余命わずかな赤ちゃん薬師は天才なのを隠さない

余命わずかな赤ちゃん薬師は天才なのを隠さない【33話】ネタバレ




 

こんにちは、ちゃむです。

「余命わずかな赤ちゃん薬師は天才なのを隠さない」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【余命わずかな赤ちゃん薬師は天才なのを隠さない】まとめ こんにちは、ちゃむです。 「余命わずかな赤ちゃん薬師は天才なのを隠さない」を紹介させていただきます。 ネ...

 




 

33話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 不器用な抱擁

路地裏の奥に横たわる黒い塊は、何かの毛玉のようだった。私がそっと近づき、ようやく小さな耳と尻尾を見つけて、それが子犬らしいと判断した。

「……こんなに耳の大きい子犬なんているの?」

最初は死んでいるのかと思ったが、よく見ると柔らかな毛がとてもゆっくりと、ぴくぴく動いていた。どうやら衰弱しているだけで、もうすぐ目を覚ましそうな気配だった。

私はバッグの中からそっとハンカチを取り出し、潰されないように慎重にその小さな体を抱き上げた。

『動物を拾うなんて、人生で初めての経験だけど……』

三回目の前世、経験を積もうと必死に薬材市場で働いていた頃のことをふと思い出す。当時、私は家の子どもたちに散々殴られた末に、雨の裏路地へ放り出されたことがあった。

『あんたには、こういう裏路地がお似合いよ。汚くて臭いものね』

嘲笑とともに捨てられたあの日の自分と、目の前の小さな命が重なって見えた。だから、どうしても見捨てることなんてできなかったのだ。

「ここは汚すぎるからね。お家に帰ったら、綺麗に洗って治療してあげる」

子犬を腕に抱き、市場の入り口へと戻ると、両手いっぱいに荷物を抱えたお父さんが、ひどく困ったような表情で立っていた。

「待っていなさいと言っただろう。どこをほっつき歩いていたんだ」

「ふふ、お父さん。ほら、挨拶して? 新しい家族だよ!」

私が照れくさそうに笑いながら腕の中の子犬を見せると、お父さんは呆れたように眉をひそめた。

「……薬草に、兄、それから叔父まで。今度は拾った動物まで育てるつもりか?」

……ちょっと待って。今、何かおかしいものが混ざっていなかった? 私、いつの間に自分の叔父さんまで育てることになっていたの!?

弁解する暇もないまま、私たちは買う予定だったものをすべて揃え、そのまま山を下りることにした。

ところが、家路についた途端、お父さんの様子がどこかおかしくなった。歩調が少しふらつくような……?

『この人、文盲なだけじゃなくて方向音痴でもあるの?』

まるで乗り物酔いでもしたかのように、お父さんの足取りが目に見えて危うくなっていく。夕闇が近づき、紺紺とした空には星屑がぽつぽつと輝き始めていた。

父と私が暮らす家の裏手には、深い山へと繋がる広大な敷地がある。庭と呼ぶには申し訳ないほど木々や雑草が生い茂っているため、さまざまな野生動物がよく姿を見せていた。

『あと数年放っておけば、小さな森になりそうね』

元気になった子犬を走り回らせるにはちょうどいい場所だ。

『たっぷり訓練して、あの生意気な黒豹(黒啓源)のお尻でも噛ませてやろうかしら』

今日市場で買った大量の荷物や、特製の鉄製ケージ、そしてさっき拾ったばかりの子犬まで、すべてお父さんの風の能力によって宙に浮かんだまま運ばれていく。お父さんの能力は、本当にこういうとき便利だ。

私はお父さんの腕の中で大きくあくびをしながら、昼間に市場の倉庫で交わした会話を思い出していた。

『また同じ毒を食べたら、その時は本当に死ぬかもしれない』

私がそう告げた時の、衝撃を受けたチョク・ユナとユンドクおじさんの顔が、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。

『ヒユ、最後に言っていたことは本当なのか?』

歩きながらお父さんが尋ねてきた。

『本当ではあるよ。0.0000001%の確率で死ぬ可能性もあるってだけ。……でもね、万が一でも死ぬ可能性があるなら、それは「死ぬ」って伝えるべきでしょ?』

私が主治医としてついている限り、あの子が死ぬ確率は限りなくゼロに近い。それでもあえて脅すような言い方をしたのには、明確な理由があった。

『こう言えば、彼らは必死になって犯人を探し出すはずだから』

チョク・ユナは今回の件に強く執着し、必ず裏で糸を引く犯人と原因を突き止めるだろう。普通に事実を伝えても調べただろうけれど、あの人は炎の能力者特有の「感情に支配されやすい性質」を持っている。だからこそ、恐怖や怒りで感情を大きく揺さぶって執着させるほうが、ずっと効果的なのだ。

『とにかく、今世ではあの子は死なないわ』

ユンドクおじさんが私の黒(ホク)家を憎む理由もなくなり、チョク・ユナも私との永遠の別れを迎えることはない。

……そして、私がどれだけ尽くしても、最後に拒絶されて受け入れてもらえないなんて悲劇は、この人生ではもう二度と起こらない。

『いいスタートだわ。順調、順調』

これも全部、お父さんが私を信じて一緒に来てくれたおかげだ。私は少し気恥ずかしくなりながらも、お父さんの胸に顔を埋めた。

「お父さん……ありがとう」

なぜか、お父さんからの返事はなかった。不思議に思って顔を上げると、お父さんは何とも言えない複雑な眼差しで、じっと私の顔を見つめていた。本当に、長いこと、瞬きすら忘れたように。

「……お父さん?」

私は胸騒ぎを覚え、お父さんの服の裾をぎゅっと引っ張った。そして無意識のうちに小さな両手でお父さんの頬をつかみ、あちこちに向きを変えて顔色を確かめた。完全に医者としての職業病だった。

お父さんの反応は、あまりにも深刻だった。

「大丈夫? 息はちゃんとできてる?」

「ああ……」

そう答えたものの、お父さんの声はかすれており、宙に浮いていた荷物がピタリと動きを止め、小刻みに揺れ始めた。

『やっぱり、どこか体調が悪いんだわ!』

家まではあと少しの距離なのに。だからちゃんと食事を取ってと言ったのに! もうすぐ家に着くから、すぐに特製の回復薬を一本作ってあげて……。

そこまで必死に思考を巡らせた時、お父さんの体がふらりと大きくよろめいた。胸のあたりが激しく上下しているのが見て取れ、ただ事ではないと確信する。

「お父さん!」

「……大丈夫だ。ただ、少し目まいがしただけ……」

「少しどころじゃないよ! 顔色が真っ青じゃない!」

「もともと、私は肌が白い方だろう?」

「冗談を言ってる場合じゃないでしょ!」

私が声を荒らげると、ふっと熱い息を吐き出すような音とともに、大きな手が私の頭をそっと撫でた。

「医者にここまで心配されるとは、私もまだまだだな」

「今そんなこと言ってる場合じゃ……」

「……何かを、思い出したんだ」

お父さんのその一言に、私はその場で息をのんだ。

今、何て言ったの……?

「少し……いや、かなり動惑している」

「……え? 何を、思い出したの?」

「私は以前……お前を、遠くから見たことがある気がするんだ」

「……っ」

「だが……なぜ私は、あの時お前を前にして引き返したのか。その理由が、うっ……!」

お父さんは激しい頭痛に襲われたように顔をしかめ、ふらつきながらも、私を落とさないようしっかりと両腕で抱きかかえた。その代わり、宙に浮いていた荷物が地面へ次々と大きな音を立てて落ちていく。

『能力の制御に集中できないほど、強烈な負荷がかかっているんだわ』

私の表情が、医者として一気に険しくなる。

「今日、あの市場の親子を見ていて……ふと、そんな気がしたんだ」

お父さんの瞳は焦点が定まっておらず、呼吸も荒い。これは脳への過負荷による発作、あるいは意識を失う前兆かもしれない。私は次の最悪の症状に備えるため、お父さんの首筋に手を伸ばそうとした。しかし、その小さな手をお父さんの大きな手がそっと制した。お父さんは、今までに見たこともないような切羽詰まった表情を浮かべていた。

「お父さん、まずは私を下ろして。状態を見て……」

「私は、本当は……お前にまず、謝らなければならなかったんだ。そうだろう?」

その言葉に、私は思わず言葉を失った。

『いや、ダメよ。この人、今はまともな精神状態じゃないわ』

一瞬そう思ったが、すぐにプロの医者として気持ちを切り替えた。動揺しては診察を誤る。

「分かった。その話は家に帰ってからゆっくり聞くから。まずは私を下ろして」

「お前は、私を恨んでいたはずだ。あんな場所で一人ぼっちで育って……寂しかっただろうに」

いつもとは違う、ひどく弱々しく震える声に、胸の奥がキュッと締めつけられる。

『落ち着いて、黒飛悠。あなたは大陸最高の名医なんだから』

だめだ、せめて最低限の診断だけでもしないと。でも、それはお父さんが私を地面に下ろしてくれなければ触診もできない。私はお父さんの腕の中で必死に身をよじった。

「私は大丈夫だから! 恨んでなんかいないよ!」

「それを判断するのは、お前ではなく私だ!」

お父さんは頑なに私を離そうとしない。辺りを見回したが、家まではまだ少し距離がある。このまま大声で叫べば、家にいるはずの兄さんや叔父さんたちが気づいてくれるだろうか。すぐに助けを呼ばないと……。

『でも、私が離れた一瞬の隙に、お父さんがこのまま倒れたらどうしよう?』

「……お前の名前について、考えていたんだ」

「……え?」

唐突な言葉だった。もしかして、記憶を取り戻させようと私が強く刺激しすぎたせいで、脳の防衛本能が決壊してしまったのだろうか。

『私が欲張りすぎたんだわ……! 急激な脳の覚醒には、必ず強い拒絶反応が伴うのに!』

強い薬も使いすぎれば、かえって病状を悪化させる劇薬となる。医者でありながら、こんな初歩的な反動のリスクを見落とすなんて……!

どうしていいか分からずパニックに陥りそうになった私を、お父さんは愛おしそうに身をかがめ、壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。

「黒飛悠(ホク・ピユ)。いい名前だと思う。よく、名付けられたものだ」

動かなければいけないのに、その温もりがあまりにも切なくて、私は身動きが取れなくなった。

「……幸せになってくれ、ピユ」

その低く掠れた声は、記憶の深い底で聞いた、誰かが私の幸せを心から望んでいた優しい声に、とてもよく似ていた。

「どういうわけか……記憶を取り戻すたびに、私は胸が締めつけられるように苦しいんだ……」

精神的なトラウマと記憶の拒絶。それがこの高熱と発作の原因だった。

「お父さん!!」

お父さんはついに耐えきれなくなったように、その場にどさりと膝をついた。それでも私を地面に落とさないよう、しっかりと腕の中に抱えたまま。

片手で自分の顔を覆い、狂ったように荒い息を吐き出すお父さんの身体は、燃えるように熱く、全身が汗でびっしょりと濡れていた。

『脳への負荷が限界を超えたんだわ』

せめて今、手元に診断魔法を増幅させる道具があればよかったのに。自分の無力さにもどかしくてたまらなくなる。

「お父さん、ごめん! 私のせいで……!」

私はお父さんの服の首元をぎゅっと握りしめた。やっぱり、プライドなんて捨てて大声で兄さんたちを呼びに行かなきゃ。それとも、せめて診察させてほしいから、一瞬だけでも腕を離してよ、お父さん……!

「本当に、大丈夫だ」

私を抱いたお父さんは、安心させるように私の背中をぽんぽんと優しく叩いた。そして静かに深く息を吐くと同時に、地面に落ちていた荷物と子犬が、再びゆっくりと宙に浮かび上がった。

「ちゃんと守らないとな。護衛としての、役目を……果たさなければ」

「……また隊長だの部下だのって言い出したら、本当に怒るからね……っ」

私はお父さんの服の裾をぎゅっと握りしめ、涙をこらえながら必死にそう言った。すると、お父さんは微かに、本当に嬉しそうに小さく笑った。

「そうだな。帰ろう」

お父さんは最後の気力を振り振るって能力を維持し、なんとか我が家へとたどり着いた。そして、玄関の扉をくぐり抜けた途端、緊張の糸が切れたようにその場へ崩れ落ち、意識を失った。

『……死んだのか?』

最悪の思考が過った瞬間、パチン!と私は自分の頬を強く叩いた。

これは前世のトラウマだ。頭に浮かぶ数え切れないほどの患者の死の記憶を強引に振り払い、私はすぐにお父さんの額に手を当てた。

『やっぱりひどい熱……。でも、脈は生きてる』

私は複雑な心境でお父さんの寝顔を見つめた。意識を失って倒れるその直前まで、記憶の混濁に苦しみながらも、荷物を運び、私を抱きかかえ続けていた姿。

『記憶を失う前のお父さんが、どんな人だったのか……今なら何となく分かる気がするわ』

不器用で、頑固で、責任感が強くて、一度決めたことは命に代えても最後までやり遂げようとする、馬鹿正直な人だったのだろう。

私はツンと唇を尖らせた。

『黒飛悠。いい名前だ』

お父さんの言葉が脳裏にリフレインし、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

「記憶を失っている患者のくせに……私にこれ以上、家族の希望なんて持たせないでくださいよ……」

翌朝早く。

新しく葺き替えられた屋根の下で、黒飛ウォン(伯父)は額の汗をぬぐった。

「まったく、あいつめ。家の手入れもろくにしてないのか。雨が降ったらどうするつもりだったんだ?」

「その通りですね、兄さん」

のっしのっしと不機嫌そうに歩いてきたのは、黒飛良(叔父)だった。整った顔立ちをこれ以上ないほどしかめながら言う。

「兄さん、屋根だけじゃなくて壁にも穴がたくさん開いてたぞ? まったく……」

「どうせ、自分一人なら雨に濡れて暮らせばいいくらいに思っていたんじゃないか?」

「相変わらず、極端な弟だな」

今、二人がいるのはお父さん(黒飛フ)の家だった。荒れ放題だった庭や、割れた瓦を新しく葺き替えていたのには、ちゃんとした理由があった。

『大変なことだよ。うちの可愛い姪っ子がこれから住む家なんだからな!』

その時だった。

ガタリと部屋の扉が開き、目を真っ赤に腫らしたビユが姿を現した。小さな手で何度も眠そうに目をこすっている。

その姿を見た黒飛良の表情が一変した。怒りが一気に込み上げる。

「……おい、フのやつ、お前を泣かせたのか!?」

「違うよ……」

ビユはふぁっと大きなあくびをした。

その完全に眠そうな無防備な顔を見て、黒飛良は毒気を抜かれたような表情になり、黒飛ウォンは愛おしそうに笑みを深めた。

「夜明け頃にやっと寝ついたばかりなんだ。そんな小さい子を大声で脅かすな、良」

黒飛良は気まずそうに鼻を鳴らしながら、昨夜の嵐のような大騒ぎを思い出した。

食事中、ビユがなかなか帰ってこないことを心配していた三人の前に、突然、小さな影が飛び込んできたのだ。

『伯父さん! 叔父さん!! 誰かいませんか!? はぁ、はぁ……助けて……お父さんが……っ!!』

泣きながら駆け込んできたビユは、靴すら履いていなかった。いつも他人の体調ばかり気にして、自分のことには無頓着な子が、狂ったように泣き叫びながら助けを求めてきたのだ。顔も体も髪も、お父さんを冷やすための水と、必死に走ってきた汗でぐっしょりと濡れていた。

慌ててフの家へ駆けつけると、お父さんは熱を下げるためにビユが用意した水の中に浸かっていた。

少し落ち着きを取り戻したビユは、開口一番にこう言ったのだ。

『……ここは患者が療養するには、あまりにも不衛生でひどい環境だわ。すぐに直して』

その一言で、黒飛家を代表する実力者である叔父たち二人が、夜通しで大工仕事に駆り出される羽目になったのだ。

病人のお父さんをウォンの広い屋敷へ連れて行けば済む話だったが、黒飛良はため息をついた。

『あの頑固兄貴のことだ。意識が戻ったら、鮭みたいに意地でも自分の家へ戻るに決まってるからな』

兄弟二人は、目を覚ませばまたこの荒れ果てた自宅へ戻ろうとするフの頑固な性格をよく分かっていた。生きることへの執着などまるでないように見える男が、なぜかこの古い家と、庭の大きな木の前だけには異様なまでに執着する理由。

――ペク・アリン。

たったその三文字の妻の名前すら思い出せないくせに、魂に刻まれた執着と未練だけは、今も消えずに残っているのだ。

『自分の娘のことすら覚えていないくせに、大した執着だよ』

黒飛良は複雑な思いで唇を尖らせた。腹は立つが、それでも大切な兄には変わりない。

「……ぐすっ」

不意に、小さな鼻をすする音が聞こえた。

「おい、何だよ!? お前、また泣いてるのか!?」

黒飛良が慌てて顔を覗き込むと、ビユはぷいっと顔をそむけた。

「誰が泣くの。ただ、朝風がちょっと寒いだけ」

不器用な姪の強がりに、黒飛ウォンが慌てて助け舟を出した。

「おっと、うちの小さな家長様が寒がっておられるぞ! 良、早くケウォンを呼んできて薪を運ばせろ!」

「伯父さんが行ってよ、伯父さん!」

「えー、伯父さんはもう腰が痛くて無理だよ。さっきまで屋根の上でたくさん動いてたからね」

昨日、あれほど必死に泣きはらして目を真っ赤にしていたビユの姿を見て、叔父たちの胸は締めつけられるように痛んでいた。あんな冷徹な父親のせいで、どうしてこの小さな子がこんなに苦しまなければならないのか。不憫でならなかった。

『私が言えた義理じゃないがな……』

黒飛良はぼそりと胸の内でつぶやいた。

「おい、チビ。寝かしつけたり面倒を見てもらったりするなら、あんな頑固親父じゃなくて私に任せろ。私のほうがずっと……痛っ!」

「何をくだらないことを言っているんだ、弟よ」

黒飛ウォンが笑顔で良の頭を叩いた。

「いてっ、なんで殴るんだよ! 冗談なのに!?」

本当に、フのやつは世界一の幸せ者だ。娘は信じられないほど可愛くて、そのうえ天才。おまけにこうして寝る間も惜しんで付きっきりで看病してくれる、極上の父親思いときているのだから。

しかも、その一度決めたら曲げない頑固さは、亡くなった義姉(アリン)にそっくりだった。

『天才ってみんな、あんなに頑固なのかねぇ』

黒飛ウォンも同じことを考えていたのか、笑顔を浮かべながらも、どこか静かな眼差しをフの眠る部屋へと向けていた。

『フのやつ、一回くらい雷にでも打たれればいいんだ。その衝撃で、全部思い出せ』

その頃、お父さん(黒飛フ)は真っ暗な精神の闇の中で目を覚ましていた。見渡しても、そこには何もない虚無の空間。

『ここは……俺の、壊れた頭の中か』

何一つ思い出せない、空っぽの間抜けな頭にはお似合いの場所だった。彼は腕を組み、静かに考え込んだ。

こんな暗闇の夢を見るのは初めてではない。だからこそ、彼は冷静だった。このまま待っていれば、そのうち現実の目が覚める。これまでずっと、そうだったように。

……そう、思っていた。

しかし、今回は違った。彼の赤い瞳が不意に細められる。

目の前の暗闇が、急速に歪み、鮮明な形を成し始めていた。

「お父さん! 見てください。この子、咳が止まったんです!」

――ああ、これは昨日市場で見かけた、タク・ミンジェの親子だ。

子どもは病が治ったことが嬉しくてたまらない様子で笑っていた。それは、ビユが起こした奇跡の光景だった。

「足もあまり痛くありません……! お父さん、僕、もう走ってもいいですか?」

「ミンジェ……。やっと、お父さんはお前が笑う姿を見られたんだな……」

涙を流して我が子を抱きしめるタク・ウンドクの姿を見て、黒飛フは何とも言えない不思議な胸の痛みを覚えた。

――人は、他人のためにあそこまで狂おしく喜べるものなのか?

なぜだ? 自分の命よりも大切な存在など、本当にこの世に存在するのか?

自分は感情を失ったのではなく、記憶を失っただけなのだ。だが、感情とは結局、記憶の積み重ねによって生まれ、互いに結びついているものだ。過去のない自分には、その境界線が分からない。

頭痛がして、彼は思わずこめかみを強く押さえた。

ふと視線を下ろすと、その光景を特等席で見つめていた娘(ビユ)の表情が、どこかおかしかったことに気づく。

『……まるで、羨ましそうだ』

どうしてそんな目で、他人の父親を見るんだ?

俺が父親らしくないからか? それは認めざるを得ない。だが、この子には母親がいたはずだろう? 記憶の断片で、自分に妻がいたことも、その妻が亡くなったことも知っている。実感はないが、この子がここまで健気に、元気に育っているのを見る限り、母親が愛情を注いで育ててくれたのではないか。

画面の向こうで、タク・ウンドクが深々と頭を下げた。

『ありがとうございます。本当にありがとうございます……。この子のためなら、私は命だって差し出せます……』

黒飛フは純粋に疑問だった。

――命を懸けられるほどの感情とは、一体どんなものなのだろう。

人間にとって一番大切なのは、結局は自分の命ではないのか。誰か教えてくれないだろうか。

しかし、タク・ウンドクを見つめるビユの、あの今にも泣き出しそうな切なげな表情が、フの凍りついた心を激しく揺さぶっていた。

『なぜ、あんな顔をするんだ』

どう考えても、あのしがない商人よりも、俺のほうが男として、父親として優れている点は多いはずだ。若い。力も圧倒的に強い。金もある……家の床下でもひっくり返せば、国を買い取れるほどの宝物の一つや二つは出てくるだろう。それなのに。

フは複雑な焦燥感のまま、暗闇の中で激しく舌打ちした。

すると、目の前の景色が急激に暗転し、彼はまた別の記憶の奔流へと引きずり込まれていった。新たな光景が広がる。

「オギャー! オギャー!」

「女の子です! 女の子ですよ、ビフ様!」

彼はゆっくりと目を見開いた。

『……娘?』

気づけば、彼の腕の中には、生まれたばかりの小さな赤ん坊が抱かれていた。真っ赤で、しわくちゃで、お世辞にも可愛いとは言えない、壊れそうなほど小さな命。

それなのに、どうしてだろう。この世の何よりも、愛おしかった。

『……私は、いつこんな出来事を経験したんだ?』

胸の奥が焼け付くように熱くなり、引き裂かれるような痛みを覚える。

「……ほら、ご覧ください。あなたの娘さんですよ、お父さん」

産婆のそのか細い声を耳にした瞬間――彼は理由もわからないまま、己の頬を伝う熱い涙を感じた。なぜ涙が流れるのか、自分でも制御ができなかった。周囲からは慌ただしい人々の声と、愛しい誰かのすすり泣きが聞こえてきた。

だが、次の瞬間、周囲の光景は無慈悲に霧散し、腕の中に抱いていたはずの温かな赤ん坊も、するりと指の間から零れ落ちて消えてしまった。

「待て……!」

赤ん坊を捕まえようと必死に腕を伸ばしたが、届かない。それはただの砂のように崩れ去るだけだった。

胸を襲うのは、圧倒的な喪失感と絶望。

『現実でも……絶対に、忘れたくない』

彼は心の底から、呪うように願った。この感情を、この涙の理由を、忘れずに現実の肉体へ持ち帰りたいと。これまでは空っぽの虚空に浮かび上がっては消えていた記憶の欠片を、今度こそこの手で繋ぎ止めてみせる。

『あの子のためなら……命を懸けるほどの価値がある』

彼は再び、涙で赤く腫れたビユの目を思い浮かべた。あの切実さと、自分に向けられた小さな信頼の光を。

黒飛フはゆっくりと目を閉じた。彼がその漆黒の空間から完全に意識を消失させると、主を失った暗闇の空間は、最後に残された「本当の過去」をひとりでに映し出し始めた。

ザーッ――。

空に穴でも開いたかのような、激しい豪雨が降り注いでいる過去の記憶。

巨大な黒家の屋敷の前、冷たい石畳の上で、一人の男が端正に膝をついていた。降りしきる雨が、若き日の黒飛フの身体を容赦なく打ちつけている。

男は黙って、深く深く頭を垂れていた。その赤い瞳は固く閉じられている。

『……どうか、あの子だけは助けてください』

階段の上には、大きな傘を差した一人の女性が立っていた。傘の下で妖艶に口元だけをのぞかせた彼女は、面白そうにくすりと冷酷に笑う。

『その代わり、あなたは何を差し出すの? 黒飛侯』

男は迷いなく、静かに答えた。

『――この命を、あなたにお預けします』

一日後、お父さんは目を覚ました。

私の徹夜の看病のおかげだったのか、あるいは叔父さんたちが環境を劇的に改善してくれたおかげだったのか。

最初に会った時よりも、お父さんの顔色は見違えるほど良くなっていた。

「まずは、お水を飲んで」

私がコップを差し出すと、身を清めて意識を取り戻したお父さんは、寝起き早々、隠そうともせず不機嫌そうに吐き捨てた。

「良のやつらを呼んだのか? 放っておけばよかったものを」

幸いにも、私が怒って手を出す前に、部屋のドアを蹴破って入ってきた大人が二人いた。

「正義の長男パンチ!!」

ゴンッ!と、黒飛ウォン伯父さんの拳がお父さんの頭に綺麗に決まる。

「……っ、お前、病人に何をする!」

「じゃあ僕は、追撃の水爆弾攻撃!」

もちろん、その直後に黒飛良叔父さんが思いきり冷水をぶっかけて、お父さんはおろか、ベッドの横にいた私まで一緒に水浸しになり、最終的に私が二人をこっぴどく叱り飛ばす羽目になった。やっと熱が下がった重病人に水を浴びせるなんて、正気!? また風邪をひいたらどう責任を取るつもりなの!

叔父たちを部屋から追い出し、新しい衣服に着替えさせた後、私はお父さんの前に座った。

「熱が下がって本当によかった。ものすごい高熱だったんだからね」

「そうか……」

何度も経験してきた発作なのか、お父さんは気だるげに軽くうなずいた。

『やっぱり、昨日私が記憶の領域を刺激しすぎた副作用なのかしら……』

私が難しい顔をして反省していると、部屋の中にふわりと心地よい風が吹いた。

「わっ!」

私の体がひょいと宙に浮き、気づけばお父さんの逞しい腕の中に抱きしめられていた。お父さんからは、ほのかに温かいお日様のような香りがした。

「お前も、よく頑張ったな」

耳元で囁かれたその声があまりにも優しくて、私は目をぱちぱちと瞬かせた。お父さんの声がすっかり元通りになり、いつもの強さが戻っていたことが何より嬉しくて、自然と照れくさそうな笑みがこぼれる。

「……もう無理しないで、もっとちゃんと私が作った薬を飲んでね」

「ああ」

胸の奥から、小さな笑い声が響いてきた。

「何も得られなかったわけではないのだ」

「うん?」

実は、この部屋には私たちだけしかいなかったわけではない。ふと視線を向けると、開いた扉の隙間から、黒飛ウォン伯父さんが珍しい生き物でも見るような目でこちらを凝視していたからだ。その隣では、良叔父さんが口をあんぐりと開け、ウォンの腕を何度もバシバシと叩いている。完全にただの野次馬だった。

「……に、兄さん。あの冷徹な黒飛フがあんな顔をするなんて、昔あいつの頭がおかしくなって暴れてた頃以来じゃないか……?」

「うるさいぞ良。兄上が気まずくなってまた刀を抜くだろう」

この人たちは、一体いくつになってそんな小学生みたいな会話をしているのだろう。

私は苦笑しながらお父さんへと視線を戻した。

「どこか、まだ具合の悪いところはある?」

「ない」

お父さんは、私が額に当てていた手をそっと大きな手で握り、ゆっくりと下ろした。

「お前は本当に優秀だな。いや……私の娘は優秀だ、と言うべきか」

目を覚ました途端、どうしてこの人はこんなに感情豊かになってしまったのだろう。やっぱり、夢の中でよほど辛い記憶の追体験をしたのだろうか……。

「……ようやく、お前が生まれた日のことを思い出した」

その瞬間、私の胸がドクンと大きく高鳴った。お父さんは愛おしそうに、さらに力を込めて私を抱き寄せた。

「きっと、嬉しかったのだろうな。ものすごく」

一度だけ、考えたことがある。

韓国で暮らしていた小学生の頃、周りの友達にはみんな両親がいるのに、自分にだけはいないと改めて実感したあの雨の日。どこかで私を産んで、そして捨てたはずの人に、いつか聞いてみたいとずっと思っていた。

――私が生まれた時、あなたたちはどんな気持ちでしたか?

――私が憎くて、忌まわしくて、嫌いだったから捨てたのですか?

黒飛悠(ホク・ピユ)として生まれ変わってからも、生涯その問いを口にすることはできなかった。生きることだけで精一杯だったし、誰もが私のことを「呪われた捨て子」だと言っていたから。

ようやく受け入れ、諦めたはずのその答えが、今になって目の前のお父さんの口から語られようとしていた。

「……置き去りにしてしまって、本当にすまなかった」

お父さんの声は、記憶の底で聞いたあの優しい声ほど完璧ではなかった。記憶がまだ不安定だから、あの頃のお父さんと、今目の前にいるお父さんが完全に一致していないことも分かっている。それなのに、どうして急に、こんなにも私を求めてくれるのだろう。

戸惑いが先に立ち、医者として慎重にならなければいけないと頭では分かっていた。

それでも……心の底から、嬉しかった。

今だけは、前世の古い傷も忘れて、私も素直になろう。

「……お父さん」

温かな胸に頬を預け、そっと小さな声で呼びかけた。自然と幸福な笑みがこぼれてしまう。またこれから過酷な運命に立ち向かわなきゃいけないけれど、今だけは、少しだけ幸せを感じてもバチは当たらないはずだ。

「おお……なんと涙を誘う美しい親子の場面だな、良」

「兄さん、ちょっと静かにしてください。うぅ、姪っ子が健気すぎて感動する……」

「お前、まずはその鼻水を拭いてから言え」

「誰が鼻水垂らしてるって言ったよ!?」

……ああ、感動が台無しだ。

私はお父さんの胸からガバッと顔を上げた。せっかくいい雰囲気だったのに、ドアの向こうのおじさんたちのせいで全てがぶち壊しだった。お父さんも同じ気持ちだったのか、眉間に深い青筋を浮かべ、何とも言えない般若のような表情で入り口を睨みつけていた。

「うるさい。目障りだ、失せろ」

お父さんが冷たく言い放つが、兄弟二人はまったく気にする様子もなかった。

「いやぁ、この次男が雨に打たれながら苦労して、兄上の家をピカピカに直してくれたっていうのに、帰ってきたらこの仕打ちか! うちの一族は本当に薄情者ばかりだよ、ううっ」

ウォン伯父さんは大げさに悲劇の主人公のような身振りを始めた。あの大柄な体で、良叔父さんの背中を叩きながら大笑いしている姿は、ただただ不気味でしかない。

「うわぁぁ、兄さんを泣かせるなんて! 黒飛フ、お前は可愛い姪を何年も放置したうえに、父親としても最低失格だ! うわっと!?」

黒飛良が言い終える前に、お父さんの指先から放たれた目に見えない風の刃が炸裂した。とっさに頭を下げて避けた良の背後の壁が、大きくVの字にえぐれる。

「なんで俺ばっかり狙うんだよ!」と大騒ぎする良を、お父さんは完全にゴミを見るような目で無視した。

「ここでは落ち着いて話もできそうにないな」

お父さんがため息をつく。

「はは……お騒がせしております」

その時、絶妙なタイミングで扉が開き、従兄のケウォン兄さんがお粥の載ったお盆を持って入ってきたことで、その場はようやく静かになった。

賑やかな食事を終えた後、ウォン伯父さんと良叔父さんは自分たちの屋敷へと帰ることになった。伯父さんは息子のケウォンまで一緒に帰らせようとしつこく引っ張っていたが、ケウォンは「ひとまずもう一日だけ、ここに泊まってビユの手伝いをする」と言い張って残ることになった。

「いいか、チビ。黒飛フがまた倒れたり、何かあったら遠慮せず大声で叫ぶんだぞ?」

良叔父さんが帰り際、私の頬をつつきながら言った。

「……うん?」

「何ぼーっとしてるんだ? 昨日みたいに、靴も履かずに俺のところに駆けつけてこいってことだよ! ちっ、この頑固親父が俺を追い出さなければ、ここに一緒に住めたのに!」

「用が済んだなら、さっさと自分の家に帰って寝ろ、良」

お父さんが冷ややかに遮る。なんだか、意識を取り戻してからのお父さんは、叔父さんたちに対する態度があからさまに雑になった気がする。不機嫌さを隠そうともせず、面倒くさそうな態度を全面に出しているのだ。

私はそっとお父さんの前に立ちはだかり、叔父さんを見上げた。

「患者さんは、ケンカしちゃダメだよ」

「……え? でもビユ、お前の父親だって昔、黒叡勲(こくえいくん)と大ゲンカして屋敷を半分壊したって聞いたぞ?」

「うん。でも、これからはダメ」

「……今のは絶対に俺だけが怒られた気がするんだが、気のせいだよな? なあ、この薄情で可愛い姪っ子よ?」

黒飛良は最後まで文句を言いながら、黒飛ウォンに引きずられるようにして帰っていった。

しかし、次に前へ出てきた従兄のケウォン兄さんは、さらにとんでもないことを言い出した。

「黒飛悠。俺は今日、あの裏の森で野宿する」

ケウォン兄さんは大真面目な顔で、雑草の生い茂る裏山の方を指差した。正気なの? どうして快適な部屋があるのに、わざわざそんな危険なところで寝るの?

「うわぁ、気持ち悪い執着だね! そんな過保護なお兄ちゃんは、ビユに嫌われちゃうよ? ねえ、赤ちゃん」

背後から、いつの間にか戻ってきた良叔父さんがまたひょっこり顔を出して茶化す。

「ケウォンお兄ちゃん、ちゃんとお家に帰ってベッドで寝るんだよ。いい子だね?」

私が大人の対応で諭すと、ケウォンは一瞬にして大人しくなった。

「……うん。おやすみ、ビユ」

「じゃあ、長男の僕も一緒にビユの部屋で寝ようか?」

「それはいいよ、別に」

断られたケウォン兄さんは、わざとらしく「しくしく」と嘘泣きをしてみせた。しかしすぐに笑顔に戻ると、まったく悪びれる様子もなく不穏なことを言い残した。

「夜道で、悪い奴らにさらわれないように気をつけてね〜、二人とも」

「……え?」

ケウォン兄さんの言葉は、冗談なのか本気の予言なのか、時々まったく見分けがつかないから怖い。

「冗談……だよね?」

少し引きつった表情で、私は彼らを見送った。お父さんは一緒に門までは来ず、新しく直された家の前に静かに佇み、私とともに彼らの背中をいつまでも見つめていた。

 



 

  • 裏路地での子犬(新たな家族)との出会い

    ビユは不気味な裏路地で耳の大きな子犬を拾います。前世で虐待され裏路地に捨てられた自分自身と重ね合わせ、見捨てることができずに家へと連れ帰りました。

  • お父さんの突然の発作と、明かされた「命を懸けた過去」

    帰路、お父さんは記憶が戻る反動(過負荷)で高熱を出して倒れます。その精神の世界で、お父さんは「かつて娘(ビユ)が生まれた日に流した涙」と、「娘の命を救うために自分の命を差し出した過去」を思い出しました。

  • お父さんの覚醒と、騒がしくも温かい黒家一同の絆

    翌朝、ビユの看病と叔父たちの家財修繕のおかげで目覚めたお父さんは、ビユが生まれた日の喜びを伝え、これまでの放置を謝罪します。叔父たちの邪魔に調子を狂わされつつも、親子が本当の絆を取り戻す第一歩となりました。

 

 

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