こんにちは、ちゃむです。
「利用され長女はもう我慢しません」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
28話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 温もりを知った日
「……これは一体……」
「閣下の前に突然現れたんですって?」
「この黒い血は、間違いなく魔物の……」
目を覚ましたラディスは、ゆっくりと唾を飲み込んだ。
彼女はなぜか、見知らぬ布団の中に包まれていた。
声は部屋の向こう側からひそやかに聞こえてきていたが、やがて静かに扉が閉まる音がすると、それすらも途絶えた。
「うぅ……」
ラディスはもぞもぞと体を動かしながら、自身の状態を確認する。
服は綺麗に着替えさせられており、右腕には包帯が幾重にも巻かれ、鼻腔をくすぐるほどに薬の匂いがぷんぷんと漂っていた。
彼女は布団の中で身を丸めた。
『聞きたくなかったのに。』
ラディスは、自分が剣の腕に優れているとか、討伐隊で良い成果を上げたからといって、それを一度も誇らしげに語ったことがなかった。
幼い頃は、何かを上手にこなせばこなすほど、それがかえって自分を毒した。
マーガレットは腹を立て、家庭教師は不安がり、アルマノ先生でさえ、その才能を隠すことに必死だった。
そんな歪んだ経験が積み重なり、成長した彼女は自然と、人から注目されることに強い恐怖を感じるようになっていた。
デイビッドの代わりに討伐隊の一員となった時も同じだった。
あまり目立てば、それだけで面倒な問題が起きるのは明らかだったため、彼女はいつも自分の功績を他人に譲った。そのほうがずっと楽だったからだ。
討伐隊から逃げ出し、麻薬中毒に陥って死んでいく間も、彼女はいつだって自分自身より家族の立場を優先していた。
家族のためにすべてを犠牲にしながらも、自分の行動が彼らの足かせになることだけを恐れていたのだ。
二度目の人生を歩むことになり、ラディスは二度とあんな愚かな真似はしないと固く誓っていた。
しかし、心の奥底には、どうしても抜くことのできない棘のように、深く突き刺さったままのものがあった。
まるで今、彼女が自分自身をさらけ出すことを極度に恐れているかのように。
『何を言い訳しているの?』
ラディスは深くため息をつき、布団を少し持ち上げて周囲を見回した。
カーテンは黒く、壁紙には金色の刺繍が施されているものの、やはり部屋は黒一色だった。
誰が見ても、そこはイヴの寝室だった。
黒檀で作られたコンソール、ベッド脇に置かれた黒いエナメルの花瓶、そしてそこにたっぷりと挿された黒いバラを見て、ラディスは小さく身震いした。
「イブ、服だけ黒いんじゃなかったのね……」
その時、寝室の扉が開き、イブ・ルシェルが部屋の中へと入ってきた。
イブはラディスが目を覚ましているのを見ると、ゆっくりと彼女のもとへ歩み寄り、ベッドの脇に腰を下ろした。
黒いベルベットのガウンをまとったイブの髪は、いつものように完璧に整えられている。
その見慣れた姿に、ラディスはむしろほっと胸を撫で下ろした。
ただでさえ頭の中がこれほど混乱しているのに、もしイブの素顔まで見てしまっていたら――。
「ラディス」
「は、はい?」
「顔が赤いけど? 無理もないね。あれだけ大きな怪我をしたんだから」
「いえ、これは……」
「疲れているだろうから、答えるのがつらければ後でもいいよ。」
イブはじっとラディスを見つめながら尋ねた。
「何があったの?」
「……」
「心配したんだよ。」
イブの声には、彼女を責めるような気配は微塵も感じられなかった。
『ああ……』
ラディスは不思議な気持ちに包まれた。
水の中にどっぷり沈み、ぶくぶく沸騰するか、あるいは氷のように冷たいものだと思い込んで死ぬほど緊張していたのに、予想外にも、それはとても柔らかく温かな温度だったときのような感覚。
『公爵様、本当に私のことを……心配してくれたんだ。』
さっきもそうだった。
ラディスが突然部屋に現れたときも、イブは驚いたり疑ったりせず、血にまみれた彼女を全身でぎゅっと抱きしめてくれたのだ。
妙に胸が熱くなるのを感じながら、ラディスは包帯の巻かれたイヴの右手だけをじっと見つめた。
イヴはそんな彼女の視線に気づき、ふっと柔らかく笑った。
「やっぱり駄目だな。大丈夫だ。後で話してくれ。」
ラディスは思わず彼の服の裾をキュッと掴んだ。
「……いいえ、侯爵様。今、話します。」
今この気持ちでなければ、二度と話せないような気がした。
もちろん、すべてを話すことはできなかったけれど。
ラディスは頭の中で言葉を整理したあと、重い口を開いた。
「競売場で……ある人たちが魔物の卵について話しているのを聞きました。気になって、その人たちを追いかけてみたんです。やっぱり悪いことをしていました。」
そこまで話したラディスは、そっとイヴの顔色をうかがった。
しかし、前髪を下ろしたイブの表情を正確に読み取るのは難しかった。
「……あの人たちと、ま、魔物の卵を元の場所に戻してきました。」
ラディスを見下ろしていたイブが、静かに口を開いた。
「魔物の卵は禁域の近くにあるでしょう? 禁域へ行くには、それなりの規模の騎士団が必要になるはずだけど。」
正確に核心を突くイブの言葉に、ラディスはびくりと肩を揺らした。
「と……通路があったんです。禁域へと続く……」
「なるほど。」
イブがわずかに顎を上げた。
「禁域へ続く通路を使って、運さえ良ければ魔物たちに遭遇せず卵を持って出入りできるというわけだね。でも、あなたたちは魔物と遭遇した。」
「……」
剣を血まみれにした姿をイブに見られてしまった以上、言い訳のしようがなかった。ラディスは観念したようにこくりと頷いた。
「戦ったの? 魔物と?」
「……」
「どうやって?」
ラディスは震える唇をどうにか動かし、ようやく絞り出すように言った。
「私、剣を……使えるんです。」
「……」
妙に、何か取り返しのつかない悪いことをしてしまったような気分だった。
ラディスはまるで過ちを犯した子供のようにしょんぼりと頭を垂れ、か細い声で呟いた。
「先に言えなくてごめんなさい。隠そうとしていたわけではなくて……」
そのとき、大きな手がラディスの頭を優しく撫でた。
その温もりに、胸が締め付けられるように痛んだ。
「大丈夫だ。」
イヴの手は温かく、その声はさらに優しかった。
「そんなことで申し訳なく思う必要はない。いつだって相手のすべてを知っていなければならないわけじゃないだろう?」
「…………」
「どうしてそんなに沈んでるんだ? もう大丈夫だ。ちゃんと帰ってきただろう。」
ラディスはそっと顔を上げた。
イヴの唇には、深い安堵に満ちた微笑みが浮かんでいた。
「正直、ものすごく心配したし、腹も立った。でももう大丈夫だ。君が帰ってきたから。」
「…………」
ラディスは潤んだ瞳を瞬かせながら、イヴを見上げた。
『どうして……? どうしてあなたは、そんな風に言ってくれるの?』
イブは微笑みながら、ラディスの怪我をしていないほうの肩を軽く叩いた。
「剣を使うところ、あとで見せてもらうからね。全部治ってからだ。分かった?」
・
・
・
ガチャリ。
ラディスにベッドを譲り、部屋を出たあと、イブ・ルシェルはその場でしばらく無言のまま激しく身震いした。
『ラディス、あなた正気なの? 好奇心だけで、怖くもないあの下劣な傭兵どもについて行ったって? 通路? 禁域につながる通路は一つしかないのに、その秘密の通路を使ったって? じゃあ、私の群れの上に突然現れたのは、あの死んだ酒飲みを使って戻ってきたの? でも、あの酒飲みは死んでるじゃないか? いや、いや、いや! そんなことが重要なんじゃない。禁域の魔物って、剣を使える人間がまともに相手できるような狼程度のレベルなの? ラディス、あなた一体……!』
心の中で小言の嵐を滝のように吐き出していたイブは、思わず虚空に向かってぐっと拳まで振り上げた。
もしこの言葉をそのままラディスの前で口にしていたら、彼女はきっとひどく悲しんだだろう。だが、今のラディスはれっきとした患者だった。
傷のせいで熱が上がり、顔をリンゴのように真っ赤にしている患者に小言を浴びせる気には到底なれなかった。
それに、どんな無茶な事故に遭ったにせよ、ラディスはすでに戻ってきて、彼のベッドに横たわっているのだ。
必要なことがあれば、後でゆっくり聞けばいい。
『それにしても、ちっちゃい……!』
彼の体格に合わせて大きめに作られた枕に埋もれたラディスは、本当に豆粒のように小さく見えた。
そんなラディスに向かって、どうして怒り続けることができようか。
普段とは違ってどこかぐずぐずしている姿さえ、たまらなく愛らしく感じられた。
いつも冷静で凛としていたラディスが、目がとろんとして視線が合うたびに深く頭を下げるのも可愛らしかったし、そうして下げた頭の丸い赤髪の隙間から、つむじが白く覗いているのを見ると、思わず甘噛みしてしまいたくなるほど愛おしかった。
『まるで小さな子犬みたいだ。だから第三皇子があんな風に惚れ込んだんだろうな。』
彼の黄金の卵を産むガチョウは、しなくてもいいような無謀な冒険をしてくれたものだが、とにかく長い旅を終えて彼の懐へと戻ってきたのだ。
そう考えると、イヴ・ルセルの胸のすさみも少しずつ収まっていくのを感じた。
『だが、あの傭兵どもだけは絶対に許さない。』
応接室へ足を踏み入れると、そこには心配そうな面持ちで待ち構えていたアレンの姿があった。
「ラディス様はいかがですか?」
「目を覚ましたよ。大丈夫そうだ。」
「よかったです……」
イヴはアレンをじっと見据えた。
たとえ目が不自由であっても、その身に纏う圧倒的な殺気はひしひしと伝わってきたはずだ。アレンは慌てて深く頭を下げた。
イブは冷徹な声で言い放つ。
「夜の散歩は大丈夫だと言っていたわよね?」
「すべて私の不手際です。」
イブは椅子を足で軽く蹴って押しのけると、その場にどさりと腰掛けた。
「そうね。ラディスの身の回りのことはあなたに一任していたわ。つまり、あなたの責任よ。」
アレンはその場に膝をついた。
「お殺しください。」
イブは静かに首を横に振る。
「いいえ。放任していた私にも責任がある。殺すなら私も一緒に死ななきゃならないわね。でもそれはできないから、代わりに仕事をもう一つ頼むわ。」
「命を懸けて遂行いたします!」
「大したことじゃない。ナイトマーケットで魔物の卵について話していた傭兵がいるらしいわね。そこで目撃されたのは二人だったそうだけど、当然――」
そこで言葉を切ると、イブは冷酷に笑った。
「あの二人だけを罰するわけにはいかないわね。あの傭兵団の連中は全員、縄で縛って絞首刑に……いや、ただ殺すだけじゃ生ぬるい。」
考え込んだまま、指の腹で椅子の肘掛けをとんとんと規則正しく叩いていたイブが、ふたたび口を開いた。
「第9鉱山へ送って、死ぬまで働かせるか。」
第9鉱山といえば、公爵家が所有する鉱山の中でも最悪の地として知られていた。
岩盤が非常に脆く事故が絶えないため、熟練した鉱夫でさえ入るのを嫌がるその場所で働いているのは、過酷な強制労働を科された死刑囚ばかりだった。
どうせ死を待つ身の者たちゆえに待遇も最悪であり、落盤事故で命を落とす者よりも、過酷な労働と絶望に耐えかねて力尽きたり、看守たちに折檻されて命を落としたりする者のほうがはるかに多い地獄だった。
「特に、ラディスを危険な目に遭わせたあの二人は、両方のアキレス腱を確実に切っておきなさい。目から鼻水が出るくらい、たっぷり絶望を味わわせてやれ。」
アレンは深く頷いた。
「至極妥当なご処分でございます。すぐにそのように手配いたします。」
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一方、イヴは善意からベッドを譲ってくれたのだろうが、ラディスはどうしてもイヴのベッドで眠り続けることができなかった。
夜が明けるまで一睡もできずに過ごしたラディスは、結局そっと自分の部屋へと戻ってきた。
「…………」
しかし、彼女のベッドには、子犬のようなアンデをしっかりと抱きしめたまま、イヴがすやすやと寝息を立てて眠りこけていた。
「いや、すぐ下の階だし、ベッドが空いてるから……理屈は分かるけどさ……」
ラディスは複雑な表情でイヴを見つめながら、窓辺の安楽椅子にトボトボと歩み寄り、そこに腰を下ろした。
体はまだボロボロで、頭の中もぐちゃぐちゃだった。
部屋の中を見回したラディスは、例の幽霊を呼ぶ曰く付きの剣が、静かに化粧台の上に置かれていることに気づいた。
彼女が気を失っている間に、誰かがここに持ってきて置いてくれたらしい。
「ふぅ……」
ラディスはひとまず楽な姿勢を取り、ゆっくりと目を閉じた。
そして、そのまま体内へ意識を集中させ、マナを巡らせ始める。
それは彼女が「瞑想」と呼んでいた独自の修練法で、外部ではなく体内でマナを隅々まで循環させるものだった。
瞑想という名のとおり、ごちゃついた思考を整理するのにも役立ったが、それ以上に強力な回復効果があった。
微熱や軽い筋肉痛程度ならそれだけで治り、今回のような大きな傷の癒やしにも確実に寄与する。
それだけでなく、身体の五感は研ぎ澄まされ、自分の現在の状態を客観的に把握することができ、ざわついた心を落ち着かせるのにも抜群の効果を発揮した。
『頭もすっきりしてきたわ。』
再び目を開けたとき、ラディスの体調はかなり回復していた。
彼女は落ち着きを取り戻した目で剣を引き寄せ、目の前のテーブルに置いた。
「おい。」
[……]
「なあ。」
[……]
「デュトゥス。」
[……]
ラディスは一度、剣をコツコツと叩いてみようかとも思ったが、すやすやと気持ちよさそうに眠るイブの姿を見て、ぐっと我慢した。
『整理してみましょう。アラクネが何て言ってたっけ? 卵を元の場所に戻さなきゃいけないって言ってたわよね。あそこ、昔私が持っていった魔晶石があった場所だった。』
しかし、肝心のそこに魔晶石は影も形もなかった。
『あの卵が、私が見たあの魔晶石に変わるのかな? まあ、そうかもしれない……。これはいくら考えても分からないことだし、アラクネが最後に言っていた言葉は何だったっけ?』
ラディスは無意識のうちに、小さく声に出して呟いた。
「摂理が望むのは均衡……?」
自分の口から漏れた言葉に驚き、ラディスは思わずイヴのほうをびくりと振り返った。
幸い、イヴは相変わらずぐっすりと眠ったままだった。
ラディスはイヴを見つめながら、心の中で切なく呟く。
『ごめんなさい、侯爵様。魔物の声が聞こえるとか、私が一度死んで、これが二度目の人生だなんて、とても口が裂けても言えそうにないわ。きっと私のことを頭のおかしな人だと思われるでしょうね。』
ラディスは毛布を引き寄せて肩を覆い、テーブルの上に置かれた黒い剣を見つめた。
『あれ、あのとき何て言ってたっけ? ヘスティア? クロノス? ボジャ? どれもこれも変な言葉ばかりだったわ。はぁ……』
幽霊が宿った剣だからって。犬なのか何なのか分からないけれど、名前を呼べばみんなすっと出てくるくせに、こういう肝心なときには口を固く閉ざしてしまって……。
そうしているうちに、心地よい眠気がふわりと押し寄せてきた。
『私が時間を巻き戻して……災いを招いたって? 私は災いを起こしたくて戻ったわけじゃない。ただ……私は……』
・
・
・
「各界の均衡は摂理によるもの。」
イブがふと顎を上げながら呟いた。
「摂理が望むものは均衡であり、現在の均衡は摂理の意志に従い、補佐者が作り上げたものだ。我が子孫たちはそれを肝に銘じ、秘密を守るべし。」
それは、ルシェル家の後継者へと代々ひそやかに伝えられてきた、ベラード・ルシェルの遺言だった。
イブ・ルシェルはゆっくりとベッドから降りると、ぐっすりと眠っているラディスのほうへと近づいた。
彼はラディスを優しく抱き上げたが、緊張が解けたまま深く眠りこけている彼女は目を覚まさない。
イブは彼女を別のベッドにそっと寝かせ、丁寧に布団を掛けてやった。
かなり大量の血を失ったせいか、彼女の顔立ちはどこか青白く見える。
イブはそのそばに腰掛け、乱れたラディスの髪を愛おしそうに整えてやった。
「ラディス、鉱山で一体何を見たのかは知らないけど……もう忘れたほうがいい。」
眠っているラディスが、くすぐったそうに鼻をひくつかせるのが見えた。
「全部、くだらない伝説みたいな昔話にすぎないんだ。鉱山なんて、小説みたいな冒険を夢見る女の子が行くような場所じゃない。あそこは、地獄だ。」
イブは憂鬱に満ちた顔で、ふと体を起こした。
彼はその場所を知っていた。
ラディスが利用したというあの禁域への通路を、彼自身もかつて歩いたことがあるからだ。
もう十年以上も前の記憶だというのに、昨日のことのようにあまりにも鮮明だった。
人を完全に狂わせる、あの場所特有の毒気までも……。
『お前はここにいたんだな。』
醜く歪んだ叔母の顔。
それを見つめたあと、冷たく背を向ける叔父の後ろ姿。
そして、その背後から容赦なく響いた乾いた銃声。
「ふぅ……」
イヴは震える手で自身の前髪を乱暴にかき上げた。
誰にも、自分の目を見られないように。
もし彼に残されたものがその悪夢のような記憶だけだったなら、彼はとっくの昔に正気を失って狂っていただろう。
だが、彼には――『黒い天使』がいた。
『私の目を見て。』
彼女の深い黒い瞳。
『私が守ってあげる。』
その黒い天使は、大きな黒い翼で彼を優しく包み込み、守ってくれた。
彼女の紡ぐ温かな言葉……それがなければ、彼は「魔物の森」と呼ばれるあの地獄から、生きて帰ることはできなかったに違いない。
イブは自身の肩を見つめた。
黒いベルベットのガウンが、しっかりと冷え切ったその肩を覆っている。
それを確認して初めて、彼は心の底から安心することができた。
・
・
・
翌朝、ルセル公爵家の屋敷は、文字どおり涙の海と化していた。
ラディスの部屋の前で、彼女が目を覚ますのを今か今かと待ち構えて陣取っていた侍女たちは、固く決意していた。
これまではラディスの無謀な夜の散歩を見逃してきたけれど、今度こそは厳しく叱りつけて、二度と彼女が外へ出られないようにしよう……! と。
しかし、大量の出血のせいで白紙のように顔を青ざめさせ、三日間ほとんど水しか口にできず、まともに食事も取れなかったためにすっかりやつれたラディスが、しょんぼりと寝室の扉を開けて姿を現した瞬間、彼女たちの固い決意は一瞬にして崩れ去った。
「ラディス様……!」
三日間ずっとラディスの帰りを待ち続け、ほとんど眠れずに目の下に痛々しい隈を作っていたベリーは、本来なら腹を立てるはずだった。
しかし、包帯がぐるぐる巻きにされたラディスの痛々しい腕を見た瞬間、ベリーは堰を切ったように涙をぽろぽろとこぼしながら叫んだ。
「まあ、まあ……! ラディス様、どれほど痛かったことでしょう……!」
三日間ずっとラディスのための食事を準備し続けてくれたブレンドも、心配のあまり怒りに満ちていたはずだったが、そのひどく痩せ細った顔を見るやいなや、怒りは雪が溶けるように消え去り、ただ純粋な心配だけが残された。
「こんなにやつれてしまって、三日間、本当に何も召し上がらなかったんですか? 料理人として、いったいどうやって煮込んだら……!」
ブレンドは自分の胸をどんどん叩きながら、栄養のある食事をすぐ用意するため厨房へと駆け出していった。
昨夜、魔物の血ですっかり汚れ、アラクネの鋭い鉤爪に引き裂かれたラディスの服を見て気絶寸前だったエイプリルも、まだ怒りは収まりきっていなかったはずだった。
だが、エイプリルもまた、目の前の彼女に怒りをぶつけることなどできなかった。
「ラディス様、ご無事で本当に……本当によかったです。昨日、あのボロボロに破れた服を見て、いったい何をされたのかと心配で……」
エイプリルは自分のエプロンでとめどなく流れる涙を拭った。
「ううっ!」
「ラディス様、すごく痛いんですか?」
「もう無理しないでください!」
「うええん……!」
次々と泣き出す侍女たちを見て、ラディスはすっかり慌てふためいた。
彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、今にも泣き崩れそうなベリーを慌てて抱きしめてやった。
するとエイプリルも、ニキも、エリスも、タナまでもがみんな泣きながら駆け寄ってきて、まるで大きな塊のようになってラディスを取り囲んだ。
ラディスは自分まで泣かないようにぐっとこらえた。
けれど、人の涙というものはどうしてこうも伝染しやすいのだろう。鼻の奥がつんとツラくなり、目頭が一気に熱くなってくる。
『みんな、私のことをこんなに心配してくれてたんだ……。』
廊下の向こう側をふと見れば、あの厳格なアレンまでがハンカチを目元に当ててひそかに鼻をすすっている姿が見えた。
『この人たち……みんな、私のことを心から心配してくれたんだ……。』
こんな温かな気持ちは、人生で初めてだった。
胸の奥が大きく膨らみ、喉元まで熱いものが込み上げてしまいそうになる。そのせいで喉がヒリヒリと痛み、ついには堪えきれず、ラディスの目元からもぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい……」
ラディスはぐっと詰まった声でそう呟きながら、侍女たちの背中や肩を優しくぽんぽんと叩いた。
「私……自分のことばかり考えていたみたい。みんながこんなに心配するなんて、思っていなかったの。」
そう口にしてから、ラディスは自分自身の言葉に内心で呆然とした。
本当に、知らなかったのだ。
自分が誰かを心配させたり、愛されたりする存在なのだということを。
それは、血の繋がった家族と過ごしていた頃でさえ、一度も感じたことのない温もりだった。
ティルロード家では、魔物狩りで大怪我をしてボロボロになって帰ってくると、家族はむしろ露骨に嫌な顔をした。
少しでも痛そうな素振りを見せれば、デイビッドは「俺の代わりに狩りに出たって、そうやって恩着せがましくするつもりか」と吐き捨て、ラディスの部屋に土足で押しかけては私物を引っかき回して荒らしていった。
侍女たちも、仕事が増えるのが面倒だという態度を隠そうともせず、必要な薬や包帯すらまともに持ってきてくれなかった。マーガレットも同じだった。
デイビッドよりは少しだけラディスの顔色をうかがうものの、「痛いのが自慢なの?」「痛いからって何もしないでご飯だけ食べてればいいわけ?」と絶えず冷たい小言を浴びせ、ろくに体を休ませてもくれなかった。
誰かがこんなふうに自分のために涙を流し、心の底から心配してくれたのは、これが人生で初めてのことだった。
「もう、やめてください!」
目を真っ赤に腫らしたエイプリルがきっぱりと言い放った。
「ラディス様の顔色が見えないんですか? 今はとにかくゆっくり休まなければいけないんです。ほら、この話はあとにして、ラディス様を――」
「ベッドで休むのが一番です!」
一斉に目を真っ赤にした侍女たちは、名残惜しそうにすすり泣きながらも、ラディスの体調を気遣ってそっと身を引いた。
ベリーはラディスを再びベッドへと連れていき、丁寧に横にならせる。
「うぅっ……! ラディス様、必要なものが、ひっ! ありましたら、いつでも、ぐすっ! 何でもおっしゃってください……!」
涙と鼻水を拭い続けているせいでベリーの顔はひどくくしゃくしゃになっていたが、今のラディスの目には、それすらも世界で一番愛らしく映った。
『ベリーって、なんだか本当に私の妹みたい……』
本当は怪我の痛みよりも空腹のほうがよっぽど気になっていて、いっそ食堂へ降りて何かガッツリ食べようかと考えていたラディスだったが、ベリーたちのあまりの必死な気遣いを思い出し、もう少しだけおとなしくベッドで横になっていることにした。
それに、わざわざ自分から食堂まで足を運ぶ必要すらなかった。
ブレンダンと侍女たちが、まるで屋敷の食堂ごとまるごと移動させてきたかのような勢いで、次々と豪勢な料理を部屋へ運び込み始めたからだ。
目を真っ赤にしたベリーが、見事に丸焼きにされた子羊を丸ごと一頭見た途端、呆れたような顔で言った。
「ここでこれから村の宴会でも開くつもりですか?」
大きな特製フルーツゼリーを両手で持っていたブレンドは、ひどく困ったような顔になった。
「ラディス様が何がお好きなのか分からなくて、ついつい色々作ってしまって……」
「ラディス様お一人で、どうやってこれを全部召し上がるんですか!」
部屋のテーブルいっぱいに所狭しと並べられた料理の数々を見たラディスは、思わず笑いをこらえながら口を開いた。
「じゃあ、みんなで一緒に食べましょう。ベリーの言うとおり、私一人では到底食べきれないほどたくさんあるんだから。」
ブレンドは「そんなわけにはいきません!」と飛び上がったが、普段からラディスと気さくに接している他の侍女たちは「いい考えです!」と口々に言いながらブレンドの肩を押し、強引に椅子に座らせた。
「こんなつもりではなかったのですが……」
ブレンドは最初こそ泣きそうな顔をしていたが、周囲の明るい雰囲気にほぐされていき、やがて手際よく見事な手つきで料理を切り分け始めた。
「ラディス様、一番柔らかい最高の部位を切り分けて差し上げますね。羊肉にはシンプルな塩やソースもいいですが、この自家製ミントゼリーや、そちらの蜂蜜入りマスタードを添えて召し上がるのも絶品ですよ。」
「ブレンド、私にもそれ切ってちょうだい!」
「ニッキー、羊肉くらい自分で食べなさい。」
「ひどいです!」
「冗談よ、拗ねないでよね?」
人が大勢集まったせいか、殺風景だった寝室はたちまち賑やかな笑顔で満たされた。
楽しく冗談を交わし合い、料理をとりわけ、同じ釜の飯を囲む人々の中で、ラディスもまた心から声を上げて笑っていた。
ふと、ラディスは気づいた。
こうして大勢の人たちと他愛のないことで笑い合いながら、温かな食事を囲むのは、人生で初めてのことだと。
ティルロード家ではまともに会話をする必要すらなかったし、討伐隊で仲間たちと野営の食事をするときも、こんなふうに心からリラックスして笑い合った記憶はない。
彼女は仲間たちのことも大切に思っていたが、いつ自分の正体がばれてしまうかという恐怖と緊張のせいで、最後まで心を開き切ることはできなかったのだ。
「ラディス様、これも召し上がってください!」
ベリーがきれいに切り分けたフルーツゼリーをそっと彼女の皿に置いてくれる。
「あら、ずいぶん子供っぽい好みね? ラディス様はなめらかなプリンのほうが好きなのよ?」
ニキはくすくす笑いながらプリンの皿を差し出した。
すると、ブレンドが厳かに首を横に振って口を開いた。
「みんな分かっていないな。ラディス様は羊肉のような香りの強いお肉を召し上がったあとは、必ずさっぱりしたシャーベットを召し上がるんだ。ねえ?」
ニキがすかさず尋ねる。
「そのシャーベットは今どこにあるんですか?」
「はっ……! シャーベットはまだ作っていなかった! すぐに溶けてしまうから……」
「じゃあ、早く厨房に行って作ってきてくださいね!」
「そんな無茶な……!」
ラディスは慌てて立ち上がろうとするブレンドの袖をそっとつかんだ。
「ブレンドは座って。今日はゼリーとプリンをいただくわ。」
「ラディス様……!」
少女のように目をうるうるとさせるブレンドの姿を見て、部屋にいた全員が声を立ててくすくすと笑った。
彼女たちと一緒に笑い合いながら、ラディスは胸の奥で本当に不思議な温もりを感じていた。
16年――いや、死ぬ前の人生まで含めればもっと長い年月を共に過ごしたティルロード家の誰よりも、このルシェル公爵家の人々のほうが、ずっと本当の家族のように感じられた。
ラディスは、心の中で静かに誓った。
『これからは、もう勝手にこっそり危険なところへ出かけるのは、少し控えようにしよう。』
以前は、誰かに大きな迷惑をかけるわけではないのなら、自分が何をしようと勝手だと思っていた。
しかし、今のラディスにはようやく分かったのだ。
自分には今、心から帰りを待ってくれ、身を案じて涙を流してくれる大切な人たちが、この場所にちゃんといるのだということを。
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ラディスの目覚めとイヴの優しさ
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怪我をしてイヴの部屋のベッドで目を覚ましたラディスは、自分が魔物の卵を巡る一件で剣を使ったことをイヴに告白する。
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イヴはラディスを責めるどころか優しく包み込み、無事に帰ってきたことを安堵して頭を撫でる。
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イヴの裏での怒りと処分の手配
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ラディスの前では優しく振る舞ったイヴだったが、裏では今回の騒動を引き起こした傭兵たちへの怒りを隠さず、過酷な強制労働が待つ「第9鉱山」送りなどの厳罰を下すようアレンに命じる。
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自分の部屋での瞑想
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イヴのベッドで眠れず自分の部屋に戻ったラディスだったが、そこでは愛犬のアンデを抱いたイヴが眠っていた。ラディスは窓辺でマナを巡らせる瞑想を行い、心身の回復を図りつつ、自らの抱える秘密や過去の思いに浸る。
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侍女たちの涙と温かな食卓
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翌朝、ラディスのやつれた姿を見た侍女たち(ベリー、ブレンド、エイプリルら)やアレンは、心配のあまり涙を流して彼女を迎え入れる。
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大量の料理と共にみんなで食卓を囲み、賑やかに笑い合う温かな時間を通じ、ラディスは「自分を心配してくれる大切な人たちがいる」という初めての温もりと家族のような絆を実感する。
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