こんにちは、ちゃむです。
「残された余命を楽しんでいただけなのに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
99話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 愛される価値の証明
「生きたいです」という、アセリアの喉を震わせて絞り出された言葉には、途方もないほど多くの、そしてあまりにも切実な意味が込められていた。
もしかすると、それは「もうこれ以上、身体を苛む痛みに怯えたくない」という意味だったのかもしれない。もしかすると、「暗い天井だけを見つめる、孤独な苦しみから解放されたい」という意味だったのかもしれない。あるいは、大好きな、世界でたった一人の姉と一緒に、まだ見ぬ広い世界へと旅に出てみたいという意味かもしれない。あるいは、今まで病魔のせいで口にすることすら叶わなかった、世の中の美味しくて温かい食べものを、お腹いっぱいになるまで思いきり食べてみたいという意味だったのかもしれない。
幼い胸の奥底に、鍵をかけてぎゅっと、ぎゅっとしまい込んでいた、数え切れないほどの涙と願い。それらすべての言葉をたった一つにまとめ、勇気を振り絞って形にした結晶が、その「生きたいです」という四文字だった。
ドサッ!
その時、静まり返った部屋の外から、何かが激しく地面に落ちる音が響いた。
ユリと一緒に市場を見て回っていたはずの、アレミテルが立てた音だった。妹のいる部屋へと近づいていた彼女の耳にも、その掠れた、けれど確かに放たれた言葉は届いていたのだ。
平民の出身でありながら、血を吐くような努力と天性の才によって、まだ二十代という若さで帝国の「中将」という最高峰の地位にまで上り詰めた立志伝中の英雄――アレミテルは、その時、すでに大粒の涙を頬に伝わせていた。
彼女は、もう片方の手に持っていた果物やお菓子の詰まった重い買い物かごさえ、その場に放り出した。中身が床に転がるのも厭わず、弾かれたように部屋の中へと駆け込んできた。
「アセリア……! 今、なんて、なんて言ったの!?」
アレミテルの声は激しく震えていた。幻聴ではないと分かっていながらも、どうしても、どうしてももう一度だけその耳で確かめたかった。あの子が、あの諦めの中で生きていた妹が、たしかに自分の意思で「生きたい」と言ったのだ。
その言葉は、アレミテルがこの数年間、毎夜神に祈り、片時も忘れずにずっと、ずっと聞き詰めていた、何よりも欲しかった言葉だった。どれほど切実に願い、妹の顔を覗き込んでも、これまで一度として聞くことができなかった絶望の殻を破る言葉を、ついに今、聞いたのだった。
「今、なんて言ったの!? アセリア!」
「え……あ、お姉ちゃん……それ、は……」
アレミテルのただならぬ気迫と、その目から溢れる涙に、アセリアは激しく動脳した。
「どうして途中でやめるの!? お願いだから、何て言ったのか、もう一度お姉ちゃんに聞かせて!」
「ひゃっ……!」
びくっと身体を強張らせたアセリアは、恐怖と困惑のあまり、逃げるように布団を頭から被って中に隠れてしまった。感情を爆発させる姉の姿を見て、幼い彼女は、自分が何か悪いことを言って叱られるのではないかと怯えてしまったのだ。
その様子を見たイサベルは、少し興奮状態にあるアレミテルの震える手を、下からそっと包み込むように握った。そして、優しく、宥めるように首を横に振った。
それから、もう片方の手で、ベッドの空いている横のスペースを軽くトントンと叩いた。
「中将様、落ち着いて。ここに座ってください」
アレミテルはイサベルの小さな手に引かれ、何かに導かれるように、がっくりと膝を折るようにしてベッドの隣へ腰を下ろした。
部屋の中に、しばらくの間、重く、けれどどこか温かい沈黙が流れた。
呼吸を整えるアレミテルの横顔を見つめたあと、イサベルは布団の塊に向かって、再び穏やかな声を掛けた。
「アセリア。アレミテル中将はね、怒っているわけじゃないのよ。ただ……すごく、すごく嬉しくてそうなっているの。あなたの言葉が、とても、とても喜ばしくて、涙が止まらないだけ。だから、怒られるなんて怖がらなくていいのよ」
イサベルは、アレミテルと繋いだ手を通して、彼女の魔力の波長を感じ取っていた。手を握りしめたその瞬間から、言葉にならぬ奔流となって伝わってきたのだ。アレミテルの魔力の中には、今や抑えきれないほどの、純粋で、深い、あまりにも巨大な喜びが満ち満ちていた。それは、凍てついた心を一瞬で溶かすほどに切実で、強い光を放つ喜びの情動であり、傍らにいるイサベルの心までを、じんわりと温かく包み込んでいくようだった。
(……羨ましいな)
イサベルは、胸の奥で小さく呟いた。
前世の自分にも、あんなふうに、ただ生きていることだけを涙を流して喜んでくれる、自分だけを真っ直ぐに想ってくれる人が、たった一人でもいればよかったのに、と。もし、これほどまでに自分を無条件に愛し、必要としてくれる人が一人でも世界にいてくれたなら、あの過酷で孤独な闘病生活も、きっともっと、いくらでも耐えられたはずなのに。
「だから……自分が迷惑だなんて、そんな悲しいことは、もう思わなくていいのよ」
そのイサベルの静かな一言に、激しく反応したのはアレミテル端だった。彼女は涙を拭うのも忘れ、目を見開いてイサベルを見た。
「え……? めい、わく……ですか? アセリアが、私に……?」
「ええ。アセリアはね、ずっと自分では何もできないって、その小さな胸を痛めていたはずよ」
イサベルは、ベッドの上の布団の膨らみを見つめながら語りかけた。
その苦しみは、前世の自分が誰よりも深く味わってきたものだったから。人間にとって、誰の役にも立てず、ただ誰かの介護や助けがなければ一秒だって生きていけない、ただ生かされているだけの価値のない存在だと、自分自身を定義してしまうことほど、残酷でつらいことはないのだ。
「自分がただ生きていること、そのためにかかるお薬代や、お姉様が費やす労力のせいで、大好きなお姉様をどんどん苦しめ、その人生を縛り付けてしまっているって……あの子はずっと思い詰めていたのよ。だから『生きたい』とか、『痛いのが嫌だ』とか、そんな当たり前のわがままな願いを口に出すことさえ、お姉様を傷つける気がして、ずっとできなかったのね」
イサベルの言葉が終わるか終わらないかのうちに、布団の隙間から、震える、小さな告白が漏れ聞こえた。
「……う、うん……言えなかったの……。大好きなお姉ちゃんに、これ以上、迷惑をかけるのが、怖かったから……。私なんか、いなければ……私さえ、生まれなければ……もしかしたらお姉ちゃんは、もっと自由で、もっと幸せになれるのにって……ずっと、そんなふうに思っちゃって、ごめんなさい……!」
「アセリア……、お前、そんなことを……」
アレミテルは言葉を失った。繋いだ手を通して、彼女の感情がじわじわと、波紋のようにイサベルへ伝わってくる。それは後悔、悲しみ、自責、そして愛おしさ――あまりにも多くの感情が絡み合った、一言では到底言い表せないほど複雑な熱だった。
「中将様」
イサベルは、アレミテルの手をもう一度ぎゅっと握りしめ、その美しい瞳を真っ直ぐに見つめた。
「だから、今度は中将様が、きちんと言葉にして言ってあげてください。今、あなたの中から伝わってくる、その本当の想いを。人間の心は、きちんと整理して言葉にしてあげなければ、どれほど近くにいても伝わりませんよ」
「……っ」
アレミテルの手から、もどかしさと焦燥が伝わってくる。彼女は戦場での指揮や、軍人としての規律の中では完璧な人間だったが、今、この瞬間に最愛の妹へ向けるべき言葉を、どう紡げばいいのか分からずにいた。あまりにも感情が溢れすぎ、言葉の形をなさなかったのだ。
イサベルは、彼女の背中を優しく押すように、そっと手助けの言葉を添えた。
「難しく考える必要はありません。そんなふうに『生きたい』と言ってくれてありがとうって、ただ、ありのままの気持ちを伝えてあげればいいのですよ」
「ありがとう……」
その一言が、アレミテルの霧がかった頭の中を、すっと綺麗に整理した。
彼女は弾かれたようにその場に立ち上がると、ベッドの枕元へと詰め寄った。その場にどさりと両膝をつき、アセリアを頑なに覆っている布団をそっとめくろうとした。しかし、アセリアが内側から小さな手でぎゅっと握りしめて抵抗するため、最初は上手くいかなかった。それでも、アレミテルは諦めずに、布団越しに妹の身体を包み込むようにして、優しく、けれど強く語りかけた。
「アセリア。隠れないで、お話を聞いて。私はね、本当に、本当にすごく嬉しかったの。お前が『生きたい』って、その本音を言ってくれたことが、何よりも……っ。ずっとずっと、この数年間、私が世界で一番聞きたかった言葉だったのよ。ありがとう、アセリア……!」
「……お姉、ちゃん……」
布団の抵抗が、わずかに弱まった。
イサベルはその様子を横で見守りながら、胸の内でほうっと静かに息を吐いた。生涯を過酷な軍人として生きてきたアレミテルにとって、己の脆い心の内をそのまま表に出すのは、きっと血を流すよりも不慣れなことだったに違いない。
イサベルはさらに、二人の絆を確固たるものにするために、問いかけを重ねた。
「中将様。中将様は、アセリアが何かあなたの役に立たなければいけないと、少しでも思っているのですか? 例えば、お家の掃除をしたり、お皿洗いをしたり、どこかで健常な人のようにお金を稼いできたり……」
「そんな必要、あるはずがありません!」
アレミテルは即座に、断固とした声で否定した。
「では、人の役に立たなければ、アセリアは価値のない、愛されない子なのでしょうか?」
「いいえ! まったく違います! 決して、決してそんなことはありません!」
「では、中将様が、アセリアに心から望んでいることは何ですか?」
アレミテルは、ハッと息を呑み、しばらくの間深く考え込んだ。
自分は、この愛おしい妹に何を望んでいるのだろう。妹に、何をしてほしいのだろう。どれほど記憶を巡らせ、心を掘り起こしてみても、妹が自分に対して何かを返してくれること、何かの義務を果たすことなど、望むものはただの一つも存在しなかった。
「……何も、ありません。私に何かをしてほしいなんて、これっぽっちも……」
ただ、元気に笑っていてほしい。ただ、苦しみから解放されて、幸せであってほしい。アレミテルが世界に望んでいるのは、本当に、それだけだった。
「どうして、何をしてくれなくてもいいのですか?」
「それは……」
アレミテルは、なおもその根源にある感情をどう表現すべきか、唇を震わせるばかりだった。だから、イサベルがその美しい真実を、代わりに言葉にしてその場に響かせた。
「それはね、中将様が、アセリアの存在そのものを、とても、とても大切に、命よりも重く思っているからですよ」
「……っ」
アレミテルは、大粒の涙を流しながら、小さく、深く深く頷いた。
イサベルもまたゆっくりと立ち上がり、アレミテルの隣――アセリアの枕元へと静かに歩み寄った。そして、未だ布団の中に立てこもっているアセリアの胸のあたりを、上からそっと、慈しむように手のひらで撫でてあげた。
「アセリア、聞いて。人間にはね、時には、ただそこに存在しているというだけで、周囲を照らし、きらきらと輝く人もいるのよ」
かつての前世の自分も、誰かにとってそんな風に「ただ生きているだけでいい」と言ってもらえる存在になりたかった。そして、そのささやかな、けれど果てしない願いは、今、この「イサベル」という新しい身体と世界を得たことで、奇跡のように叶えられたのだ。だからこそ、イサベルにとってこの第二の人生は、何にも代えがたい極上の「贈り物」だった。何の代償もなく、ただ神様から与えられたこの温かい世界を、彼女は分かち合いたかった。かつての自分と全く同じ、痛みの匂いをまとって泣いている、この目の前の幼い少女に。
「何もできなくたっていいの。誰の役にも立てなくたっていい。アセリア、あなたはね、ただそこに生きて、息をしているだけで、十分に愛される価値があるのよ」
それは、もしかすると、かつて病室の片隅で孤独に死んでいった前世の自分自身が、何よりも誰かに言ってほしかった言葉そのものだったのかもしれない。
ひそやかな静寂の後、布団の中から、今度は我慢しきれなくなった、激しいすすり泣きの音が漏れ聞こえてきた。
イサベルは微笑みながら、ゆっくりと、けれど確かにその布団をめくった。それは、アセリアの心を長年縛り付けていた、固く冷たい絶望の鍵が、今、静かに外れた瞬間だった。
アレミテルは布団から現れた、涙でぐしゃぐしゃになった妹の身体を、壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないとばかりに強く抱きしめた。
「迷惑なんかじゃない……! お前が迷惑なわけがないでしょう、アセリア……! 私はただ……」
「おね、ちゃん……っ」
「私はただ、お前がそばに生きていてくれるだけで、それだけでいいの。だから、もう二度と自分を責めるようなことは思わないで。お前が今日、『生きたい』って……その本心を私に言ってくれたこと、それが本当に、何よりも嬉しいの。本当に、生まれてきてくれてありがとう、アセリア……!」
姉の偽りのない、魂からの真っ直ぐな愛の言葉を受け止めたアセリアは、張り詰めていた心の糸が完全に切れ、「うわああん!」と大きな声を上げて、子供のように激しく泣き出した。その姿は、これまで無理に大人の顔をしていた病人のものではなく、年相応の、無邪気で甘えん坊な子供そのものの姿だった。
アレミテルもまた、アセリアをきつく抱きしめながら、声を詰まらせて涙を流し続けた。それを見つめるイサベルの目からも、温かい涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
どれほどの幸福な時間が流れただろうか。
三人がベッドの傍らで寄り添い、涙を流し合っているその背後から、不意に、優しくおっとりとした声がかかった。
ユリの声だった。
「……約束を、守ろうとしてくださったのですね」
イサベルはハッとして振り返り、後ろを見た。
いつの間にか部屋に戻っていたユリが、丁寧に磨かれた木製のトレイを両手で持っていた。その上には、透き通った美しいガラスのカップが四つ、綺麗に並べられている。カップの中からは、柑橘の爽やかな香りをまとった、ほわほわとした白い湯気が優しく立ちのぼっていた。
「世界で一番甘い、レモンティーです」
ユリはそう言って微笑んだが、イサベルはどこか、彼女の様子に奇妙な違和感を覚えた。
「……ユリ? どうしたの?」
ユリの両手に握られたトレイが、カタカタと、微かに、けれど明確に震えていたからだ。
実はユリは、先ほどイサベルがアセリアに向かって語りかけた言葉のすべてを、ひとつ残らず己の胸の奥深くにしまい込み、反芻していた。なぜならその言葉は、まるでイサベルから、自分自身に向けて放たれた救いの言葉のようにも感じられたからだ。
――『何もできなくてもいいの。ただそこにいるだけで、十分に愛される価値があるのよ』
ユリは、デイサの街でイサベルに拾われてからというもの、狂気的なまでに努力をし続けてきた。イサベルから受けた、底知れないほど大きな恩を、いつか自分の手で返すために。
ユリはイサベルの役に立ちたい一心で、幼い頭を悩ませながら高度な数学や化学を必死に学び、あの厳しくて恐ろしいデイサ市長が施す、過酷な家庭教師の授業にも涙を堪えて耐え抜いてきた。彼女の心根には、常にこのような強迫観念が巣食っていたのだ。
(もっと、もっと努力しなきゃ。皇源様にふさわしい、もっと役に立つ、もっと良い友達にならなきゃいけないんだ……!)
イサベル自身は、ユリにそんな無理な要求をしたことは一度だってなかった。けれど、ユリは勝手に「完璧でなければ隣にいる資格がない」という見えない鎖に縛られていたのだ。もし、自分が役に立たなくなって、イサベルに嫌われてしまったらどうしよう。そうなったら、自分を信じて待ってくれているお母さんはどうなってしまうのだろう。その根底にある不安が、彼女の努力の足をさらに過酷にさせていた。
けれど、イサベルはたしかに、たった今、アセリアを通して言ってくれたのだ。何かができなくても、ただそこにいるだけで、あなたには価値があるのだと。
それは直接ユリに向けられたものではなかったかもしれない。けれど、イサベルという少女の、根底にある優しさと他者への眼差しが、はっきりと伝わってきた。それだけで、ユリにとっては張り詰めていた心が救われるような、あまりにも大きな慰めであり、福音だった。
(そうだ……。皇女様は、もともと、ああいう温かい方なんだ……)
イサベルの言葉のおかげで、ユリはもう一度、その事実を肌で実感することができた。少しくらい勉強に失敗したっていい。無理に自分を限界まで追い込んで、完璧な人間になろうと努力し続けなくてもいい。もしかしたら自分は、大好きなイサベル皇女のそばに笑顔でいるだけで、それだけで少しは、彼女の世界を輝かせることができているのかもしれない。
そう思うと、ユリの胸は熱い感情でいっぱいになり、視界が滲んだ。
「……ユリ? 本当にどうしたの? 手が震えているよ?」
イサベルが心配そうに顔を覗き込む。
ユリはベッドのそばの小さなテーブルに、カタカタと音を立てるトレイをそっと置いた。そして、胸の鼓動を抑え、一生分の勇気を振り絞って口を開いた。
「皇女様……私も、私も少しは、あなたの前で輝けますか?」
そう口にした途端、ユリの白い頬は林檎のように真っ赤に染まった。自分で言っておきながら、あまりにも図々しく、厚かましい問いを皇女に向けてしまったと、激しい恥ずかしさが襲ってきた。輝いているのは、いつだって太陽のようなイサベル皇女であって、自分ではない。自分はただ、その温かい恩恵にあずかっているだけの、ただの元平民の侍女にすぎないのだから。
――それでも、どうしても確かめたかった。自分が、イサベルにとって本当にどんな存在なのかを、他の誰でもない、彼女自身の口から聞いてみたかったのだ。その抑えきれない想いが、胸いっぱいに込み上げていた。
イサベルはからかうような真似はせず、静かに、けれどとても真剣な表情を浮かべてユリを見つめた。
「ユリ」
イサベルには、ユリがどうしてそんな突拍子もないことを聞いたのか、すべて分かっているようだった。日々の生活の中で、ユリが少しずつ、自分を良い友達にしようと追い詰めるように努力していたことも、気づいていた。だからこそ、ユリが初めて見せてくれた、その脆く素直な問いかけが、愛おしくてたまらなかった。
ユリはひどく緊張し、全身を強張らせていた。ごくり、と喉が鳴る音が、静かな部屋に響くほどだった。
イサベルは、ふっと悪戯っぽく微笑んだ。
「ユリはね、私が大好きなトッポッキやラーメンよりも、もっと、ずうっとキラキラ輝いているよ」
「……え?」
例えが少し、というかかなり風変わりだったけれど、ユリはそのイサベルらしい“変さ”が、むしろ緊張を解いてくれるようで心地よかった。
「私はね、世界で一番おいしいレモンティーという『飲み物』そのものが好きなんじゃなくて、世界で一番おいしいレモンティーを、私のために一生懸命淹れてくれる『ユリ』のことが、大好きなの」
ユリはあまりの嬉しさと気恥ずかしさに、靴の中で足の指をぎゅっと丸めて、ぐっと床に力を入れた。胸の奥がくすぐったくて、少し恥ずかしい。端でも、決して嫌な感じはしなかった。
「じゃあ……もし、私がレモンティーを淹れて差し上げなかったら?」
ユリは、少し拗ねたような口調で試すように聞いた。
「そしたら、ユリ〜、レモンティー淹れてって、私が泣きつくよ」
「ふふ……。じゃあ、もしレモンティーと私、どっちか一つしか選べって言われたら、どうするんですか?」
「そんな意地悪なことにはならないよ。だってユリは、私が心を込めてお願いしたら、結局は私のために淹れてくれるお優しい人だもん」
それは、ユリが頭の中で期待していたような「完璧な正論」の言葉ではなかった。本当は、物語の主人公のように、
『あなたが世界で一番大切な、かけがえのない友達だよ!』
そんな風に、分かりやすい大げさな台詞で言ってほしかったのかもしれない。
けれど、イサベルは言葉を続けた。
「すごく大好きな人に、真剣に頼まれたら……普通は、断りにくいものだよね?」
「……保存」
「ユリは、私のこと、すごく好きでしょ?」
「……っ、はい。大好きです」
前世で、常に「支援を受ける立場」という、ある種の非対称な関係性にいたイサベルだからこそ、今のユリの複雑な心理は痛いほどよく理解できた。一度、恩人と被恩人のような関係性ができてしまうと、人間は純粋に“好き”という感情だけで隣に居続けることが難しくなる。義務感や負い目が混ざってしまうのだ。それを行政の手続きのように割り切るのではなく、ユリには、もっと楽な気持ちで、ただ子供らしく隣にいてほしいとイサベルは願っていた。
「私もね、ユリのことが、もの凄く大好きなんだよ」
「皇女様……」
その一言は、決してその場を収めるための軽いものではなかった。イサベルはユリの両手を包み込み、重ねて言った。
「だから私たちは、世界で一番仲のいい友達同士だと私は思っているし、私の友達であるユリは、世界で一番キラキラしてるって思ってる。少なくとも……私という人間の世界の中ではね」
ユリは堪えきれず、ぎゅっと顔を伏せた。ひとしきり感情のままに言葉を交わして、ようやく我に返った気がした。
(私……皇女様に向かって、なんて不敬で、我が儘なことを言っちゃったんだろう……)
ほんの少しの間、イサベルの持つ不思議な温かさに引き寄せられ、我を忘れていたようだった。急に恥ずかしさが波のように込み上げてくる。けれど、それ以上に、ユリの胸の空洞は、これまでにないほどの確かな幸福感で満たされていた。
(もっと……もっと、この素晴らしい皇女様にふさわしい人間になりたいな)
ユリの中で、何かが静かに、けれど決定的に変わっていった。それは単なる「受けた恩を返すため」の義務でもなく、「私は侍女だから」という身分の縛りでもない。だから、これからは無理に背伸びをして、自分を削ってまで頑張る必要もないのだ。
(それでも――私は、皇女様のために、私の意思で頑張りたい)
ユリの努力の動機は、少しだけ優しく、そして真っ直ぐなものへと昇華されていた。(これからは、きっともっと、心から上手に仕えることができる)
“仕える者”としてではなく、魂の“友達”として、イサベルのために尽くしたい。動機がほんの少し変わっただけなのに、ユリの心はずっと軽く、明るくなっていた。
その時だった。
ベッドの下の暗がりに――いつの間に入り込んでいたのかも分からないまま、丸くなって眠っていた金蜜(キムビョル)が、ひょこっと短い脚を動かして顔を出した。
「☆★☆★!」
頭の上に、文字通りきらきらと輝く魔力の星をいくつも浮かべている。それはまるで、「おいおい、何をお前らだけで盛り上がってるんだ? この世界でいちばん輝いているのは、どう見ても俺さまだろ!」と自己主張を大声でしているかのような、生意気で愛らしい様子だった。
普段から金蜜をおろそかにせず、最優先に扱うと約束していたイサベルは、くすっと笑ってその小さな身体をそっと両手で抱き上げた。大好きなイサベルの腕の中に収まると、金蜜は非常に満足そうな、誇らしげな表情を浮かべた。すると、その丸い頭の上に、魔法の光でできたような古代文字の記号が次々と浮かび上がり、その点滅速度はどんどん速くなっていく。
[☆★☆★]
[☆★☆★☆★☆★]
[☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★!]
金蜜は、ふわりと甘い、春の花の香りがする息をアセリアのベッドに向けて吹きかけた。
[くるり、きらきら。]
[どう見ても、ぼくがいちばん輝いてる。]
そのコミカルな様子に、部屋の中にいた全員が、思わずくすくすとした温かい笑いに包まれた。先ほどまでの重苦しい涙の空気は、レモンティーの湯気の中に溶けて、綺麗に消え去っていった。
美味しいレモンティーを全員でいただいた後、少し体調が落ち着いたアセリアが、枕元で小さく呟いた。
「……あの、お姉ちゃん。私、少しだけ、外の空気を吸いに行いたいな」
その言葉を聞いた瞬間、イサベルは勢いよく立ち上がった。
相変わらず、この部屋の中には、彼女の身体から発せられる濃厚な“痛みの匂い”が満ちている。これほどまでに強い病の気配をまとっている子が、自らの意思で「外に行きたい」と口にするのは、非常に珍しいことであり、とてつもない変化だった。それは、少なくとも今この瞬間だけは、彼女の精神が痛みを凌駕し、体調がかなり上向いているという動かぬ証拠でもあった。
前世の自分だって、そうだった。何ヶ月も暗い病室に閉じ込められている中で、ごくたまに、どうしても外を歩きたくなる日が訪れるのだ。あの時に車椅子で出かけて肌に感じた、眩しい春の風や、優しい日差しの温かさは、前世を失った今でもイサベルにとって人生で最も大切な記憶として残っている。
「いいね! 素晴らしい提案だよ。一緒に行こう。中将様、よろしいですか?」
アレミテルは、やはり少しだけ心配そうに眉をひそめ、複雑な顔をした。生まれた時から身体の弱い妹を、この夕方の時間から外に連れ出すということに、長年の経験からどうしても本能的な不安が拭えないようだった。
「中将様、大丈夫ですよ。アセリアの身体の限界は、他の誰でもない、アセリア自身が一番よく分かっているはずです」
かつて前世の自分を診てくれていた医師たちも、体調が良い日であれば、ごく軽い散歩程度ならむしろ精神衛生上、非常に好ましいと勧めていた。外に出て新鮮な空気を吸い、日光を浴びて、肌で風を感じるのも治療の一環なのだ、と。それでも、病人の側としては毎日そんな前向きな気分になれるわけではなくて、結局は億劫になってベッドで一日中過ごすことが多かったのだ。だからこそ、アセリアが今「行きたい」と言ったその瞬間を、絶対に逃してはならなかった。
もちろん、無理は禁物だし、細心の注意を払って様子を見る必要はある。自分とよく似ていて、まとっている“痛みの匂い”も同じ種類のものではあるけれど、それでも自分とは違う人間なのだから、全く同じ体力だとは限らない。
「お医者様だって、ベッドから一歩も動くなと四六時中おっしゃっていたわけではありませんよね?」
「それは……確かに違いますが……」
「なら、軽いお散歩くらいなら、絶対に大丈夫ですよ。ね?」
「……はい。皇女様がそうおっしゃるのなら」
「じゃあ、決まりだね!」
イサベルたちはもともと旅の途中であり、外出の準備はいつでも整っていた。あとはアセリアが外用の服に着替えるだけだった。
――そう思った矢先、アセリアが何かを思い出したように、少しだけためらうようにして小さな口を開いた。
「お姉ちゃん……私、それ、つけていきたい……」
「……?」
アレミテルが少し驚いた顔を見せる中、アセリアはベッドの脇にある、古びた、けれど大切に保管されていた木箱の中から、そっと何かを取り出した。
それは、ひと房の、丁寧に編み込まれた美しい黒髪の束――「かつら」だった。
その瞬間、イサベルはすべての合点がいき、胸を打たれた。どうして帝国の上級貴族であり、美しい容姿を持つはずのアレミテル中将が、まるで男のようになびく髪を短く切り揃えていたのか。あれはただの軍人としての好みの髪型などではなかったのだ。
――妹のために、自分の大切な髪を切り落として、贈ったのだ。
この世界の令嬢たちにとって、豊かで艶やかな長い髪を美しく保つことは、絶対的な常識でありステータスだ。さらりと風に揺れる長い髪こそが、女性らしさと美しさの象徴であり、貴族の娘たちにとっては一種の強い憧れでもあった。そのあまりの価値の高さゆえに、ほんの十年ほど前までは、美しい髪を手に入れるための貧民の子供を狙った人身売買まで裏で横行していたという、暗い歴史があるほどだ。
さすがにその弊害と人道的な問題が大きすぎたため、現在は各国と魔法連合が手を取り合い、髪およびかつらの商業的な取引を全面的に禁止する国際法を制定するに至った。自分の髪を親愛の情として無償で切って贈る行為だけは認められているが、営利目的での髪の売買は、今や重罪としてすべて違法とされているのだ。
「……アレミテル中将の、本物の髪で作ったかつらよ」
そう言ってアセリアの頭に優しくセットしてあげるアレミテルの表情には、どこか誇らしさと、それ以上の申し訳なさが複雑に滲んでいた。
「ごめんね、アセリア。素人の私が手入れをしていたから、だいぶ傷んでしまって……ゴワゴワしているでしょう」
正直にイサベルの目から見れば、そのかつらの保存状態や出来栄えは、お世辞にも良いとは言えなかった。髪の売買が厳しく禁じられている以上、この世界における一般のかつら製造産業や職人の技術も、まだ発展途上の段階で止まっているのだから当然のことだった。仮に、裏の違法なルートで高品質な一級品が手に入るとしても、その値段は国家予算の隙間を縫うほどに桁違いだろうし、清廉潔白を地で行く軍人であるアレミテル中将が、そんな犯罪に手を染めて裏の品を用意できるはずもなかった。
けれど、アセリアは鏡を見るまでもなく、愛おしそうにそのかつらに触れて、ぱっと向日葵が咲いたように明るく笑った。
「ううん、全然大丈夫! 私、これ、世界で一番大好きなの!」
嬉しそうに小さな手鏡をのぞき込み、何度も髪の毛の感触を確かめているアセリアの様子を見て、イサベルの胸はきゅっと切なく痛んだ。
――ああ、この気持ち、痛いほどよく分かるな、と。
前世の自分が、病院の外に出るのを頑なに嫌がっていた最大の理由のひとつも、病気療養のせいで自分の髪の毛がすべて抜け落ちてしまっていたからだ。それだけのことで、どうしても他人の哀れみの目や、奇異の目が気になって仕方がなくなってしまう。特に、十歳前後の、一番お洒落をしたい多感な年頃の女の子なら、なおさらその傷は深い。アレミテルはそれを分かっていたからこそ、自らの美の象徴を差し出したのだ。
イサベルは無駄な同情の言葉を一切かけず、たださりげなく、明るいトーンで言葉を続けた。
「とってもよく似合っているよ、アセリア。さあ、車椅子は、私が責任を持って押しますからね」
「えっ……皇女様にそんなことをさせるわけには……!」
アレミテル中将が、やはりどこか恐縮と心配の混ざった顔で声を上げた。
「中将様、大丈夫。中将様が、すぐそばで護衛として鋭い目を光らせていてくだされば、それで万事大丈夫ですよ」
それに、この世界の“主役級”や“中将級”の肉体を持つ人たちは、普通の人間では想像もできないほどの超人的な身体能力を持っている。仮に、ひ弱な私が車椅子の操作を少しくらい失敗してバランスを崩したとしても、隣にいるアレミテル中将の反射神経なら、一瞬で何事もなかったかのようにカバーできるはずなのだ。
「分かりました。私の目が届く範囲で、お任せいたします」
「よし! じゃあ――外へ、出発!」
イサベルたちは、アレミテル、車椅子に乗ったアセリア、寄り添うユリ、そしてお供の金蜜と一緒に、夕暮れ時ののどかな散歩に出かけた。カルポア村の細い路地を行き交う平民の人たちは、高貴な馬車を見て驚きながらも、みんな一様に親切に道を譲ってくれた。雲の合間から優しく差し込む茜色の日差しは心地よく、アセリアは風が頬を撫でるたびに、とても楽しそうに歓声を上げた。途中、驚くほど体調が良くなったアセリアは、車椅子からゆっくりと降りて、自分の足で二、三歩、大地の感触を確かめるように歩いてみたりもした。
――そして、ひと通りの短い、けれど濃密な散歩を終えた一同は、再び温かい我が家へと戻っていった。
長年閉じこもっていた身には、短い散歩でも少し疲れたのか、家に戻ってきたアセリアは、心地よい疲労感に包まれてベッド気に入ると、すぐに泥のように深い眠りに落ちてしまった。
「中将様、どうでした? なかなか、素晴らしいお散歩だったでしょう?」
イサベルがリビングで声をかけると、アレミテルは深く、深く一礼した。
「……はい。すべては皇女様のおかげです。アセリアのあんなに輝く笑顔を、また見られるなんて思ってもみませんでした。本当に、私にとってはまるで、陽だまりのような一日でした」
その後、イサベルはアレミテル中将が感謝を込めて一生懸命に用意してくれた、手作りの夕食をいただいた。お世辞にもプロであるユリほどの腕前とは言えなかったけれど、それでも十分に美味しくて、何より彼女が自分たちのために心を込めて作ってくれたという気持ちが嬉しかった。穏やかな夕食の時間だった。
――そう、あの夜の「十一時」を迎えるまでは。
宿の手配をしていなかったイサベル一行は、アレミテル中将の強い勧めもあり、彼女が用意してくれた長屋の一室で今夜は休むことになった。
「皇女殿下をこのような簡素な場所にお泊めするわけにはまいりません!」
アレミテルは、恐縮のあまりしばらくの間、イサベルの服の袖を掴むようにして必死に引き止めていた。彼女は本気で自分の寝室を皇女に譲ろうとしてきたが、イサベルはそれをさすがに笑顔で固く断った。
「そんなに気に病む必要はありませんよ、中将様。でも、もし夜中にアセリアの容体が急変したりしたら、すぐに駆けつけないといけませんよね? だから、中将様はアセリアの一番近くの部屋で休んでください」
「それでも……用意できたもう一つの部屋というのは……」
案内されたのは、普段は使われていない、長屋の最上階にある物置代わりの小さな屋根裏部屋だった。少し古びた木材の匂いが漂っていたが、埃はほとんどなく、清潔だった。広くはないけれど、どこか落ち着く空間だった。
「私がこの部屋で一番気に入ったのはね、この小さな天窓があることなんです」
イサベルは嬉しそうに天窓を見上げ、思わず祈るように胸の前で両手を合わせた。
「中将様、こんな小さな天窓からでもね、夜空を見上げれば、なんと『32個』もの星が見えるんですよ」
「……え? さんじゅう……に、ですか?」
アレミテルは目を瞬かせた。手のひらサイズの天窓から、そんな具体的な数の星が見えるものだろうか、と。
「あ、ええと……その……」
イサベルは、ハッとして少し言い淀んだ。前世の科学的な知識や、ちょっとした誇張が混ざった、完全に言い過ぎの失言だったかもしれない。まあ、普通に考えたら、この世界のこの小さな窓から同時に32個もの星が肉眼で見えるわけはないのだ。
「ええと、とりあえず、私の目で見える範囲だと、それくらいかなって思って!」
人間の目に見えるのは可視光の範囲だけである。光というのは、人類が認識できる電磁波の一部であり、そのスペクトルがどうのこうの……という現代科学の話にまで踏み込むのはやめておいた。下手なことを語って間違えるのも怖い。余計なことは言わないに限る。
「た、たぶん、特別な望遠鏡とかで見たら、もっとたくさんの星が見えると思います! えへへ……」
「そ、そう……なのですか」
アレミテル中将の表情には、少しだけ納得のいかない引っかかるものがあったようだが、そのまま深く追及されずに流れた。
こうして、イサベルとユリは、その小さな屋根裏部屋で一緒に並んで眠ることになった。話は無事にまとまった。
そして、静かに時間が過ぎ去り、夜の十時を回った頃――。
隣で横になっていたはずのユリが、突然、バッと跳ね起きるようにして勢いよく起き上がった。
「……っ、皇女様……!」
「しっ! ユリ、小さい声で。全部聞こえちゃうからね」
イサベルが人差し指を唇に当てて窘めると、ユリは慌てて声を潜めた。けれど、その瞳には強い意志の光と、抑えきれない動揺が宿っていた。
「私、どうしても納得できません……! 皇女様のあの髪って、あんなに綺麗なのに……それを、本当に切ってしまうのですか……!?」
先ほど、イサベルが「自分の髪を少し切って、アセリアの新しいかつらの材料として分けてあげたい」という計画を密かに話していたのを、ユリは聞いていたのだ。ユリはどうしてもそれが受け入れられない様子で、悔しそうに薄い唇を噛み締めていた。
「……私が、皇女様の大切な御髪を切り落とすなんて……そんなこと、絶対にできません……!」
ユリのその強い拒絶の反応は、イサベルにとってはほぼ予想通りだった。この世界における貴族の令嬢にとって、長い髪を美しく保つのは絶対の常識であり、美の基準だ。だから、ユリがこれほどまでに激しく動揺し、反対するのも無理はなかった。
「ユリ、ちょっとこっちに来て? 秘密を教えてあげるから」
イサベルがベッドの上で手招きすると、ユリは戸惑いながらも、近づいてきてそっと耳を寄せた。
「これね、絶対に内緒なんだけど……」
「はい……」
「私ね、本当は『ショートカット』が、もの凄く好きなんだ」
「しょーとかっと……ですか?」
案の定、ユリは不思議そうに首を傾げた。そうか、この世界の言語には、髪を短く切り揃える言葉自体が存在しないのだった。
「うん。つまりね、あのアレミテル中将みたいな髪型のこと。すごく綺麗で、かっこいいと思わない?」
「中将様は軍人ですから……でも、皇女様は……」
ユリは納得がいかないように言葉を濁した。
「ユリ、お願い。ユリはとっても手先が器用でしょう? だから、ユリがハサミを持てば、きっと世界で一番上手に切れると思うの。私が不器用でぐちゃぐちゃに結んじゃったドレスのリボンだって、ユリが直せば、すぐに綺麗になるじゃない」
「それでも……私が皇女様の髪を切るなんて……」
本当は、『これは命令だよ』と一言告げれば、侍女であるユリは従うしかなかった。けれど、イサベルは絶対にそんな冷酷な手段は使いたくなかった。だって、ユリは自分にとって大切な“友達”なのだから。友達には、ちゃんと友達らしい対等な言い方で、気持ちを伝えるべきだと信じていた。
「ユリはさ……どうして、私が髪を切るのがそんなに嫌なの?」
「そ、それは……当然というか、あり得ないことですし……」
ユリは言葉を続けられなかった。はっきりとした理由なんて、自分でもうまく分かっていなかったからだ。
「長い髪が普通って、一体誰が決めたの? 私はね、自分が本当にやりたいことを、自分の意思で選ぶ自由があるって思っているの。もちろん、それで周囲の誰かに迷惑をかけない範囲でだけどね。ユリはどう思う?」
「で、でも……」
ユリは言葉に詰まった。
イサベルは、少し視線を落として微笑んだ。
「私ね、やってみたいことを、今のうちにたくさん、たくさんやっておきたいの。ユリなら、私の気持ち、分かってくれるでしょ? 私には……もしかしたら、あんまり長い時間は残されていないかもしれないから……」
「や、やめてください……! もう、そんなこと言わないで……!」
思わず声を張り上げたユリは、はっとして顔を赤くした。
「ご、ごめんなさい……大きな声を出してしまって……びっくりしちゃって……」
「ううん、いいんだよ。大丈夫」
イサベルは優しく微笑んだ。ここは公式の場ではない、二人だけの私的な時間だ。それに、大好きな友達から「時間がない」なんて言葉、誰だって一番聞きたくないに決まっている。
ユリは、深くため息を吐くと、イサベルを真っ直ぐに見つめた。
「……分かりました。やります。私が、世界で一番可愛いショートカットにして差し上げます。だから、もう二度と、そんな怖いことは言わないでください」
「ふふっ、ありがとう」
「もう、笑わないでください!」
「なんで? ふふふ」
「私は本気で怒りたいのに……怒れなくなってしまうんです……」
「じゃあ、最初から怒らなきゃいいじゃん。ね? ね? 怒らないで、いい子いい子〜?」
イサベルは指先でくすぐるように、ユリの脇腹をつついた。
「も、もう……!」
結局、ユリは堪えきれずに吹き出し、楽しそうに笑った。
少しやりすぎたかなと反省しつつ、イサベルは話を続ける。
「私ね、帝国の皇女様でしょう? だから、みんなが勝手に思い描いている“皇女らしさ”っていう型にはめられるの、実はちょっと苦手なんだよね」
「……そうなのですか」
「うん。型に縛られているなら、それを壊す責任だって、私にはあると思うの。世の中に『これが当たり前』なんてルールはないよ。少なくとも、他人の目を気にして自分の本当にやりたいことを諦めるのが当然だなんて、私は思わない。だって、私の選択で、誰かが困るわけじゃないでしょう?」
「……で、でも……きっと、色々言われます。世の中って、ほんの少し変わっているだけで、受け入れてくれないことが多いですから」
「それで?」
イサベルはくすくすと笑った。
「私、皇女だよ?」
「……それは、そうですけど」
権力というものは、こういう時だけは本当にちょっと便利だなって思う、とイサベルは苦笑した。
イサベルはパチンと軽く手を叩いて、楽しそうに気分を切り替えた。
「じゃあ、即席美容院、スタート! よろしくね、先生」
「え、ええっ……」
「可愛くしてね。テーマは『妖精風』。モデルはさっきの――アレミテル中将みたいな感じでお願い!」
サクッ、サクッ――。
静かな屋根裏部屋に、ハサミの小気味よい音が響き、イサベルの美しい黒髪が床の上に切り落とされ始めた。
手鏡に映る自分の顔をじっと見つめながら、イサベルは思った。正直に言えば、いざ切ってみると、この外見は本当に詐欺みたいに綺麗だった。
(へえ……顔がいいって、こういうことか……)
髪型がどう変わろうとも、この「イサベル」という少女の顔立ちは完璧に美しかった。世の中のすべての髪型の完成度は、結局のところ「本人の顔の良さ」に依存するという事実を、鏡の中の自分を通して改めて思い知らされた、そんな真夜中のひとときだった。
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【「生きたい」という本音と魂の救済】
アセリアが絞り出した「生きたい」という言葉をきっかけに、イサベルは「ただそこに生きているだけで価値がある」とアセリアを無条件に肯定する。これによって、大好きなお姉様に迷惑をかけていると自分を責めていたアセリアの心が救われ、アレミテルとの間で本心の愛を伝え合うことができた。
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【イサベルの言葉がもたらしたユリの救い】
「役に立たなくても愛される価値がある」というイサベルの言葉は、完璧な侍女・友人であろうと自分を追い詰めていたユリの心にも深く刺さる。イサベルから「レモンティーを淹れてくれるユリが大好き」とまっすぐな情愛を伝えられたことで、ユリの努力の動機は「義務」から「純粋な好意」へと昇華された。
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【アセリアのための「髪を贈る」選択】
アレミテルが過去に自分の美しい髪を切り落としてアセリアにかつらを贈っていた事実を知り、イサベルもまた、病気で髪を失ったアセリアのために自分の黒髪を分け与えることを決意する。ユリの反対を押し切り、夜の屋根裏部屋で「自分の意志で選ぶ自由」として髪をショートカットに切り揃えた。