こんにちは、ちゃむです。
「残された余命を楽しんでいただけなのに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
98話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- ドロドロした感情
ジルデル王国の王・バルキオは、報告を聞いた瞬間、勢いよく立ち上がった。
「何だと? 皇女がジルデルを離れるだと!?」
その顔には、にわかには信じ難いといった驚愕の色が張り付いていた。
テシリド移送館に関する細かな調整すらまだ終わっていないのだ。何一つとして確定していないこの段階で、なぜ今になって――。
動揺する王の前で、首席補佐官ガブリジャンが慎重に言葉を返した。
「いえ、完全に離れるわけではありません。カルポアという小さな村へ少し立ち寄り、その後戻られるそうです」
「それは離れるということだろう!」
バルキオはどかりと椅子に腰を下ろすと、苛立たしげに貧乏揺すりを始めた。
「こんな時期にカルピアだと?」
「カルポアでございます」
「そうか、カルポア……。皇女がそんな場所へ何の用だ? 知り合いでもいるのか? それとも宝石でも出るのか?」
ガブリジャンは沈黙した。
「理由は?」
「申し訳ございません。把握できておりません」
――病気の子どもを見舞うため。
そのあまりに純粋な理由を、この場にいる誰も想像すらしていなかった。
しばしの沈黙の後、ガブリジャンが重々しく口を開く。
「どうやら、一種の示威行為かと」
「それにしても妙だな。これは私への侮辱と受け取ってもいいんじゃないか?」
「先に侮辱的な贈り物を送ったのは、こちらですが」
「うっ……」
痛いところを突かれ、バルキオは言葉に詰まった。ガブリジャンは容赦なく追撃する。
「正直に申し上げますと、私を送り込んで探りを入れさせた時点で失策だったのではないかと思います」
「……」
「もし、これまで私がお会いしてきた通りの皇女様であれば、私が訪ねた理由など一目で見抜いていたはずです」
バルキオの表情が険しくなる。
確かにその通りだった。侮辱的な贈り物を受け取ったにもかかわらず、皇女はその場を離れず待っていた。
もちろん、イザベル本人にそんな大層な意図はなかった。ただ、もらった人形で遊ぶのに夢中だっただけなのだが――周囲の目には、それが不気味なほどの「静かな威圧」として映っていたのだ。
「それにもかかわらず、陛下は正式な謝罪もせず、首席補佐官である私を送り込んで様子を探らせた。これは国王陛下の失態と言わざるを得ません」
「やめてくれ……耳が痛い」
バルキオは深くため息を吐き、頭を抱えた。
「どうすればいい?」
「陛下ご自身で赴かれるべきです。今すぐに」
「今からなら、まだ追いつけるか」
「ええ、十分に」
「だが、ロスウィルド公爵家の令嬢との二度目の面会が――」
「どちらが重要ですか?」
冷徹な問いかけに、答えは明白だった。
皇女は今、貴族らしいやり方で自らの意思を示している。ここで王が応じなければ、協力関係は破綻するだろう。そして、その損失を被るのは間違いなくジルデル王国側なのだ。
「頼む、友よ。後を任せた」
「こういう時だけ『友』と呼ぶのですね」
「それで……私の顔に何か付いているか?」
「何も。どうぞ、行ってらっしゃいませ」
バルキオは弾かれたように席を立つと、慌ただしく王宮を飛び出していった。
その背中を見送りながら、ガブリジャンは小さく呟く。
「今日は妙な冗談も言わない。本当にお急ぎのようですね」
ガタゴトと揺れる馬車の中で、アレミテルは苦笑していた。
自分でも少しずるいことをしている自覚はある。
本来、皇女が自分の弟に会いに行く理由などどこにもない。それでも同行を申し出たのは、どうしても弟の顔が見たかったからだ。必要だったのは「皇女に随行する特別任務」という大義名分だけ。
(私。随分と変わったものね……)
そんな感傷に浸っていた、その時だった。
「うわっ!」
「気でも狂ったのか!?」
御者の怒鳴り声と共に、馬車が急ブレーキをかけた。
何事かと御者が前方を睨みつけた直後、その目は点になった。
飛び出してきた男の顔が、どこかジルデル国王に似ている。いや、似ているどころではない。艶やかな黒馬にまたがり、威風堂々と佇むその姿は、どう見ても――。
「まさか……陛下?」
男は決まり悪そうに苦笑した。
「狂っているわけではない。ただ、どうしても皇女殿下にお会いせねばならなくてな」
馬車の扉が開き、イザベルとアレミテルがしとやかに降り立った。
バルキオはすぐさま馬から飛び降りると、真っ直ぐにイザベルの前へと進み出る。
「皇女殿下、私の無礼をお許しください」
「……はい?」
イザベルは小首を傾げた。
無礼? ああ、急に道を塞いだことだろうか。
「ええ、まあ。何か急を要する事情がおありだったのでしょう」
「思ったよりあっさり許してくださるのですね」
バルキオはホッと胸を撫で下ろした。どうやら間に合ったらしい。皇女が仕掛けた「試練」に、ぎりぎりで合格できたのだと、彼は一人で確信していた。
しかし、イザベルは本気で不思議そうな顔を続けている。
「私が許すようなこと、何かありましたっけ?」
「……」
「――それとも、以前のこと、ですか?」
その一言が放たれた瞬間、バルキオの身体が凍りついた。
あどけない少女の笑みの裏に、冷徹で鋭い刃が隠されているような、そんな錯覚に囚われる。
だが、当のイザベルは政治的な意図など微塵もなく、ただ純粋に疑問を口にしただけだった。
バルキオはごくりと唾を飲み込み、何とか声を絞り出す。
「私は……皇女殿下を、子ども扱いし過ぎたのではないかと思ってな」
「うーん……」
イザベルは人差し指を顎に当てて少し考えた。
「何をおっしゃりたいのか、私にはよく分かりませんけど……」
そして、花が咲くようににっこりと笑った。
「私は子ども扱いされるの、嫌いじゃありませんよ」
「嫌い、じゃない?」
「はい」
子どもには子どもだけの特権がある。可愛いおさげ髪も、ひらひらのドレスも、今しか楽しめないものだ。だから、馬鹿にされていると感じることも特になかった。
「では……私のあの贈り物も、気にしていないのか?」
「ええ。リベルですから」
イザベルは、大切そうに抱えていた人形を取り出して見せた。
「リベル?」
「名前を付けてあげたんです」
「名前を……?」
「可愛いでしょう?」
「そ、そうだな……」
バルキオの脳内は完全に混乱していた。
政治的な駆け引きの果てに裏の意味を込めて付けられた名前ではない。この少女は、本当に気に入ったから名前を付けただけなのだ。百戦錬磨の政治家である彼には、そのあまりの純粋さが逆に理解できなかった。
「とにかく、そんなに謝りたいなら受け取ります」
「ありがとう……。本当にすまなかった」
「気にしないでください」
しばらく穏やかな会話を交わした後、イザベルがふと思いついたように言った。
「そうだ、ひとつお願いがあります」
「何なりと言ってみなさい」
「ジルデルにあるベースキャンプの設備を改善したいんです。協力していただけますか?」
王城へ戻ったバルキオは、自室の椅子に深く腰掛け、本日何度目か分からないため息を吐いた。
向かいには、冷静な顔をしたガブリジャンが立っている。
「ずいぶん控えめな要求だったな」
「どのような内容でしたか?」
「ベースキャンプの整備だ。行政手続きの簡略化、人員の補充、予算の確保。要求はそれだけだ」
ガブリジャンは深く納得したように静かに頷いた。
「実に政治的な判断ですね。あえて小さな要求を呑ませることで、確実に恩を売る……」
しかし、バルキオの胸のモヤモヤは晴れない。
「あの子、本当にそこまで計算しているのか?」
「どういう意味です?」
「いや……どう見ても、ただの可愛らしい子どもにしか見えないんだが」
ガブリジャンは、あきれたように即答した。
「陛下、彼女を個人ではなく『国家』として見てください」
移動協定の締結。ダイヤモンドの独占契約。そして今回の件での利益と名分。
すべてを完璧に手に入れている。それが厳然たる現実だった。
「確かにそうなんだが……」
それでも、バルキオの鋭い勘が何かを告げていた。
「何か違う気がするんだよな」
「陛下は人を見る目がおありなのでしょう。買い被りすぎです」
「そうなんだよ。私の勘は当たるんだ……ハックシュン!」
バルキオは小さくくしゃみをした。
「とにかく、次はフォルキオへ向かうと言っていたな」
「……カルポアです、陛下」
ガブリジャンはあえてその訂正を口には出さず、そっと胸の内に留めておくことにした。
その頃、馬車の御者は人知れず深い感動に包まれていた。
『アルフェアの春』
そう称される皇女の噂は、もちろん彼の耳にも届いていた。最も身分の低い民のためにも力を尽くす慈悲深きお方。実際、彼女が広めた「ラーメン」を食べたことがある者なら、その名を知らぬ者などいない。
だが、まさかこれほどまでに温かい心の持ち主だとは思わなかった。
もし先ほどイザベルが取りなしてくれなければ、自分は国王への不敬罪で処刑される恐怖から、何日も眠れなかっただろう。
(本当に優しい方だ……)
彼にとってイザベルは、まるで「無害」という言葉がそのまま人の形を成したような存在だった。
そして実際のところ――難しく考えすぎるガブリジャンよりも、この平凡な御者の方が、イザベルの等身大の本質を正しく理解していたのである。
馬車の中、ユリはずっと暗い顔で窓の外を眺めていた。
「……ユリ?」
「……ユリ?」
何度も名前を呼ばれ、ようやくハッと我に返って顔を上げる。
「は、はい!」
「何を考えてるの?」
「いえ、別に何も……」
見え透いた嘘で誤魔化そうとするユリに、イザベルはいたずらっぽく笑いかけた。
「ずっと悩んでる顔してたよ?」
やがて馬車は、見渡す限りの広い草原へと到着した。
白い蝶がひらひらと舞い、すぐ側を透き通った小川が静かに流れている。
空気を察したアレミテルは、席を外して二人きりにした。
イザベルは愛らしい靴と靴下を脱ぎ捨てると、小川へと足を浸した。
「ユリもおいでよ」
冷たい水が、火照った肌に心地いい。
しばらく並んで水面を見つめた後、イザベルは隣をそっと覗き込んだ。
「話して」
「え?」
「何を悩んでるの?」
ユリはぎゅっと拳を握り締め、首を振った。
「何もありません」
「そんなわけないじゃん」
イザベルはさらに顔を寄せ、悪戯っぽく囁く。
「私にだけ、ひそひそ話」
それでも、ユリは頑なに口を閉ざした。
「本当に、何もありませんから」
拒絶されたように感じたイザベルは、少しだけ頬を膨らませた。
「じゃあ、お仕置きかな」
ほんの冗談のつもりだった。
だが、その瞬間――ユリの大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちるのが見えた。
昨夜、ユリは一睡もできなかった。
イザベルが、自分と同い年の少女「アセリア」に会いに行くと言い出したその時から、胸の奥がざわざわと波立っていたのだ。
新しい友達ができる。それは、とても喜ばしいことのはずだ。
なのに、なぜこんなにも胸が苦しくて、お腹の底が重いのだろう。
一晩中考え続け、ようやく辿り着いた答え。
(私……皇女様の、たった一人の友達だと思っていたから、寂しいのかな……)
だが、それすらも本当の答えなのか確信が持てなかった。ただただ、胸が引き裂かれそうに痛い。
イザベルの幸せを願っている。もっとたくさんの友達ができてほしいとも、本心から思っている。それなのに、自分と同い年の女の子に会いに行くと聞いた瞬間、黒い感情が胸を支配した。
まるで、自分だけのたいせつな宝物を奪われてしまうような、そんな醜い独占欲。
「私、悪い子なのかな……」
いい子でいたい。立派な侍女でいたい。
それなのに、このドロドロとした感情がどうしても消えてくれない。だから、そんな自分が大嫌いだった。
けれど、幼いユリは一つだけ大きなことを見落としていた。
イザベルにとって、同い年の友達はユリだけだった。
そして――ユリにとってもまた、同い年の友達はイザベルしかいなかったのだ。
まだ十歳の少女だった彼女は、その胸を焦がす激しい「寂しさ」に、まだ名前を付けられなかっただけだった。
「やっぱりユリ、しっかり叱ってあげないとね」
その一言が引き金だった。ユリの目から、堰を切ったように涙が一気にあふれ出した。
――ぽろぽろと、大粒の涙が止まらない。
「……うん? ユリ? どうしたの?」
予想もしなかった激しい反応に、イサベルは思わず戸惑った。どうしていいか分からず、とにかくユリの元へ駆け寄ると、その小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
何か悩みがあるのだろうとは思っていた。けれど、まさかここまで声を上げて泣き出すほどだとは想像もしていなかった。
「よしよし……」
イサベルはユリの背中を、ぽんぽんと優しく叩く。
理由はまだ分からない。けれど、ユリは本当に悲しそうに、胸が痛くなるほど泣いていた。
イサベルは、決して「泣くな」とは言わなかった。
なぜならそれこそが、かつての自分が一番言われたくなかった言葉だったからだ。
前世の闘病生活。つらくて苦しいとき、どう心を保てばいいのかなんて、誰も教えてくれなかった。ただ泣くことしかできなかったのに、周りの大人たちは「泣くな」「強い子でいなさい」と簡単に言ってきた。
……そんなの、ひどい話だ。つらいに決まっている。
ユリはまだ九歳なのだ。
泣く理由をうまく言葉にできなくたって、少しもおかしなことじゃない。自分でも理由の分からない苦しさに胸を締めつけられ、ただ誰かに気づいてほしい――今のユリは、まさにあの頃の自分と同じ状態だった。
九歳の自分が抱えていた、あの切実な感覚。
あの頃欲しかったのは、立派な正論や解決策ではない。ただ「どうしたの?」「つらかったね」と寄り添ってもらう、それだけでどれほど救われたか。
(すごく、悲しかったんだね……)
イサベルはあえて“答え”を出そうとはしなかった。ただ抱きしめて、背中をぽんぽんと叩き、泣くことを許してあげる。大人でもなかなかできないその無条件の包容は、ユリにとって「ちゃんと自分を見てもらえている」という絶対的な安心感となり、それだけで心の痛みを大きく和らげていた。
「とてもつらかったんだね」
かつての自分が、ただ欲しくてたまらなかった共感の言葉。自分が痛みの中で学び、経験してきたことを、イサベルはただユリに分かち合ってあげたかった。
ユリはしばらくの間、しゃくり上げながら泣き続けた。イサベルはその理由をしつこく聞き出そうとはしなかった。
「言ってくれないと、私は分からない」と突き放すこともしない。
(むしろ、ユリに魔力でもあれば、すぐに気づいてあげられるのに……)
人の魔力には、その人が感じている感情がありのままに溶け込むものだから。
やがて、少しだけ時間の流れが穏やかになった頃、ユリがようやく口を開いた。泣きはらした真っ赤な目でイサベルを見つめ、ひどく掠れた声で尋ねる。
「皇女様は……どうして一緒に泣いていらっしゃるんですか?」
「悔しくて」
大した理由なんてなかった。ただ、大切な友だちがこんなにも悲しそうに泣いているのを見て、自分の目からも自然と涙がこぼれ落ちた。ただ、それだけだった。
「私なんかのことで、泣かないでください……」
「どういう意味?」
「皇女様が泣いてくださるほど、私は……私はいい人じゃないんです」
「ユリはいい人だよ」
「違います! 私は、悪い人です……!」
頑なに否定するユリに、イサベルは優しく問いかけた。
「どうしてそんなふうに思うの?」
ユリはきゅっと肩をすくめ、視線を落とした。
「ごめんなさい……。お話しできないと思います」
「それじゃあ、ちょっと寂しいな」
「……命令してくだされば、話せます。話さなければならないので」
イサベルは少しの間考え、それから静かに首を振った。
「そういうのは、したくないな」
そう言って、ユリの小さな手をそっと握りしめた。
今日の手は、いつもよりひどく冷たく、細かく震えていた。何があったのかは分からなくても、ユリが今、とても怖い思いをしていることだけは伝わってきた。
「命令なんてしないよ。私たちは友だちでしょ?」
これ以上は、聞かない。
人には誰しも、どうしても心の奥底に隠しておきたい秘密があるものだ。話したくないことを無理に暴く権利など、たとえ友だちであっても自分にはない。
「いつか話してくれるって信じてる。今、ユリが話してくれないのは少し寂しいけど……それでも、ひとつだけ信じてほしいの。ユリがどんなことを話しても、どんなことを考えていても、私はあなたに失望したりしないから」
「あなたのことを、決して悪く思ったりしない。約束する」
誰にだって、つらくて孤独な瞬間はある。
そのときに必要なのは、大げさな奇跡などではない。ただそばにいて、揺るがない信頼を向けてくれる、たった一人の存在。その一人がいるだけで、人は苦しみを乗り越えられる。
前世の自分にとっては、ある時は名前も知らない支援者であり、またある時は病院の先生や看護師たちだった。
だから今日は、イサベルがユリの支えになろうと決めたのだ。お姉さんでも、お医者さんでも、看護師でも、どんな役割でもいいから。
「だから、ひとつだけ私と約束して。自分のことを悪く言わないで。それはユリの一番の親友として、絶対に見過ごせないな。ユリがどんな人でも、私は大丈夫。だから、ユリも自分をそんなふうに責めないでほしいの」
「そうしてくれたら、嬉しいな」
「……」
「ユリはまだ、子どもなんだよ」
私たちは大人じゃない。完璧である必要なんてどこにもないのだ。子どもには、子どもだけの時間がある。
「お屋敷に着いたら、ユリが淹れてくれたレモンティーが飲みたいな。お願いできる?」
うつむいていたユリが、ゆっくりと顔を上げた。そして、小さな、けれど確かな声で答える。
「約束します」
「本当?」
「はい……世界で一番甘いレモンティーを淹れて差し上げます」
「うん、楽しみにハチミツも用意しておかなきゃね」
イサベルは先に立ち上がると、優しく手を差し出した。ユリはその手を取り、涙を拭って立ち上がる。その表情には、少しだけ落ち着きが戻っているようだった。
二人が再び馬車に乗り込むと、なぜか護衛のアレミテル団長が、すべてを見守っていたかのように満足げな表情で席に座っていた。
馬車は目的地のカルポア村へと到着した。
御者が、頭が地面に着きそうなほど深く腰を折る。
「皇女様をお乗せすることができ、この上ない光栄でございました。一生物の感激でございます!」
(そこまでしなくてもいいのに……)
イサベルは、彼がなぜそこまで極端に礼を尽くすのか分からなかった。とても感動したと言われたが、自分が何か特別なことをした記憶も思い出せない。
平民出身であるアレミテルは、そんなイサベルの様子を見て、心中で改めて感心していた。
(御者がどうしてあれほど感動しているのか、本当に分かっていないみたいだな)
アレミテルには分かっていた。国王バルキオに狂人扱いされ、手打ちにされてもおかしくなかった御者を、イサベルがごく自然に救ったのだ。けれど、イサベル自身はその事実をすでに忘れている。
それは彼女にとって、特別な善行ではなく、ごく当たり前の「日常」だからだ。だからこそ、見返りも意味も求めていない。
(アセリアも、皇女様に会えばきっと一瞬で好きになるだろうな)
そう確信するアレミテルだったが、当の皇女は、村に足を踏み入れた途端に少し緊張しているように見えた。
カルポア村はこぢんまりとしており、馬車が通れるような大通りはほとんどない。
「見苦しい場所ですが、あの路地の奥にあるのが私の家です」
案内された家を見て、イサベルは少し意外に思った。アレミテル中将ほどの地位であれば、かなりの富を得ているはずなのに、ずいぶんと貧しい長屋に住んでいたからだ。
原作の小説には彼女の家についての詳しい描写はなかったが、イサベルにはおおよその見当がついた。
(……きっと、弟の薬代のせいだ)
重い扉を開け、イサベルは家の中へと足を進めた。
その瞬間、独特の空気が鼻腔をくすぐる。
(……懐かしい匂い。病院の匂いだ)
ここは中世のような異世界であるはずなのに、どこか現代の病院を彷彿とさせる匂いが満ちていた。人生の大半を無機質な病室で過ごしてきた彼女にとって、この匂いはあまりにも馴染み深く、そして同時に――思わず身体を震わせるほど、苦い記憶を呼び起こすものだった。
「皇女様? どうされましたか?」
「あ、いえ……なんでもありません」
匂いのせいで前世の自分を思い出してしまった、とは言えるはずもない。イサベルはぎこちなく微笑んだ。
「お邪魔します」
静かに部屋の奥へと進むと、遮られた薄暗い空間から、か細い声が響いた。
「どなた……ですか?」
イサベルはその声の響きを、嫌というほど知っていた。
病人の声だ。あまりにも痛みが強すぎて、大きな声を出す力さえ残っていない、消え入りそうな声。それは、前世の自分が毎日のように発していた声そのものだった。
「そこに……アセリア姉様はいらっしゃいますか……?」
イサベルは何かに引き寄せられるように、その声のする部屋の扉を静かに開けた。
人生の大半を病床で過ごした者には、重い病を抱えた人間から漂う独特の“気配”が分かる。実際に臭うわけではない。けれど、イサベルはそれを「痛みの匂い」と呼んでいた。かつて他人に話しても理解されなかったその気配が、今、この部屋には充満していた。
ベッドの傍らまで近づいたイサベルは、息を呑んで足を止めた。
そこに横たわっていたのは――。
(本当に……私にそっくりだ)
忘れたかったはずの、前世の自分の姿。血の気が完全に失せ、ひどくやつれ果てた病人の顔が、目の前にあった。
後から部屋に入ってきたアレミテル中将が、静かに妹を紹介する。
「皇女様だ、アセリア」
その言葉に、アセリアが無理に身体を起こそうとするのが分かった。イサベルは思わず先んじて声を上げた。
「起き上がらなくていいよ」
頭の中が混乱していた。なぜ原作のヒロインが、これほどまでに弱り果てているのか、理解が追いつかない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
もしあの子が、本当に前世の自分と同じなのだとしたら。同じ痛みを背負っているのだとしたら――ベッドから起き上がることすら、今のあの子にとっては命を削るような試練のはずだ。その苦しみを、イサベルは誰よりも知っている。
(……政治家たちが来るの、本当に嫌いだったな)
前世の時、偉い人たちが「お見舞い」という名のパフォーマンスに訪れるたび、動かない身体を無理やり起こさなければならなかった。
今日初めて会って、もう二度と会うこともないような大人たちが、カメラの前で急にハンカチを取り出して涙を拭い、私と写真を撮る。けれど撮影が終わった瞬間、その涙は嘘のように消え去り、秘書が事務的にハンカチを回収していくのだ。まるで、カメラに「涙を止める魔法」でもかかっているかのように。
「命令です。起き上がらなくていいから、そのまま横になっていてください」
「……!」
『命令』という強い言葉に、アセリアの身体がびくりと反応した。突然現れた高貴な皇女を前に、どうしていいか分からない様子だった。
「私の名前はイサベルです。お会いできて嬉しいです」
「……はじめまして、皇女様。アセリア、です……」
声を聞いて確信する。今のアセリアには、話す力すらほとんど残っていない。
身体は限界まで弱っている。けれど、その奥にある心は、まだ死んでいないように感じられた。
(……分かる気がする)
自分にあまりにも似ているからだろうか。イサベルには、彼女の心の機微がはっきりと読み取れた。あの子は今、深い苦しみの中にありながらも、どこかでかすかな期待を抱いている。
(私も、そうだったから)
忘れていた記憶が、次々と鮮明に蘇る。
有名な政治家が来るのは最悪だったけれど、同年代の友だちが来てくれる時間は、何よりの救いだった。その子たちは写真を撮ろうなんて言わなかったし、ただ自然に接してくれた。元気すぎて少し疲れてしまう子もいたけれど、みんな基本的には気を遣ってくれて、学校の流行り病や、友だち同士のくだらない出来事など、私が知りたくてたまらなかった外の世界の話をたくさんしてくれた。
「お会いできて本当に嬉しいです。アレミテル中将から、お話はよく聞いていますよ。中将は、アセリアのことをとても大切にされているのですね」
「姉様が……私のことを?」
つらい状況のはずなのに、アセリアの瞳が一瞬、きらきらと輝いた。アレミテルが妹を深く愛しているように、アセリアもまた、姉を心から慕っているのだと分かった。
「ええ。アセリアのこと、本当によく自慢していらっしゃるんですよ。無口で少し怖い方だと思っていましたが、アセリアの話になるとまるで別人みたいに優しくなるんです」
背後で、アレミテル中将の頬が少しだけ朱に染まった。
「皇女様、私はそんな……」
「中将」
イサベルはその言葉を遮るように、振り返って微笑んだ。
「同年代同士でゆっくり話ができるよう、少し席を外していただけますか?」
「……」
「大丈夫です。何かあればすぐにお呼びしますから」
「……分かりました。それでは、商店に行って何か飲み物でも用意してまいります」
「お代くらいは払わせてくださいね」
「いいえ、結構です。それよりも……」
アレミテルは少し言い淀み、外の様子を気にした。
「それよりも、外で待っているユリと一緒に市場を見てきてください。中将が一緒なら安心ですから」
どんなに高名な店のデザートやお茶でも、ユリが淹れてくれたものには敵わない。イサベルの知る限り、ユリは最高の料理人であり、最高のパティシエであり、そしてお茶の達人なのだから。
アレミテル中将は、なおも不安げな目をベッドの上の妹に向けていた。すると、それを見たアセリアがぽつりと言った。
「どうせお姉ちゃん、もともと私のそばにいなかったじゃない。心配しないで、行ってきて」
姉を気遣い、あえて突き放すような物言いに、アレミテルは苦笑して部屋を後にした。
「本当ですか? 蜂蜜の妖精が話すっていうんですか?」
アセリアはくすくすと声を上げて笑った。少なくとも、この瞬間だけは病の痛みを忘れているようだった。
「うん。今ちょっとあちこち偵察(?)に行ってるみたいだけど、すぐ戻ってくるよ。そしたら紹介してあげる。毛はすごくふわふわで、身体はとってもあったかいんだ」
「甘い蜂蜜の匂いがするんですか?」
「うん!」
「不思議……」
二人の距離は、思ったよりもずっと早く縮まっていった。
「私も、皇女様が作られたっていう『ラーメン』、食べてみたいです」
アセリアの口元に、思わずといった風に唾がにじむ。彼女はそれをごくりと飲み込んだ。一度も食べたことはないけれど、きっとこの世で一番おいしいものに違いない、そんな予感がしていた。
「こっそり、一つ食べちゃう?」
「でも、お姉ちゃんが絶対ダメだって……」
アセリアは少し不満げに眉を寄せた。
「お姉ちゃんっていつもそうなんです。お姉ちゃんが元気でいられるように、私たちは青い木の実ばかり食べなきゃいけないんだって」
「青い木の実?」
「うん、ブロッコリー」
「皇女様もブロッコリー、嫌いなんですか?」
「大っ嫌い! すごく嫌い。世界で二番目に嫌いかな」
アセリアはまた、楽しそうにくすっと笑った。
「じゃあ、一番は?」
「きゅうり」
イサベルは真面目な顔で断言した。
きゅうりには申し訳ないけれど、あの匂いも食感も、とにかく全てが受け付けない。
(ごめんね、きゅうり……)
心の中で、見えないきゅうりたちにそっと謝罪する。
「えっ? 私もです! 私をきゅうりが嫌いです」
「食べるのも嫌だし、貼るのも嫌だよね」
「貼るんですか? きゅうりを? どこに?」
「顔に貼ると肌がきれいになるって言うでしょ?」
「そんなの……!」
アセリアは目を丸くした。きゅうりを顔に貼るなんて、思いもよらない。
「食べ物でそんなことするんですか? 食べ物で遊んじゃダメだって教わりましたけど……」
「うん。だから私は絶対に貼らないよ」
イサベルはまるで国家の重大宣言でもするかのように真剣に頷き、それから少しトーンを落として続けた。
「たぶん、普通の辛いラーメンは、今のアセリアには刺激が強くて食べるの難しいと思うの。だから、新鮮なミルクで作ったクリームを使った、まろやかなラーメンにしよう。私と一緒に来たユリは、もの凄く腕のいい料理人なんだから」
「本当に……いいんですか?」
「私自身のことは信用できなくても、ユリの腕は百パーセント信じていいよ。ユリが作るなら、身体に優しくてきっと大丈夫」
二人はそれからも、あれこれと話を続けた。
話題は次々に変わり、そこには高尚な“ためになる話”なんてひとつもなかった。将来の夢だとか、社会のあり方だとか、自己をどう成長させるかとか――そんな息苦しい話は一切なく、代わりにトッポッキやラーメン、アイスチョコミルクにフレンチトーストといった美味しそうな食べ物の話ばかりで、そこに時折、蜂蜜の妖精の噂話が混ざるくらいだった。
「……なんだか、全部『食べ物の話』になっちゃったね?」
「ふふ、皇女様が言ったもの、全部食べてみたいです。私も」
「いつか、そんな日がきっと来ますよね?」
「もちろん!」
そう答えた瞬間、イサベルは胸がキュッと締めつけられるような感覚に襲われた。
毎日当たり前に食事を摂れる人には決して分からない。その「いつか」という言葉に、どれほど切実で重い願いが込められているのかを。
(どうして、こんなふうに笑っていられるんだろう……)
もしかすると、原作の通りアセリアの本来の姿――竜としての本性が、どこかで歪んでしまっているのかもしれない。今のアセリアは、完全に“人間”として生きていた。竜としての自覚など微塵もなく、ただ一人の儚い少女として。だからこそ、今彼女が感じている痛みも孤独も、そのすべてが紛れもない本物だった。
[金蜜、登場。]
不意に、部屋の隅から聞き慣れた声が響いた。
「何してたの?」
金蜜は得意げにちっちゃな鼻を鳴らした。
[路地を制圧してきた。]
どうやって制圧したのかは謎だが、とにかく金蜜はかなり誇らしげだった。その愛らしい姿を見て、アセリアは痛みを忘れたように、思わずベッドの上で身体を起こした。
普段、イサベル以外には敵意を向けがちな金蜜だが、アセリアに対しては違った。その純粋な魂を見抜いたのか、
[お前、俺の友だちになれ。]
と告げると、アセリアの胸の中へすっと潜り込んだ。気持ちよさそうに、金蜜は彼女の胸元にふわふわの顔をすり寄せる。
[契約完了。]
[これから友だち。]
アセリアはまた、くすっと嬉しそうに笑った。金蜜が現れたことで、部屋の空気はさらに柔らかく、温かいものへと変わっていった。
しばらくして、アセリアが居住まいを正すように口を開いた。
「はい、本当です。私は大丈夫です。心配してくださって、ありがとうございます」
「……」
イサベルの胸が痛んだ。分かっていた。アセリアがまったく「大丈夫」なんかじゃないことを。誰よりも、はっきりと。
かつて、前世の自分もいつも同じ言葉を口にしていた。
『はい、大丈夫です。ご心配ありがとうございます』
それは、支援を受ける側の人間として、当然の義務だった。支援者には常に感謝と誠意を示さなければならない。彼らの前では、希望を持って健気に生きている“ふり”をし続ける必要があった。それが、施しをくれる人々に対する礼儀だったからだ。
だから、本当は苦しくて死にそうでも「大丈夫」と言わなければならなかった。感謝の気持ちが湧かないほど心が摩耗していても、「ありがとう」と微笑まなければならなかった。
一度だけ、体調が悪くて写真撮影を断ったことがあった。その時、ある大人に酷く怒られたのだ。
『感謝の気持ちもないのか』と。
幼かった自分は、本気で自分が悪いのだと思い込み、涙を流して必死に謝った。
自分は“支援される側”の人間であり、その立場に許される感情は「感謝」だけなのだと、その時思い知らされた。
イサベルはベッドの縁にそっと腰を下ろした。ギシ、と古いベッドが軋む音を立てる。
「無理して“大丈夫”って言わなくていいよ」
今度は、トッポッキやラーメンの楽しい話じゃない。少しだけ、本当の話をしようと思った。
イサベルはアセリアの瞳を真っ直ぐに見つめる。どれだけ見ても――やっぱり、昔の自分にそっくりだった。
「そんなにしんどいのに、“大丈夫”なんて言えるわけないよ」
「いいえ、本当に大丈夫です。皇女様と楽しくお話ししていたおかげで、つらさも感じません」
アセリアは、誰に対してもいつもそう答えてきたのだろう。生まれたときから病弱だった彼女にとって、周囲に気を遣わせないための防衛本能として、それが当たり前になっていたのだ。
けれど、イサベルの目を欺くことはできない。部屋に満ちる「痛みの気配」は、何一つ弱まってなどいないのだ。強い痛みを全身で抱え込みながら、それでも平気なふりをして微笑んでいる。
「そんなに我慢しなくていいよ。痛いなら痛いって、つらいならつらいって、言っていいんだよ」
イサベルは、静かに、諭すように言った。
「泣いてもいいし、文句を言ったっていい。それでいいんだよ」
本当は――自分だって、前世でそうしたかった。でも、わがままを言って嫌われるのが、見捨てられるのが怖くて、どうしてもできなかった。
「誰も、アセリアのことを嫌いになんてならないよ」
あまりにも幼い頃に親に捨てられた彼女は、また誰かに捨てられるのが怖くて仕方がなかったのだ。だから、いつも手のかからない「いい子」でいなければならなかった。おとなしく、かわいそうで、従順にしていれば、きっと愛してもらえると信じて。
――でも。
「私は一度も、本当に平気だったことなんてないよ」
あれほど痛いのに、平気でいられるはずがない。
イサベルは知っている。人間が“本当に何も感じなくなる瞬間”を。それは、つらくても前を向けている時なんかじゃない。
全てを諦めてしまった時。もう何も望まなくなった時。
その時、人は逆に驚くほど静かになるのだ。
「私には、あなたもそう見える」
イサベルは、静かに、けれど核心を突くように言った。
本当は――最初にアセリアと対面したときから、ずっと肌で感じていたのだ。横たわる彼女からは、生きようとする意志がまったく感じられなかった。目に光が一切なく、あまりにも無感情だった。もしかすると、ずっとずっと前から、彼女は生きることを諦めていたのかもしれない。
「でも、ひとつだけ。アセリアがまだ生きようとしている理由があるとすれば……それは、きっとアレミテル中将だね」
自分のそばにいてくれる、たった一人の大切な人。その一人の存在が、彼女の崩れそうな人生をかろうじて支えている。
それが、前世の自分と、この物語の中のアセリアの決定的な違いだった。
“本当に大切な人が、離れずにそばにいてくれるかどうか”
イサベルの言葉を、アセリアはしばらく黙って聞いていた。
やがて、アセリアはゆっくりと小さな唇を開いた。
「皇女様……私、いますから……」
言いかけて、また言葉を飲み込む。
イサベルは何も言わず、ただ静かに、やわらかな光を宿した瞳で彼女を見つめ続けた。
今彼女が紡ごうとしている言葉は、きっと心の奥底の倉庫を開け、相当な勇気を振り絞って取り出そうとしているものだと分かっていたから。だから、決して急かさない。その大切な一歩を、ただ待つことにした。
アセリアは布団の中で、小さな拳をぎゅっと握りしめた。
誰にも――特に大好きな“姉”にだけは、一度だって言えなかった言葉が、喉の奥で激しく震えている。
「私……」
自分のせいで、姉がどれほど苦しんでいるか。自分の薬代のために、どれほど犠牲を払っているか。そんなことは、ずっと昔から分かっていた。
自分は“迷惑な存在”だから。そう思い込んできたからこそ、決して口にしてはならないと封印してきた想い。
でも――。
目の前の、自分と同じ痛みを、同じ絶望を知る少女の前でなら。今言わなければいけない気がした。
心の最も深い場所に隠されていた、本当の願い。
「……私も、私も生きたいです」
少女の瞳に、ようやく確かな生の光が宿った瞬間だった。