こんにちは、ちゃむです。
「憑依者の特典」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
122話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 大洪水の海
体から海水をぽたぽたと滴らせているテシリドとアッシュを、そのままにしておくわけにはいかなかった。
私は二人にタオルと着替えを差し出した。
〈アイレット、余計なことは言わず、後ろを向いていましょう。淑女らしくね〉
アグネスは、わざわざ言わなくてもいいような小言を、律儀に口にした。
少しして、髪の水気をほどよく拭き取った二人が上着を羽織り、私のもとへ戻ってくる。
先に口を開いたのはアッシュだった。
「これから何をすればいいですか?」
「さて、何をするべきだと思う?」
私たち騎士団が求めているのは、自ら考えて判断できる人材だ。
そう考えて、私はあえて問いを返した。
「うーん……海ですし、釣りとか?」
冗談半分のようにも聞こえたが――
「ええ、正解よ」
私はインベントリから竹の釣り竿を三本取り出し、それぞれに手渡した。
「釣りをしましょう」
「本気ですか?ボスを倒すのが目的じゃ……?」
「ボスが姿を見せてから捕まえればいいでしょう。それまでは、待ちながら釣りでもしましょう」
「えっ、俺、釣りなんてやったことありませんけど……」
「ちょうどいいわ。今日、覚えればいいでしょう?」
私のものではないアッシュとは対照的に、テシリドは手慣れた様子で餌を釣り針に付けていた。
ダンジョンでヒアスからしっかり教わっていたのか、竿を振り抜く動きもなかなか様になっている。
私とアッシュもそれぞれ場所を取って、別々の方向へと糸を投げ入れた。
「こんな雨で雷まで鳴っているのに、魚って釣れるんですか?」
「この辺りの魚は、こういう天気には慣れているのよ。気にしないわ」
静かに魚を待つ時間が流れていく。
三人とも無言のまま、それぞれの釣りに集中していたが、不思議と空気は穏やかだった。
しばらくして――ついに、当たりが来た。
それはアッシュの竿だった。
「わっ!」
ぴんと張った釣り糸を、不思議そうに見つめるアッシュ。
やがて彼が難なく引き上げたのは、太った鯛が一匹だった。
私は思わず、ぱちぱちと拍手を送る。
「すごいわね」
「姉さん、これ面白いですね」
成功の手応えは、そのまま行動を続ける原動力になる。
それからというもの、アッシュはすっかり釣りに夢中になっていた。
――なんだか、本当にのんびり釣りに来たみたいね。
そのとき、アグネスの小さな声が耳に届く。
〈ダンジョンのことを聞きたいんだけど、あの暗殺者のせいで、あなたに話しかけづらいのよね〉
そのとき、これまで黙っていたテシリドがこちらを振り向き、口を開いた。
「アイ」
「ええ、テリー」
「ダンジョンについて、説明してくれないか?」
〈おお、テシリド!合格!〉
……やめてください、アグネス。うるさいです。
「ああ、そういえばここ、ダンジョンでしたね」
アッシュも興味があるようで、素直に耳を傾けてきた。
連れて行くと決めた以上、今回のダンジョン――“大洪水の海”については、彼にも説明しておく必要がある。
「ここは、もともと海だったわけじゃないの。元は普通の土地だったんだけど、“大洪水”が起きて、こんなふうに水で満たされてしまったのよ」
“大洪水”は聖書にも記されている有名な災厄だ。
もっとも、まだ入信したばかりのひよっこ信徒には――説明が必要そうだけれど。
さらに説明が必要そうだった。
「洪水?ただの自然災害じゃないんですか?」
「それよりも規模が違うの。四十日四十夜、雨が降り続いて世界がすべて水に沈み、地上の生き物がほとんど絶えてしまう――そういう災厄よ。本来なら、この場所も四十日ほどで雨が止み、その後しばらくすれば水が引いて陸が現れるはずだったの。でも……」
「でも……?」
「高位の魔獣に侵食されて、災厄そのものが歪められてしまったの。だから、いくら時間が経っても水が引かない」
ここは、水が溢れたまま永遠に災厄が続く場所。
「つまり、ボスを倒せばこの災厄も終わる、ということですね?」
「ええ、その通りよ」
「見た感じだと、ボスは海のかなり深いところにいる魔獣みたいですね」
「ええ。クラーケンよ」
巨大なタコやイカの姿で語られる海の怪物――クラーケン。それが、このダンジョンのボスだ。
「ということは、今こうして釣りをしているのは、そのクラーケンを釣るため……ですか?」
「そういうことになるわね」
そう答えた瞬間、私の竿に重みが乗った。
くいっと引き上げてみると、かかったのは丸々と太ったサバだった。
「姉さん、初釣果おめでとう」
「ありがとう」
ふと視線を感じて振り向くと、テシリドがこちらを見ていた。
アッシュの鯛と私のサバを見比べながら、どこか物言いたげな表情をしている。
――そして、しばらくして。
今度はテシリドの竿にも、当たりが来た。
「お、テリーもついに来たわね」
「釣果、期待しているね。兄さん」
私とアッシュが見守る中、テシリドは期待に満ちた表情で竿を思いきり引き上げた。
そして――勢いのまま、素手で魚を掴み取る。
「…………」
手の中の獲物を見つめたまま、テシリドはしばし無言になった。
左右から顔を覗き込んだ私とアッシュが、代わるように口を開く。
「イワシ?」
「……タラね」
食材鑑定スキルで確認すると、結果は――
小型のタラだった。
言ってしまえば、ほとんどイワシ並みのサイズのタラだ。
テシリドは気まずそうに視線を逸らし、無言で餌を付け替え始めた。
その後しばらくの間、海の魚たちは餌だけを器用に奪って逃げ去り、テシリドを徹底的に翻弄していた。
世界観からの嫌がらせというものは、こういう形でも訪れるのだろうか。
見ている私ですら、思わず真剣に考え込んでしまうほどだった。
そんな中、新鮮なヒラメをもう一匹釣り上げたアッシュが、わざとらしくテシリドに声をかける。
「兄さんは、どうやら釣りの運には恵まれていないようですね」
「……そうかもしれませんね」
「そんなにかしこまらなくていいですよ。私より年上なのですから」
「いえ、この方が落ち着きますので」
「そうは見えませんけれど」
「黙っていられるよりは、まだ気が楽ですよ」
「…………」
そのやり取りを見て、アグネスが小さく感嘆の息を漏らした。
(口を閉じろ、なんて言葉をこんなに上品に言えるものなのね……)
テシリドの鉄壁のような距離感を崩せず、アッシュはどこか敗北を認めたような表情で私の隣へ戻ってきた。
そして、少し肩をすくめながら囁く。
「どうやらテシリド兄さんは、私と親しくする気はあまりないみたいですね。騎士って、皆あんなに堅いものなんでしょうか。……レイ兄さんを思い出します」
「あなたが人当たり良すぎるのよ。……まあ、それはそれとして、テリーとレイ先輩は確かに似ているかもしれないわね」
どこか、サツマイモとジャガイモくらいの“似て非なるもの感”ではあったけれど。
どちらも騎士らしく整った顔立ちで、信念も強く、ほんの少しだけ堅物なところがある――そんな共通点はあった。
けれど、私の中での印象は、アッシュとは少し違っているようだった。
「似ている、かしら?」
その一言には、どこか棘が混じっていた――“似ているわけがない”という含みが、はっきりと感じられる。
「そうでしょうか?テシリド兄さんは、むしろ私と似ていると思っていたのですが」
その言葉に、テシリドが初めてアッシュへと視線を向けた。
海のように深い瞳が、まっすぐ彼を射抜く。
まるで、その反応を待っていたかのように、アッシュはわずかに口元を緩めて言葉を続けた。
「目つきが、どこか似ているんですよね」
「…………」
「……何人ほど、手にかけたことがありますか?」
「…………」
場の空気が、一気に冷え込んだ。
「アッシュ」
私が制止しようと声をかけた、その瞬間――
「申し訳ありません」
テシリドは、静かに口を開いた。
「……ある時から、数えるのがつらくなってしまって」
抑揚のない声。
表情の動かない顔。
それ以上を語るつもりはないと言わんばかりに、彼は視線を逸らした。
どこか虚ろな瞳が、暗い水平線の彼方へと向けられる。
――誤魔化し、なのだろうか。
問いから逃れるための、ただの言い訳なのか。
降りしきる雨音が沈黙を埋める中、私はほんのわずか、考え込んだ。
テシリドは――私が出会う以前から、すでに血に塗れた道を歩んできた人物だ。
代表的なのは、カルフェオスの件。
“異端者の谷”で、命を落とすしかなかった者たちがいた。
彼は一人ひとりに手をかけ、瞼を閉じさせ、水を手向けながら、静かに数を刻んでいた。
それは誇りではなく――むしろ、罪を背負うための行為だったのだろう。
だからこそきっと、彼は覚えている。
自分の手で奪った命の数を。
第17周目に至るまで、彼はよほどの理由がない限り、聖剣に血を吸わせることはなかった。
だからこそ、「数えるのがつらくなった」という言葉には、どこか腑に落ちない違和感が残る。
――ぽちゃん。
重く沈んだ空気を破るように、水面が大きく揺れた。
テシリドの釣り糸が、はっきりと強く引き込まれている。
アッシュが短く呟く。
「タラ?」
「……いや、かなり大きいようですが」
テシリドは敬語のまま、冷静に言い直した。
見栄を張っている様子ではない。
むしろ、その釣り竿は今にも折れそうなほど、激しくしなっていた。
次の瞬間――正体不明の“何か”と、テシリドとの綱引きが始まった。
なんという力だろう、ゴンドラがぐいぐいと引きずられていく。
私とアッシュは、思わず息を呑みながらその様子を見守った。
「一体、何がかかっているのかしら?」
「私も気になります」
浮きが沈んだ位置を、じっと目で追う。
やがて――ただ暗闇しかなかった水面の下から、ゆっくりと“何か”の輪郭が浮かび上がってきた。
そして次の瞬間。
テシリドの獲物が水面を突き破り、その姿を現す。
「……あれは何?サメかしら?」
全長は軽く三メートルを超えているだろうか。
鋭く伸びた背びれ、巨大な体躯、そして長く突き出た槍のような口。
その異様な魚の名は――
「青サヨリ!」
私がその魚の名を口にした、まさにその瞬間だった。
不気味なほど巨大なその魚は、槍のように尖った口先をこちらへ突き出しながら、一直線に突進してきた。
剣の切っ先のように鋭いその口が、テシリドの頬すれすれをかすめて通り過ぎる。
「――っ」
一瞬で空気が張り詰めた。
だが次の瞬間には、訓練された暗殺者らしく、アッシュが即座に短剣を数本、抜き放っていた。
「さすが魔界の魚……危険な相手ですね」
[『試練の魔天楼 建築家』によれば、本来“青サヨリ”は“海の速度王”と呼ばれる存在だそうです。]
どうやら魔界かどうかは関係なく、自然の状態でも相当な脅威らしい。
アッシュは指の間に挟んだ薄刃の短剣へ、静かに力を込めた。
彼がそれらを、巨大な青サヨリへ向けて投げようとした――その時だった。
「待ってください」
テシリドが、低くも張り詰めた声で制した。
「……私の獲物です」
その一言に、場の空気がぴたりと止まる。
どうやら彼は、さきほどの“雑魚”相手での不振を、この青サヨリで挽回するつもりらしい。
私は軽く手を上げてアッシュを制し、そのままテシリドの肩にぽんと手を置いた。
「確かに、このままでは君に任せた意味がないね。団長として許可する――やってみなさい」
「……ありがとう」
短く礼を言うと、テシリドは静かに頷いた。
次の瞬間、彼は糸を巻き、緩め、張り直す――その繊細な操作を繰り返しながら、青サヨリとの力比べに入る。
魔力でも加護でもない。
ただ純粋な、人としての技と勘だけで。
――自然そのものと向き合うように。
感動的な光景――のはずなのに、どこか既視感のような違和感が胸に引っかかった。
……ああ、そうか。
「――あ」
ひらめいた私は、思わず手を打つ。
「老人と海だね」
「……」
その一言で、場の空気が一瞬止まった。
ちょうどその時だった。
糸を操っていたテシリドの手が、ふっと滑る。
アッシュが首をかしげながら問いかけた。
「どうして“老人”なんですか?」
「まあ……そういうものなんだよ」
私は軽く流して答えた。
その間にも、私とアッシュはテシリド――いや、テリーに視線を向け、静かに声をかける。
「頑張って、テリー」
「ご武運を、兄さん」
応援を受けながらも、テリーはただ黙々と糸を操り続けていた。
荒れ狂う水面。
渦を巻きながら暴れ回る巨大な青サヨリ。
三メートルはあろうかというその巨体が、純粋な力だけで海中を引きずり回している。
――自然と人。
その真っ向からのぶつかり合いが、いまこの場で繰り広げられていた。
――その時だった。
不意に、雨がすっと止んだ。
代わりに、空気が重く沈み込み、あたり一帯に奇妙な静けさが広がる。
[システム:『魅惑の霧』エリアに侵入しました]
「……来たわね」
私が呟くと、アッシュが首を傾げる。
「来たって、何がですか?」
次の瞬間。
ぞくり、と背筋を撫でるような冷気とともに、白い霧が音もなく広がっていく。
まるで、生き物の吐息のように。
視界がじわじわと侵食され、海と空の境界すら曖昧になっていった。
その異変に、青サヨリも気づいたのだろう。
暴れていた動きがぴたりと止まり、警戒するように水面近くで身を翻す。
そのおかげで、船もまた、霧に包まれた海の中央で静止した。
――嫌な気配だ。
〈アイレット〉
アグネスが警戒を込めて私の名を呼ぶよりも早く、私は口を開いた。
「――さあ、男性陣は耳を塞いでください。保護をかけます」
短く告げると同時に、私は祈りを紡いだ。
テリーとアッシュの耳元を、柔らかな神聖力が包み込む。
その直後だった。
――アアァァァァ――ッ!
――アアァァァァァァ――ッ!
海の底から響くような、妖しくも美しい歌声が空間を満たした。
澄んでいるのに、どこか歪んでいる。
甘美で、抗えない。
まるで魂を引き寄せるような――誘惑の旋律。
もしこれを男性が直接聞けば、正気を失い、そのまま海へ身を投げてしまうだろう。
典型的な“音”による精神侵食。
……もっとも、私は対象外だが。
私は素早くアッシュの肩を押さえ、甲板に伏せさせると、その上から布をかぶせて視界まで遮断した。
テリーはというと――青サヨリとの一騎打ちの最中だ。
この状況でも、糸を手放すわけにはいかない。
――集中が途切れれば、即座に終わる。
「……踏ん張りなさい、テリー」
その間にも、海はざわめきを増していく。
シュイィィィン――ッ!
シュイィィィン――ッ!
船の周囲で海流が渦を巻き、円を描くように激しくうねり始めた。
――来る。
これは、ただの“歌”じゃない。
水面がばしゃりと弾けるたび、長い尾びれがいくつも影のように揺らめいた。
そして次の瞬間――その数だけの「上半身」が、水面からぬらりと姿を現す。
〈こんにちは、陸の者たち〉
〈こんにちは、こんにちは?〉
甘く、柔らかい声。
だが、その姿は――決して“人魚”と呼べるものではなかった。
耳があるべき場所には、ぴくぴくと動く鰓。
濡れた髪は海藻のように絡みつき、虹色の尾は人ひとりを呑み込めそうなほど巨大だ。
そして、肌のあちこちには、鈍く光る鱗が浮かび上がっている。
――似て非なるもの。
それでも、どこか人の形を残した異形。
海の精霊――人魚。
完全に堕ちてはいない。
だが、この“魅惑の霧”に覆われた領域で、どこまで理性を保てているかは怪しいところだ。
どうやらこの海域を支配するボスも、彼女たちには直接手を出していないらしい。
その代わり――放置され、歪められ、ゆっくりと侵食されている。
広大な海だからこそ、なんとか均衡を保っているだけ。
「……厄介ね」
私は小さく息を吐いた。
だが――未だ堕ちていないからといって、安心できる相手ではない。
古来より語られてきた数多の伝承が示す通り、海の精霊は人に優しくはない。
――特に、男に対しては。
気づけば、十二の影が円を描くように船を取り囲んでいた。
じわじわと距離を詰める人魚たち。
歌が効かないと悟ったのか、今度は明確な“捕食者”の顔を見せ始めている。
〈久しぶりの“生きた餌”ね〉
〈ええ……本当に久しぶり。運がいいわ〉
〈あら?あの中にも、もう一匹いるみたいよ〉
視線が一斉に――テントの方へ向く。
その瞬間。
「……あ」
布越しに外を覗いていたアッシュと、ばっちり目が合った。
――完全に見つかった。
その瞬間、俺は咄嗟にアッシュの頭に天幕をかぶせ直した。
――頼む、気づかれるな。
幸い、人魚たちはこちらに対して一応の“線引き”を持っているらしい。
〈隠れてるのはまだ幼いみたいね。未熟な獲物は手を出さないって決めたでしょ、私たち〉
〈ちょうどいいわ。あの黒髪の子、なかなかいい顔してるし……遊びがいがありそう〉
〈ふふ、そうね。それにしても――七番目と九番目、もう正気に戻ってるじゃない?〉
〈あんな整った“雄”は初めて見たわ……ああ……〉
〈お姉さまたち、今日わたし誕生日なんです!最初に遊んでもいいですか?〉
〈五番目、またそれ?あんたの誕生日、何回目よ〉
〈いいじゃないですか!順番は公平に、歌勝負で決めましょうよ〉
――なんだこいつら。
理性と狂気が同居してやがる。
(しかも、妙に統率が取れてる……)
場違いなほど軽いノリの会話に、思わず頭を抱えたくなる。
(こいつら、完全に“厄介な女集団”だ……!)
笑いながら、しかし確実に包囲を狭めてくる人魚たち。
遊び半分――いや、“食事前の余興”か。
どちらにせよ、状況は最悪だった。
それどころか、連中の挑発は言葉だけでは終わらなかった。
人魚たちが船縁へと這い上がり、テシリド――いや、テリーへと手を伸ばしてくる。
艶めかしく体を寄せ、指先で彼の顎を持ち上げようとしたかと思えば、そのまま腕を絡めて海の中へ引きずり込もうとする者までいた。
〈さあ、おいで〉
〈お姉さんたちと楽しく遊びましょう?〉
〈海水で皮膚がパンパンに膨れて裂けるまで、たっぷり可愛がってあげるわ!〉
……笑えない。
今のテリーは釣り竿を握っているせいで、まともに身動きが取れない状態だ。
ぴり、と音を立てて――鋭い爪が彼の制服の裾を裂いた。
(……あー、もう無理だ)
堪忍袋の緒が切れた。
「神罰!」
――パジジジッ!!
空気を裂くような閃光とともに、神聖な力が弾けた。
私の呼び声に応じるように――雷が、雲を引き裂いて降り落ちた。
地ではなく、海へと突き刺さる神聖な一撃。
その瞬間、稲妻は水面を媒介にして一帯へと広がり、海一面に電流を走らせた。
威力自体は抑えた。だが、その分“範囲”は広い。
そして――水中にいる限り、回避は不可能だ。
〈ぎゃああああっ!?〉
〈ひぃああああっ!?〉
人魚たちは体を震わせながら、悲鳴を上げる。
……まあ、脳までビリッときただろうし、少しは頭も冷えただろ。
――ただ。
「……ごめん、テリー」
ぽつりと、思わず漏れた。
テリーの方へ視線を向けると――
緩んだ釣り糸の先で、青鰆(あおさわら)がぷかりと浮かび上がっていた。
どうやら、ちょうど釣り針を外すタイミングで水面近くにいたらしく、そのまま一緒に感電したらしい。
……うん。
完全に、とばっちりだ。
体をビリビリと震わせながらも――なぜかテリーだけは、ぽつりとため息をついた。
……こいつ、本気で釣りに来てるな?
「……ごめんなさい、テリー」
思わず謝ると、テリーは軽く首を横に振った。
それ以上は何も言わず、彼は釣り上げた青鰆を引き寄せ、そのまま船の横にくくりつける。
どうやらサイズ的に、船に引き上げるのは無理らしい。
そのときだった。
――ビクッ、と。
人魚たちが次々と意識を取り戻し、ゆっくりと顔を上げる。
俺は迷わず、船に最も近い位置にいた一人の腕を掴んだ。
そして――そのまま、ぐいっと甲板へ引き上げる。
〈きゃあああっ!?〉
〈ま、待って、末っ子よ!?〉
〈何してるのよ!その子を返しなさい!〉
――一気に空気が変わった。
さっきまでの余裕は消え、代わりに露骨な焦りが滲み出る。
(……ああ、そういうことか)
こいつらにも、“大事なもの”はあるらしい。
私は精霊王のハープの弦で、捕らえた末っ子の人魚をしっかりと縛り上げた。
その間にも、残りの人魚たちはゴンドラをひっくり返そうと暴れ回るが――転覆防止のバフがかかっているせいで、船はびくともしない。
「無駄だよ、人魚のお姉さんたち。……それより、ちょっと話でもしようか?」
〈うちの末っ子を人質にして、よくそんなこと言えるわね?〉
〈純潔を奪われた雄の人間に復讐するつもりなら、相手を間違えたわよ〉
〈そうよ!末っ子は関係ないんだから、さっさと放しなさい!〉
――ほう。
前に出てきたのは、年長組らしい三人。
次の瞬間。
ドゴォンッ!!
振り下ろされた尾びれの一撃が、ゴンドラの側面を直撃し――支柱の一部が、音を立てて砕け散った。
(……回し蹴りかよ)
思わず内心でツッコミを入れる。
「落ち着いて。こっちも別に、末っ子をどうこうするつもりはない」
私は軽く肩をすくめながら続けた。
「ただし――そっちが“銀髪の聖騎士様”に手を出さない限り、だけどね」
――視線だけで、牽制する。
この場の主導権は、まだこっちにある。
「……ああ」
証明代わりに、私は拘束していた末っ子の人魚にヒールをかけた。
バチバチと焼け焦げていた鱗が、みるみるうちに元通りに再生していく。
その光景を見て――残りの人魚たちの表情が、わずかに揺らいだ。
「私が欲しいのは、本当に“会話”だけ」
警戒半分、疑念半分。
そんな目を向けてくる人魚たちを前に、俺はもう一度だけ強く言い切る。
〈……本当?〉
「ええ」
〈分かった。あなたの“雄”には手を出さない〉
「……いや、その呼び方やめてもらっていい?」
思わずツッコミが漏れる。
――が、内心は少しだけ安堵していた。
とりあえず、話は通じる相手らしい。
[“魂を審判する天秤”は、ジャンル変更権を購入する資金が不足しているため、現時点では関係の否定を余儀なくされています]
(いや、いらん補足をするな)
次のアップデートでは、どうか神界メッセージの遮断機能が実装されてほしいものだ。
〈人間って、素直じゃないわよね〉
「……好きに考えればいいわ」
次第に、私のほうから会話を続ける気も失せていった。
正直、みんな拳ひとつ分の距離にいるだけなのに、ただ力で押しのけて……。
〈それで、私たちに何の話があるの?〉
タイミングがいいわね?
「人魚のお姉さんたち、この場所を占拠しているボスのせいで困っているんじゃない?」
どうして分かったのかというように、人魚たちは深くうなずいた。
〈ええ、困っているわ〉
〈あいつが家に帰る入口を塞いでしまったの〉
〈もう100年は経っているわよね?〉
困りきったため息が聞こえてきた。
――今が提案のしどきだ。
「私たちがボスを倒して、入口を開けてあげる。その代わり、一定期間ごとに人魚の涙をもらえない?」
それに対する人魚たちの反応は――
〈え?本当にボスを倒してくれるの?あの憎たらしいタコの頭を?〉
「ええ」
〈それならありがたいけど、対価がちょっとね。人魚の“目”ですって?しかも一定期間ごとに?〉
「違う、目じゃなくて“涙”のことよ」
〈涙?それって何?〉
人魚たちは顔を見合わせ、首をかしげた。
冗談やとぼけている様子ではない。
彼女たちは、海という巨大な野生の中だけで生きてきた存在だ。
人間と関わることがほとんどなかったため、悲しみのような繊細な感情を学ぶ機会もなく、ゆえに涙を流すこともなかった。
何より、常に海水に身を浸して暮らしているせいで、目からにじむ塩水のようなものも、ただ海水が排出されているだけだと勘違いしてしまいやすい。
「涙って何か、気になる?」
一般に人間は、人魚の涙を採取する際、乱暴な手段に出ることが多い。
人魚が早く死ぬかどうかなど気にも留めず、金のために心を失っていく――そんなものだ。
もちろん、私はそんなことを考える必要も、するつもりもなかった。
〈うん、気になるわ〉
〈涙って何?〉
人魚たちが大きな瞳をきらきらと輝かせて答えた瞬間、私はインベントリへと手を差し入れた。
やがて私の手に引き寄せられたのは、職人が魂を込めて作り上げたかのようなオルゴールだった。
それは以前、「神秘のユニススの森」ダンジョンでエリニルを倒した際に手に入れたアイテムだ。
【アイテム】ユニスス回転木馬オルゴール
エリニルが催眠人形と化した婦人たちの感情を制御するために作ったアイテム。
感情を刺激する美しい童話のメロディを奏でる。
全4トラック構成。
トラック1:幸せなお菓子屋さん
トラック2:復讐を果たしたシンデレラ
トラック3:失われた雪の女王
トラック4:ベルベットの王子様の誘惑
私は目を閉じ、オルゴールの音盤をトラック3に合わせた。やがて旋律が流れ始める。
――ティリリリン……
千年ものあいだ氷の城にひとり残された、雪の女王の孤独と悲しみを紡ぐ旋律が、胸の奥を静かに震わせた。
そのおかげで、人魚たちは“悲しみ”という感情をすぐに理解することができた。
〈あ……〉
ぽろり、と。
やはり精霊らしく、感情に強く揺さぶられる存在なのだろう。
大きな瞳から、涙が一粒、また一粒と絶え間なくこぼれ落ちていく。
〈ひっ……あ……?〉
私は、しっかりと掴んでいた末の人魚の頬へと、そっと手を伸ばした。
涙を拭い取る私の手に、末の人魚がびくりと身をすくめた。
〈あ、ありがとう……あなたは優しい人間なのね……〉
「これは対価よ」
私は指先に乗せた人魚の涙を、小瓶へと丁寧に移し入れた。
そして、他の人魚たちの顎にも小瓶の口を当て、次々と涙を集めていく。
よし……これで半分くらいは確保できたわね。