こんにちは、ちゃむです。
「悪女の皇后様に溺愛されてます」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
68話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 8年越しの抱擁
その日の夕方。
私は皇后陛下がお召し替えになるのをお手伝いしていた。
努めて沈んだ様子を見せまいと、いつもより明るく笑っていたのだが……。
「どうしてそんな顔をしているの、シャル?」
「はい? 私がどうかしましたか?」
「なんだか少し憂鬱そうに見えるから」
……やっぱり皇后陛下の目はごまかせないみたいだ。
私は慌てて首を横に振った。
「何でもありません」
ディアミドがシエナ小伯爵とあまりにもお似合いで、憂鬱になったなんて言えるはずもない。
はあ、余計な心配を皇后陛下にさせてしまった。
私が心の中で自分を責めていた、その時だった。
「もしかして、皇太子殿下とアンテス小伯爵の関係が気になっているの?」
「っ……!」
核心を突く質問に、私はその場で凍りついてしまった。
しばらくして正気を取り戻すと、飛び上がるように否定した。
「そ、そんなことありません!」
「本当に?」
「もちろんです。私がどうして皇太子殿下のことを気にするんですか?」
しどろもどろになりながら言い訳を続ける私に、皇后陛下は意味深な笑みを浮かべ、さらにシエナ(侍女長)へと視線を向けた。
「強すぎる否定は、肯定と同じ意味だとも言うけど?」
「違います! 私はどこまでも、かつて皇太子殿下にお仕えしていた侍女として……!」
「それなら皇太子に、もう帰るよう伝えないとね」
「……はい?」
なんでここで突然ディアミドの名前が出てくるの?
私が呆然と目を瞬かせると、皇后陛下は楽しそうな声で囁いた。
「今、皇太子がお前を待っているそうだよ」
「はい?!」
ディ、ディアミドが私を訪ねてきたって……?!
私は思わず勢いよく顔を上げた。
「ど、どちらにいらっしゃるんですか?!」
「さあ、温室にいると言っていたかしら?」
深緑色の瞳が、いたずらっぽさをいっぱいに宿して輝く。
「でもまあ、シャルは皇太子のことなんて全然気にしていないって言ってたし――」
「私、ちょっと行ってきます!」
私は慌ただしく外へ飛び出した。
皇后陛下の軽快な笑い声が、私の背中を追いかけてきた。
・ ・ ・
しばらくして。
侍女長のヘイドンが部屋へ入ってきた。
今にも笑い出しそうな顔をしていた。
「皇后陛下、先ほどシャルリーズがものすごい勢いで庭園へ駆けていくのを見かけました」
「ええ。皇太子がいらっしゃったと教えた途端、冷たい風のように飛び出していったのよ。寂しいわ……」
皇后は子供のように唇を尖らせた。
侍女長は慣れた様子でなだめる。
「まあ、寂しかったのですか?」
「当然でしょう。シャルルは私より皇太子のほうが好きなのかしら?」
「まさか、そんなことありませんよ」
侍女長は櫛を手に取り、長い髪を梳かしながらそれとなく話しかける。
「ところで、どうしてこんなに遅くお知らせになったのですか? 皇太子殿下がシャルル様をお待ちになってから、もうずいぶん経っておりますのに」
「ふん、わざわざ早く知らせてあげる理由もないでしょう?」
皇后はすまして顔を背けた。
侍女長がくすくすと笑う。
「まあ、皇太子殿下がどなたを想っていらっしゃるのか、ご存じないわけでもありませんでしょうに」
「皇太子の気持ちなんて、私が知るものですか」
皇后が目を見開くと、侍女長はなだめるように続けた。
「皇后陛下がシャルル様を大切になさっていることは、私もよく存じております。それでも、あまり意地悪なさらないでくださいませ」
「ただ純粋に、二人きりで過ごせる時間を作って差し上げただけとはいえ、私は自分のやるべきことは全部やったわ」
皇后は不満げな顔で頬杖をついた。
「本音を言えば、一生私がつけて暮らしたいくらいだけど、譲ってあげるのよ」
「譲るんですか?」
「そうよ。そもそも、私が皇太子を可愛がらなきゃいけない理由なんてないでしょう?」
皇后のぶっきらぼうな返事に、侍女長は目を丸くした。
「はい? どうしてですか?」
「シャルが少し年上だからって、あの子たちをひょいっと連れていってしまおうとするじゃない。本当に憎たらしくて……」
皇后は頬杖をついたまま、細い目をした。
すると侍女長が、こっそり問いかける。
「……ですが皇后陛下も、シャルがまだ五歳の頃に教区から連れてこられたではありませんか?」
「いや、私と皇太子が同じだって?!」
図星を突かれた皇后は、思いきり癇癪を起こした。
しかし、侍女長はそんな皇后を、まるで可愛らしいものでも見るかのように眺めている。
「一番悔しいことが何か分かる?」
「何ですか?」
「皇太子以上にいい男がいないってことよ」
肘掛けを指でトントンと叩きながら、皇后はぶっきらぼうに続けた。
「私たちのシャルを皇太子に嫁がせることを考えるだけで腹が立つのに、だからといってもっといい相手もいないのよ」
「うーん……」
侍女長は何とも言えない表情になった。
それもそのはず、皇后と皇太子はシャルへの愛情を巡って、妙な対抗心を燃やしていたのだから。
しかも当時、二人はかなり本気だった。
目をぎらぎらさせていた皇后は、やがて長いため息をついた。
「……でもまあ、シャルさえ幸せなら」
「まあ、本気でおっしゃってるんですか?」
「もちろんよ。侍女長は一体、私をどんな人間だと思っているの?」
皇后は心外だと言わんばかりの視線を送り、椅子に深く腰掛けながら呟いた。
「一番大切なのは、やっぱりシャルの幸せだから」
侍女長は複雑な表情で頷いた。
しかし、その温かな雰囲気は長くは続かなかった。
皇后が陰鬱な声で呟いたのだ。
「もしファン・テジャ(皇太子)が、私たちのシャルの目から涙を一滴でも流させたら、ただじゃおかないわ……」
「まさか、そんなことがあるでしょうか?」
「それでも男なんて、何をするか分からないものよ」
皇后は殺伐とした口調で答える。
じっと見つめていた侍女長は、ついに吹き出してしまった。
皇后が眉をひそめ、睨みつける。
「どうしてそんなに笑うの?」
「いえ、ふふっ。何でもありません」
そう答えながらも、侍女長は込み上げてくる笑いを抑えきれなかった。
「皇后陛下は、シャルのことがそんなにお好きなのですか?」
「当たり前でしょう」
涼しい顔で答える皇后に、侍女長はにっこりと微笑んだ。
「私もシャルが好きです」
殺伐とした皇宮で、皇后を泣かせたり笑わせたり、拗ねさせたりできる唯一の人。
だから侍女長は、シャルリズにいつも感謝していた。
***
私は、今か今かとディアミドが待っている温室へ駆けていった。
温室の中へ足を踏み入れた瞬間、頭がくらくらするほど濃厚なライラックの香りが真っ私を包み込む。
一面を薄紫色に染めた温室の中をさまよい始めた。
「ディアミド、どこにいるの?!」
きょろきょろと周囲を見回す。
だが、ディアミドの姿は跡形もなかった。
一瞬、心臓がどくんと沈む。
まさか、もう行ってしまったの?
私があまりにも長く待たせてしまったから?
(……そんなの、だめなのに)
私は唇をぎゅっと噛みしめた。
私たち二人の立場は、すでにあまりにも遠くかけ離れてしまっていたからだ。
帝国の英雄として称賛を浴びる皇太子と、かつて仕えていた一介の侍女。
この訪問を逃したら、もう二人きりで会える機会は永遠になくなってしまうのに。
「……もう少しだけ待ってあげよう」
なぜか寂しい気持ちになり、私は自分でも気づかないうちにそう呟いていた。
ディアミドに会えないと思うと、鼻の奥がツンとする。
ところが、まさにその時。
「まあ、待てないこともないけどね」
笑を含んだ声が耳に飛び込んできた。
……え?
ぱっと顔を上げる。
ライラックが雲のように咲き誇るその下で、目が眩むほど美しい一人の青年が、ふっと姿を現した。
「もう8年も待っただろ?」
しかし、その泰然とした問いかけとは裏腹に、私を見つめる朱色の瞳は小さく震えていた。
しばらくして、ディアミドが穏やかに微笑む。
「君に会うまでの話だよ」
ディアミドだった。
「……わ、私、殿下? 本当に私が殿下なのですか?」
「うん、シャル」
私の間抜けな質問にも、ディアミドは誠実に頷いてくれる。
「私だよ」
そうなんだ。
本当にディアミドなんだ。
私はその場に凍りついたように立ち尽くした。
ディアミドは、ほとんど駆けるような速足でこちらへ歩いてくる。
ぼんやりと彼を見上げた。
戴冠式で一度会ってはいたけれど、こんなに近くで見るのは初めてだった。
……誰かに惹かれるって、たぶんこういうことなのかな。
ディアミドから、どうしても目を離すことができなかった。
そして――。
「あっ!」
ディアミドは腕を伸ばし、私を自分の胸の中へ閉じ込めた。
彼の胸は熱く、硬い。
速く脈打つ心臓の音が、耳いっぱいに響いた。
「本当に……本当に」
ディアミドの声が、最後にはゆっくりとかすれていく。
「会いたかった」
私を抱き寄せる腕に、ぐっと力がこもる。
腰と背中を包み込むその仕草は、ただ切実としか言いようがなかった。
一瞬たりとも私を腕の中から離したくないかのように見えた。
「……殿下」
こんなふうに抱かれていてもいいのだろうかと思い、私は少し戸惑いながら身じろぎした。
するとディアミドは頭を下げ、さらに強く体を密着させる。
迷子の子供のように、切実な声で囁いた。
「シャル、お願いだ。もう少しだけ、このままでいさせてくれ」
「ですが、殿下……」
「ほんの少しだけでも、君をこの腕の中に抱いていられたら……」
まるで哀願するような声は、いつの間にか湿り気を帯びていた。
「君がこのまま消えてしまいそうなんだ」
「そんなはずありません」
「それでも、夢の中で君に会うたびに……」
ディアミドのため息が落ちる。
「……いつも君が、私の目の前から消えてしまうんだ」
「そんな夢をご覧になったんですか?」
「ああ。毎日のように、そんな夢を見た」
ディアミドは駄々をこねる子供のように体を寄せてくる。
「だから、もう少しだけ……」
長い息が吐き出された。
それは安堵のため息だった。
私はなぜか……そんなディアミドを突き放すことができなかった。
どれほど心労がひどければ、一日中悪夢にうなされ続けていたのだろう。
現実の私を目の前にしても、まだ恐怖に震えているなんて……。
「……殿下、私はここにいます」
しばらく呆然としていた私は、そっと手を上げた。
強張っていた背中をゆっくり撫で下ろすと、ディアミドの体から少しずつ力が抜けていく。
「そうだな。君はここにいる」
ようやく彼は私を放してくれた。
けれど、その視線だけは執拗なほど私の顔を見つめ続けている。
まるで、何か言うのを待っているかのように。
……でも私、何を言えばいいのか全然分からないんだけど?
少し気まずい顔になった私に、ディアミドは不満げな声で口を開いた。
「それ、どうしても私の口から聞かないといけないの?」
「え? 何を聞くの?」
戸惑う私に、唐突に質問が投げかけられた。
「あなたのことだよ。私に会いたくなかった?」
「はい?」
いきなり何を言い出すの?
呆気に取られた私に、彼は不機嫌そうな顔で続ける。
「さっきから感じてたんだけど、私だけがあなたに会いたがってたみたいだ」
「何をおっしゃってるんですか?」
「だってそうだろ? あなたはずっと淡々としてるのに、私だけがそわそわして……」
いや、本気でそんなこと言ってるの?
思わずカッとなった私は、知らず知らずのうちに声を荒らげた。
「当然、私だって殿下に会いたかったですよ!」
「そう?」
その瞬間、ディアミドの表情が柔らかくほころんだ。
私は言葉を失う。
お世辞を真に受けただけなのに、どうしてあんなに嬉しそうなんだろう?
……まあ、会いたかったのは本当だけど。
せっかく口にしたのだから、もう少し気を利かせてあげることにした。
「殿下に会いたくて会いたくて、毎晩枕を涙で濡らすほどだったんですよ」
「……本当に?」
「ええ。私の言葉が信じられないんですか?」
胸を張り、しっかりと目を合わせる。
ディアミドは表向きこそ疑わしげな眼差しを隠せていなかったが、それでも目元と口元はさっきよりずっと素直だった。
ちょっと、ディアミド。
あなた今、完全にバカみたいに笑ってるんだけど?!
「……殿下はどうやら、とても整った容姿に感謝したほうがいいと思います」
硬い声でぶつぶつと呟く。
圧倒的な美貌というものは、間抜けな表情さえも帳消しにしてくれるのだと初めて悟った。
すると彼は、にっこりと目を細めて笑った。
「それは、君の目には私がそれほど格好よく見えるという意味か?」
「ええ、まあ……そういうことです……」
震えながら頷く。だって、まともな視力を持つ人なら誰だって同意するだろうから。
答えを聞いたディアミドは、世界のすべてを手に入れたかのような満足げな顔になった。
「顔だけは傷つけないように頑張った甲斐があったな」
「はい? 何を頑張ったんですか?」
「君、顔のいい男が好きだろう?」
いや、そこまで図星を突く必要はないでしょう?
渋い表情になった私に、ディアミドは突然さらに踏み込んでくる。
「どう? 今の私は、ロチェスター公爵より少しはあなたの好みに近づいた?」
「……」
冗談だよね?
呆れた目で見つめると、彼は至って真剣な顔で急かした。
「早く答えて」
「殿下、本当に……」
「ロチェスター公爵より私のほうがいいだろ? そうだよね?」
ロチェスター公爵と殿下じゃ、いったい何歳差があると思っているの!
だが、答えを聞くまでは絶対に引き下がらない勢いだった。
私は震えるような気持ちで、こくりとうなずく。
「はい、殿下のほうがいいです」
「そうだ、そうしないとな」
ディアミドは有頂天になって、鼻歌まで歌い始めた。
私は目を大きく見おろす。
……会わない間に、ディアミドは以前と比べてずいぶん幼くなった気がするけど、気のせいかな?
* * *
私たちは咲き乱れるライラックの木陰に腰を下ろした。
その間も彼は、母親の後をついて回る雛鳥のように、私の手をぎゅっと握りしめている。
いや、私は別にいいんだけど……。
ちらりと横顔を盗み見る。
人に見られたらどうするつもりなの?
もうお互い大人なのに、子供の頃みたいに何のためらいもなく手をつなぐのは、さすがにちょっとまずいんじゃない?!
「ずっと手を握っているの、嫌じゃないですか?」
耐えきれなくなった私がそっとうかがうと――。
「いや、嫌じゃない」
鉄壁の守りに、あっけなく阻まれてしまった。
まったく、ディアミドったら。
結局、手を離してもらうことは諦めた。まあ、どうせ見ている人もいないし。
8年という空白があったからなのだろうか、私たちの会話は途切れることなく続いた。
「そういえば、最近は皇后宮のカーテンを新しく替えたんですけど……」
本当に些細なことまで、あれこれと話した。
特別な話でもなかったのに、彼は終始一貫して私の言葉に耳を傾けてくれる。
「ところで、殿下」
「え?」
しばらく夢中になっていたディアミドが、ようやく顔を上げた。
私はわずかに眉をひそめる。
「さっきから私ばかり話している気がします」
「そう? 構わないよ。私はあなたに関する話なら何でも聞きたいから」
「それは私も同じです」
憎らしげにちらりと見てから尋ねた。
「私だって殿下のお話が聞きたいんです」
「……私の話?」
「はい。殿下はこれまで北部でどう過ごしていたんですか?」
握られている自分の手を軽く揺すってみせる。
彼はいつもの通りの口調で答えた。
「まあ、毎日同じような一日だったよ」
「その『同じような一日』がどんなものだったんですか?」
「うーん……アンテスから侵入してくる魔獣を討伐したり、時には村の視察もしたり――」
……なんて。
なぜか「同じ一日」だと言うには、本当にいろいろな出来事が起こっている気がする。
そう思うのは私だけかな?
「実は魔獣だけじゃなくて、野生動物による被害もかなりあるんだ。だから獣を討伐することもあって……」
しばらく考え込んでいたディアミドは、やがて明るく続ける。
「あ、城壁の補修を監督したこともあるよ」
うわ。
思わず嫉妬したような表情を浮かべてしまった。
どうやらアテス辺境伯は、彼に本当に充実した毎日を送らせていたらしい。
ところがその時だった。
ディアミドが笑いを含んだ声で付け加えた。
「ああ、そうだ。シエナ領でイノシシを捕まえる賭けをしたこともあるんだけど、私が勝ったんだ」
……シエナ?
ディアミドはアンテス小伯爵を「シエナ」と呼んでいるの?
そんなに親しい関係なの?
大きな氷の塊を丸ごと飲み込んだかのように、胸の奥が冷たくなった。
彼は肩をすくめながら笑う。
「私、よくやっただろう?」
「そ、そうですね。よくやりました」
慌てて表情を整え、ぎこちなく微笑む。
そう、こうなることはもう予想していたじゃない。
シエナはこの世界のヒロインであり、彼の……『生涯の恋人になる人なんだから』
分かっているのに、なぜか胸がずきりと痛んだ。
いや、こんなことを考えちゃダメだ。
友達として、二人の仲を応援してあげるのが当然でしょう。
「本当によかったです。アンテス小伯爵が殿下のそばにいてくれて」
「……え?」
「同い年の、頼れる人がいたから、殿下がこうして無事でいられたのだと思います」
にっこりと笑いながら尋ねた。
「それより、魔獣を討伐するのはどうでしたか?」
「まあ……それなりに大丈夫だったよ」
「……大丈夫だったんですか?」
「人間は適応する生き物だろ。どうにか全部慣れるものだよ」
あんなふうに平然と言えるようになるまで、彼はどれほどつらく苦しい時間を過ごさなければならなかったのだろう。
私が安全で穏やかに過ごしている間、ディアミドは何度も死線を越えなければならなかったはずだ。
申し訳ない気持ちになり、私は握った手に力を込めた。
すると、ディアミドがかすかに微笑む。
「でも、どうしても一つだけ慣れないことがあったんだ」
「それは何ですか?」
「君が私のそばにいないこと」
じっと見つめ返す。
本当におかしなことだ。
他の人があんなふうに言ったなら、『何なの、この人?』と思ったはずなのに。
どうして今は、こんなにも胸が高鳴るんだろう。
慌てて手を上げ、胸元をぎゅっと押さえた。
心臓の鼓動があまりにも速くて、下手をすれば彼にまで聞こえてしまいそうで心配になるほどだった。
幸い、ちょうどその時、ディアミドが話題を変えてくれる。
「それはそうと、さっきの凱旋式の時のことだけど」
……ただ、その話題自体があまり嬉しいものではないのが問題だった。
こっそりと肩をすくめる。
「どうして私の目を避けたんだ?」
「あ、それは……」
言葉を濁す。
皇后陛下といい、ディアミドといい、どうして皆こうして答えにくい質問ばかりしてくるの?
私にだってプライドはある。
アンテス小伯爵のことが気になっているからだなんて、言えるわけがない!
「それは……殿下の勘違いではありませんか?」
「私が勘違いしたって?」
「そ、そうです。私が殿下を避ける理由なんてないじゃないですか?」
あはは、と必死に笑みを浮かべる。
けれどディアミドは、相変わらず疑わしそうな目でこちらを見つめていた。
背中に冷や汗が流れる。あ、ダメだ、とりあえず話をそらそう……!
「それより、アンテス小伯爵様ですよ!」
いや、どうしてよりによってまたシエナなの!
自分の軽率さに、心の中で血の涙を流しながらも、せっせと褒め言葉を並べる。
「噂で聞いていたより、ずっと素敵な方でした」
「アンテス小伯爵? ……どうして急にシエナの話が出てくるんだ?」
ディアミドがぴくりと眉をひそめる。
まただ。
『シエナ』と親しげに名前を呼ぶこと。
口の中の柔らかな肉をぐっと噛み締めた。
ただの呼び方じゃない。
だから、こんな些細なことでいちいちショックを受けないで……資格もないくせに。
「その方、先ほど殿下と一緒に凱旋式で馬に乗って入ってこられたじゃないですか?」
「そうだったね。でも、それがどうしたの?」
「ただ、その姿を見ていたら……お二人はとてもお似合いだなと思って……」
しどろもどろになりながら続けると、ディアミドはぐっと眉間にしわを寄せた。
「君、もしかしてシエナに興味があるの?」
「……はい?」
「ダメだ。紹介なんてしてやらない」
きっぱりと首を横に振る彼に、私は面食らう。
いや、紹介してほしいなんて一言も言ってないんですけど?
そもそも侍女の私が、小伯爵を紹介してもらって何になるというの?
「私のことだよ、シャル」
「はい、はい?」
「君の関心が他の人に向くのは、もう嫌なんだ」
文字どおり、断固とした宣言だった。
え、え?
混乱する私をよそに、彼は小さく独り言を呟く。
「そうじゃなくても、皇后陛下が一番だっていうのも寂しくて死にそうなのに……」
その声は、なぜかひどく悔しそうに聞こえた。
……いや、この人はいったい何を言っているの?
はあ、もういいや。
ため息をつきながら立ち上がった。
「殿下、そろそろお戻りになったほうがいいと思います。明日もご予定があるでしょう?」
冷静になろう。正確には、正気を取り戻そうとした。
だってディアミドのせいで、好みの男の話をするどころか、立ち上がることすらできなかったんだから!
「私は大丈夫だから、もう少し一緒にいて」
「でも、もう時間が遅いですよ」
初めて会った頃はまだ月が昇り始めたばかりだったのに、今や月は空のてっぺんにかかっていた。
それでも彼は頑として譲らない。
「嫌だ。行かないで」
「……今、私に拗ねてるんですか?」
「うん、拗ねてる」
堂々と答える姿に、私はもう言葉を失ってしまった。
必要とあらば図々しく振る舞えるとは知っていたけれど……ここまで平然と厚かましい顔ができるとは思わなかった。
「そうですね。私がどうして皇太子殿下のご命令に逆らえましょうか?」
唇を尖らせながら席に座り直す。
「私は所詮、何の力もない皇后宮の侍女にすぎませんから」
「何の力もない皇后宮の侍女……か」
重い声で繰り返す彼の顔色を、それとなくうかがう。
「あなたはいつまで、何の力もない皇后宮の侍女でいるつもりなんだ?」
「……みたい?」
え?
混乱する私を見て、ディアミドは意味深な笑みを浮かべた。
「いや、何でもない」
何でもないって、何が何でもないの?
言いかけて途中でやめるのが一番悪いって知らないの?
もう少し問い詰めようとしたその時――。
「どうした、シャル?」
彼がわずかに首を傾げ、まっすぐ視線を合わせてきた。
流れ落ちる髪の隙間から、鮮やかな朱色の瞳が魅惑的にきらめく。
そして本当に悲しいことに……私は顔がいい男に弱かった。
自分の顔が一気に熱くなるのを感じる。
あ、あなた、こんなところで色仕掛けなんて使うんじゃないわよ……!
「私、元気そうに見えない?」
「……」
もちろん、とても元気そうに見える。
真っ赤になった顔で素早く頷くと、彼は耳が溶けてしまいそうなほど甘い声で囁いた。
「それなら私、君との約束を守ったよな?」
「え、約束ですか?」
「ああ。笑顔で、元気に戻ってくるって約束しただろう」
あ、そうだ。
そんな約束をしていた。
彼はきらきらと輝く瞳で私を見つめている。
まるで褒めてもらいたがっている子犬のように。
……一国の皇太子を子犬に例えていいのかは分からないけれど。
「そうですね。本当によかったですね、殿下」
口元がぱっと持ち上がるのが見えて、ひとまず褒めてあげる。
するとディアミドはにっこりと目を細め、いっそう誘惑的な笑みを浮かべた。
「だから、あなたも……私と交わした約束を守って」
「はい? 殿下と交わした約束ですか?」
「私を名前で呼ぶって約束しただろ」
え? 名前?
た、確かにそんなことを言ったような気はするけど……。
「殿下、それはちょっと……」
我に返り、困惑した表情で見上げる。
あの時は雰囲気に流されて、うっかり約束してしまったけれど、いくらなんでも私は侍女で、あなたは皇太子でしょう?
しかし、この問題については絶対に譲るつもりがないらしかった。
「私、あなたにとっては『皇太子殿下』じゃなくて――」
ひどく真剣な顔で念を押す。
「ただ……『ディアミド』でいたいんだ」
「で、でも。他の人の目もありますし……」
「そんなことが気になるなら、二人きりの時だけでもそうしてくれ」
うーん、そこまで言うなら。
ごくりと唾を飲み込む。
ただ名前を呼ぶだけなのに、どうしてこんなに胸の奥がむずむずするのか分からない。
大きく息を吸い込んでから、私は慎重にその名を呼んだ。
「ディアミド」
その瞬間、彼の笑みがぱっと深まった。
この世のすべての幸せを集めて輝かせたかのような、鮮やかな笑顔だった。
「ありがとう」
「べ、別に」
なぜか少し照れくさくなり、顔をそむけて視線から逃れる。
すると、すっと手が差し出された。
「よし。それじゃあ皇后宮まで送っていくよ」
「え? いえ、大丈夫です。一人で行けますよ」
「私が送っていきたいんだ」
早く手を取れと言わんばかりに軽く振られる手に、ぎゅっと目を閉じる。
まったく、こんなの拒めるはずがないじゃない。
おそるおそる重ねた手の上で、朱色の瞳が嬉しそうに弧を描いた。
***
しばらくして、私たちは皇后宮の前へと到着した。
「送ってくださって、本当にありがとうございます」
努めて平然を装って挨拶をする。
けれど、少し寂しく感じてしまうのは仕方がなかった。
こうして別れたら、今度はいつ会えるのだろう?
彼は皇宮に戻ってきたばかりなのだから、きっと片づけなければならないこともたくさんあるはずだ。
時間を作ってくれたことだけで気遣いは十分に分かっているけれど……。
『……やっぱり、少し名残惜しい』
寂しげに肩を落とした、まさにその時。
背の高いディアミドが耳元に顔を寄せ、小さく囁いた。
「おやすみ。明日また来るよ」
思いがけない言葉に、私は目を丸くした。
え? 明日も来るって?
明日は皇太后陛下のところにも顔を出さなきゃいけないし、いろいろお忙しいはずなのに。
頭ではそう考えながらも、いつの間にか頷いていた。
「はい、待っていますね」
最後に微笑みを残し、彼は身を翻した。
その場に釘付けになったように立ち尽くし、遠ざかっていく後ろ姿を見つめる。
その時。
「あっ」
小さく口を開いた。
そういえば、ディアミドに聞こうと思っていたことをすっかり忘れていた。
『君はいつまで、か弱い皇后宮の侍女でいるつもりなんだ?』って……。
あの言葉はいったい、どういう意味だったんだろう?
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皇后と侍女長の会話とシャルの慌ただしい出発
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皇后はシャルリーズ(シャル)が皇太子ディアミドを気にしていることを見抜き、彼女の動揺を面白がりつつも、すでにディアミドが温室で待っていることを教える。
-
皇后はディアミドに対して愛情とライバル心を燃やしつつも、シャルの幸せを一番に願っている。
-
報せを聞いたシャルは、慌てて温室へと飛び出していく。
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温室での再会とディアミドのストレートな感情
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温室で待っていたディアミドは、シャルを見つけると強く抱きしめ、長年離れていた不安や切なさをぶつける。
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シャルはディアミドに惹かれつつも、アンテス小伯爵(シエナ)との関係に嫉妬心を抱いてしまい、複雑な思いを隠そうとする。
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ディアミドはシャルの前では他の誰にも見せない子供っぽさや強い独占欲を見せ、彼女だけに関心を向けてほしいとストレートに伝える。
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二人の甘い時間と新たな謎
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ディアミドはシャルに、以前交わした約束通り「殿下」ではなく自分の名前(ディアミド)で呼ぶよう迫り、シャルは恥ずかしがりながらもそれに応える。
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温室から皇后宮まで送り届けてくれたディアミドは、「明日また来るよ」と言い残して去っていく。
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シャルは、別れ際にディアミドが告げた「君はいつまで、か弱い皇后宮の侍女でいるつもりなんだ?」という言葉の真意に思いを馳せる。
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