こんにちは、ちゃむです。
「悪役なのに愛されすぎています」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
138話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- ロレッタの旅行
メロディは、厳格な公爵がロレッタの旅行を反対するかもしれないと考えていた。
しかし、その話を聞いた公爵はただ「涼しい場所で夏を過ごすのは良い考えだな」と言って、ロレッタの頭を優しく撫でただけだ。
その日から、公爵邸の人々はそれぞれが決めた避暑先へと移動を始めた。
いつもは賑やかな邸宅も、日に日に静まり返っていく中で、メロディとロレッタがクリステンソンへ出発する日がやってきた。
ブリクス商会の高級馬車が到着し、使用人たちが荷物を積み込む間、ロレッタはクロードと軽く挨拶を交わした。
「気をつけて行ってらっしゃい、ロレッタ。」
クロードはどこか不安そうな表情でロレッタを見送った。
ロレッタはクロードの手の甲にそっと唇を触れさせた。
「サミュエル公がきっと注意してくださるだろうけど、絶対に一人で橋を渡っちゃだめよ、いい?」
香り立つ風の中、クロードの顔には不安が滲んでいた。
彼女がまだ見ぬ大人の世界に触れるのではないかと、心配でならなかったのだ。
だがロレッタはいたずらっぽく笑い、軽く肩をすくめた。
「お兄さま、その話もう十回は聞いたわ。」
「そうか。なら目標を達成するまで、あと三回言わないとな。」
クロードの冗談にロレッタは笑いながら、彼の腕の中からすり抜けるようにして去っていった。
その小さな背中が完全に見えなくなるまで見送ったクロードは、ようやくメロディの方へと視線を向けた。
「……メロディ嬢も、どうかお気をつけて。」
誰が聞いても形式ばった挨拶にしか聞こえなかった。
きっと、何を言えばいいのか見つからなかったのだろう。
「そうします。」
メロディが短く答えると、馬車に座ったロレッタが窓の外に腕を伸ばしてきた。
「不公平だわ、お兄様!」
「不公平?」
「どうしてメロディの手の甲にはキスしないの?私にはしてくれたのに!」
「それは……」
彼は何か説明しようとして言葉を止め、そっとメロディに手を差し出した。
「無理にしなくても構いませんよ。」
「まさか。」
メロディは仕方なく彼に手を差し出した。
ロレッタをこれ以上待たせるわけにもいかなかったからだ。
彼は腰をかがめ、メロディの手の甲に軽く口づけを落とした。
「気をつけて行ってらっしゃい。」
その瞬間、メロディはひとつの確信を得た。
あの秋、メロディは何度か彼のキスを受けたことがあった。
手の甲や手首はもちろん、別れ際には唇を重ねられたことさえあった。
そのたびにメロディは、不思議な感覚に包まれた。
切なさや情熱と呼ぶには少し違う、けれど確かに胸の奥を温めるような感触。
ほんの一瞬触れただけでも、そのぬくもりが物足りなく感じたことは一度もなかった。
――でも今は……。
何も感じなかった。
ほかの紳士たちが形式的に挨拶を交わすときのように、彼もただ、礼儀として唇を寄せただけだった。
……。
クロードが手を放し、一歩後ろへ下がる。
メロディは思わず身を翻し、すぐに馬車の中へと乗り込んだ。
馬車が出発するその瞬間まで、彼女は一度も窓の外を振り返らなかった。
ロレッタとメロディを乗せた馬車が遠ざかっていくのを、玄関に立って見送っていたクロードは、ゆっくりと息を吐きながら横に寄りかかった。
全身の力が抜け、横へ崩れ落ちそうになったが、ぎりぎりのところで体のバランスを保とうとしなかったため、彼の顔はしっかりとした壁にぶつかった。
「……私は移動式の壁ではありませんよ、坊ちゃん。」
それは壁ではなく、近衛騎士のイサだった。
「すまない、緊張が解けてしまって。」
クロードはイサの肩に顔を埋めるようにして深く息をついた。
「メロディ嬢に、私の心臓の鼓動が聞こえていなければいいのですが。」
「……いっそ聞かれたほうが良かったのでは?」
「そんな、厚かましい期待なんてできませんよ。」
彼は依然として、イサヤに対してどこか未練のような思いを抱えたまま、深く息をついた。
柔らかなその手の甲に唇を触れさせながらも、心の内のどんな感情も表に出さないよう努めることだけで、すでに精一杯だった。
「時々言われるんですよ。殿下とメロディは、本当にそっくりだって。」
「そんな甘い言葉でごまかさないでください。」
「でも、そうでしょう?あの時の約束を、なぜ今も守り続けていると思います?」
「……あれは、普通の約束じゃありませんでした。」
クロードはようやく顔を上げ、静かに姿勢を正した。
頬にはわずかに赤みが差していた。
「メロディ嬢が、すべてを懸けて残した“約束”だったからです。」
――彼女が望んだものは、たった二つだけ。
ロレッタを守れ。メロディを探すな。
「私は何一つ、ちゃんとやり遂げられませんでした。」
「それは仕方のないことだったでしょう。」
「それこそが、私の優柔不断なところなのです。」
イサヤは一瞬、自分の耳を疑った。
いつも冷静でそつのないクロード・ボルドウィンが、自分のことを“優柔不断”だと言うなんて。
「え……だから最近、メロディ嬢の様子をあんなに注意深く見ていたのですか?」
クロードは力なくため息をついた。
「資格もない人間が、欲を口にしていいのか……分からなくなることがあるんですよ。」
イサヤは彼の結論が少し妙だと思ったが、ただ黙って一緒にため息をつくだけだった。
——深く恋に落ちた人間というのは、得てして少しばかり愚かになるものだから。
ブリクスの各地を通り過ぎながら、メロディはロレッタの意外な長所を一つ発見した。
それは――彼女がとても倹約家だということだった。
ロレッタは、色や素材だけで気に入った物を次々と買い集める兄とはまったく違い、限られた予算の中で本当に価値のある物を見つけ出し、その過程そのものを楽しむことができる少女だった。
そして、クリステンソンのブリクス邸に到着したメロディーとロレッタが受け取った「持参するべき物リスト」には、次のように書かれていた。
・つばの広い夏帽子
・アカデミーの試験用紙のような素材でできた、なぜか絵が描きやすそうな紙
・まれに(1%の確率で)本音の文章が自動で完成する特製の便箋
・きゅうりの香りを閉じ込めた香油
ロレッタはそのリストを見て、「全部ちょうどいいわね」と言わんばかりに満足そうに微笑んだ。
しかし、彼女の目には、その商品リストの中の一つが、商会が用意した「自動的に文章を完成させる大筆便箋」——つまり、1%の確率で完全な文章が出来上がるという、どう見ても胡散臭い代物であることは明らかだった。
商人はこの不思議な紙が心拍や体温を感知して、もっとも真実に近い文章を仕上げてくれると説明した。
だが、メロディの目にはそれは単なる確率頼みのインチキにしか見えなかった。
『ロレッタはその“曖昧さ”を面白がっているみたいだけど……』
メロディがその商品の真偽を疑っている間に、ロレッタは満足そうな顔で名簿に署名し、屋敷の管理人ウェンデル・ベントンにそれを手渡した。
「そうそう、きゅうりの香りを封じ込めた香水はまず馬車で先に送ってちょうだい。ジェレミアお兄様がとても気に入っていたから。」
「はい、我々の商品が魔法使い様のご期待に沿えて光栄です。」
「それは光栄ですね。すぐにお送りします。」
そう言って執事に配達を指示したところで、応接室のドアをノックする音が響いた。
「お客様がお見えです。」
その言葉に、ロレッタはぱっと立ち上がり、執事のウェンデル・ベントンが慌ただしく扉を開けた。
入ってきたのは――オーガストだった。
彼は王太子の息子として新たに「王子殿下」と呼ばれる身となっており、メロディは丁寧に腰を折って敬意を示そうとした。
しかし、その前にロレッタが勢いよく駆け出し、彼の襟元をつかんで叫んだ。
「王子は嘘つきよ!」
突然の声に、その場の空気が一瞬で凍りついた。
使用人たちは目を見合わせ、緊張の中、誰も動けない。
沈黙を破ったのは、オーガストの落ち着いた声だった。
彼は小さく笑い、喉の奥で息を呑みながら言った。
「え、あ……ご、ごめん……」
「もちろん、謝らなきゃね。」
軽く顎を上げながら答えるロレッタの姿を見て、メロディはある事実に気づいた。
――いま彼女が目撃しているのは、この世界の“男主人公と女主人公の、正式な初対面の場面”だということに。
メロディは、原作小説の第2部を彩っていた二人のロマンチックな出会いのシーンを思い出し、ゆっくりと息を吐いた。
もちろん、オーガストとロレッタはこれまでにも会ったことはある。
だがそれは、ロレッタがフィシスとして覚醒し、半ば意識を失っていたときのことで、彼女は当時の記憶がない。
その後、オーガストはロレッタに慰めの手紙を送り、二人は親しい文通を続けるようになった。
二人はいつしか、手紙を通じて親しい友人になっていた。
手紙を書くのが好きなオーガストと、寄宿生活に少し退屈していたロレッタは、一日に何通もやりとりをしながら互いの近況を語り合った。
オーガストはある日、こう書いてきた。
「ベルホルドの民たちの様子が気になって仕方がない。ミンディは私のことをもう忘れてしまったのだろうか。」
そして手紙の最後には、こう続いていた。
「父上は“王宮の中には何でも揃っている”とおっしゃるけれど、私の考えは違う。本当に会いたい相手の便りだけは、どんなに待っても届かない場所だから。」
その正直な言葉に、ロレッタも胸を打たれ、次のように返事を書いた。
「私もエバンの消息をまったく聞けていないの。前に手紙を届けてくれたエコまで姿を見せないのだから、きっと全部途中で止まってしまったのね。」
その手紙を読んだオーガストは、王宮に出入りしていた魔法使いボルドウィンとその弟子のことを思い出していた。
返事にはこう書かれていた。
【それなら、私が行って話を伝えてあげようか?何て聞けばいい?】
【本当?ありがとう。私はエヴァンが元気にしているか知りたいの。あ!じゃあ私はベルホルドの神殿に手紙を送って、ミンディの様子を調べてみるわ!私の従者の中に、そこに文通している友達がいるって言ってたの。】
こうして二人は、それぞれが気にかけている人の消息を探り合うことにした。
【ミンディは元気にしてるって。でも時々、どこか寂しそうな様子を見せるみたい。】
ロレッタはそれ以外にも、手紙に書かれていたミンディのちょっとした近況を丁寧に書き写した。
そして一番最後には、自分の想いも添えていた。
【大切な人をあまり長い間放っておいてはダメよ。あなたの気持ちを現実にするために、少しでも助けになれたら嬉しいわ。】
「もし必要なら僕に言って。ボルドウィンの名を借りて、君を助けるよ。」
ロレッタはその言葉を胸に、彼との友情を何より大切に守ってきた。
少しの恥じらいもなく、真心を込めて。
けれど、どれだけ待ってもオーガストからエバンの消息を知らせる手紙は届かず、時だけが流れて――今日、ようやく再会することになったのだった。
その経緯を聞いていたメロディは、沈黙していたロレッタにそっと言葉をかけた。
「でも、王子殿下の襟元をつかむなんて無茶よ。今日が初めての正式な挨拶だったでしょう?」
「私とオーガストはもう秘密を分かち合ってるの。それってつまり、もう親しい友達ってことだから。ちょっと襟をつかむくらい、大したことじゃないわ。」
そう言ってロレッタは、テーブルに並んだ菓子を一つ取ってメロディの前に差し出し、にっこりと笑った。
「でしょ?」
「……うん。」
アーガストは熱いお茶を手にしながら、顔を少し赤らめてカップを持つ手に力を込めた。
「友達」という言葉に、ほんの少し感動したように見えた。
「さあ、話してごらん。どうしてエヴァンの消息を伝えられないの?」
「それが……」
アーガストはカップを置き、小さな手をいじりながらもじもじとした。
ロレッタは肘掛けを軽くトントンと叩きながら、優しく続きを促した。
「君の手紙を受け取った次の日、会議に出席した魔法使いのボールドウィンを遠くから見かけたんだ。」
「うん。」
「その人について来た少年もいたんだ。」
ロレッタは思わず姿勢を正し、興味深そうに身を乗り出した。
「ただの少年じゃなくて、この世で一番美しい少年だったんでしょう!」
「え、えっと……き、綺麗……かな?」
アーガストは小さな声で答えながら、その時に目が合った少年のことを思い出していた。
彼はふと、あの少女――ロレッタの顔を思い浮かべた。
初めて会ったときの、驚いてどうしていいか分からず戸惑う様子が、何とも愛らしかったのだ。
「それがね、僕がロレッタの名前を話したあの日から……」
「その日から、どうしたの?」
言葉が途切れた彼に、ロレッタは顔をのぞき込みながら促した。
「……ちょっと、怖くなったんだ。」
ロレッタはぱちぱちと瞬きをして、オーガストをじっと見つめた。
「もしかして、誰かと勘違いしてるんじゃない?エバンが怖い顔をするなんてあり得ないわ。あの子はいつも優しくて、私のことを心配してくれるのに。」
「いや、顔が怖いっていうより……なんていうか、僕を少し、避けてるような気がしたんだ。」
「おかしいわね。」とロレッタは首をかしげ、小さく笑いながらカップを持ち上げた。
エバンが誰かをそんなふうに避ける姿なんて、どうしても想像できなかった。
「僕……結局、ちゃんと話もできなかったんだ……」
アーガストはため息をつきながら、両手で顔を覆った。
手のひらに汗が滲んでいたのか、片方の手でズボンを拭った。
「ごめん。」
「……別に。」
ロレッタは少し気まずそうにしながらも、優しく微笑んだ。
「仕方ないよ。」
「でも……彼、宮殿にはよく来るみたいだから、また話しかけてみるね。だから、その……君も……。」
「ミンディの様子を探ってきてほしいってこと?」
アーガストはおずおずと顔を上げ、少し恥ずかしそうに笑った。
ロレッタは意味ありげな笑みを浮かべると、旅行用の鞄から小さな封筒を一枚取り出した。
それがミンディが書いた手紙だと気づいたアーガストは、両手を差し出した。
ロレッタはその手にそっと手紙を渡した。
「返事は私に渡して。王宮に直接出すと面倒になるから。」
「えっ、じゃあ僕の手紙も届けてくれるの?」
感激したオーガストは両手を合わせ、目を輝かせながら言った。
「君って本当に最高の友達だね!」
その賞賛に、ロレッタは腰に手を当てて、まるで当然のように胸を張った。
「もちろん知ってるわ。でもあなたもエバンの近況を教えてくれたら、同じように褒めてあげるかもしれないわよ?」
「僕だって、君の一番の友達になりたいのに。それなのにエバンは……どうして僕のことを嫌うんだろう?」
二人のやりとりをそばで見ていたメロディは、なぜかエバンの気持ちを少しだけ理解できる気がした。
けれど今は、ただ静かに見守ることしかできなかった。
ミンディを恋しがるオーガストと、エバンを慕うロレッタ。
二人の奇妙な友情が、どんな形で続いていくのか、メロディーにはまだ想像もつかなかった。
彼らの物語に、ただ素直に身を委ねていればいいのだから。
ロレッタは、ほんの少し前までベッドに横たわってばかりいたのが嘘のように、この街ではすっかり活発に行動するようになっていた。
朝日が昇ると同時にベッドから起き上がり、朝食を済ませるとすぐにアーガストと合流して、二人で町のあちこちを見て回った。
まだ祭りの時期ではなかったが、観光地らしく見どころは常にたくさんあった。
若い二人は、遊び疲れることも知らない様子だったが、メロディはそうはいかなかった。
元気いっぱいの子どもたちの後を一日中ついて歩いた結果、すっかり疲れ果て、ブリクスの屋敷に戻ることになった。
メロディは屋敷のソファに倒れ込むように座り、足の裏をさすりながら「奇跡のゴムまんじゅう(※回復薬やおやつのようなもの)」を恋しそうに思い出していた。
叩くと不思議と気分が晴れるという、まるで魔法のような小物――。
いや、実際にはそれはただの物ではなくて……
『もしご希望でしたら、都でも同じように作れますよ。』
『そんな馬鹿なことを言わないでください。公爵の威厳に関わります。』
『たかがこれくらいのことで威厳は失われませんよ。』
――あのときの会話が懐かしく思い出された。
あれから一年、心のどこかに芽生えた痛みをそっと抱きしめるように、メロディはぼんやりと指先を動かしていた。
そのとき、部屋のドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」と短く答えると、すぐに扉が開き、執事のウェンデル・ベントンが恭しく腰を折って告げた。
「お客様がお見えです。」
「わたしに……お客様ですか?」
彼女を訪ねてくる人など思い当たらず、メロディは少し戸惑いながら問い返した。
だが執事は穏やかに微笑み、「応接室でお待ちです」とだけ答えた。
『……誰が来たの?』
メロディの胸に一瞬、期待感が広がり、クロードの名前が頭をよぎった。
もっとも、それが間違いであることは確信せずともわかっていた。
彼はどんな状況であっても自分の職務を放り出し、クリステンソンまで駆けつけるような人間ではない。
そんな男ではない――断言できる。
メロディは侍女の手を借りて衣服を整えながら、約束もなく突然訪れた客が誰なのか考え込んだ。
『ここまで私を訪ねてくる人なんて、いないはずだけど……』
疑問を抱えたまま着替えを終えると、彼女はすぐに応接室へと向かった。
重厚な扉が開くと、窓辺に立って外を眺めている女性の姿が目に入った。
ウェンデル・ベントンが車を置いて立ち去ると、メロディはどこか見覚えのあるその後ろ姿をじっと見つめた。
胸の奥がかすかに高鳴った。
淡い色の髪に、動きやすそうな旅装――。
メロディは最初、その女性が誰なのか分からなかった。
だが、彼女が軽く体をひねりながら微笑んで、「ヒギンズ嬢」と呼びかけた瞬間、メロディは息を呑み、思わず両手で口元を覆った。
「き、記録官さま!」
そう、去年の秋。
あのときメロディの靴を記録に残さず、あえて“例外”として扱ったあの記録官――。
「お久しぶりです。」
「えっ、どうしてここに……いえ、本当に久しぶりです!」
うろたえるメロディの様子がおかしかったのか、彼女は声を上げて笑った。
「もう記録官ではありませんよ。今はセリ・クレメンスと申します。」
「クレメンス夫人……。」
「“夫人”という呼び方はあまり好きではありません。セリと呼んでください。」
その言葉に、メロディはすぐに微笑みを返した。彼女の趣を尊重するように、柔らかな声で言った。
「セリさん、ですね。ここでお会いするなんて思いませんでした、セリさん。」
「ええ、私もですわ。」
「お元気でしたか……。いえ、立ち話もなんですし、どうぞこちらへお掛けになってください。」
驚きのあまり、メロディは客をもてなすという基本的なことすら忘れていた。
慌ててセリに席を勧める。
「ご親切にありがとう。でも、このままお話ししましょう。こんなに美しい夕暮れを逃すのはもったいないですもの。」
セリは再び大きな窓の方へ身を向け、赤く染まった空を見上げた。
メロディも彼女と並んで、同じ空を見つめる。
「新聞を拝見しました。」
まるで記録官のような静けさで、セリが口を開いた。
「……はい。」
メロディは彼女の真意を探るように、慎重に返事をした。
セリは静かに答えた。
――彼女は、自分が仕事を辞めたことを後悔しているのだろうか。
メロディーはそんな疑問を抱いた。
今となっては、あの「記録」を残したところで何が変わるわけでもない。
誰も不都合には思わないはずだ。
「後悔はしていません。」
その即答に、メロディは驚いて顔を上げた。
「本心です。」
「でも……」
「私は与えられた義務を果たさなかった。それは事実です。状況が変わろうと、その責は消えません。」
その毅然とした声に、メロディーの胸に小さな痛みが走った。
この人のように、自分の選択を決して言い訳しない強さ――そんな姿を思うと、胸の奥が熱くなる。
「けれど、あなたは違います、ヒギンズ嬢。」
「違う……って?」
「私があなたを匿ったのは、あくまで一時的な措置でした。あなたの身を守り、この国に再び“平穏”をもたらすための。」
メロディは小さく喉を鳴らした。
「今では、皇帝陛下も長い悪夢から目を覚まされました。もうあの時の約束に縛られる必要はありません。」
「……それは。」
「もう一度、記録官を目指してもいいのではありませんか?二度も試験を受けなければならないという点では少し手間ですが。」
「そんなことはできません!セリさんが、あの時……私のために……!」
「ヒギンス嬢がそうしてほしいと頼んだわけでもありません。記録を破棄する決断をしたのは、私自身の判断でした。」
毅然としたセリの返答に、メロディは言葉を失った。
「この一連のことに対して、なんとお礼を言えばいいのか……わかりません。」
「当然のことです。」
「いいえ、そうではありません。ほとんど面識もなかった私に、あんな大きなご厚意を……。」
「そして今、こうして自由に過ごせるようにしてくださった。本当に……お優しい方ですね。」
「たいしたことではありません。誰だって“親切にしたい”という基本的な欲求を持っているものです。」
「親切が……“欲求”ですか?」
「そうです。誰かに優しくしたあとに、ほんの少しでも温かい気持ちになれるでしょう?それは心の満足そのものです。」
その言葉に、メロディーの胸がじんわりと熱くなった。
もしも世界中の人が、そんな“親切の欲求”を自然に抱けるようになれば――きっと、誰もが穏やかに暮らせるはずだ。
「……私も、そんな気持ちをもっと感じられるようになりたいです。」
「ヒギンズ嬢なら、きっとできますよ。」
「それと……少し、お願いしたいことがあるんです。」
メロディはそっと乱れた髪を耳にかけながら、真剣なまなざしでセリを見つめた。
「どうやって……私がここにいるってわかったんですか?」
「ん?」
セリの片眉が少し上がった。
どうやらメロディがこんな質問をするとは思っていなかったようだ。
「す、すみません。もしかして……私に手紙を送ってくださったんですか?」
「いや、そうじゃないの。」
彼女は一瞬考え込むような顔をしたあと、ふっと微笑んだ。
「結局、私はまた基本的な欲求を満たすことになったみたいね。」
「え?」
「クロード・ボルドウィンが私を見つけたの。」
「ぼ、坊ちゃんが!?」
「ええ。完璧に身を隠したと思っていたのに……どうやら彼は、私が公爵領に滞在していたことを最初から知っていたみたいなのよ。」
「公爵領……にいらしたんですか?」
「ええ、しばらく。」
その言葉に、メロディは思い出した。
――クロードが、自分に公爵領へ行くことを勧めてくれた日のことを。
彼は言っていた。
「ロレッタのためにも、きっとその方がいい」と。
(まさか……この再会のために?)
メロディは心の中でそっとつぶやいた。
ロレッタのために首都を離れたつもりだったが、どこかで、記録官との約束が心に残っていたのだ。
「では、わたしのためにクリステンソンまで……?」
「まさか。たまたま国境を越える予定だったんです。夏と秋は旅にちょうどいい季節でしょう?もっとも、ヒギンズ嬢に会えるとは思ってもいませんでしたが。」
セリは柔らかく笑った。
そして、ふと目を細めて言葉を続けた。
「あなたを訪ねようとしたのは、ボルドウィンの若者でした。」
その名を聞いて、メロディーの胸がかすかにざわめいた。
ボルドウィン――セリが誇りにしていた青年。
彼は今、地位も名誉も持たぬ身ながら、なおも真摯に、セリ・クレメンスに敬意を抱き続けているという。
クロードは静かに、しかし真剣に頼んだ。
メロディ・ヒギンスに会ってほしいと。
『世界は変わった。彼女にも、もう自分が自由になれるということをわかってもらえるはずです。』
『……ご存じかもしれませんが、メロディ・ヒギンスは約束をとても大切にする人です。』
クロードは何度も彼女に同じ頼みを繰り返しながら、深く頭を下げた。
そこまで必死にならなくてもいいはずなのに。
「彼は、あなたのことを深く思っていました。本当に誠実な青年です。」
「そう……だったんですか。知りませんでした。坊ちゃんからは何も……。」
いや、「知らなかった」というのは言い訳にすぎない。
あの時、彼が彼女に公爵領を勧めたとき、メロディが理由を尋ねさえしていれば、すぐにわかったはずだ。
彼が話さなかったのではない。メロディが、彼の言葉にきちんと耳を傾けていなかったのだ。
「ともかく、メロディ・ヒギンス。これからは自由に生きてください。あなたを縛るものは、何もないのですから。」
セリが静かに一礼し、右手を差し出した。
メロディはその手をしっかりと握り返した。
「セリさんも、どうか良い旅を。」
「ありがとう。任務を終えたこと、若いボルドウィンにも伝えておいてくれますか?」
「わ、私が……ですか?」
セリは柔らかく笑いながら、当然のようにうなずいた。
その穏やかな仕草に、メロディは胸がいっぱいになり、しばらく言葉が出てこなかった。
「……わかりました。必ず伝えます。」
彼女は深く頭を下げ、別れを惜しむようにセリの手をもう一度そっと握りしめた。
その少しあと、応接室を訪れたウェンデル・ベントンが「ぜひ食事を」と申し出たが、セリは軽く微笑んで、「道中が長いのです」とだけ答えた。
彼女は静かに別れの言葉を残し、ブリクス邸を後にした――その背中には、長い旅路を見据える者だけが持つ、不思議な静けさと確かな意志が宿っていた。