こんにちは、ちゃむです。
「監禁王子のメイドとして生き残る方法」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
52話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 嵐の前の静けさ
ロストラトゥ軍がこの塔へ攻め込んでくる、運命の日。
私は夜明けと同時に、自然と目を覚ました。目覚ましなんて必要なかった。
……本当に、この塔を出る日が来たのだ。
しかし、いざ出発するという段になっても、胸に去来するのは思っていたほどの喜びではなかった。
押し寄せるロストラトゥ軍の兵力は、三万人を超えるという。そう思っただけで、心臓がどきどきと早鐘を打った。まるでドームのコンサート会場を埋め尽くすような途方もない人数ではないか。
私はぎこちない動きでベッドから体を起こした。
「もう起きたのか」
不意に声をかけられ振り返ると、そこではアルバートが剣を振るっていた。
久しぶりに間近で見る、彼の鍛え上げられた肉体に思わず目を奪われる。まるで一流の彫刻家が精魂込めて彫り上げたかのような、非の打ち所がない完璧な体つきだった。
それを見て、ふと素朴な疑問が頭をよぎる。
……私が毎日のようにゆでた卵は、少しは彼の筋肉の役に立ったのだろうか。あんなに一生懸命ゆでたのだけれど。
「いつまで見ている。早く着替えてこい」
アルバートは手ぬぐいで額の汗を拭いながら、くすっと悪戯っぽく笑った。汗に濡れた端正な顔立ちが、いっそう精悍に映る。
引き締まった体つきと、そこから立ち上る色気のある雰囲気に、思わず顔が熱くなった。
「すみません、王子様。あまりに素敵で、つい目が離せなくて」
「……俺の体つきにか?」
「ここで『はい』って答えたら、お気を悪くされますか?」
人の体をまじまじと褒めるのは無作法だったかもしれないと思い、恐る恐る尋ねると、アルバートは静かに首を横に振った。
「お前なら構わない。つまり、その通りだということだ」
「はい」
私は正直者なので、素直にコクコクとうなずいた。
アルバートは最後に手ぬぐいで汗を拭うと、愛剣をシャキッと鞘へ収めた。
「そんなに見つめなくとも、そのうち嫌というほど見ることになる。だから心配するな」
そう言い残し、彼は形の良い唇に笑みを浮かべたまま浴室の方へ姿を消した。
……そのうち嫌というほど見ることになる。
私は彼の言葉の意味を頭の中で反芻し、あまりの気恥ずかしさにぎゅっと目を閉じた。顔だけでなく、全身がカッと火照っていく。さっきの軍勢への恐怖とはまったく違う意味で、体が緊張で強張っていた。
深呼吸を何度も繰り返し、ようやくハッと目を開けると、ベッドのすぐ横にハヤンがちょこんと座っていることに気づいた。
さっきまでアルバートと話すのに夢中で、そこに彼がいることにまったく気づいていなかったのだ。
――ということは。アルバートの肉体を見て、私の表情がころころとだらしなく変わる様子を、最初から最後まで全部見られていたということになる。
しかもハヤンは、中身は五百歳のドラゴンだから人間ならおじいさんとはいえ、私にとってはいつまでも純真な子どものような存在で……。
気まずい沈黙のなか、ハヤンが先に口を開いた。
「ロゼ……」
私は気まずさから目をそらし、必死にいつもの冷静な表情を取り繕った。
「いつ起きたの、ハヤン?」
「さっき……」
「どうしてもっと寝ていなかったの?」
「今日は……大事な日だから……。でもロゼって、ああいう姿が本当に好きなんだね……」
「……ああいう姿って?」
ハヤン、そんな不安になるような聞き方をしないで。どうしてそんなに目を丸くして驚いているの?
「心配しないで……。僕も成体のドラゴンになってポリモーフ(人型化)すれば、あんな姿をいくらでも見せられるよ」
ハヤンは決意に満ちた、きりっとした表情でそう宣言した。
……いや、内容がものすごく勘違いしている。私は別に、マッチョになったハヤンを見たいわけではない。
「ハヤン、私は今のあなたの姿も、とっても好きだよ?」
「でも……ロゼがあんなに恥ずかしそうにしながら『好き』になるの、初めて見たから……」
どうやらハヤンの中では、もう完全に結論が出てしまったらしい。頭が痛くなったけれど、今は誤解を解いている場合ではなかった。
「よし、まずは着替えよう」
私は気を取り直して立ち上がり、清潔なドレスに着替えた。
かつてロゼが着ていた豪華絢爛なドレスは、すべてアルバートが魔法で消し去ってしまったため、今着ているのは侍女が着るような質素なドレスだ。縫製は粗いけれど、動きやすく丈夫な服だった。
アルバートが浴室で体を洗っている間、私はそっと窓の外を眺めた。
塔の周囲を取り囲む人々の数は、昨日に比べて急激に膨れ上がっていた。押し寄せる兵士たちは全員、隙なく武装したまま、持ち場に整然と整列している。
「……わあ」
いよいよ、本当に始まるんだ。
私はアルバートから護身用に渡されていた杖を、ぎゅっと握りしめた。まだ魔法は基礎しか知らず、まともに実戦で使ったこともないけれど、それでも戦う準備だけはできていた。
「メルシが、もうすぐ到着すると合図を送ってきたぞ」
背後から不意にアルバートの声がした。
驚いた私は思わずぴょんと壁際へ身を寄せ、息を弾ませて尋ねた。
「びっくりしました……! いつ来られたんですか?」
「さっきだ。気配を消していたが、お前はまったく気づかなかったようだな」
「……外をご覧になったんですか?」
「ああ。さっきから見ていた」
アルバートは私と並ぶようにして窓の外へ視線を向けた。
しかし、その表情には微塵の動揺もなかった。口元に浮かぶのは、絶対的な自信に満ちた笑み。その眼差しには信じられないほどの余裕が湛えられていた。
「俺のために、ずいぶん念入りに準備をしてきてくれたようだな」
整った顎を指先でなでる彼の姿は、どこか楽しそうにさえ見えた。ロストラトゥへの、これ以上ない完璧な復讐劇が始まるのだから、当然かもしれない。それは圧倒的な強者だけが持つ、至高の余裕だった。
やがて、彼の美しい瞳が妖しく赤く輝いた。
口角をわずかに吊り上げ、愉しげに低く笑う。
「魔法が解けた」
アルバートはサッとカーテンを閉め、外からの視線を完全に遮断した。
「さあ、ロゼ。私たちも客人を迎える時間だ」
そのときになって初めて、私はアルバートの服装がいつもと違うことに気づいた。
彼が身にまとっているのは、訓練用の普段着ではない。美しく結ばれたクラバット、上質な絹で仕立てられた漆黒の衣装、そして肩には王家の象徴である「白百合の紋章」が鮮やかに刺繍されたマントが掛けられていた。
豪華な装いであるはずなのに、彼がまとうと少しも派手には見えない。まるで、世界のすべてが彼のためだけに仕立てられたかのようだった。
腰に気高き剣を佩いたアルバートは、まるで勝利の神そのもののように神聖で、美しかった。今の彼を見れば、この国の誰一人として「彼が王にはなれない」などとは言えないだろう。
「行こう」
アルバートが優しく私に手を差し伸べる。
私は吸い寄せられるように、その大きな手を取った。
二人は静かに階段を下り、一階の厨房へと向かった。
――ギィィ……。
階段を下り切る前から、不穏な物音が建物の奥に響いた。
扉が開く音だった。
私は思わず体を強張らせ、アルバートの手に力を込めた。誰かが入ってくる。魔法使いか、兵士か、それとも――ロストラトゥ本人だろうか。
「心配はいらない」
私の緊張を察したアルバートが、繋いだ手をぎゅっと握り返し、安心させるように囁いた。
「お前が恐れるような相手ではない」
「え? でも、今ドアが開いて……」
「お前もよく知っている人物だ」
「……え?」
魔法の修行に追われ、今回の反乱計画についてアルバートから詳しい説明を聞けていなかった私は、ますます混乱した。彼はいつも肝心なところをぼかして話す。
だが、厨房の扉が完全に開いた瞬間、私は彼の言葉の意味を即座に理解することになった。
「お腹すいた~! まずは朝ごはんを食べてから始めない?」
そこには、まるで何事もないかのような緊張感のない顔で笑う、メルシの姿があった。まるで友人の家にふらりと遊びに来たかのような、余裕たっぷりの様子だった。
「……メルシ、あなた一人で来たんですか?」
信じられずに尋ねると、メルシは可笑しそうに肩をすくめた。
「まさか。外では皆さんが、王子殿下をそれはそれは熱烈にお待ちしていますよ」
その頃、塔の外では、国王ロストラトゥが黒煙のように群がる兵士たちの間を堂々と歩いていた。
忌々しいアルベルトをこの手で殺す。その一念だけを胸にここまで進軍してきた。
しかし、彼の顔色は酷く優れない。顔に落ちる陰影には、骨の髄まで染み渡った深い疲労がにじんでいた。
ロストラトゥは、あの凄惨な「悪夢」の後遺症からいまだに抜け出せずにいた。今なお毎夜のように、眠るたびに夢の中でアルベルトに首を刎ねられる悪夢を見ては、飛び起きる日々を繰り返している。
夢を見ること、それ自体が恐怖だった。
邪魔者だったエフネン侯爵を殺し、アルベルトと内通しそうな貴族たちも、すべて濡れ衣を着せて迅速に始末した。それなのに、胸を焦がす恐怖は微塵も消えない。
アルベルトは塔に幽閉され、何もできず、奴隷同然の境遇にまで落ちぶれているというのに。
(この悪夢を終わらせるには、あいつの首を実際に斬り落とすしかない……!)
だが、その呪われた悪夢も今日で終わる。
ロストラトゥは、自分が集めた軍勢を満足げに見渡した。その大半は、命を落としても惜しくない平民の混成部隊だった。自分が国中に流したアルベルトへの醜い偽りの噂を信じ込み、「悪魔の王子を討つ」という大義名分のためなら命を捨てても構わないと狂信している愚民どもだ。
「アルベルトが反乱を目論んでいる」という噂を聞いて集まった兵の数は、当初の予想よりは少なかった。しかし、世論はいまだアルベルトに対して決定的に否定的だった。
時間が差し迫っていたこともあるが、現在の国内情勢もロストラトゥには都合がよかった。
ここ数年、国は深刻な干ばつに見舞われ、さらに追い打ちをかけるような増税により、民の不満は日に日に高まっていた。ロストラトゥはそのすべての失政の責任を、アルベルトという「悪魔」に押しつけたのだ。非難する格好の標的さえいれば、愚民たちの批判の矛先を自分からそらすことができた。
それこそが、アルベルトを塔に閉じ込めながら、あえて生かしておいた最大の理由でもあった。彼はあらゆる災厄を押しつけるための、極上の「生け贄」だった。
……もっとも、その生け贄が、自分の首を絞め始めなければの話だが。
ロストラトゥは、あらかじめ兵に運ばせていた高級ソファへどっかりと腰を下ろした。泥まみれの兵士たちに囲まれた豪華なベルベットのソファは、この荒涼とした戦場にはひどく不釣り合いだった。
塔内からの定期報告を思い返しながら、ロストラトゥの瞳が欲望にぎらつく。狭い塔の中で侍女と二人きりで閉じ込められ、さまざまな辱めを経験するうちに、あの傲慢な王子はすでに正気を失っているのではないか――そんな陰湿な期待を抱いていた。
「塔にかけられた結界魔法を解除しろ」
彼は、新しい魔塔の管理者であるメルシに冷酷に命じた。
「やれ」
「御意に」
メルシは、塔全体を覆う大結界を解除するための触媒である、仄青く光る宝石を取り出した。今やロストラトゥは、塔の防壁魔法が限界まで弱まっていることを完全に把握していた。
魔法使いたちの魔力が凝縮された宝石が、メルシの杖の導きによってふわりと宙へ浮かび上がる。
「――解除(Unlock)」
パリン、と乾いた高い音を立てて、宝石が粉々に砕け散った。
その瞬間、塔の周囲に低く響いていた地鳴りのような魔力のうなりが、全方位へと拡散していく。水面に波紋が広がるような不思議な音が響き渡り、やがてガラスの城が崩壊するかのような鋭い破砕音へと変わった。
次の瞬間、塔全体を覆っていた不可視の防壁が消滅した。
「総員、構えろ!」
兵士たちは一斉に頭を守るために兜の目庇を下げ、武器をきつく握り直した。最前列の弓兵たちは、塔の堅牢な入口の扉に向けて、ギリギリと弓を引き絞る。その矢先には、かすっただけでも即死しかねない凶悪な猛毒が塗られていた。
すべての準備が整った。
「さあ、誰が中へ入り、あの哀れな王子を引きずり出してくる?」
ロストラトゥの傲慢な問いかけに、周囲の兵士たちがざわざわと動揺した。
だが、誰一人として一歩前へ出る者はいない。開けた外で大軍と共に囲むのとは訳が違う。死角だらけの狭い塔の内部へ押し入り、あのアルバートを連れ出すなど、実質的に自殺行為に等しかったからだ。
命を懸けて集まった義勇兵とはいえ、恐怖がないわけではない。相手は「悪魔の王子」と恐れられている化け物なのだから。
「陛下、不肖この私が……」
重苦しい沈黙を破り、イーグル騎士団長のアドリアンが前へ進み出た。
しかしロストラトゥは、つまらなそうにきっぱりと首を横に振った。仮にもアルバートを外へ引きずり出すだけの捨て駒の役に、貴重な騎士団長を危険に晒す理由はなかった。アドリアンもその反応を予期していたため、内心で安堵しながら素直に一歩退いた。体裁上、忠誠を示すために名乗り出たものの、彼もまた無駄死にしたいとは微塵も思っていなかった。
「ふふ、中へ入るには、ちょうどいい頃合いね……」
その様子を冷ややかに見ていたメルシは、完璧なタイミングを計っていた。彼女が中へ入るのが、誰の目にも不自然に見えない瞬間を。
ロストラトゥが苛立ち、無理やり誰かを指名しようとしたその刹那、メルシは恭しく手を挙げた。
「陛下、この私が行ってまいります」
「……お前が自ら行くというのか?」
ロストラトゥは不審げに眉をひそめた。彼女の真意を疑っているのだ。
しかしメルシは、一片の揺らぎもない平然とした笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「これは陛下のご信頼を勝ち得る絶好の機会でございます。先代の魔塔の主が代わって以来、陛下が未だ我が新しい魔塔を完全には信用しておられないことも、重々理解しておりますので」
徹底的に自分をへりくだり、ロストラトゥの肥大化した自尊心を持ち上げる話し方。それこそが、この暗君が何より好む至高の毒薬だった。周囲の腰巾着たちが最も得意とするお世辞の技術である。
ロストラトゥは実に満足げに、下卑た笑みを浮かべた。
「ふん、よく分かっているではないか」
(――要するに、ただの耳ざわりの良い言葉に弱い愚か者。甘い言葉ばかりを好むということは、頭の中までゴミで埋まっているようなものね)
『もう少ししたら、天罰でも落ちそうなくらい口がうまいわね』と、心の中でロストラトゥの哀れな未来を冷ややかに品定めしつつ、メルシは深く感激したふりをして頭を下げた。
「たとえこの任務で命を落とすことになろうとも、私は陛下への絶対的な忠誠をお示ししたいのです」
顔を伏せていたおかげで、邪悪に歪む笑みをロストラトゥに見られずに済んだのは幸いだった。
「よかろう。行ってこい。許可する」
ロストラトゥは満足そうに鼻を鳴らし、メルシが塔へ入ることを認めた。メルシは必死に吹き出しそうな表情を押し殺しながら、悠然と塔の奥へと消えていった。
「全員、配置につけ! 一瞬たりとも気を緩めるな!」
「はっ!」
ロストラトゥの号令に、三万の兵士たちが地響きのような声をそろえて応えた。前列の兵は弓を構え、後列の兵たちは剣と槍を天に突き上げた。
ロストラトゥの左右には、メルシと共にやって来たお抱えの宮廷魔法使いたちが並び、不気味な杖を構えていた。
メルシが塔の古びた扉を開けたが、内部の様子は暗くてよく見えない。
――ギィ……。
不気味な音を立てて、再び塔の扉が閉まった。
「へ、陛下……もう我々も突入してしまいましょうか?」
「いや、もう少し待て。中には最高戦力である魔塔の主がいるのだぞ」
ロストラトゥは、アルバートがどれほど優秀な剣士であり魔法使いであろうとも、魔塔の主であるメルシの魔力には敵うはずがないと確信していた。
すぐにアルバートの首か、あるいは拘束された姿を持って戻ってくると思われていたメルシだったが、どれほど時間が経過しても一向に姿を現さない。心なしか、塔の内部から何かが激しく衝突するような争いの気配さえ感じられた。
ロストラトゥの心に焦りが生じ始める。こんなに長く待つために、大勢の兵力を連れてきたわけではない。わずかに抱いていた「アルバートが衰弱している」という期待も、あっという間に消え去った。
(もしや、あの女、魔塔の主でありながらすでに返り討ちに遭って死んだのではないか……?)
そんな最悪の疑念までが脳裏をよぎる。
――もちろん、メルシは死んでなどいなかった。彼女はその頃、塔の中でひと通り調度品を物色したあと、ロゼが作った手作りの朝食をのんびりと完食していた。
朝食のメニューは、厨房に残った端切れ野菜を使った手作りの「すいとん」だった。アルバートの健康のために作られた、出汁の効いたあっさりとしたスープは、メルシの好みにも完璧にマッチしていた。
外で何とも言えない緊迫した膠着時間が流れる中、ロストラトゥたちの頭の中では、それぞれ様々な疑心暗鬼が渦巻いていた。
どう動くべきか必死に悩んでいたロストラトゥは、やおらアドリアンへ向かって乱暴に手を振った。
「騎士団長、行け!」
騎士団長という大層な肩書こそあるものの、本質的には小心者であるアドリアンは、その命令に顔を真っ青にした。
(陛下、事前に聞いていた話と違うではありませんか……!)
彼が心の中で必死に恨み言を訴えていた、まさにその時だった。
――ギィィィ……。
塔の重い扉が、再びゆっくりと開いた。
開いた扉の隙間から、戦場にはおよそ不釣り合いな、温かすいとんの香ばしい匂いがふわりと漂ってきた。どこか懐かしい家庭料理の匂いに、ロストラトゥは思わず不快そうに顔をしかめた。
「……食べ物の匂いだと?」
周囲の兵士たちが一斉にざわめき立つ。
「おのれ、我々を油断させようという浅薄な罠に違いない! 全員、警戒を緩めるな!」
ロストラトゥが怒声を上げると、兵士たちは再び一斉に身構えた。
暗がりの向こうに、明らかな人影が見える。しかしロストラトゥは、それがメルシである可能性など微塵も考慮せず、狂ったように即座の斉射を命じた。
「撃て! 射殺せ!」
ヒュンッ――!
数十本、いや数百本もの毒矢が凄まじい風切り音を立てて飛んでいく。空を覆い尽くす矢の雨は、先ほどまで大地を濡らしていた豪雨のように激しく降り注いだ。
だが、その人影に命中した矢は、ただの一本もなかった。
すべての矢が、扉の手前数メートルの空間で突如としてすべての推進力を失い、まるで意志を失ったかのようにポロポロとその場に落ちてしまったのだ。
「……結界魔法か!?」
ロストラトゥはソファから弾かれたように立ち上がった。
全員の不安げな視線が集まる先、闇の中からゆっくりと姿を現す一人の男がいた。
どんよりとした薄暗い曇り空の下であっても、なお眩いほどの圧倒的な存在感を放つその人物は――まさしく、自分がこの世の果てに閉じ込めたはずの男だった。
「……アルバート・グレイ」
ロストラトゥはその忌々しい名を、呪いを吐き出すように低くつぶやいた。
神が持てる技術のすべてを注ぎ込んで丹念に彫り上げたかのような、完璧な容姿。それこそが、幼少期からロストラトゥの心を苛み続けてきた、果てしない劣等感の源泉だった。
アルバートの唇に浮かぶ優雅な微笑みは、押し寄せた兵士たちに一瞬、自分たちが殺伐とした戦場にいることさえ忘れさせた。兵士たちは魂を奪われたように、ぼう然とアルバートを見つめた。
アルバートは確かに、酷く美しく笑っていた。しかし、その笑みを目にした瞬間、ロストラトゥの背筋には氷水を浴びせられたかのような冷たい汗が流れた。
美しい灰色の髪の隙間からのぞく、妖血のように赤い瞳は、自分を骨まで喰らい尽くそうとする本物の悪鬼のそれだった。
ロストラトゥとアルバートの視線が、空中で激しく火花を散らす。
アルバートはわずかにその美しい目を細めた。
「俺が死ねば、この国に後継者もいなくなるというのに……王ともあろうお方が、ずいぶんと盛大なお出迎えですね」
「……貴様、何だと?」
ロストラトゥがアルバートの痛烈な皮肉に反応できたのは、その言葉の意味を頭の中でしばらく反芻した後だった。アルバートは幽閉される前から、酷く上品で遠回しな、相手をなぶり殺すような話し方をする男だった。
「撃て! もう一度撃て! 何をしている、全員かかれァ!」
ロストラトゥは恐怖のあまり、アルバートから慌てて距離を取りながら絶叫した。
その怒声で、兵士たちもようやく呪縛から解けたように我に返った。
「おおおおお!」
兵士たちは恐怖を打ち消すように雄叫びを上げ、アルバートへと突撃した。地を震わせる怒号が耳をつんざく。まるで皆がこの瞬間を待っていたかのように、塔の前にただ一人立つ男へと一斉に刃を向けた。
相手はたった一人。いくら「悪魔」と恐れられる強者であっても、三万という圧倒的な数の暴力には絶対に勝てないはずだった。
しかし、アルバートの薄い唇から、春風のように穏やかで、冷徹な声が紡がれた。――その瞬間。
「――フリーズ(Freeze)」
世界から、すべての音が消えた。
激しく突撃していた人々の動きが、文字通りピタリと止まる。周囲の空間に絶対零度の冷気が吹き荒れ、まるで一瞬で極寒の地へ転移したかのように、空気そのものがカチカチと凍りついていく。
まるで時間が完全に停止したかのように、三万の軍勢はその場で彫刻のように静止した。
兵士たちは驚愕し、必死に体を動かそうとしたが、動かせるのは怯えきった眼球だけだった。空中で跳びかかった姿勢のまま重力を無視して静止した者、剣を今まさに振り下ろそうとした姿勢のまま固まった者。
しかし、誰一人として、アルバートの足元に近づくことさえ許されなかった。
兵士たちは恐怖に震えながら、必死に目玉だけをギョロギョロと動かした。先ほどまで戦場に響き渡っていた凄まじい怒号は消え去り、辺りには不気味なほどの静寂だけが支配する。
その時、塔の中からメルシの紡いだ最上位の幻惑魔法が、紫煙の霧のような姿となって静かに流れ出し、アルバートとロストラトゥ、そして周囲で氷漬けになっている兵士たちを優しく包み込み始めた。
霧は人々の視界を完全に覆い尽くし、アルバートとロストラトゥの「幻影」を作り出していく。彼らの目の前の空間に、鮮明な光景が映し出された。
【なぜ、私をこの塔に閉じ込めたのですか……!】
【――お前が怖かったからだ。お前の存在そのものがな!】
【私についての、あの悍ましい嘘の噂を流したのは、なぜですか!】
【ふん、その程度のことすら乗り越えられないようでは、王子を名乗る資格などないわ!】
現実の過去の会話と、ロストラトゥの醜い本音をもとに精巧に構築された幻影は、人々の視覚と聴覚を完全に支配し、これ以上ない「新しき真実」を五感に叩き込んだ。
凍りついた兵士たちは、心の中で凄まじい衝撃を受けていた。
『まさか……あの悪魔の噂は、すべて現国王が流したデマだったのか!?』
『人が……王たる者が、己の保身のためにどうしてこんな惨いことを……!』
人々は、自分たちが命を懸けて信じてきた王が隠していた、あまりにも醜悪で卑小な真実を知り、人間として激しい嫌悪と怒りを覚えた。
「ま、魔法使いたちは何をしている! 早くあの男を攻撃しろ!」
ロストラトゥは両脇に控える宮廷魔法使いたちへ向かって、狂ったように必死に怒鳴り散らした。もはや、自分一人では剣一本まともに振るうことすらできなかったからだ。
しかし、彼が頼りにしていた魔法使いたちさえも、すでにアルバートの絶対的な凍結魔法によって、杖を掲げたままの姿で完全に凍りついていた。
「おい、アドリアン! 騎士団はどうした!」
ロストラトゥは狂乱し、自分に従う忠臣たちの名を次々と叫んだ。だが、イーグル騎士団全体もまた、目の前で繰り広げられる圧倒的な真実の幻影に完全に心を奪われ、戦意を喪失していた。
アルバートは、見苦しく喚き散らすロストラトゥをゴミを見るかのような冷ややかな目で見つめると、ゆっくりと腰の剣を抜いた。白銀の刃に映る彼の赤い瞳は、ひどく冷たく、深く沈んでいた。
かつて、自分をどん底から救い出し、もしかしたらこの最悪な人生を変えられるかもしれないという、仄かな希望を与えてくれた人物。
――それなのに、その直後には自分を容赦なく利用し、利用し尽くし……。
自分を徹底的に踏みにじり、都合の良い生け贄として切り捨てることに血眼になっていた男。
それでも「どうせ自分が次の王になれば、すべては終わることだ」と己に言い聞かせ、耐え忍び、ひたすらに耐え続けてきた地獄のような日々を思い返し、アルバートは一瞬、暗い記憶の深淵に飲み込まれそうになった。
だが、彼はすぐに現実へと意識を明確に引き戻した。
「あなたは昔から、待つということが酷く苦手な方でしたね。お一人で勝手に狂い、自ら命を断ってしまわれるのではないかと、私はいつも気が気ではありませんでしたよ」
剣を静かに下ろしたアルバートと、へたり込んだロストラトゥの視線が、再び交わる。ロストラトゥの体が、恐怖でぴくりと小さく震えた。
アルバートは、どこまでも穏やかに、そして残酷に微笑んだ。
「現実ですらないただの『夢』ごときに、それほどまで無様に苦しめられているのですから……俺のこれまでの忍耐も、少しは報われるというものです」
彼は一歩、ロストラトゥへと歩を進め、昏い光を宿した瞳で見下ろした。
「――もっとも、これからの『現実』では、その夢以上の絶望をお見せするつもりですが」