こんにちは、ちゃむです。
「余命わずかな赤ちゃん薬師は天才なのを隠さない」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
37話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 焦燥する薬剤商
一週間後。
「黒の森」には、奇妙な噂が広まっていた。
あまりにも広まりすぎて、今では市場の商人たちですら、「え? まだ知らなかったの?」と口にするほど、誰もが知る有名な話になっていた。
『黒の森に、奇跡のような腕前を持つ天才医師が現れた!』
噂はそれだけにとどまらない。
『噂の医師に会えば、不思議な光景を目にすることになる!』
『絶対に驚くな。近づきすぎるな!』
『医師の隣には、とても恐ろしく、それでいて美しい……トッケビがいるのだから』
この大陸には、古くから「トッケビ」と呼ばれる伝説の妖怪の伝承がある。
「まあいいじゃない。あなたを守ってくれる守護者みたいなものだって話もあるし」
「守護者? この土地の伝説の怪物が?」
「うん、そうだよ」
啓院お兄ちゃんは深く頷くと、私(翡流)の目の前にそっと何かを差し出した。
小さく、細かく切られたオレンジ色の物体――ニンジンだった。
「食べない。これ、苦手なの」
「栄養をバランスよく摂れる食事をしてください。できれば新鮮な野菜や果物も食べましょう」
「……」
「どこかのお医者さんがそう言っていたよ?」
私は歯をギリッとかみしめながら、不本意極まりない表情でニンジンを口に放り込んだ。
悔しい……! 自分が前世で患者に言っていたセリフを、まさか今世でそのまま言い返されるなんて。
この一週間で、多くのことが変わった。
まず、最初に訪れたあの薬局を正式に借り受け、そこで正式な診療所を開設した。
赤龍商会は「規模が小さい」と不満を漏らしながらも、診療所の前で長蛇の列を作る患者たちのために、日よけ用の簡易テントを設置してくれた。それだけでなく、割り込みを防ぎ、列を整理するためのガードマン(人員)まで派遣してくれたのだ。
その結果――。
少し大げさに言えば、黒の森中の病人がすべてここに集まったのではないかと思えるほどの賑わいになった。
(まあ、このくらいは予想していたけれどね)
「さあ、今来られた方は名簿に名前を書いてください! ここから先は3時間待ちです!」
「こちらは4時間待ちになります!」
前世(韓国にいた頃)でよく使っていた飲食店の予約アプリを、すべて人の手で再現したらまさにこんな感じになるのだろう。
「ああ、ありがとうございます、お医者様……! あれほど酷かった腰の痛みが、もう嘘のようです! 本当にありがとうございました」
「お代は後で結構ですよ。お大事に」
いつの時代も、人が集まる場所にはトラブルが付き物だ。
何より、あの赤雲河の主、ジョク・ユンハと手を結んだ幼い医師が、飛ぶ鳥を落とす勢いで評判になっていると聞けば……。
利権を狙う薬材商や、敵対勢力が何かしらの嫌がらせを仕掛けてくるのは目に見えていた。
案の定――。
「おい、誰の許可を得てここで商売しているんだ、あ?」
見るからに下っ端のチンピラといった風貌の男が、診療所のドアを乱暴に蹴り開けて入ってきた。
「このお方をどなたと心得る! 武家では名の知れたお方だぞ! ほら、どけ! さっさと道を空けろ!」
そこそこ腕の立ちそうな護衛の武士たちを引き連れ、威勢よく診療所へと押し入ってきた男たち。待合室にいた患者たちが震え上がり、悲鳴を上げて逃げ惑おうとした、その直後――
「ぎゃああああっ!?」
ドン! ドン! と、まるで爆発でも起きたかのような重苦しい衝撃音が響き、チンピラたちは一瞬で建物の外の地面へと叩きつけられた。
(相変わらず百発百中ね)
私は耳を小指でほじりながら、平然とつぶやいた。
「お父様、次からは手足も動かせないようにしておいて。騒がしくて診察の邪魔だから」
「そうしよう」
こうして、私がこの人生で初めて開いた診療所――。
その名も、「黒ビュー診療所」である。
……納得がいかない。
看板を発注するとき、私は確かに自分の名前を「翡流」と言ったのに、なぜか「黒ビュー」で登録されてしまっていた。
診療所を構えたのは城隍里(ソンファン里)。
もともと評判を広めるために始めた活動だったため、ほとんどボランティア同然の格安料金で診察しており、利益などほとんど出ていない。
『私も早く、この体の能力を鍛え直さないとね』
精神(ソウル)の方は十分に成熟しているが、なにせ三歳児の幼い肉体がまだ追いついていない。
それでも、目覚めた当初のように、調合中に薬草を魔力で水浸しにしてしまうような失敗はもうなくなっていた。
それにしても、この一週間でどれだけ多くのならず者がここへ押しかけてきたことだろう。
『俺がこの界隈を仕切るムミョン会の……ごふっ!?』
『誰の許可を得てこの路地で――』
そんな使い古された悪党の決まり文句は、もう耳にタコができるほど聞いた。どこかの悪役養成所で団体割引の講習でも受けてきたのだろうか。予習復習が徹底しているのか、セリフのバリエーションが皆無である。
お父様が現れる悪党どもを片っ端からゴミのように投げ飛ばし、誰も物理的に近づくことができなくなると、連中は今度はやり方を変えてきた。
最初は患者のフリをして紛れ込み、隙を見て他の患者を人質に取ろうとする卑劣な輩まで現れたのだ。
(ようやく、始末しても罪悪感のない相手が現れたかしら?)
流血沙汰になりかけた瞬間、私はかろうじてお父様の拳を止めた。無断侵入程度なら「殺すな」と言ってあるが、無抵抗の病人を人質にするようなゲスは別だ。
しかし、神聖な診療所の中、他のお客様の目の前でスプラッター映画を上映するのは、さすがに教育上よろしくない。
その後の対応は一瞬だった。
ドガッ!
「ぎゃあああっ!? 俺の手、俺の腕がぁあ!」
男は骨の砕ける断膜のような悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちて気絶した。診療所の中で大人しく順番を待っていた老人の背後に忍び寄り、人質にしようとした男だ。
「先生、やりました! ついに、一滴の血も流さずに気絶させることに成功しました!」
弾むような、嬉しそうな声がすぐ隣から聞こえた。
さらりと揺れる茶色の髪に、きらきらと輝く美しいエメラルドグリーンの瞳。
「ごめんなさい。耳にタコができるほど『血は流すな』と言われていましたよね? 次からは、先生の目に入らない路地裏で徹底的に叩きのめします!」
……そう。紆余曲折を経て、とうとう私の「弟子兼助手」として付き従うことに成功した少年、タク・ミンジェだった。
(……今の恐ろしいセリフは、聞かなかったことにしよう)
啓院お兄ちゃんはすでに手慣れた様子で、白目を剥いて気絶した男の足を掴むと、モップのようにずるずると引きずってジョク・ユンハが手配してくれた外の警備員へと引き渡した。
私はこめかみを押さえて、小さくため息をついた。
「何か問題でもあるのか?」
お父様の言葉に、私は力なく首を横に振った。
「ううん。ただ、この子たちの『情操教育』に、この環境は極めて良くない気がして……」
健やかに育つべき輝かしい少年たちが、毎日毎日、ヤクザまがいのチンピラを笑顔で撃退しているなんて、世も末である。
「お前の情操のことを言っているのか? それなら、とっくに手遅れだと思っていたが」
「何を言っているのよ。私はとっくに、精神年齢だけは立派な大人なんだから!」
「……最近の三歳児は、ずいぶんと発音が正確なのだな」
「からかわないでっ!」
私はぷっと頬を膨らませ、くすくすとおかしそうに笑う美少年(ミンジェ)をじろりと睨んだ。
それから、お父様を手招きして抱き上げてもらい、その耳元でひそひそと囁いた。
「ほら、あの子たちが将来、ちゃんとした大人になれるように、英才教育というか……良い環境を――」
「そうじゃない」
お父様は何かを納得したように、こっくりと頷いた。
何が分かったというのだろう。
「幼児教育が足りない、ということだな」
「えっ?」
「すぐ解決してくる」
お父様がすっくと立ち上がろうとしたので、私は慌ててその首にしがみついた。
「何を解決するのよ、何を!?」
「裏路地に放り込んでおけばいい。三日ほど自力で生き延びられるか試してみよう」
「何言ってるのよ! それは教育じゃなくてただの虐待よ!!」
お父様の理屈はこうだった。
どうせ能力者として生まれ、野生の才能を持つあの少年たちは、将来間違いなく武人(あるいは術師)になる。ならば、今から実践で鍛えることこそが、最も効率的で立派な英才教育だ、と。
……うん、脳みそまで筋肉でできている戦闘狂には、私の繊細な「情操教育」という概念が1ミリも伝わらないことだけはよく分かった。
それなのに、あれほど常識人だと思っていた父親のウンドクおじさんまで、息子が不審者を華麗に投げ飛ばす姿を見て、「おお……ミンジェ……!」と感動の涙をボロボロと流しているのだ。
私が「お父さん、息子さんを止めてください」と懇願したというのに。
「父さん……! 私は今、本当に幸せです。生きている実感が湧く、これほど充実した毎日はありません!」
「ああ、ミンジェ……!」
涙を流して抱き合う熱い親子。すると、感動極まったウンドクおじさんが私の前にスライディング土下座をして、
「先生! どうか、愚息の命をあなたに捧げさせてください!」
と、またボロボロと涙を流す始末。
後になって痛感したが、タク・ミンジェもまた……かなり「変わった」性格の持ち主だった。普通の大人しい少年などでは決してない。
(前世で私の敵だった連中も一癖も二癖もある変人ばかりだったけれど、どうして今世の味方まで、揃いも揃ってこんなに個性的(変)な人たちばかりなのかしら……)
ともあれ、本題に戻ると、あのカニンという強欲な薬剤商が仕掛けてくる嫌がらせは、物理的な暴力だけではなかった。
「行政庁の者だ。この場所で診療所を開くための正式な認可証を提示してもらおうか」
「税務署の者だ。正確な納税記録を見せてもらおう」
役人たちがぞろぞろと押しかけてくる日もあれば、法律の網をかいくぐるような難癖をつけられる日もあった。
(でもね、浅はかな人間ども。私はこれらすべて、前々世と前世で『履修済み』なのよ)
三度目の人生は伊達ではない。
とりわけ前世において、私が開いた診療所は、嫌がらせ、政治的圧力、その他さまざまな理不尽な理由で何度も潰されてきたのだ。
『次はどんな嫌がらせが来るかしら? 抜き打ち検査? 営業停止処分?』
私はどんな難題を突きつけられても、まったく動じなかった。
(私なんてね、過去に『患者同士の恋愛もつれによる血みどろの決闘騒ぎ』で診療所を物理的に破壊されて潰したことだってあるんだから。行政の嫌がらせなんて、可愛いものよ)
どうせこいつらの仕掛け、せいぜい一週間程度の命。
世の中にはもっと、背筋が凍るような本物の悪党がいくらでもいる。カニンのような小悪党など、その前ではただの「前座」に過ぎない。
そのうち、彼らも一掃されることでしょう。
それが、いつになるかって?
おそらく――「今夜」あたりね。
・
・
・
黒の森で三番目の規模を誇る巨大薬局を経営する薬剤商、カニンは今、狂いそうなほどの焦燥感に苛まれていた。
「一体全体、どうして何一つうまくいかないんだ……!!」
彼は帝国でも指折りの名門貴族である「シニオン家」から、極秘の任務を命じられていた。
それは、東洋人たちの巣窟であるこの「黒林(こくりん)」を混乱に陥れ、その市場価値を暴落させること。
それさえ成し遂げれば――。
『シニオン領に新設される超大規模市場の、3年間にわたる独占出店権と運営権を与えよう』
という、一介の商人にとっては一生遊んで暮らせるほどの莫大な富を約束されていたのだ。
どうせ、この黒林でトップに君臨することは不可能だった。あの目障りな女、ジョク・ユンハ率いる赤龍商会がいる限り、彼に勝ち目はなかったからだ。
カニンは日頃から彼女と激しく衝突していた。カニン配下の商人たちが東洋人を不当に買い叩き、奴隷のように酷使するのを、ユンハがことごとく叩き潰し、妨害してきたからだ。
カニンは筋金入りの東洋人差別主義者だった。
「奴隷のような連中を、奴隷として扱って何が悪い! 寄生虫の群れめが……!」
仲間同士で集まり、理解不能な独自の言語でぺちゃくちゃと喋る東洋人たち。そんな虫けらどもが群がる市場など、一刻も早く破壊されるべきだと本気で信じていた。
彼はこの計画を必ず成功させ、東洋人寄りの「雅燕家(がえんけ)」にも一矢報い、莫大な利益が眠る約束の地・シニオン領へと旅立つつもりだった。
計画は完璧だったはずなのだ。
シニオン家から事前に多額の賄賂を受け取っていた行政官や税務官も、全員カニンの息がかかった味方だった。
それなのに――。
「……土地台帳から医師の営業許可、薬材の仕入れルートまで、すべて完璧に書類が整っております」
「突っ込みどころが一切ありません。調べれば調べるほど、非の打ち所がないほど模範的な診療所です」
少し前にユンハから盗み出そうとした裏帳簿を奪還するどころか、突然現れたあの「赤ちゃん医師」の診療所の噂ばかりが、燎原の火のごとく市場中に広まってしまった。
しかもあの小娘は、ジョク・ユンハの後ろ盾を得ていることを誇示するように、堂々と営業を続けている。
(あのタク・ミンジェの小僧が死ななかったのも、すべてはあの魔女のようなガキが余計な治療を施したせいだ……!)
あの小僧さえ予定通り死んでいれば、ユンハの精神に致命的な打撃を与え、もっと簡単に赤龍商会を追い詰められたはずだった。
雅燕家に全ての罪をなすりつける作戦も、シニオン家の青写真も、完璧だったはずなのに。
(このままだと……シニオン家への言い訳が立たない。私一人にすべての責任が押し付けられ、切り捨てられるのでは……!?)
カニンは奥歯をギリッと噛み締めた。
だが、今さら引き返すことなどできない。すでに泥舟には乗ってしまったのだ。
「そうだ、まだあの『切り札』が残っている……!」
カニンは執事を呼びつけ、低い声で鋭く指示を出した。
「今すぐ、暗殺者のフェイマンを呼べ。奴を動かすんだ。こう伝えれば、奴ならすべてを理解する!」
「かしこまりました、旦那様」
執事が下がると、カニンは再び豪華な革張りの椅子に深く腰掛け、大きく息を吐き出した。
そうだ。すべては少しずつ、だが確実に崩れ去っていくのだ。あの診療所も、赤龍商会も。
「旦那様、シニオン家からの使者様と、我が商団の重鎮の皆様がお見えです」
「おお! すぐにこちらへお通ししろ!」
やがて彼の豪華な執務室に、数人の男たちが静かに入ってきた。
怯えた様子で肩をすぼめているのは、カニンの配下である商会の幹部や薬剤商たち。そして、その中央に一人、深いローブをまとって顔を隠した男が立っていた。シニオン家から派遣された使者だった。
「いつになったら黒林は片付くのだ?」
シニオン家の使者は、最初から不機嫌さを隠そうともせず、冷徹な声を放った。
カニンは心の中で「偉そうに」と悪態をつきながらも、顔には極上の営業スマイルを貼り付ける。
「我が主君、シニオン公爵閣下は大変ご立腹であらせられる」
「おやおや、それは大変申し訳ございません。ですが、ご安心を」
カニンは机の上から、分厚い秘密の計画書を恭しく差し出した。
「それよりも、こちらの計画書をご覧ください。そちらから送られてきた指令書を元に、私どもでさらに綿密に、確実に黒林を壊滅させる手順をまとめ直しました……」
「送った、だと? 我々が貴様のような下賤な商人に、一体何を送ったというのだ?」
使者の冷ややかな言葉に、カニンの笑顔が一瞬で凍りついた。
(しまった……! こいつら、すでに私に全責任をなすりつけて切り捨てる準備に入っているのか……!)
だが、カニンはここで引き下がるわけにはいかない。一攫千金と、シニオン領での輝かしい未来がかかっているのだ。
「は、はは……。まあ、皆様、まずは落ち着いてお座りください。この『最後の計画』をお聞きになれば、皆様の考えも必ず変わります。必ずや――」
そう。彼には、どんな状況をも一発で覆すことのできる、完璧な切り札(計画)があった。突然現れて好き勝手やっているあの忌々しい小娘も、赤龍商会も、まとめて物理的に排除できる恐ろしい奇策が。
「ふむ。それは、とても残念だな」
突如として、部屋のどこからともなく、聞き覚えのない軽薄な男の声が響き渡った。
「せっかくの完璧な計画も、使う機会がなくなってしまって、実にもったいないなぁ〜」
「っ!? 誰だ!?」
驚いたのはカニンだけではない。
集まっていた商会の幹部たちはもちろん、シニオン家の使者や、影に控えていた護衛の騎士たちまでが一斉に周囲を見回した。
「な、何だ!? どこから声がした!?」
「カニン様、まさか裏切り者を引き入れたのですか!?」
「違う! 私は何も知らん!」
カニンが狼狽する中、その不審な声は、愉快そうに、楽しげに部屋の中に響き渡り続けた。
その瞬間――。
ぽたり。
天井から、床へと一滴の水が落ちた。
ザーーーッ……!!
「な、水!? 雨だと!?」
「ひっ! シニオン家の騎士様、これは一体何事ですか! 部屋の中で雨が……!」
「慌てるな! たかが水だ!」
信じられないことに、密閉された豪華な執務室の天井から、細かい霧のような雨が降り始めたのだ。
カニンがパニックに陥りながら視線を泳がせると、彼の目の前に、うっすらと半透明な「水の幕(スクリーン)」が立ち上った。
「み、水の能力者……!?」
そして、その揺らめく水の幕の向こうに、いつの間にか一人の人物が音もなく立っていた。
黒い旅装束に身を包み、フード付きの黒いマントを羽織った、不気味なシルエット。
「お前たちの『運命』を、今ここで教えてやろうか?」
顔の上半分を漆黒の仮面で覆っていたが、その下からのぞく口元は、にやりと不敵に歪んでいた。
「お前ら、全員ここで『終わり』ってことさ〜♪」
ローブ姿のその男――変装した雅燕家の翡院(お父様)が、低く楽しげに笑った。
「だ、誰なんだお前は!? 衛兵を呼べ! 侵入者だ!」
「えー。それはちょっと困るなぁ」
黒ビュー(変装したお父様)は、ひょいと軽い足取りで歩み寄ると、一番近くで腰を抜かしていた商会の幹部の腹を、容赦なく蹴り飛ばした。
ズドン!!
「ぎゃはっ!?」
男は壁まで吹き飛び、生々しい音を立てて崩れ落ちた。
「せっかくこうして、密かに忍び込んだ甲斐がなくなっちゃうじゃないか♪」
お父様(翡院)の楽しげな口調。どこかいたずらっ子のような響き。だが、その一撃一撃に込められた暴力の質量は、冗談では済まされないものだった。
「ひっ、化け物め! 出て行け!」
「侵入者さん、私ね、実は大した望みなんてないの」
黒いフードの人物は、果敢に飛びかかってきた大柄な護衛の首根っこを左手一本で掴むと、まるで軽いゴミ袋でも捨てるかのように、そのまま天井近くまで軽々と放り投げた。
相手は元武人としての経歴を持つ、腕に覚えのある薬材商だったというのに、赤子同然にあしらわれて床へと叩きつけられる。
「でもねぇ……子どもをいじめるような卑劣な大人だけは、私の『地雷』なんだよ」
「な、何を訳のわからないことを……!」
完全な油断だった。極秘の闇会合だったため、本物の護衛騎士たちはすべて部屋の外の廊下に待機させていたのだ。
(今だ、隙あり!)
その時、混乱に乗じてこっそりと匍匐前進し、部屋の扉のすぐ近くまでたどり着いた一人の商人が、ドアノブに手をかけた。
――いや、かけようとした。
だが、その指先は、目的のドアノブに触れることはなかった。
まるで、目に見えない強固な半透明の壁がそこに存在するかのように、強烈な抵抗に阻まれたのだ。
「え……?」
ぴちゃっ、と、生温かく湿った不快な感触。
商人が気づいたときには、彼の右手はドアノブではなく、空中に出現した「水の球体」の中に深く沈み込んでいた。
「み、水……が、動かない……!?」
商人が驚愕の声を絞り出せたのは、それが最後だった。
ドサッ!!
強烈な衝撃波が商人の脳天を叩き、彼はその場に崩れ落ちた。
弁解の余地もなく倒れた商人の影から、もう一人の男が音もなく姿を現した。
周囲の空中には、無数の鋭い水滴がふわりと静止して浮かんでおり、その中心に、息を呑むほど神秘的で、かつ冷徹なオーラをまとった男が立っていた。
黒い衣、黒いマント。黒ビューと同じ変装を施した、もう一人の黒衣の男――翡郎(翡流おじさん)だった。
翡流おじさんは前髪の隙間から、鋭い獣のような眼光で、生き残っている商人たちを見渡した。
彼の「水の能力」は、物理的な攻撃だけでなく、気配を完全に遮断する隠密行動や、敵を惑わす幻惑の術にも長けている。かつて、雅燕家の闇の任務(暗殺や情報収集)に何度も就いていた頃の血が騒ぐ。
(本当に、久しぶりの『仕事』だな)
しかも今回は、愛する姪(翡流)を害しようとした害虫どもを駆除するため、自分から進んで志願した任務だ。モチベーションがかつてとは段違いだった。
翡流おじさんは少し心配そうな表情で、隣に立つ兄(お父様)をチラリと見た。
(まずいな。兄貴、久しぶりの戦闘でテンションが上がっているが、ここで暴走して本館の奴らに気配を察知されたらすべてが台無しだ。頼むから理性を保ってくれよ……?)
二人は、表で患者たちを騒がせていたチンピラども(お父様が退治した連中)の背後関係を洗うため、陽動と潜入を組み合わせたこの作戦を実行していた。
そもそも、本館からの監視と外出制限がかかっているはずの二人が、なぜ今ここにいるのかといえば……それはもちろん、翡流が完璧なアリバイと脱出ルートを用意してくれたからである。
「時間があまりない。手早く片付けよう」
あっという間に部屋の半分以上の敵を文字通り「掃除」したお父様(翡院)は、のしのしと重い足取りで歩き出した。
「ふぅ、久しぶりに体を動かしたら、肩が凝って仕様がないな」
「く、来るな……! 来るなァ!」
カニンは恐怖のあまり涙と鼻水を流し、床を這いずりながら後ずさった。
頼みの綱であった、シニオン家が派遣した優秀なはずの護衛騎士たちも、お父様の放った一撃であばら骨を砕かれ、床に転がって血を吐いている。
いつの間にか、執務室の高級な絨毯は、男たちの血で真っ赤に染まっていた。
近づいてくるお父様の拳からも、敵の血がぽたぽたと滴り落ちている。
「兄貴、思いっきり暴れたねぇ。相変わらず、手加減という言葉を知らないんだから」
「子どもをいじめるおじさんは、悪魔よりも悪い人だ。そうだろう? 翡流」
「お、お前たち……何者だ。皇室の特務隊か……? いや、違う。そうか……!」
カニンの強欲な脳細胞が、極限の恐怖の中でようやく一つの結論に達した。
「ガキ……あの忌々しい『黒ビュー診療所』の、あの小娘の仲間か!!」
ドンッ!!!
「がはっ……!?!?!?」
カニンの胸部に、お父様の容赦ない蹴りが突き刺さった。生まれて初めて味わう衝撃に、肺の空気がすべて絞り出され、呼吸が完全に停止する。
「何だと……? 誰が『ガキ』だって? この、身の程知らずの生ゴミが」
見下ろしてくるお父様の瞳は、フードの奥で、底知れない絶対的な零度の冷たさを宿していた。
「その薄汚い口、今すぐ耳元まで引き裂いてやろうか?」
苦痛と恐怖にガチガチと歯を鳴らして震えるカニンを放置し、翡流おじさんは床に散らばった重要書類を、素早い手つきで拾い上げた。
カニンは、呼吸ができない苦しみの中で、驚愕に目を剥いた。
「だ、駄目だ……それだけは……!」
それは、彼が先ほど自信満々に提示した、シニオン家との裏取引の証拠、そして黒林を乗っ取るための「最終計画書」だった。
あれを奪われることだけは、何としてでも阻止しなければならない。あの中には、シニオン家が関与している動かぬ証拠、そして彼自身の破滅を決定づけるすべての情報が詰まっているのだから。
カニンは火事場の馬鹿力で、落ちていたナイフを拾って突きだした。
だが、お父様は鼻で笑いながら、紙一重の動作でそれをかわす。
「いやぁ、少しは運動したほうがいいですよ、おじさん」
そう言うと、お父様はナイフを持ったカニンの手首を踏み折り、そのまま顔面を床へと踏みつけた。
「口も悪ければ、体も鈍い。これじゃ、お話にならないね?」
「ぐあああっ! ぎゃあああっ!」
「よく覚えておきなさい。あの可愛らしくて美しく、世紀の天才であるあの子に対しては、ただひれ伏して、称賛して崇めるくらいでちょうどいいんだから」
「ぐっ……あ、ああ……っ」
「親御さんから、もう一度しっかりとしつけてもらうんだな。まあ、お前が『生まれ変わってから』の話だけどね? ははっ!」
お父様がカニンを踏みにじりながら楽しげに笑う中、翡流おじさんは手にした書類にざっと目を通した。
精神を落ち着かせるように、柔らかく上体を反らせると、ピピッと軽く口笛を吹いた。
次の瞬間――。
翡流おじさんが立っていた場所めがけて、凄まじい速度の剣撃が振り下ろされた。だが、翡流おじさんはそれを背後に目があるかのように弾き飛ばす。
剣を弾かれ、荒い息を吐きながら後退したのは、シニオン家が派遣した「本物の騎士」だった。
「その手に持っている機密書類を渡せ……!」
翡流おじさんの目が、細い狐のようにいたずらっぽく細められた。
「おや。シニオン家の高位騎士が得意とする、独特の刺突技(突き)だね。相変わらず、有名だけど美しくないな」
「何を言っている……!?」
翡流おじさんは手にした紙の書類で、男の鋭い剣の先端を、まるでハエでも払うように軽く叩いた。
ただの書類の束であるはずなのに、その動きは恐ろしいほど正確で、まるで相手の剣技の軌道をすべて知り尽くしているかのようだった。
「ただの下っ端の連絡員かと思っていたけれど、なかなかの幹部をよこしていたんだね、シニオン家も」
「くだらん戯言を!」
「嫌になるほど相手にしてきたからね。剣の癖を見れば、どこの誰だかすぐに分かるのさ」
翡流おじさんの推測通り、その男はシニオン家直属の「土属性」の能力を持つ、高位の暗黒騎士だった。
「笑っていられるのも、ここまでだ!」
鋭い突きを放ちながら、騎士が床を思いきり踏み鳴らした。
ドォン! と激しい地響きとともに、執務室の石床が砕け、鋭い岩の棘となって黒ビュー(お父様)と翡流おじさんの足を拘束しようと迫る。
「これで終わりだ!」
だが、二人は慌てる素振りすら見せなかった。
翡流おじさんは膝を折る最低限の動作で、首元を狙った神速の横薙ぎを完璧にかわす。
「懐かしいな。昔は毎晩のように、お前たちみたいな刺客が私の寝室に忍び込んできたから、本当に苦労したものだよ」
翡流おじさんは足元を拘束していた岩のトゲを、自らの魔力で一瞬にして粉砕すると、そのまま軽やかに身を翻して着地した。
「やっぱり、無職(自由人)が一番だよ。そう思わないか、友よ?」
間近に迫った、黒衣の男の「仮面の奥の瞳」を見たシニオン家の騎士は、その瞬間、本能的な恐怖で心臓が凍りついた。
「お前は、まさか……あの時の……!」
「また今度ね〜」
翡流おじさんは目を細めて笑った。
「――冷たい牢獄の中で、かな?」
その言葉を反芻した男は、ついにこの侵入者たちの「真の正体」に気づいた。
東洋人の守護者、帝国に仇なす呪われた一族――。
「くっ、雅燕家(がえんけ)の……落伍者どもが……!」
だが、気づいた時にはもう遅かった。
男は全力で間合いを取ろうと飛び退いたが、その着地点の床は、いつの間にか真っ黒な「底なしの水溜まり」へと変化していた。
ガンッ!!!
「ごふっ!?」
水に足を取られ、体勢を崩した騎士の頭部へと、お父様の容赦ない拳が叩き込まれた。騎士は大量の血を吐き、そのまま白目を剥いて完全に沈黙した。
静まり返った室内で、お父様(翡院)は、自分の拳にべっとりと付着した赤黒い血をじっと見つめた。
「真っ赤だな……」
危なかった。
時折、お父様の中に眠る「狂気の発作」は、この生々しい他者の血の匂いや色をトリガーにして引き起こされる。
(そうそう、『認識の問題』なんだ。血を見ても、悪いことばかりを連想しちゃ駄目だよ)
定期的な診察、実の姪である翡流による「カウンセリング」の際、彼女はお父様に優しくそう教えてくれた。それは脳の電気信号の「癖」であり、少しずつリハビリをすれば必ず治る病気なのだ、と。
『ほら、これあげる。お父様とお出かけした時に、一緒に買ったでしょ? きれいでしょ? これも、赤色だよ』
そう言って、小さな三歳の翡流が差し出してくれたのは、折り紙で作られた不器用な「赤い花」だった。
翡流の笑顔のように、暖かく、明るい赤。
『それにね、翡流おじ様も、照れて笑うと顔が赤くなるの。赤いものって、怖いものや悪いものばかりじゃないんだよ、お父様』
だからこれからは、赤いものを見たら、私のことや、赤い折り紙の花を思い出して――。
お父様は仮面の下で顔を覆い、ふっと優しく、穏やかに笑った。
「……はは」
あの幼い姪の、無邪気で、それでいてすべてを包み込むような温かい言葉が、どれほど自分たちの壊れかけた魂を救ってくれたことか。
か弱く小さな姪は、きっと自分自身の偉大さを自覚していないのだろう。
「……本当に、底の知れないお人だ、あの子は」
翡流おじさんもまた、翡流が自分たち親子にどれほどの光をもたらしてくれたかを噛み締めていた。
最近ようやく、心からの笑顔を見せるようになった自分の息子(啓院)。そして、その凍てついた心を溶かしてくれた太陽のような翡流の姿が、脳裏に温かく浮かぶ。
「おーい! 兄貴!!」
我に返った翡流おじさんは、腕を振って合図した。
「何をボーッとしているんだよ。また発作が起きて正気を失ったのかと思って、冷や冷やしたよ! 証拠書類の回収と、部屋の封鎖準備は終わったぞ!」
「……その呼び方は気に入らないな。私はお前の兄ではない」
「はいはい、お兄様。準備完了です! さあ、ずらかるよ!」
翡流おじさんはぶつぶつと文句を言いながら、部屋の窓を開け放った。
「よし、時間ぴったりだ。それより、あの女(ユンハ)はまだ来ないのか?」
荒れ果てた部屋の中で、唯一意識を保っていたカニンは、恐怖で指一本動かすことができなかった。
シニオン家が誇る、あの恐るべき高位騎士が、まるで赤子のように蹂躙され、一瞬で気絶させられてしまったのだ。この黒衣の怪物たちは一体何者なのだ。
その時、ギィ……と不気味な音を立てて、執務室の窓が大きく開いた。
カニンが絶望的な思いで振り返ると、そこには、あまりにも見覚えのある「最悪の顔」があった。
「あら、皆さんこんにちは。お約束の時間通りに到着しましたよ?」
鮮やかな、燃えるような赤い髪。人懐っこい、しかし底知れない悪魔のような笑顔。
素顔を隠すこともなく、堂々と窓から侵入してきたその人物は――。
「ジョク・ユンハ……!!」
「はははは! カニン、実に見ものだったわよ! その無様なザマ!」
赤龍商会の会長が腹を抱えて愉快そうに大笑いする姿を見て、カニンは全身の血が逆流するほどの屈屈感を覚えた。
すべてが順調だったはずなのに、なぜ、どこで狂ってしまったのだ。
ピタリと笑みを収めたユンハは、極低温の鋭い眼光でカニンを射抜いた。
「やられたら、やり返す。目には目を、歯には歯を、よ」
彼女は、血の海のようになった部屋の四隅を指さした。
「そこの頼もしい『黒ビュー診療所』の皆さん? 準備はすべて整いました。あとは、思う存分暴れてくださいな」
ユンハはにっこりと、最高に美しい笑みを浮かべた。
「これまで我が商団が被った財産上の損害、そして精神的嫌がらせのツケは――利息をたっぷり乗せて、そっくりそのまま身ぐるみ剥がして回収させてもらうわ。私だけが損をするなんて、商売人として不公平でしょう?」
ゴゴゴゴゴ……!!!
密閉された室内で、あり得ない「地鳴り」のような轟音が響き渡る。
ユンハが右手を天に掲げると、その手のひらの上で、すべてを焼き尽くす真っ赤な「地獄の炎」がぼうっと燃え上がった。
ドッカーーーン!!!
建物全体を震わせる、凄まじい雷撃のような衝撃。
その直後、豪華なカニン薬局の本部ビルは、一瞬にして激しい紅蓮の炎に包まれ、夜空を真っ赤に染め上げていった。
もちろん、この火災はすべてジョク・ユンハの仕業である。
お父様たちが暴れた物理的な戦闘の痕跡、そして魔力の残滓を、何一つ残さず完全に焼き尽くすための、プロフェッショナルな「仕上げ」だった。
燃え盛る炎の中、ユンハは気を失ったカニンをゴミを見るような目で見下ろし、不敵ににやりと笑った。
「また懲りずに、いつでも仕掛けてきなさい。その時は……今度こそ、一族もろとも地獄の底へ叩き落としてあげるから。――私には、世界一頼もしい『天才お医者様』がついているんだもの」
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「黒ビュー診療所」の開業と大繁盛
主人公の翡流(ひりゅう)(天才医師)は、黒の森の城隍里にて格安の診療所を開設。患者が殺到して長蛇の列ができる一方、用心棒を務める怪力無双の父(翡院)や従順な弟子(ミンジェ)、兄の啓院たちに囲まれ、賑やかで少し過激な日常を送っている。
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裏で暗躍する敵・カニンの陰謀
黒の森を混乱させようと企む悪徳薬剤商のカニンは、帝国貴族「シニオン家」と結託。行政やチンピラを使った嫌がらせが失敗に終わると、シニオン家の高位騎士や暗殺者を動かし、赤龍商会と翡流の診療所をまとめて潰そうと画策する。
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夜の密室襲撃と赤龍商会の報復
カニンたちの極秘会合へ、変装した翡院と翡流おじさん(翡郎)が潜入。圧倒的な武力と魔力でシニオン家の騎士や幹部たちを一蹴して不正の証拠書類を奪還する。最後は赤龍商会の会長ジョク・ユンハがカニンの本部ビルを豪快に焼き払い、完全な報復を果たした。