余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら

余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら【44話】ネタバレ




 

こんにちは、ちゃむです。

「余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら】まとめ こんにちは、ちゃむです。 「余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら」を紹介させていただきます。 ネタバ...

 




 

44話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 聖女の洗礼と、暴走する二つの魔力

幸いなことに、カーディエンは数歩先で立ち止まり、私を待っていてくれた。

私はそっと、彼の隣へと歩み寄る。

しかしカーディエンは、こちらを一瞥もしようとしない。

「……あの、閣下」

「…………」

返事はない。私は心の中で深い溜め息をついた。

(この意地っ張り……!)

だが、仕方がない。立場の弱い私が折れるしかないのだ。

「何か誤解されているようですが、私もメルチェデスを離れたいわけではないんです」

その言葉に、ようやくカーディエンの視線が私を捉えた。

私は近くの壁にそっと背中を預け、そのまま言葉を続けた。

「でも、私はメルチェデスの一員ではありません。たとえ家族がいなくても……」

私は彼に向かって、無理に笑ってみせた。カーディエンの紫色の瞳が、わずかに見開かれる。

「公私の区別くらいはついているつもりです」

どれほど大切に思っていても、どれほどメルチェデスでの暮らしが楽しかったとしても、私はあの場所にずっと居続けられる人間ではないのだ。

「……」

「だから、あんな態度をとっていたんです。いずれ去る日が来ることを考えて身構えていただけ。メルチェデスを大切に思っていなかったわけでも、愛着がなかったわけでもありません」

カーディエンは黙ったまま、じっと私を見つめていた。

そして、彼が何かを言おうと唇を開きかけた――まさにその瞬間だった。

「聖女様です!」

誰かの叫び声に、私ははっとして振り返った。

本当に階段の上から、誰かが歩いてきていた。

人影は三つ。やがて彼らが明かりの下へと進み出ると、その姿がはっきりと見えた。

一人は見覚えのある顔だった。

「エデン・アクィリウム……」

以前にも一度会ったことがあったが、こんな公の場で見ると、どこか余所余所しく感じられた。

私は続いて、その反対側に立つ人物へと視線を向けた。茶色の髪に茶色の瞳をした、ごく平凡な見た目の中年男性だ。

初めて見る顔だったが、私は彼が誰なのかすぐに気づいた。

「……大使館長カルビヌル……」

理由は単純だった。こうした公式の場で、位の低いエデンを除けば、聖女の隣に立つことを許されるのは大使館長しかいないからだ。

そして最後に、二人の中央に立つ女性へと視線を据えた。

長い神官服をまとい、純白のベールで顔を隠していたが、その小柄で華奢な体つきを見ただけで、正体はすぐに分かった。

この世界――小説『みんな聖女様だけが好き』の主人公。

聖女セレスティナ。

純白のベールに覆われていても、間違いなく彼女だと分かった。そしてその確信は、彼女がベールを外した瞬間、驚愕へと変わる。

太ももまで届く、純白の長い髪。

雪のように白く透き通った肌。

そして、まつげの先で花開くような――金色に近い、淡い琥珀色の瞳。

そのすべてが、小説で読んだ描写と完全に一致していた。

いや――。

「もっと美しい気がする……」

当然と言えば当然だが、セレスティナの存在感は圧倒的だった。彼女が姿を現した瞬間、ホール全体が水を打ったような静寂に包まれる。誰一人として、軽々しく声を上げることすらできなかった。

それは、彼女が聖女だからという理由だけではない。セレスティナと目が合うと、人々は思わず身じろぎし、視線をそらした。ただ見つめられるだけで、彼女の神聖さに心を見透かされ、内面まで暴かれてしまうのではないかと恐れたのだ。まさに女神テレイアの具現そのものだった。

『これが、主人公の風格というものなの……?』

私は呆然と彼女を見上げた。全身に粟立つような震えが走る。ヒステリオンを見た時とは、まったく次元が違っていた。

もっとも、原作の小説は三人称で描かれてはいたものの、実質的には女性主人公・セレスティナの視点で進む物語だった。物語の中心には、常にセレスティナがいた。あの作品は、まさにセレスティナという存在そのものを描いたものだったのだ。

『そう考えると、熱心な読者だった私は、さしずめ敬虔な信者ってことになるのかな』

そんな考えが頭をよぎる中、カルビヌルが一歩前へ進み出た。

「皆さん、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」

見た目と同じく、特徴のない声がホール中に静かに響き渡った。

『魔法……?』

私が首を傾げたのも束の間、すぐにそれが魔法ではなく神聖力によるものだと気づいた。カルビヌルの体の周りが、ほのかに光を帯びていたからだ。

その後もカルビヌルの退屈な挨拶は続いたが、私は彼の話などまったく聞いていなかった。私の視線は、ただカルビヌルの隣で穏やかな微笑みを浮かべるセレスティナへと向けられていた。

しかし、ふと我に返ってカーディエンのほうを見た。

『まさか、もう惚れちゃったんじゃないよね?』

ちょうどその時、カーディエンもまたセレスティナを見つめていた。

無表情な瞳、一直線に結ばれた唇。恋に落ちたような様子は、まだ特に見られない。

それでも念のため彼をじっと凝視していると、私の視線に気づいたカーディエンが、不思議そうな目でこちらを振り返った。

私はつま先立ちになり、彼の耳元で小声でささやいた。

「閣下、私との約束、忘れていませんよね?」

するとカーディエンは、呆れたような表情を浮かべた。

そんな目で見ても無駄だ。あなたがセレスティナに惚れでもしたら、私の計画はすべて終わりなのだから。

「私だけを見るって約束しましたよね。ちゃんと守ってください」

「……ですが、考えてみると少し納得がいきませんね」

「え?」

気まずそうに受け流されるかと思いきや、予想に反して彼は不満げな表情で言い返してきた。

「どうして私だけなのですか? 先生だって、さっきまであの男ばかり見ていたでしょう」

納得がいかないとばかりに眉をひひそめる彼に、私は小さく溜め息をついて言った。

「何か勘違いされているみたいですね」

「勘違い?」

「はい」

私はきっぱりと言い放った。

「私が他の人を見ていても、意識は全部閣下に向いているんです」

「……」

カーディエンは言葉を失ったように、そっと唇を閉ざした。

「それに、私が見ていたのはあの男ではなく、聖女様です」

私は再び視線を前へと戻した。

セレスティナは穏やかな眼差しで下階を見つめていた。エデンと軽く言葉を交わし、小さく微笑む。それだけで、心の中のあらゆる穢れが洗い流されていくような錯覚を覚える。

そうしているうちに、ようやくカルビヌルの演説が終わった。

続く儀式のため、セレスティナが一歩前へ進み出る。自分を見つめる人々へ軽く一礼した彼女が向かった先は、女神テレイアの像の前だった。

その前に立つと、セレスティナは両手を前へ差し出し、静かに目を閉じた。

「全能なる女神よ――」

スズランの花のように清らかな彼女の声が、ホールいっぱいに響き渡る。人々は息を呑み、これから起こることを知っている私もまた、固唾を呑んで見守った。

次の瞬間、彼女の両手の下から眩い金色の光がほとばしった。勢いよく放たれたその光は、女神テレイア像へと吸い込まれていく。そして――。

「……!」

「な、なんということだ!」

「こんなことが……あまりにも美しい……」

「おお、女神よ……」

あちこちから感嘆の声が上がった。私も呆然と上を見上げる。

銀色の女神テレイア像の両手から、金色の光がきらきらと降り注いでいた。それは、セレスティナの神聖力が女神像に吸収されたものだった。巨大な女神像だからこそ、まるで女神テレイア自身が人々に祝福を授けているかのように見える。

人々は少しでもその光を浴びようと、我先にと女神像の下へ集まっていった。

最初に放たれた眩い閃光とは違い、女神像の両手から広がる金色の光は穏やかなものだった。それでも人々は、その光に触れようと必死に身を乗り出している。この「洗礼式」とは、文字通り聖女の神聖力を直接体験するための儀式なのだ。

『普通の人は、神聖力どころか聖女様のお姿さえ滅多に拝見できないからね』

神聖力には、穢れや邪気を浄化する力がある。神官であれば多かれ少なかれ持っている力だが、聖女のそれは完全に別格だった。病を癒やし、苦痛を和らげ、蝕まれた心さえ清めることができる。ほんのわずかでも、その恩恵を受けるのと受けないのとでは雲泥の差だった。

『セレスティナの神聖力……』

原作の文字でしか読んだことのなかったその奇跡を、今、自分の目で見ている。

本来なら胸が高鳴るはずの場面なのに――。

『おかしい……』

「うっ……」

私は慌てて口を押さえた。セレスティナの神聖力を目にした瞬間、なぜか急激な吐き気が込み上げてきたのだ。

『何、これ……?』

体調が悪かったわけではない。それに、たとえ少し体調を崩していたとしても、聖女の神聖力を浴びたのなら、本来はむしろ体が楽になるはずなのに。

『気持ち悪い……』

今この瞬間も、セレスティナの神聖力は波のように押し寄せてきている。私は本能的な恐怖に駆られ、一歩後ろへ下がった。聖女の神聖力が届かない場所へ。

「閣下……」

私は反射的にカーディエンの姿を探した。

しかし、カーディエンは深くうつむいたまま、ぴくりとも動かなかった。

「……閣下?」

微動だにしないその姿に、じわりと違和感が広がる。恐る恐る呼びかけてみたが、やはり返事はない。

――何かがおかしい。

ドクン、と胸騒ぎがした。私は慎重に彼へと近づこうとした。

その時だった。

「きゃあああっ!」

どこかで引き裂くような悲鳴が響き渡った。息を潜めていた私は驚いて、声のした方へと振り向く。それは後方で、神聖力を浴びようと人を押しのけていた女性だった。しかし、彼女が怯えたように見つめている先は、女神像ではなく会場の入口だった。

「み、見て! あそこに変な人が!」

彼女の指差す方へ、私も勢いよく視線を向けた。

女性の言う通り、一人の男が入口に立ち尽くし、ぼんやりとこちらを見つめていた。

一目で異常者だと分かった。服はボロボロに裂け、体中には黒ずんだ傷跡がある。ぼさぼさに乱れた髪、やせ細った体、そして――何より、その眼差しが完全に虚ろだった。

男が見つめている先は――セレスティナだ。

遅れて男の存在に気づいた人々が悲鳴を上げ、一斉に後ずさる。一方で、警備の騎士たちは瞬く間に男を取り囲んだ。

「何者だ!」

「どこから入り込んだ!?」

「こんな不審者が中に入れるはずがない!」

聖騎士たちが剣を抜き、男へとじりじり間合いを詰めていく。だが男は、なおも何の感情も宿さない瞳で、ただセレスティナだけを見つめ続けていた。

そして――男が一歩を踏み出した。

コツッ。

男の足が床を鳴らした、まさにその瞬間。

「うっ!」

男の姿が、一瞬にして視界から消え失せた。突然の事態に動揺した聖騎士たちは、男を探して慌てて辺りを見回す。

だが、私はすぐに別の場所へと視線を移した。男がどこへ現れるか、知っていたからだ。

『セレスティナのところだ』

予想通り、男は人混みを一瞬で飛び越え、セレスティナの目の前へと姿を現した。突如目の前に現れた男に、セレスティナが大きく目を見開く。

洗礼の儀式のため少し離れた場所にいたエデンが、歯を食いしばって慌てて駆け寄るが、ほんのわずかに間に合わない。人々は悲鳴を上げ、残っていた聖騎士たちも急いでセレスティナのもとへと走る。

私はその光景を冷や汗交じりに見つめながら、静かに思考を巡らせていた。

『セレスティナなら大丈夫』

この出来事は、原作にもあった事件だ。洗礼式の最中に突如として現れた、狂気に取り憑かれた男。そして、その窮地からセレスティナを救う皇太子、ヒステリオン。この事件をきっかけに、二人の距離は急速に縮まる――はずだった。

ヒステリオンは近くにいた聖騎士の剣を力任せに抜き取り、祭壇へと駆け上がった。そして男の背後に回り込み、剣を高く振り上げた――その瞬間。

『……あれ?』

私は強烈な違和感を覚えた。ごくり、と唾を飲み込む。そして瞬きも忘れたまま、その男を凝視した。

『あれは……』

彼の体から立ち上る、あの不吉な気配。周囲の人々は何が起きているのか分かっていないようだったが、私には分かった。なぜなら、すでに一度経験したことがあったからだ。

『……カーディエンの魔力暴走と同じだ』

あの時に肌で感じた禍々しい気配と、酷似していた。いや、ほとんど同じだ。

でも、そんなはずがない。カーディエンの魔力暴走は、彼だけが持つ特殊な体質によるものだ。誰も彼もがあの暴走を起こすのなら、原作においてカーディエンだけがあれほどまでに世界から忌み嫌われ、恐れられる理由はなかったはずだ。

『でも、あれは間違いなく魔力暴走の気配だわ』

いったい何が起きているのだろう。原作に、こんな設定が存在しただろうか?

それに――。

『セレスティナの表情が……』

男に遮られて、周囲の人々にはセレスティナの顔は見えていないはずだ。だが、人混みを避けてホールの隅へ移動していた私の位置からは、彼女の表情がはっきりと見えていた。

――凍りつくほど冷たい顔。

そこには、どんな感情も読み取れなかった。

もちろん、そういうこともあるかもしれない。極度に緊張したり、予想外の事態に動揺しすぎたりすれば、表情が固まってしまうこともある。けれど、今のセレスティナのそれは、明らかに違っていた。

うまく言葉にはできないけれど、まるで――。

『感情のない、ただの人形みたい』

私は再び男へと視線を戻した。男の体から立ち上る禍々しい気配は、さらにその濃度を増していく。そのせいで、背後から襲いかかったヒステリオンの剣が、プレッシャーに押されてわずかに勢いを失った。

だが、それも時間の問題にすぎない。あの男は結局、ヒステリオンの手によって命を落とすのだ。セレスティナとヒステリオンの物語を始めるための、生贄として。

「うっ……」

私は再び口元を手で押さえた。さっきよりは少しマシになったものの、やはり気分が優れない。

『嫌な予感がする』

とにかく、ここを離れたほうがよさそうだ。そう思い、私はカーディエンのほうを振り返った。

「か、閣下……」

しかし、その先を言葉にすることはできなかった。カーディエンの様子が、明らかにおかしかったからだ。

「……閣下?」

恐る恐る呼びかけても、やはり返事はない。ただうつむいたまま、微動だにしない。

「……閣下」

「……」

「……カーディエン」

「……」

思い切って名前で呼んでみても、彼は頑なに沈黙を保ったままだ。全身を不吉な予感が駆け抜ける。

私は慎重に彼へと近づいた。そして、うつむいていて見えなかったカーディエンの顔を、下からのぞき込むように覗き見た。

カーディエンは、虚ろな目で床の一点を見つめていた。焦点は完全に定まっておらず、その美しい紫色の瞳には、黒い靄のような不気味な光が滲み出ている。

私は、この状態の彼をよく知っている。

「……しまった」

思わず声が漏れた。カーディエンの前で、こんな間抜けな声を出すなんて普段なら絶対にありえない。けれど今の彼には、私の声などこれっぽっちも届いていなかった。

なぜなら、今のカーディエンは――。

『これ、魔力暴走だわ……!』

どうして今、このタイミングで起きるのか。まさか、あの乱入してきた男の魔力暴走と何か関係があるのだろうか。

『いや、違う。今考えるべきなのは原因じゃない』

私は必死に深呼吸をし、乱れる息を整えた。

『落ち着いて、リビア・フリントン』

幸いなことに、カーディエンの状態はまだそこまで深刻な段階ではなかった。少なくとも、魔力に完全に飲み込まれて意識を失っているわけではないようだ。もし完全に理性を失っていたなら、この周囲一帯はすでに彼の破壊衝動によって焼け野原になっていてもおかしくない。

だが、それも時間の問題だった。

『どこか別の場所へ移動させないと……』

私は周囲を素早く見回した。こういう時の避難場所なら普通はバルコニーが一番都合がいい。けれど、このホールにはバルコニーが見当たらなかった。代わりにいくつか個室はあるけれど――。

『遅かった……!』

廊下へ続く主要な入口は、狂人の出現によってパニックになり、逃げ惑う人々で完全に塞がれていた。

――ならば、残された方法は一つだけ。

『ここで素早く済ませて、それからこの場を離れるしかない』

幸いなことに、まだ誰もこちらの異変には注意を向けていない。皆の視線は、あの乱入者とセレスティナの対峙へと釘付けになっている。しかも、カーディエンの魔力暴走もまだ初期段階だ。今のうちに対処できれば、大事には至らないかもしれない。

『できるだけ目立たないように……』

私は己の体からわずかな魔力を抽出し、手のひらへと集中させた。

その時、不意に背後が激しく騒がしくなった。

「きゃああっ!」

「な、あの男が!」

「どこへ消えたの!?」

――おかしい。今頃なら、ヒステリオンの剣があの男の首を跳ね飛ばしているはずなのに。どうして、こんな騒ぎになっているのだ。

そう思いながら振り返った私は、その場で肺の空気が凍りつくのを感じた。

私はその場で完全に硬直した。

本来そこにいるはずのヒステリオンや聖騎士たちの姿が見えない。代わりに、私の視界をいっぱいに埋め尽くしたのは――皮膚が黒く壊死したような、あの男の顔だった。

「……」

息をすることすらできなかった。自分の小さな吐息一つでさえ、目の前の化け物を刺激してしまいそうで。

『どうして……?』

どうして、この男が私の目の前にいるの?

男の背後のはるか向こうには、こちらへ向かって必死に駆け寄ってくるエデンとヒステリオンの焦燥に満ちた姿が見えた。

私は恐る恐る、もう一度男の顔へと視線を向けた。

だけど――。

『……おかしいわ』

私は思わず眉をひそめた。

黒く濁った彼の瞳の奥に、かすかに淡い空色が残っていた。きっと、それが彼本来の瞳の色なのだろう。その濁りきらない瞳の奥に、恐怖で涙を滲ませた私の姿が映り込んでいた。

男は黙ったまま、じっと私を見つめている。

そして――。

ぽたり、と。

無表情のまま、一筋の涙が彼の煤けた頬を伝って落ちた。男は私を見つめながら、ただ静かに涙を流していたのだ。

――どうして? どうしてあなたは泣いているの?

私は、この男の正体を知っている。原作の小説で読んだからだ。

後に神殿が明らかにする、この男の表向きの正体は――。

『堕落した黒魔導師』

己の欲望と貪欲に負けて禁術である黒魔法へと手を染め、最後にはその闇に飲み込まれてしまった、名もなき愚かな魔導師。その魂は女神にさえ救われることなく、永遠の終わりなき奈落へと落ちた――神殿はそう厳かに公表していた。その後、この男について原作で掘り下げられることは一切ない。

けれど、ふと強烈な疑問が湧き上がる。

自らの欲望に負けて黒魔法に染まったはずの彼が、なぜ突然この洗礼式に現れたのだろう。しかも彼は、一切の躊躇なく真っ直ぐセレスティナへと向かって突進していった。まるで最初から、その目的が彼女ただ一人であったかのように。

黒魔導師だった彼と、聖女セレスティナの間には、一体どんな隠された因縁があるというのか。

そして、今もそうだ。

『何もしてこない……』

彼はただ静かに私を見つめているだけで、危害を加えようとする気配すら見せていなかった。まるで、自分は無実だと必死に訴えかけているかのように。

『……もし本当に、この男の症状がカーディエンと同じ“魔力暴走”なのだとしたら……』

私にも、助けられるかもしれない。少なくとも私は、魔力暴走を鎮める術を知っている。そして、この男が本当にカーディエンと同じ状態なのだとしたら――。

『もしかしたら、カーディエンの魔力暴走を治す手がかりが、もっと詳しく分かるかもしれない』

私はじっと彼を見つめながら、固まる身体を動かしてゆっくりと手を伸ばした。

その直前の瞬間まで、私の心は激しく迷っていた。

『……本当に、こんなことをしてもいいの?』

自分の行動がどれほど危険か、重々分かっていた。この男にどんな影響を与えるかという問題以前に、これは明らかに原作のプロットを根本から歪めてしまう禁忌の行動なのだから。

『でも……』

私は伸ばさなかった反対の手で、隣にいるカーディエンの手をぎゅっと力強く握りしめた。普段なら到底できない大胆な行動だけれど、今は非常事態だ。

『少しだけ、力を借りるね』

心の中でそう深くつぶやきながら、私は自らの力を男へと発動させた。

その瞬間――。

コツン、という奇妙な音が響いた。

「な、何だ!?」

「前が見えないぞ!」

「ひっ、ひぃっ、もう嫌だ、帰りたい……!」

まるで狙いすましたかのような絶妙なタイミングで、ホールのすべての明かりが消失した。

突然の暗転に、人々は一斉にパニックへと陥る。大きなざわめきと、慌ただしい足音が、暗闇のあちこちから五感を刺激した。どうやらこの停電による混乱で、こちらへ駆けつけようとしていたエデンとヒステリオンも足止めを食らったようだった。

そして、私は――。

ぱあっ、と。

私の手のひらの隙間から、神秘的な銀色の光が漏れ出した。

その瞬間、背筋を鋭い悪寒が駆け抜ける。

「……っ!」

凄まじい濁流のような勢いで、誰かの記憶が私の頭の中へと直接流れ込んできた。

まるで走馬灯のように、見知らぬ光景が次々と脳裏を駆け抜けていく。

記憶の中の男は、何かを必死な形相で書き記していた。それを巨大な図書館の書架のような場所の奥深くへ差し込み、どこかで授業を行い、そして……。

「……ジェフリー?」

男の記憶の中に、はっきりと見覚えのある顔が存在した。見間違えるはずがない。しばらくの間、私を不眠症に陥らせた元凶の男なのだから。

記憶の中のジェフリーは、今とは違って眩しいほどの純粋な笑顔を浮かべていた。

だが次の瞬間、無慈悲に場面が切り替わる。

暗く閉ざされた、冷たい空間。そして、その中で彼を残酷に取り囲む影たち。

『古代神殿の紋章を身に刻んだ者たち……!』

そこで彼の記憶は、ぷつりと不自然に途切れた。まるで誰かが、刃物で無理やり記憶の連続性を切り取ったかのような、おぞましい終わり方だった。

続いて、彼の最後の記憶がフラッシュバックする。

ようやくその地獄から外へ逃げ出した彼は、眩しい光が差し込む場所へと無我夢中で駆けていく。

(生きたい。生きたい……!!)

そこで彼が最初に目にした救いの光こそが、聖女セレスティナだったのだ。

『聖女なら、慈悲深い彼女なら、きっと私を救ってくれる』

男はそう盲信したのだろう。

だが、彼へ向けられたセレスティナの視線はあまりにも冷酷で、そこには一片の人間らしい感情すら存在していなかった。

次の瞬間、男はゆっくりと視線を動かし、勢いよく顔を横へと向けた。

その先に立っていたのが、私だった。

そこで彼の記憶は完全に途絶えた。

けれど、彼が今際の際に抱いたあまりにも純粋な感情だけは、私の魂に痛いほど伝わってきた。

――助けて。

助けて。救って。どうか、私をここから救い出して。

「はぁっ……!」

私は大きく肺に息を吸い込み、ゆっくりと目を開けた。

闇に包まれた世界の中で、私は再び男と視線を交わす。

「あなたは……」

その言葉を紡ぎかけた、まさにその瞬間だった。

「あああっ……! うああああっ!!」

突如として、男は狂ったように頭を抱えて絶叫し、よろめきながら数歩後ずさった。

それと同時に、ホールの照明が何事もなかったかのように再びパチパチと灯る。

そして男の周囲には、先ほどよりも遥かに濃密な、禍々しい黒い瘴気のような気配が激しく渦を巻き始めていた。

 



 

 

 

  • 聖女セレスティナの圧倒的な美しさと主人公の風格

    洗礼式の会場に、純白の髪と琥珀色の瞳を持つ聖女セレスティナが登場。その神聖さと圧倒的な風格はホールを静じまり返らせますが、なぜか彼女の神聖力を浴びたリビアだけは激しい吐き気に襲われます。

  • 乱入した男の「魔力暴走」とセレスティナの冷徹な仮面

    洗礼式の最中、黒魔導師とされるボロボロの男が乱入し、セレスティナへと急接近。男の放つ気配が「カーディエンの魔力暴走」と同じであることに気づいたリビアは、同時にセレスティナがまるで人形のように冷酷な表情を浮かべているのを目撃します。

  • 男の記憶の流入と神殿の隠された闇

    カーディエンも連鎖的に魔力暴走を起こす一触即発の暗闇の中、リビアは男に手を伸ばして力を発動。流れ込んできた男の記憶から、彼が「古代神殿の紋章を刻んだ者たち」に囚われていたこと、そしてかつてリビアを苦しめたジェフリーとも繋がりがあったという衝撃の真実を知ることになります。

 

 

【余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら】まとめ こんにちは、ちゃむです。 「余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら」を紹介させていただきます。 ネタバ...