こんにちは、ちゃむです。
「憑依者の特典」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
152話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 暴かれた真実と、分かち合う鍵
こんな信じがたい現実を前にしても、私は妙に冷静だった。
「まさか、これ俺にくれるのか? それに、さっき俺をそう呼んだのも?」
「うん、どっちも本当。だって僕たち、レミニク兄さんと義兄弟みたいなものだろ? 兄さんって呼んで何が悪いのさ」
「……」
「何? 敬語のほうがいい?」
「いや、別にいい」
リガレスは「早く受け取れ」と言わんばかりに、つま先で床を軽く小突いた。
私は促されるまま、それを受け取った。
「それより兄さんは? どうして一緒じゃないんだ?」
「どうしてって? 王子だってバレてから、周りがやたらとうるさくなってさ」
「えっ!? 誰が兄さんを困らせるんだよ!?」
誰かと聞かれれば、答えは一つしかない。
「世の中の人間全員だ。その中にはお前も含まれる」
「……」
リガレスは一瞬にして言葉を失った。
どうやら重度のブラコンには、かなり効く一撃だったらしい。
リガレスは他人には鈍くても、兄に関することだけは妙に察しが良かった。彼は私の言葉を否定する代わりに、慎重に尋ねてきた。
「……兄さんって、小さい頃の記憶がまったくないんだよね?」
「そうだ」
「兄さんの力でも、兄さんの幼い頃の記憶を取り戻すことは……できないの?」
「……」
私は重い沈黙を返した。
幼少期の記憶を取り戻せば、それだけで家族との関係が元に戻る――そんな単純な話ではないのだ。
テシリドがリガレスやラビオサ王妃を避けているのは、失われた記憶が原因ではない。今も鮮明に残る、別の記憶があるからだ。
そんな状況でテシリドだけが記憶を取り戻し、リガレスやラビオサ王妃は何一つ変わらないままでいるというのは、あまりにも不公平ではないか。
「そんな簡単な問題じゃないんだよ、末王子殿下」
ため息混じりにそう言い残し、私はリガレスの横を通り過ぎようとした。
その時、頭の中にシステムのアナウンスが響いた。
『「クリシェ美食家」が興味深い帽子の商品を感知し、唇を舐めています』
帽子の商品だって?
「まさか……?」
頭に浮かんだ懸念に突き動かされるように、私は足を動かした。
「また今度な、末王子殿下!」
「兄さん!?」
背後で叫ぶリガレスを置き去りにして、私は一目散に駆け出した。
『「クリシェ美食家」が、右の角を曲がってそのまま進めと案内しています』
ナビゲーションの指示に従ってたどり着いた先には、案の定――予想通りの光景が広がっていた。
礼拝が行われている間、テシリドは大勢の群衆に紛れ、一人の参列者として遠くからアイレットを見守っていた。
彼女の神聖力が第9階位へと到達する瞬間を目の当たりにした彼の胸中は、複雑に波立っていた。
テシリドにとって、神とは敵でしかない。
だが、アイレット・ロデラインは確実に神へと近づいている。
彼女との距離が、そして立つ場所そのものが、少しずつ離れていくように感じられた。手の届かない遥かな高みへと、彼女だけが歩み去っていくような焦燥。
自分は奈落の底に這いつくばっているというのに。
このまま彼女だけが高みへ昇り、神々の側の存在になってしまうのだろうか。
その考えが頭をよぎった瞬間、喉が詰まるような息苦しさに襲われた。神聖な力に満ちたこの場所の空気が、まるで猛毒のように肺を蝕んでいく。
だからテシリドは礼拝が終わるや否や、誰よりも早く建物の外へ出た。
足が自然と向かったのは、裏手にある静かな噴水の前だった。
だが、人目のない場所を選んだのは、結果として失敗だったのかもしれない。
「レミニク……」
「……」
かすかに震える女性の声が響いた。
テシリドはその瞬間、自分の失態を悟った。今の名ではなく、かつての名で呼ばれた声に、思わず反応して振り向いてしまったからだ。
じわりと左腕が熱を帯びる。腕に刻まれた聖痕が、「親切にしなさい」と促すように疼いていた。
仕方なく振り返ったテシリドは、小さく目を見開いた。
背後から自分を呼んだ人物は、礼拝堂で隣の席に座っていた貴婦人だった。ベールを外した白髪の女性が、切なげな眼差しで彼を見つめている。
声で気づいていた通り、ラビオサ王妃だった。
「レミニク……やはり、あなただったのね……」
「前置きもなく、何のご用ですか?」
「少しだけ……ほんの少しだけ時間をもらえないかしら。あなたと話がしたいの」
「私は神の強制的な規律によって、他者に親切に接しなければならない義務があります。どうぞ、お好きなように」
事務的で、いかにもテシリドらしい冷淡な返答だった。どうやら神聖力が削られるリスクを冒してまで、彼女を拒絶する気はないらしい。
その拒絶よりも冷たい態度に、ラビオサ王妃は胸を刺されたように息を呑んだ。彼女は悲しみと怒りを押し殺した声を絞り出す。
「教団が……お前をそんなふうにしてしまったの?」
「……」
「いいえ、答えなくていいわ。全部聞いたもの。お前がエルペハイム教国でどんな扱いを受けていたのか……神聖教がなければ、どんな目に遭っていたのかも。全部聞いたの。とても、とても許せることではないわ。望むのなら、この母が教団を……」
「神聖教が私の傍にありますから、もう大丈夫です」
「……」
――だから、あなたは必要ありません。
王宮の修羅場を生き抜いてきたラビオサ王妃が、その言外の意味を理解できないはずがなかった。彼女は、自分から遠ざかろうとする息子を前に、ほんの一瞬だけ絶望の色を浮かべた。
「レミニク」
「テシリドです」
「……そうね、テ……シリド。あなたの気持ちは分かるわ。私に関する世間の噂も耳にしているでしょうし、あなたとの再会も、正直に言えば気まずかったでしょう。あの頃の私は……本当に言葉が過ぎたもの……」
「言葉……ですか?」
テシリドは思わず聞き返した。意外そうな表情を浮かべながら。
「私があなたを売る……売り飛ばすと……言ったことよ……」
「ああ」
思わず漏れたのは、ため息にも似た相槌だった。
「そういうことでしたか」
皮肉なことに、テシリドの人生において、それは単なる「脅し文句」ではなかった。実際に起きた、現実の出来事だったのだから。
しかし、ここは彼が死ぬたびに世界がリセットされる奇妙な場所だ。どれほどの罪人であっても、裁きではなくやり直しの機会を与えられる。まったくもって、神の慈悲というものは底が知れない。
そんな複雑な感情の隔たりを、ラビオサ王妃が知るはずもなかった。彼女にできるのは、自分なりに目の前の息子を理解しようと努めることだけだった。
「この母が失望に値する人間だということは分かっているわ。世間の噂どおり、私はひどい生き方をしてきたし、お前にも取り返しのつかないことをしようとした。でも……これからは違うの。残りの人生をかけて償うわ。だからお願い……少しだけでも話を聞いてくれないかしら?」
「……」
「お前は覚えていないでしょうけれど……私たちには幸せな時間もあったの。私たちは家族だったのよ。誓って、本当に愛し合う家族だった。お前もリガレスも、私の何より大切な宝物だった。あの頃は、お前たちほど愛おしい子供たちは世界中どこにもいないと思っていたわ。だから、お前が笑顔で私のもとへ駆け寄ってきて抱きついてくれるたびに、地獄のような王宮でさえ別の世界に見えたの。まるで花園のように……」
王妃は愛おしそうに目を細め、記憶をたどる。
「まるでお菓子の家みたいだって……お前はそう言ってくれたのよ……」
「……」
「私たちには、そんな幸せな時間が確かにあったの。だから少しでも思い出してほしいの。ただ忘れたままにしてしまうには、あまりにも大切な記憶だから……」
「……」
話し終えたラビオサ王妃は、懐から一本の小瓶を取り出してテシリドへ差し出した。淡く神秘的な光を放つ液体。
「これは“記憶の果実”から作られた秘薬よ。飲めば、幼い頃の幸せだった記憶が蘇るはず……」
「……」
「安全よ。信じてちょうだい」
ラビオサ王妃の声には、哀願するような必死さがにじんでいた。
テシリドは静かな目でそのポーションを見下ろした。
長い歳月を生き、百科事典のような知識を蓄えた彼も、その薬の存在を知っていた。それは黄金象牙の塔に保管される、極めて貴重な秘宝の一つだ。彼の知る限り、効果は本物で、副作用もない。もっとも、自分で試したわけではないが。
「記憶を取り戻せば変われるわ。きっと違う未来が見えるはずよ、レミニク……」
「……」
ラビオサ王妃は本気でそう信じていた。失われた美しい記憶が蘇れば、壊れた家族の絆も元に戻ると。息子への歪んだ愛ゆえに人生を狂わせてしまった彼女だったが、その愛情の深さだけは疑いようがなかった。その点に関しては、確かに彼女には信じる資格があった。
だが、決定的な問題が一つあった。
テシリド・アルジェントは、彼女以上に長い年月をかけて摩耗し、擦り切れてしまった「帰還者」だということだ。
人間にも世界にも深い幻滅を抱いている彼に、今さら幼い頃の思い出を語り、家族の愛を押しつけたところで、嬉しくなどあろうはずがなかった。
むしろ、嫌悪感すら覚えた。
世界が、滅びたがっている自分を無理やり引き留めようとしているようにしか思えなかったからだ。
もうこれ以上、不要な記憶など増やしたくない。自分はすでに、背負いきれないほどの記憶を抱えているのだ。
だからもう放っておいてほしかった。アイレット以外の人間は、どうか自分に構わないでいてほしい。頼むから。
結局、記憶を抱えて生きるのは自分なのだ。他人は何も覚えていないくせに、自分にだけ記憶を押し付ける。それはあまりにも不公平ではないか。
だから――。
「王妃陛下にも、取り戻すべき記憶があると言ったら……どうなさいますか?」
「……!」
「……!」
テシリドとラビオサ王妃の間に割って入るように、澄んだ声が響いた。
擦り切れかけていたテシリドの意識が、ふっと現実へ引き戻される。
声のした方へ視線を向けると、花々に囲まれ、ひときわ美しく輝くアイレットの姿があった。
「どうぞ、お受け取りください。お義母様」
アイレットは大きく華やかな花束をラビオサ王妃へ差し出した。自然な仕草で二人の間へ入り込み、距離を取らせる。
結果として、アイレットの思惑どおりラビオサ王妃は一歩後ろへ下がった。だが、王妃の意識は別の言葉に向けられていた。
「神聖卿……先ほどの話は、どういう意味なのですか?」
「言葉どおりの意味です」
「私に、失われた記憶があるというのですか?」
詳しく語るつもりはないのか、アイレットは固く口を閉ざした。するとラビオサ王妃の切迫した視線がテシリドへ向けられる。
「どういうことなの?」
「……」
「私の知らない何かが、まだあるの?」
迫るラビオサ王妃。隣では気まずそうに視線を泳がせるアイレット。
二人の視線がテシリドに突き刺さる。
――まあ、いつまでも黙っていても仕方ないか。
テシリドは小さな反抗を決意した。そして数千年ぶりに、初めてその事実を口にした。
「実は――私、帰還者なんです」
「……何ですって? 帰還者?」
「一度くらいは聞いたことがあるでしょう。未来から過去へ戻ってくる者たちのことです」
「……」
「私もその一人です。何度死んでも二十歳の時点へ戻される。そして同じ人生を延々と繰り返しているんですよ」
「いったい……何を言っているの……?」
「信じられないなら、無理に信じる必要はありません」
「……」
しかし、これだけで終わらせるつもりはなかった。ラビオサ王妃が言葉を失う様子を見つめながら、テシリドは淡々と続けた。
「私がこれまでの人生であなたと出会ったのは、今回が初めてではありません。しかし、そのたびに私たちは互いの関係を知りませんでした。そして、どの人生においてもあなたは……常に私に敵対していました」
「……」
アイレットの前では語れない「17回のその後の人生」を、彼は極めて簡潔な言葉にまとめた。
もちろん、それだけでもラビオサ王妃を硬直させるには十分だった。自ら敵と定めた相手に対して、どれほど執着し、しつこく追い詰めるかを、彼女自身が誰よりもよく知っていたからだ。
ラビオサ王妃は声もなく息をのんだ。しばらくの間テシリドを見つめていた彼女は、やがて答えを求めるようにアイレットへ視線を向けた。
さすがに神の代弁者である彼女が、嘘に加担するはずがない。
アイレットが肯定の意味を込めて静かに沈黙すると、ラビオサ王妃の瞳にはさらに深い衝撃と混乱が広がった。
「回帰……回帰だというの……? 私の息子が……」
当然、一度聞いただけで簡単に信じられる話ではない。
そのことを理解していたからこそ、アイレットは新たな提案を持ちかけた。
「こうするのはいかがでしょう?」
アイレットはインベントリから何かを取り出した。翼のついたガラス瓶に入った、神聖なポーション。それは、まさに「クリシェ美食家」が彼女に授けた神の贈り物だった。
【アイテム】『展開速度加速剤:最上級記憶喪失治療ポーション』
過去の記憶だけを取り戻す下級ポーションなど必要ない!
前世はもちろん、そのさらに前の人生の記憶まで確実に蘇らせる記憶喪失治療薬の最高峰。まさに設定破壊、バランス崩壊級のレアアイテム。
※無限回帰の世界観の場合は、最も出来事の多かった一つの回帰の記憶だけが蘇る。
少し前にラビオサ王妃がテシリドへそうしたように、今度はアイレットが王妃へそのポーションを差し出した。
「王妃殿下、私は良い記憶だけでなく、辛い記憶も分かち合えるのが家族だと思っています。ですから……テシリドが抱えている、ある時間軸の記憶を共有して差し上げます。どうぞ。安全ですから」
「……」
アイレットは、激しく揺れるラビオサ王妃の瞳を見つめた。
実のところ、アイレットは本当にこのポーションを飲ませたいわけではなかった。ただ、テシリドに一方的に「家族」を押しつけることができないよう、強硬な拒絶の手段としてこれを用いたのだ。
だからこそ、アイレットは王妃がためらい、やがて差し出された手を拒むことを期待していた。
ところが――
「飲みます」
それはアイレットにとっても、想定外の返答だった。
決意を固めたラビオサ王妃は、アイレットから迷わずにポーションを受け取った。やがて神秘的な光を放つ液体が、彼女の喉を滑り落ちていく。
その直後に訪れたのは、軽い眩暈とぼやける視界。
そして――
「……っ!」
激流のように押し寄せる記憶の濁流。
吸い込まれそうな闇の向こうで、彼女はある人物を拷問していた。
両腕を失いながらも、なお反抗的な態度を崩さないその青年は、彼女にとって目の上のたんこぶのような存在だった。
――はあ、何をしても腹の虫がおさまらないわね。
彼女の愛する一人息子、リガレスの政治的立場をことごとく不利にしてきた男。
実のところ、その青年が意図的に彼ら母子に敵対していたわけではなかった。むしろ、リガレスの陰謀から必死に逃れようとあがいていただけだったのだ。しかし結果として、そのせいでリガレスは廃太子の危機に追い込まれた。
だからこそ、彼女の怒りは執拗に燃え上がった。
――お前さえいなければ、私の息子が王位に就けたのに……!
――……。
――身の程知らずが……!
――……。
――絶対に許さない。楽には死なせないわ。
そうして彼女は、自ら尋問するという名目で凄惨な拷問を繰り返した。
白い聖騎士の制服が引き裂かれ、その下の皮膚が赤黒く裂けるまで。
ラビオサ王妃の腕は疲労で痙攣するほどだったが、それでも何度も治療を施しては、執拗に彼を痛めつけ続けた。
当然、彼女は知らなかった。
自分が次男への怒りをぶつけ、なぶり殺そうとしている相手こそが――かつて失った、自らの長男であるという事実を。
――だめ! やめて……!
現実のラビオサ王妃は、心の中で悲痛な悲鳴を上げた。しかし、その叫びが過去の記憶に届くはずもない。
――お願い……やめて……。あの子にそんなことをしないで……!
だが、記憶の中の自分は止まらない。彼女の手の中で、血に染まった鞭が何本も砕け散っていく。
「あっ……ああっ……!」
流れ込んでくる記憶は、目を背けることすら許してくれない。
だから彼女は、嫌でも見届けるしかなかった。日に日に無残な姿へと変わっていく息子の背中を。そして、それを見ながら楽しげに、歪んだ笑みを浮かべる一人の女の顔を。
あまりにもおぞましかった。
行方不明になっていた愛しい我が子を拷問しているというのに、長年の仇敵を痛めつけているかのように悦に入っている、愚かな女の顔が。
現実のラビオサ王妃は、記憶の中の自分を止めてほしいと願った。ただひたすらに。
誰かあの女を殺して。せめて、あの鞭を振るう腕をへし折って。
もしそれすら叶わないのなら――
『いっそ、私を殺して……!』
これ以上、このおぞましい罪を受け入れなくて済むように。いっそ死んでしまいたかった。
「お願い……!」
「……大丈夫ですか、王妃殿下?」
「……っ!」
心配そうな声が、彼女の意識を現実へと引き戻した。
溺れかけた者が水面へ顔を出したかのように、ラビオサ王妃は激しく喘いだ。その時になって初めて、自分が神聖卿の手を強く握りしめていたことに気づく。
振り返ると、先に彼女の手を取っていたのは神聖卿のほうだった。
まるで神聖卿が、あの拷問を力ずくで止めてくれたかのような錯覚。
いや、気のせいではない。よく考えれば、それは紛れもない事実だった。神聖卿がいなければ、彼女は真実を知らぬまま、この時間軸すらも台無しにしていたに違いないのだから。
彼女は目的のためなら手段を選ばない人間だった。神聖卿をリガレスの側近に据えるためなら、神聖卿が想いを寄せる相手さえ利用しただろう。思い返せば、それは記憶の中の自分が犯した罪よりも、さらに重いものだったかもしれない。
もはや弁解の余地などなかった。
そこまで考えた時、ラビオサ王妃は痛烈に悟った。
自分には、テシリドに「思い出してほしい」と求める資格など、最初からこれっぽっちもないのだと。
焦点の定まらない灰色の瞳から、澄んだ涙がとめどなく流れ落ちた。すでに枯れ果てたと思っていた彼女の心にも、まだ涙を流すだけの感情が残っていたらしい。
長い間唇を震わせていたが、結局、言葉になるものは何一つ出てこなかった。
弁解のしようもない罪人は、静かに背を向けることを選んだ。
去り際、神聖卿がようやく静かに口を開いた。
「どうか、お命を大切になさってください」
その言葉は、ここから逃げ出すことを許してくれる温かい慈悲のようにも聞こえた。
黒いベールを翻し、ラビオサ王妃はその場を去っていった。
ラビオサ王妃の姿が視界から消えると、私は彼女が床に落としていったポーションを拾い上げた。
幼い頃の幸せな記憶だけを再生する、まるで妖精の子守唄のような秘薬。貴重な品なので、とりあえずインベントリへしまっておく。
そして私は、隣に立つテシリドに声をかけた。
「その気になったら、あとで飲んでみて。飲まなくても構わないけれど」
テシリドはしばらく無言のまま私を見つめた。
彼が何を言うのか、少し緊張する。
私はどこかで、彼の家族の問題に必要以上に踏み込みすぎているのではないかという不安があった。別に頼まれたわけでもないのに、彼を楽にしてあげるどころか、かえって苦しめているだけかもしれない、と。
もしかすると今のテシリドは、「もう介入しないでほしい」とどう伝えるべきか悩んでいるのではないか。
そう思うと、なぜか胸の奥が少しだけ痛んだ。彼が私との間に明確な線を引こうとしているのだと思うと、妙に寂しさが募る。
私はきゅっと唇を噛んだ。
するとテシリドは静かに言葉を選び始めた。だが、彼の口から出たのは意外な一言だった。
「君のインベントリの中にあるなら、私は取り出せないんだ」
「……あ」
緊張が一気にほどけた。無意識のうちに息を止めていたらしい。
「ん?」
「いや、何でもない」
私は何気ないふうを装いながら、インベントリに手を伸ばした。記憶の秘薬を取り出すためではない。
「その件なんだけど、それでもテシリド、君にあげたいものがあるんだ」
「私に?」
「こっちへ来て」
私はすぐに、天聖神から支給されたカフスボタンを取り出し、テシリドの袖口にそっとつけてやった。
【アイテム】『共同資産証明の印章(カフスボタン型)』
[装着者があなたのインベントリにアクセスできるよう、特別に製作されたアイテムです。]
[『魂を裁く天使』があなたの安息を祝福します。]
「これで私のインベントリを君も使えるよ。離れていても大丈夫なんだ。すごいだろ?」
「……何だって?」
テシリドは理解できないという表情を浮かべた。あまりに信じられないようだったので、私は悪戯っぽく微笑んだ。
「試してみて」
言われるがまま、彼は半信半疑の表情で亜空間倉庫を呼び出し、その中へ手を差し入れた。
何を取り出すのかと見守っていると、彼が引きずり出してきたのは、モリフィスが閉じ込められているあの全身鏡だった。
鏡の中のモリフィスは、以前のように椅子へ拘束されてはいなかった。腐っても大魔法使い、自力で鎖を緩め、鏡の内部空間を居心地の良い部屋のように改造して、のんびりと過ごしていたのだ。もともと正気を失っているせいか、精神状態も外にいた頃と大して変わらない様子だった。
テシリドは再び鏡をインベントリへしまい込み、信じられないというようにつぶやいた。
「本当に使えるんだな」
「だから言っただろう? 私が君をからかうとでも思った?」
「いや、そういうわけではない。ただ、これは少し……」
感情の起伏がほとんどないその態度が、かえってもどかしい。
「どうしたの? 何か問題でもある?」
返事をためらう彼の様子に、私はますます気になり、気づかないうちにテシリドへと少しずつ顔を近づけていた。
彼はわずかに首を引き、困惑を滲ませるように口を開いた。
「君は……あまりにも……」
「あまりにも?」
「君は、あまりにも私に多くを許しすぎているんじゃないか?」
彼の静かな問いかけに、私は思わず、ぱちくりと瞬きを繰り返した。
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ラビオサ王妃の「記憶の覚醒」と絶望
アイレットから渡された最上級ポーションを飲んだラビオサ王妃は、過去の回帰線で自分が実の息子(テシリド)と知らずに彼を無惨に拷問していた記憶を取り戻し、己の罪の重さに絶望してその場を去った。
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テシリドに託された「記憶の秘薬」
王妃が残していった、幼少期の幸せな記憶を蘇らせる「記憶の果実のポーション」をアイレットが回収し、テシリドに「気が向いたら飲んでみて」と手渡した。
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インベントリの共有と深まる絆
アイレットはテシリドに『共同資産証明の印章(カフスボタン)』を贈り、自分のインベントリを共有できるようにした。あまりに多くの特権をためらいなく許してくれるアイレットに対し、テシリドは困惑しつつも静かに問いかけた。