こんにちは、ちゃむです。
「公爵邸の囚われ王女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
161話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 最悪の光景
「……ちょっと」
しばらくじっと視線を交わしていると、ノアは少し困ったような表情を浮かべ、遠慮がちに頼んできた。
「少し、後ろに下がってくれないか? 君の香りが……。いや、その……数歩でいいから」
「下がるのは構わないけれど、その前に一つだけ聞いてもいい?」
「……早く聞いてくれ」
彼はどうにかしてクラリスを自分から遠ざけたそうにしていた。けれどその両目はきらきらと輝いており、「早く問いに答えたい」という魔法使いとしての知的好奇心と意思が、隠しきれずに伝わってくる。
「じゃあ……あの石は、今どこにあるの?」
「……!」
顔でなければ、別の場所でノアが周囲の状況を完璧に把握していたのは明らかだった。それは、彼を守るためのもの。
その瞬間、クラリスの脳裏に、少し前に起きたあの不穏な出来事が鮮やかによみがえった。魔法使いアストの短剣が、彼の胸を容赦なく貫いた――あの時のことだ。
「……なるほどね」
クラリスは自分の中でひとつの結論を下すと、彼の左胸のあたりをじっと見つめた。
「立派な方ね、ノアのお母様は」
死した後ですら、残された強大な魔力と深く温かい意志によって、もう一度、石の形と性質を変えて彼を守り抜いたのだから。
「ノアが『自分で実験した』って聞いた時点で、私も気づくべきだったわ」
「ま、まあ……いいよ。それじゃあ、また後で別の理由をつけて……」
「じゃあ、シャツのボタンを少しだけ外してくれる?」
「なっ……急に何を言うんだ、君は!」
「ちょっと……私としても、恥ずかしいお願いではあるけれど」
クラリスは耳まで真っ赤に頬を染め、ロザリーにリボンで結んでもらった自分の手首を、落ち着かない様子で何度も弄った。
「わ、私……まだゴーレムマスターとして未熟だから、服の上からじゃ上手にお話ができないの。あ……でも、もし私が本当にノアのお母様のような立派な力を持っていたら、きっと何の問題もなかったのに……。ああ、もう、恥ずかしい!」
「それより、まず恥ずかしがるべき順番が違うだろ。はあ……もういい」
彼は「一体、何を期待していたんだ、俺は」とでも言いたげに小さく自嘲しながら、首元まできっちりと留められたシャツのボタンに、すらりとした長い指を伸ばした。
クラリスはその瞬間、自分がまぎれもなく「魔法使い」に属する世界の一部なのだと、初めて肌で実感していた。
崩れたゴーレムは、実は保存魔法を宿した“石”であり、ノアの身体に残ったゴーレムは、その形を変えながら今も彼を守り続けている――その神秘の事実に直接触れたことで、彼女自身もまた、同じように石に魔法を宿すことができるのではないかと、強く胸を支配され始めていた。
それに加えて、あれほど偉大な前代のゴーレムマスターが遺した石を、自分の意思で動かすことができるのか――それを、どうしても今ここで確かめてみたかった。
きっと、こうした湧き上がる衝動のすべてが、ノアが常に心を奪われている「魔法使いとしての純粋な好奇心」と同じものなのだろう。
かつてノアの顔を覆っていたあの美しい石が、持ち主の危機を経て、今はどれほど凄惨で、あるいは神秘的な姿へと形を変えているのか。クラリスはそれが気になって仕方がなかった。
ノアがためらいがちに、ひとつ、またひとつとボタンを外していく。
その指先を待つわずかな時間さえ、今のクラリスにはもどかしく感じられるほどだった。
(――早く、脱いで)
思わずそう声に出して急かしそうになったが、さすがに自分でも言葉の意味が妙だと感じ、慌てて言葉を飲み込んだ。
首元から胸元にかけて、白いシャツが緩やかに開かれる。その奥に見える、見慣れない男の胸のくぼみに向かって、クラリスはそっと手を伸ばした。
ノアはびくりと身じろぎし、わずかに身体を後ろへ引こうとする。
その瞬間、クラリスは悟った。
――もう、自分のゴーレムマスターとしての忍耐は限界に達していて、彼のいかなる拒絶を受け入れる余地など、最初から一分も残されていなかったのだと。
「あ、ごめんね。ちょっと触るよ?」
「……もう触っているだろう」
ノアは少し腹を立てたのか、薄い唇をきゅっと結んだまま、呆れたようにそう答えた。
(あとでちゃんと謝らなきゃ……)
心の中でそう思いつつも、今は石との対話が先だった。クラリスはシャツの内側へとさらに深く手を差し入れ、目指す石の硬い感触を探して指先を這わせた。
「ち、違う! そこじゃない!」
「あ、そうなの? 顔の時とちょっと感触が違って……」
男の身体に直接触れた経験などあるはずもなく、少し戸惑いはしたが、すぐに指先がその異質な存在を捉えた。石も皮膚も、どちらも硬さ自体は似ている。けれど、石のほうが少しだけざらついていて、ひんやりと冷たい。
「あ、あった!」
クラリスは嬉しそうに、目の前の彼に向かってぱっと顔を上げた。
けれどなぜか、ノアは今にも泣き出しそうな、耐え難いものを堪えるような表情を浮かべていた。
「……もしかして、痛かった?」
彼は「それどころじゃない」と言いたげな顔でクラリスを見つめながら、またひとつ、深くため息をついた。
「いや、そういう意味じゃなくて……あまりに……。いや、いっそ普通に痛いものだと思ってくれた方が、どれほど楽か」
「今回は、石がバラバラにならず、ひとつにまとまっているのね。いったいどうしてこんなことに……。ねえ、もう少し詳しく見てもいい?」
「……もうシャツは十分に引っ張ってしまっているだろう。これ以上は、どうか……」
「あ」
抑えきれない好奇心が再び顔を出し、気づけば彼女は、彼の服を胸元が露わになるほど大きく広げてしまっていた。
彼の確かな心臓の鼓動が刻まれるその真上に、硬質でありながら、どこか生き物のような温もりを感じさせる真紅の石が、深くはめ込まれていた。
「きれい……」
クラリスは思わず感嘆の息を漏らし、彼の胸元へと顔を近づけ、目を凝らして覗き込んだ。角度を変え、距離を詰め、あらゆる方向から丹念にその紅い石を観察する。
「美しいわ……この完璧なカッティング、そしてノアの身体とこんなにも自然に調和する石があるなんて、まさに造形美の極みね……!」
「お願いだから……っ、手をじっとしていてくれ! なんでそんなふうに、指先をくねくねと動かすんだ……!」
「私だって、そうしたくてやってるわけじゃないけれど、うう……」
石から伝わってくる強烈な感情の波に当てられ、クラリスもまた、もうノアと一緒になって泣き出しそうな顔になっていた。
「やっぱり、ノアのお母様の遺した石は、本当に最高ね」
「……だからさ」
ノアは片手で顔を半分ほど覆い、あらぬ方向を向いたまま、困惑を隠すように頭を振っている。
「形を変えられそう?」
「うーん、どうかな……」
クラリスは石のあちこちを指先でつつくようにして探ってみた。手が動くたびに、ノアは居心地悪そうに身体を細かくもじもじとさせる。
「……まったく、何の反応もないわね。魔力が切れてるのかな?」
「……その、魔力が切れたという話だけは、僕の前で絶対にしないでくれ」
「たぶん、あの瞬間に私の身代わりになって形を変えるために、この石も限界まで魔力を消耗しちゃったんだと思う。あの……アルステアのせいで」
美しい石と再び出会えたことを喜んでいたのも、ほんのつかの間のことだった。
――そう。
クラリスは、この赤い石が狂いなく正確に彼の「心臓」を覆い守っていることに、あらためて胸を打たれていた。それは同時に、あのアルステアがノアの心臓を、一切の躊躇もなく明確に狙ってきたという何よりの証拠でもあったからだ。
(ノアは……魔法使いアストのことを、ずいぶん深く信頼していたのね)
もしかすると、ノアが本当に「実験してみたい」と願い、その本質を確かめたがっていたのは、アルステアの心だったのではないだろうか。殺したいほど憎むことと、実際に冷酷に相手の命を奪うこととは、まったく別の問題だ。ノアは最後の瞬間に、彼がほんのわずかでも自分に対して躊躇いを見せるのではないかと、どこかで期待していたのかもしれない。
――もちろん、すべてはクラリスの切ない推測に過ぎないのだけれど。
「……あの時、本当は、怪我は……しなかったの?」
「魔法使いの社会では、これくらい避けられない出来事だよ。だから母さんも、万が一の時のためにこんな魔法を僕の心臓に託したんだろう」
彼の身体から、張り詰めていた緊張が、すっと抜けていくのが分かった。
「それでも……ノアが、この石を『呪い』だなんて言うのは――」
「壊れずに済んで、本当によかった」
クラリスは、こんなに綺麗な、彼を守るための石が粉々に燃えてしまうところを想像するたび、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「どうして、こんなに無理をしたんだろう……。私を守るためだったのに」
「そうだよ。だから、その感謝の気持ちは、私じゃなくてその石にちゃんと直接してあげないとね。今は深く眠っていて、自分の状況が何もわからないだろうけど」
「……ノア、本当に私、この石に魔力を分けてあげるつもりだよ?」
「うん。だめかな?」
「……好きにすればいいよ。もうここまで僕の胸元をはだけさせておいて、今さら無理だって言うのも変だろ」
「ありがとう、ノア」
クラリスは、持ち主を守るためにほとんどの魔力を失ってしまったその石が、あまりにも愛おしくてたまらなくなった。迷うことなく彼の胸元へとさらに顔を近づけると、その真紅の石へ、そっと自らの唇を触れさせた。
「あ……」
その瞬間、彼女は小さく息をのんだ。
石から直接、唇を通じて伝わってきたのは、驚くほどの温かさと、そして焼け付くような切実さだった。今まで出会ってきたどんな意思を持つ石よりも、貪欲に、強く激しく魔力を求めていた。
「大丈夫だよ。全部、私の魔力を受け取って……」
クラリスは石を安心させるように囁き、さらに深く唇を重ねた。
同時に、彼女の魔力を得て、深い眠りから急激に目覚めつつある石の「大混乱」が、濁流のようにクラリスの意識へと流れ込んできた。
『ノ、ノア……っ、ノア、危ない……!』
石の意識は、今なお、あのアルステアに胸を貫かれた惨劇の日に囚われたままだった。もしかすると、あの日以来、恐怖のあまり完全には眠れていなかったのかもしれない。
『私が……私の力不足のせいで、あの時、気を失ってしまって……!』
「大丈夫。落ち着いて、ノアは無事よ」
『ぶ、無事……? 本当に……?』
「ええ。本当に、彼は今、生きてここにいるわ」
『ノア……どこにも、怪我はしてない……?』
「あなたが、その身を挺して、完璧に彼を守ってくれたのよ」
クラリスはできるだけ穏やかな優しい調子で言葉を紡ぎ、石の恐怖を宥めようとしたが、その効果はほとんどなかった。
『……怖かった。すごく、怖かったの。ノアを……大好きなノアを、私のせいで守れなかったんじゃないかって思って、私は……っ』
その石から響く、強い不安と狂おしいほどの恐怖が入り混じった悲痛な声が、クラリスの心の奥深くへと容赦なく突き刺さった。そしてやがて、クラリス自身の感情までもが、その石の絶望に支配され始めていく。
『ノアはもう……死んでしまったと思っていたの……!』
クラリスは、脳内に流れ込むビジョンに、あらためて背筋がぞっと凍りつくのを感じた。
あの瞬間は、本当に運がよかっただけなのだと。もし、ほんのわずかでもお母様の石に残された魔力が足りなかったなら――もしかしたら、今自分の目の前にいるノアは……。
「……あ」
クラリスの脳裏に、アルステアの鋭い剣が赤い石を無惨に砕き、ノアの心臓めがけて無慈悲に突き進む最悪の光景が、鮮明に浮かび上がった。
あるいはそれは、眠っている間じゅう、石が暗闇の中でひとり震えながら思い描いていた、最悪の想像の産物だったのかもしれない。
鮮血に染まったノアの無残な姿が、どうしても視界から消えてくれず、恐怖に駆られたクラリスは慌てて手を伸ばし、彼のシャツの上から上着の裾をぎゅっと、引きちぎらんばかりに掴んだ。
すぐに、彼の確かな体温が、触れている彼女の頬へと伝わってきた。
「ノア……っ、ご、ごめん。私、ここにいるから……ノアも、ここにいるから……」
クラリスは狂ったように謝罪の言葉を口にしながらも、彼の胸元へとさらに深く沈み込んでいく自分自身を止められなかった。石から容赦なく流れ込んでくる底なしの不安は、もはや彼女ひとりの小さな器では、到底抱えきれるものではなくなっていたのだ。
「ひとつだけ……お願い。ねえ、お願い……」
まるで水底に溺れる者が、必死に一筋の空気を求めるかのように、クラリスは切羽詰まった様子で顔を上げ、彼の左胸、その心臓の音へと必死に耳を寄せた。
ドク、ドク、ドク――。
規則正しく、力強く脈打つ鼓動。
その生を証明する確かな振動が鼓膜をいっぱいに満たして、ようやく、クラリスは胸に溜まった息を長く吐き出すことができた。
……どうしてだろう。ノアが今も生きて目の前にいることなんて、最初からちゃんと分かっていたはずなのに。
それでも、今すぐ自分の耳で、その命の音を確かめなければ気が済まなかった。その狂おしいほどの衝動は――。
「おい、君! しっかりしろ!」
そのとき、頭上から驚くほど大きな、焦ったような声が飛んできた。
どうやらノアは、意識が朦朧とし始めた彼女の名前を、何度も何度も大声で呼んでいたらしい。
「あ……」
クラリスはハッとして、ようやく我に返った。
ただ、瞬間的に膨大な魔力を石に使い果たしてしまい、さらに石の深い絶望の共鳴に沈んでいたせいで、身体にはまったく力が入らなかった。
それでも地面に倒れずにいられたのは、気づけばノアが、細いながらも確かな力で彼女の腰を背後からしっかりと抱き支えてくれていたからだろう。
「大丈夫か? 息はできるか?」
クラリスが力なく小さくうなずくと、彼はぐっと身をかがめ、彼女の濡れた髪の間に自らの顔を埋めるようにして、その額を優しく寄せた。
「もう……本当に、これ以上心配させないでください……」
クラリスは、その消え入りそうな声を聞いて、(本当に心配しているのは、私のほうでしょう)と、はっきり言い返してやりたかった。
けれど、今はそんな子供じみた言葉を言い合う場面ではなかった。
少し前にクラリスが味わったあの激しい感情の混乱は、彼女と、ノアの心臓にある石とのあいだに生まれた、あまりにも深い精神の共鳴だった。
思い返せば、かつてクラリスが外壁の主となったあの夜にも、これとよく似た出来事があった。人間を大切に想いながらも、最終的には彼らを――愛する外殻の、あの切ない想いが伝わった瞬間、クラリスはその堅固な壁を叩き、とうとうその場に泣き崩れてしまったのだ。
だから――もしかすると、この石も……。
クラリスはノアの腕に抱きとられたまま、ようやく残った力を振り絞って身体を起こした。
片手を高く掲げ、彼の身体に深く埋め込まれた真紅の石へ、強く掌を擦りつける。刃すら弾き返すほどに硬く、荒れた石の表面は、彼女の柔らかな掌を容赦なく引き裂いた。
驚いたノアが短い悲鳴を上げ、彼女の手首を掴んで止めようとしたが、クラリスの行動の方が一瞬早かった。
赤い血の雫がじわりと滲む石の上へ、彼女はもう一度、祈るように唇を重ねる。
血が触れたその場所から、部屋全体を包むほどの眩い光が走った。
けれど石は、なおもノアの身体を深く愛していたがゆえに、彼から離れてクラリスの手元へ移ることを、最後の最後まで躊躇っていた。
「……大丈夫。これからは、私がノアを守るわ」
そのクラリスの誓いは、静かで、しかし何ものにも揺るがない確かな強さを宿していた。
最後に、まるで迷子を慰めるような優しい言葉をかけられると、ついに石は完全にクラリスへと心を許した。
クラリスがそっと手のひらを差し出す。
すると、彼の胸元からぽとりと離れ落ちた赤い石は、しばらくの間、魔力によって小さな腕と脚を持つ可愛らしいゴーレムの形を保ったまま、名残惜しそうにノアのことをじっと見つめていた。
やがてそれを見たノアが、感情を堪えるように慎重に口を開く。
「……ありがとう。長いあいだ、僕の心臓を守ってくれて」
それは、少し前にクラリスが石に向かって口にした、感謝の言葉の数々を、彼がそのまま覚えていて告げたものだった。
その言葉を聞いて小さく嬉しそうにうなずいた小さなゴーレムは、ほどなくして魔法の形を崩し、ただの静かな石へと戻っていった。
そしてそれと同時に、限界を迎えたクラリスもまた、糸が切れたようにノアの胸の中へと倒れ込み、そのまま静かに意識を失ってしまうのだった。