こんにちは、ちゃむです。
「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
161話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 友達
うららかな秋晴れの日。開け放たれた窓から、一羽の黄色い蝶がひらひらと部屋に飛び込んできた。
蝶は部屋の主人であるエステルの周りを気ままに飛び回っていたが、キャンバスに向かって絵を描くことに夢中な彼女は、まったく気づく様子がない。
その代わり、彼女の隣で仰向けになり、無防備にお腹を見せて転がっていた猫のチーズが、鼻をひくひくさせて反応した。
「ニャー」
チーズは蝶を捕まえようと勢いよく立ち上がり、部屋中をあちこち駆け回った。しかしその途中、ソファの上で気持ちよさそうに眠っていたシュールの後ろ足を思いきり踏んづけてしまう。
「シュイッ!!」
不意を突かれたシュールは全身の毛を逆立て、体を大きく膨らませてチーズを威嚇した。チーズも負けじと猫パンチを繰り出そうとした――その瞬間、視界の端を蝶が掠めた。チーズは威嚇も忘れて「フダダッ」と音を立てながら、再び蝶の後を追いかけて走っていった。
取り立てて奇妙なこともない、毎日のように繰り返されるエステルの部屋の日常風景だった。
「ここ、もう少し濃く塗ったほうがいいかな……」
絵の具がつかないようエプロンを身につけ、両腕にアームカバーまで装着したエステルが、首をあちこちに傾げながら独り言を呟いた。筆を止め、キャンバスを見つめるその眼差しは、真剣そのものだ。
十二歳。初めてこの家にやってきて絵を描いた頃と同じように、彼女の瞳は今も変わらず澄んだ黄金色に輝いていた。
だが、時の流れとともに十八歳となった今――その姿は、当時とは比べものにならないほど美しく成長を遂げていた。
同年代の少女たちよりも背が低く華奢だったエステルは、この数年ですらりと背が伸び、立ち姿のラインも洗練された。幼かった頬の丸みも落ち、成長するにつれて帝国内でも指折りの美貌と称されるまでになった。今のように絵に没頭している姿を目にすれば、誰もが思わず足を止めて見惚れてしまうほどである。
「いつの間に、こんなにも立派になられたのでしょう……本当に嬉しく思います」
童話に出てくるお姫様のように美しいエステルを、侍女のドロシーは感無量といった面持ちで見つめていた。やがて一人で胸がいっぱいになったのか、「ずびっ」と大げさに鼻をすすった。
その音を聞きつけたエステルが、大きなキャンバスの横からひょっこりと顔を出した。
「ドロシー? いつ来たの?」
「つい先ほどです……ぐすっ」
ドロシーは懸命にハンカチで目元を拭っていたが、涙など一滴も流れておらず、ただ音だけが大袈裟だった。自分の気を引くための芝居だと察したエステルは、苦笑しながら筆を置いた。
「最近、どうして私の顔を見るたびに泣くの?」
「だってお嬢様を見るたび、感慨深くなってしまうのですもの。あのお小さかったお嬢様が、もう十八歳になられるなんて……ううっ」
「もう。お父様もお兄様たちもそうだけど、あなたまで私を子供扱いするのね。……分かったから、何の用か教えて。手に何を持っているの?」
「まあ、こちらをご覧ください。これ、全部お嬢様への招待状なんです」
ドロシーが鼻を鳴らしながら差し出した籠の中には、色とりどりの封筒に入った手紙がぎっしりと詰まっていた。
「招待状? これが、全部……?」
「ええ。お茶会から社交界の慈善行事まで、実にさまざまですよ」
あまりの量にうんざりしたエステルは、ふぅとため息をついて視線を逸らした。その横顔には、すっかり大人びた気品が漂っている。
「今年に入ってから、やけに招待状が増えた気がするんだけど……気のせいかしら?」
「いいえ、気のせいではありません。実際に爆発的に増えております」
「どうして?」
「今年はお嬢様がデビュタント(社交界デビュー)をお迎えになるからです!」
ドロシーは「そんなこともお分かりにならないのですか」と言いたげに、もどかしそうに胸を叩いた。
「それが、その人たちと何の関係があるの?」
「大ありですよ! 成人して社交界へ本格的に進出される前に、少しでも親しくなっておこうという魂胆に決まっています」
帝国にただ一つしか存在しない大公家。しかも、無愛想で有名な大公が娘を目の中に入れても痛くないほど溺愛していることは、今や誰もが知る事実だ。さらに神殿や皇室とも深い繋がりを持つエステルと、どうにかして接点を作ろうとする人々で溢れかえっているのだった。
「私、そういうの興味ないわ」
エステルは絵に集中するため、しつこくまとわりつくドロシーの肩をくるりと回して移動させ、ベッドの端に腰掛けさせた。
「全部お断りしてもいいかしら?」
「ええ。展覧会の準備でお忙しいのは重々承知しておりますから」
エステルが目も通さずに即座に断ると、ドロシーは惜しそうにしながらも招待状を片付け始めた。
「承知いたしました。では、お返事はどういたしましょう?」
「いつものように、あなたが書いておいて。お願いね」
ドロシーはため息をつきながら机に向かい、エステルの代わりに返信を書き始めた。どうせどの招待状にも同じような辞退の文面を書くのだから、難しい作業ではない。
そうして手際よく手紙を仕分けていたドロシーが、突然顔色を変えて大きな声を上げた。
「お嬢様! これだけはご覧になったほうがよろしいです!」
「誰から?」
「レオ様からです!」
聞き慣れた名前に、エステルも驚きを隠せずに振り返った。
「レオお兄様が、私に招待状を……?」
「はい。どうぞお確かめください」
ドロシーから受け取った手紙に目を通すと、二週間後に公爵邸でティータイムを開くので参加してほしい、という内容だった。しかし他の招待状とは異なり、どのような趣旨のお茶会なのかは一切書かれていない。
「変ね。レオお兄様は騎士団のお仕事だけでも目が回るほどお忙しいはずなのに……お茶会を開くなんて」
「そうですわね。普通、若い男性が個人でお茶会を開くことなど滅多にありませんし……。ですが、どうせ本日も肖像画の件でお見えになるのでしょう? その際に直接お聞きになってはいかがですか?」
「ええ、そうするわ」
エステルは「うーん」と首をひねりながら、レオからの招待状を机の引き出しに丁寧に仕舞い込んだ。
そして再びキャンバスに向かおうとしたその時、ドロシーが先ほど以上の悲鳴を上げて手にした筆を落とした。
「お、お嬢様――っっ!?」
「きゃっ……びっくりしたわ」
エステルは激しく跳ね上がった胸を撫で下ろし、ドロシーを可愛らしく睨みつけた。
「今度は誰からなの?」
「こ、皇太子殿下です! 半年前にベルキン王国へ発たれて以来、初めて届いたお手紙ではありませんか!?」
「本当にノアから!? 見せて!」
皇太子ノアの名を聞いた途端、エステルの表情が一気に華やいだ。彼女はパッと笑顔になり、ドロシーの手から手紙をひったくるように受け取った。
エステルが真剣に手紙を読んでいる間、じっとしていられなくなったドロシーが周りをうろうろと歩き回りながら尋ねる。
「何と書いておられるのですか? いつお戻りになると――」
「『もうすぐ着く』って書かれているわ。2週間前に向こうを出発したそうだから……本当に、もうすぐ着くみたい!」
「本当ですか!? やったわ、ついにお帰りになるのですね!」
ノアの帰還を知ったドロシーは、自分のことのように大喜びで歓声を上げた。エステルも平静を装おうとしてはいたものの、嬉しさのあまり緩んでいく口元を隠しきれずにいた。
「でも、手紙があまりにも短い……。『もうすぐ会える』って、それだけよ?」
「うーん……あの殿下が、そのような素っ気ないことをなさるでしょうか」
「出発前は『こまめに手紙を書く』って約束したのに、8ヶ月間放置されて届いたのがこれだなんて、信じられる?」
ずっと胸の奥に溜まっていた寂しさが一気にこみ上げ、エステルは腕を組んでぷいっと唇を尖らせた。
「おっしゃる通りです! 今回ばかりは殿下がひどすぎますわ。お戻りになったら、きつくお説教して差し上げてください。簡単に許してはなりませぬ!」
「ええ、絶対そうするわ」
「三ヶ月で戻る」と言っていたはずの旅が八ヶ月に延び、その間ろくに連絡もなかったのだ。理由をきちんと説明してくれるまでは許さないつもりだったが――それでも、手紙をひと目見ただけで胸が高鳴ってしまうのを止められなかった。
その時だった。
――コンコン。
控えめなノックの音が部屋に響き、エステルとドロシーはハッとして壁時計を見上げた。
「レオ様がもういらしたようですね」
「そうね。まだ3時前なのに……とにかくお迎えに行かなくちゃ」
エステルは素早く動き出した。手紙を綺麗に畳んで引き出しに仕舞い、汚れ防止の作業着を脱ぎ捨てる。そしてシュールのクッションの横に置いてあった画材箱を手にとった。未だに部屋を走り回っているチーズに向かって「シッシッ」と追い払う仕草をしながら、彼女は扉の前でぴたりと足を止めた。
「ねえ、ドロシー……私、今髪型おかしくないかしら?」
「いいえ。とってもお美しいですよ」
ふわりとした己の髪が気になったのか、鏡に姿を映しながらブラシでさっと髪を整える。
「よし、行きましょう」
無意識のうちに外見を気にしているエステルの様子を見て、ドロシーは後ろで温かい笑みを浮かべた。
—
同じ頃。
首都からそう遠くない場所にある、帝国南部の港には一隻の巨大な船が停泊していた。
「ようやく帰ってきたか……出発した時は、こんなに長引くとは思わなかったよ」
疲れの色の滲む目で港の景色を見回しながら、ノアが船のタラップを降りてきた。
「やはり皇宮には、まだ我々の到着が届いていないようですね。お迎えの者が誰一人おりません……」
「予想通りだろ」
ノアは気にする様子もなく、荷物を港に待機させていた馬車へ積み込むよう使用人たちに命じた。しかし持ち帰った荷物が膨大なため、馬車が足りない。手配した商団の馬車が到着するまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
「お前はここで待っていてくれ。馬車が来たら荷物を全部積んで後から追ってきてほしい」
「私一人でですか? 殿下はどうされるのですか?」
「少し、寄るところがある」
どこか落ち着かない様子のノアを見て、従者のパレンは目を丸くした。
「まさか……大公邸へ向かわれるのですか? 皇宮よりお先に?」
「ここからなら、大公邸の方が近いだろう」
「そうだとしても……そこまで急ぐ必要がありますか?」
「8ヶ月も会えなかったんだぞ? 早く顔を見ないと死にそうだ」
大袈裟に言ってみせたものの、ノアの表情は本気そのものだった。その悲壮感すら漂う横顔に、パレンも諦めたように首を振るしかなかった。
「それに……さっきから何だか胸騒ぎがするんだ。私の知らない奴が、エステルに近づいていたらどうする?」
「まさか、そんな。……分かりました。荷物は私が責任を持って皇宮へ運びます。殿下は馬でお向かいください」
「助かる」
ベルキン王国から持ち帰った親善の進物もあるため、信頼できるパレンを港に残し、ノアは近くの厩舎へと向かった。
その間にも、ノアの後ろには大勢の人々が視線を注いでいた。
港の名物である大型船を見に来ていた人々の中でも、ノアの存在感は際立っていた。がっしりと広い肩、すらりと高い背丈、そして遠目からでも目を引く洗練された容姿。
オースティン帝国の法律で定められた成人年齢は十八歳。ノアもエステルと同じく、今年デビュタントを迎えれば晴れて成人として認められる。少年らしさを残しながらも、すでに一人の立派な男性としての色香を纏っていた。
「この馬にしよう」
ノアは厩舎で一番頑丈そうな馬を選ぶと、金貨がずっしりと詰まった袋を店主に投げ渡し、そのまま鞍へと飛び乗った。
「お釣りはいらない。大切に扱え」
「は、はいっ! ありがとうございます、お客様!」
ノアは大公邸へ向けて馬を走らせ始めた。
(もうすぐ会える……エステル)
一刻も早く彼女の元へ駆けつけたいという情熱が、その猛烈なスピードに表れていた。
—
エステルは迎えに来た執事に案内され、応接室へと向かった。
扉を開けると、洗練された高級調度品で彩られた広い部屋の中央で、ソファに腰掛けるレオの姿があった。
レオは扉の開く音に気づいて振り返ると、エステルの姿を見た瞬間にぱっと立ち上がった。そして眩しいほどの笑みを浮かべて彼女を迎えた。
「来たかい?」
「はい。ずいぶんお待たせしてしまいましたか?」
「いや、私が約束の時間より少し早く着いただけだよ」
ちょうど侍女たちが紅茶と焼き菓子をテーブルに並べ終え、退室していった。
応接室にはエステルとレオの二人きりになったが、重苦しい空気はない。レオはこの2ヶ月間、毎週のようにこの屋敷を訪れていたからだ。
最初は人見知りしていたエステルも、毎週顔を合わせて話すうちに、すっかり心を開いていた。二人で何度か外出を重ねるうちにレオはフランクな口調になり、エステルも彼を「レオお兄様」と呼ぶほど親しくなっていたのだ。(もちろん、出かける際は常に二人の兄がガードとして同行していたが)。
「ところで、今日はジュディとデニスが見当たらないね?」
「ジュディ兄様はもうすぐ騎士選抜試験があるので、アカデミーへ行きました。デニス兄様も研究の件で、昨日から国境地帯へ出かけています」
「どうりで家の中が静かなわけだ」
レオは納得したように頷き、紅茶に手を伸ばした。彼が訪れるたびに何かと邪魔をしてきた双子の兄たちがいないのだから、静かに感じるのも無理はなかった。
エステルは楽しそうに雑談を交わしていたが、ふとレオの視線と真っ直ぐにぶつかった。レオはいつもこうして、じっと熱を帯びた瞳でエステルを見つめてくる。
なぜだか無性に喉が渇く気がして、エステルは目の前に置かれたジュースを一気に飲み干すと、逃げるようにソファから立ち上がった。
「あ、そろそろ絵を描かなくちゃ。隣のお部屋へ行きましょう」
「その前に、これを」
レオは立ち上がり、脇に置いてあった大きな花束を差し出した。色鮮やかな花々と瑞々しいグリーンで仕立てられた、実に美しい花束だった。
「毎回、こんな立派なものを買ってこなくてもいいのに……」
「来る途中に素敵な生花店があってね。母上への贈り物を買うついでだから、気にしないでほしい」
「……ありがとうございます」
レオは初めて屋敷を訪れた日から、一度も欠かさずに花束を持参していた。おかげでエステルの部屋の花瓶は、常に彼が届ける季節の花々で満たされている。
「ところで、何か良いことでもあったかい? 今日はいつにも増して機嫌がよさそうだ」
嬉しそうに口元を綻ばせるエステルを見て、レオが不思議そうに尋ねた。
「分かりますか?」
「顔に書いてあるよ」
隠していたつもりだったのに見破られ、エステルは照れくさそうに微笑んだ。
「待ちわびていたお友達から、連絡が届いたんです。遠くへ行っていたのですが、もうすぐ帰ってくるそうで」
「友達? 誰だい? 君が友達の話をするなんて珍しいね」
「私に初めてできたお友達で、一番付き合いが長いんです。とても大切な……」
「……もしかして、男かい?」
「そうです! どうして分かったんですか?」
「……そうか」
「男」だと聞いた瞬間、レオの表情が一瞬だけ暗く陰った。しかし道具の準備に夢中なエステルは、その変化に気づかなかった。
「そうだ、お兄様から招待状をいただいたのですが……突然どうされたのですか? 何のお茶会なのですか?」
「ああ、少し訳があってね。来てくれるかい? 君が来てくれたら本当に嬉しいんだが」
本当は断るつもりだったのだが、まっすぐ自分を見つめるレオの瞳を前にすると、うまく断れなくなってしまう。
「……分かりました。伺いますね」
「約束だよ。楽しみに待っている」
エステルの返答を聞き、レオは隠しきれない喜びを浮かべた。
制作に入るため、エステルは真剣な表情になって鉛筆を動かし始めた。そんな彼女をじっと見つめるレオの目元は優しく緩み、その眼差しは一層熱を帯びていく。
――さらさら。
紙を滑る鉛筆の音だけが静かに響く部屋で、二人の視線が幾度となく交錯する。集中が高まるにつれ、エステルの瞳が神秘的な黄金色の輝きを増していった。
それを見つめていたレオは、うっとりとした様子で呟いた。
「綺麗だ……」
「えっ? 今、何かおっしゃいましたか?」
没頭していたエステルが首を傾げる。レオは無意識に漏れ出た本音に自分自身で驚き、胡乱をごまかすように勢いよく椅子から立ち上がった。
「今日はここまでにしようか」
「えっ、まだ5分しか経っていませんよ?」
「急用があるのを失念していたんだ。もう行かなければ」
「ふふ、お兄様はいつもお忙しそうですね」
毎回やってきては少し会話を交わし、描く時間はたったの10分足らず。そのため作業は一向に進んでいなかった。最初こそ困惑していたエステルも、今ではすっかり慣れた様子でくすくすと笑いながら鉛筆を置いた。
「正門までお送りしますね」
二人は楽しげに談笑しながら、散歩のような足取りで玄関へ向かった。門の前では、騎士が預かっていたレオの愛馬の手綱を握って待っていた。
「レオお兄様、また来週」
「はぁ……エステル」
しかしレオは去り際、何か大きな悩みでも抱えているかのように深くため息をついた。
「行く前に、一つ頼みがあるんだ」
「何ですか?」
驚いたエステルが真剣な表情で見つめ返す。
「絵のことなんだが……できるだけゆっくり完成させてほしい」
「えっ? もう2ヶ月も下絵ばかり描いているのに、これ以上ゆっくりですか?」
「ああ。これでも早すぎるくらいだ」
「できなくはないですが……どうしてですか?」
「絵が完成してしまったら、訓練を口実に君に会いに行けなくなるだろう? 今みたいにね」
「まぁ……お遊びにいらしていたのですか? ふふっ、お兄様がそんなことを考えてらっしゃるなんて知ったら、皆様驚かれますよ」
思いがけない申し出に、エステルは可笑しそうに声を上げて笑った。その笑顔に魅せられたレオも、愛おしさに満ちた眼差しで彼女を見つめた。
「だから、秘密にしてほしい。君と私だけの秘密だ」
レオは人差し指を自分の唇に当てて悪戯っぽく笑うと、すっとエステルの頭へ手を伸ばした。そしてごく自然な動作で彼女の柔らかい髪を撫で、乱れた毛先を丁寧に耳の後ろへと掛け直してくれた。
「では、行くね」
「……あ、はい。お気をつけて」
あまりにも慣れた仕草で触れられ、少し照れたエステルは、ぼんやりと彼が触れた自分の耳元に手をやった。
その時――。
ふと遠くから強い視線を感じ、エステルは視線を右手に向けた。
街道の先、馬に跨った一団が立ち止まり、こちらをじっと見つめている。
(まさか……)
先頭に立つ人物の見慣れたシルエットを捉えた瞬間、エステルの胸が跳ね上がった。かなりの距離があったにもかかわらず、二人には一目でお互いだと分かったのだ。
「本当に……ノアだわ!」
エステルが呆然と立ち尽くしていると、ノアは馬から軽やかに飛び降り、一直線にこちらへと駆け寄ってきた。
二人の距離があっという間に縮まる。ノアはエステルの目と鼻の先で足を止めた。突然の展開にどう反応していいか分からず、エステルは目を丸くしたまま固まっていた。
「出迎えてくれないの? 寂しいな」
ノアは悪戯っぽく目を細めると、両腕を大きく広げた。
「会いたかった……すごく」
そう囁くやいなや、ノアは迷うことなくエステルの身体を力強く抱きしめた。
エステルの身長はちょうどノアの肩あたりだったため、彼女の身体はすっぽりとノアの胸の中に収まってしまった。
「ノ、ノア!?」
驚いたエステルが慌てて彼の胸を押しのけようとしたが、ノアは生き返ったかのような満ち足りた笑顔を浮かべた。
「どうしたの? いつ着いたの?」
「少し前に。港に着いてすぐ、ここへ馬を走らせてきたんだ」
「おかしいわね……あなたが送ったお手紙、今日届いたばかりなのに」
「ベルキン王国は閉鎖的で検閲が厳しくてね。あの手紙も検査だけで一ヶ月近くかかったらしいんだ」
「だから、その間ずっと手紙が一通も届かなかったの?」
「ああ。手紙の流出を防ぐため、渡航許可が出るまでは送る手段がまったく無かったんだよ」
ノアは目尻を下げ、実に申し訳なさそうな顔をしてみせた。
「そうだったのね……8ヶ月も連絡が無いから、すごく心配したんだから」
「どれくらい心配してくれた?」
エステルが少し拗ねたように唇を尖らせると、ノアは目を細めて笑い、腰を落として目線を合わせた。二人の瞳が至近距離で交差する。
ノアは瞬きもせず、じっとエステルの瞳を覗き込んできた。最初のうちは平気を装っていたエステルだったが、熱い視線に耐えかねて徐々に顔が赤くなっていく。
「な、何をそんなにじっと見てるの……?」
「久しぶりに会えたんだ。もう少し見せてくれたっていいだろう?」
当然だと言わんばかりの態度に、エステルは可愛らしく頬を膨らませた。
(変わっていないわね……)
八ヶ月ぶりの再会だったが、ノアの親しみやすい雰囲気は以前と何も変わっていなかった。それに安堵しつつも、目の前にいるノアがどこか格段に大人びて見え、胸がくすぐったくなる。
「エステル」
「なにかしら?」
「……綺麗になったね」
普段から甘い言葉を口にするノアだったが、今日の一言はなぜかいつも以上に心臓に響いた。
「あなたも……すごく格好よくなったわ」
「本当? 嬉しいな」
二人は顔を見合わせ、自然と笑みをこぼした。ただ相手の顔を見ているだけで、溢れる嬉しさを抑えきれなかった。
「……ねえ、もう少し近づいてもいい?」
ノアが髪を掻き揚げながら、少し慎重な声で尋ねてきた。すでに十分すぎるほど近い距離だったが、一体何を聞きたいのか気になり、エステルは首を傾げた。
「いつからそんなこと許可制にしたの?」
「そうか? じゃあ遠慮なく近づくよ。後で文句言わないでね」
ノアが意味していたのは物理的な距離だけではなかったのだが、そうとは知らないエステルは無邪気に頷いた。許可を得たノアは、とびきり眩しい笑顔を咲かせた。
「でもノア、また背が伸びたでしょう?」
エステルは手をかざし、ノアとの身長差を測ってみせた。
「私は2年前から変わっていないのに……なんだか私の方が小さくなっている気がするわ」
「はは、からかってるの?」
「違うわよ。背が高くなって素敵だなって褒めてるの」
ノアは自分をからかうエステルを愛おしそうに見つめていたが、ふと表情を引き締めて尋ねた。
「ところでエステル、さっきの男は誰だい?」
ノアはレオが馬で去っていった方向を鋭い視線で睨みつけた。
「レオお兄様のこと?」
「……お兄様?」
「お兄様」というワードが出た瞬間、ノアの眉間にしわが寄った。エステルがそう呼ぶ相手が限られていることを知っていたからだ。
「ええ。アルニマン侯爵家のご令息よ。侯爵様に頼まれて、彼の肖像画を描いているの」
「いつから?」
「2ヶ月くらい前かしら」
「ずいぶん親しそうに見えたけれど」
「そんなことないわ。まだそれほど親しくは……」
「親しくもないのに『お兄様』なんて呼ぶの? それに……君がお兄様と呼んでいい男は、僕とセバスチャンだけのはずだろう?」
急に詰問するような強い口調になり、エステルは少し戸惑いながら答えた。
「毎週顔を合わせているうちに、流れでそう呼ぶようになったのよ」
「何……? あいつと、毎週会っていたのか!?」
ノアの声が一際大きくなり、そわそわと落ち着かない様子で周囲を歩き回り始めた。自分がいない間に別の男が大公邸をうろついているのではという懸念が、まさか的中していたとは。
「そんなに驚くことかしら?」
「当たり前だろう! 私が留守にしている間、ずっと君の周りを嗅ぎ回っていたんだぞ!」
あからさまな嫉妬を見せるノアに、エステルは思わずくすくすと笑いを漏らした。
「ただの絵のモデルよ。大袈裟だわ」
子犬のようにまとわりついてくるノアの背中を、エステルはぽんぽんと優しく叩いた。
「とにかく、これからは他の男に軽々しく触らせちゃダメだ。髪を撫でるなんて絶対にダメだからね」
ノアは先ほどレオの手が触れていたエステルの髪を、自身の大きな手で上書きするように優しく撫で上げた。
「……で、その絵はいつ完成するんだ?」
「本当ならもう終わっているはずなんだけど……レオお兄様が『ゆっくり完成させてほしい』っておっしゃるの」
「やっぱりな……!」
ノアの確信は深まった。あの男は間違いなくエステルに下心を抱いている。ノアの瞳に険しい光が宿った。
「その絵、一日でも早く完成させてしまって」
「どうして?」
「次から君が絵を描く時、私も横で立ち会っていいかい?」
「構わないけれど……」
今日に限ってやけに子供っぽく振る舞うノアを、エステルは呆れ半分、愛おしさ半分で見つめた。
「そんな変なことばかり言ってないで、あなたの滞在中の話を聞かせてよ。あ、こんなところで立ち話も何だから、中に入りましょう?」
「……いや、私はもう行かなければならないんだ。顔を見に来ただけだから」
中に入って二人きりになりたい気持ちは山々だったが、まずは皇宮へ戻り、蓄積した公務と帰還の報告を片付けなければならなかった。
「せっかく会えたのに、もう行っちゃうの?」
エステルは名残惜しそうに、つま先で地面をちょんちょんとつついた。
「その代わり、大至急仕事を終わらせるよ。一週間後にまた会おう」
「一週間後は……ちょうど神殿へ行く日だわ」
「よかった。じゃあ、久しぶりに神殿で待ち合わせにしようか」
「ええ、楽しみにしているわ」
再会の約束を交わした二人は顔を見合わせて笑い合い、指切りをするように小指を固く絡め合った。
「早く行って。お仕事頑張ってね」
「うん。それじゃあ、またすぐに」
最後まで互いを見つめる瞳には、あふれんばかりの愛おしさと名残惜しさが滲んでいた。
「久しぶりに会えて、本当に嬉しかったな……」
屋敷の自室へと戻ってきたエステルは、一人静かに呟いた。胸の奥からこみ上げてくる温かい笑みを、彼女はもう押し殺すことができなかった。
1. エステルの成長と周囲の環境
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18歳を迎えたエステル: かつて幼かったエステルは、指折りの美人に成長。今年はデビュタント(社交界デビュー)を控えており、社交界からの招待状が急増している。
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絵画への没頭: 展覧会の準備で忙しく、社交界からの招待状はすべて断るよう侍女ドロシーに指示している。
2. レオ(アルニマン侯爵家のご令息)との距離感
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肖像画の依頼: 2ヶ月前から毎週エステルの元を訪れ、肖像画のモデルを務めている。親しくなり「レオお兄様」と呼び合う仲に。
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レオの思惑: 毎回花束を持参し、エステルに好意を寄せる。エステルと会う口実を残すため、絵の完成を「できるだけゆっくりにしてほしい」と頼む。
3. ノア(皇太子)の帰還と再会
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8ヶ月ぶりの帰国: ベルキン王国から戻ったノアは大公邸へ直行し、エステルと久しぶりの再会を果たす。
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ノアの嫉妬と牽制: エステルがレオを「お兄様」と呼び、毎週会っていたことを知って強い嫉妬を見せる。他の男に触れさせないよう牽制し、今後は絵を描く場に自分も同席すると宣言。
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次の約束: 仕事を急いで片付け、1週間後に神殿で再会する約束を交わした。