こんにちは、ちゃむです。
「憑依者の特典」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
148話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 皇太子の悩み
それは、リガレスがまだ幼かった頃の話。
当時、ラビオサ王妃とその二人の息子――レミニンとリガレスは、王宮で決して厚遇されているとは言えなかった。周囲の顔色をうかがいながら、ほとんど王妃の私室に閉じこもるようにして過ごす息苦しい日々。
そんなある日、王宮の外で大々的な祭りが開かれた。
閉じ込められていた幼いリガレスにとって、外の世界は眩いほどの活気に満ちあふれて見えた。
「お祭りに行きたい!」
リガレスは食事もろくに取らず、二日間も母と兄にねだり続けた。母親は断固として反対したが、弟に滅法甘い兄のレミニンは違った。根負けした彼は、こっそり祭りへ連れて行くと約束してしまったのだ。
母親に知られれば大変なことになる。二人の王子はベッドの布団にもぐり込み、小さな頭を突き合わせて極秘の計画を立て始めた。王子たちの人生初の冒険の幕開けだった。
幼いながらも抜け目のない彼らは、まず祭りの情報を教えてくれた顔なじみの侍女を味方につけることにした。金貨を二枚握らせ、王宮を抜け出す手助けと案内役を頼み込んだのだ。
計画は完璧に成功した。
王子たちは侍女の後ろをちょこちょことついて回り、旅芸人の曲芸に目を輝かせ、市場の珍しい品々を眺め、甘い綿あめを頬張った。
これ以上ないほど幸せで、大成功の冒険。
それは、大人になってからも庭園でお茶を飲みながら「あんなこともあったな」と微笑み合える、二人だけの宝物のような秘密の記憶になるはずだった。
しかし、残念なことに――二人の王子が王宮へ帰ることは叶わなかった。
日が暮れた街は、幼い子供にとってあまりに危険だった。ある一瞬の隙に、案内役だったはずの侍女が跡形もなく姿を消した。そして花火の轟音と喧騒に紛れ、王子たちは人さらいたちに拉致されてしまったのだ。
連れて行かれたのは、狂信者たちが占拠する閉鎖的な修道院だった。
暗く悪臭の漂う地下牢には、他にも多くの子供たちが囚われていたが、王家の血を引く二人だけは別の部屋に隔離された。
恐怖に身体を震わせるリガレスを、二歳年上のレミニンは「心配するな」と優しく抱きしめた。兄のいつもと変わらない頼もしい声に、リガレスはかろうじて安心を取り戻すことができた。
だが、彼らを襲ったのは恐怖だけではなかった。
「兄さん、お腹すいたよ……」
「もう少し我慢するんだ、リガ」
配られる食事は一日に二回、それも薄い麦のスープと小さなパンの切れ端だけ。リガレスのお腹はいつも空腹で鳴っていた。最初こそ、兄は「自分は平気だから」と食べ物を譲ってくれた。
しかし、監禁されて四日目が過ぎた頃、優しかった兄の様子が急に豹変した。
「レミニン兄さん、一体どうしたんだよ!」
「……」
レミニンは、リガレスの分の食事まで無理やり奪い取り、残らず平らげるようになったのだ。耐えかねたリガレスが泣きながら殴りかかり、「僕のパンを返せ!」と訴えても、兄は完全に無視した。
弟に背を向けたまま、むせ返り、えずきながらも、何かに取り憑かれたように狂ったように食べ続ける兄。飢えきったリガレスは、やがて指一本動かす力も失い、ただ冷たい床に横たわることしかできなくなった。
(兄さんなんて大嫌いだ。いっそ死んでしまえばいいのに)
焦点の定まらない目で天井を見つめながら、幼いリガレスは本気でそう呪った。
そんなある夜のこと。
レミニンが動けないリガレスを無理やり揺り起こした。みるみるやせ細ったリガレスは、まともに立つことすらできない。そんな弟の口に、レミニンは別に取っておいたパンを押し込んだ。
今さら優しくする兄が憎らしく、吐き捨ててやりたかったが、飢えた身体は正直にパンを噛み砕き、必死に飲み込んだ。
レミニンは何気ない風を装いながら、牢の隅に積まれていた重い石をどけてみせた。そこには、子供一人がようやく通り抜けられるほどの小さな穴が開いていた。
驚くリガレスに、兄は囁いた。この一週間、毎晩この穴から抜け出しては、一人で脱出路を探していたのだと。
その瞬間、リガレスはすべてを察した。
兄が自分の分の食事まで貪り食っていたのは、夜中に動き回るための体力を一人だけでも維持するためだったのだ。幼い胸に渦巻いていた兄への憎しみは、一瞬で溶けて消え去った。
だが同時に、最悪の後悔が押し寄せた。
「……それでも、兄さんが嫌いだ」
「……」
「死んでしまえばいいのに」
「……うん」
リガレスは後年、当時の兄の顔を思い出せないことを、むしろ幸運だとすら思っていた。自分の放ったあまりに酷い言葉に、兄がどんな表情をしたのかさえ思い出せないほど、その瞬間の胸の痛みだけが、生々しい傷跡として心に刻まれていたからだ。
気まずくなったリガレスは言葉を取り消そうとしたが、タイミングを逃してしまった。先に歩き始めた兄の背中を追いかけながら、心の中で必死に誓った。
(ここを出られたら、あれは本心じゃなかったって絶対に伝えよう。この世で兄さんが一番好きだって言おう)
しかし、そんな願いを打ち砕くように、無情にも脱走が発覚した。
「ガキどもが逃げたぞ! 追え!」
松明を掲げた鉱山の監視たちの怒号が響く。二人は必死に走り、ついに外壁へとたどり着いた。厚く高い石壁の根元には、外へと繋がる小さな抜け穴が開いている。
レミニンは急いでリガレスの身体をその穴へと押し込んだ。やせ細った身体は、どうにか身を縮めて這い出ることができた。
「出られた! 兄さん! 兄さんも早く!」
心の中で歓声を上げながら、リガレスは穴の向こうへ手を差し伸べた。
だが――レミニンは動かなかった。まるで、最初からこうなる結末を知っていたかのように。
「私は無理だ、リガ」
「……え?」
その時になって初めて、リガレスは理解してしまった。なぜ兄が一週間、自分を「飢えさせて」いたのかを。限界まで肉を落とし、骨と皮だけにならなければ、この穴を通り抜けることなど不可能なのだ。
知りたくなどない真実だった。
「早く行け。助けを呼んでこい。私はここで待っている」
「兄さん! 兄さんも一緒に!」
「早く行け!」
リガレスが動こうとしないのを見ると、レミニンは冷酷に背を向けた。自分よりたった二歳年上の少年は、弟を逃がすための時間を稼ぐため、そのまま自分の足で監視たちの前へと歩いていった。
それが、リガレスの記憶に残る、兄の最後の後ろ姿だった。
その後、どうやって村へたどり着き、王宮へ生還したのか、リガレスにはほとんど記憶がない。
王宮はすぐさまレカドロ侯爵を最高指揮官として派遣し、首都圏の鉱山を制圧して第二王子を救出するよう命じた。だが、騎士団が現地に到着したときには、すでにすべてが手遅れだった。
誘拐犯である狂信者たちは姿を消しており、血塗られた地下室に残されていたのは、おぞましい生贄の儀式が行われた痕跡だけだった。
「……」
凄絶な回想を終える頃には、リガレスの手の甲に激しい青筋が浮かび上がっていた。だが、その手の骨が砕けるほど強く握り締めることすら、今の彼にはできなかった。
「母上、私は――」
悲しみに満ちた少年の顔が、今にも涙で崩れ落ちそうなほどに歪む。
「――どうしても、自分を許すことができないのです」
——————-
その日の夕方。
第一王子ハデイルは、お抱えの執事を通じて、神聖教の応接室で起きた出来事の報告を受けていた。どうやらリガレス側が、自身の優位を示すために意図的に流した情報のようだった。
「末弟が聖女に王太子妃の座を提案し、しかも聖女はそれを明確に拒絶しなかった、だと?」
ハデイルは思わず失笑した。
王太子妃とは笑わせる。リガレスは、異母兄である自分にその座を譲るような殊勝な男ではない。つまり、リガレス自身が王位に就き、神聖教の聖女を後ろ盾にするという宣戦布告に他ならなかった。
しかも、自分のドレスとエスコートの申し出は冷酷に撥ね退けた聖女が、王太子妃という政治的な提案には前向きな反応を示したという。ハデイルにとっては、これ以上なく不愉快な知らせだった。
「聖女は、あの生意気な帽子男の手を取るつもりか」
ハデイルは王家の長子であるという正統性と、リガレスに比べて温厚であるという外面の良さで支持を集めていた。これといった決定的な弱点のない彼だったが、もしリガレスが神聖教という最大の民衆支持を手に入れれば、一転して不利になるのは明白だった。
ハデイルは不機嫌極まりない顔で側近を睨みつけた。
「ふん、王妃とリガレスが本気で聖女を王太子妃に迎えるつもりなどあるはずがない。聖女は教国の代表だぞ。そんなことも分からないのか」
「教団の箱入り娘たる聖女に、泥沼の政治が分かるはずもありません。生涯、権力争いの真っただ中で牙を研いでこられた第一王子殿下とは、見識に大きな差があって当然でしょう」
「だから私が親切にも助言してやったというのに、あの愚か者め。そんな浅はかな頭で王太子妃など務まるものか」
「せいぜい、使い捨ての駒が関の山ですな」
ハデイルと側近の陰湿な気性は、実に悪く噛み合っていた。
何にせよ、明日の宴で聖女がリガレスと親密に結びついているような姿を貴族たちに見せるわけにはいかない。確実な妨害が必要だった。
そして、そうした陰謀に関して、ハデイルは並外れた残虐な才能を持っていた。十代の頃、すでに目障りな競争相手を一人、表舞台から綺麗に「排除」した実績がある男なのだから。
方法は、実に簡単だった。ラビオサ王妃とリガレス王子の、決して癒えることのない古傷を、大衆の前で容赦なく抉ってやればいい。
「鉱山の狂信者どもに惨殺された、哀れなレミニン兄上の話でも思い出させてやれば、あの親子も少しは頭が冷えるだろう」
「……また、レミニン王子を利用なさるおつもりですか」
「また、だと?」
「……ッ、失礼いたしました」
「言葉に気をつけろ。それにこれは『利用』ではない。『助けてもらう』のだ」
ハデイルの眼差しは、蛇のように鋭かった。それは、自身の過去の痛いところを突かれた者の過剰な反応そのものだった。
「明日、聖女が王室の平穏を願う祝福の祈りを捧げる前に、別の祈りをしてもらうよう仕向けろ。今の王室には、もっと相応しい祈りがあるだろう?」
「それは……?」
主の問いに、王子は酷薄きわまりない歪んだ笑みを浮かべた。
「哀れな亡き王子の冥福を祈ってもらうのさ。最近どうも、あの事件のせいで寝覚めが悪くてな」
——————-
クリスタルに反射した豪華なシャンデリアの光が、視界を眩しく彩る。
華やかな王宮の宴会場には、夏の花のように着飾った貴族たちがあふれ返っていた。その喧騒の中には、教国の聖騎士団員たちと王宮騎士で構成された、見慣れた四人組の男たちもいた。
「酒だ、酒! 今日は飲むぞ!」
「目立たないように飲めよ、イフェイル」
「レイ兄さん、さっきからなんで入口ばかり気にしてるんですか? まさか、誰かを待ってるとか?」
「アイレットがまだ来てないから……いや、何でもない。気にするな」
一方、その少し近くには、妖艶なドレスをまとった黒髪の令嬢ビアンカと、礼服を完璧に着こなした桃色の髪の王宮騎士プリンツの姿もあった。
「プリンツ卿、士官学校の首席卒業というのは伊達ではありませんね」
「え? あ、あの、ビアンカ、どうして急にそんなことを……?」
「王宮の礼法が、あまりに見事でしたから」
「ビアンカに恥をかかせない程度には、必死に身につけましたので……安心しました」
「ヒスペリル公爵家の孫であることも関係しているのでしょうが……」
「えっ?」
「いえ、何でもありませんわ」
その時、会場のすべての注目を集める、高らかな声が響き渡った。
「セレスティド・ビオリン・ビンチェスター王女殿下のご入場です!」
大扉が開かれると同時に、貴族たちは左右へ分かれて美しい道を作り、一斉に深い礼を取った。セレスティドは優雅な足取りで進みながら、真っ直ぐにビアンカのもとへ向かった。二人は表向きは優美に挨拶を交わすふりをしながら、小声で素早く言葉を交わした。
「ビア、昨夜、神聖教の礼拝堂で頼んでおいた『例の件』は?」
「ええ、滞りなく準備を進めておりますわ」
まだ一般の貴族には真意の読めない、不穏な含みを持った返答だった。
それから間もなく、主役級の王族たちが次々と姿を現した。
「リガレス・エジェンル・ビンチェスター王子殿下のご入場です!」
「ハデイル・ルスベン・ビンチェスター王子殿下のご入場です!」
豪華な礼装と煌びやかな装飾に身を包んだ二人の王子が姿を現し、会場の熱気が一段と上がる。そして、真打ちが登場した。
「ラビオサ・アンジェラ・ビンチェスター王妃陛下のご入場です!」
この王国の実質的な最高支配者が、傲然たるオーラをまとってゆっくりと歩み入った。ラビオサ王妃は会場の中央を悠然と進み、黄金と宝石で飾られた至高の玉座へと腰を下ろした。
王妃の「どうぞ引き続き宴をお楽しみください」という一言が告げられると、再び会場には穏やかな音楽と談笑の声が広がった。
だが、ビンチェスター王室の宴において、血で血を洗う王位継承者たちの神経戦を避けて通ることは不可能だった。
ハデイルは何気ない様子で貴族たちの間を抜け、リガレスのもとへ歩み寄った。形式的な挨拶を交わした直後、二人は笑みを浮かべたまま、声を潜めて互いを牽制し始める。
「リガレス、昨日、王宮で妙な噂を耳にしてな」
「噂?」
「お前が王妃陛下の意向に従って、神聖教の聖女に『要請』をしたそうじゃないか」
「それをなぜ、要請ではなく命令のように言うのか分からないがな、兄上」
「兄として心配しているんだよ。その歳になっても、未だに母親のスカートの陰に隠れているなんてな」
「誰かさんのように、母親の庇護すら受けられずに孤立しているよりはマシだろう。どうした? 羨ましいのか?」
「……ろくでなしめ」
「分かっていて、どうしてわざわざ喧嘩を売るんだ?」
年の離れた異母兄は、あからさまにドス黒い敵意を向けてきた。ハデイルはすぐに、用意していた本題を切り出した。
「お前が亡き先王妃(私の母)のことをそんなふうに軽々しく口にするとはな。だが、むしろ喜ぶべきことかもしれない」
「今度は何を言い出すつもりだ」
「もうすぐ、お前と『レミニン』の話も、笑い話にできる日が来るんじゃないか? そうだろう?」
「……!」
リガレスの表情が、一瞬で氷結した。
「黙れ」
「何だ? 相変わらず成長がないな。死んだ人間を呼び戻せるとでも思っているのか?」
「黙れと言ったんだ!」
最悪の挑発だった。怒りで理性を失ったリガレスは、手にしていたグラスの酒をハデイルの顔めがけて投げつけた。だがハデイルは、最初からそれを予測していたかのように、優雅に身をかわした。
「落ち着けよ、弟」
ハデイルは乱れた上着を軽く整えながら、騒ぎに驚いた周囲の貴族たちへ向けて極上の微笑みを浮かべた。善良で理性的な、大人の兄を完璧に演じてみせる。その間も、リガレスの瞳に宿る激しい殺気は少しも収まらなかった。
幸いにも、一触即発だった二人の空気が弾けることはなかった。
会場中に響き渡る朗々とした声が、今宵最も重要な人物の到着を告げたからだ。
「神聖教の聖女、アイレット・ルデルライン様、ならびに聖剣の主、テシリド・アージェント様のご入場です!」
女神のような純白の祭服をまとい、可憐な淡い桃色の髪を結い上げた聖女アイレットが姿を現した。彼女が、白銀の美青年テシリドにエスコートされながら宴会場へ足を踏み入れた瞬間――会場のあちこちから、言葉にならない感嘆の息が漏れた。
まるで神の加護そのものを身に宿しているかのように、聖女は頭の先から足元まで、常人とは一線を画す神秘的な輝きを放っていた。人間の美しさが感嘆を超え、畏敬の念さえ抱かせる。そんな異次元の光景に、高慢な貴族たちも完全に心を奪われていた。
アイレットは会場を堂々と横切り、ラビオサ王妃の前へ進み出て礼を取った。
「このような盛大な宴にお招きいただき、感謝申し上げます、王妃陛下」
「顔をお上げなさい、聖女よ。あなたは我が王室の恩人なのですから」
「身に余るお言葉です」
「あなたの教会がまもなく完成すると聞いています。感謝の印として、王室からも惜しみない支援をさせていただきましょう」
「そうしてくださると信じておりました」
「この宴も、聖女様への感謝をお伝えするために用意したものです。お気に召していただけると良いのですが」
「正直に申し上げますと、このような華やかな場は初めてですので、少し緊張しております」
「おや、そうでしたか」
王妃は傍らに控える侍女たちへ、すっと視線で合図を送った。
すると、まるで最初から決まっていたかのように、王妃の玉座のすぐ隣へ、もう一脚の豪華な椅子が運ばれてきた。それは本来、王族の最高位にのみ許される席だ。何人かの貴族たちが、その意味する絶大な政治的意図を察して小さく息を呑んだ。
「緊張が解けるまで、私の隣でゆっくりお過ごしなさい。宴が終わるまで、ただ見ているだけでも構いませんよ」
「ご厚意に感謝いたします、陛下」
聖女はその席が持つ恐ろしい政治的意味を理解していないのか、あるいはあえて無視しているのか。ただ素直に微笑みながら、ラビオサ王妃に勧められた特等席へ何のためらいもなく腰を下ろした。
王家の一員として扱われる席に聖女が収まったことで、会場が激しくざわめいたのは当然だった。ラビオサ王妃は冷徹な貴族たちへ向けて声を張った。
「どうぞ、引き続き宴をお楽しみなさい」
(余計な詮索や、不満げな視線を聖女に向けるな)という、最高権力者からの無言の圧力だった。
一方、ひとり残された聖剣の主テシリドは、完璧な礼を尽くしてから静かに会場の隅へと下がった。
銀髪の美青年は、まるで精巧な彫刻のように静かに佇んでいる。存在感を消し、背景に徹しようとしているようだったが、神に愛されたその容姿と気品は、隠そうとしても自然と人々の目を惹きつけて離さなかった。
その姿を、遠くからねめつける者がいた。ハデイルとリガレスだ。
テシリドを初めて間近目にしたハデイルが、不快そうに眉をひそめて尋ねた。
「……あれが、噂の聖剣の主か」
「どうした、兄上。興味でも湧いたのか? 聖女は私に取られたから、今度は聖剣の主でも引き込もうというわけか?」
ハデイルは、リガレスの棘のある皮肉を聞き流しながら鼻で笑った。
「いや、何となく気に入らないだけだ」
「ふん……珍しいな。そこだけは意見が一致した」
「そういえば、聖騎士というのは教団から支給される葡萄酒以外、飲酒は厳禁だったな?」
「……ああ、確かそうだったな」
最悪な異母兄弟は、このくだらない嫌がらせにおいてのみ、完璧に意気投合した。彼らが数人の取り巻きの貴族へ冷酷な視線を送ると、その密かな合図を察した貴族たちが即座に動き出した。
表向きは親しげな笑顔と好意を装いながらも、両手には度数の強すぎる毒のような酒を握りしめた貴族たち。彼らは獲物を見つけたハイエナのように、テシリドのもとへ一斉に群がった。
「さあ、聖剣の主殿! 王国との友情のために一杯!」
ルールを盾に断ろうとして、見るからに困り果てる聖騎士の様子を遠くから眺めながら、ハデイルとリガレスは醜く口元を歪めた。
〈うわ、見える? アイレットが隣にいないからって、あの狸たちがテシリドをあちこちから囲んで嫌がらせしてるわ。見苦しいったらありゃしない!〉
(まったくその通りです、アグネス。無理やり酒を飲まされそうになっているテシリドを見ていると、まるで自分が毒酒を飲まされたかのように胸糞が悪くなります。今すぐ駆け寄って全員を殴り飛ばしたあと、ハデイルとリガレスの口にその強い酒を漏斗で流し込んでやりたい気分です。だが、今の私はラビオサ王妃の隣におとなしく座っていなければならない立場……!)
【『魂を裁く天秤』が、さらなる泥沼の展開を期待しています】
【『グルメ評論家』が、極上のドラマを期待しています】
(……なんとなく、この二柱の神が期待している方向性は決定的に違う気がします)
私はテシリドから鋭い視線を離さないまま、隣のラビオサ王妃へ静かに話しかけた。
「王妃陛下。差し出がましいようですが、一つお尋ねしたいことがあります」
「おっしゃいなさい、聖女」
「昨日、陛下は私に『中立を守るように』と強く助言してくださいましたよね。それなのにその後、リガレス王子殿下が陛下の“花婿候補”として私の部屋を訪ねて来られたのは、一体どういうご意図だったのでしょうか?」
「……私の花婿候補だと、すでに分かっていたのですね」
その瞬間、ラビオサ王妃は可笑しそうに笑いそうになった。もっとも、すぐに完璧な鉄の仮面を引き締め、あっさりと言い放った。
「気が変わったのです」
「気が変わった、ですか?」
「ええ。私は権力に目が眩んでいたのでしょう。しかし、だからといって、たった一人の愛息が制御の利かない暴君になっても構わない、というわけではありません。あなたなら、あの子の暴走を抑える手綱になってくれるかもしれないと思ったのです」
「私をそこまで高く評価してくださる理由は何でしょう?」
「聖女だからです」
「はい?」
「今の神聖教の聖女は賢明で、思慮深く、慈悲深い。王家にとって理想的な花嫁だと聞いていますから」
あまりの身勝手な言い分に、思わず私の顔が引きつった。
「申し訳ありませんが、私は王妃陛下が仰るような聖人君子とはほど遠い人間です。むしろ、正反対に近いかと」
「それはそれで悪くありませんね。私の息子を完全に御せるだけの、強い気骨を持った女性だということですから」
「……最初から『私を嫁にする』という結論を決めていて、それに都合よく理由を後付けしているように聞こえるのですが」
「つまり、それほど私が聖女をお気に召したということです」
【『グルメ評論家』が、血みどろの展開からまさかの恋愛相談に発展したことに深く失望しています】
【『世界を救う亡霊』は、色恋沙汰を続けるくらいなら教団に終身結婚禁止令を出すべきだと過激な主張をしています】
【『天機を覗く監察官』が慌てて『世界を救う亡霊』の口を物理的に塞ぎました】
神々の騒音を脳内で遮断し、私は王妃を真っ直ぐ見据えた。
「ご厚意には感謝いたします。ですが、この機会に明確に申し上げますと、私も王妃陛下と無益な敵対をしたいとは思っておりません」
「それなら、選ぶべき答えは一つでしょう。賢明な聖女ならきっと正解を当てられると信じていますよ」
「もし、私が陛下の望む正解を当てられなかったら?」
「その時は――」
ラビオサ王妃の恐ろしく冷たい手が、私の手をそっと、しかし逃がさないように包み込んだ。
「その時は、私はあなたにとって生涯最大の敵になるでしょう。あなたが世界のどこにいようと、何をしていようとね」
そう言い終えると、彼女は私の目をじっと覗き込んできた。この脅迫に対する私の動揺を、睫毛の震え一つすら見逃すまいとする執念の視線だった。
私は一拍おいて、淡口を開いた。
「はい。今後の参考にさせていただきます」
「……」
「それにしても、ずいぶん手が冷たいですね。私が帰る前に、血行を劇的に良くする最高級のポーションを調合して差し上げましょうか?」
「……ふっ、そうですね」
ラビオサ王妃は呆れたように手を離し、小さく息を吐いた。それは完全な呆れか、あるいは彼女が見せた、初めてのわずかな苦笑だったのかもしれない。
「それにしても、聖女」
「はい、王妃陛下」
「あなたは視線があまりにも正直すぎます。お世辞にも王宮の化かし合いで暮らすには向いていませんね」
「……あ」
そんなに分かりやすかっただろうか。テシリドを囲んでニヤついているクソ貴族たちの顔を「全員呪い殺す」という勢いで睨みつけるのに夢中で、つい表情に怒りが出てしまっていたらしい。振り返ると、王妃はどこか冷めた、しかしすべてを見透かしたような目でこちらを見ていた。
――これは良くない傾向だ。王族の誰かが私やテシリドに執着し始めているとなれば、それは間違いなく、さらなる厄介事の前触れだ。少し予定より早いが、今すぐこの場で王家の平穏を願う『祝福の祈り(強制イベント)』でも捧げて、さっさと話を切り上げた方がよさそうだった。
そのときだった。
王妃との会話が強引に途切れた。傍らの筆頭侍女が血相を変えて近づき、王妃の耳元へ何やら予定外の、そして重大な報せを耳打ちしたのだ。
「王妃陛下、大変です。聖皇庁の『追加使節団』が、今まさに緊急の謁見を求めて大門前に到着いたしました」
「何だと……? 追加使節団だと?」
冷徹なラビオサ王妃の眉が、初めて驚愕に跳ね上がった。宴会場の空気が、再び不穏な波を立てて変わり始めていた。