こんにちは、ちゃむです。
「監禁王子のメイドとして生き残る方法」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
58話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 甘やかな檻
翌朝、メルシーが食事の載ったトレイを携えて私のもとを訪れた。彼女はトレイをベッドの上に置くと、気丈に挨拶を交わす。
「メルシー! 用事はうまく終わったの?」
「ははっ、もちろんですよ!」
いつもより明るく弾んだ声とは裏腹に、メルシーの顔色はひどくやつれていた。最後に会ったのはほんの昨日のことなのに、どうしてこれほど疲れ切っているのだろう。訝しむ私の脳裏に、牢屋で私のもとへ一目散に駆け寄ってきたアルバートの姿がよみがえった。
「メルシー、私が王子様に事情をきちんと説明できなかったせいで……」
「いいえ。お姉さんを向かわせたのは私ですから。私の欲だったんです……はは、このくらい大丈夫ですよ。」
そう言って笑ってみせるものの、「大丈夫」と口にする彼女の目の下には、あまりにも濃いクマが刻まれていた。それでも彼女は痛々しいほどの笑顔を浮かべ、私の前に温かいスープを差し出した。
「さあ、どうぞ。殿下のところへ行く前に、お口に合いそうなドレスをお渡ししようと思って来たんです。」
「……ドレスですか?」
「はい。」
彼女は腰に下げたポーチの中から、次々とドレスを取り出し始めた。以前、リアムが使えるようにしてくれた魔法の袋と同じ仕組みなのだろう。小さな袋の口から、信じられないことに何着ものドレスが次々と現れる。
「どれがお好みかわからなかったので、全部持ってきました。」
私はスープを口に運ぶのも忘れ、思わず呆然と口を開けてしまった。
――いや、この量ならクローゼットごと運んできたと言われても納得できるんだけど?
「時間がなくて、もっと買えなかったのが残念です……。私、少し目が肥えているもので。」
冗談かと思ったが、メルシーの表情はいたって真剣だった。
そういえば、メルシーはいつも着こなしのセンスが抜群だった。今身にまとっている彼女によく似合う赤いドレスにも、いくつもの宝石が上品にあしらわれている。普段は地味なローブ姿ばかり見ていたせいで気づかなかったけれど、メルシーは私が思っていた以上におしゃれへのこだわりが強い人なのかもしれない。
私は、部屋を埋め尽くさんばかりに並べられた、少なくとも二十着はありそうなドレスを見回し、ごくりと唾を飲み込んだ。
「すごい……こんなにたくさんのドレスを、たった一日でどうやって……」
「既製品を中心に選んだからですよ。本当は塔に入って、お姉さんが着ていた服を持ってこようと思ったんですが、殿下に止められてしまって……。サイズが合うかどうかわからないですけど。」
いったいどうして入らせてもらえないのか、とメルシーは自分のこめかみを軽く押さえながら不満げにつぶやいた。そのとき、彼女の視線が私の首筋に残る傷跡へと向けられた。
「……私にも悪いところがありましたから、遠慮なく受け取っていただきたいんですが。」
その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなった。メルシーが望んで起きたことではない。それなのに、私が彼女を癒やしたことの方を、彼女はずっと気に病んでいるようだった。
私はメルシーの肩をそっと抱きすくめた。
「メルシーだけが悪いわけじゃありません。それに、この程度、本当に大した傷でもありませんから。」
「そう言っていただけて、ありがとうございます。」
メルシーはふっと、今度は心からの微笑みを漏らした。そして私が食事を終えるまで待つと言って、ベッドの端にちょこんと腰掛けた。
香り高いクリームスープに、焼きたての温かいパン。焼きたてのパンを口にするなんて、いったい、いつぶりだろう。
私はハヤンの口にも、パンを小さくちぎって少しずつ食べさせた。
「おいしい……」
ハヤンはパンをもぐもぐと頬張り、この世の終わりかと思うほど幸せそうな顔をしていた。
「契約を結ばれたと聞きました。」
頬杖をつきながら私とハヤンの様子を眺めていたメルシーが、ふいに口を開いた。
私はすぐにうなずいた。
「準備はどうするつもりですか?」
「王子様と離れている一か月の間に、魔法を独学で勉強してみようと思っています。」
本当は独学ではなく、メルシーに教えてもらいたかった。私は彼女の様子をうかがいながら、おずおずと言葉を続けた。
「でも、私は何も知らないので、魔法使いのメルシーに教えてもらえたら本当に助かるんです……。この一か月、私は完全に首都を離れるので。」
「……そうですね。」
メルシーは真剣な表情でしばらく考え込むと、ぽんと手を打った。
「それなら、私も一緒に行きましょうか?」
「……魔法使いがですか?」
メルシーは、それが何か問題でもあるのかというように目をぱちぱちさせた。
いや、反乱が終わってまだどれくらいしか経っていないというのだろう。
「殿下がうまく何とかしてくださると思いますよ。むしろ私がお姉さんと一緒に行くと言えば、両手を広げて歓迎してくださると思います。」
「でも……」
「心配する必要なんてまったくありません。」
私の不安そうな表情を見たメルシーは、微笑みながらゆっくりと噛み砕くように説明してくれた。
アルバートが隠していた魔法の才能が明らかになり、その圧倒的な力を知った魔法使いたちは、魔塔主であるメルシーと同じように、アルバートを敬い、従うようになったという。
「独学でも十分勉強できるとは思いますけど、魔法使いがそばで教えるのとは違います。それに私は魔塔主ですから。初心者を教えるのも一度や二度ではありません。天才的な才能を持つ殿下とは違って、一人ひとりに合わせた指導ができますよ。」
……高額な家庭教師の売り込みって、こんな感じなんだろうか。
前に私を説得したときと同じように、まるであらかじめ用意していたかのような、よどみのない説明だった。
……ちょっと待って。
「まるで最初から準備していたみたいだ」と思えてきた。
私はメルシーをじっと見つめ、目を細めた。
彼女はびくりと肩を震わせる。そして何も知らないふりをして、ぱっちりと目を見開きながら尋ねた。
「何か問題でもありますか?」
「……メルシー。昨日、王子様にお会いしたんですよね?」
「え、ええ……会いましたけど……」
「私と一緒に行くようにって、おっしゃったんですか?」
「…………」
私の一言で、メルシーは完全に言葉を失った。まさか私が、ここまで核心を突いてくるとは思っていなかったのだろう。彼女は慌てたように頭をかいた。
「正確に言うと、『魔法を教えてほしいと言われたら引き受けてほしい』とはおっしゃっていました。」
メルシーは大きくため息をつきながら白状した。
「それに、私が知る限り、一番上手に魔法を教えられるのは私なんです。伊達に魔塔主をやっているわけじゃありませんから。」
そう語るメルシーの顔には、確かな自信と誇りがあふれていた。
「殿下に申し訳ないと思っているのも本当ですし、この件だけでも埋め合わせをしたいんです。しっかり教えますから。厳しく、ですけど。」
メルシーがそこまで言うのなら、断る理屈はなかった。
結局、私は彼女の申し出を受け入れるしかなかった。
「……よろしくお願いします。」
メルシーは私の手をぎゅっと握り、ぶんぶんと上下に振った。
「こちらこそです!」
屈託なく笑うその顔には、まだ年相応の幼さが残っていた。
「出発は二週間後くらいだと聞きましたけど……そうですよね?」
メルシーの問いに、私はうなずいた。
「はい。それまでにメルシー、私と一緒に王都へ買い物に行ってもらえませんか?」
アルバートとしばらく離れる前に、何か贈り物をしたかったのだ。彼からはたくさんのものをもらったのに、私はまだ何一つ返せていなかった。私が贈ったものはあまりにも少なく、そのことがずっと心に引っかかっていた。
今日メルシーが選んきてくれたドレスのセンスを見る限り、プレゼント選びもきっと上手に手伝ってくれるはずだ。
値段は気にしなかった。どうせ私はこれから領地へ向かう身だ。年金どころか、建物主の夢まで丸ごと叶うほどのお金が手に入るのだから。
買い物をしてお金を使うことを考えると、なんだか胸が躍った。資本主義の世界では、お金はいつだって正義だ。お金を使うことに快感を覚えるのは、人間の本能的な欲求なのかもしれない。
「いつにしますか?」
「メルシーの都合のいい日で大丈夫ですよ。私は当分ここで療養している時間がほとんどだと思いますから。」
メルシーは少し考え込むように眉を寄せた。
「では、来週の月曜日はいかがですか? 今週は片づけなければならない仕事があるので。」
「はい、大丈夫です。」
来週ならちょうどよかった。すぐに連れて行けないことを申し訳なく思ったのか、メルシーはしゅんと口を尖らせた。
「もっと早く行けなくてごめんなさい。ずっと後回しにしていた仕事で、もうこれ以上先延ばしにできなくて……」
「そういう事情なら仕方ありませんよ。」
私の言葉に、メルシーの表情がぱっと明るくなった。
「ですよね? 長い間迷っていた分、今度こそきちんと終わらせようと思うんです。これまでずっと苦しめられてきたことを、きっぱり片づけてしまいたくて。」
メルシーはにっこりと笑った。私はその笑顔を見ながら、なぜだか底知れぬ胸騒ぎを覚えた。
メルシーに手伝ってもらってドレスに着替えた私は、アルバートや貴族たちが集まる席で叙任式を受けた。
塔の周囲にいた兵士たちや、彼自身が証人となり、私の功績が厳かに認められた。すでにアルバートの実力を目の当たりにしていたらしい貴族たちは、口々に感嘆しながら何度も頷いていた。その中には、かつてロストゥラトゥのパーティーで笑いながら噂話をしていた人たちの姿も混じっていた。
こんなに簡単に進めてしまっていいのだろうかと思うほど、叙任式はあっという間に終わった。アルバートが私のために手続きをできる限り簡略化してくれたのだろう。
叙任式を終え、王を迎える場を後にした私は、侍従に連れられて宮殿へ戻ろうとしていた。すると、廊下を足早に歩いてくるリアムと鉢合わせた。
「話があります。」
彼が近いうちに訪ねてくるだろうとは思っていた。侍従はリアムの合図を受けると、一礼してその場を離れた。
私は彼に案内されるまま部屋へ入った。席に着くと、リアムはすぐに口を開いた。
「率直に申し上げます。殿下は、私たちが何をしようとしているのか、すべてごご存じです。」
「…………」
「殿下は、簡単に欺けるようなお方ではないとは思っていましたが……」
そう言ってため息をついたリアムは、昨日戦っていたときよりも、さらに疲れ切った様子だった。先ほどのメルシーの姿が重なる。アルバートがあまりにも優秀すぎるから、その分、側近たちは本当に苦労しているのだろう。
けれど、その話自体はすでに知っていたので驚かなかった。アルバート本人からも聞いていたことだった。
「驚かないんですね。」
「予想はしていました。王子様からも直接聞いていましたから。」
私をじっと見つめていたリアムは、そのまま話を続けた。
「領地と爵位を授与されたそうですね。」
「はい。南部の海辺にある美しい領地を……!」
領地の証書を思い浮かべると、胸が少し高鳴った。ようやく、自分の土地を持ったという実感が湧いてきたのだ。土地だけでなく、領民もいる。もっとも、領地の管理をしてくれる人材はアルバートが手配してくれる予定だけれど。
「南部ですか……」
「首都からはかなり離れていますけどね。」
私の言葉に、リアムは乾いた笑みを浮かべた。心から喜んでいるというより、どこか力のない、諦めを含んだ笑みだった。
……どうしたんだろう?
私は、一瞬本気で彼の頭がおかしくなったのではないかと思った。しばらくして顔を覆ったリアムが、真面目な表情で尋ねた。
「……雪は、お好きですか?」
「え?」
「殿下からできるだけ遠い領地を、と望んでいましたから。南よりは、首都から離れていますが……」
「寒いんですか?」
「……寒いですが、一年中雪の花が美しい場所です。」
リアムの領地よりも寒い場所だなんて。そう思っただけで体がぶるっと震えた。
私は小さな声で尋ねた。
「……南の領地じゃ駄目ですか?」
「……もう無理だ。」
私の問いに、リアムはきっぱりと言い切った。
もう無理ってことは……最初は変更できる可能性があったということだろうか。
「南部の住民の多くは海沿いで暮らしている。その中でも、お前の領地は規模こそ小さいが、海産物が豊富に獲れ、利益も大きいことで知られている場所だ。新しい領主として赴任すれば、必ず人前にも出ることになる……。お前がどこにいるかという噂は、すぐに殿下の耳へ届くだろう。」
リアムの最後の言葉で、私はようやくすべてを理解した。
……アルバートは「自由にしていい」と言っていたけれど、本気で私を手放すつもりなんて最初からなかったのだ。優しく送り出すようなことを言っておきながら、こうして簡単には離れられないように外堀を埋めていたなんて。
そんな中でも、私とアルバートを少しでも引き離そうと、リアムが必死に動いてくれていることが、なんだか切なかった。
一か月くらい、雪国での生活を経験するのも悪くないかもしれない。メルシーに教われば魔法の腕も上達するだろうし、そうなればどこにいてもドラゴンを通じて行き来できるようになるはずだ。
結局、この一か月の私の滞在先は、北の果てにある村に決まった。
アルバートは忙しかった。本当に、とてつもなく忙しかった。
会いたいと思っても、すぐに会える相手ではないのだと改めて実感する日々だった。侍従たちは、「殿下にはお目通りできません」と繰り返すばかり。王になったばかりで、貴族たちをまとめ、民心を安定させるのは簡単なことではないのだろう。頭では理解していたから、私はアルバートを無理に訪ねることはしなかった。
会いたかった。でも、我慢した。
塔からも出られるようになり、領地も手に入れた。私の未来は希望に満ちていた。……まだ出発できていないのが唯一の問題だけれど。
リアムは私を送り出すため、北の村で私が滞在できる家を用意している最中だった。聞けば、その村には深い森に囲まれた湖があり、いつの間にか貴族たちの間で避暑地ならぬ保養地として知られるようになっていたらしい。冬でも凍ることのない青い湖は、多くの人々に名所として親しまれているという。
リアムは、アルバートの目の届かない場所へ私を送り出し、彼がこれ以上私を探せないようにするつもりのようだった。けれど、それが本当にうまくいくのかは、もう私にもわからなかった。
今回の旅立ちは、あくまでもアルバートが私のために与えてくれた休暇なのだから。リアムや私がどれだけ奔走したところで、アルバートの目を完全に逃れるのは難しいだろう。
「ロゼ。」
私の名前を呼ぶと、彼はソファからこちらへ来るように手招きした。細めた目で私を見つめながら、指先だけを軽く動かす仕草まで、まるで一枚の絵のように美しかった。
私は彼の向かいの席に腰を下ろした。
「どうして隣に座らないんだ?」
「だって、そうしたら顔が見えなくなるでしょう?」
アルバートの顔が見たいという気持ちももちろんあった。けれど本当は、彼の隣に座ってしまうと何が起こるかわからない、という理由のほうが大きかった。
忙しい時期だというのに、侍従や側近たちの「会えません」という言葉が嘘のように、彼は毎晩欠かさず私のもとを訪れていた。塔にいた頃から今に至るまで、彼の態度は少しも変わらない。契約書がなくなってからは、むしろ以前より積極的になった。
隣に座れば、私に触れ、口づけをしてくる。彼を押し返すことなんて、私にはできなかった。いざ始まってしまえば、彼はあまりにも上手で、いつも頭が真っ白になってしまうから。だから最初から、何も始まらないように適度な距離を保っていたほうがよかった。一か月という猶予期間を意識しているのか、それ以上踏み込んだスキンシップはしてこなかったけれど、それでも彼と過ごす時間は、平静ではいられないほど甘く濃密なものになっていた。
「それなら、私のほうから行こう。」
私の返事が気に入らなかったのか、アルバートは眉をひそめると立ち上がり、私が驚く間もなく隣へ腰を下ろした。私が身じろぎすると、彼はくすっと笑いながら私の肩に顔を埋める。耳元をくすぐる吐息に、心臓がくすぐられるように高鳴った。
「……どうしても行くのか?」
アルバートはかすれた声でささやいた。私が今もなお、自分から離れようとしているのが寂しいのだろう。ここまで露骨に離れたくないと思ってくれているのを見ると、少し意地悪をしたくなってしまう。
私は彼の後頭部をそっと撫でながら口を開いた。
「……メルシーもつけてくださって、リアム公爵の計画も全部ご存じなんですよね。」
「結局は、お前が逃げられるように手助けしているだけだ。あいつらも皆、お前の味方だからな。」
アルバートはためらいなく言い返した。その口ぶりには、少しも動揺した様子はなかった。
……本人が全部知っている「逃亡計画」なんて、こんなに間の抜けた話があるだろうか。
「それだけ、私がお前を手放せないと思ってくれればいい。」
アルバートの言葉に、私は思わず笑ってしまった。本当に、この人はずるい。そんなことを言われたら、嫌いになれるわけがない。
……でも、アルバートの気持ちに確信が持てたとしても、今回だけは離れて過ごすしかない。何より私は、彼の仕事の邪魔をしたくなかった。アルバートが公私をきちんと分けられる人だということは知っている。それでも、私のせいで無理をしてほしくはなかった。
「リアムが一生queue準備してくれているんですね。……どこへ行くのかもご存じなんですか?」
「いや。リアムが苦労しているのを見て、それ以上は探さなかった。」
「ありがとうございます。そこまでは探さないでください。そうでないと、本当に意味がなくなってしまいますから。」
何より今回が、私にとってアルバートの目を離れられる最初で最後の機会だった。ハヤンとの契約を無事に終わらせる方法も見つけなければならない。
「わかっている。お前が一か月後に私のもとへ戻ってきたら、この一か月という猶予を与えたことを後悔することになるだろう。」
私の言葉に、アルバートは低くうめきながら私の肩に顔をすり寄せた。
やがて肩から顔を上げた彼は、わざとらしく口を尖らせる。同情を誘おうとしている表情だったが、可哀想というより、獲物を前にした猛獣のようにしか見えなかった。
彼は私の耳元でささやく。
「塔には行ってきたのか?」
「いいえ、まだです。中に残してある服を取りに行かないといけないので。」
「……それなら、出発する前に一度塔へ行こう。私もあの塔が恋しかったんだ。」
その言葉を聞いて、私は少し安心した。こんなに広い宮殿にいながら、それでもあの小さな塔の部屋を恋しく思ってくれていたのだから。
それを聞いて、ふとあの塔を思い出した。あの場所には、私と彼しかいなかった。……あんな閉ざされた空間を恋しく思う日が来るなんて、思ってもみなかった。外へ出た今になって懐かしく感じるなんて、本当に現金なものだ。
私は小さくうなずいた。
昼寝から目を覚ましたハヤンが、もぞもぞと私の膝の上に丸くなる。アルバートはハヤンを見ると、露骨に不機嫌そうな視線を向けた。ハヤンも負けじと睨み返す。
この二人の仲は、ますます悪くなっていた。普段は誰に対しても穏やかなアルバートなのに、ハヤンにだけは妙に厳しい。私はハヤンの頭を優しく撫でながら、ため息をついた。
「……ハヤンは、幼い頃に王子様が出会ったあのドラゴンではありませんよね。」
本を読んで知ったのだが、ドラゴンは思っていた以上に人と出会うことが少ない生き物だった。人間に見つかれば契約者になる可能性もある一方で、命を落とす危険も高くなるため、幼いドラゴンほど人間を避ける習性があった。
「そうですね。別のドラゴンなのでしょうけど……どこか不思議と似ている気がするんです。」
私の言葉に、アルバートは目を細めた。
「不思議と似ている、ですか。」
「目つきも、漂う雰囲気も、あのときとよく似ているんです。それに言いましたよね。私は昔からドラゴンが苦手だったって。」
これ以上この話を続けると、また二人が張り合い始めそうだ。私は話題を変えることにした。
「……実は、今日はお聞きしたいことがあるんです。」
私がそう言うと、アルバートはすぐに顔を上げ、少し首を傾げた。
「何だ?」
「……お呼びする時の呼び方は、どうしたらいいでしょうか? 王子様が王になられてから結構経つのに、私はまだ『王子様』と呼んでしまっていて……。」
周囲の人たちは彼が即位してから呼び方を変えたが、私だけは相変わらず「王子様」と呼んでいた。最初の頃は「陛下」と呼んでいたこともあった。でも今では「王子様」のほうがすっかり口に馴染んでしまっている。「陛下」と呼ぼうと思っても、気づけば「王子様」と口にしてしまう。もう癖になってしまっていた。
私の話を聞いたアルバートは、顎に手を当て、しばらく真剣な表情で考え込んだ。
「確かに、呼び方は問題だな。」
どうやら彼も同じことを考えていたらしい。さすがに王をいつまでも「王子様」と呼ぶのはおかしい。本人も気になっていたのだろう。私もそろそろ呼び方を改めなければならない。
「アルバート、と呼んでみろ。」
何を言われたのか理解するまで、一瞬時間が止まった。私は呆然としたまま聞き返した。
「……え?」
顎杖をついたアルバートは、三日月のように目を細めて微笑んだ。その妖しく甘い笑顔は、まるで人を惑わすセイレーンのように私を惹きつけた。
「寝ているときは、ちゃんと呼んでくれるのに。」
――あのとき、起きていたの!?
「今はどうして、口に何か詰め込まれたみたいに黙り込んでいるんだ?」
アルバートは片眉を上げると、私の手の甲を自分の手でそっと包み込んだ。
「二人きりのときくらい、その呼び方でもいいんじゃないか?」
……いや、王様を名前で呼び捨てにする人なんている? もう王子様じゃなくて、国王なのに。私とアルバートがどれだけ親しくなっていても、それはさすがに気が引けた。もし無意識に人前で彼の名前を呼んでしまったら――そのとき周囲がどんな反応をするのか、想像するだけで恐ろしい。
私がきっぱり断ろうと口を開いた、その瞬間。
アルバートの低い声が、甘く耳元に響いた。
「誰かに名前で呼ばれるって、思っていたより嬉しいものなんだな。」
「…………」
「ロゼ。自分の名前が、こんなにも心地よく聞こえるなんて思わなかった。」
優しく名前を呼ぶその声が、春風のように耳元をくすぐった。
彼の言うとおりだった。人の名前を呼ぶという行為には、思っている以上の力がある。彼がいつも「ロゼ」と私の名前を呼ぶたびに、私は胸が高鳴ってしまうのだから。
「人前での呼び方は気にしなくていい。『王子様』と呼びたいなら、そのままそう呼べばいい。お前がそう呼ぶなら、私は何でも受け入れる。」
私の手を撫でる彼の手の温もりに、頬が熱くなった。
「『アルバート』と呼んでみろ、ロゼ。」
甘く低い声が、早く言ってみろとでも言うように私を促す。
「『王子様』なら、すんなり言えるのに……」
「だって、本当に王子様だったんですから」と心の中で言い訳しながら必死に悩んでいると、アルバートは何度も私の名前を優しく呼び続けた。
「難しいなら、命令だと思って呼べ。」
……本当は、私も彼の名前を呼びたかったのかもしれない。「王子様」と呼ぶよりも、名前で呼ぶほうが、もっと近い存在になれた気がするから。
以前の彼への呼び方は「殿下」や「王子様」。そして今は「陛下」。彼を名前で呼ぶ人は、もう誰もいない。
もしかしたら、彼の名前を呼べる唯一の人になれるかもしれない――。そんな甘い誘惑に、私は心を揺さぶられた。
「ロゼ。」
切なげに私を呼ぶその声に、私はついに彼の名前を口にした。胸の中で何度も転がしていたその名前が、息とともに静かにこぼれ落ちる。
「アルバート。」
すっかり夜になっていたのに、彼の表情は昼間の太陽のように明るく輝いた。まさか、こんなに早く名前で呼んでもらえるとは思っていなかったのだろう。大きく見開かれた瞳には、普段は見せない感情が宿っていた。照れくさそうに浮かべた笑みは、まるで少年のようだった。
彼は私の言葉を味わうように、一度目を閉じ、数秒ののちゆっくりと開いた。
「もう一度。」
そっと伸びてきた手が、私の顎を優しく持ち上げる。
「アルバート。」
私はもう一度、彼の名前を呼んだ。
二人だけの呼び方は、私にとっても不思議と心地よかった。恥ずかしかったけれど、彼が私の名前を呼ぶ声に胸が鳴るように、彼もそう感じてくれていたらいいと思った。
「ロゼ、ありがとう。」
「……」
「君のおかげで、生きていてよかったと思えた。」
「……」
「復讐だけではない、生きる意味を与えてくれてありがとう。」
――私こそ、アルバートに出会えて本当によかった。心から、そう思った。
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メルシーとの再会と同行の決定
疲弊しながらもロゼのために大量のドレスを用意したメルシーから、アルバートの魔法の才能が全魔法使いに知れ渡り従っている現状が明かされます。また、アルバートの根回しもあって、メルシーがロゼの1か月の地方滞在に魔法の護衛兼指導役として同行することが決まりました。
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叙任式の完了とリアムによる計画変更
ロゼの叙任式が無事に執り行われた後、リアムから「アルバートは逃亡計画をすべて把握している」と告げられます。当初予定していた南部の領地ではすぐに居場所が割れるため、アルバートの目を少しでも欺こうと、滞在先は急遽、北の果てにある雪深い保養地の村へと変更されました。
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アルバートとの蜜月と「名前」の許し
多忙な中でも毎晩ロゼを訪ねるアルバートは、逃亡計画を知りつつも彼女を手放す気がない執着心を見せます。王となった彼への呼び方に悩むロゼに対し、アルバートは二人きりの時に名前で呼ぶことを求め、ロゼが「アルバート」と呼んだことで、二人は互いに生きる意味を見出すほどの深い絆を確かめ合いました。