こんにちは、ちゃむです。
「監禁王子のメイドとして生き残る方法」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
57話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- その指先が触れるまで
「わかりました」と、レオナに返事をしようとしたその時だった。
「ゴホッ……」
「……ここはどこですか?」
レオナに抱えられていた魔法使いたちが、次々と目を覚ました。
「あ、起きましたか?」
私は彼らに歩み寄り、今の状況を落ち着いて説明した。牢に閉じ込められていた二人を助けに来たこと。そして地上では今、騎士団とリアム公爵側の人々が激しい戦いを繰り広げていることを。
私の話を聞いていた男性の魔法使いが、不思議そうに首をかしげた。
「魔法使いは普通、幼い頃に魔力が目覚めるものですが……あなたのような方は初めて見ました」
「ははっ、私はちょっと特殊な例みたいです」
私は軽く笑って受け流すと、すぐに本題を切り出した。地上へ戻った時にすぐ敵に存在を知られてしまわないよう、私たち全員に『隠蔽魔法(ハイド)』をかけてほしい、と。姿を隠したまま奇襲をかける方が、確実に戦況を有利にできると考えたのだ。
私の提案に賛成した魔法使いは、さっそく私に隠蔽魔法を施してくれた。
しかし、レオナだけはその魔法を拒んだ。
「私が裏切ったことは、きちんと知られた方がいいから」
彼女には、自分が騎士団を離れたことを隠すつもりはさらさらないようだった。
レオナの肩から降ろされた二人が歩き始めると、彼女はすぐに歩調を速めた。相変わらず息一つ乱さず進む彼女の後を、私たち魔法使いは魔法を維持しながら必死に追いかけた。
歩きながら地上での作戦を打ち合わせ、私たちはやがて地上の階段の入口へとたどり着いた。
そこで目に飛び込んできたのは、壁に叩きつけられ、血まみれになっている赤髪の男の姿だった。リアムと激しく剣を交えたその男は、痛みに歯を食いしばっている。対するリアムもまた、半ば壊れた鎧の隙間から、肩に深い傷を負っているのが見えた。
レオナの姿を見つけた赤髪の男――騎士団長は、顔を上げて必死に叫んだ。
「レオナ! こっちだ! 助けてくれ!」
しかし、レオナは彼を一瞥すると、腕を組んだまま眉をひそめた。その声には、隠しきれないうんざりとした響きがあった。
「無理です、団長」
「……は?」
「もう団長の顔なんて見たくありません!」
「……レオナ・ブレイク、お前、何を――」
「相手が私じゃないことを忘れたんですか?」
その瞬間、リアムの剣が再び鋭く閃き、団長は慌てて応戦を余儀なくされた。
「レオナ・ブレイク?」
少し離れた場所で戦っていたシュバートが、首をかしげながらこちらへ駆け寄ってきた。レオナが武器を構えようとしないのを見て、彼はひどく戸惑っているようだった。
レオナはシュバートをまっすぐ見据え、きっぱりと言い放った。
「あなたの考えを受け入れることにした、シュバート卿」
……どうやらシュバートは騎士団に残り、彼女を引き留めようとしていたらしい。
「君はいつも理想論ばかり語ると思っていた。でも……新しい王国を目指すのも、悪くない気がしたんだ」
レオナはどこか照れくさそうな表情を浮かべて言葉を続けた。
シュバートは、まるで幽霊でも見たかのように彼女を凝視している。
「他の誰が説得できても、君だけは無理だと思っていたのに……」
同じ騎士団で長く苦楽を共にしてきたからだろう。シュバートの口調は、私が初めて彼に会った頃の、飾らないものへと戻っていた。
けれど、その変化以上に驚いたのは、レオナとシュバートがお互いを深く理解し合っているように見えたことだ。私はその不思議な関係性に目を奪われ、興味深そうに二人を見つめた。
二人は互いに軽く会釈を交わした。親しい間柄というわけではなく、どこかぎこちない空気はあったものの、そこには確かな敬意が流れていた。
「アティアス様。申し訳ありませんが、騎士たちには魔法を使わないでいただけますか」
周囲を警戒しながら、レオナが小声で私に告げた。
彼女が長剣を抜き放つ。それまで少し和らいでいた彼女の眼差しが、一瞬で凍りつくような鋭さへと変わった。
王宮騎士団の数は、まだ圧倒的に多い。シュバートとレオナがゆっくりと言葉を交わしていられる時間は、もうほとんど残されていなかった。そのことを誰よりも理解しているのは、レオナ自身だった。
彼女は剣を構えたまま、シュバートに向かってうなずいた。
「息を合わせて戦おう、シュバート」
一瞬きょとんとした表情を浮かべた彼は、すぐに片方の口元をつり上げて不敵に笑った。
「……私がうまくやれないなどと思っているなら、大間違いですよ」
いたずらっぽい笑みを浮かべながら、彼もまた剣を構える。
レオナと背中合わせになったシュバートは、重々しく剣をひと振りした。
「いつも私に“差がある”なんて言ってくる人たちが、どれほど強いのか気になっていたんですよ」
レオナは「まったく」とでも言いたげに小さくつぶやくと、すぐさま戦場へと駆け出した。
その言葉を聞いた瞬間、私はもうこの戦いに割って入りたいとは思わなくなった。今この瞬間が、レオナにとってどれほど大切な意味を持つのか、少しだけ理解できた気がしたからだ。
「私たちは外へ出て、王宮を制圧します」
魔法使いたちは透明化したまま、混戦を極める人々の間をすり抜けるように飛び去っていった。
「ロゼはどうするの……?」
私のそばにいたハヤンが、不安そうに尋ねてくる。
「騎士たちを攻撃できないなら……」
残っているのは騎士団長だけだ。でも、リアムの神聖な戦いに割って入りたくはなかった。それは、かえって彼に失礼なことのように思えたからだ。
ようやく私がここへ来た目的は果たした。だからといって、ただ突っ立って見ているだけというのも手持ち無沙汰だ。何かできることはないかと周囲を見回していたその時、私はリアムの背後から音もなく斬りかかろうとする騎士を見つけた。
――いや、そんな卑怯な真似をするなら、こちらも黙っているわけにはいかない。人の背後を狙うなんて、最低だ。
私はすぐに杖を振り上げた。人としての良心を捨てた相手なら、スタンガン程度のお仕置きをしても問題ないよね……?
「エレクトリシティ!」
先ほど使った魔法をもう一度唱えると、杖の先から激しい電流がバチバチと弾けた。
まばゆい電撃を受けた不意打ちの騎士と、その余波を受けた騎士団長の髪が激しく逆立つ。
「ひいっ……」
妙なうめき声を上げると同時に、二人は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
リアムはあきれたような目で、気絶した騎士団長の頭を剣の柄で軽くつついた。
「……まさか、死んだの?」
私の魔法って、そんなに強力だったのだろうか。
「ほらね! さっきロゼの魔法は強いって言ったでしょ?」
ハヤンの誇らしげな声が脳裏にかすかに響いた。
私は慌ててリアムのもとへ駆け寄った。
「生きてますか?」
リアムは騎士団長の呼吸を確かめると、小さくつぶやいた。
「死んではいないが……」
魔法を使った瞬間、私にかかっていたハイド魔法は解けてしまっていた。リアムは意外そうな表情で私を見つめる。
「魔法耐性のある鎧を着ていたが、それでもかなり効いたようだな」
「ハヤンのおかげだと思います」
「私もそう思う」
リアムがあっさり同意したので、私は少し拍子抜けしてしまった。いや、「君の魔法が強かった」と一言くらい褒めてくれてもいいのに。
私にとってハヤンの力は私自身の力であり、私の力もまたハヤンの力だ。それでも契約者として、ハヤンの偉大な魔力には感謝しなければならない。
倒れた男はすぐには目を覚ましそうになかった。もはや指揮を執る総大将を失ったのだ、騎士たちが混乱するのも当然だった。
「団長も倒れた。これで……」
私が言葉を続けようとした、その時だった。
「魔法使いだ!」
周囲の騎士たちが一斉にどよめき始めた。ついに彼らの怒りが爆発したらしい。
リアムは即座に眉をひそめ、私を守るように自分の後ろへと隠した。
「普通はまず魔法使いを狙うものだ」
リアムの鋭い声が耳に届くのとほぼ同時に、怒り狂った騎士たちが私めがけて突進してきた。
「レン!」
私は杖を振り上げ、呪文を唱えながら彼らに向かって魔法を放った。包囲網を突破しようと必死だったが、敵の数は多く、あっという間に囲まれてしまう。彼らはリアムの騎士たちと戦いながらも、私を仕留めることを最優先に動いていた。
リアムが盾となって私の前に立ちはだかってくれていたから何とかなっていたものの、そうでなければ一瞬で捕まっていただろう。全員、とてつもない身のこなしだった。
防御魔法? いや、防御魔法なんて知らない!
呪文なら知っていても、魔法陣の描き方が分からないから使えない。迫り来る騎士たちの巨大な斧を見ていると、とても耐えられる気がしなかった。
その時だった。
「フリーズ」
騒然とした戦場の中でも、その低く冷徹な声がアルバートのものであることはすぐに分かった。
次の瞬間、周囲の騎士たちは一瞬にして分厚い氷の中に閉じ込められた。魔法耐性のある鎧を着ていようが、彼の圧倒的な魔力の前では何の意味もなさなかった。
「ロゼ」
氷漬けになった騎士たちの間を一瞬で駆け抜けたアルバートが、少し焦ったような表情で私のもとへ走ってきた。
風に揺れる灰色の髪。普段は滅多に動揺を見せない彼のそんな姿に、私は思わず息をのんだ。
「王子様」
私がそう呼ぶと、立ち止まったアルバートは、まるで硬い蕾がほころぶように、柔らかく愛おしげに笑った。
アルバートの後ろでは、レオナが驚きに目を丸くしている。どうやら彼女も、私たちの想いが通じ合っているとは夢にも思っていなかったらしい。
「王子様、私はどこも怪我していません。メルシーが防御魔法をかけてくれていたみたいです」
アルバートは少し眉をひそめながら、そっと手を伸ばした。
「口ではそう言うが、首に傷が残っている」
彼は親指の腹で、私の首筋に残ったかすかな傷をやさしくなぞった。本当に小さな、かすり傷のようなものだった。それでも彼は、痛ましく思うように指先を震わせている。
私は緊張で息を詰まらせた。周囲からの熱い視線が痛いほど突き刺さる。人前でアルバートがここまで私を気遣い、甘やかすような姿を見せたのは、これが初めてだった。
彼の深い瞳に、ふと影が差した。首の傷を愛おしむようにゆっくりと動いていた指先が、名残惜しそうに離れていく。それから彼はゆっくりと視線を私から外し、それでも私のそばを一歩も離れないまま、リアムへと声をかけた。
「ご苦労だった、リアム」
「もったいないお言葉です」
「皆の働きがあってこそだ。宮殿は完全に制圧され、事態も順調に進んでいる。ひとまず安心していい」
その言葉に、地下を埋め尽くすほどの騎士たちが一斉にアルバートへ頭を下げた。一人の人物へ絶対的な敬意を示すその光景は圧巻の一言だった。
突然の礼拝にもアルバートは動じることなく、静かに手を上げた。しかし、その表情に先ほどまで浮かんでいた柔らかい喜びは、一瞬で消え去っていた。
あの隔離された塔で、私と一緒に食事をして、穏やかに笑っていた彼ではない。気高き統治者の顔だった。
私は、こうして彼との身分の差を思い知らされる瞬間が、たまらなく嫌だった。それが当然のことだと分かっていても、自分の努力だけでは決して埋められない距離があるのだと、突きつけられるようだから。
「計画は予定どおり進める」
アルバートは落ち着いた口調で周囲に説明した。今日から彼は亡き大魔法使い『ロストゥラトゥ』の名を使い、貴族たちを宮殿へ招く予定だった。突然の招待ではあるが、ロストゥラトゥならこれまでも気まぐれに同じようなことをしていたため、不自然には思われない。
けれど、彼らが宮殿へ足を踏み入れた瞬間、容赦なき粛清が始まる。生きる者と死ぬ者を決めるのは、すべてアルバートの胸三寸だった。
アルバートは周囲を見回したあと、レオナへ視線を向けた。レオナが一歩前へ出る。
「騎士団についても、お話しすることがたくさんあります」
すでに魔法使いたちからレオナの事情を聞いていたのだろう。アルバートの言葉に、レオナは真剣な表情でうなずいた。
「はい」
アルバートはあっという間に、報告や指示を仰ぐ人々で囲まれてしまった。
私はそっと彼から距離を取る。もっとアルバートと話したかったけれど、今はその時ではない。これからの彼は、今まで以上に忙しくなる。そんなことで寂しがるわけにはいかなかった。
アルバートがリアムと戦後処理について話し合う中、私は一足先に宮殿の部屋へと案内されることになった。
案内された部屋は、あの塔の部屋とは比べものにならないほど広大だった。ふかふかのベッドはもちろん、大理石の暖炉や豪華なソファまで備えられていて、気品に満ちあふれている。埃一つないほど完璧に整えられていたが、不思議なことに、人が暮らしていたような生活感はまったく感じられなかった。
近くに市場はなかったが、魔法使いが用意してくれた新しい着替えが用意されていた。
私は部屋に続く広々とした浴室へ向かった。浴槽にたっぷりと湯を張り、ゆっくりと体を沈める。温かい湯が、戦いでこわばっていた体を優しくほぐしてくれた。
体を洗い終えて部屋へ戻ると、私はベッドに横になった。新しく張り替えられた湯には、今度はハヤンが嬉しそうに浸かっている。
ベッドのマットレスは、まるで雲の上のように柔らかかった。けれど、その極上の柔らかさが、かえって私の心を落ち着かなくさせた。最近はアルバートがベッドを譲ってくれていたおかげで少しは慣れてきたとはいえ、これほど豪華な寝床はやはり気が休まらない。
ふと、あの硬くて狭い、塔の床が恋しくなった。
すべてが終わり、もうあの塔に閉じ込められることもない。それなのに、この胸にぽっかりと空いたような虚しさは何なのだろう。
……まるで、過ぎ去った不自由な日々を懐かしんでいるみたいだ。塔を出てから、まだどれほどの時間も経っていないというのに。
アルバートと離れて過ごすと決めた「一か月」を、私はどうやって乗り切ればいいのだろう。
どうやら私は、自分で思っていた以上にアルバートに惹かれ、彼に依存してしまっているらしい。今となっては、問題なのはアルバートの気持ちではなく、私のほうだった。
私は深くため息をつき、ぎゅっと目を閉じた。
◇
再び目を開けた時、いつの間にか外はすっかり夜の静寂に包まれていた。
ずっと塔の中だけで生きていくことはできない。アルバートと一生、二人きりで狭い世界に閉じこもっていることもできない。塔での息苦しかった記憶が少しずつ薄れていくのは、私があそこを出て前を向いたからだ。だから、もう塔を恋しがるのはやめよう。
気分を切り替えるためにも少し風に当たりたいと思い、私は勢いよく立ち上がった。
そういえば、アルバートにロストラトゥとの決着が無事に終わったのか、まだ詳しく聞いていなかった。
窓を開けると、暗い夜空に美しい月が輝いていた。
その時、窓の外から誰かが音もなく滑り込むように部屋へ入ってきた。
「……お忙しいのではなかったのですか?」
現れたのは、アルバートだった。
「お前の傷の具合を見に来た」
彼は目を細め、愛おしそうに私を見つめた。
「傷ついてほしくなかったのに」
これはケガと言えるほどの傷でもない。それなのに、彼は自分のこと以上に心配してくれる。気恥づかしかったけれど、胸の奥がじんわりと温かくなった。
私はずっと胸に引っかかっていた問いを口にした。
「復讐は、どうでしたか?」
彼は窓辺にもたれ、私の顎をそっと持ち上げた。ロストラトゥのことを思い浮かべていたのか、どこか遠くを見ていた彼の冷徹な視線が、ゆっくりと私へ向けられる。
「お前を見た瞬間、どうでもよくなった」
夜空の星のように澄んだ彼の声が、静かな部屋に響いた。
あまりにも唐突で、あまりにも甘い言葉。けれど、それを口にしたアルバートの表情には微塵の照れもなかった。夜明け前の空のように静謐なその顔には、私には到底測りきれないほど深い感情が宿っていた。
復讐を終えた後のアルバートは、一体どんな気持ちだったのだろう。そんなことを、私はふと思った。
私が見たロストラトゥは、今や取るに足らない、哀れな老人にすぎなかった。アルバートが再び対面したロストラトゥも、きっと同じだったのだろう。
そして彼は、自問したに違いない。どうして自分は、こんな人間のために人生を振り回され、苦しまなければならなかったのかと。
けれど、過ぎ去った時間はもう戻らない。犠牲になった人々も、彼が奪われた瑞々しい歳月も、魂に刻まれた癒えることのない傷も、すべては取り戻せないのだ。それでも彼は、その足で前へ進まなければならなかった。
私は、彼と出会えた運命に心から感謝した。彼が長い間抱え続けてきた果てしない空虚さを、私の存在がほんの少しでも埋められたのなら、それだけで十分だった。
私はアルバートの前に立ち、そっと背伸びをした。自分でも、彼に対して何をしようとしているのか分からなかった。ただ、彼に触れたかった。
そんな私の意図を察したのか、アルバートは窓辺から静かに降りてくる。
「首が痛むだろう」
そう言って、彼はもう一度私の首筋を指先で優しく撫でた。その手は温かく、どこまでも穏やかだった。
彼はいつだって、私には底抜けに優しい人だ。誰よりも大きく見えて、何をしても完璧にこなす人。ロゼの体に憑依したあの日から今日まで、アルバートが他人に弱さを見せたことはほとんどなかった。彼はいつも、己の泥臭い感情を深く胸の奥へ押し込めていた。
あなたの知らない人生を知りたい。苦しみに満ちた幼い頃も、その後に孤独を抱えて歩んできた日々も。そのすべてが積み重なって、今の愛おしいあなたを形作ったのだから。
アルバートの気持ちがはっきりするまでは、少し距離を置こう――そう心に決めていたはずなのに。
でも、これは夜中に突然部屋を訪ねてきたアルバートが悪いことにしよう。
私は彼へ、もう一歩近づいた。
「王子様」
私はそっと、アルバートの体に腕を回して抱きしめた。大きな背丈の差があるせいで、私が彼の広い胸にすっぽり収まるような格好になってしまったけれど、それでも構わなかった。
「つらかったでしょう」
私は彼の背中を、トントンと優しく叩いた。まるで、彼がいつも私を褒めて慰めてくれる時のように。
彼の胸に顔を埋めていたから、彼が今どんな表情をしているのかを見ることはできなかった。
「……ロゼ」
アルバートは低い声でそう呟くと、小さく切なげに息をついた。彼の熱い吐息が私の髪をかすかに揺らす。私はもう一度、愛おしさを込めて彼の背中を優しく叩いた。
「お前はいつも、私が一番欲しい言葉をくれるな」
アルバートが、珍しく掠れた声で弱音をこぼした。しばらくの沈黙の後、彼はぽつりと、魂を吐き出すように続けた。
「その言葉が聞きたかった」
「……」
「『よく頑張った』『よくやり遂げた』という称賛の言葉よりも……私だって傷つき、苦しむことがあるただの人間なのだと、そう言ってほしかった」
「……」
「完璧でなければならないと分かっていても、だ」
そう言うと、彼の強靭な腕が私の背中へと回され、壊れ物を扱うように、けれど拒めない強さでぎゅっと抱きしめられた。腕の中は、冬の暖炉のように温かかった。彼からは、いつも通りの心地よい気高い香りがした。私たちはしばらくの間、言葉をなくしたまま互いの体温を確かめ合っていた。
やがて、名残惜しそうに腕を緩めたアルバートは、愛おしさに目を細めながら、そっと私の頬を撫でた。
「お前がいない一か月を、どうやって過ごせばいいのかわからない」
「きっとあっという間ですよ。近々舞踏会もありますし、王宮を立て直すのでお忙しいでしょう?」
「それでも、まだ私から離れるつもりなのか」
「……はい」
私は静かに、けれど固い決意を込めてうなずいた。
これから離れて過ごす一か月は、ただお互いに頭を冷やすためだけのものではない。彼の気持ちが変わらないか確かめること以上に、私には果たさなければならない大切な目的ができたのだ。
――私は、何としても『ドラゴンの墓』へ行かなければならない。
アルバートは私を守るため、黒魔法の契約者を自分に替えようとしている。私の代わりにハヤンを契約者にし、すべての呪いと重荷を一人で背負うつもりなのだ。私は、それを阻止する方法をどうしても見つけなければなかった。
彼はこれまでずっと、他人の重荷を背負い、苦しみに耐えて生きてきた。私のためにその命を削って黒魔法まで治療してくれたのだから……もうこれ以上、彼の自己犠牲の上に甘えるわけにはいかない。
私の頑なな返事が気に入らなかったのか、アルバートはわずかに眉をひそめた。それでも彼は、一度たりとも私の意思を力ずくで否定しようとはしなかった。出会った時から、彼は私の言葉を拒んだことがない。
「そうだな。君の望みどおりにすると約束したんだ。聞き入れてやらないとな」
「……」
「もともと私は、こんなに聞き分けのいい人間じゃないんだが」
彼は困ったように柔らかく笑った。
「明日、お前のこれまでの功績を称え、男爵の爵位を授ける。領地は南方の海沿いにある。小さいが、静かでお前が気に入りそうな美しい場所だ」
「もうですか?」
反乱が起きたのは今日だというのに、もう領地まで決まっているのだろうか。人々の反発や手続きはどうするのか。聞きたいことは山ほどあったが、アルバートはまるで気にしていない様子だった。彼の超人的な仕事ぶりを知る私からしても、それほど心配するようなことではないのかもしれない。
「それがどういう意味か、わかるか?」
私の頬を包む彼の手に、少しだけ熱い力がこもった。
「明日になれば、私たちの『契約』は正式に終わるということだ」
契約が終われば、互いに触れ合うたびに魔力の許可を求める必要もなくなる。真の意味で、男と女になれる。
その意味を理解した瞬間、私の顔はカッと真っ赤になった。普段はこんなに照れる性格じゃないのに、彼の前ではなぜか初心な別の人間になってしまう。最初の頃は彼の思わせぶりな言葉をうまく受け流せていたのに、彼を好きになればなるほど、心の余裕がなくなって動揺してしまう。それはどうしようもない事実だった。
深呼吸をして必死に気持ちを落ち着かせた私は、精一杯の強がりを込めて微笑んだ。
「どうせ、私に許可を求めず触れるつもりだったんでしょう?」
するとアルバートは、またとんでもない爆弾発言を口にした。
「残念ながら、それはずいぶん我慢したんだ」
彼は柔らかく不敵に笑いながら、私に触れていた指先で今度は自身の不敵な下唇をなぞった。
「君を隣に寝かせておきながら、君は毎晩ぐっすり眠っていただろう。おかげで私は、なかなか寝つけなかった」
囁くようなその艶っぽい言葉に、私は一瞬で頭が真っ白になり、返す言葉を失った。
「……そんなこと、一言も言ってくれなかったじゃないですか! それに、私のせいでそんなことになるってわかっていたなら、部屋を分けるとか――」
「どうせすぐ塔へ戻ることになるとわかっていたから、あえて言わなかった。それに、お前が少しは私に対して罪悪感を抱いてくれたほうが、今後の都合がいいと思ってな」
アルバートは悪びれる様子もなく、涼しい顔と言い返した。罪悪感を抱かせたかっただなんて。あまりに堂々としたその策略に、私は完全に言葉を詰まらせた。
……こんな意地悪なセリフ、どう返せばいいの?
私が怒りと羞恥で口をぱくぱくさせていると、アルバートはついに堪えきれずに声を上げて笑った。
「はは……」
それはまるで、愛おしい子どもを見守るような、穏やかで優しい笑いだった。見惚れてしまうほどに美しい。夜空に浮かぶ三日月のように、彼の目尻が柔らかく細められる。
笑いの余韻を残した低音の声で、アルバートが私の耳元に囁いた。
「楽しみにしていろ。契約が終わり、何の制約もなくなった一か月後――その時のお前に、私が何をするのか」
…
「その時になれば、もう一切我慢しなくていいんだからな」
「……っ」
どうしてだろう。彼の熱を孕んだ瞳を見つめていると、一か月後の未来が急に怖くなってきた。きっとアルバートにとって、その一か月という猶予には、私とはまったく違う、狼のような意味があるのだ。
彼は私をまっすぐに見つめ、一転して真剣な表情で言った。
「この一か月で体力をしっかりつけておけ。今度は、お前が眠れなくなる番だからな」
その言葉の、あまりにも官能的な意味を理解するのに時間はかからなかった。もともと赤くなっていた顔が、さらに爆発しそうなほど熱を帯びる。
「その日の楽しみに、今日はキスだけで終わりにしておこう」
唇をなぞっていた彼の指が離れた。代わりに、彼の端正な顔がゆっくりと近づいてくる。私は目を閉じることさえ忘れて、彼を見つめていた。
アルバートは、互いの吐息が完全に触れ合うほど近い距離で動きを止めた。私を焦らすように見つめながら、ゆっくりと顔を傾ける。
額と額が、そっと触れ合った。
まつ毛の一本一本、彼の瞳に映る私の顔まで見えるほどの距離だった。
「ロゼ」
「……どうしたんですか?」
彼の熱い吐息が肌にかかると思うだけで、全身の細胞が緊張で強張った。
アルバートは低く、どこまでも甘い声で囁いた。
「お前も、私を求めているのか知りたい」
「…………」
「だから一度くらいは、自分の口で、私に何を望んでいるのか言ってくれないか」
思えば、いつも最初に触れてくるのはアルバートからだった。私は契約の内容を守ることや、自分の正体にばかり気を取られていた。もし私の不用意な言葉で、彼が昔の、本物の『ロゼ』を思い出してしまったら――そんな不安が常にあったから。もう彼に警戒されるような関係には戻りたくなかった。
でも、もしかすると彼も同じように、私に拒絶されるのではないかと不安で、寂しかったのかもしれない。
……何よりも、アルバートにこんな切なげな瞳で尋ねられてしまったら、抗うことなんて出来なかった。たとえそれがどんな無理難題だったとしても、従うしかないほど、今の彼は残酷に美しかった。
「……ん?」
優しく言葉を促すような彼のハスキーな声に、心臓が跳ね上がる。本当に、アルバートと一緒にいると、毎瞬間心臓がもちそうにない。
私は震える息をそっと整えながら、意を決して彼の首にそっと腕を回した。せめて彼みたいに格好よく主導権を握ってみせようと微笑んでみたけれど、思うように口元は上がらず、かすかに震えるばかりだった。
アルバートがそれを見て、愛おしそうに小さく笑う。
「王子様みたいには、うまくできませんね」
「お前は、お前のままで十分だ」
彼は私を見下ろしながら、ただ静かに、私が紡ぐ言葉を待っていた。
私はごくりと唾を飲み込み、胸の奥の、本当の欲求を口にした。
「……キスしてください」
その瞬間、彼は待ち望んでいたかのように私の唇を激しく重ね、そのまま私の口内へと深く、容赦なく入り込んできた。
まるで飢えた獣のようだった。彼は私のすべてを奪い去るように、貪欲に私を貪る。全身が甘い熱を帯びて、溶けてしまいそうだった。
これまでに抱きしめられたときよりも、ずっと深くて長い口づけ。わずかな時間だけ呼吸を許しては、焦れたように再び唇を重ねる。その果てしない繰り返し。
もう息が続かない、限界だと思い、私は彼の逞しい肩を弱々しく、トントンと軽く押した。
ようやく、アルバートは名残惜しそうに唇を離した。
「……思ったほど長くはなかったな」
――これで長くないって言うの?
重なるたびに深くなっていくキスも、日を追うごとに増えていく濃厚な触れ合いも。この先、一か月が過ぎたら一体どうなってしまうのだろう。私は彼の底なしの情愛に、少し恐怖すら覚えた。
私を見つめる彼の濡れた眼差しには、まだ満たされない獰猛な欲望がありありと残っていた。熱くなっていたのは、私だけではなかったのだ。
アルバートは乱れた灰色の髪を色っぽくかき上げ、大きく息をついた。
「こうして見ると、私の忍耐力も大したものじゃないな」
苦笑したアルバートは、熱を持った私の唇を親指でそっと拭ってくれた。
「手を開けて」
彼は私の小さな手のひらに、何かを金属の塊を握らせた。視線を落とも、そこには古びた、しかし精巧な一つの鍵があった。
「……これは?」
「塔の鍵だ。出発する前に、塔に置いてあるお前の荷物を持って行かないとな。あそこに入れるのは、世界でお前と俺だけだから」
私と彼だけが出入りできる、閉ざされた場所。あの忌々しかったはずの塔は、いつの間にか二人だけの、誰にも邪魔されない特別な聖域になっていた。
私は鍵を握りしめ、小さくうなずいた。
「……あの塔は、取り壊すんですか?」
ためらいながら尋ねた。アルバートにとっても、あそこは凄惨な幽閉の記憶が残る呪われた場所だから、もう形すら残しておきたくないのではないかと思ったのだ。
「いや。たまにはお前と一緒に、あそこで誰の目も気にせず休暇を過ごすのも良さそうだからな」
「本当に……大丈夫なんですか?」
あそこは憎きロストラトゥが造った監獄だったはずだ。私に気を遣って、無理に平気なふりをしているのではないかと心配だった。アルバートは己の負の感情を隠すのが恐ろしく上手だから、私は人一倍、注意深く彼の心を見てあげなければならなかった。
「お前があの場所に、最高の思い出を上書きして残してくれた。だから、もう何も気にしていない」
アルバートは私の髪を愛おしそうに撫でながら、ゆっくりとうなずいた。私は彼の表情を、嘘偽りがないかじっと見つめた。もし少しでも無理をしている陰りがあれば、すぐにでも「あの塔は壊そう」と言うつもりだった。
……けれど、アルバートの顔に浮かんでいたのは、一点の曇りもない、私への愛おしさと本心だけだった。
私は、涙が出そうなほど嬉しかった。本当に、私があなたの地獄のような人生に、幸せな思い出を残すことができたのだと実感できたから。
つらいことも、死にかけるようなこともたくさんあったけれど、私にとってかけがえのない思い出となったあの塔での日々は、あなたにとっても同じように、温かい思い出になってくれたのだ。
これで、ロストラトゥという因縁の影も消え去った。あとはハヤンの問題さえ綺麗に片付けば、私たちは本当の意味で幸せになれる――そう思えた。
◇
アルバートが帰ったあと、長い入浴を終えたハヤンが、満足そうに部屋へと戻ってきた。どうやら宮殿の温泉のような広いお湯や、さまざまな効能のある香りの入浴剤を試しながら、贅沢でゆっくりとした時間を楽しんできたらしい。
『こんな素敵な場所もあるんだね』
ハヤンの嬉しそうな念話が響く。心地よい入浴と静かな環境は、ハヤンの心に、生きる力を少しずつ取り戻させてくれていた。
人が「生きたい」と思える理由は、実はそれほど大げさなものではないのかもしれない。ただ、今日という日を乗り越えられる、小さな楽しみが明日も待っていればいいのだ。
明日食べるおいしい料理。心地よい温かいお風呂。大切な友人との何気ない会話――そんな、ありふれたささやかな幸せ。
私は、ハヤンのそんな小さな喜びが、これから先の未来でいくらでも増えていってほしいと心から願った。
誠していつか、ハヤンが私と契約し、こうして一緒に現世を生きることを、決して後悔しないでいてくれたらいいなと、静かな夜空の月に祈った。
-
王宮の制圧と反乱の成功
ハイド魔法で潜入したロゼたちの活躍や、アルバートの圧倒的な氷魔法によって騎士団長を含む敵勢力が無力化され、王宮は完全に制圧されました。レオナとシュバートも和解し、新たな王国を目指して共に歩むことを決めます。
-
アルバートとの絆の深まりと「一か月後」の約束
戦後、部屋を訪れたアルバートとロゼは互いの深い情愛を確かめ合いました。明日には男爵の爵位が授与されて契約が正式に終了し、何の制約もなくなった「一か月後」に、改めて二人の関係を進める約束(そして甘い警告)を交わします。
-
ロゼの決意とハヤンの救済
ロゼは、アルバートが自分の代わりに黒魔法の重荷をすべて背負おうとしている(契約者を自分に変えようとしている)ことに気づき、それを阻止するため一か月の猶予の間に『ドラゴンの墓』へ行くことを決意します。同時に、精霊ハヤンもささやかな幸せを通じて生きる力を取り戻し始めています。