こんにちは、ちゃむです。
「残された余命を楽しんでいただけなのに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
104話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 皇帝直伝の「しつけ」
「ねえ、私だってどれだけ忙しかったと思ってるの?」
ユリは腰に手を当て、ぴんと背筋を伸ばした。そして、目の前のナルモルをじろりと睨みつけながら不満そうに言った。
彼女はここジルデル王国で、自分がどれほど多忙を極めていたかを次々と並べ立てた。
王国の実務担当者たちとの度重なる交渉。
『テイサベル移送館』の設置場所の選定。
それを稼働させるための魔力供給源の確保。
『イサベルチェーン』なる新技術の導入時期の策定。
さらには、王室主導によるラーメンの供給契約に至るまで――。
「ええ、ええ。ずいぶんお忙しかったんでしょうね」
「皇女様のために、この身をどれほど尽くしてきたか分かってるの?」
「うん、たくさん尽くしてきたんだろうね」
生返事を返すナルモルを前に、ユリは久しぶりに勝利の余韻に浸っていた。
「お兄ちゃんはあっちで大忙し、私はこっちで大忙しだったの」
ユリは親指でどこかの方向を指し示した。そこがカルポア村の方角なのかは定かではなかったが、そんなことは彼女にとってどうでもよかった。
「私はずっと皇女様と一緒に過ごしてきたんだから。世界一おいしいレモンティーをご馳走になったし、お友達もできたの」
「……」
「お兄ちゃんがここで必死に戦っている間、私は皇女様と楽しい時間を過ごしてきたんだよ」
「……」
「しかもね、秘密のお友達までできたんだから!」
「……」
「アセリアっていうの。すっごく可愛いんだからね」
「へえ」
アセリアだろうがバセリアだろうが、ナルモルにとっては等しくどうでもいいことだった。
相手の反応が薄いと気づいたユリは、すぐさま戦法を切り替えた。
「私たちはみんな友達になったの。小川で水遊びもしたし、心を通わせるお話もたくさんした。皇女様とも、素敵な思い出をいーっぱい作ったんだから!」
その作戦は絶大な効果を発揮した。
ナルモルの身体が小刻みに震え始める。
「……まだお前の勝ちと決まったわけじゃない。結果が出るのはこれからだ」
「うん!」
ユリは無邪気に満面の笑みを浮かべた。その笑顔を見れば見るほど、ナルモルは胃のあたりがきりきりと痛んでくるのを感じた。どうやら完全に押し負けている気分だった。
「そういえば、実務会議があるんじゃなかったか? ナルモル・コーポレーション代表殿」
「……ああ、ある。ああもう、面倒でたまらないな」
時間に余裕はなく、急いで動かなければならなかった。本当はイサベルに挨拶だけでもしてから出発しようと思っていたのに、第二皇子セレモンが先に到着してしまったせいで、それも叶わなかった。
いったい何の用事なのか。イサベルに顔を合わせることすらできずに発たねばならないとは、何がそれほど重要だというのだろう。
不満げに歩き出そうとするナルモルに、ユリが声をかけた。
「そういえば、あれ知ってる?」
「……なんで急に丁寧な口調なんだ?」
「皇女様が髪を短く切ったの。皇女様はそれを“ショートカット”って呼んでたよ」
「え?」
ナルモルはピタリと足を止め、目を丸くした。
「髪を、短く切ったって……?」
「なによその反応。皇女様が髪を切るのがそんなにおかしいことなの?」
「いや」
ナルモルは一転して、この上なく真剣な表情になった。王室の実務陣と緊迫した会議をしている時よりも、はるかに真面目な顔だった。
ショートカットの皇女様。
それは、彼が一度も目にしたことのない姿だった。
「……ものすごく可愛いだろうな」
ナルモルの瞳の奥に火が灯る。どうやら彼は、目の前の実務会議を文字通り一瞬で終わらせて戻ってくるつもりのようだった。
皇女様の髪が、0.1ミリでも伸びてしまう前に。
ナルモルを見送ったユリがイサベルの幕舎へ向かって歩いていると、ルカイン兵長と出くわした。
「皇女様なら、あちらへ向かわれましたよ」
「ありがとうございます!」
「あ、そうだユリ。ひとつ頼みがあるんだけど」
「はい、何でしょう?」
「実は今、軍歌の問題点を色々と反省していてね。今度こそ、ちゃんと皇女様のお名前を入れた“イザベル賛歌”を作っているんだ。完成したら、まず君に評価してもらえないかな?」
イザベル賛歌。
その響きに、ユリの目がきらりと輝いた。
「いい題名ですね! もちろんです。アレナ宮で待っていますね」
ユリはルカイン兵長と別れると、彼が教えてくれた方角へと歩き出した。
(ずいぶん遠くまで来てるなぁ……)
ふと前方を見ると、黄色い花が一面に咲き誇る美しい空き地が目に入った。
(あっ! あそこにいる!)
イサベルの姿を見つけるや否や、ユリは足早に駆け出した。
花畑の中を佇む皇女様だなんて。あそこでまた新しい思い出を作れると思うと、ユリの気分は自然と高揚した。
だが、近づくにつれて奇妙な違和感が胸に生じた。遠目に見ただけでもはっきりと分かった。
(皇女様、いつもより少し元気がない……?)
イサベルの隣で優しく微笑む美青年は、間違いなく第二皇子セレモンだった。頭に不格好な花の冠を載せていたが、その卓越した容姿のせいで、まるで絵画の一場面のように幻想的だった。
しかし、ユリにとって彼の美貌などさほど重要ではなかった。アセリアの美しさがナルモルにとって無意味だったのと同じように。
(皇女様、なんだか居心地が悪そう……)
イサベルは普段と変わらぬ笑顔を浮かべていた。けれど、その笑顔はどこか作り物めいて見えた。うまく言葉にはできないが、本能的な何かがそう告げていた。
ユリはさらに歩調を速めた。
(私が助けてあげる)
友達として、世界でたった一人の親友として。どんな悩みや困難があろうとも、イサベルを無条件で支えようと、彼女は心に決めていた。
「あっ、花冠の作り方なら私が教えてあげます!」
ユリは輪の中に飛び込むと、慣れた手つきで花を編み始めた。完成した花冠は、イサベルが作ったものよりもはるかに繊細で美しかった。同じ花を使っているとは思えないほどの出来栄えだった。
「イサベル様の侍女は何でもできると聞いていたけれど、噂は本当だったんだね。こんなに美しい花冠は初めて見たよ」
セレモンが感嘆の声を漏らす。
「恐れ入ります」
ユリはそっとイサベルの様子をうかがった。花冠作りを手伝ったというのに、イザベルの纏うどこか沈んだ雰囲気は消えていなかった。
「おいしいクレープケーキを作ってきたんですけど、皆さんで召し上がりますか?」
「いいね。私もクレープケーキは好きだよ」
そう答えたのはイサベルではなく、セレモンだった。
成り行きで、セレモンも一緒にお茶の時間へ加わることになった。そこまでは特に問題はなかった。みんなでクレープケーキをおいしく食べた。
本当の問題は、その後に起こった。
「イサベル。私は君の侍女が気に入った」
「……はい?」
「私に譲ってくれ。対価なら十分に払おう」
その態度は、先ほど「一緒に外へ出よう」と誘った時と全く同じだった。断れば、金盞花畑を踏み荒らすと言い出したあの時と。
「もし私が嫌だと言ったら?」
「明日から君は、その侍女に会えなくなるかもしれないね」
言葉の真意を正確に理解するのは難しかった。連れ去るという意味なのか、それとも物理的に消すという意味なのか。正直、理解したいとも思わなかった。
セレモンは穏やかな口調のまま、さらに言葉を重ねる。
「私がこうして穏便に提案しているうちに受け入れた方が、お互いのためじゃないかな?」
イサベルは深く、大きく息を吐き出した。
「はぁ……」
その瞬間、イサベルの胸の奥から、冷たい怒りが沸々と込み上げてきた。彼女は手にしていたフォークを、テーブルの上へカタンと置いた。
「ねえ、お兄様」
――『率直に言うと何だか分からないけれど、不気味だった』
初めてその噂を聞いた時、イサベルはセレモンを少し気の毒に思っていた。ブラドック公爵がどんな教育を施したのかは知らないが、少なくともまともな育て方ではなかったのだろうと確信していたからだ。だからこそ、彼女はセレモンに優しく接してあげたいと思っていた。どんな歪な形であれ、家族なのだから。
だが、同情や哀れみとは別に――今の彼女は本気で腹を立てていた。
セレモンはケーキをもぐもぐと口に運びながら言った。
「私に敵意を向けない方がいい。私に敵意を向けた者は、みな先にあの世へ行ったからね」
ぞくりとするような言葉だった。思わず髪の毛が逆立つような錯覚を覚える。
不思議な人だった。自分への好意は本物なのに、その口から出る脅しもまた紛れもない本気だった。普通、好意を抱いている相手にここまで露骨な脅迫をするだろうか。
だが、だからといってイサベルが怯えることはなかった。
「お兄様がそうおっしゃっても、私は怖くありません。どうせ私は、お兄様より先に死にますから」
「死ぬ順番に決まりはない。確率で言えば、お前の方が先に死ぬだろうがね」
「ユリは私の侍女である前に、大切な友達なんです。お金や力で売り買いできるものではありません」
「なら、力ずくで奪えばいいのかな?」
「そういう意味じゃありません」
はあ、と心の中でため息をつく。大人しくしていれば、本当にどこまでも甘く見られるらしい。
「ユリを渡すことはできません」
「なら奪うだけだ」
「奪えませんよ」
「お前には力がないだろう?」
穏やかな顔でケーキを食べながらそんな残酷なことを言うのだから、かえって不気味極まりなかった。脅そうと意図しているわけですらなく、ただ淡々と「事実」を述べているだけのようだった。しかも、口調だけは妙に優しい。
イサベルは隣のユリへ手を差し出した。
「ユリ。ハンカチを」
「は、はいっ、皇女様」
「早く」
ユリは慌てて駆け寄り、ハンカチをイサベルの手に握らせた。イサベルはそれを受け取るや否や、セレモンの胸元へ向かって躊躇なく放り投げた。
「お互いに望むものが違うなら、決闘で決めればいいでしょう?」
「君とは戦わないよ」
「なぜですか?」
「他の人間なら殺しても構わないが、皇族だけはできる限り殺すなと教えられているからね」
……他の人間なら殺してもいい。皇族は“できる限り”殺すな。
いったいブラドック公爵家では、どのような教育を施しているのだろうか。
「私が自分で戦うとは言っていませんよ」
「なるほど。黒騎士を使うつもりか。それは悪くない考えだね。理にかなっている」
セレモンはフォークを置き、にこやかに微笑んだ。どうやら、イサベルの決闘の提案を非常に合理的だと評価したらしい。
その時、背後に控えていたビアトンが困ったような表情で一歩前へ出た。
「皇女様。私は困ります」
「分かっています。今の件では、あなたが最も当事者に近い立場ですものね」
決闘にはいくつかの厳格なルールがある。けれど、今のイサベルにはそんな規則などどうでもよかった。どうせ最初から、ルールに従ってビアトンを黒騎士として指名するつもりなど毛頭なかったのだから。
「後悔しないでくださいね、お兄様」
イサベルは不敵に微笑んだ。
私はまだ子どもだ。子どもには、子どもなりの戦い方がある。お兄ちゃんと本気で大喧嘩をするとき、最後に繰り出す最強の切り札が。
「お父様に全部言いつけるから」
ビアトンはイサベルの手紙を受け取ると、すぐに立ち上がった。
「私が急いで行ってまいります。数時間もあれば戻れるでしょう」
「えっ? そんなに早いの?」
「まだナルモル様へご報告されていないのでしょう?」
詳しくは知らないが、ナルモルは裏でかなり頑張っているらしかった。ジルデルのベースキャンプと皇宮を結ぶ『テイサベル移動路』を整備し、すでに試験運用まで始めているとか何とか。
「それでは、行ってまいります」
そう言うと、ビアトンはイサベルの右手の甲にそっと口づけを落とし、あっという間にその場を去っていった。
この騒動を聞きつけたのか、アルミテル中将が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「皇女様、お話は伺いました!」
「情報が早いですね」
自分が広めたわけでもないのに、ジルデルのベースキャンプ中に噂が一気に駆け巡っているらしい。まさに「悪事千里を走る」という言葉の通りだった。
「本当に、皇帝陛下が直々にお越しになるとお考えなのですか?」
「来てくださるなら嬉しいですね」
そうすれば、お父様の顔をもう一度見られるのだから――もちろん、その可愛らしい本音までは口にしなかったが。
アルミテル中将の表情には、濃い不安の色が浮かんでいた。
「分かっています。お父様がお忙しいことも、来られない可能性の方が高いことも」
「もし、本当にそうなった場合は……不肖この私が黒騎士として名乗りを上げましょうか?」
そこまでは考えていなかった。今のアルミテル中将なら、もしかするとセレモンより強いかもしれない。
「そのお気持ちは心強いですが、その必要はないと思います」
「……そうなのですか?」
「少なくとも、お父様は私の手紙を無視なさったりはしませんから」
お父様が直接来られないとしても、必ず強力な代理人を立てるはずだった。皇帝である以上、それだけの権限も力も持っているのだから。
イサベルはにっこりと笑った。
「誰かは、必ず来てくれるはずです」
「……そこまで見越していらっしゃるのですか」
アルミテル中将が感心したように呟き、イサベルは頷いた。冷静に考えれば、ごく当たり前の話だった。“見越していた”なんて言うほど大げさなことではない。自分には特別なところなど何もないのだ。ただ、アルミテル中将が自分を買いかぶっているだけなのだろう。
「はい。誰だってそう考えると思いますよ」
アルミテル中将は、なぜか深く感慨深げな表情で頷いた。どうして彼がそんな顔をしているのか、イサベルにはよく分からなかった。
「それでも……やっぱり、お父様が来てくださるのが一番嬉しいです」
その頃、ジルデルのベースキャンプには異様な緊張感が漂っていた。
「おい、ルカイン。あの話を聞いたか?」
「話って?」
「皇帝陛下が視察に来られるらしいぞ」
「何だと、この野郎!?」
休憩していた兵士たちは一斉に飛び起き、ほうきやちり取りを手に外へ飛び出した。
「おい! あそこに雑草があるぞ! 抜け、抜け!」
「歯ブラシを持ってこい! 地面を磨け!」
「その木くずは何だ!? 今すぐ片付けろ!」
ベースキャンプ全体がひっくり返ったような大騒ぎになった。
「いや待て、本当に皇帝陛下が来るのか? 確かな話なのか?」
「皇帝陛下だけじゃない。皇后陛下も――」
「皇后陛下もご一緒に来られるそうだ!」
アルミテル中将は、中将としての威信をかけ、皇帝夫妻を迎える準備に全力を注いだ。
「警備体制を徹底しろ! それから外壁や施設の状態を隅々まで確認し、必要な箇所は即座に補修するんだ!」
そうして間もなく、皇帝と皇后を乗せた馬車が到着した。
ジルデルのベースキャンプの兵士たちは極度に緊張し、軍服にほこり一つ付いていないか何度も確認していた。だが、当のロンはそんなことをまるで気にしていなかった。兵士たちの軍服に土が付いていようが、彼にとっては些細なことだった。
ロンを乗せた馬車は、そのまま真っ直ぐイサベルの幕舎へと向かった。
「お母様!」
イサベルは馬車から降りてきたセレナの姿を見るなり、迷わず駆け寄った。特別な理由があったわけではない。セレナの方が近くにいたし、何より久しぶりの再会が嬉しかったからだ。
セレナはイサベルのショートカット姿を見て、優しく目を細めた。
「よく似合っているわ。とても可愛い」
そう言いながら愛おしそうに頭を撫でると、イサベルはその手の温もりを嬉しそうに受け入れた。やがてセレナが茶目っ気たっぷりに口を開く。
「ほら見なさい。最初に私のところへ来たでしょう? 私の勝ちね」
「……」
「私が勝ったんだから、セレモンにはあまり厳しくしないであげて。あの子も可哀想でしょう?」
夫であるロンに釘を刺すセレナを見ながら、イサベルは今度はロンへ向かって両腕を広げた。ロンは少し戸惑いながらも腰をかがめ、小さな娘をそっと軽く抱きしめた。
「それで、あの失礼極まりない手紙の件は何だ?」
「……えへへ」
ロンは親指と人差し指で、イサベルが送った手紙をつまみ上げた。
実のところ、ロンは手紙を受け取った時、あまりの文面にその場で大笑いしてしまっていた。書き出しの一文はかなり気に入っていたのだ。
【親愛なるお父様へ】
だが、その後の内容が少々問題だった。
【セレモンお兄様にいじめられました。ユリを奪うと脅されたんです。とても怖かったです。お父様が代理人になってくださると嬉しいです。】
――末娘、イサベルより
「まるで子どもの書く手紙じゃないか」
「子どもですから」
「それはそうだな」
「どうせ詳しい事情は、ビアトン先生が説明してくださると思っていましたし」
「だからといって、この短い手紙一枚で皇帝を動かそうとするのは、ずいぶん図々しい発想だな」
イサベルの声が少しだけ小さくなった。
「皇帝陛下を呼んだつもりじゃなくて……」
「では?」
「お父様を呼んだんですけど……」
ロンの肩がぴくりと動いた。イサベルは恐る恐る彼の顔を覗き込む。
「もしかして、図々しかったですか?」
勢いで父を呼びつけてしまったものの、いざ本当に本人が目の前に現れると急に不安になってきた。兄妹げんかに父親を巻き込んでしまったようなものだからだ。
そんな娘を見つめながら、ロンは口元をわずかに緩めて言った。
「もっと図々しくなれ」
ロンはイザベルの頭をひと撫でして歩き出した。そして、ジルデル・ベースキャンプで最も広い第一訓練場へと向かう。
そこにはすでにセレモンが到着しており、大勢の兵士たちがそれを取り囲んでいた。これほど多くの人間がいるにもかかわらず、訓練場は水を打ったように静まり返っていた。
訓練場の中央に立っていたのは、一本の木剣を手にしたロンだった。真剣すら持っていないというのに、この広大な空間そのものがロン一人の圧倒的な存在感で支配されているかのようだった。
腰に真剣を帯びたセレモンが口を開いた。
「まさか本当に来てくださるとは思いませんでした、お父様」
いつの間に穏やかな笑みを浮かべていたが、その声の微かな震えまでは隠しきれていなかった。
ロンは無表情のまま答えた。
「剣を取れ」
「お父様と剣を交えられるとは光栄です」
「剣を交える場ではない」
「では、何をする場なのですか?」
その瞬間、ロンの姿が視界から完全に消えた。一流の暗殺者であるセレモンにすら、その動きを視認することなど不可能だった。
「しつけだ」
次の瞬間、乾いた、重苦しい打撃音が響き渡った。
だが、周囲で見守る一般兵たちには何が起きたのか全く理解できなかった。彼らの目には、皇帝の姿が消えたり現れたりしているようにしか見えなかったのだ。
「おい、ルカイン。俺の目がおかしいのか?」
「いや、安心しろ。俺にも同じように見えてる」
「皇帝陛下が、なんかずっとチカチカしてるんだけど……残像まで見えるぞ?」
「“チカチカ”が何なのかは分からんが、俺にも説明できん」
「だよな? ただ、なんかこう……バシッ、ドカッ、シュッ、ピカッ、ズドン! って感じだろ?」
ドゴォン! バキィン!
表現としては酷いものだったが、兵士たちには今目の前で起きている超次元の光景を言い表す言葉が、それ以外に見つけられなかった。
ロンは地面に無残に倒れ込んだセレモンを、冷徹に見下ろした。
「敗北を認めるか?」
「認めません」
セレモンはふらつきながらも、不気味な笑みを崩さず立ち上がった。
そして――再び全く同じ衝撃が走る。
ドゴォン!
「敗北を認めるか?」
「認め……ません」
バキィン!
「敗北を認めるか?」
「まだ……認めません」
凄惨なやり取りが、何度も、何度も機械的に繰り返された。
「敗北を認めるか?」
「まだ……認めません……」
ドサッ!
セレモンはついに、完全に地面へ頽れた。これ以上、肉体を動かすことすら不可能な限界だった。
決闘の立会人を務めていたアルミテル中将がすぐに駆け寄り、セレモンをかばうように前へ出た。
「決闘は終了です。勝者は皇帝陛下となります!」
「いや。勝者はイサベルだ」
「……仰る通りです。黒騎士として決闘に参加された以上、勝利者はイサベル皇女殿下となります」
これを果たして決闘と呼んでいいのかは甚だ疑問だったが、ともかく勝負は決した。
ロンはピクリとも動けなくなったセレモンを見下ろして、静かに言い放った。
「敗者は勝者に礼を尽くせ」
セレモンは苦しそうに、血の混じった浅い息を吐きながら顔を上げた。
「……承知しました」
その掠れた返事を聞いたロンは、満足そうにひとつうなずくと、一瞬で興味を失ったように背を向けて歩き出した。
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ユリの自慢とナルモルの執念
ジルデルでの多忙を極めた功績や、イサベルとの楽しい思い出を並べ立ててナルモルにマウントをとるユリ。敗北感を味わうナルモルだったが、イサベルが髪を短く切った(ショートカットにした)と聞くや否や、その姿を見るために実務会議を最速で終わらせて戻ることを誓う。
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セレモンの強欲とイサベルの切り札
花畑でユリを気に入ったセレモンは、力ずくで奪おうと「明日から彼女に会えなくなるかもね」とイサベルを容赦なく脅迫する。激怒したイサベルは決闘を申し込むが、自身が戦うのではなく、最終にして最強の切り札「お父様(皇帝ロン)に全部言いつける」という手紙を送る。
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皇帝ロンの親馬鹿な臨席と「しつけ」
愛娘の手紙を受け取り大笑いしたロンは、皇后セレナと共にベースキャンプへ直々に急行。決闘(黒騎士)の場に木剣一本で現れると、異次元の速度と圧倒的な力でセレモンを容赦なく叩きのめし、父親としての「しつけ」を完了させてイサベルに勝利をもたらした。