こんにちは、ちゃむです。
「余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
57話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 狂気の主治医
「リビアさんの言ったとおりです。彼が、まさに行方不明になっていたセレベル・ナディルだったんです」
ドクン。
心臓が大きく沈んだ。
もちろん、予想はしていたことだ。彼から読み取った記憶が、私の知っているセレベル・ナディルの情報と完全に一致していたからだ。
けれど、頭で予想していたことと、それを目の前で直接確認することはまったく違った。
「セレベル・ナディルが、どうしてイグリッドの……」
私は下唇をぎゅっと噛み締めた。
神殿の地下で目撃した、あの秘密の空間と祭壇の光景が脳裏によみがえる。
そこに刻まれていた言葉。
――望むものは、ただ一つ。
――我らが神の復活……。
「復活、ですか」
レモンがかすかに笑った。しかし、そのレモン色の瞳はひどく冷え切っていた。
「セルレベル・ナディルを生贄にしたことと、神イグリッドの復活には何か関係があるのでしょうか?」
「そうかもしれませんね」
「いずれにせよ、その孤児院を調べなければならないことだけは確かですね」
チミアーレは必死にため息を押し殺した。
掘れば掘るほど、はっきりとした輪郭は見えないまま、ただ得体の知れない尻尾だけをつかんでいるようなもどかしい気分だった。
だが、決定的なものが一つある。
それは、イグリッドの追従者たちを率いるリーダー、ジェフリーの日記にも登場していた「彼女」という存在の正体だ。
『なぜカディエンの夢が浮かんだりするんだ?』
カディエンを救った少女のふりをし、彼を誘惑していたあの女。その声には、人間の欲望をそそのかすような毒があった。
『もし、あの女とイグリッドに何か関係があるのなら。カディエンが祭壇の上へ引きずり上げられたのも、あの女のせいなのかもしれない』
『確かめなければ』
イグリッドの手がかりは、ここまでだった。
大臣官邸の保育院とセレベル・ナディルの記憶、ジェフリーの日記、そしてカディエンの夢。
一つひとつが重要であるはずなのに、それらをつなぐ確かな糸が見つからない。
『それに、ジェフリーの日記はほとんど解読できたけれど……』
イグリッドに関する内容は一部だけで、残りはほとんど日常的なことが書かれていた。その中には私についての話も多く含まれており、文字を追うたびに胸が痛んだが、大局的な手がかりにはならなかった。
『カディエンの夢は……。』
実のところ、カディエンの夢もそれほど大きな成果をもたらさなかった。
夢には重要な示唆が含まれていたものの、肝心の夢の主であるカディエン自身が、目覚めると内容を忘れてしまうのだ。
今回も、彼が正体不明の女性と手をつないだあとの記憶を鮮明に残していたなら……。
『でも、だからこそ意図的に記憶を消された可能性が高い』
もし彼らが本当にカディエンをわざわざメルチェデスへ送り込んだのだとしたら、都合の悪い記憶を残したままにしておくはずがない。
大神官の孤児院もイグリッドと関係があることが分かっただけで、その奥にある深層までは突き止められていない。セルレベル・ナディルについても同様だ。
『まるで、濃い霧がかかっているみたい』
目の前には確かに道があるのに、深い霧が立ち込めていて、その向こうに何が待ち受けているのか分からない。
まるで、誰かが「知ってはいけない何か」を必死に隠しているかのように。
しかも、原作小説である『みんな聖女様だけが好き』の中には、イグリッドについての記述はまったく存在しなかった。
つまり、今回は原作の情報に頼ることもできない。
もしイグリッドがカディエンと関係していなかったら、そして、また私一人でこの謎を追っていたなら、とっくに心が折れて諦めていたかもしれない。
それでも――。
『諦められない』
たとえ私がここを去ることになっても、レモンとの関係がここで終わることになっても、私は必ずイグリッドがカディエンに何をしたのかを突き止めるつもりだ。
『そうしてこそ、カディエンが原作の残酷な運命から抜け出せるはずだから』
そう心に誓いながら、私は目の前のレモンを見つめ直した。
「貴重な情報をありがとうございます。レモンさんは引き続き、あの保育院を注視していてください」
「そうしましょう」
「それから……私からも情報をお伝えします。ただ、これが私からの最後の情報になるかもしれません」
私の言葉に、レモンの目がわずかに見開かれた。
私は苦笑を浮かべるしかかった。
そう。私がレモンの母親の死について知っている手がかりは、全部で三つだ。
原作のレモンはもっと多くの真実を知っていたのかもしれないが、彼は物語の主人公ではないため、原作での登場もどこか不鮮だからだ。
だからこそ、この最後の手庫はできるだけ後回しにしたかった。
私たちの取引において、私が持っている切り札はこれですべてだ。
このまま最後の手がかりを明かしてしまい、レモンがそのまま去ってしまったとしても、私は何も引き止められない。
それでも……。
「最後の手がかりは、『塔』です」
「塔?」
レモンが意味を測りかねるように、わずかに眉をひそめた。
私はゆっくりと視線を下へ落とした。
塔。
原作『みんな聖女様だけが好き』の中で、かつてレモンが私の背中を押してくれたあの場所。
そこでレモンは――。
「あなたのお母様は亡くなる直前、ある塔のてっぺんに何かを隠していたんです」
母が命を懸けてまで隠そうとしていたもの。
それが具体的に何なのか、その言葉が何を意味するのかは、原作を読んだ私にも正確には分からない。
ただ、「それ」がレモンの母親の死に決定的な役割を果たしたことだけは紛れもない事実だった。
もう一つ。
「……それから、これは私の強い推測ですが、レモンさんのお母様の死には、イグリッドも深く関係しているような気がします」
「……なぜそう思うんですか?」
レモンが無表情なまま静かに尋ねる。
私は意図的に唾を飲み込み、まっすぐ彼を見据えた。
「まず、殺害方法が高度な『神聖力』だったという点です。ですが、神官の中で人を一瞬で殺せるほど強大な神聖力を持つ者はそう多くありません。それに、あなたのお母様はごく普通の下級神官でした。権力闘争や組織の陰謀に巻き込まれるような立場ではなかったはずです。それなのに、神聖力に関わる誰かの秘密を探っていたということは――神殿、あるいは神殿の裏に巣食う者たち。そして最後に……」
私は動揺を見透かされないよう、目に力を込めて言った。
「最後は……私の勘です」
「……はい?」
レモンは乾いた笑いを漏らした。だが、私にはこれ以上論理的に説明する言葉がなかった。
自分でもあまりに荒唐無稽で無責任な話だと思ったが、私はわざと胸を張り、堂々とした態度で彼と向き合った。
レモンはしばらくの間、私をじっと見つめていたが、やがてふっと力の抜けた笑みをこぼした。
そして、かすかに笑みをたたえたまま言った。
「そんなに身構えなくてもいいですよ」
「それは……」
「信じます。まあ、ほかの人間だったら、気に入らないというだけでとっくにその顔を潰していたかもしれませんけどね」
天使のように美しい顔で、サラリと物騒なことを言い放つ。
彼はにっこりと微笑んで私を振り返った。
「リビアさんですから。信じますよ」
「……」
私は言葉を失い、しばらく彼を見つめてからゆっくりと口を開いた。
「不思議ですね」
「何がですか?」
「その……レモンさんは、徹底的に確実な情報だけを見て動く人じゃないですか」
情報ギルドの首長なのだから。
彼が信頼するのは、あくまで厳密に検証されたデータだけのはずだ。
それなのに、さっき私が口にしたのは情報というより、何の客観的根拠もない単なる勘にすぎない。
それなのに、どうして私を信じるというのだろう?
本当に、私の知っているあの冷徹なレモンなのだろうか。
「そうですね。私は情報だけを信じます。人間は信じません」
「それなのに、どうして私は……」
「リビアさんは、ただの人間ではありませんから」
私を見つめる彼の瞳に、深い感情が宿った。
それが愛情と呼べるものかは分からないが、そこには揺るぎない信頼の色があった。
「リビアさんは、私の運命の蝶ですから。だから……」
そう言って、レモンは目を細める。
「これからもよろしくお願いします」
それは、彼と私の同盟関係がさらに延長されたことを意味する言葉だった。
—
しばらく言葉を交わしたあと、私は図書館をあとにした。
「あ、そうだ」
出口を出る直前、私はふと足を止めて振り返った。
レモンが不思議そうな表情でこちらを見つめている。
私は彼に向かって小さく頭を下げた。
「あのときは、ありがとうございました」
「……? 何のことです?」
彼は理解できないというように首をかしげる。
「セレモニーのときです。あのとき火を見ていた人、レモンさんですよね?」
私が能力を発揮した際、式場の火が一時的に消えたあの出来事のことだ。
当時は余裕がなくてそのまま流してしまっていたが、今になって考えてみれば、誰かが意図的に私のためにあの火を消してくれたのだと気づいた。
「ずっと私を見ていたって言ってましたよね。レモンさんが」
「ああ」
レモンはうなずき、ふっと小さく笑った。
「私たちの仲で、何を今さら」
『私たちの仲』だなんて。
他の人が聞いたら誤解しそうな言い回しだなと思いながら、私は苦笑交じりに首を振った。
「いろいろと、成人式のときはありがとうございました。おかげで無事に終えることができました」
「何のことです?」
にっこりと笑ったレモンが、何かを思い出したように口を開く。
「リビアさんは、うちのギルドの特別なお客様ですから、サービスでもう一つお教えしましょう」
「サービスですか?」
怪訝な顔で見つめる私に、レモンは秘密を打ち明けるようにそっと顔を寄せた。
いったい何を言おうとしているのだろう。私は彼の言葉に耳を傾けた。
「リビアさんの侍女、チェルシーを信用しないでください」
まったく予想していなかった言葉に、私は思わず目を大きく見開いた。
チェルシーを信用するな、だと?
「突然、どういうことですか?」
「言葉どおりの意味です。お聞きしますが、リビアさん。あなたはあの侍女について、どれほど知っていますか?」
「……それは……」
私は唇をぎゅっと結んだ。
何か言い返したかったが、レモンの指摘する通り、私はチェルシーの過去について何も知らなかった。
『正確には、知ろうとしてやんわりと拒絶されたんだけど』
当時を思い出して口の中が苦くなる。
「私がリビアさんを信じているのと同じくらい、リビアさんも自分を信じてください。そばにいる侍女を、あまり無条件に信用しすぎないように」
レモンは軽い口調を保ちながらも、その眼差しには確かな真剣さが宿っていた。
私は戸惑いながらも、結局はもごもごと口を動かして小さくうなずいた。
「……分かりました。それでは、次の集まりで」
急に居心地が悪くなり、私はそれ以上言葉を続けず、足早にその場を離れた。
背後からレモンの静かな視線を感じたが、あえて振り返らなかった。振り返れば、私の動揺がすべて見透かされてしまいそうだったから。
『もう、とっくに読まれているかもしれないけれど』
慌てて歩いているうちに、いつの間にか自分の部屋の前に着いていた。
少しためらってから扉を開け、中へ足を踏み入れる。
「あ、先生」
部屋の掃除をしていたらしく、雑巾を手にしたチェルシーが振り返った。
「お戻りになりましたか?」
「あ、はい、チェルシー」
「お腹は空いていませんか? すぐに夕食をご用意――」
チェルシーの細やかな世話焼きは相変わらずだった。
「ううん、まだお腹は空いてないの。それより、こんな時間までずっとお掃除をしていたの?」
私は窓の外を振り返った。いつの間にか空は夕暮れ色に染まりかけている。
まさか、私が留守にしている間ずっと働いていたわけではないよね?
私の心を読んだかのように、チェルシーは首を横に振った。
「いいえ、そんなことはありません。軽く片づけをしていただけです」
「それならよかったわ」
私はにっこりと微笑んで彼女と目を合わせた。
そして少しの間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「チェルシー」
呼ばれたチェルシーが、わずかに首をかしげる。
「はい、先生」
私は、これまでの彼女との記憶を静かに巡らせた。
確かに、チェルシーにはどこか謎めいたところがある。自分の過去について頑なに語ろうとしないのも、不自然といえば不自然だ。
情報ギルドの首長であるレモンが、彼女を警戒しろと忠告したのなら、それは本当に何らかの理由があるからかもしれない。
だけど――。
「私は、チェルシーを信じているから」
「……」
私の思いがけない言葉に、チェルシーはしばし呆然とした表情で私を見つめた。
私は気まずそうに自分の頭を軽く掻く。
「……お金に困っている事情があるのは分かっているの。ただ……私がチェルシーを人間として信じている、それだけのことよ」
「……」
「だから、いつかチェルシーも私を心から信じられる日が来たら、その時に話してほしいの。どんなことでも構わないから」
黒真珠のようなチェルシーの瞳が、じっと私を捉えて離さなかった。
私は優しく微笑んで言った。
「いつまでも、待っているからね」
長い間、心の中で悩み抜いた末に出した、これが私の結論だった。
しばらくの沈黙の末、チェルシーはかすかに声を震わせながら「はい」と答えた。
—
深夜。
完全に闇に包まれた静寂の部屋。
「体が痛い……体が痛い……」
低く、どこか陰鬱な声が部屋の中を満たした。
長い間床にうずくまっていた人影が、ゆっくりと不気味に起き上がる。
その視線は、まっすぐ窓の外へと向けられていた。
その先には、リビアの部屋の明かりが灯る窓があった。
「……体が痛い……」
呪文を唱えるようなその低い声は、一晩中静かに響き続けていた。
—
「この数値をここに代入すれば、魔法公式の第3項が綺麗に完成して……」
ヴィンセントが熱意に満ちた眼差しで、力強くうなずいた。
これまでも彼の授業態度は熱心だったが、これほど生き生きとした姿を見せるのは初めてだった。
すべてのカリキュラムが終わると、私は教材をまとめる彼にそれとなく声をかけた。
「ねえ、ヴィンセント」
「はい?」
手を止めて私を振り返るヴィンセントの表情はどこか誇らしげだ。
「あのさ……アカデミーの期末試験のことなんだけど、本当に受けるつもりなの?」
「はい」
ヴィンセントは少しの迷いもなく即答した。
そして少し照れくさそうに指をもじもじさせながら言葉を続ける。
「私、もう逃げません。アカデミーにも、ちゃんと戻ります」
そう言う彼の瞳は、雨上がりの大地のように固く、揺るぎなかった。
『本当に、しっかり成長したのね』
変わったのは、単に眼差しや表情だけではない。背丈も少し伸びた気がする。
ふっくらとした頬の幼さは残っているものの、その佇まいは確実に少年から青年へと向かっている。
『この年頃の子どもの成長は、本当にあっという間なのね』
微笑ましく思う一方で、いよいよ私の手元から巣立つ時期が近づいてきているようで、言いようのない寂しさも覚えた。
「立派になったわね。もう先生がヴィンセントのことを心配しなくてもよさそうね」
「もちろんです! ビア先生は、これからは僕が守りますから!」
私は淡く微笑んだ。
ヴィンセントが無事に復学すれば、私との家庭教師の契約も当然終了することになる。
『わざわざ言葉にする必要はないわよね』
せっかく彼が固めた決意が揺らいでしまっては元も子もない。
『いよいよ、私もここを去る時が近づいているみたい』
もちろん、本来の目的はガボを見つけて病を治すことだが、家庭教師を引き受けた最大の理由はカディエンヌに接触するためだった。
その目的は、すでに果たしたも同然と言える。
つまり、ヴィンセントの授業さえ終われば、私がこれ以上メルチェデス公爵邸に残る正当な理由はなくなるのだ。
『すべて順調に進んでいるはずなのに、どうしてこんなに胸がざわざわするんだろう』
妙に落ち着かない。外の冷たい空気でも吸って、冷たい水でも一杯飲んで気を落ち着かせたほうがよさそうだ。
そう考えて自分の部屋へ急き立てるように歩いていたとき、私は自室の扉の前に佇む一人の人物に気づいた。
「え? シグムンさん?」
「あ、先生」
そこに立っていたのは、メルチェデスの専属医であるシグムンだった。
私を見つけると、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。
彼の視線は、私が抱えている教材へと向けられる。
「授業は、もう終わられたのですね」
「あ、はい。シグムンさんは、どうしてこちらに……?」
もう診察の用はないはずだと思っていたのに、私に何か用事でもあるのだろうか。
私の疑問を察したのか、シグモンは少し沈んだ表情を浮かべ、慎重に口を開いた。
「実は、フリント先生にどうしてもご相談したいことがありまして、失礼を承知でこうして訪ねてまいりました」
「私にですか?」
思いがけない言葉に、私は思わず目を丸くした。
メルチェデスの主治医である彼が、私ごときに一体どんな相談があるというのだろう。ここには私よりもはるかに優秀なカディエンやウィンストンだっているというのに。
「ええ。プリントン先生なら、きっと私を助けてくださると思って……。もし突然のお願いがご負担でしたら、遠慮なく断っていただいて構いません」
そう言いながら、シグモンはひどくしょんぼりとした悲しげな表情を作ってみせた。
いや、そんな顔をされてしまっては、どうやって断れというのだろう。
『まあ、私にもそこまで急ぎの用事はないし……』
それに、彼が何を話そうとしているのか純粋に気になった。
「いいですよ。お部屋に入りますか?」
しかし、彼は首を横に振った。
「いえ、せっかくですから、軽くお庭を散歩しながらお話ししませんか?」
「散歩、ですか?」
私は窓の外に広がる庭園を眺めた。
彼の言う通り、冬晴れの空の下、外は心地よさそうな景色が広がっていた。
いったい、彼が私に隠している話とは何だろうか。
「そうしましょうか。それでは、この教材だけ部屋に置いてきますね」
「お待ちしています」
シグムンは穏やかな微笑みを崩さないまま、その場で私を待っていた。
私はまだこの時、彼の内に渦巻く狂気に気づいてすらいなかった。
—
「冬のメルチェデス公爵邸は本当に美しいでしょう。こうして雪に覆われた庭園を眺めていると、まるで世俗の喧騒から完全に切り離されたような静けさを感じることがあります」
ぎゅっ、ぎゅっ。
歩くたびに、靴底の下で雪を踏みしめる乾いた音が響く。
私はシグムンの言葉に小さくうなずき同意した。
メルチェデス公爵邸は広大で、人目がほとんど届かない場所も少なくない。そうした場所には誰の足跡もなく、ただ純白の雪だけが積もっていて、世界に自分一人だけが取り残されたような錯覚を覚えることがあった。
「執事から伺いましたが、こちらにいらしてもう半年ほど経つのですね。生活に不便はありませんでしたか?」
彼の穏やかな質問に、私はしばし言葉を詰まらせた。
大変ではなかったかって?
『ものすごく波乱万丈でしたよ!』
到着するやいなやアンナと再会し、カディエンの魔力暴走に巻き込まれ、それからというもの一日おきに大小の事件が起き続けている。決して平穏な生活ではなかったけれど。
「皆さんがよくしてくださったおかげで、すぐに馴染むことができました」
そこにカディエンを含めるべきかどうかは、少し悩ましいところだったが。
「そうですか、皆が親切にしてくれているのですね」
シグモンは遠い目をして淡く微笑んだ。
やがて彼は一本のベンチの前で足を止め、持っていたハンカチを取り出すと、うっすらと積もった雪を丁寧に払い落した。
そして、どこか物悲しい口調で私に促した。
「ここに腰掛けて、少しお話ししませんか?」
「あ、はい」
そこまで丁寧に準備されてしまうと、断るに断れず、私はおとなしく彼の隣に腰を下ろした。
私はそっとシグモンの横顔を盗み見る。
いったい、どんな重い話を切り出すつもりなのだろう。
しばらくの沈黙のあと、シグモンが静かに口を開いた。
「フリントン先生……もしかして、私が以前どうして大陸一周の旅に出ていたのか、ご存じですか?」
「いいえ、存じ上げません」
私が首を横に振ると、シグモンはじっと私を見つめた。
気のせいだろうか。その瞳には、言いようのない痛切な悲しみが宿っていた。
「実は……私には娘がおりました」
シグモンは、今にも泣き出しそうなくらい切なげに微笑んでいた。
私は、彼がなぜ私にこんな個人的な身の上話を始めたのか、その意図が全く理解できなかった。そもそも彼と私の間には、これまでそれほど深い接点があったわけではないのだから。
だからといって、「なぜ私にそんな話をするんですか?」と冷たく突っぱねることもできず、私はただ黙って彼の言葉の続きを待った。
「若様とちょうど同じ年頃です。今年で十……いや」
彼は自身の言葉を訂正するように、寂しげに唇を歪めた。
「生きていれば、今年でちょうど十歳になっていたはずなのです」
『生きていれば』という言葉に、私はハッとして彼の顔を見つめ返した。
シグモンは遠い過去を懐かしむような、それでいて引き裂かれるような表情で話を続ける。
「私の娘は、三年前の事故で亡くなりました」
「それは……言葉もありません」
「医者でありながら、どれほど必死に足掻いても、愛娘の時間を再び動かすことはできなかった……私の無力でした」
想像以上に重い告白に、私は思わず息を呑んだ。
時間が止まったということは、まさか――。
「……お名前は、なんと仰るんですか?」
慎重に尋ねると、シグモンは愛おしむような声で答えた。
「アリアです。アリアと言います」
「アリア……とても綺麗な名前ですね」
「ええ。本当に名前の通り、愛らしくて綺麗な子でした。純粋で優しく、誰に対しても思いやりにあふれた、自慢の娘だったんです」
そう語るシグモンの表情には、隠しきれない深い愛情が滲み出ていた。彼がどれほど娘を愛し、失った現実を呪っているのかが痛いほど伝わってくる。
だが、その穏やかな表情は、次の瞬間には底知れない絶望へと変貌した。
「なのに……時が経つにつれて、あの子の記憶が少しずつ頭の中から薄れていくのです。どんな表情で笑っていたのか、どんな顔で眠っていたのか、どんな声で私を呼んでいたのか……すべてが少しずつ、砂のようにこぼれ落ちていく……!」
その絶望を証明するかのように、彼の顔が激しく歪み始めた。
私はあまりの恐怖に言葉を失い、ただ彼を見つめることしかできなかった。
そして次の瞬間――。
「フリントン先生、いえ、リビア様!」
シグモンが突然、私の両手を強引に掴んだ。
あまりにも唐突な行動に、私は驚愕して上体を後ろへ引く。
「どうか、私を助けてください!」
「ちょ、急に何を……!」
必死すぎるあまり正気を失ったような気迫に圧倒され、私は身を引こうとしたが、シグモンは私の両肩、そして上着の裾を両手でガッチリと掴んで離さなかった。
間近で見据える彼の瞳は、すでに完全に常軌を逸していた。
私は必死に彼の肩を押し返そうとしたが、医師とは思えない怪力でびくともしない。
「難しいことではないでしょう!? アリアをもう一度だけ私に合わせてください……! あなたの持つあの特別な力なら、それができるはずだ!」
「――っ!」
私は背筋が凍るような衝撃を受けた。
いったい、この男はどうして私の「能力」のことを知っているというの……!?
「え? 私の言っていること、間違っていませんか? リビアさんには、死者や記憶に干渉する特別な力がある。その力さえあれば、アリアを……!」
「お、落ち着いてください、シグモンさん!」
文字通り、彼は狂気に満ちていた。絶対に逃がさないと言わんばかりに、私の服を掴む指に力が込められる。
目の前の男は、完全に理性を失っている。
「離してください!」
「確かめたいことがあるだけなんです! だから、その力を……っ!」
そう叫びながら、彼は私に向かって冷たい手を伸ばしてきた。
恐怖で心臓が凍りつきそうになったその瞬間――。
「きゃっ……!?」
突如として、シグモンの体が激しく後方へと吹き飛ばされた。
あまりに現実離れした光景に、私は呆然と彼が弾き飛ばされた方向を見つめる。
ドンッ!
地面に重い音が響き渡ると同時に、私の前に一人の人影がすっと割り込んだ。
私は慌てて顔を上げる。
そこには、夕闇を映したような漆黒の髪と、冷たい青いガラスのような瞳――ではなく、無表情な顔立ちに鋭い光を宿した、見慣れた少女が立っていた。
「先生、お怪我はありませんか?」
片手でシグモンを一蹴したチェルシーが、振り返って私の無事を確認した。
私は荒く息を整えながら、必死にうなずいた。
「……うん、助かったわ、チェルシー」
だが、どうして彼女がこのタイミングでここに?
不思議そうに見つめる私に、チェルシーは淡々と言った。
「先生にお渡ししたい書類があって探していたところ、明らかに危険な状況に見えたので割って入りました。私の判断は、間違っていたでしょうか?」
私はぶんぶんと激しく首を横に振った。
もしチェルシーが駆けつけてくれなかったら、私は本当にシグモンに何をされるか分からなかったのだから。
『それにしても、一体なんなの……?』
ほんの一瞬だったが、あの時のシグモンからは得体の知れない悍ましさが漂っていた。
まるで、何かに完全に心を乗っ取られた人間のように――。
『あのとき、ジェフリーが見せた姿とそっくりだわ……』
「うっ……フリント……!」
地面に倒れ込んだシグモンが、苦悶の声を漏らしながら上半身を起こした。
チェルシーが容赦なく吹き飛ばした衝撃で、彼の眼鏡は無惨に割れ、その破片で額からは細い血の筋がツーッと流れ落ちている。
ようやく正気を取り戻したのか、シグモンは血走った目で私たちを睨みつけたが、すぐに圧倒的な気迫に気圧されたように唇を噛み締めた。
「あなたも、やはり……」
それ以上言葉を紡ぐことなく、シグモンは血を流したまま立ち上がり、そのまま背を向けて足早に走り去っていった。
「……」
まるで一陣の嵐がすべてを薙ぎ払っていくような、ひどく後味の悪い結末だった。
とにかく、いつまでもこんな場所に佇んでいるわけにはいかない。私は気を引き締め、ベンチから立ち上がろうとした。
「あっ……」
だが、緊張の糸がプツリと切れた途端、両足から完全に力が抜け、私の体はバランスを崩して崩れ落ちた。
「危ない!」
地面に激突する寸前、チェルシーが素早く腕を伸ばして私をしっかりと受け止めてくれた。
「大丈夫ですか、先生?」
「う、うん……ありがとう。なんだか急に緊張のせいで足が……はは……」
無理に笑ってみたものの、膝はガクガクと震え、自力で立つことは到底できそうにない。
まったく、この土壇場で私の体はなんて頼りないのだろう。
ふう、と小さく息を吐く。
『仕方ないか』
心の中で苦笑しながら、私は弱り切った声でチェルシーに言った。
「チェルシー、ごめんね。私、もう少しここで休んでから戻るから、先に……」
そう言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。
「ちょ、チェルシー……!?」
突然、チェルシーが何の前触れもなく私をひょいと軽々と抱き上げたからだ。
まるで、絵本に出てくる王子様がお姫様を抱きかかえるような姿勢で。
私が驚いて体を硬直させると、チェルシーは私の太ももと背中をしっかりと安定させながら冷徹に言い放った。
「このままお部屋までお連れします」
「い、いや、さすがに恥ずかしいから歩ける――」
「それとも、今すぐ主をお呼びしましょうか?」
それを望みますか、とでも言うようなチェルシーの静かな眼差し。
うわ、今の彼女を怒らせたら何をするか分からない……!
私は真っ青になりながらチェルシーを見上げた。
まさか侍女にまで脅迫される日が来るなんて。私の知っている真面目なチェルシーは一体どこへ行ってしまったの。
理不尽だとは思いつつも、もしこの姿をカディエンに見つかったらそれこそ一巻の終わりだ。
『仕方ない。主人に報告されるよりは、百倍マシだよね……!』
結局、私に残された選択肢は降参するしかなかった。
「……分かりました。おとなしくします。お願いします」
「はい」
短く返事をしたチェルシーは、そのまま微動だにせず、私を抱いたまま堂々と歩き出した。
途中、ですれ違った他の使用人たちが、『あれは一体どういう状況……?』と目を丸くして二度見していくのが痛いほど伝わってきた。
そりゃそうだろう。家庭教師が、よりにもよって若い侍女の腕に抱っこされて廊下を移動しているのだから。滑稽という言葉以外に表現しようがなかった。
恥ずかしさのあまり、私は顔を真っ赤に染めながら、チェルシーの胸元にギュッと顔を埋めた。
でも、こうして実際に彼女の腕の中に収まってみると――。
『チェルシーの体、想像以上にすごくがっしりしてる……』
女性としては比較的大柄だとは以前から思っていたけれど、私を片手で軽々と支える腕も肩も、驚くほど筋肉質でたくましかった。
どう考えても、ただの一般人の体つきではない。
その瞬間、ふとレモンの声が脳裏によみがえった。
――『リビアさんの侍女、チェルシーを信用しないでください』
チェルシーを信用するな、だって?
そんなこと言われても、どうすればいいというのだろう。
あんな風に忠告するなら、もっと早く言ってほしかった。
今さらそんな不穏な話をされても――。
『今さら、疑えるわけないじゃない』
すでに私の中で、チェルシーは代えがたい大切な存在になってしまっているのだから。
『なんだか、すごく疲れたな……』
私はそっと目を閉じた。
私を抱えて黙々と歩く彼女には少し申し訳なかったが、その腕の中は妙に心地よく、不思議な安心感に包まれていたため、自然と緊張の糸が切れていった。
そして、チェルシーの腕に抱かれたまま、私はいつの間にか深い眠りに落ちていった。
――チェルシーの正体が何であろうと、今の私にとって彼女はかけがえのない大切な人なのだと、心の底でそう呟きながら。
-
1. セレベル・ナディルと孤児院の謎
-
行方不明になっていた男がセレベル・ナディル本人であったことが判明する。
-
彼を生贄に捧げたことと、神イグリッドの復活(祭壇の言葉「我らが神の復活……」)に深い関係があることが浮き彫りになる。
-
大神官の孤児院やジェフリーの日記、カディエンの夢など点在する手がかりをつなぐ糸がまだ見つからず、リビアはもどかしさを感じながらも、カディエンを原作の残酷な運命から救うため調査を続ける決意をする。
2. レモンとの取引と忠告
-
リビアはレモンに対し、最後の切り札として「母が塔のてっぺんに隠した何か」と、母親の死にもイグリッドが関与しているという「勘」を伝える。
-
レモンは論理的根拠のないリビアの言葉をなぜか全面的に信じ、二人の同盟関係が延長される。
-
別れ際、レモンはリビアの侍女であるチェルシーを信用しないよう意味深な忠告を残す。
3. チェルシーへの信頼
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部屋に戻ったリビアはチェルシーと向き合い、彼女に秘密があることを理解しつつも、「私はチェルシーを信じている。いつか話せる時が来たら教えてほしい」と伝え、チェルシーもそれを受け入れる。
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一方、深夜の闇の中では、何者かがリビアの部屋を見つめながら「体が痛い」と不気味に呪文を唱え続ける怪奇現象が起きる。
4. シグモンの狂気とチェルシーの救出
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ヴィンセントが無事に復学の意志を固め、家庭教師としての役目が終わりを迎える中、メルチェデスの主治医・シグモンがリビアに声をかけ、庭の散歩に誘う。
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シグモンは3年前に事故で亡くした娘・アリアを取り戻すため、リビアの持つ特別な能力(記憶や死者に干渉する力)を使うように狂気的に迫る。
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シグモンが暴走し襲いかかろうとした瞬間、駆けつけたチェルシーが圧倒的な怪力と体術でシグモンを一蹴し、リビアを救い出す。
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自分の足で歩けないリビアを、チェルシーはお姫様抱っこで部屋まで運んでくれる。その頼もしくたくましい身体つきや不可解な強さを感じつつも、リビアはチェルシーへの全幅の信頼を胸に、安心感の中で眠りに落ちていく。
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