こんにちは、ちゃむです。
「悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
78話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 冷たい怒り
神殿への世間の風当たりが強まる中、ジキセンが満を持して企画した武闘大会。
「帝国を代表して戦う」と大々的に宣伝されたものの、その結果は惨憺たるものだった。
“剣の祝福”を授かった帝国最強の騎士が、名も知られていない外国の騎士に敗北したのだ。
「……はぁ」
本来なら、ジキセンの優勝を前提に組まれていた祝賀祭。より多くの観客を集めるために派手な準備が進められていた会場は――今や、息の詰まるような気まずい空気に包まれていた。
普段なら足を踏み入れることすら許されない平民たちまでが、貴族と同じ場に参加できるよう用意された大規模な祝宴。それは単なる社交会ではなく、国を挙げた祭典となるはずだった。
武闘大会でジキセンが華々しく優勝し、その妹である聖女リリカが壇上で演説を行う。そんな筋書きを前提に、より多くの民衆を集めるため、貴族たちを説得して開かれた場。
だからこそ、今の空気は最悪だった。
リリカは壇上に上がることもできず、ただ刺繍入りのドレスの裾をぎゅっと握りしめていた。
「一体、ジキセン公爵令息は何を考えているんだ?」
「前から噂されていただろう。怠け者で傲慢だって」
「わざと帝国に恥をかかせるために出場したんじゃないのか?」
会場には、これまでにないほど険悪な私語が飛び交う。
もし相手が貴族同士の試合だったなら、まだここまでにはならなかっただろう。そして、敗れたのが「ジキセン」という公爵家の令息でなければ、ここまで激しく叩かれることもなかったはずだ。
彼の今の立場は、平民か貴族かという違いだけで片づけられるほど軽くはなかった。
「……今、私がここで演説をするべきなのでしょうか?」
いつもなら人前に立つことを喜び、注目を浴びるのを楽しんでいたリリカだったが、さすがに今回ばかりは不安げに視線を彷徨わせた。
「では……演説は中止になさいますか?」
隣に付き添っていた神官の一人が、慎重に問いかける。するとリリカは、かすかに眉を寄せた。
「この武闘大会を開くために、どれだけのお金が使われたと思っているの?」
「多くの帝国民が観戦できるよう会場を長期間借り上げ、さらに大会を成立させるため――」
「……そのために費やされた努力は、どうなるのですか?」
ジキセンが敗北した光景は、神官たちにとっても衝撃だった。祭典に集まった観客以上に、彼ら自身が動揺している。
――妹の私ですら、兄に腹を立てているのに。
先ほどから交わされる神官たちの声には、そんな感情が滲んでいた。そして、彼らがリリカへ向ける視線は、観客たちのものよりもさらに鋭い。
『今、ジキセンお兄様の妹である私が前に出るのは、あまり良くない気がする……。でも、神官たちからどう見られるかも大事だし……』
誰一人として、今回の件を露骨にリリカの責任だとは口にしなかった。しかし、言葉にしなくても伝わる空気というものはある。
――どうにかして、お兄様の失敗を取り繕ってください。
――これまで積み上げてきた努力を、全部無駄にするつもりなのか。
ジキセンに続いて、お前まで問題を起こすのかと責めるような視線と、重たい溜め息。
「……こうなった以上は」
結局、リリカは壇上に立つしかなかった。この演説が、かえって余計な反感を招く可能性を理解していながらも。
「それでは――リリカ聖女様によるお言葉をいただきます」
普段よりもさらに神聖に、そして美しく見えるよう丁寧に整えられた姿。だが、彼女が壇上へ歩み出ても、かつてのような熱狂的な歓声は起こらなかった。
「国籍に関係なく――この武闘大会に参加したすべての方々に、神の祝福がありますように」
結局、当初の目的だった“フィアスト帝国への誇り”を強く煽るような演説はできなかった。リリカは、できる限り穏便な方向へ話を持っていこうとしていた。
「こういう時だからこそ、私たちは神が望まれる本質に目を向けるべきです。神の言葉に耳を塞ぐ人が増えている今こそ、信仰を示す時なのです。……もし皆さんが毒に侵され倒れたなら、その時、皆さんを救うのは誰でしょうか?」
イバフネ教は、薬や医術に否定的な立場を取っている。これまでは遠回しな牽制に留まっていたが、今回ははっきりと口にした。
「皆さんを救う力は、神から授かったものです。神の力によって再び立ち上がれることを、忘れないでください。まずは皆さん自身から、実践していってください」
内心ではジキセンを責めながらも、リリカは「自分は聖女であり、自分に救われた人々は私に賛同すべきだ」という方向へ話を持っていった。彼女は、普段から親しくしている令嬢や夫人たちへ視線を向けた。狩猟大会以降、関係が近くなった社交界の発言力者たちだ。彼女たちが反応してくれれば、大きな助けになるはずだった。
「……あ」
だが、誰も特に反応を示さなかった。
綺麗に取り繕った言葉としては聞こえが良い。けれど、実際に役立つ話ではない。
『やっぱり……駄目なの?』
彼女の演説に熱狂する者はおらず、皆どこか微妙な空気を漂わせていた。令嬢や夫人たちも困惑しながら、互いの顔色をうかがうばかりだ。何人かはリリカの言葉に賛同したものの、どこか歯切れが悪い。
本来であれば、ジキセンが外国の騎士たちを圧倒的に打ち負かし、「人の作った薬などに頼るな」「むしろ外国との交流で医術を発展させるべきではない」――そんな流れになるはずだった。その空気を決定づけるために、デュフルはあえてこの祝賀祭まで用意していたのだ。
『……これ、何なの?』
『聖騎士として結果も出せてないのに、こんな綺麗事を言われても……』
リリカが強く握り締めた袖口が、くしゃりと歪んだ。
『こうなった以上、もっと他人を巻き込まないと――別の“燃料”を投げ込めば、空気は変わるはず』
追い詰められたリリカは、ついに、ある決断を下した。
「人間の努力について……ユネット代表のユリア令嬢に、お答えいただきましょう」
空気を掌握するため、見せしめを作るつもりだった。誰も逆らえないように。
「……私を、お呼びですか?」
突然の指名に、観客たちが状況を理解できずざわめく中、リリカだけは柔らかく微笑んでいた。慈愛深い聖女を演じるように。
「はい、ユネット代表のユリア令嬢」
だが、その胸の内はまるで別物だった。一瞬戸惑ったユリアも、すぐにリリカが何を狙っているのかを察した。
『……私を“見せ物”にする気ね』
デュフル主催の武闘大会、その締めくくりとして開かれた祝賀祭。ただでさえ突然始まったリリカの演説に会場はざわついていたが、こんな大勢の前でユリアを壇上へ引っ張り出そうとしている理由など明白だった。ユリアにとって、完全に不利な舞台。
――その時だった。
視線の先で、距離を取って会場を見守っていたエノク皇太子と目が合う。
そう思った瞬間、耳元の通信魔道具から、落ち着いた彼の声が届いた。誕生日に贈られたイヤリング型の通信具だ。
『無理に上がる必要はありません。リリカの挑発に、わざわざ乗る必要はありません――』
『……そうよね』
エノク皇太子の言う通り、あまりにも危険な場だ。ここはリリカの土俵。何を仕込んでいるか分からない。もしユリアが大勢の注目の前で失敗すれば、被害は決して小さくない。
けれど――逃げたくはなかった。
ここで怯んでしまえば、こちらにも傷が残る。そしてそれ自体が、リリカにとっての「勝ち」になってしまう。
『でも……同時に、リリカにとってもこれは危険な賭けよ。私にとっては、逆に好機でもあるわ』
おそらく、ジキセンが優勝できなかったことで、予定していた流れが崩れたのだろう。本来なら無難に終わらせるつもりだったはずなのに、リリカは強引に前へ出てきた。なら、こちらにも付け入る隙がある。
ユリアは決意した。大勢の人々の前で、“医薬”について語ってみようと。
大勢の前で“医薬”について語れる機会など、そう多くはない。たとえその先に、どんな罠が待っているとしても。
「大丈夫です」
ユリアは小さくそう囁いた。エノク皇太子からの返答を待たず、そのまま壇上へと足を進める。
無数の視線が、一斉に彼女へ集まった。大観衆。
以前の彼女なら、それだけで足がすくんでいただろう。前世で向けられた視線は、いつだって侮蔑と軽蔑ばかりだったから。
――けれど、今は違う。
遠くから、エノク皇太子が静かにこちらを見守っていた。そのまなざしが、「君なら大丈夫だ」と語っているようだった。その視線には心配も混じっていたが、ユリアが自分で選んだ道なら尊重する――そんな無言の意思が感じられた。
まるで、『もし何かあれば、いつでも駆けつけます』そう言ってくれているような、静かな支え。
『……私、やれる』
時間を巻き戻せたとしても、きっと一人ではここまで来られなかった。だがエノク皇太子は、何度も彼女に勇気をくれた。
『取るに足らない私を、世界で一番素敵な女性みたいに見てくれるんだもの』
その期待と信頼こそ、今のユリアにとって何より必要なものだった。
「お呼びに応じて、参りました」
壇上へ立った瞬間、リリカと再び視線が交わる。聖女らしい微笑みを浮かべてはいたが、その青い瞳の奥には、隠し切れない焦りがちらついていた。
その瞬間、ユリアはすべてを理解した。
『……なるほど。皆の前で私を“異端”扱いしたいのね』
もしここでユリアが不用意な発言をすれば、「神への冒涜を肯定した危険人物」として仕立て上げるつもりなのだろう。
「ユリア令嬢は、どうお考えですか? 神の領域へ、人が傲慢にも踏み込むことについて」
リリカは穏やかな笑みを浮かべていた。まるで冷静な討論をしているように。だが、その実態は違う。少しでも隙を見せれば、一気に噛みついてくるつもりだ。
――でも、ユリアは怯まなかった。
「私には……むしろ、リリカ令嬢のほうが傲慢に見えます」
会場がざわつく。リリカの瞳が、獲物を見つけたように鋭く光った。
「答えに窮したからといって、今度は私へ罪を押し付けるのですか? やはりあなたは――」
「私は、薬で人を支配しようとしたことはありません。ですが聖女様や神官様たちは、“神聖力”で同じことをしていましたよね? 聖女様に従わなければ、救わなかったのでしょう?」
「……」
リリカは一瞬、言葉を詰まらせた。そして唇を噛みしめながら答える。
「先ほども申し上げましたが、それは誤解です。私はただ、人々を救いたかっただけ――」
「そうですか? 私にはそう見えませんでした」
ユリアは静かに首を傾げた。その声音は穏やかなのに、会場は凍りつく。
「倒れていく人々を見た時、まず解毒剤を広めるべきではありませんでしたか? ……私はあの時、強く感じました。神官という存在は、ずいぶん遠い場所から人を見ているのだと」
リリカに助けを求めたのは、あの時毒に倒れていた人々だった。それまで周囲の顔色ばかり窺っていた観衆も、ユリアの言葉に少しずつざわめき始める。
「聖女様も、あの場にいらっしゃいましたよね? なのに、見えていた景色がずいぶん違うようで不思議です」
完全に責め立てる口調ではない。それなのに、会場の空気は確実にリリカからユリアへと傾いていった。
「ユネトでは解毒剤の研究を進めていました。ですが、まだ実用段階ではありませんでした。……それが、私は悔しかったんです。苦しむ人たちのそばにいたかったのに、神官様たちは遠くにいて――」
「ずいぶん上手に同情を誘いますね」
リリカは笑みを崩さないまま言葉を挟む。
「ですが皆さんが回復したのは、最終的に私が“治癒”を施したからではありませんか?」
「本当に不思議ですよね」
ユリアは静かに返した。
「どうしてあのタイミングで、急に“治癒の力”に目覚められたのでしょう?」
ユリアは言葉を切った。リリカがそのニュアンスを掴んで話を逸らすより早く、再び口を開く。
「その時、リリカ聖女様が力を覚醒させてくださって本当に良かったと思います。でも、もし覚醒できなかったら? 山毒蛇の毒は普通のものじゃありませんから」
道が崩れて塞がれていたせいで、神官たちは来られなかった。予定していた時間よりずっと遅れて到着したのだ。その事実を思い出し、令嬢たちと夫人たちの表情が暗くなった。
「神官はあまりにも多くの要素に左右されます。予定や到着時間……ですが、解毒剤は違います」
ユリアはむしろ、リリカがこれまでになく見事に力を振るった瞬間を、逆手に取って利用したのだ。
「だから――」
リリカはすぐに反論した。
「解毒剤が神官の治療より無条件に優れている、というわけではありません! 薬を使って逆に悪化してしまう場合もありますし……」
「どんな薬にも適応症と副作用があります。だからこそ使用説明書も詳しく書いていますし、むやみに販売しないよう教育も行っています」
ユリアは以前、エノク皇太子と交わした会話を思い出した。突然リリカに呼ばれたため準備不足ではあったが、それでもこの件については普段から十分考えてきていた。
「もちろん、イバフネ教では皆が平等に学べるわけではないため、まだ医療知識が不足している人もいます。きっと今後も失敗することはあるでしょう。でも、それは時間が経てば解決されていく問題です」
「呆れますね。状況を誤魔化そうとしているのではありませんか?」
「それは根拠のない楽観論ではありません。フィアスト帝国こそ、かつてはきちんとした医療先進国だったのですから。イスタ王国に医術を教えられるほどに。過去の記録を持っているだけでも大きな力になっています」
『野蛮人から技術を学ぶだなんて』『帝国には誇りもないのか』――そんな噂を流していたのはイバフネ教だった。しかしユリアがその点をしっかり突いたことで、人々はざわめき始めた。
「そういえば、うちのおばあちゃんの時代には、薬草で湿布を作る人もいたって聞いたことあるわ」
「そうそう、外国には“医者”っていう人たちもいたらしいですよ。私も聞いたことがあります」
ユリアを壇上に立たせ、イバフネ教の力を示そうとしていた意図とは、まるで違う方向へ状況は流れていった。一方のリリカは、危険を冒した甲斐もなく、むしろユリアに有利な流れを作ってしまったのだった。――それも、自分の計画を危険にさらしてまで!
「あなたは昔も今も、間違ったことをやめさせようとしているだけです! “神殿は異端だ”なんて言葉を軽々しく使っているわけではありません。お嬢様はまったく反省なさっていないのですね!」
人々の反応を見たリリカは、わざと悲痛そうに声を張り上げた。
「治癒は神がお与えになった力です。それをむやみに使えば、神の怒りを買うことになると、どうしてお分かりにならないのですか!」
だがユリアは落ち着き払ったままだった。
「毒だけでなく、誰もが非常薬を備えて、いつでも助けを得られるようにすることの方が、人々にとってずっと良い方向ではありませんか? 神もきっと、それを望まれていると思うのですが」
「はっ! 今度は勝手に神の意思まで解釈するおつもりですか。皆が薬を使う世界だなんて……神の怒りが怖くないのですか? ユリアお嬢様はますます……」
「神が与えてくださった材料を、人間の努力で完成させたのでしょう。それと、お聞きしたいことがあるのですが」
ユリアは本当に不思議そうに首を傾げた。
「聖女様、先ほど“勝手に神の意思を解釈してはいけない”とおっしゃいませんでしたか? なのに、どうして“神がお怒りになる”と断言できるのか、不思議ですね」
「それは……」
リリカは一瞬言葉に詰まった。自分で放った言葉に縛られてしまったのだ。だが、彼女はその沈黙すら余裕の表れのように口元を緩めた。まるでユリアを追い詰める方法を思いついたかのように。
「私は聖女ですから。信仰のない人たちとは違います。普段から信仰心もない方が、神の意思を――ユリアお嬢様が聖書を読んだり神殿へ通ったりする姿を、私はほとんど見たことがありませんが……」
「リリカ」
ユリアは低い声でその言葉を遮った。リリカが“普段のユリア”の話を持ち出したことで、ユリアもまた、姉が妹に向けるような口調へ変えたのだ。
「あなたは、神官の力が届かない人たちを気の毒だと言っていたわね。薬を使ってさらに苦しむ人たちまで心配しているなんて、感心するわ」
先ほどまでの丁寧な口調より、ずっと私的で、親しげな話し方だった。人々は改めて、二人が姉妹であることを思い出した。
「でも、あなたの言う通り、神官は数が限られていて、いつも間に合うとは限らない……熱が出た時に薬一つで助かる命だってたくさんあるわ。治療できずに後遺症を抱えてしまう人だって多いのよ。リリカ、そんなあなただからこそ、神殿をちゃんと説得してもちだい」
ゆったりとして親しげなその口調に、皆は感じ取った。――もう、この場はユリアのものだ。
「神官を排除しようって話じゃないの。医術と神殿は共存するべきなのよ。ね?」
二人が姉妹だと知った人々は、リリカへ向ける視線を変え始めた。自分の姉を、公衆の面前で“神に背く者”のように追い詰めていたのではないか、と。
「舞台劇では“私生児”だって言って、お姉様を責め立てていたそうじゃないですか」
「そうは見えませんけど? むしろ……」
ざわつき始めた空気を断ち切ろうと、リリカは慌てて声を張り上げた。
「皆さんも、私の言うことに賛成ではありませんか!?」
「……」
だが、返ってきたのは沈黙だけだった。演説は、結局リリカが望んでいた結果を得られなかった。むしろ状況は、彼女にとって不利な方向へ傾いていた。
「他人ならまだしも、お姉様がそんなことをおっしゃるなんて、少し信じられません。いつからそんな善良な方になられたのです? 血の繋がった私にすら冷たかった方が……。お姉様は昔、私が少し失敗しただけでも、家族同士で訴訟を――」
実際、神官の力は貴族のような上流階級に独占されていた。だがユリアは身分に関係なく、誰でも助けを得られるよう全国に薬を流通させ、時には無償で配ってまで平民たちを救い、圧倒的な支持を得ていた。だから、ユリアが事業体の代表であることまで明らかになったとしても、以前とは違って好感を持たれている今のユリアには、大した痛手にはならなかった。
「議論で勝てないから、今度はユリアお嬢様個人の欠点を持ち出すおつもりですか?」
その瞬間、離れた場所にいたエノク皇太子が口を開いた。
堂々とユリアの味方に立った彼の声は、決して大きくはないのに、不思議なほど力強くよく通った。まるで声そのものに魔力が宿っているかのようだった。
「ですが、リリカお嬢様。どうやらお忘れのようですね。その訴訟を主導したのは、他ならぬ私でした」
優雅な足取りが、いつになく大きく響いた。リリカの険悪な空気などまるで気にも留めていないかのように、悠然とした表情のエノク皇太子はユリアの隣へ立った。
その瞬間、リリカは本当に言葉を失った。
『エノク皇太子……いつからここに……!?』
訴訟を起こしたのはユネトであって、ユリアではない。そして当時、公爵家にまで直接訪れ、リリカを問い詰めたのも、共同代表であるエノク皇太子本人だった。彼がいないと思って好き勝手に話していたのに、まさか当事者が現れるなんて。
「私と会った時、“反省しています”“自分の罪を悔いています”と書いた手紙は、すべて嘘だったのですか?」
たとえ少しでも「ユリアが妹を虐げている」という印象を与えかねないとしても、訴訟を起こしたのは自分だと、あえて前に出てきたのだ。
『だめ……!』
以前、ユリアが“悪女”と呼ばれていた頃の話を利用しようとしたのに。神殿を牽制しようとする皇室の意図まで露わになってしまえば、むしろ攻撃する側が不利になる。
「エノク皇太子殿下、お越しだったのですね」
「まずは私の質問にお答えください、リリカお嬢様」
「……」
挨拶で話を逸らそうとしたが、エノク皇太子は即座に逃げ道を塞いだ。彼が前に出てきただけでも十分だった。リリカは口を開いても、もう声が出なかった。
ユリア一人を追い詰めるつもりで始めたはずが、ついにはエノク皇太子――ひいては皇室まで動かしてしまった。
「同じことを言いましょうか? リリカお嬢様は“偽物の化粧品”を作って流通させることが危険だとお考えのようですが、きちんと製造と流通を管理すれば済む話です。むしろ、薬が手に入らず命を落とす人々のことは考えないのですか?」
周囲の人々は、さすがに口を挟めなかった。このままでは、皇室と神殿の対立に巻き込まれかねない。
「……そういえば、そんな事件もありましたね」
「ユネトで偽化粧品騒動が起きた時、皇太子殿下はかなり積極的に動いておられましたものね」
最初はリリカの味方をしてくれると思っていた令嬢たちや夫人たちも、少しずつユリア寄りの空気になっていった。すでに彼女たちの多くは、ユリアに同調し始めていたのだ。
「お父様もお兄様も育毛薬を使っていますし……」
「私は鼻炎持ちなので、あのスプレーには本当に助けられてるんです。冬になると特に酷くなるので」
「私は胃薬を持ち歩いてます。肌荒れ用の薬とかも、本当に色々あって……」
以前とは、状況がまるで違っていた。
『私が治療してあげた人たちまで、味方してくれないなんて。あの事故の時はあんなに親しげだったくせに……』
狩猟大会で彼女たちを救ったのは、実際にはリリカ自身が飲ませた毒への対処だった。だが、令嬢たちですら視線を逸らしながら、その事実から目を背けていた。
『自分たちも毒に苦しんだからこそ、“解毒剤がもっと広まっていたら良かった”って思ってるってわけ? ……はっ』
神殿では、武闘大会の準備を進めるため静かに時を待っていた。だがその間にも、ユネトの薬は人々の生活の中へ、さらに深く浸透していたのだ。つまり、イバフネ教が動いている間も、ユリアとエノク皇太子は何もしていなかったわけではない、ということだ。
以前は、ただ「化粧品を売っている人」としてユリアを嫌っていた者たちも、今では薬を実際に使い、その効果を知っている。だから、リリカのために簡単には動かなかった。
病気の体で馬車に乗って神殿へ向かうことも、神官が来るまで延々と待たされることも、神官がいなければ痛みに耐えるしかないことも――決して楽ではない。薬は便利だった。たとえ神官の治療を受ける金があったとしても、それは変わらない。
「まあ……重病を治すほどじゃなくて、ちょっとした不調に効く薬なら、この前出ていたユーカリ軟膏と大差ないんじゃありません?」
「考えてみれば、アフターサンクリームだって肌を治してくれるものじゃありません? あの時は何もおっしゃいませんでしたよね」
ユーカリ軟膏、鼻づまり防止用の軟膏。アフターサンクリーム。さらには化粧品の一種のように扱われていたスキンケアスプレーまで……。
人々は、気づかぬうちに薬への抵抗感を薄れさせ、今では当たり前のように使っていた。それだけ、“ユネト”というブランドへの信頼が強くなっていたのだ。
『どうして……』
リリカは、エノク皇太子への恨みを募らせた。
『私には、近づこうとするとあんなに冷たかったくせに……どうしてユリアにはあんなに良くするの? 人前で堂々と庇ったりまでして』
もちろん、今ユリアが語っていることが皇室の意向と合致し、皇室にとっても利益になる話だということくらい、リリカにも分かっていた。だが、そこを差し引いて考えても、二人の向いている方向はいつも同じだった。しかも、ただの事業パートナーと言うには、あまりにも――。
「その……聖女様。本日の催しは武闘大会のお披露目なのですから、その話題ばかりというのも……」
空気の悪さを感じ取ったのか、周囲の者が慌てて場を収めようとした。そう、今日の本来の目的は武闘大会の披露だったのだ。
『でも、さっきまで黙っていたくせに、ユリアとエノク皇太子が出てきた途端に取り繕うの?』
『聖女様がもっと公の場でこういう発言を続けてくれた方が、皆もっと薬に興味を持つでしょうに……』
『ここで押し負けちゃだめ。医術の発展まで止められてしまうんだから』
「前回の訴訟では、ご自身の非を認めて終わらせましたから、あえて追及はしませんでしたが……プリムローズ公爵の御前で、お嬢様が――」
しかし、その先を続けようとしたエノク皇太子の言葉を、リリカは遮った。
「私は……」
ユリア個人の問題へと話を逸らし、この場を収めようとした試みは完全に失敗していた。まさかエノク皇太子が、あの訴訟の件をここまで真正面から持ち出してくるとは思わなかったのだ。
『今の流れでは、勝ち目が……』
リリカは視線を落とし、返答することなく一歩退いた。
「どうやら、これ以上は話しても無駄のようですね」
敗北した側であるにもかかわらず、リリカは“話が通じない相手だった”という形で体裁を保とうとした。そして、そのまま演説をそれとなく締めくくった。
『……今ごろ、神官たちはどんな顔をしているかしら』
イバフネ教に身を置いてから、リリカは次第に“聖女”と呼ばれるようになり、神殿内での立場も強くなっていった。だが、それでも前世ほどの影響力には届いていなかった。
医薬産業の誕生。ユリアと世間が友好的な関係になっていること。かつてとは違う公爵家の空気。
神殿の外での影響力は以前より弱まっていたが、その代わりに“外部からの脅威”があることで、神殿内部ではリリカの立場がより強固になっていた。
「今の状況をひっくり返せるほどの求心力を持つのは、リリカ様しかおられません」
かつて彼女を警戒していた者たちでさえ、今はそう言って頼るようになっていた。
『でも、武闘大会でお兄様が負けて、ユリアを完全に追い詰めきれなかったせいで、あの人たちの心も揺らぎ始めてる』
勝ててこそ、“神に選ばれた聖女”という看板が揺らがなかったのに。
崩れてしまった世界。すべてが完璧だと思っていたのに、ユリアと関わるたびに、それが少しずつ壊れていく。
『違う。ユリアなんかのせいじゃない。ただ、ジキセン・プリムローズ――あいつが全部台無しにしたのよ! あれさえなければ、神殿も……いや、私の計画は完璧だった!』
ほんの少し前まで、誰もが彼女を“愛される令嬢”として扱い、味方してくれていた。聖女となってからは、皆が敬意と憧れの目で彼女を見ていたのに。
「ジキセン・プリムローズ……あいつのせいよ」
落ち着こうとしても、感情は収まらなかった。怒りなのか、屈辱なのか、頭に血が上り、目の前が霞む。
自分はこんなにも苦しんでいるのに、当の本人はなぜ平然としていられるのか。
――もう、ジキセンを問い詰めるしかない。
一体、何を考えているのか。
「今、ジキセンはどこにいるの?」
どうして、皆で準備してきた計画を台無しにしたのか。
リリカの瞳に、冷たい怒りが宿った。