こんにちは、ちゃむです。
「余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
43話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 不器用な境界線
しかし、部屋の前でカーディエンはふいに足を止めた。
「ん? どうした?」
ヒステリオンが振り返ると、カーディエンは無表情のまま淡々と言った。
「先に入いていてくれ」
ヒステリオンは不思議そうな顔をしたが、カーディエンの視線の先を追うと小さくうなずき、そのまま先に部屋へ入っていった。
そして、カーディエンは再び歩き出した。彼が向かった先は――。
「先生」
呆然としながら近づいてくる彼を見ていると、不意に呼びかけられ、私は肩をぴくりと震わせて顔を上げた。カーディエンが、いつもの冷徹で無表情な瞳で私を見下ろしていた。彼は一度口を開きかけたが、何かをためらうようにまた閉じる。
私は黙って彼を見つめ返した。やがて、カーディエンは重い口調でゆっくりと言葉を紡いだ。
「……私にも、どうしてあんなに腹が立ったのかわからない」
「……閣下?」
今、この人は何を言っているのだろう。
「ただ、先生があいつに連れて行かれそうになっているのを見て腹が立った。自分にも、あいつにも」
少し言葉を濁したカーディエンは、小さくため息をついた。
「……だから、先生に八つ当たりしてしまった。だから私が言いたいのは――私に気を遣う必要はない、先生」
そう言い残すと、カーディエンは踵を返し、部屋の中へ入っていった。
私は最後まで何も言えないまま、ピシャリと閉じられた扉をただ見つめていた。しばらく呆然と瞬きを繰り返しているうちに、ようやく彼の言葉の意味が頭に染み込んできた。
「えっと……つまり……私を気遣ってくれたってこと?」
私に気を遣わなくていい、と彼自身が言うなんて。
『いや、これって“気遣い”って言えるのかな?』
少し違う気もするけれど、今の私にはよくわからない。ただ、頭の中が真っ白になっていた。まさかあの偏屈なカーディエンが、私にあんな不器用な釈明の言葉をかけてくれるなんて、夢にも思っていなかったからだ。
『ああいう言葉って、一体どういう意味なんだろう……』
私は自分にそう問いかけながら、廊下の壁にそっと寄りかかった。そして、十数人の護衛たちが見張る白い扉を見つめながら、先ほどの彼の言葉を何度も思い返す。
――先生があいつに連れて行かれそうになっているのを見て腹が立った。
どうしてそこまで揺さぶられたのだろう。もちろん、カーディエンとヒステリオンは顔を合わせれば嫌味を言い合うような仲ではある。けれど、だからといって本当に決裂しているわけではない。今だって、ああして二人きりで部屋に入り、密談を交わしている様子を見れば、互いの信頼関係が悪くないことくらいは察しがつく。それに、ヒステリオンが私やカーディエンに何か実害を与えたわけでもない。
やり方は少々強引だったけれど、それほどまでにカーディエンが激昂するような理由にはならないはずだ。もっとも、本人ですら「なぜ怒ったのかわからない」と言っていたのだから、私にその理由がわかるはずもなかった。
『本当にわからないな……』
私は壁にもたれかかったまま、扉から視線を外し、周囲を見回した。頭の中がカーディエンの言葉でいっぱいになってしまい、どうにも落ち着かなかったからだ。
『せっかくだし、神殿の中を少し見てみよう』
この神殿は誰でも自由に出入りできる場所ではない。そして本来、私はその「誰でも」に入る側の人間だった。
『原作で描写は読んだことがあるけれど……』
文字として追うのと、実際にこの目で壮麗な建物を仰ぎ見るのとでは、やはり受ける衝撃がまったく違っていた。
私はまず、天幕が半分ほど下ろされた式典会場のほうへ目を向けた。どこからともなく厳かに流れてくる聖歌隊の賛美歌と、美しい楽器の演奏。その合間に、出席者たちの格式高い話し声が響いている。遠くに見える神官たちの忙しない動きが、ここが本当に歴史的な式典の舞台なのだと実感させた。
『そして今日、この場所であの事件が起こる』
原作にも描かれていた、あの衝撃的な事件。そして、その出来事をきっかけにヒステリオンはヒロインに恋に落ちるのだ。
『今回も、同じ筋書きになるのかな……?』
私は小さく首を横に振り、今度は反対側へ目を向けた。そこには、果てが見えないほど長く続く静謐な廊下が伸びていた。白い大理石の床と同じように、壁も一分の隙もなく真っ白だ。どうやら普段はあまり使われない通路のようで、人の気配はまったく見当たらなかった。神官の姿すらここにはない。
『だからここに、人目を忍ぶプライベートルームが作られたのかな』
その名の通り、こういう場所でなければ密談の意味がないのだろう。もっとも、本来であればこの部屋を利用する者などほとんどいないはずだ。こんな大規模な式典で、少しでも席を外すのは社交界において大きな損失だからだ。
式典の出席者は、帝国でも指折りの重要人物ばかり。そんな人たちと人脈を広げる時間さえ足りないというのに、のんびりと個室で休むなど贅沢な話だ。それこそ、皇太子や公爵クラスの絶対的な強者でもない限り。
それにしても……。
「この廊下、なんだか見覚えがあるような……」
私は小さくつぶやいた。気のせいではなく、この廊下の景色には確かな既視感――デジャヴがあった。神殿の紋様が精巧に彫り込まれた壁、雪のように白い床、そして奥へ進むほど薄闇に包まれ、果てが見えなくなる廊下。
私は首をかしげた。
『これ、絶対にどこかで見たことがある。原作の描写を読んでいたから?』
いや、違う気がする。原作ではなく、もっと生々しい別のどこかで……。
その時だった。
「ん?」
不意に聞こえた足音に、私ははっとして振り返った。気配の主はヒステリオンだった。密談が終わったのか、先に部屋から出てきた彼は私を見つけると、どこか楽しげな笑みを浮かべながらこちらへ歩いてきた。そして、その後ろから苦い表情のカーディエンが歩いてきて、私と目が合った。
「フリントン……」
「皇太子殿下!」
ヒステリオンが私に何か言おうとしたが、それよりも早く、私はカーディエンのもとへ駆け寄っていた。なんとなく、そうしなければいけないような衝動に駆られたのだ。
「お話はもう終わったんですか?」
少し息を切らせて声をかけると、カーディエンは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに小さくうなずいた。
「そ、そうですか。あはは……」
私は自分の突発的な行動への気まずさをごまかすように空笑いを浮かべ、そっとヒステリオンのほうを振り返った。
「ふむ」
ヒステリオンは意味ありげな笑みを浮かべながら、私とカーディエンの顔を交互に見比べていた。
『“ふむ”って、何その意味深な反応は……』
『もうそろそろ、主役の持ち場に戻ってあげてよ』
もうすぐ式典が始まり、ヒロインが鮮烈な姿を現す。その瞬間から、ヒステリオンは物語の「中心」になるのだ。その歴史的な場面をこの目で見られるだけでも、一人の読者としては十分ありがたいけれど、今の私にとっては、それよりも目の前のカーディエンの動向のほうがはるかに大切だった。
もちろん、カーディエンは「私に気を遣う必要はない」と言ってくれた。けれど、それは義務感からくる気遣いというより、私はただ、彼のことが純粋に心配でたまらなかったのだ。あそこまで不器用に感情を露わにするくらい、私を守ろうとしてくれたのだから。
しかし、ヒステリオンは私のそんな願いを他所に、すぐには立ち去ろうとしなかった。どこか物寂しそうな目で私を見つめると、彼はふっと端正な口元を緩めて言った。
「これは少し傷つくな、フリントン嬢。二度も私を後回しにするなんて?」
「……え、ええ?」
突然何を言い出すのだろう。私が戸惑っていると、すかさずカーディエンが苦々しく一言を挟んだ。
「また変なことを言い出したな」
しかし、ヒステリオンは気にした様子もなく涼しい顔で続けた。
「皇子の家庭教師」
「……え?」
「先生に、その家庭教師の仕事を勧めたのは、実は私なんだよ」
「……殿下が、ですか?」
信じられないという顔で聞き返すと、彼はうなずきながら楽しげに顎に手を当てた。
「私もすっかり忘れていたよ。あなたもそうだっただろう、フリントン嬢。提案を受けた途端、中身も見ずにすぐに断ってしまったからね」
「あ、それは……」
私はぎこちなく笑いながら言葉を濁した。
あの頃は、自分が家庭教師になるなんて微塵も考えていなかったのだ。その申し出を断った直後、父が亡くなり、魔花病が流行したことで、結果的に私はメルツェデス公爵家の家庭教師としてヴィンセントを教えることになった。その一連の出来事の間があまり空いていなかったので、私は気まずさに身を縮める。
『まさか、あの時の匿名に近い提案をしてきた相手が、皇太子だったなんて……』
提案書には皇室の公的な印章しか押されていなかったため、個人の差し金だとはまったく気づかなかった。それに、当時は家庭教師になる気など毛頭なかったので、誰がその話を持ってきたのかを深く調べようとすら思わなかったのだ。
なんだか少し、不思議な気分だった。原作の固定された展開とは関係なく、自分という個人の能力が認められていたのだと知り、ほんの少し胸が弾む。
――いや、それよりも後頭部に刺さる視線が信じられないくらい痛いんだけど。
ヒステリオンが衝撃的な事実を明かしてからというもの、冷酷極まりない視線がずっと私の後頭部を貫いている。振り返らなくても、その視線の主が誰なのかは明白だった。
だが、ヒステリオンの話はまだ終わっていなかった。彼は私を見て、太陽のように眩しくにっこりと微笑んだ。非の打ち所がない、まさに絵に描いたような主人公の笑顔だ。
「フリントン嬢は知らなかっただろうけれど、君に断られたと聞いた時は、かなり残念だったんだ」
「……殿下がですか?」
今度は、一人の皇太子としての真意を測るように尋ねた。私を採用できなかったことを、どうして彼ほどの権力者が残念に思う必要があるのだろう。私より優秀な人材など、皇宮の家庭教師の座を求めていくらでも列を作っていただろうに。
「フリントン嬢がまだ学院に通っていた頃から、ずっと君の才能に目をつけていたんだ。少し機を逃してしまって、提案が遅くなってしまったけれどね」
「えっ……」
「それなのに、私の誘いを断って向かった先が――」
ヒステリオンの鋭い緑色の視線が、私の後ろに佇む男へと向けられた。
「メルツェデスだったとは。君は運が良かったね、公爵」
「……」
カーディエンは何も答えなかった。ヒステリオンも最初から返事を期待していなかったのか、すぐに私へと視線を戻した。そして、少し声を落として密やかにささやく。
「それでも、もし気が変わったら、いつでも戻っておいで。皇宮の門は、いつでもフリントン嬢のために開かれていますから」
低く響くヒステリオンの声は、あまりにも甘く、人を惑わせるような響きを含んでいた。だからといって、私がその誘いに心を動かされることはない。そもそも私が家庭教師になったのは、この職業に命を懸けていたからではなく、メルツェデス家に入り込むための唯一の手段だったからだ。たとえいつかヴィンセントの家庭教師を辞めたとしても、他家の門を叩くつもりは最初からなかった。
中途半端な期待を持たせるような態度は、誰に対しても失礼にあたる。私はヒステリオンの誘いをきっぱりと断ろうと口を開いた。
しかし、それより一歩早く、背後から地を這うような冷たい声が響いた。
「戻るわけではない」
声の主は、カーディエンだった。
「……ん?」
ヒステリオンは意外そうに眉をひそめてカーディエンを見た。私も彼が何を言うつもりなのか分からず、驚いて見上げる。
カーディエンは静かに、しかし威圧的に皇太子を見据えていた。その深い紫色の瞳からは、相変わらず何の感情も読み取れない。だが、彼が再び紡いだ言葉は、ひどく重く、確固たる響きを持っていた。
「先生は、一度たりとも皇室の人間だったことはない。だから“戻る”という表現は不適切だ。――先生は、メルツェデス家の人間だ」
「……」
私は呆然としたまま、カディエンの横顔を見上げた。
ヒステリオンをまっすぐ見つめる彼の瞳には、微塵の揺らぎもなかった。水を水と呼び、空を空と呼ぶように、あまりにも当然の事実を口にするような調子で、カーディエンは私が『メルツェデス家の人間』だと断言したのだ。
「……あ」
ようやくカーディエンの言葉の意図を正確に理解したヒステリオンは、驚きに目を見開いた。そして、その視線が値踏みするように私へと向けられる。
――二人は、そこまでの深い関係を築いていたのか、というような探るような眼差しだった。
ですが、皇太子殿下。一番驚いているのは、他ならぬこの私です。
まさかカーディエンの口から、こんな言葉が飛び出すなんて夢にも思っていなかった。もちろん、ここ最近になって彼との距離が急速に縮まったのは実感していたけれど。
単に親しくなったという話と、公式に「メルツェデスの人間」だと彼自身に認められることは、まったく次元が違う話だ。カーディエンにとって、メルツェデス家は彼の誇りであり、守るべきすべての象徴なのだから。それほど不可侵で大切な場所だからこそ、彼は誰に対しても慎重で、簡単には他者を自分の領域に入国させようとはしなかった。
それなのに、先ほどの彼の言葉は、私が彼の不可侵な隣に立つことを、完全に許容したという意味に他ならなかった。
『わあ……なんだか、すごく不思議な気分』
本当の意味で彼の一族として認められたような気がして、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
ヒステリオンはまだ驚いた表情で私とカーディエンを見比べていたが、やがて降参したように苦笑しながら頷いた。
「そうか。なら仕方ないね。結局、選ぶのはフリントン嬢自身だ。もし気が変わることがあれば、いつでも訪ねてきておくれ。大歓迎するよ」
その言葉に、私はしばらく彼を見つめ、それから淑女の礼をもって静かに頭を下げた。
「私の能力をそのように高く評価してくださり、心より感謝申し上げます、皇太子殿下」
「……」
背中越しに、カーディエンの鋭いレーザーのような視線を感じる。いや、閣下が何を考えてカリカリしているのかは分かりますけれど、人の話は最後まで聞いてください。
「ですが……」
私は顔を上げ、ヒステリオンと視線を合わせた。そして、濁りのない穏やかな微笑みを浮かべる。そんな私を見つめるヒステリオンの瞳に、かすかな感嘆が浮かんだ。
「メルツェデス家が、私の最初で最後です。ほかを選ぶことは、万に一つもございません」
「……きっぱり言うんだね。少し寂しいな」
本気で残念がるように、ヒステリオンは寂しげな笑みを浮かべた。でも、私は物語の読者として彼の本質をよく知っている。私の知るヒステリオンは、この程度のことで本気で傷つくような柔な人物ではない。あの完璧でぎこちない笑顔の裏には、冷徹で計算高い本心を隠しているのだから。
「公爵は運がいいな。これほど頑なで信頼できる家庭教師を傍に置けるとは」
「……ずいぶんおしゃべりですね。皇太子殿下は、よほどお暇なのですか?」
「はは、そこまで暇ではないよ。ちょうど中へ戻ろうと思っていたところだ。それでは、お二人にテレイアの加護がありますように」
「あなたには似合わない挨拶ですね」
「ここは神殿だからね。神殿に来たなら、ここの礼儀に従わないと」
楽しげに声を立てて笑ったヒステリオンは、今度こそ従者たちを引き連れて、きらびやかなホールへと戻っていった。
私は去りゆく彼の背中に向かって一礼すると、小さくため息をつきながら顔を上げた。
『……すごい疲労感』
まだ本番の式典すら始まっていないというのに、まるで嵐が通り過ぎた後のように全ての気力を使い果たしていた。カーディエンとヒステリオンという、帝国の二大巨頭の火花散るやり取りに挟まれるなんて、私のような小市民には荷が重すぎる。
それでも、ただ擦り減っただけの時間ではなかった。カーディエンが私を明確に身内だと認めてくれていることが、はっきりと分かったのだから。私はふっと口元を緩め、隣のカーディエンを振り返った。
カーディエンは、何とも言えない複雑で不機嫌そうな表情を浮かべている。私は彼の硬い上着の袖を軽く小突くようにしながら、おどけて言った。
「まさか閣下が、私のことをそこまで深く考えてくださっているなんて思いませんでした」
「……先生こそ、よく言ってくれた。『メルツェデス家が最初で最後だ』と」
そう言って、カーディエンは静かに私を見つめた。私は真っ直ぐに頷く。
「その言葉に、嘘偽りは一切ありません。本心です」
ヒステリオンに変な期待を持たせないよう、あえて冷徹に言い放った部分もあったけれど、私が口にした言葉はすべて本物だった。
「私は、メルツェデス家を離れた後に、どこか別の家門に仕えるつもりはありませんから」
その言葉の裏には、
『私はいつかここを去っても、メルツェデス家の不利益になるような情報を他所に漏らすような真似は絶対にしません。だから安心してください』
という意味も含めていた。
私は、この言葉を投げかければ、警戒心の強いカーディエンを安心させられると確信していた。
しかし私の予想とは裏腹に、さっきまでわずかに和らいでいた彼の眼差しは、一瞬にして氷河のように冷たく凍りついた。あまりの急変に戸惑い、私が目をぱちぱちさせていると、彼は低く冷え切った声で吐き捨てた。
「……先生は、見ていると、私のもとを去る日ばかりを今から心待ちにしているように見える」
「え?」
――突然、何を言い出すの?
私が驚愕の表情で見つめていると、カーディエンは薄い唇をきゅっと不満げに結んだ。
「先生は、一体……」
そう言いかけた彼は、しばらく私を苦々しく見つめたあと、突然くるりと背を向け、私だけをその場に残して一人で部屋の中へ入ってしまった。
「え……ちょっと……」
『一体、何なんですか、もう!』
反抗期の息子でもあるまいし、どうして急にここまで機嫌が悪くなったのかさっぱり理解できない。
『もしかして、私が言ったことの何かが琴線に触れたの?』
メルツェデス家をいつか「離れる」と言ったことだろうか。でも、それは最初から契約で決まっていることだ。カーディエンは私をメルツェデスの人間だと認めてくれた。だけど、それで私が本当の意味で彼の一族や永住者になれるわけではない。私はあくまでヴィンセントの教育係である以上、彼の成長と共にいつかはこの家を去らなければならない、有期契約の外部人間にすぎないのだから。
それは私も痛いほど知っているし、カーディエンだって百も承知のはずなのに。
『そこまで怒るようなことなの?』
誰かが嫌いになって離れたくて去るわけでもない。しかも今すぐではなく、ずっとずっと先の話なのに。
私は思わず不満げに唇を尖らせた。さっきまで浮かれていた温かい気分が、一気に冷めて沈んでいく。
『人の気分をここまで乱高下させるなんて、ある種の高尚な才能なんじゃないかしら』
そんな理不尽な怒りに対する愚痴を心の中でこぼしながら、私は急いでカーディエンの背中を追った。
さっきよりも一段と人が増え、きらびやかな喧騒に包まれたホールへ足を踏み入れる直前、私はふと何かを引かれるように立ち止まり、後ろを振り返った。
人影ひとつない、どこまでも真っ白で静謐な廊下。高い窓から差し込む淡い月明かりだけが、ぼんやりと冷たい闇を照らし出している。
『やっぱり、絶対にどこかで見覚えがあるんだけどな……』
本当に、私はこの景色をどこで見たのだろう。
首をかしげて記憶の糸を熱心にたどっていた私は、やがて我に返った。――今はこの謎よりも、怒って行ってしまった頑固な公爵を捕まえるほうが先決だ。
私は思考を切り替えると、慌ててカーディエンの残り香を追うように、華やかな人混みの中へと身を投じた。
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【カーディエンの不器用な独占欲】
カーディエンは、主人公が皇太子ヒステリオンに連れて行かれそうになったことに激しい嫉妬と怒りを覚え、不器用ながらも釈明する。さらにヒステリオンの勧誘に対し、「先生はメルツェデス家の人間だ」と強い言葉で自分の身内であることを断言した。
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【主人公の忠誠とすれ違う思惑】
主人公はヒステリオンの誘いを「メルツェデス家が最初で最後」ときっぱり断る。しかし、カーディエンを安心させようと「(契約終了で)この家を離れた後も他家には仕えない」と付け加えたことで、かえって「今から去る日のことばかり考えている」と彼の怒りを買い、二人の想いはすれ違ってしまう。
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【神殿の白い廊下への既視感】
密談部屋の周辺にある、人影のない真っ白で静謐な神殿の廊下の景色に対し、主人公は原作の描写とは異なる「もっと生々しい別の記憶」としての強い既視感(デジャヴ)を抱き、違和感を覚える。