こんにちは、ちゃむです。
「憑依者の特典」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
154話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 甘い誓いと、最悪のバランス調整
アイレットとテシリドが空間転移で姿を消した直後、静まり返った廊下に取り残されたミュリエルの表情から、それまでの柔らかな笑みがすっと消え去った。
何か深い考えに沈むような彼女の眼差しは、およそその年齢の少女のものとは思えないほど冷徹だった。まるで、東の地平線から昇る太陽と、西の地平線へ沈む太陽を、何十回、何百回と静かに見届けてきたかのように――その瞳の奥には、悠久の時を生きた賢者特有の深淵が宿っている。
この世界には、リードと神聖剣が現れる以前から、世界を支える「六人の最強者」が存在していた。そのうちの一人である大魔法使いが死んだため、この時代に生きる最強者は五人。
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オーラマスター剣士、アロンジェイク・ヒスペリル公爵。
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士官学校長、ロミナ・レカンドロ侯爵。
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キメラ研究家、モリフィス・マルセリオン。
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夜鷹ギルドマスター、ポリゲル・ナイト。
そして最後に――秩序の聖地で500年間もの間、静かに眠り続けているはずの人物。
神聖なる時計工、ミュ・エリナス。
今ここに立つミュリエルこそが、その最後の一人、ミュ・エリナス本人であった。
本来ならば自分の代わりに精巧な「代理の人形」を送り出して済ませていたはずだった。だが、今回の世界に起きている異変があまりにも規格外だったため、彼女自身が直々に表舞台へ姿を現さざるを得なかったのだ。
ミュリエルは、形を潜めた感情のまま、ぽつりと呟いた。
「まったく……時計の針が完全に狂ってしまいましたね。どうしたものか……」
彼女は、この世界が「神が去った後に回帰した世界」であることを正確に認識していた。だが、彼女自身は回帰前の具体的な記憶を持っているわけではない。
それでも、一つだけ幸運なことがあった。
彼女の信奉する神は非常に慈悲深く、彼女に「時計の針」を無理やり巻き戻すような、過酷で理不尽な使命までは背負わせなかったのだ。
もっとも、このまま世界が悲惨な末路を迎えるのを避けるためには、与えられた役目を全うしなければならない。
目の前の深刻な難題をひとまず心の脇へと追いやったミュリエルは、気まずそうに佇むクロービスとレックスへ視線を戻した。その顔に、再びいつもの穏やかな微笑みがふわりと広がる。
「私たちも、そろそろ行きましょうか」
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『[システム] ベンチェスター王国の極西部、ウィブリル島へ移動しました。時差に応じて現在時刻を調整します』
「わあ……!」
私とテシリドが光の向こうから這い出た先には、海岸近くにぽつんと佇む、可愛らしいレンガ造りの家があった。
低いクリーム色の塀の向こうには、陽光を浴びてきらきらと輝く白い砂浜と、どこまでも広大なエメラルドブルーの海が広がっている。
背後を振り返れば、鬱蒼と茂る熱帯植物の深い森。
ここは大陸の最西端に位置する、絵に描いたような美しい辺境の地だった。
場所ががらりと変わっただけで、暗かった気分まで一変していく。ついさっき聖皇庁でミュリエルと遭遇したことなど、潮風に洗われてすっかり頭の中から吹き飛んでしまった。
テシリドもまた、この隠れ家のような場所がかなり気に入ったようだった。
「いい場所だな。ところで、ここには本当に私たち二人だけなのか?」
「さあ? とりあえず、中に入ってみよう」
領主様が私のために用意してくれたという宿へ足を踏み入れる。
木材の温もりを感じるログハウスのような内装で、こぢんまりとしながらも非常に居心地よく整えられていた。
〈庭以外は、必要なものがすべて揃っているな〉
「そうですね」
アグネスの言葉に頷き、私は家の中をあちこち見て回った後、テシリドに声をかけた。
「キッチンに新鮮な食材がたくさんあるよ! お腹も空いたし、まずはご飯にしようか。私が作るね」
「一緒にやろう」
二人で台所に立ち、たっぷりのエビとニンニクを放り込んだアーリオ・オーリオ・パスタを作り、皿いっぱいによそった。ちなみに、エビの固い殻を器用にすべて剥いたのはテシリドだ。
出来立てのパスタを綺麗に平らげた後は、デザートに甘いシャーベットを食べて口直しまで済ませた。
お腹が満たされれば、次にするべきことは決まっている。
「アイ、海を見に行かないか?」
「あ、ちょうど私もそれを言おうと思ってた!」
「行こう」
二人はそれぞれ、砂浜を歩くのに適した軽い服装へと着替えて外へ飛び出した。
〈ふう、素晴らしい潮風だな〉
空気にはアグネスの精霊体がそのまま溶け込んでいたが、不思議と息苦しさは感じない。せっかくプライベートな海まで来たのだから、アグネス自身も無粋な気分を台無しにしたくなかったのだろう。
私は、つばの広い麦わら帽子が飛ばされないよう手でそっと押さえながら、隣を歩くテシリドを見上げた。
薄い白シャツを羽織った彼の姿は、ただ潮風に吹かれているだけで、まるで一枚の宗教画のように絵になっている。少し乱れた前髪から覗く美貌は、相変わらず非現実的なほどに整っていた。
「海岸沿いをゆっくり歩こうか」
「うん、いいよ」
ウィブリル島は大陸の最西端にあるため、聖皇庁との時差がかなり大きかった。
そのおかげで、目の前では午前の爽やかな陽光が海面に砕け散り、まばゆい光の帯を作り出している。目に映るきらめきも、耳に届く穏やかな波の音も、肌に触れる柔らかな風も、そのすべてが心地よかった。
「海に来るなんて、本当に久しぶりだな」
「今夜は綺麗な夕日を見て、明日の朝は反対側の岬へ行って、日の出を見よう」
「いいな、アイ」
「釣りもする? 岩場も多いから、きっと大物が狙えるよ。もしテリが鯛を釣ってきたら、明日はそれで鯛のパスタを作ってあげる」
「……どうして私が、鯛だけを釣る前提なんだ?」
「実績に基づく評価かな?」
「はぁ。やはりあの時、無理にでもカジキを捕まえておくべきだったな……」
以前のダンジョンでの出来事を引きずっているテシリドの深いため息を聞いて、私は思わず吹き出してしまった。
その時、テシリドが私と目を合わせたまま、ふと足を止めた。
「アイ、ちょっと待ってくれ」
彼はそう言うと、波打ち際の岩陰に腰をかがめた。
そこには、潮が引いた岩のくぼみに取り残された、小さな熱帯魚が取り残されていた。テシリドは、わずかに残った海水ごと小さな命を両手でそっとすくい上げ、そのまま深い海へと静かに歩いていった。
〈優しい男だな〉
首飾りの中から戻ってきたアグネスが、淡々とした声を漏らす。
誰にでもできる、ささやか極まりない善行。
だが、魚をそっと海へ帰してやるテシリドの広い背中を見つめる私の胸中には、少しだけ複雑な影が落ちていた。
あれは、彼に科せられた「七つの善行」のポイントには換算されない、純粋な善意なのだ。
何度も世界から理不尽に憎まれ、使い潰されるような人生を繰り返してきたというのに、彼は未だに、世界を慈しむその優しい心を失っていない。
あんな風に、魂の根底に生まれつき備わった善性というものは、一体どれほど深いものなのだろう。私のような、打算的で利己的な凡人には、とても真似できそうにない。
だからこそ、そんな彼を徹底的に痛めつけ、憎むように作られたこの狂った原作世界を、私はどうしても許せそうになかった。善を勧め、悪を懲らすために、この世界を救おうと必死に奔走している自分自身にすら、どこか偽善的な嫌悪感を覚えてしまう。
「はぁ……」
「どうしてため息をつくんだ?」
魚を海に返し終え、濡れた手を拭きながら戻ってきたテシリドが不思議そうに尋ねた。
私はしばらく彼の穏やかな顔を見つめ、衝動的に口を開いた。
「世界が、嫌いになったから」
「……君が、か? どうしてだ?」
「……」
テシリドはそれ以上無理に追及しようとはせず、少しだけその場に立ち尽くした後、再び私の隣へと戻ってきて歩調を合わせた。
「……」
「……」
なぜだろう。お互いに次の言葉が見つからず、不自然な沈黙が流れる。
その気まずい空気を、幸いにもアグネスが割って入ってくれた。
〈アイレット、そろそろテシリドに、ここへ来た本当の目的を話してもいい頃合いじゃないか?〉
「あ、そうですね」
私は顔を上げた。こちらを見つめるテシリドの表情は、まるでその言葉を最初から待っていたかのようだった。彼も内心では、私がただの「純粋なバカンス」のためだけに、こんな辺境の島へ来たわけではないと見抜いていたのだ。
「実はね、どうしても攻略しなきゃいけないダンジョンが、この島にあるんだ」
「ウィブリル島にダンジョン? ここは完全な禁足地のはずだが」
「本当にあるの。ただ、正確な場所まではわからないから、今日は海岸線を歩きながらその入口を探そうと思って」
「なるほど。……そのダンジョンには、一体何があるんだ?」
「それは……実際に入ってみないと分からないな」
「君でも分からないのか?」
「うん」
「アイ、お前が知らないことも、こんな風にあるんだな」
本気で意外そうに目を見開くテシリド。
原作を何度も読み返したシステム所持の読者としては、少しだけプライドがチクりと痛む。
「そんなに多くないよ! せいぜい二つか三つくらい。それに今回は、予定外に突然出現したダンジョンだから知らないだけだし」
私がムキになって言い訳を重ねると、テシリドは小さく笑った。
「そうか。……じゃあ、一つだけ聞いてもいいか?」
「何?」
ようやく名誉挽回の機会が来たとばかりに、私は彼の質問に耳を傾けようと、そっと彼の肩へと身を寄せた。
その瞬間――
「アイ」
「うん」
「ミュリエル・フィリジェについて、君は一体どれくらい知っているんだ?」
「……」
……しまった。完全に顔に出た。
私はぴたりと足を止め、テシリドを凝視した。
原作の聖女に、あからさまな関心を示している目の前の主人公。その眼差しは、冗談抜きで真剣そのものだった。
『「魂を裁く天秤」は、平手打ちの準備ではないかと疑っています』
『「天機を読む監察官」は、イエローカードを取り出す準備をしています』
私は深呼吸を繰り返し、暴れそうになる頭の中を必死に整理した。
まずは質問の意図を探らなければ。落ち着こう。冷静に、率直に聞くのだ。
「もしかして……ミュリエルに惚れたの?」
「……は?」
その瞬間、私はテシリドという男が、自分が思っていた以上に表情豊かな人間であることを知った。
今の彼は、本気で心底嫌そうな、そして呆れ果てた顔をしていた。あまりにも想定外すぎる質問に、彼の方が困惑している。
テシリドは私を追いかけるようにして一歩踏み込んできた。
「どうして話がそこへ繋がるんだ?」
「え……だって、ミュリエル・フィリジェに惚れたから、だから私に彼女のことを詳しく聞いてきたんじゃないの……?」
「はぁ……」
「違う……の?」
「断じて、天地がひっくり返っても違う」
彼は心底疲れたように、片手で額を押さえた。いや、むしろ軽くショックを受けているようにすら見える。
「どうしてそんな極端な発言になるんだ?」
「だって……」
――原作の第86回目の人生で、君たちはそういう深い関係になったから。
思わず口から出そうになった言葉を、私は寸前で飲み込んだ。
未来の出来事をこの世界の人間に直接漏らせば、『天機を読む監察官』から一発でイエローカードを二枚もらうことになる。そうなれば、丸一日どころではない長時間、三大システムと神聖降臨が封印され、ペナルティで大量に吐血する羽目になるのだ。
葛藤の末に私が険しい顔で黙り込むと、テシリドはただ待つだけの男ではなかった。私の深刻な沈黙と微表情から、恐ろしいほどの速度で情報を読み取っていく。
テシリドは眉をひそめ、おそるおそる、確信に満ちた声で尋ねた。
「アイ、まさか……」
「……」
「“未来の私”が、ミュリエルに関心を持っていたと……そう考えているのか?」
この期に及んで、彼は聖女をわざわざ名前で呼んだ。
「それを、ただの“関心”程度だと思う?」
思わず私も声を荒げてしまった。
『「天機を読む監察官」は沈黙しています』
……あれ?
警告のブザーも鳴らなければ、吐血のペナルティも来ない。どうしてだ?
私が狐につままれたような顔をしていると、テシリドは必死な形相で身を乗り出してきた。
「君が知っている未来で、私とミュリエルはどういう関係だったんだ? 教えてくれ、アイ」
あまりの切迫ぶりに、まるで身に覚えのない大罪の冤罪を必死に晴らそうとしている容疑者のようだった。
私は、なぜか急に基準の甘くなった『天機を読む監察官』の判断を信じることにした。できるだけ慎重に、婉曲な表現を選びながら、ぽつりぽつりと口を開く。
「二人は……そういう、男女の関係になるの」
「……」
それでも警告は来ない。ならば、もう少しだけ踏み込んでみる。
「君は、聖女が皇太子妃になった後……彼女に寿命を分け与えるために寝室へ入って、そのまま……朝まで出てこなかった」
「……」
原作に書かれていた一節だ。翌朝になり、太陽が昇り、小鳥がさえずる描写。文学的な比喩ではあるが、その意味するところはあまりにも明白だった。
テシリドの海色の瞳が、激しい衝撃に大きく揺れた。
「……とんでもない誤解だ。私がそんなことをするわけがない……!」
最後まで言い切れない様子を見るに、どうやら「朝まで出てこなかった」という大人の意味はきちんと伝わったらしい。テシリドは、この世の終わりを目撃したかのような顔で必死に訴えかけてくる。
「そんなことはあり得ない。絶対に、天地が裂けてもない。本当にないんだ!」
「でも、それをどうして今言い切れるの? まだ起きていない、未来のことなのに」
「……」
テシリドは絶句した。その美しい顔には、言いようのない焦燥と困惑が張り付いている。
その間にも、私の頭は必死に彼の潔白を証明するためのシステム的材料を探していた。
『天機を読む監察官』からのペナルティが一切発生しない。この事実が示す可能性は、システム上、二つに一つだ。
-
その出来事が、すでに主人公に起きた「過去の事実」である場合。
-
その未来が、主人公には「絶対に起こらない」と確定している場合。
前者は100%あり得ない。彼はまだ17回目の回帰線におり、恋愛経験など一度もないことは以前のダンジョンで証明されている。
ならば、答えは後者。
――決して、起こり得ない未来。
テシリドと聖女の間にあったはずの、恋愛も、裏切りも、その未来の全てが、すでにこの世界から完全に消滅しているのだ。
『一体何が原因なの? どうしてそんなことに……?』
胸の内に、言葉にできないほどの疑問と、そしてかすかな期待が渦を巻く。
だが、真相を知っているのは、他でもない目の前のテシリド本人だった。彼は今もなお、未来の自分の身の潔白を主張するのに必死だった。
「アイ、私は絶対にそんなことをしない。きっと何か解釈の間違いだ。予言の読み方を誤解している可能性もある!」
「……」
「誓って言う。君が考えているような不埒なことは起きていない。いや、起きない! 私は寿命を分け与えたら、すぐに用件を済ませて部屋を出てきたはずだ!」
「……」
私は黙ったまま彼を見つめた。
もし本当に、主人公と聖女の未来が完全に消え去っているのだとすれば、それは未来そのものが改変されたという動かぬ証拠。そして、その改変を引き起こした「原因」に、私はたった一つの心当たりしかなかった。
「そんな、ありもしない未来のことは今すぐ忘れてくれ。代わりに、私の言葉を信じてほしい。今すぐ物的な証拠を見せることはできないが……君だけは、私を信じなければならない。ほかの誰かならともかく、君にまでそんな誤解をされるなんて……」
「ほかの誰かならともかく、ですって?」
私がその言葉をなぞるように低く繰り返すと、テシリドの表情が再び複雑に、激しく揺れ動いた。
「あ……」
戸惑い、焦燥、悔しさ、ためらい、そして隠しきれない熱を帯びた羞恥。
さまざまな感情が彼の整った輪郭を駆け巡り――次の瞬間、それらはすべて消え去った。
夕日の始まりを控えたまばゆい光の中で、美しい青年が、まっすぐに私だけを見つめていた。その瞳はいつものように真剣で、静かで、だが奥底には張り裂けそうな緊張がにじみ出ている。
その射抜くような視線に捕らえられ、私の心臓も同じように脈を乱し始めていた。
テシリドの喉が、大きく上下に動く。
そして、潮風に乗って零れ落ちた彼の言葉は――
「アイレット・ロデライン」
「……」
「分からないのか? 本当に?」
「……」
問いに対して問いで返した彼は、泣き出しそうな、それでいて愛おしそうに微笑んでいるような、酷く歪んだ表情を浮かべていた。
「……」
この時、私は一言も発することができなかった。もし小さくでも口を開けば、言葉ではなく、肋骨の裏で暴れる心臓がそのまま飛び出してしまいそうだったからだ。
〈あ……あの、みんな……?〉
「……」
「……」
〈そ、その……そうね。これは、ちゃんと当事者たちで解決しなきゃいけない問題だわ。私は、静かにしているから……?〉
アグネスの気遣わしげな声すら、今の私の耳には届かなかった。
冷たい海風の音も、絶え間なく寄せては返す波の音も、何もかも。世界を埋める音はいくらでもあったはずなのに、まるで私たちが立つ空間だけが真空に閉ざされたかのように静まり返っている。
私の世界のすべてが、目の前のテシリド・アルジェントという一人の存在だけに集束していた。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。ようやく、私の世界にテシリドの声が戻ってくる。
「アイ」
全神経を彼の唇に集中させる。
「以前、君が私に尋ねただろう。この世界で、何かやりたいことはないのか、と」
「……」
古い記憶が脳裏に蘇る。力をすべて奪われ、彼と共に旅を始めたばかりの頃。夕暮れの乗合馬車の中で交わした、あの寂しげな会話。
――『今回は善良に生きたいんだ』
――『ほかにやりたいことはないの?』
――『さあな。君が手伝ってくれるなら、考えてみてもいいかもしれない』
あの頃の彼は、今にも波の泡となって消えてしまいそうなほど儚い眼差しをしていて、それでいて私の記憶に鮮明に焼き付いていた。
「もともと、やりたいことなど何もなかった。……あるとすれば、君があまり望まないであろう、愚かな願いくらいだ」
心臓が、きゅっと冷たく縮こまる。
「……死にたかったの?」
「うん」
「……」
「でも、今は違う」
その言葉に、奪われていた肺の空気がようやく戻ってきた。
「今は生きたいと思っている。少なくとも、この時間軸が、この人生が終わるまでは……長く、長く」
まるで美しい御伽話でも語るかのような穏やかな声で、彼は生まれて初めて、生への執着を口にした。
愛おしそうに細められた彼の瞳から、温かな微笑みがゆっくりと広がっていく。
「だから、もし私にそれが許されるのなら……」
「……」
「この時間軸の終わりまで、君と一緒に生きていたい」
「……」
ああ、私はきっと、この瞬間を人生で一番大切な記憶の引き出しに仕舞い込むのだろう。
果てしなく広がる青い海と、どこまでも続く水平線。その壮大な景色を背負って、ボロボロになりながら世界を巡ってきたテシリド・アルジェントが、私に向かって「君と生きたい」と告げたこの姿を。
私は目が痛くなるほどに、彼を凝視していた。
喉が詰まるような感覚をどうにか押し殺しながら、私は小さく、だがはっきりと答えた。
「うん。この時間軸で、一緒に生きよう」
私の言葉を聞いた瞬間、テシリドの顔から張り詰めていた緊張が一気に崩れ去った。抑えきれない安堵と喜びが全身から溢れ出し、彼の整った美貌がくしゃりと子供のように歪む。
その美しい姿を、目に焼き付けようとした――まさに、その瞬間だった。
『「魂を裁く天秤」が感動的なプロポーズに拍手を送っています!』
『「天機を漏らす監察官」が、また余計なフラグを建築したと言わんばかりに額を押さえています』
『「幻想の混沌を見守る瞳」が、過去の悲恋を思い出して号泣しています』
相変わらず神々は空気を読まず、人の神聖な瞬間を大げさにする天才だった。
『ちょっと、これのどこがプロポーズなんですか! 勝手に話を盛り上げないでください……!』
心の中で抗議した瞬間、一つの奇妙なシステムログが視界に入った。
『「世界を築く賢者」が極度に緊張しています』
え?
世界を築く賢者が、なぜ緊張しているのだろう。
そう疑問に思った瞬間、頭のてっぺんから冷たい氷水を浴びせられたかのような、強烈な悪寒が走った。ようやく解け始めていた私の本能的な危機察知センサーが、けたたましく警報を鳴らす。
そして、その予感は最悪の形で的中した。
『[システム] 緊急警報! 不正なジャンル離脱が検知されました』
……は?
ジャンル離脱って、一体何のこと!?
「アイ……?」
怪訝そうに私を呼ぶテシリドの声に、私は顔を真っ青にして彼の背後を指差した。
ゴゴゴゴゴゴ……!
テシリドの広い肩越し、穏やかだった海の遥か彼方で、天を突くほどに巨大な渦潮が発生していた。
そして――
〈ギャアアアアアアアアッ!!!〉
天地を揺るがすような、おぞましい咆哮。
海水を豪快に突き破り、青い鱗に覆われた天災級の巨躯が姿を現した。砂浜に、山のような影が落ちる。
『[システム] 警告。魔界序列183位「北氷海の首領 レヴィアタン」が人間界に出現しました。SS級ボスの影響により、半径10kmの範囲が魔界化します』
『[システム] 警告。魔界化された領域はダンジョンのルールに従います』
『[システム] 警告。「瘴気重畳」「低次元重畳」が開始されます』
『[システム] 警告。空間転移石の使用が制限されます』
「な、なによこれええええ!!!」
穏やかな保養地に、北海の極大ドラゴンが出現した。
しかも、今まで戦ってきたアナクシアなどとは比較にならない、本物のSS級ダンジョンボス。
その瞬間、私の脳裏にある恐ろしい「原作読者の記憶」が蘇った。
――『私が告白した途端にドラゴンが現れて、ブレスを吐かれて最愛の人が死んじゃったんですぅぅぅ! 本当に理不尽な死でしたぁぁ!』
――『そうですよぉぉ! たぶん、原作に存在しない恋愛ジャンルの行動をすると、どちらかが死ぬか、両方死ぬ運命なんですよぉぉぉ!』
「これがあの、不条理ギャグみたいな悲恋バッドエンドの回収なの!?」
私の悲鳴は、吹き荒れる突風にかき消された。
レヴィアタンが咆哮と共に周囲の空気をダイナミックに吸い込み、その巨大な顎の奥に、不吉な青い光が集積され始める。
私は呆然と立ち尽くしたが、すぐさま我に返り、体に眠る第九階位の神聖力を無理やり呼び起こした。
「彗星の部屋(コメット・チェンバー)――!」
だが、無慈悲なシステムメッセージがそれを遮る。
『[システム] 緊急警報! ジャンル逸脱ペナルティが、対象者に見合ったバランスへと調整されます。「北氷海の首領 レヴィアタン」にデバフ効果が追加されます』
『[システム] 警告。これより超越デバフ「神聖力を封じる視線」が適用されます』
「……っ!」
レヴィアタンの濁った巨大な瞳と視線が交わった瞬間、私の中に流れる全ての神聖な力と、神々との接続がバツりと音を立てて断ち切られた。
パリンッ!
私の周囲に展開されかけていた銀色の結界が、薄いガラスのように儚く砕け散る。
『[システム] あなたの神聖力は封印されました。残り時間:1時間59分』
『[システム] 超越スキル「神降ろし」は封印されました。残り時間:1時間59分』
最悪だ。
「バランス調整」という名のシステムによる強引なイジメによって、私の手足は完全に縛られてしまった。
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ミュリエルの正体と「世界の変化」
聖女ミュリエルの正体は、500年間眠り続けているはずの最強者「神聖なる時計工、ミュ・エリナス」であった。世界の異変(狂った時計の針)を察知して自ら姿を現した彼女は、回帰の記憶こそないものの、世界が神の去った「回帰世界」であることを認識していた。
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二人の「生きる約束」と、消えた原作の未来
保養地の美しい海辺で、アイレットはテシリドに「原作の聖女との未来の関係」を問い詰めるが、彼から必死に否定される。そのやり取りから、彼と聖女の未来(恋愛・裏切り)が完全に消滅したこと、すなわち「未来が改変されたこと」を確信した二人は、この時間軸で共に生きる約束を交わし、想いを通じ合わせる。
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理不尽な「ジャンル離脱ペナルティ」の発生
ロマンス的な空気(不正なジャンル離脱)を検知したシステムにより、保養地に突如SS級ボス『レヴィアタン』が出現する。さらに、バランス調整という名の理不尽なペナルティによって、アイレットは最強の切り札である「神聖力」と「神降ろし」を2時間封印されてしまう。