こんにちは、ちゃむです。
「残された余命を楽しんでいただけなのに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
111話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- ガラスの湖
数日の静寂が過ぎ去った。
私はセレモンお兄様と約束していた「ガラスの湖」を訪れるため、北方公爵領――ブラドック領へと向かう馬車の中にいた。
お父様からの手紙に心を打たれたのは事実だった。けれど同時に、激しい狼狽も感じていたのだ。これまで自分が口にしてきた「大丈夫」という言葉のすべてが、自分や周りを欺く嘘だったような気がして。だからこそ、約束を口実にして、少しだけ皇宮の重苦しさから逃げ出したかったのかもしれなかった。もちろん、本物のガラスの湖を見てみたいという純粋な期待もあったけれど。
向かいの席には、いつものように背筋を伸ばしたビアトン卿が座っている。ふと気になり、私は小さな声をかけた。
「先生、あのですね」
「はい、皇女殿下?」
たった一言声をかけただけなのに、彼はいつものように柔らかく微笑んでくれる。ビアトン卿と接していると、胸の奥に灯りがともるように心が温かくなった。
「どうして私は、こんなに小さいんでしょう?」
「小さい……ですか?」
「背も低いし、どこからどう見ても子どもっぽくて……」
馬車の窓ガラスに映る自分を見つめる。つい最近、九歳の誕生日を迎えたばかりだ。
ビルロティアン皇家の血筋は肉体の成長が非常に早い。九歳ともなれば、日本の感覚で言えば十代半ばほどの容姿に成長するのが普通だった。
「もう九歳になったのに、まだ子どもみたいなんです。……あ、どうしてミハエル兄さんも成長しないんですか?」
ふと思いついて尋ねると、ビアトン卿は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、少し間を置いた。彼には、どんな何気ない会話も劇的な物語のように語る天性の才能があった。
「それはですね……何も考えていないからです」
「え?」
「学者たちの最新の研究によれば、ですが」
ビアトン卿は真面目な顔で説明を始めた。
――かつて「過去に戻れるなら戻りたいか」と問われた際、ビアトンの答えは常に「NO」だった。現在の地位を築くまでに血の滲むような努力を重ねてきた彼は、あの過酷な過程をもう一度やり直す自信などなかったからだ。『二度と同じ過ちは犯さない』――そう誓っていた彼だったが、ロベナ大公との再会で己の非力を痛感し、ベクサの遺した膨大な研究を貪るように学ぶ中で、過去以上に必死に今を生きるようになっていた。
最近ではカリンと共に「ナルビダルの刻印」を解き明かす傍ら、イザベルの身体の謎についても調査を進めていたのだった。
なぜイザベルだけが、他の皇族と比べて極端に成長が遅いのか。
『ミハエル皇子殿下のように“何も考えていないタイプ”の場合、肉体の成長が著しく遅れるという記録が存在します』
研究資料を初めて目にしたカリンは、素直に感じ入っていた。
『皇族の肉体は、魂を宿すための器なのだそうです。関心も、悩みも、煩悩すらも失われれば、肉体もまた成長を止める……。歴史上には、生涯を子どもの姿のまま終えた皇帝も存在したとか』
『ですが、皇女様は正反対です。むしろ考えすぎなほどに悩んでいらっしゃいます。ビアトン卿もそう思われませんか?』
五百年以上に及ぶ皇家の歴史の中でも、イザベルのような症例は皆無だった。二人は思考を重ね、一つの結論へと辿り着いていたのだった。
『誰よりも「大丈夫」と笑い、誰よりも幸せそうに振る舞っている……』
『ご本人は「もう吹っ切れた」と思っていらっしゃるかもしれませんが、魂の深層では異なる可能性があります。これほど今の日々を愛おしく思っている方が、本当に平気でいられるでしょうか?』
『ですがカリン卿、皇女殿下が感じていらっしゃる幸せは偽りなき本物です』
『本物だからこそ……なおさら、怖いのではありませんか?』
イザベルの幸福感は本物だ。けれど皮肉にも、その幸せが大きければ大きいほど、それを失うことへの恐怖も巨大化する。
『本能的に、時が流れて年を重ねることを恐れているのかもしれません。だからこそ、肉体が成長を拒んでいるのでしょう』
『……自分自身が「大丈夫ではない」という事実に、心が追いついていないのですね』
自分を最も理解し、慈しむべき自分自身が悲鳴を無視し続ければ、いずれ心は蝕まれてしまう――。
――そんな二人の密かな苦悩など露知らず、現実の馬車の中でビアトン卿は、私の問いに柔らかく言葉を添えた。
「学者たちの間では、皇族の成長速度は『ビルロティアン剣術』を習得するために肉体を急激に順応させる結果だという説が有力です。皇族は精神が肉体をある程度統制できる特殊な体質なのでしょう。ミハエル皇子殿下は何も考えていらっしゃらないので、極めて自然体でいらっしゃるのだと思われます」
「なるほど……。兄さんは見た目は子どもでも四皇子・皇女の中でほぼ最強ですから、肉体を成長させる必要性自体を感じていないのかもしれませんね」
「左様でございます」
「でも……私も何も考えていないわけじゃありませんよ?」
「もちろん仮説段階の話ですから、皇女殿下の場合は一概には申し上げられません」
ビアトン卿の脳裏に、カリンの言葉がリフレインしていた。
(自分を理解してあげなければ、心は病んでしまう……)
だが、その残酷な推論を幼い少女に突きつけることなどできるはずもない。確証のない仮説で、彼女の繊細な心をかき乱したくはなかった。
「皇女様。ビルロティアンの肉体は魂の形に寄り添うと申し上げましたね?」
「はい」
「おそらく、皇女殿下の魂はこの宇宙で一番かわいらしいのでしょう」
「……はい?」
「その過剰なまでのかわいらしさに肉体が追いつこうと必死になっているため、成長が追いつかないようです。ふふふ」
「……」
あまりに大真面目な顔で突飛な理屈をこねるものだから、私は返す言葉を失って窓の外を仰いだ。(ビアトン先生は本当に理屈っぽいな)と思いながらも、その突飛な優しさが嫌いになれなかった。
少しの沈黙の後、私はおそるおそる尋ねてみた。
「ところで……私って、可愛いですか?」
「皇女様、その疑問符を句点に変えて、文章を作り直してみてください」
「(疑問符を取る……?)『ところで、私は可愛いです』……ですか?」
「いいえ、疑問符の代わりに感嘆符を三つ取り付けるのが適切ですね」
「『ところで、私は可愛いです!!!』……って、それだと『私ってかわいいんです!!!』になりませんか!?」
私が困惑すると、ビアトン卿は満足そうにくすくすと笑った。
「専任教師として、実に適切な言語教育ができて誇らしい限りです」
「これが適切な教育なんですか!?」
「皇女様は、ご自身がどれほど愛らしく、世界から慈しまれている存在なのかを、もっと学ぶ必要がありますから」
返す言葉もなく呆然としていると、私の足元で舟をこいでいたキムボルボルが、心底呆れたように低く呟いた。
【おしゃべり王……】
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ブラドック公爵領への道のりは果てしなく遠かった。アルペア王国を越え、さらに北の最果てを目指す旅路は、何度も馬車と馬を乗り継ぐ過酷なものだった。
やがて、見渡す限りの鬱蒼とした深い森の前に到着した時、御者が青ざめた顔で首を振った。
「ここから先へは入れません! お金をお支払いいただければ馬車と馬はお譲りしますが……なぜあの『魔境』へ行こうとするのです? あそこに入って生きて戻った者など、ただの一人もいないのですよ!」
結局、私たちは魔法で資金を工面して馬車買い取り、森の前で降ろされた。私は不安になり、ビアトン卿の袖を引いた。
「ビアトン卿……本当ですか? 生きて帰ってきた人が一人もいないなんて……」
「なぜいないのです? ここにいますよ」
「えっ、いるんですか!?」
「私も入ったことがあります。他には皇帝陛下や、ヒルケル・ブラドック公爵も生還されていますね」
「……もっと普通の人で帰ってきた人はいませんか?」
「比較的普通の方でしたら、セレモン皇子殿下も生還されています」
「……それを『普通』と呼んでいいのかは疑問ですけれど」
「まあ、一般の人間が生還できないというのは事実です。何しろここは、ブラドック公爵家が所有する『庭園』なのですから」
庭園と呼ぶには広大すぎる、山脈そのもののような原生林だった。
「公爵家の許可なき者を拒む迷宮であり、結界や恐ろしい罠、魔獣が蠢いています。ですがご安心ください、道順は熟知しております。あ、それとこの薬をお飲みください。瘴気から身を守る丸薬です」
差し出された丸薬を飲み込むと、ビアトン卿はまるで愛娘の成長を見守る父親のような、尋常でない満面の笑みを浮かべた。
(……この人、私のすることなら何でも誇らしいのかな……自尊心がどうかなっちゃってるんじゃ……)
「大きな錠剤を一度で飲み込めるなんて、皇女様は本当に器用でいらっしゃいますね!」
頭を優しく撫で回され、私は誇らしく胸を張った。
「錠剤なら百個だって飲めますよ!」
「なんと……とてつもない才能です!」
「ふふん、そうでしょう? えへへ」
満九歳にもなって、こんな子どもっぽいやり取りで褒められるのが嬉しいなんて。前世では同情されることばかりで、褒められた経験が少なかったからか、私は極端に称賛に弱いらしかった。それでも、ごっこ遊びやおままごとに興味が薄れてきたあたり、自分なりに成長しているのだと思いたかった。
馬車は魔境の深部へと進んでいく。
「不思議なくらい、静かですね」
「普段は何か起きるのですか?」
「裏道とはいえ、魔獣の二、三匹は襲いかかってくるものなのですが……」
「ということは、誰かがあらかじめ道を掃除してくれたということですね」
ビアトン卿が静かに短剣を抜いた。
「た、短剣!? なぜですか!?」
「魔獣ではなく、人間が襲撃してきそうですので」
次の瞬間、息をのむような早業が眼前で繰り広げられた。ビアトン卿が空中で短剣を閃かせると、チチチッ!と甲高い金属音が響き、床板に何かが突き刺さった。
細い針だった。先端から立ち上る紫煙が、それが致死性の毒針であることを物語っている。
驚く間もなく、ガガガアン!と激しい衝撃が走り、馬車の窓枠と天井が丸ごと吹き飛ばされた。吹き荒れる風の中で、ビアトン卿は悠然と上空の巨木を見上げた。
「ずいぶん手荒い歓迎ですね、セレモン皇子殿下。語り合うのは歓迎ですが、皇女殿下に万一のことがあっては困りますので、そのあたりでおやめいただけますか?」
見上げると、はるか高所の太い枝の上に、ゆらゆらと危なっかしい足取りでセレモンお兄様が立っていた。
「お兄様! 危ないです! 早く降りてきてください!」
叫んでから、急に恥ずかしくなった。お兄様ほどの怪物にとって、木の上の高さなど危険でも何でもないのだ。この世界の「常識」に慣れたつもりでいて、まだ抜け切れていない自分が恥ずかしい。それでも、危険な真似をしたお兄様にむっとした。
「そんな高いところで危険なことをして! もし馬車が横転して怪我人が出たらどうするんですか!?」
「それは……運が悪かっただけじゃないかな? 急に雨が降ってきたからといって、雲に怒ることはできないだろう?」
「すごく怒られたいんですか!? 私、本気で怒りますよ!?」
「……」
セレモンお兄様は面食らったように瞬きをし、それから弾けたように笑い出した。
「ふはっ、私にできる迎え方なんて、これくらいしかないからね」
彼は軽やかに地へと舞い降りた。ただ私たちを迎えに来てくれただけなのだと理解した。木の上で己の存在を誇示するように待っていたのは、まるで幼い子どもが得意技を自慢するような、彼なりの不器用な歓迎の形だったのだ。
「どれだけ驚いたか分かりますか?」
「どうして驚いたのかは分からないけれど……驚かせてしまったなら謝るよ」
セレモンお兄様は柔らかく微笑み、私の頭をそっと撫でた。その手からは、ビアトン先生に向けられるものと同等か、それ以上の純粋で温かな好意が溢れ出ていた。
「こちらに座ってください」
隣に座らせたお兄様の服に、木の葉がついていたので取ってあげる。
「こんな葉っぱをつけたままなんて、だらしがありませんよ」
「出会った時から、君は私を叱ってばかりだね」
「お兄様が叱られるようなことばかりするからです!」
すると、対面に座るビアトン卿が少し拗ねたような声で口を挟んだ。
「セレモン皇子殿下がわざわざ魔境の入口までお出迎えにいらっしゃるとは思いませんでした」
「家族なんだから、当然だろう?」
「他の皇子様方がいらした際も、お迎えになられたのですか?」
セレモンお兄様は首を横に振り、少し真面目な顔をしてビアトン卿を手招きした。そして耳元で囁くように言った。
「だって……あいつらは妹じゃないから」
小声のつもりだったのだろうが、静かな森の中にバッチリ響き渡っていた。
「……なるほど、格別の理由でございますね」
「ビアトン卿なら分かってくれるよね?」
「ええ、痛いほど理解いたしました」
(そんな無茶苦茶な理由で納得しないでください……!)と思いつつも、二人の脱力感のあるやり取りに毒気を抜かれてしまった。
天井の吹き飛んだ「オープン馬車」は、再び走り出した。
生い茂る巨木の隙間から、時折のぞく空はどこまでも青い。木々と土の匂い、吹き抜ける風が心地よく、ドラマで見る「オープンカー」の主人公になったような気分に浸れたのは――最初の数十秒だけだった。
「うぐぐ……っ!」
強烈な疾風が容赦なく顔面を叩きつける。短髪にしてから一年でそこそこ伸びた髪が、ムチのように顔を連打して目も開けていられない。オープンカーの醍醐味など、画面のあちら側で眺めるだけで十分だったのだ。
「どこか痛いの? 顔色が悪いけれど」
「……髪の毛に拷問されている気分です」
「そうか、じゃあ切ろうか?」
相変わらず、問題を最悪の極端さで解決しようとするセレモンお兄様だった。
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イザベルの成長遅延と「時間への恐怖」
皇族の成長は精神(魂)に影響される中、イザベルの成長が極端に遅いのは「今の幸せを失いたくない」「時が経つのが怖い」という潜在的な恐怖から無意識に成長を拒んでいるためだと、ビアトンとカリンによって推測される。
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セレモン兄様の手荒い歓迎と不器用な情愛
ブラドック公爵領の「魔境」を進む馬車を、セレモンが毒針や天井破壊という手荒い奇襲で出迎えるが、それは「妹だから」という理由で自ら迎えに来た彼なりの純粋な歓迎の表現だった。
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旅路の中での心温まる交流
ビアトンの極端すぎる褒め言葉や言葉遊び、セレモンとの突拍子もないやり取りを通じて、逃避の旅路でありながらもイザベルは自分の存在が愛されていることを実感し、心を解きほぐしていく。