こんにちは、ちゃむです。
「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
148話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 強襲、混沌の神殿
「前より、ずっと良い」
暗殺ギルドの責任者であるアルバートは、緑色の髪を無造作に掻き上げながら、鋭い目つきで周囲を睨めつけた。
彼とその部下たちは、神官たちが着ているのとまったく同じ祭服を身にまとい、神官を装って神殿の中に紛れ込んでいた。
「全部で四人、か?」
「チッ……情けない連中だ。見えないのか? 前を歩いてる大物の後ろに、さらに三人控えてる」
アルバートは舌打ちし、唇を歪めながら、ゆっくりと歩みを進める。
その視線は獲物を逃がさぬ狩人のように冷たく、鋭かった。
神殿の静謐な空気の裏側で、見えない牙が、確かに剥き出しになろうとしていた。
歩いていくエスターとその一行を、彼は静かに見つめていた。
「そうですか?」
「そうだ。あれを感じ取れないなら、戦いになどなるはずがない」
「私は感じました、アルバート様」
「私もです」
「それなら、ひとまず安心だな」
ギルド員たちは互いに自分が感じ取れたことを確認し合い、言葉少なに視線を交わした。
「ともあれ、全部で七名だな」
中央神殿の内部には、決められた人数以上の護衛を連れて入ることは許されていなかった。
テレシアから連れてきた護衛の数は本来もっと多かったが、エスターもその制限に合わせ、七名だけを厳選して連れてきていた。
アルバートは、護衛の数が最小限に抑えられている点を評価していた。
「油断するには早い。特に一番後ろにいるあの三人だ。もともと気配が強い連中の中から選ばれている以上、それだけ実力者ということになる」
「……ってわけだ」
「でも、本当に神殿の中で事を起こして大丈夫なんですか?」
「当然、無事で済むわけがない」
「えっ?」
「だが他に手はない。俺たちは標的だけ確保して逃げる。それ以降は……公爵が後始末するだろう」
多少面倒が増えようと、標的を確保できるかどうかは決定的な差だった。
影の騎士がいかに強大かを本能的に察していたアルバートは、外での交戦に勝ち目はないと判断していた。
「さあ、全員準備しろ。もうすぐ始める」
とりわけ神殿内の状況は、アルバートと部下たちにとって好都合だった。
資格試験の影響か、通りを行き交う人影はほとんどなく、神殿を守る聖騎士の数も少ない。
「集中しろ。あの三人だけ注意すればいい」
静まり返った神殿の奥で、見えない刃が音もなく研がれていく。
決行の時は、目前まで迫っていた。
わずか七人のエスターの護衛に対し、周囲を固めるギルド員はおよそ二十名近くに達していた。
数の上では一気に押し切ることも可能な状況だった。
アルバートは部下たちに、それぞれエスターの護衛の中で誰を狙うか、あらかじめ標的を割り振っていた。
「指で合図を出す」
瞬き一つせず、機をうかがっていたアルバートが、ゆっくりと右手を持ち上げる。
そして、完璧な間を見計らい、部下全員に突入の合図を送った。
――今だ。
最前列に立ち、わずかに後方へと身を潜めていた“影の騎士”へ真っ先に駆け出したのは、ほかでもないアルバート自身だった。
ギルドの責任者にふわさしく、彼の動きは群を抜いて速い。
ブラウンズが全幅の信頼を置くに足る実力だった。
走りながらも気配を完全に殺し――
彼の攻撃を受ける影の騎士でさえ、その兆しに気づくことはできなかった。
刹那、木の陰に潜んでいた護衛との距離を一気に詰めたアルバートは、ためらいなく剣を振るう。
空気を裂く一閃が、夜気を切り裂いた。
そのとき、勘の鋭いビクターが異変を察知し、はっとして背後を振り返った。
同時に、護衛たちは即座に陣形を変え、エスターを中心に据えて囲むように配置につく。
次々と剣が抜き放たれ、警戒の色が濃くなる。
しかし、すでにギルド員たちはエスター一行へと殺到し始めていた。
あちこちで「ジャッ」と金属が擦れる音が鳴り響き、鞘から剣が引き抜かれる音が重なって炸裂する。
アルバートが踏み込もうとした、その直前。
「エスター? ……泣いてる?」
「ち、違う。ほら、私、泣いてない」
ノアと向き合って言葉を交わす間、エスターの瞳は静かだった。
涙の気配はなく、そこにあるのは――むしろ覚悟を秘めた澄んだ光だった。
いや、実際の彼女の目には、うっすらと涙がにじんでいた。
悲しいからではない。嬉しくて、思わずあふれた涙だった。
エスターは慌てて手の甲でそれを拭い、照れくさそうに笑ってごまかした。
そのとき、背後を歩いていた護衛の一人が、声を潜めて会話に割り込んだ。
「お嬢様、申し訳ありませんが……何かおかしな気配を感じます」
「どんな気配?」
何が起きているのかは分からなかったが、エスターも声を落とす。
「さっきから背筋がぞくぞくして、嫌な感じがするんです」
「私も感じました」
どこか異常だと感じていたヴィクターも、同意するように口を開いた。
「どうやら、誰かが私たちを襲おうとしているようです」
護衛騎士が、つい先ほどまで身を潜めていた“影の騎士”のいた方向を――
彼女は、どこからか「注意しろ」という合図を受け取ったと伝えられた。
「でも、ここは神殿の中だよ?」
「それでも、念のため気をつけたほうがいいでしょう」
「わかった」
アルバートは気配を完全に殺していたが、彼の部下たちまではそこまで完璧に制御できていなかった。
エスターの護衛たちもまた手練れ揃いだった。
彼らは、相手が無意識のうちに漏らした殺気を敏感に察知する。
「何も起きなければいいんだけど……」
エスターは緊張を隠すように、そっとスカートの裾をつまんだ。
神殿を一刻も早く離れるため、歩調をわずかに速める。
護衛たちも、万が一に備えていつでも剣を抜けるよう、柄に手を添えたまま周囲を警戒していた。
そしてその瞬間、理由も分からない嫌な予感に振り返ったヴィクターが、はっとして叫んだ。
「お嬢様! 後ろへ!」
気配を極力殺したまま、人影がこちらへ走り寄ってきていたのだ。
まだ距離はあったが、護衛たちは自分たちより察知の遅れた者を守るように、素早くエスターを囲む陣形へと移った。
木の陰に身を潜め、後をつけてきていた影の騎士たちは、すでに待ち構えていたギルド員たちと剣を交えていた。
「神官たちが、どうして私を……?」
振り返ったエスターの目が、驚きに大きく見開かれる。
司祭服を着た男たちが、明らかに彼女を狙って襲いかかってきていたからだ。
だが、すぐにその安っぽい司祭服を脱ぎ捨てる様子を見て、それが偽装だと見抜いた。
「ちっ――」
アルベルトと対峙していた影の騎士は、状況を――
思っていた以上に危険だと悟り、彼の表情が強張った。
このままではエスターにまで危険が及ぶ――そう考えた彼は、何とか隙を作れないかと思案しながら、首にかけていた笛を吹き鳴らした。
すると突然、青い鳥が一羽、彼の頭上にふわりと姿を現したかと思うと、そのままどこかへと飛び去っていった。
「エスター、俺の後ろへ」
護衛たちと同じく剣を抜いたノアが、即座にエスターを庇う位置に立つ。
エスターは、四方から迫り来る暗殺ギルドの刃を目にして不安に駆られ、思わずノアの腕を掴んだ。
「みんな……大丈夫?」
「大丈夫だよ。大公が信じて任せた人たちだ」
そう口にしながらも、ノア自身の胸にも不安は拭えずにあった。
エスター一行の人数は、相手に比べてあまりにも少ない。
しかも、敵が弱そうにはまったく見えなかった。
「お嬢様、神殿を出れば騎士たちが待機しています。ここに留まるより、一刻も早く外へ出た方が安全です」
――カン、カン。
驚くほどの速さで剣を打ち合わせ、襲撃者を二人仕留めたヴィクターが、エスターのもとへ戻ってきた。
「ですが、出口が見当たりません」
「どんな手を使ってでも道は切り開きます。通路が開いたら、絶対に振り返らず、扉に向かって走ってください」
「あなたたちを置いて、私一人で行けって言うの?」
「まずはお嬢様がご無事であることが最優先です。我々のことは、その後で構いません」
ヴィクターがどんな覚悟でこの言葉を口にしているのか、エスターには痛いほど分かったいた。だからこそ、彼女は静かにうなずいた。
神殿の外へ出て、他の騎士たちと合流する――それが、今考えられる中で最も現実的で、安全な策だということも。
その予感は、どうやら正しかったようだ。
エスターは護衛たちの背後に身を潜め、隙を見て逃げ出そうと試みた。
だが、何度挑んでも結果は同じ。すべて失敗に終わった。
エスターがわずかに動いたその瞬間、ギルド員たちが一斉に気配を走らせ、間合いを詰めてきたのだ。
彼らは、標的であるエスターを決して容易に逃がすつもりなどなかった。
逃げ道を探してエスターのいる方向へと集まろうとしたが、数歩も進まぬうちに再び包囲されてしまう。
その様子を見つめていたエスターが、細めた目でノアに問いかけた。
「ノア……なんだか、おかしくない?」
「どういうこと?」
「私、護衛が制限されてたから七人だけ連れてきたよね。
でも、あの人たち……ざっと数えただけでも二十人はいる。
あんな人数、どうやって連れて来られたの?」
ノアは「……ああ」と小さく声を漏らし、深く頷いた。
エスターを守らなければならないという思いに駆られ、そこまで考えが及んでいなかった。
「そうだな。全員が神官の服を着ていたこともそうだし、内部に協力者がいたはずだ」
「うん。おそらくラビエンだろう」
神殿の内部でこれほどの事態が起きていれば、ドゥインが黙っているはずがない。
それほどの危険を承知の上で、自分を狙う理由を持つ人物は、ラビエンしかいなかった。
――『血』。
自分の血さえ手に入れれば、どうにでもなると考え、拉致しようとする浅はかな考えが透けて見えた。
血に対するラビエンの執着は、もはやうんざりするほどだった。今回で完全に決着をつけられたのは、本当に幸いだった。
エスターの護衛たちは当初こそ必死に防ぎきっていたが、数で劣っていたため、次第に包囲が崩れ始めていた。
「お嬢様! あの者にお気をつけください! お逃げを!!」
護衛の一人が、エスターに向かって声を張り上げた。
影の騎士を一人仕留めたアルベルトが、愉快そうに笑いながら、まっすぐエスターへと駆けてきていたからだ。
「はは、さっきまであれだけいた護衛が、もうバラバラか。
守ってくれる者もいない、哀れな姫様ってわけだな」
ノアはとっさにエスターの前へ出て立ちはだかったが、別のギルド員が突っ込んできて、彼を強引に引き離した。
「エスター! 立ち止まらないで、どこでもいいから逃げろ!」
しかし、エスターはその場にしっかりと足を止め、アルベルトの瞳をまっすぐに見据えた。
――この人は、私を殺しに来たわけじゃない。
本気で殺すつもりなら、迷わず仕留めに来るはずだ。
だが、彼の目的が“拉致”であるなら、別の選択肢がある。
「……シュル」
エスターは、アルベルトには決して届かないほど小さな声で、その名を呼んだ。
列がわずかに乱れた。
名を呼ばれたシュラが、そろそろと身をかがめ、隙間から恐る恐る顔をのぞかせた。
だが、こんな場所に、それも毒を持つ蛇が潜んでいるなど、アルベルトは想像すらしていなかった。
何の妨害も受けることなくエスターのすぐ目の前まで辿り着いたアルベルトは、声を立てずに笑った。
「怪我をしたくなければ、おとなしくしていろ。生かしたまま連れていく必要がある。余計な傷はつけたくない」
「……」
エスターは言い返す代わりに、静かにうなずいた。
「ほう? なかなか珍しい反応だな」
こんな状況でも異様なほど落ち着いているエスターが意外だったのか、アルベルトは片方の口元を歪めた。
そう言いながら、懐から布を取り出した。強力な睡眠薬を染み込ませてあり、嗅いだだけで意識を失う代物だった。
「お嬢様、お願いです! どうかお逃げください!!」
「エスター、ダメだ!」
遅れて敵を退けた護衛騎士たち、影の騎士と交戦していたノアも追いすがってきたが、すべて一歩及ばなかった。
アルベルトは、眠り薬をたっぷり染み込ませた布を、ためらいもなくエスターの口元へ押し当てた。
だが――
エスターが抵抗しなかったせいで、あまりにも簡単に思えたその行為は、予想外の結果を生む。
「……そう、これでいい」
満足げに口角を上げたアルベルトは、ほどなく気を失うはずだと確信し、エスターの身体を抱え上げようとした。
しかし、いくら待っても――
彼の腕の中で、エスターが崩れ落ちることはなかった。
「……は? どういうことだ」
エスターは、布にたっぷり染み込んだ眠り薬を口と鼻で吸い込みながらも、なお澄んだ瞳でアルベルトを見つめていた。
意識は、まったく揺らいでいない。
むしろ、状況を測るような、静かで冷静な表情で――
まるで「効くと思ったの?」とでも言いたげに、じっと彼を見据えていた。
彼女はぱちぱちと瞬きをしながら、アルベルトを見つめた。
「効かないの? こんなこと、今までなかったのに。どうして?
まさか、間違えて持ってきたとか?」
慌てたアルベルトは、エスターの口元から布を引きはがし、うろたえた。
「私には、そういうものは効きません。
もっと強い睡眠薬を使っても、きっと同じですよ?」
エスターは親切に説明するように言いながら、小さな声でシュラの名を呼んだ。
「ねえ、シュラ?」
その瞬間、物陰から顔をのぞかせていたシュラが、はじけるように前へ飛び出した。
そして大きく口を開き、アルベルトの足首に――
ガブッ! と、強く噛みついた。
鋭く尖ったシュラの牙が、アルベルトの足首に深々と突き刺さる。
「あ、ああああっ!!」
耐えがたい激痛が足首から全身へと走り、アルベルトはもはや我慢できず、喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。
「このガキ……そこをどけ……ぐっ……!」
アルベルトは苛立ちを露わにし、足首に噛みついたシュルへ向かって剣を振り回した。
だが、シュルが素早く身をかわしたため、どれほど剣を振っても斬りつけるのは空気ばかりだった。
「よくやったわ」
エスターは自分のもとへ戻ってきたシュルに微笑みかけ、すぐさまアルベルトとの距離を取った。
いくら薬に溺れていようと、次にどんな行動に出るか分からなかったからだ。
「……これは毒か? はっ、まさか毒使いを連れているとは思いもしなかった」
アルベルトは信じがたいという口調で独りごちた。
その顔色はみるみるうちに青白くなっていく。
シュルの猛毒は回りが早い。
あっという間に全身へと回り、アルベルトは身体を支えきれず、地面へと崩れ落ちた。
「……ちっ」
顔色がみるみる蒼白になっていくアルベルトは、荒い息をつきながら懐に手を突っ込んだ。
激痛に身をよじらせながらも、彼の視線は執拗にエスターから離れない。
――逃げなければ。
エスターは本能的に危険を察し、素早く周囲を見渡した。
「エスター、大丈夫か?」
最も近くにいたノアが、息を切らしながら剣を振るいつつ声をかけた。
ノアは成人した襲撃者を相手にしても、思った以上に健闘していた。
最近、剣の訓練に熱心だった成果が、はっきりと表れている。
とはいえ、それも想像以上に持ちこたえている、というだけで、本気で打ち合えば、いつ倒れても不思議ではない。
すでに長時間剣を振るい続けていたせいで、疲労の色は隠せず、動きにも限界が見え始めていた。
「私は大丈夫だから、気を――……っ、ノア!!」
そう答えかけたエスターは、はっとした瞬間、大声を上げた。
エスターが動いたことで、彼女を案じていたノアの集中が一瞬だけ乱れた。
その隙を突くように、剣を弾くタイミングがわずかに遅れ、刃がノアの肩をかすめてしまう。
致命傷ではない。
だが、肩口の服は裂け、滲んだ血が周囲を赤く染めているのがはっきりと見えた。
「みんな急げ! 隊長が倒れたぞ!」
アルベルトが倒れたのを見た部下が声を張り上げると、ギルド員たちは一斉に動き出した。
もはや指揮官を失った恐怖と焦りに突き動かされるように、彼らは力任せに攻め立ててくる。
ノアは自分の傷を確かめる暇すらなかった。
ただエスターを守るため、押し寄せる敵を食い止めようと必死に立ち向かう。
――エスターには、絶対に近づけさせない。
「ノア……」
エスターは唇を強く噛みしめ、焦りながら周囲を見回した。
負傷しているのはノアだけではなかった。
ビクターや他の護衛たちも、数で押されて各所に傷を負い、血を流している。
皆、何としてでもエスターを守ろうと必死に踏ん張っているが、誰の目にも、その限界が近いことは明らかだった。
それでも、不幸中の幸いだったのは、地面に倒れている者の中に、エスターの同行者がいなかったことだ。
――シュルに、他の人間も攻撃させるべきだろうか。
襲撃者たちをすべて毒に侵せば、この状況を打開できる可能性はある。
だが、どうせ一人で逃げ切れる状況ではない。
かといって、このまま何もせず立ち尽くしているわけにもいかなかった。
――それでも、シュルを使うのが一番マシだ。
指示を出そうとした、その瞬間だった。
突如、アルベルトのいる方角から、何かの栓を抜くような乾いた音が響いた。
「……?」
エスターは眉をひそめ、その音の主を追うように勢いよく振り返る。
地面に倒れ伏していたはずのアルベルトの手には、透明な液体の入った小瓶が握られていた。
彼はそれを、迷いなく口に運んでいる。
「まさか……俺が、こんな毒ごときで終わるとでも思ったか?」
つい先ほどまで濁っていた瞳孔は、いつの間にか正気を取り戻し、鋭い光を宿していた。
アルベルトは歪んだ笑みを浮かべながら、地面に横たわっていた身体をゆっくりと起こす。
まだ顔色は青白い。
それでも、シュルの猛毒は完全に解毒されたかのように、その動きに迷いはなかった。
「……聖水?」
エスターの呟きに、アルベルトは愉快そうに喉を鳴らす。
「そうだ。まさか俺が、非常時の備えもなしにここへ来たと思ったか?」
「……いける?」
毒に侵された場合は、聖属性による治癒、もしくは聖水を飲んで解毒するのが、最も確実な方法だった。
暗殺を生業としている以上、危険な状況に遭遇することは多い。
そのため、厄介な依頼を受ける際には、万が一に備えて貴重な聖水を常に携帯していた。
そして、その聖水をこのギルドに供給しているのは、ブラウンズ公爵だった。
「さて……じゃあ、もう一度始めようか?」
完全に毒が抜けたわけではないが、シュルに噛まれた脚を除けば、動ける程度には回復していた。
体を起こしたアルバートは、片脚を引きずりながらエスターのほうへ歩み寄る。
「今度は優しくしてあげられないな。かなり腹が立ってるんだ。痛いし」
エスターは跳躍の準備をしながら、頭の中で素早く状況を整理した。
――もう、シュルは使えない。
エスターの一行とギルド員が入り乱れるこの状況で、シュルがまともに攻撃を仕掛けるには、強い集中が必要になる。
だが、アルベルトの存在がその余地を完全に奪っていた。
加えて、アルベルトはすでに聖水で治癒を済ませている。
今この場で、仮にシュルがもう一度噛みついたとしても、効果は期待できない。
となれば、今すぐ取れる行動はただ一つ。
アルベルトを徹底的に叩き、戦線から外すこと。
幸い、シュルが噛みついた側の脚は完全には治りきっておらず、わずかに引きずるような動きが残っている。
それだけでも、十分に狙い目だった。
――私が動けば、あの人たちも意識をそっちに持っていかれる。
狙われているのは自分自身。
だからこそ、自分が動けば、敵は必然的に注意を逸らさざるを得ない。
そして――もし、この場を突破できさえすれば。
外で待機している騎士たちを呼び寄せることもできるはずだった。
エスターは、まっすぐこちらへ向かってくるアルバートをかわし、神殿の正門の方向へと跳躍した。
「ダメだ、エスター! 危険だ!!」
後方からノアが危険だと叫ぶ。ビクターも同じだった。
心配してくれているのは分かっているが、ここで立ち止まれば、同行している者たちがさらに大きな怪我を負い、自分自身もアルバートに捕まってしまう可能性が高かった。
「捕まらなければいいだけよ」
エスターは歯を食いしばって走った。
しかし、いくら全力で走っても、アルバートは一瞬で距離を詰めてきた。
片脚を引きずっているとはいえ、十分に鍛えられた彼の動きを、エスターが上回ることはできなかった。
「無駄に力を使うなって。どうせすぐ捕まる。
それとも、俺と鬼ごっこでもしたいのか?」
皮肉交じりの言葉とともに、エスターのすぐ背後まで迫ったアルバートは――
彼はエスターに向かって、唾を飛ばすように怒鳴り散らした。
そのおかげで、必死に走り続けていたエスターの視界に、正門がじわじわと入り始める。
――もう、あまり時間が残っていない。
そう思った矢先、背後をちらりと見て、エスターは焦ったように唇を噛みしめた。
アルベルトとの距離が、あまりにも近すぎたのだ。
何か、打つ手はないか。
エスターは必死に考えた。
聖力で人を直接攻撃することはできない。
けれど――ほんの少しでも時間を稼ぐ方法なら、あるかもしれない。
――それなら……。
エスターは走りながら、手のひらに聖力を集め始めた。
アルベルトに追いつかれることは、ほぼ想定済みだった。
そして案の定、扉にさらに近づく前に、アルベルトはほとんど背後まで迫ってきていた。
すぐ後ろに気配を感じ、胸がどくん、どくんと激しく脈打つ。
心臓の鼓動が、やけに大きく耳に響いていた。
「捕まえた! さあ、鬼ごっこもここまでだな? クク」
アルバートは楽しそうに喋りながら、エスターを捕まえようと腕を大きく伸ばした。
その瞬間、振り返ったエスターの手のひらに集められていた聖力が、アルバートの目の前で弾けた。
凄まじい光の爆発に、アルバートは一瞬で視界を失い、よろめき始める。
「な、なんだ? 何も見えないぞ!」
うまく決まり、時間を稼ぐことができたエスターは、神殿の扉へ向かって走り出した。
しかし、長年暗殺ギルドで生きてきたアルバートの感覚は伊達ではなかった。
彼は執拗に、音だけを頼りにエスターの後を追ってきた。
やがて――
ぼやけながらも視界を取り戻したアルバートが、再び手を伸ばす。
エスターは身を守るため、もう一度聖力を使った。
「お願い……」
一度も実際に試したことはなかったが、エスターは頭の中で、聖力を“保護膜”のように身体にまとわせる光景を思い描いた。
次の瞬間。
想像した通り、聖力は淡く柔らかな光となって、エスターの全身を包み込んだ。
それが何なのか理解できないアルベルトは、エスターを捕まえようと乱暴に手を伸ばし――その瞬間、弾かれるように後方へ吹き飛ばされた。
「……なに?」
エスターを取り囲む光が聖力だと知る由もないアルベルトは、今度は正面から勢いよく体当たりしてきた。
だがその衝撃で、吹き飛んだのはアルベルトだけではなかった。
エスター自身も反対方向へと弾き飛ばされてしまう。
地面に転がった拍子に、スカートは土で汚れてしまった。
それでも――。
聖力に包れていたおかげで、かすり傷一つ負ってはいなかった。
「本当に、癪に障るな。
……こんなもの、どうやって突破しろっていうんだ?」
アルベルトは苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるようにそう呟いた。
まだ視界がはっきりしないアルバートは、苛立った様子で目を細め、エスターを睨みつけた。
「どうしてこんなことをする? ラビエンに頼まれたのか?」
エスターは、もうアルバートが自分を力ずくで連れ去ることはできないと悟り、少しだけ余裕を取り戻した。
「依頼人の情報は絶対に秘密よ。だから――もう行きましょう。どうせ連れていくつもりなんでしょう? ここで逆らっても、お互いに消耗するだけじゃない?」
アルバートは体についた土埃をはたき落とし、立ち上がろうとしたその瞬間――
横から、とてつもない速度で突っ込んできた何者かが、彼に体当たりした。
「ぐっ……っ、ちょ、待て……!!」
それは容赦なく、しかも強烈だった。
――ドンッ!
エスターが気を取られていたとはいえ、誰かが近づいてくることに気づかないほど、アルバートは鈍ってはいなかった。
「……だが、奇跡も思い通りにはいかない、か」
アルベルトは、自分が置かれている状況をまるで夢でも見ているかのように理解できず、土の上を転がりながら困惑した表情を浮かべていた。