてしまう。
どう切り出せばいいだろう。悩んだ末に、私がようやく絞り出した最初の言葉は、ひどくありきたりなものだった。
「大丈夫?」
「……」
宙を見つめていた、海のように青い瞳がかすかに揺れた。
私は急かさず、静かに待った。彼の言葉なら、たとえ何時間でも待てる気がした。
やがて、彼は完全にこちらを向き、重い唇を開いた。
「ずっと考えていたんだが……何と答えればいいのかわからなくて」
「……」
それは予想に反した言葉だった。彼の表情にも声にも、思ったほどの陰鬱さは見られなかったからだ。
本当に、彼は私が心配していたよりもずっと平静に見えた。
もしかすると、ただ無理をして一人で抱え込んでいるだけかもしれない。彼は昔からそういう人だ。それでも、私にはそれ以上かける言葉が見つからなかった。
すると、テシリドが私の目をまっすぐ見つめ、再び口を開いた。
「……ああはならない、と言っただろう」
「え?」
「君が、私をああはさせないだろうから」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
「あなたがいてくれれば、私は大丈夫だ」
「……」
泣き腫らして赤くなった私の目をじっと見つめながら、彼が諭すように繰り返す。
「本当に大丈夫だ。あなたがいてくれる限り」
私を頼りにしているという彼の真っ直ぐな言葉は、耳ではなく、心に直接響いてくるようだった。
「……テリー」
胸がいっぱいになって、詰まっていた喉が今にも完全に塞がってしまいそうだった。
視線を交わしているうちに、ふと考えてしまう。テシリドに対する私のこの感情は、一体何なのだろう、と。
リードはそれを“憐れみ”だと言った。決して間違った言葉ではない。私はある種のエゴを抱えた病人なのだから。
元々、私はただの読者だった。物語の世界も、登場人物たちの悲劇も、すべては画面の向こうの他人事。だからこそ、私がこの世界に憑依する前に抱いていた感情も、今では変わり始めている。淡い憐れみと愛着が、少しずつ、けれど確実に膨らんでいくのを感じていた。
もう私は、世界の外側からあなたを眺めている観客ではない。こうして同じ世界の中で、あなたと向き合っている。
だからこそ、目の前にいるテシリド・アルジェントの不幸を止めたい。リードのような結末には、絶対にさせたくない。
その想いは、一人の運命を救うと誓うのと同じことだった。
実際、憑依した直後に原作の回帰者設定を知った時でさえ、私は「彼ができるだけ高い回帰段階に辿り着いていてほしい」と願っていた。たった一人でも世界を救えるほど強い主人公に、少しでも苦労してほしくないと思っていたのだ。
けれど今は、彼がまだ『17回目』の回帰だと知っていることに、心から安堵していた。
本当に。17回目のテシリド・アルジェントなら、私の努力次第で救うことができるはずだから。
独りよがりな善意でも、浅はかな自己満足でも、安っぽい責任感でも構わなかった。たとえ彼の回帰を完全に終わらせることができなくても、少なくとも彼がこれから経験するであろう何十回もの苦しみを減らすことはできる。裏切りや喪失を味わうことなく混沌の悪を封印できるよう、比較的穏やかな道を切り開いてあげられる。
そうすれば、最悪この時間軸が失敗して皆が死んだとしても、次の回帰がある彼にとっては十分な糧に――
「アイ」
テシリドの呼びかけが、私の思考の隙間に割り込んできた。
気づかないうちに下を向いていた視線が、はっと持ち上がる。
テシリドは、今にも泣き出しそうな、それでいて酷く切実な瞳で私を見つめながら言った。
「だから、あなたもこの時間軸にいてくれ」
「……」
「私と一緒にいてくれ」
私がかつて彼に告げた言葉が、そのままの熱量で返ってきた。
弱気な諦念に飲み込まれかけていた頭の中が、一瞬で晴れていく。
この時間軸で、彼と私が同じ未来を望んでいる。その事実が、不思議なほどの満足感を胸にもたらした。
テシリドはこれだけは譲れないと言わんばかりの強い視線で、私を射抜くように見つめた。
「私を置いて死のうとしないでくれ。あなたがいなければ、私も……諦めてしまうかもしれない」
“諦める”などという言葉を、軽々しく口にするような人ではなかった。けれど、リードという先人の破滅が、彼をそれほどまでに弱く、臆病にさせたのだ。
……そういうことなら、なおさらだ。
とにかく今、彼に返すべき言葉は一つしか決まっていなかった。
「うん。そうする」
決意を込めて答えると、彼は心底安堵したように目を細め、口元に穏やかな笑みを浮かべた。その美しい微笑みの余韻は、きっと長い間、私の中から消えないだろう。
しばらく横になっていると、空気を読まない私のお腹の虫が食事を要求し始めた。
幸い、下層に集められていた闇の眷属たちの意識が儀式で薄れている。その隙に、私とテシリドは身を隠しながら食事を取ることにした。
天井がかなり高く、周りの魔族たちも最下級ばかりだったため、見つかる心配はなさそうだった。
しかし、私がインベントリを自由に使える一方で、一つ致命的な問題が生じていた。テシリドがシステムを使えなくなったことだ。
私が眠っていたこの二日間、彼がずっと空腹を我慢していたのかと思うと、急に気が重くなる。
『インベントリへのアクセス権を他人に共有することはできませんか?』
心の中で神々に問いかけると、ようやく神々からのシステムメッセージが届いた。
【『魂を裁く天秤』は、夫婦の共同財産として認めるべきだと深く頷いています】
【『世界を救う天秤』は、主人公を完全に信用できないなら慎重になるべきだと苦言を呈しています】
【『魂を裁く天秤』は、それなら自分に管理を任せろと豪語しています】
「断食には慣れているから気にしなくていい」
テシリドは淡々と言ったが、私はむしろその言葉に胸を締め付けられた。
『教皇様、私たちの教団では絶対に断食祈祷なんて規律は作らないことにしましょうね』
【『世界を救う天秤』が、分かったと満足そうに答えています】
臭いの少ない携行食でひっそりと空腹を満たしていたアグネスが、楽しそうに口を挟んだ。
〈そういえば、鏡の中に閉じ込められているあの狂信者の魔法使いも、二日間何も食べていないわね。ざまあみろ、だわ〉
「生命維持系の黒魔法に長けている奴ですから、たぶん平気でしょう」
ゴキブリ並みのしぶとい生命力だ、一か月くらいは放置しても生き延びるに違いない。
その時、テシリドがふと食べる手を止め、わずかに眉をひそめて視線を落とした。
「あんな奴があなたのインベントリの中にいるなんて、どうにも気分が悪いな。鏡ごとどこかの地面に深く埋めておけないのか?」
「……」
「冗談だ」
いや、今のは絶対に本気だった。私には分かる。
私は苦笑しながら、落ち着いて言い聞かせた。
「モリフィスは、魔法国家間の争いを解決するための外交の交渉材料として使うつもりなの。そうすれば両国の戦争を未然に防げるでしょう?」
「……そうか」
「それより、早く元の世界に戻る方法を考えないと。今ごろみんな、私たちが消えて大騒ぎして心配しているはずだから」
リードが現れる直前、仲間たちは出口ゲートを通ってダンジョンから脱出していた。その点だけは不幸中の幸いだ。
ただ、どうしても気がかりな人たちもいる。
「レカンドロ侯爵とセレスティド王女は無事だといいけれど……」
〈オーラマスターの彼なら、きっとうまく切り抜けているでしょうよ〉
「そうだといいな。あ、私もオーラマスターになりたい」
テシリドは、私の話題がまた妙な方向へ脱線しそうになるのを察したのか、さりげなく会話の手綱を引いた。
「アイ、出口ゲートを探すなら、まずこの神殿の外へ出た方がよさそうだ」
「うん。マップを見ると近くに森があるみたいだから、その辺りを探しながら出口ゲートを見つけよう」
ここは魔王領の外郭とはいえ、敵陣の中心部。下手に騒ぎを起こしたり、悪魔大公たちの目を引いたりすれば、最悪の場合は魔王自身が召喚される可能性すらある。
テシリドもその危険性を懸念していた。
「魔族たちに見つからずに、この厳重な建物を脱出できるだろうか」
「それなら心配いらないよ。ちょうどいいアイテムがあるから」
この物置部屋は、どうやら倉庫代わりに使われているらしく、さまざまな雑多な資材が積まれていた。その中には、階下で狂信者たちが着ていたものと同じ、黒い祭服が紛れ込んでいる。
ワンピースも頭巾もかなり古びてはいたが、変装用としては比較的状態が良い。
私は金属製の検問用フードを取り出してテシリドに渡し、フード付きの黒いワンピースを自分用に引っ張り出した。
テシリドは少し懐疑的な表情で、手元の布地を見つめる。
「アイ、これを着たところで、流石に変装になるとは思えないんだが……」
「ああ、これも上に着るつもりだけど、私が言っていた本命の『便利なアイテム』は別にあるの」
「何だ?」
私は再びインベントリの奥底を探った。
手に触れたのは、前回モンマ族の使徒たちを捕らえた際に入手した戦利品だ。
黒い革ベルトを幾重にも縫い合わせて作ったような、独特なデザインのチョッキが二着。それが何かというと――
【アイテム】 『モンマの革ハーネス』服の下に装備すると、モンマ族の一員に偽装できる特殊な変装アイテム。※装備時、魅力が200%上昇する代わりに、気品・威厳・カリスマが100%低下する。
これさえあれば、魔界への潜入も難なくこなせるはずだ。
【『魂を裁く天秤』が、期待に目を輝かせています】
ただし、別の意味で非常に小さな――いや、小さくない問題があった。
「ほら、テリー。これを着ればモンマ族に変装できるよ。服の下にしっかり着てね」
「着るって……」
「うん」
「……どうやって?」
「……」
――かなりの精神的苦労と、いたたまれない時間を経て、私たちはどうにかこの気まずい着替え作業を乗り越えることができた。
着替えを終えた私とテシリドは、お互いの姿を見回す。
「どう、テリー? 苦しくない?」
「大丈夫だ……」
そう答える彼の表情は、どう見てもまったく大丈夫そうには見えなかった。
ぎこちなく、ひどく居心地が悪そうだ。私の視線が気になるのか、彼は落ち着かない様子で手で顔をこすり、口元を隠すような仕草を繰り返す。それなのに、なぜか私の方をちらちらと盗み見てくるのだ。
私はワンピースの裾を整える手を止め、不思議に思って尋ねた。
「どうしてそんなに見てるの?」
「いや……」
今度はテシリドが両手で顔を覆ってしまった。
気品も威厳もカリスマも地に落ちるデバフ効果のせいだろうか。いつもより彼の返事が妙に気弱で、頼りなく聞こえる。
これがいわゆる“自己評価の低い無自覚な美形”というやつなのだろうか。……悪くない。
――あ、そうだ。このアイテム、最大の特徴は「魅力が三倍になる」んだった。
一番重要な補正をすっかり失念していたことに気づき、私は慌てて邪念を振り払うように思考を切り替えた。
「は、早く神殿を出よう!」
どこか切羽詰まった様子のテシリドが、物置部屋の扉を開けて先に歩き出す。
初めて足を踏み入れた廊下は、静まり返っていた。このまま誰にも見つからずにすり抜けられれば御の字だったが、世の中そううまくはいかない。
システム地図を見ながら歩き始めて間もなく、私とテシリドは一人の魔族の信徒と正面から鉢合わせしてしまった。鋭く突き出た犬歯が目立つ、ヴァンパイアだ。
「人間……か?」
眼鏡の奥の細い目が、疑わしげに険しく細められる。
私は焦りを隠し、モンマ族らしく艶然と微笑んでみせた。ヴァンパイアの横を通り過ぎざま、軽く投げキスを飛ばすと、相手は面白いほど一瞬で警戒を解いた。
「なんだ、モンマ族か」
あからさまにほんのり顔を赤くして、そそくさと去っていく。魅力三倍の効果は、本場の悪魔相手にも抜群に通用するらしい。その様子が少し可笑しかった。
長い廊下を抜け、無骨な石造りの階段を下りていく。途中で他の悪魔の信徒たちとも何人かすれ違ったが、怪しまれることなく、特に問題は起こらなかった。
「もう一階だね」
「ああ、もうすぐ外へ出られそうだ」
地図を見る限り、出口まではもう目と鼻の先だった。
だが、その時になって、私とテシリドの足を止めざるを得ない出来事が起きた。
前方から三人分の足音が聞こえた瞬間、私たちは反射的に近くの物陰へ身を隠した。静かに通り過ぎるのを待つつもりだったが、聞こえてきた会話がどうにも穏やかではない。
「大公様の宝だ。慎重に運べ、気をつけろよ」
「ちっ、こんなところで誰かに見つかったらどうするんだ」
「他の連中に気づかれる前に、早く地下へ運んでしまおう」
三人の魔族は周囲を異様なほど執拗に警戒しながら、豪奢な宝石箱を地下へと運び込んでいた。
私とテシリドは、彼らが消えていった地下階段の闇を、示し合わせたように見つめながら同時に呟く。
「怪しいね?」
「怪しいな」
その瞬間、頭の中に神々からの熱い啓示が降ってきた。
【『世界を救う天秤』が、早く追いかけてみろと言わんばかりに期待で目を輝かせています】
【『魂を裁く天秤』が、とても良い考えだと興奮して目を輝かせています】
教義の布教に情熱を燃やす天秤と、他人の恋愛を応援する天秤。そんな普段は噛み合わない二柱の意見が完全に一致するなんて、滅多にないことだ。
こうなれば、野次馬根性を出さないわけにはいかなかった。
〈行きましょう、アイレット、テシリド!〉
「「はい」」
私とテシリドは息ぴったりに返事をし、魔族たちが用を終えて戻っていくのを確認してから、こっそりとその後を追った。
地下室の突き当たりには、ごく普通の木製の扉が一枚あるだけだった。
「あいつら、さっき“大公の宝”って言っていたよね? だったら、ここは臨時の宝物庫かな」
「そうだろうな。貴重な宝を一時的に保管する金庫だろう」
「よし、せっかく魔界まで来たんだもん。手ぶらで帰るのももったいないし、ボス級の超レア装備じゃなくても、何か一つくらいはお土産に持って帰ろう」
「役に立ちそうな物があるといいな」
「あるはずだよ。……ところで、この頑丈そうな扉、どうやって開けるんだろう?」
だが、その心配はすぐに杞憂に終わった。
ガチャリ――。
「……?」
「……?」
何の脈絡もなく、宝物庫の扉が勝手に解錠されたのだ。しかも、テシリドが扉の真ん前に立った瞬間の出来事だった。
〈え? 何これ? 誰でもウェルカムなザル警備なの?〉
「……違うと思います」
〈そうなの?〉
ここは混沌の悪を祀る神殿だ。おそらく、未来の『混沌の悪』としての素質を持つテシリドの気配を神殿が認識し、主(あるじ)と誤認して通行を許可したのだろう。そう考えるのが最も自然だった。
もちろん、そんな不吉な推測をテシリドの目の前で口にするわけにはいかない。テシリド自身も薄々その理由を察しているのか、彼はどこか複雑そうな表情を浮かべた後、強引に話題を切り替えた。
「入ろう、アイ」
「うん」
しかし、意気揚々と部屋の中に足を踏み入れた私たちは、思わず拍子抜けしてしまった。大公の宝物庫だというのに、だだっ広い部屋の中央にある台座の上に、ぽつんと小さな宝石箱が一つ置かれているだけだったからだ。
「悪魔大公って、地位の割に意外と質素な暮らしをしているんだね」
「いや、ただ警戒心が強くてここに絞っているだけだろう。罠の気配はなさそうだ。開けてみるよ」
テシリドが箱の蓋を開いた瞬間、私たちは先ほどの「質素」という言葉を全力で撤回することになった。
「これは……!」
宝物はたった一つだけだった。だが、その一つがとてつもない代物だったのだ。
上質なベルベットのクッションの上に、一対の装飾品が静かに妖しい光を放っていた。
それは、黒と金が細緻に織り交ざった美しい指輪だった。宝石の代わりに、中央には逆十字を思わせる独特な十字架の紋様が刻まれている。
システムが即座に詳細な鑑定結果を目の前に展開した。
【アーティファクト】 『大公の司祭指輪』高位の宗教関係者の力に共鳴し、魔力を爆発的に増幅させる至高のアーティファクト。司教級以上の資格を持つ者だけが装備可能。さらに特殊な『浄化』を施せば、増幅した魔力をそのまま純粋な神聖力へと変換することができる。※装備可能数:一人につき一個まで。
とんでもない一級品だった。宗教適性を持つ者が使えるうえに、浄化すれば神聖力まで跳ね上げるアーティファクトだなんて、聖職者にとっては喉から手が出るほど欲しい国宝級のアイテムだ。
【『世界を救う天秤』が、早くそれを持って逃げろと言わんばかりに激しく急かしています】
【『魂を裁く天秤』が、一対のデザインなら偽装カップル用のお揃いとして完璧なアイテムだと絶賛しています】
私は隣のテシリドに素早く意見を求めた。
「ねえ、これ今ここで盗んだら、やっぱり派手に警報とか鳴るかな?」
「この神殿の主である大司教なら、結界の崩壊ですぐに気付くだろうな」
「テリー」
「うん」
私は迷うことなく、指輪を一対まとめてガシッと掴み取った。
「逃げるよ!」
そう叫ぶなり、私は後ろも振り返らずに出口へと走り出した。
地下階段を猛スピードで駆け上がった瞬間、心臓が跳ね上がるようなシステム警告が視界を真っ赤に染め上げる。
【システム警告】地域の支配者である『大司教テズリハル』が、アーティファクトの盗難を検知しました。
【システム警告】『大司教テズリハル』が最高警戒態勢に入り、神殿の全出入口の緊急封鎖を開始します。
長い廊下の遥か先で、唯一の出入口である巨大な扉が、重々しい音を立ててゆっくりと閉まり始めるのが見えた。
同時に、背後の地下室からも、怒号と地鳴りのような騒ぎが沸き起こる。
「アーティファクト泥棒だ!」
「侵入者を逃すな! 早く捕まえろ!」