こんにちは、ちゃむです。
「残された余命を楽しんでいただけなのに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
112話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 狂気の温もり
静寂と不気味な気配に包まれた、ブラドック公爵家の本邸。
公爵家に仕える使用人たちは、いずれも熟練の暗殺者ばかりだという噂がある。あまりの生命感のなさに、(本当にここには人が住んでいるのだろうか……?)と疑問を抱かずにはいられなかった。
目の前にそびえる公爵邸を見上げる。高く切り立った城壁は巨大なツタにびっしりと覆われ、まるで時代に取り残された古びた要塞のようだった。
ギィ――……。
重々しい不快な音を立てて、黒ずんだ巨大な門が、誰もいないのにひとりでに開いた。
門番の姿すらない。公爵邸というよりは、完全に打ち捨てられた廃城だ。人の気配も、生活の匂いも一切感じられない。あまりの静けさに、道や場所を間違えて迷い込んでしまったのではないかと不安が押し寄せる。
(なんだか……すごく不気味な場所ね)
私の心の動揺を察したのか、隣を歩くビアトン卿が静かに補足してくれた。
「おそらく、本当に必要な時でなければ使用人たちと顔を合わせることはありません。彼らは存在そのものを消し、極めてひっそりと行動していますから」
たとえば、朝目覚めれば頼んでもいない朝食が完璧な状態で用意されていたり。トイレを探して廊下を歩けば、何もなかった空間に突如として案内の矢印が浮かび上がったり。何か必要なものがあれば、空間に向かって呟くだけでいいのだという。
「どこかで透明な幽霊たちが自分の話を聞いて世話をしてくれている、と思えば気が楽でしょう?」
笑顔で語るビアトン卿だったが、それはそれでかなり怖い話だった。
横からセレモンお兄様が穏やかに声をかけてくる。
「今日、このまま『ガラスの湖』を見に行く?」
「はい!」
ブラドック公爵家を取り巻く空気はどこか肌寒く、一刻も早く立ち去りたいと感じていた。人間味や人の温もりが一切存在しないこの場所から、早く抜け出したかったのだ。
「そうだね。ここから馬車で一時間ほど行けば着くよ。ガラス湖の真ん中に船を浮かべて、昼食にしよう」
そう言って、セレモンお兄様は手にしたピクニックバスケットを軽く持ち上げてみせた。いつの間に準備したのだろう。足元でキムボルボルが鼻をひくひくさせているのを見る限り、中には飛び切り美味しそうなものが入っているに違いない。
「お兄様がご自分で用意されたんですか?」
「ああ。君の専属の侍女であるユリの腕前には及ばないだろうけれど」
「そんなことありません! お兄様が私のために準備してくださったというだけで、とっても嬉しいです。楽しみです」
「……そんなふうに言われると、なんだか気恥ずかしいね」
困ったように微笑む姿を見ていると、本当に優しくて善良なお兄様に思える。だからこそ、出会った頃に何のためらいもなくベルクルを殺そうとした過去を思い出すと、背筋に冷や汗が流れた。
ともかく、私たちは目的地の「ガラスの湖」へと到着した。
ガラスの湖は、数千年前の巨大な火山噴火口に、果てしない時間をかけて澄み切った水が溜まってできた神秘的な湖だという。
馬車を降り、眼前に広がる光景を目にした瞬間、私は息を呑んだ。
「わあ……!」
あまりにも水が透き通っていて、はるか深底にある小さな小石の模様までが、まるで目の前にあるかのように鮮明に見えた。
「本当に綺麗……人魚でも住んでいそうですね」
「人魚なら、もういないよ」
「え?」
「みんな死んじゃったからね」
「…………」
突然の惨劇を思わせる言葉に、ビアトン卿が「コホン」と露骨な咳払いをした。
「皇子様、それは冗談としてはあまり感心できませんね」
注意を受けたセレモンお兄様は、少し戸惑ったような表情を浮かべた。まるで(え? あれって冗談だったの?)と心から不思議がっているような顔だ。
「……お兄様、今のは冗談だったんですか?」
「面白くなかったかな?」
「……ご希望でしたら、次は笑いどころを工夫してみますけれど」
「いや、いいよ」
幸か不幸か、お兄様の話は真実ではなかった。ビアトン卿が静かに説明を引き継ぐ。
「ガラス湖の水はあまりにも澄み切っているため、生き物が何ひとつ生息できません。魚すら住めない極限の環境なのです。ですがこの湖には、攻撃系統の魔法が一切通用しないという非常に不思議な特性が存在します」
「水なのに電気を通さないんですか?」
「ええ。母からも聞いたことがあります。不思議な話ですが事実です」
私の胸の中で、前世の知識がカチリと噛み合った。
「天然の『超純水』ということですね!」
「……超純水、ですか?」
「不純物や有機物、電解質が極限まで取り除かれた、非常に純度の高い水のことです。何重もの自然ろ過を経て作られた、完璧な超純水なんですね!」
専門用語を口にして興奮する私を見て、ビアトン卿は楽しそうに「ははっ」と声を立てて笑った。
「人魚姫が住んでいないのは少し残念でしたけれど、超純水を見つけられて嬉しいです!」
現代世界において、超純水は半導体の製造工程に欠かせない極めて価値の高い存在だ。(テイソンおじい様やカリン先生が研究すれば、魔法工学の世界に革命を起こせるかもしれない……!)
「皇女様がそこまでお喜びになるなら、連れてきた甲斐がありました」
「はい! とても嬉しいです。ビアトン先生は嬉しくないんですか?」
「何であれ、皇女様がお喜びになるなら私も嬉しいですよ」
ビアトン卿は、どこか未練を残した様子で尋ねてきた。
「それでは……人魚のような不思議な生き物がいなくても、それほど残念ではないのですね?」
まるで私から「やっぱりちょっと残念」という言葉を引き出そうとしているかのような聞き方だった。少しだけ残念がってみせたほうが、先生は満足するのだろうか。
「……本当に、生き物は何もいないんですか?」
少しだけ名残惜しそうな表情を作ってみせると、案の定、ビアトン卿の顔が緩んだ。
「ええ、残念ながらいかなる生物も生息できない環境です」
「どんな生き物も?」
「ええ、どんな生き物も」
「じゃあ……龍も住めないんですか?」
「ふーむ……」
ビアトン卿は少し考え込んだ後、顎に手を当てた。
「私も定かではありませんが、龍ならばあるいは生きられるかもしれません。溶岩の中でさえ生存すると言われていますから。真偽のほどは分かりませんがね」
「本当です!」
思い出した。原作小説の中でほとんど登場しなかったものの、溶岩の中に潜む「火竜」という存在の設定があったはずだ。
「本当にそう信じていらっしゃるのですか?」
「はい!」
「なるほど……そう信じていらっしゃるのですね」
ビアトン卿はどこか深く満足したように、目を細めて微笑んだ。何がそんなに彼を喜ばせたのかは分からなかったが、愛情に満ちた温かな眼差しを向けられ、私も心がぽかぽかと温かくなった。
(それにしても、こんなところで超純水を発見できるなんて思いがけない幸運だわ。魔導工学の発展に大きく貢献できるはず……!)
◇
私たちは湖畔に繋がれていた小さな舟に乗り込んだ。大人三人が乗れば足の踏み場もなくなるほどの小舟だ。
「櫓は私が漕ぎましょう」
「いや、私が漕ぐよ」
「皇子様が、ですか?」
「ああ。今日のために練習してきたんだ」
「……かしこまりました」
事前に練習してきたという言葉に偽りはなく、セレモンお兄様の櫓捌きは完璧だった。
「わあ、本当に速いです!」
「なかなか上手だろう?」
「はい! カヌー大会に出たら余裕で優勝できますよ!」
舟は静かな湖面を滑るように進み、後ろには美しい白い波紋が描かれていく。私は舟の縁から身を乗り出し、どこまでも透き通る水面を見つめた。
「足を浸けてもいいですか?」
すかさずビアトン卿から制止の声がかかる。
「浅く見えますが、ここは水深が五百メートルを超えています。おやめください」
「えっ!? 五百メートル以上!? 信じられません!」
湖底の小石がすぐそこに見えるため、せいぜい大人の腰ほどの深さにしか思えなかった。あまりにも透明度が高すぎるゆえの錯覚なのだ。
「世界で十番目に深い湖なのですから」
「じゃあ、足を浸けるのも危険なんですか……?」
見渡す限り、まるで巨大な水晶の鏡の上に浮いているような錯覚に囚われる。少し離れた水面には、空の青と白い雲がそのまま寸分違わず映し出されていた。
どんな絵画よりも美しい光景。
「危険だと思えば、私が支えますから」
「そ、それはそうですが……」
ビアトン卿のような規格外の騎士にとってみれば、五百メートルの水深など大した障害ではないのだろう。
「ビアトン卿が隣にいてくだされば、水深五百メートルどころか、五百メートル級のモンスターが現れても怖くありません!」
「しっかりと私の手を握っていてください。水温が想像以上に低いので、少しだけですよ」
「はい!」
私は舟の縁に腰掛けた。しかし……悲しいかな、自分の足が短すぎて、どう足を伸ばしても水面に届かない。
(私……なんでこんなに足が短いの!?)
私が自分の体型の幼さにショックを受けて固まっていると、ビアトン卿は困ったように小さくため息をついた。そして私の両脇にすっと手を差し入れると――
ふわりと体が宙に浮いた。
彼が長い腕をそのまま伸ばし、私を抱え上げたのだ。
「ちょ、ちょっと待ってください先生!?」
ビアトン卿は慎重に私の体を下ろし、足先だけを水面に着水させた。
「……つ、冷たい!」
「冷たいですか? では上げましょう」
またひょいと持ち上げられそうになり、私は慌てて脚をバタつかせた。
「まだです! まだ出ないで! あと一分だけ!」
「……一分ですね」
冷たさに身を縮めながら、パシャパシャと足を揺らす。
水しぶきが小さく跳ねるたび、波紋が広がり、そこに映る空が揺れた。揺れているのは湖面なのか、それとも空そのものなのか。可笑しくなって「ふふっ」と笑い声が漏れた。
約束の一分が経過すると、ビアトン卿は私を軽々と抱き上げて舟の中へと戻してくれた。
今日もまた、胸が押し潰されそうなほど幸福な時間だった。
(私……すごく幸せ)
満たされた気持ちになると、不思議とお腹が空いてきた。ちょうどそのタイミングで、ビアトン卿が「一分経ちましたよ」と告げた。
「はい!」
お腹が空いたから慌てて返事をしたわけではない。本当だ。
「花より団子」ということわざもある。まずは何か食べようと、私はセレモンお兄様が持ってきたバスケットからサンドイッチを取り出した。芳醇な香りに、思わず鼻がピクッと動く。
「サンドイッチ、とっても美味しそうです!」
大きな口を開けてサンドイッチに噛みつく。ユリの作る料理には食べ慣れているはずなのに、このサンドイッチは負けず劣らず絶品だった。絶景という最高の調味料が利いているのかもしれなかった。
「わあ、この葡萄ジュースもすごい! とっても美味しいです!」
濃厚で芳醇な果汁の味わいに目を丸くする。ビアトン卿もジュースを口にし、驚きを隠せない様子だった。
「これまで飲んだどの葡萄ジュースよりも素晴らしい出来ですね」
「手作りの葡萄ジュースなんだ。口に合ってよかった」
その瞬間――ビアトン卿の表情がピキリと凍りついた。
「……手作り、とおっしゃいましたか?」
ビアトン卿の瞳に、鋭い警戒の色が走る。
「ええ。それが何か……?」
「どうして……っ」
ビアトン卿の言葉がそこで唐突に途切れた。急激に全身の筋肉が強張り、彼の手からグラスが滑り落ちそうになる。様子が明らかにおかしい。
「どうしたんですか、ビアトン先――」
声をかけようとして、私も異常に気づいた。先生へ伸ばそうとした自分の腕が、ぴくりとも動かないのだ。
(え……? 動かない……?)
手足だけでなく、舌すらも喉の奥で痺れ切り、声一つ発することができない。全身が完全な石に変わってしまったかのような強烈な麻痺。
舟の上に、異質な静寂が落とし込まれた。
静けさの中、セレモンお兄様が穏やかすぎる声で口を開いた。
「ビアトン卿。ずいぶん油断したね」
「…………」
「君ほどの領域に達した実力者でも、その解毒には最低六時間はかかる。無理に魔力を巡らせようとすればかえって毒の回りが早くなるから、大人しく動かないのが身のためだよ」
ゆっくりと差し出されたセレモンお兄様の手が、麻痺して動かない私の頬に優しく触れた。
その手は、先ほどまでと変わらず温かかった。けれど、そこに込められた気配は、数分前までのものとは根本から異なっていた。
背筋を氷の針で刺されたかのような、恐ろしい寒気が走り抜ける。
(な、何が起きているの……!?)
お兄様の手からは、どこまでも純粋で透き通るような生命の波動――そして、狂気的なまでの「強烈な好意」が、濁りなく伝わってきていた。
◇
――数日前、ブラドック公爵領。
セレモンは、自身の養育係であり父親代わりでもあるブラドック公爵の執務室を訪れていた。
「お聞きしたいことがあります」
「何だ?」
自ら進んで他者に質問を投げかけるなど、これまでのセレモンにはあり得ない行動だった。影として育てられ、自我を持たぬ機械であるはずの男に「感情」の芽生えが見られる。
しかし、公爵はその変質を咎めることなく、ただ冷徹な眼差しで彼を見据えた。
『何がこの影の心をここまで乱しているのだ?』
暗殺者の世界において、感情は死に直結する不要な毒だ。影はどこまでも影として存在し、思考を捨てて任務を完遂せねばならない。
ブラドック公爵は淡々と問いを重ねた。
「悲しみという感情に興味を持ったと言っていたな。他人の感情を共有し、理解してみたい、と」
「はい」
影にとって、それは果てしなく贅沢な望みだった。悲しみを知り、人の心を得ること。それは人間として生まれた者だけが味わうことを許された特権だ。
公爵は冷ややかな声で、試すように問いかけた。
「……今、お前に『周りにいる人間を全員殺せ』と命じたとして、最後まで殺したくない相手は誰だ?」
「イザベルだと思います」
もし仮に「お前にとって最も大切な者は誰だ」と問われていたなら、セレモンは答えることができなかっただろう。彼にとって「大切」という概念はあまりに曖昧で、理解の及ばないものだったからだ。
だが、「誰を最後まで生かしたいか」という淘汰の問いであれば、答えは明白だった。
公爵の口元が、歪な笑みを刻む。
「……ならば、イザベルを一度殺してみるといい」
「…………」
「なぜですか?」
「常にビアトン卿が護衛として張り付いている。暗殺は容易ではない」
「状況を作ればいい。ビアトンを無力化し、皇女を確実に始末できる完璧な状況をな」
「…………」
「皇女をその手で失ってみろ。そうすれば、お前が知りたがっていた『悲しみ』の正体が嫌というほど理解できるはずだ」
ブラドック公爵の瞳が、不気味な血の赤へと染まった。
血術による精神支配――洗脳。
十数年前、公爵は自らの血をセレモンの体内に注ぎ込み、特定の引き金でいつでも発動するよう呪刻を施していたのだ。
命じられるがまま、セレモンは何かに操られた人形のように、ゆっくりと頷いた。
彼が執務室を去った後、ブラドック公爵は誰もいない空間に向かってポツリと問いかけた。
「これで……問題ありませんか?」
空中に、圧縮された黒い魔力が揺らめき、禍々しい骸骨の輪郭を結んだ。
『はい。実に円滑に処理できました。予想以上に本人の抵抗が強かったですが……洗脳は完璧に完了しています』
謎の存在への報告を終えると、ブラドック公爵は静かに上着を脱ぎ捨てた。剥き出しになった彼の背中には、黒く蠢く骸骨の刺青が深く刻み込まれていた。
「いいえ。私はただ、与えられた使命を果たしたまでに過ぎません」
空中に浮かんでいた骸骨の紋様が揺れ、吸い込まれるように公爵の背中の刺青へと溶け込んでいく。公爵は一瞬だけ、全身を酷い戦慄に震わせた。
「お気遣い感謝いたします。ええ……全ての仕事が終わり次第、私もあちらへ戻ります」
何事もなかったかのように上着を羽織り直し、身なりを整える。
ブラドック公爵邸は、今日も不気味なまでに静まり返っていた。
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ガラスの湖での平和で幸せなひととき
不気味なブラドック公爵邸を離れ、生き物が住めない澄み切った「ガラスの湖」へ到着したイザベルたちは、小舟に乗って足を浸したりサンドイッチを食べたりと、心温まる穏やかな時間を過ごした。
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セレモンの裏切りと毒による麻痺
手作りのぶどうジュースに仕込まれた特殊な毒により、ビアトン卿とイザベルは全身が石のように麻痺してしまう。セレモンはイザベルへの狂気的な好意と温かな手を向けながら、静かに二人を無力化した。
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ブラドック公爵の血術(洗脳)と黒幕の影
この惨劇は、「悲しみ」という感情を知りたがっていたセレモンに対し、背中に骸骨の刺青を持つブラドック公爵が呪刻(血術)を発動させて洗脳し、謎の存在の指示のもとでイザベルを殺害させようと裏で糸を引いていたためだった。