こんにちは、ちゃむです。
「悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
64話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 別離②
「……母様」
「……ユリア」
誰かから話を聞いたのだろうか。
遅れて駆けつけてきた、涙に濡れた母と向き合った。
私が父と交わしたやり取りを、どう説明すべきか考えながら身の振り方を決めかねて、思い悩んでいた、あの頃。
「……ごめんなさいね」
「……え?」
「母親でありながら……あなたがこんな状況に追い込まれているのに、何ひとつしてあげられなかったことが……情けないわ」
何を言うべきか迷っていたのは、私だけではなかった。
母は、夫の不義によって生まれた子を受け入れ、それでいて、夫から理不尽な扱いを受け続けながらも最後まで、私の母であり続けてくれた。
「もっと……誰よりも、あなたのことを気にかけてあげるべきだった。私の娘、ユリア……」
「……お母さま」
私は、そっと母を抱きしめた。
その温もりは、いつだって、私のそばにあった。
前世のように誰からも顧みられず、冷え切ったまま、忘れ去られる死へと沈んでいくことはない。
私はもう、ひとりではなかった。
一番大切な人。
「お母様。私はもう、プリムローズ家の人間でなくても大丈夫です。今はユネイトの代表ですし、錬金術師ギルドも率いています。自分で言うのも何ですが、かなり有能なんですよ」
私は、今にも涙がこぼれそうな状況でも、必死に笑顔を作ってそう言った。
「だから……私と一緒に、公爵邸を出ませんか?」
そして私は、これまで口にした言葉の中でも、とりわけ怖かった一言を投げかけた。
こんな空気の中に、母を一人置いていきたくなかった。
父が反対するかどうかは関係ない。
今世では多少ましになったとはいえ、結局のところ、彼の愛情を本気で期待したことなど一度もなかった。
でも、母は違う。
私にとって、かけがえのない人だから。
私が愛情を求めても、許される唯一の人だから。
どんな答えが返ってくるのか、正直なところ不安だった。
「あなたと一緒なら、どこへ行ってもいいわ」
私の心配をよそに、母はすぐさま、こくりと頷いた。
そこには、ほんのわずかな迷いすらなかった。
「ユリア。あなたは、何を選んでもいい。自分がやりたいと思うように生きなさい。私は、いつだってあなたの背中にいるわ」
両頬に触れる母の手は、不安とは無縁の、いつにも増して柔らかく、眩しい笑みを湛えていた。
私はつい、母の胸に顔を埋めてしまう。
愛おしそうに「大きくなったわね」と髪を撫でる、その手の温もりが心地いい。
――前世でも思い知らされたことだけれど。
やっぱり、私にとって“家族”と呼べる存在は、たったひとりだけ。
……そう。私はもう、絶対的な味方を得ている。
それだけで、十分だった。
もしかすると、それはユネイトや錬金術ギルド以上に、何よりも心強いものだったのかもしれない。
いずれにせよ、私が築いてきたものは屋敷の外にある。
大きな荷物をまとめる必要はなかった。
「お嬢様……このまま出て行かれるおつもりですか?」
「奥様は、何も悪いことなどなさっていないのに……」
私は、親しくしていた使用人たちにだけ、ほんの一言、別れの挨拶をしただけだった。
突然姿を消せば混乱を招くだろうから。
それに、彼らには、私や母が“消えた”ことを、他人の口から聞かせたくなかった。
「そんなの、あんまりです!」
思っていた以上に、反応は激しかった。
中でも、侍女のジェラと数人の騎士たちは、声を上げて泣き出してしまった。
「こんな仕打ち、あまりにも酷すぎます。……まさか、こんなことになるなんて……」
当事者である私以上に、周囲の反応は激しかった。
――前世では、リリカを崇め、彼女の後ろに付き従っていた人々でさえ、今はこうして、私の味方になろうとしている。
リリカが公爵邸で騒動を起こし、かつてとは異なる一面を見せたとはいえ、今や彼女は“聖女”と呼ばれ、順風満帆にその地位を高めている最中だというのに。
「……私たちも、ついて行きます。こんな公爵邸に、これ以上留まっていたくありません」
中には、プリムローズ公爵家に仕えるという恵まれた立場を捨て、私と母に同行すると申し出る者まで現れた。
私は、静かに首を横に振った。
「あなたたちは、ここに残りなさい」
「……ですが!」
「もし、いずれ力が必要になったときには――そのときは、必ず呼びますから」
その言葉は、決別ではなく、約束だった。
「……え?」
「……」
ジェラと親しくしていた助監督のジョミル卿が、静かに近づいてきて、私に小声で語りかけた。
ジョミル卿は、私が指示を出すのが得意だという点を高く評価してくれた人物であり、狩猟大会の際には、実際に彼が直接命令を下した相手でもある。
「私どもがまだ残っていた方が、もしかするとお嬢様のお役に立てることがあるかもしれません。ですので……ひとまず、ここに留まります」
「何かあれば、私とジョミルのことを思い出してください」
ここまでしてくれる理由は何なのだろう。
そう疑問に思い、問いかけるよりも先に、彼らは“理由は分かっているだろう”という様子で、先に口を開いた。
「狩猟大会の時、公爵様が混乱していらっしゃる中で、お嬢様が前に出て指揮を執られた姿に、深く心を打たれたのです」
「……」
「問題が起きたとき、真っ先に非難を浴びる役を引き受け、それでもプリムローズ公爵家の名を背負って前に立ってくださった方ではありませんか」
――そんな方が、公爵邸を去るなど、理解できない。
そう言って、ジョミルは私に、揺るぎない信頼の眼差しを向けた。
その傍らで、必死に涙を堪えながら私を見つめるジェラの姿を目にして、彼女もまた、どれほど胸中を抉られているか、痛いほど伝わってくる。
「ジェラがよく病舎に通っているせいか……いつの間にか、私たち、敬語を忘れてしまったみたいだね」
「お嬢さま……」
「じゃあ……また会う日まで、元気でいて。私も、そうするから」
場を和ませようとした、ほんの小さな冗談に、ジェラはようやく、溜め込んでいた涙をこぼさずに済んだ。
振り返ると、母もまた、使用人たちに囲まれ、何か言葉を交わしているのが見える。
別れは、もうすぐそこまで来ていた。
ふと目が合った騎士が、小さくうなずいた。
私も反射的に、その合図を受け取る。
意味までは分からない。
それでも――少なくとも、私が去ることを少しでも惜しんでくれる人がいるという事実は、悪くなかった。
(前世で、父に毒を盛られて死んだとき……あのとき、いったい何人が私の死を悼んでくれただろう。……きっと、誰もいなかった)
そうして、母と共に公爵邸を後にする。
遠くから馬のいななきが聞こえ、喉元まで迫った嗚咽を必死に飲み込んでいるにもかかわらず、私の足取りは、不思議なほど軽く、迷いがなかった。
(私がこの家を出ると決めた。これは、私自身が選んだ道だ)
だからだろうか。
未練のようなものは、少しも残っていなかった。
「――おい!」
――そのとき。私の肩を乱暴に掴み、無理やり振り向かせた人物がいた。
公爵邸で、こんな真似をする人間は――ひとりしかいない。
「……正気か、お前?」
ジキセン・プリムローズ。
私と同じ母を持つ――兄。
だが、血を分けた兄でありながら、混外子であるリリカを庇い立てし、何度となく私に敵意を向けてきた人物でもある。
「父上から聞いたぞ。リリカを妬むのも、せいぜい一、二度ならまだしも……今日は、ミュージカルにまで口出しするなと騒いだそうじゃないか?」
……ああ、なるほど。
ひとつ、腑に落ちた。
生まれ育った公爵邸を後にするというのに、なぜこんなにも、足取りが軽いのか。
――この男と、もう顔を合わせずに済むからだ。
その事実だけで、十分すぎる理由だった。
父は、私を差別した。
目の前にいる兄と一緒になって。
前世では、微量の毒を飲まされ、「リリカのためだ」と言われて、私は殺された……。
――リリカと私を差別していなかった?
そんなの、真っ赤な嘘だ。
まるで、すべてが私の責任だったかのように。
前世でも、今でも――結局は同じなのだ。
「しばらく大人しくしていると思ったら、やはりそうか。リリカがうまくいっているのが、そんなに気に入らないのか?ああ?」
大柄な兄は、大股で私の前まで詰め寄ってきた。
そして、乱暴に私の首と顔を掴む。
息が詰まり、同時に繊細な肌に鋭い痛みが走った。
「おやめなさい!」
「うるさいな。結局、母さんも同罪だろ」
冗談ではなかった。
肩を掴まれた衝撃がそのまま残り、少しでも痛みを和らげようと、私は反射的に手首を持ち上げるしかなかった。
そのせいで、俯いたジキセンと、視線が真正面からぶつかる。
「……いい加減にしろ。一体、どこまで分別のない真似を続けるつもりだ」
「……っ」
「ここで、はっきり言っておく。これ以上、リリカに害をなすようなことをすれば――絶対に許さない。妹だからと見逃すのも、もう限界だ。……分かったな?」
ジキセンは、刃物のような目つきで私を見下ろしていた。
いつも、そうだった。
彼は常にリリカを守ると、そう言い続けてきた。
騒ぎを聞きつけ、騎士たちが駆け寄ってきて、私と兄の間に割って入った。
言葉では止められないと判断したのだろう。
母は、私を連れ出すために呼んでいた人たちを、慌てて呼び寄せた。
「ユリア、大丈夫?」
「ごほっ、ごほっ……!」
私は、ようやく解放された首と顔をさすりながら、浅く息を吸った。
苦しかったが、致命的ではなかった。
一瞬よぎった“死”の恐怖は、すでに消えていた。
視界ははっきりし、意識も次第に澄んでいく。
「若君!これ以上はなりません!」
(※ここで文章はまだ続いているようです)
「お、お待ちください!どうか冷静に!騎士としてお考えください――非力なレディに手を上げるなど、許される行為ではありません!」
「離せ!」
ジキセンは、忠告に耳を貸すどころか、逆上して声を荒らげた。
だが、いくら彼でも、複数の騎士が間に割って入って制止すれば、それ以上、私に近づくことはできない。
どれほど“剣の祝福”を授かっていようと、剣を抜かぬ限り、彼もまた一人の人間に過ぎないのだから。
「正気か、お前たち!この私を差し置いて、あちらの肩を持つつもりか!」
――その通りだった。
騎士たちが、今この瞬間、私の側に立ったこと。
それは、並大抵の勇気でできることではない。
しかも、相手は――ジキセン・プリムローズ。
「……ふん」
短く吐き捨てるような声が、重苦しい空気の中に落ちた。
私は荒々しく掴まれてできた指の跡が残る顔を、しばらくの間、そっと撫でた。
そして呼吸を整え、はっきりと言い放った。
「私を今さら庇う必要なんて、もうないわ」
「それは一体……」
「“お兄様”と呼ぶのも、今日で終わりよ」
私の言葉を聞いたジキセンの目が、驚きに見開かれた。
「これを見て!このまま見逃したら、人として終わりだ!」
怒りに任せて再びこちらへ突進しようとしたジキセンを、騎士たちが必死に押さえ込んだ。
「お嬢様、早くこちらへ!急いで!」
騎士たちへの感謝を胸に、私は公爵邸を振り返りもせず、足早に外へと出た。
しかし私と母の足取りは、そこでふと止まった。
「お前たちの顔は、全員覚えた。今すぐ行って、母上とユリアを連れて来い。それができなければ――お前たちの家族にまで、話は及ぶぞ……」
私に掴みかかろうとしたジキセンを制止したのは、母が呼び集めた騎士たちだった。
無実の彼らに、これ以上の災いが降りかかるなど、到底、看過できるはずがない。
――私は、どうすればいい?
何を言い、どう振る舞うべきなのか。
答えが定まらない、その刹那。
「――やめなさい!」
母が、私の前に立ちはだかった。
生まれて初めて耳にする、母の――鋭く、凛とした声。
「いったい、いつまでユリアを苦しめるつもりなの!」
私たちが足を止めたことで、ようやくジキセンも、動きを止めた。
ひと息ついたかのように、騒ぎはいったん収まった。
そして、今が騎士たちが身を引くべき潮時だった。
「早く、行け」
もはやリリカが一方的に被害者という立場でもなく、私も大声で責め立てられる側になり、場の空気は決して穏やかとは言えなかった。
ここで私が声を出して感謝を述べれば、騎士たちがさらに大きな騒動に巻き込まれるかもしれない。
だから私は、言葉ではなく視線で感謝を伝えた。
そして、到着した馬車へと向かった。
――セリアンが手配した馬車が来たのだから、もう大丈夫。
騎士たちはどうしていいかわからず戸惑っていたが、公爵邸の門前に見慣れない馬車が入ってきたのを見て、ようやく状況を理解し、退いた。
――それで、十分だった。
ジキセンは騎士団を率いていながらも、もはや彼らの存在など眼中にない様子だった。
母と正面から向き合った、その瞬間、己を制止した騎士たちの表情など、すっかり意識の外へと追いやられていたのだ。
『この状況で、堂々と私の味方をしてくれて……ありがとう、みんな』
――母がジキセンの注意を引きつけている、今この瞬間。
それは、何よりも貴重な時間だった。
「はっ、母上!ユリアが軽率な真似をするなら止めるべきでしょう。一緒に出て行くだなんて……そんな話!やはり、あなたは最初からリリカを憎んでいたんだ……」
母は、ジキセンの吐き捨てるような言葉に、微塵も揺らがなかった。
その代わり――
「……ジキセン」
低く、静かな呼びかけ。
それは、これまでで最も冷静で、同時に、どんな怒声よりも重みを持つ声だった。
母の表情は、これまで見たことがないほど、凛と静まり返っていた。
母は、静かに、しかしはっきりとそう告げた。
「あなたは……ユリアの誕生日が、いつか知っている?」
「……え?」
母のあまりに真剣な表情のせいだろうか。
それとも「誕生日」という言葉のせいだろうか。
ジキセンは、騎士たちが引いていったあとも、その場に縫い止められたように、首ひとつ動かせずにいた。
「この前のリリカの誕生日の祝宴では、あなたは何か月も前から準備に追われていたわね。どんな贈り物を用意するかまで、あれこれ悩んでいたでしょう。でも……ユリアの誕生日には、あなたは一度でも、そんなことをしたことがあった?」
そう。
数日後には、ちょうど私の誕生日がやってくる。
けれどジキセンは、リリカの時とは違って、私に向けては、何の言葉も行動も示さなかった。
今年だけではない。
去年も、その前の年も……。
「……そもそも、あなたは“守った”ことが一度でもありましたか?私がユリアとリリカを差別していると言う前に――まずは、自分自身の態度を省みなさい」
「母上!どうして同じことばかり……!母上とあいつが、先にリリカを差別したから仕方がなかったんだと、何度も――」
「……そう。あなたと父親がリリカの側に立つのなら、私はユリアの側に立つ。それだけの話よ」
「……え?」
「あなたの理屈に従うなら――それが、最も筋が通っているでしょう」
蒼白な表情のまま、母は私の手をしっかりと握った。
ジキセンは、先ほどまでとは打って変わって、私たちの行く手を阻もうとはしなかった。
「……分かりました。行けばいいでしょう。――ただし……ここから一歩でも先に進まれたら、その瞬間から、あなたを私の母だとは思いません。」
その言葉を聞いた瞬間、胸が強く締めつけられた。
私は、母の手を握る自分の手が震えているのを感じた。
ほかのことなら、すべて耐えられた。
私に向けられる暴力も、露骨で一方的な差別も、人前で平然と恥をかかされることも……。
けれど、母に対してこんな仕打ちをすることだけは――。
「……そうしなさい。」
しかし母は、怒りさえもすでに燃え尽きたかのように、ただ静かにそう答えただけだった。
「……今、何とおっしゃいましたか?」
「その通りにしなさい、と言ったのよ。」
深い静寂が、その場を支配した。
馬車から降り、私たちを迎えに来たセリアンも、ただならぬ気配を感じ取ったのだろう。
何も言わず、静かに私たちの傍らに立った。
「……まったく、馬鹿げた話だ」
「…………」
「……本気で言っているのか?」
ジキセンの口から、初めてこの状況そのものを否定する言葉がこぼれ落ちた。
「お前は、俺を“母”とは思わないようなことを言うくせに……どうして俺だけは、同じことを言ってはいけないんだ?」
「母親だからよ」
沈黙を保っていた彼は、その言葉に耐えきれなくなったかのように、掠れた声で叫んだ。
「母が、息子にそんな態度を取っていいわけがないだろう!」
「……どうして?」
静かな問いかけ。
その一言が、彼の言葉の根拠を根こそぎ奪っていくように、重く響いた。
「……はい?」
「どうして私は、そうしてはいけないのかと聞いたのよ。」
母はそう言うと、セリアンに向かって「馬車で連れて行きなさい」と手振りで指示した。
何よりも、私の安全を優先するという態度だった。
セリアンは空気を読み、私を静かに馬車へと導いた。
私が馬車に乗り込んだのを確認してから、母はようやく静かに歩き出した。
それを見たジキセンの顔が、見る見るうちに歪んだ。
「親と子は違うでしょう!息子は母親を捨ててもいいけど、母親がそうしちゃいけないじゃないですか!私は捨ててくれなんて一度も言ってないのに、勝手に産んでおいて、勝手に放り出して、責任も取らずに……!」
「ユリアは、その言葉を聞いたのよ。あなたの父親から。」
「父親と母親は、同じではありませんか!」
「……何が違うの?」
「そ、それは……男と女の違いだ。女は直接子を産むし……その間に情も湧くだろ……」
「そう?私はよく分からないわ」
母は、淡々と――あまりにも静かに言った。
「十か月も身に宿した子であっても、私にレピアの花を捧げた“あの子”を、私は何よりも大切に思っている。同じ腹から生まれた娘であろうと、そこに違いはないわ」
わずかな昂りすら見せず、母の声は、理としてそこに在り続けた。
「葬儀で受け取る花は、もうリリカから受け取ったわ。――ジキセン。あなたが“私が死んだ”と思うなら、私にとっても、息子はもう死んだのと同じよ」
「母上……!」
馬車の扉が、重く閉ざされた。
窓越しに見えるジキセンの瞳が、瞬間、激しく揺らいだのが分かった。
「……きっと……きっと後悔するぞ。必ず……後悔するんだ……」
その声は、遠ざかる馬車の軋む音に呑まれ、やがて、完全に掻き消えていった。
私は、ジキセンの言葉に心の中で答えた。
後悔するなら、とっくにしている。
前世では、実の父と実の兄が、毒を私の口に押し込んだ。
母を失った。
父は、リリカが前世のように大きな功績を立てなくても、守り続け、甘やかし、少しでも輝けば誇らしげに、少しでも陰れば哀れんで胸を痛めた。
結局、最後までリリカの味方だった。
それを分かっていながら、さらに縋りつくほど愚かではない。
馬車の中で、私は最後にもう一度、公爵城を振り返った。
窓辺に立つ、プリムローズ公爵とリリカ。
二人は、あの一部始終を静かに見下ろしていた。
『……行くのか、行かないのか。それを確かめていただけか?』
視線が合ったかどうかは分からない。――正直、どうでもよかった。
ただ一つ、気がかりなことはあった。
『……セリアンが、まさか腹いせにでもリリカに当たったりしないよね?』
幸いにも、セリアンはただ何かを深く考え込んでいるような表情をしているだけだった。
私は少し迷った末、先に口を開く。
「……あの、公爵令嬢をお連れになるつもりだと思っていました。しばらくは、少しご不便をおかけするかもしれません。ごめんなさい」
どのみち、騎士たちは公爵家の人間だ。
その事実を、私は改めて胸の内で噛みしめた。
万が一に備えて、私だけに仕える護衛騎士のセリアンを連れてきたのは、賢明な判断だった。
今回も、ほかの誰にも気づかれず、公爵家とは無関係の馬車を手配してきたのも、だからこそできたことだ。
もっとも、セリアンにとっては、少し面倒ではあっただろうが。
「いい。そんなことは気にしなくていい。君は当然、私について来るべきだったんだから」
――あれ、意外。
慰めてくれるとは思わなかった。
慰めるにしても、「どうせ君と一緒にいると、いつも大変だった」とか、そんな言葉が出てくるものだと思っていたのに。
そして、その後に続いた言葉は、まったく予想外だった。
「……ここまで耐えてきたのは、立派だ。いや、本当に立派だよ」
「今、私に敬語を使った?」
「護衛騎士ですから。お仕えするお嬢様には、当然でしょう」
セリアンは頭を掻きながら、ひとつ小さく息をついた。
「えっと、奥さま。帝国の礼儀作法とかは正直よく分かりませんけど……力仕事なら、多少は役に立ちます。ですから……あまりご心配なさらないでください」
「ありがとう。おかげで、少し肩の力が抜けたわ」
公爵城の姿が見えなくなるまで、それほど時間はかからなかった。
けれど、体感としては――まるで、数え切れないほどの出来事をくぐり抜けてきたかのように感じられた。
そうして私は、母とともに公爵城を後にした。
そして――迷うことなく、ただ一つの場所へと馬車を走らせた。