こんにちは、ちゃむです。
「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
150話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 溢れる家族への愛
今回は、何の妨害も受けることなく神殿を後にすることができた。神殿の門前には、ドゥインがあらかじめ手配しておいた馬車が二台、静かに待機している。
テレシアへと戻る前に、ドゥインはノアへ向かって声をかけた。
「傷は痛まないか?」
「はい。もうすっかり治りました」
「それは何よりだ。本日は感謝している。娘を助けてくれた恩は、決して忘れない」
礼を述べる言葉とは裏腹に、ノアへ向けられたドゥインの視線は、まるで毒蛇を見ず据えるかのように鋭く、警戒に満ちていた。
――何だか、目で激しく罵られている気がする。
そう肌で感じ取ったノアは、「コホン」とわざとらしく咳払いをした。
「いえ。私が好きでやったことですから。ご挨拶は不要です」
ノアは、おそらく自分がエスターを抱きしめたところを見られたせいだと思い込み、くしゃっと気まずそうに笑った。
「では、これで。先に行きなさい」
ドゥインは軽くうなずき、馬車へと戻っていった。
双子の兄たちの護衛を受けながら馬車に乗り込もうとしたエスターだったが、ふとノアのことが気になり、振り返った。
――どうしよう。
神殿から歩いている間、ノアとは一言も交わすことができなかった。父と兄たちの、あまりにも厳重な警戒のせいだった。
「お父さん、ノアは……」
「陛下は、もうお戻りにならねば」
当然、領地まで同行するつもりでいたノアは、ドゥインのその言葉にぴくりと反応し、踏み出しかけた足を止めた。
「皇宮をあまりにも長く空けすぎだ。今回の件については、きちんと報告も必要だろう」
その会話を背後で聞いていたアルベルトが、思わず目を見開いた。
――陛下、だと……?
皇族が随行するなどという話は、依頼の際にも聞いていなかったはずだ。しかもノアという名なら、間違いなく現・皇太子の名である。
成り行きとはいえ、皇太子にまで刃を向けてしまったのだと理解したアルベルトは、一気に血の気が引き、今にも息が止まりそうだった。
「皇宮には、まず使いを出す。私は……エスターが心配でな。領地まで同行することにしよう」
「その必要はございません。これからは、エスターのことは我々が守りますから」
「はい、陛下。エスターは私が必ずお守りします」
以前、大公邸を訪れた際に少し親しくなったジュディが、片目をつむって「心配なさらずに」とでも言うように、軽く手を振った。
『……致し方あるまい』
ノアは心の中で、そう呟くほかなかった。
ノアは小さく息を吐いた。それは、今の彼にとって決して越えてはならない「家族」という境界線だった。エスターは、そんなノアの様子が気になったが、下手に自分がノアの味方をすれば、かえって彼を困らせてしまう気がして、何も言えずにいた。
「わかりました。では、どうかお気をつけて。エスター、またすぐ会おう」
別れを意識して表情が曇りかけたノアは、無理に笑顔を作り、エスターに向かって手を振った。
「ありがとう」
エスターは、ノアに伝わるよう口の形を大きく動かしてそう言い、手を振り返しながら先に馬車へと乗り込んだ。
ノアは、見送るように最後までドゥインが馬車へ向かう後ろ姿を見つめていた。すると、去っていったはずのドゥインが突然足を止め、振り返ってノアの方へと歩み寄ってきた。
重く響く足音。一歩、また一歩と近づくたびに、その歩調には抑えきれない怒りと威圧感がにじんでいた。
何かを探るような不穏な気配を感じ、ノアははっとして息を呑んだ。
――さっきの(抱きしめた)件を、ここで問い詰められるのか?
ノアは激しい叱責を受ける覚悟を決め、ぐっと身構える。
「もしよろしければ……二週間後、お時間は空いていますかな」
だが、ドゥインは険しい視線とは裏腹に、まったく別の話題を切り出した。
「エスターの誕生日パーティーがあります。保護所で開く予定なのですが、陛下をお招きするには少々不躾で、遅い連絡かもしれません。それでも、ご出席いただけませんか?」
「……誕生日パーティー?」
自分よりもはるかに背の高いドゥインを見上げ、ノアは目を瞬かせた。一瞬、頭の中が混沌とし、大公の真意を測りかねたが、すぐに言葉の意味を理解し、思わずぱっと顔を明るくした。
「――私を、招いてくださるのですか?」
「……ええ、そうですね。今日は娘をずいぶん助けていただいたようで」
少し前までのドゥインであれば、警戒を解かないままのノアを、エスターの誕生日会に自ら招くことなどあり得なかっただろう。ノアは、今日の出来事をきっかけに、ドゥインの頑なな心がわずかに和らいだことを察し、心からうれしくなった。
「大公自らお招きくださるとは、身に余る光栄です。もちろん、必ず出席いたします」
「では、その時に」
背を向けたドゥインの表情は相変わらず厳しかったが、ノアには、以前よりもどこか恐ろしさが薄れたように感じられた。
エスターとジュディ、デニス、そしてドゥインを乗せた馬車は、静かにテレシアへ向かって走り出した。エスターは、窓越しに見えるノアの姿が完全に見えなくなるまで名残惜しそうに見つめ、やがてゆっくりと顔を背けた。
「エスター、しばらく見ないうちに、顔が少しやつれたんじゃない? 大変だった?」
「そうだな。俺の妹、ずいぶん痩せたみたいだ」
ジュディとデニスはエスターの向かいに腰を下ろし、あれこれと世話を焼きながら、じっと様子をうかがった。
「ちゃんとご飯は食べてた? 眠れてる? お腹空いたりしなかった?」
胸を張ったジュディが、きらきらと目を輝かせながら矢継ぎ早に尋ねる。
「エスターより、私のほうがもっと会いたかったんじゃない? でしょ?」
普段はこうした質問をあまりしないデニスまで口を挟んだものだから、エスターは思わず視線を横へと逸らした。隣に座るドゥインからも、言葉にならない静かな圧を感じていたからだ。
「もちろん、みんなに会いたかったです。お父さまも、お兄さまたちも……本当に、とても」
たった一週間会えなかっただけなのに、こんな大ごとになるなんて――そう思わなくもなかったが、ここまで自分を心配して駆けつけてくれたことが嬉しくて、エスターの頬は自然と緩んだ。
言葉を選び終えた。
「ふむ……どうやらエスターは、私が一番会いたかったようだな」
ドゥインの口元が、はっきりと分かるほどにゆるくつり上がった。エスターが真っ先に彼へ話しかけたからだった。
「さっきは、急にお父様が現れて本当にびっくりしました。お兄様たちまで駆けつけてきて……いったいどうなっていたんですか?」
気が動転していてうまく言葉にできなかったが、血相を変えて駆けつけてくれた姿を、どれほど嬉しく思ったかは言い尽くせなかった。
「お前が留守の間、ジュディが会いたがって、歌まで歌っていたぞ」
双子たちが強い興味を帯びた視線をドゥインに向けると、ドゥインは何事もなかったかのような調子で肩をすくめた。
「父上、私もそう思いましたが、行こうと言い出したのは明らかに父上が……うっ!」
即座に神殿へ出発しようと言い出した人物――名指しされたのはドゥインだった。
「それは違う」と事実をそのまま言おうとしたジュディの口を、ドゥインがさりげなく、力ずくで塞ぐ。
「ともあれ、無事で何よりだ。連れて帰る判断は正しかったな」
「はい。すぐに会えて嬉しいです」
へへ、と笑いながら楽しげに答えるエスターの言葉に、ドゥインとジュディ、デニスの表情は自然と和らいだ。
「向こうであったこと、聞かせてくれるか」
テレシアへ到着するまで、まだ少し時間がある。エスターは、テレシアを発ってから今に至るまでの出来事を、一つも欠かすことなく語った。ドゥインとジュディ、デニスは、話の途中で口を挟むこともなく、身を乗り出すようにして熱心に耳を傾ける。
「さすが、私たちのエスターだ。立派にやり遂げてきたな」
その言葉に、エスターは照れくさそうに、でも誇らしげに微笑んだ。デニスが感心したように、話を締めくくりながらエスターの頭を優しく撫でた。
「うん。あのラビエンだかラビエンナだかのやつ、ツボをうまく突いてくれたみたいで、ようやく少し溜飲が下がったよ。それでも神殿は相変わらず厚かましいけどな」
聞いてい間ずっと苛立ちを募らせていたジュディが、忌々しそうに顔をしかめた。
「お父様、ちょっとエスターの耳を塞いでください」
「こうか?」
「はい」
ドゥインがジュディの頼みどおりエスターの耳を大きな手で塞ぐと、ジュディは遠慮なく汚い言葉を並べて神殿を激しく罵倒した。
「ジュディ……もういい」
普段ならすぐに止めに入ったはずのドゥインも、エスターを無理やり連れて行こうとした話を聞いて、それだけ腹に据えかねていたため、今回は息子の暴言を見逃した。
そうしてしばらく話し続けた末、一日中張り詰めていたせいか、疲れ切ったエスターは小さくあくびをした。
「ふぁぁ……」
「エスター、眠いのか?」
「少しだけ……ちょっと目を閉じてもいいですか?」
エスターの瞼はすでに半分ほど落ちていた。
「もちろんだ。ほら、こっちに寄りなさい」
ドゥインは自分の肩を軽く叩き、エスターの頭を引き寄せる。そのまま身を預けたエスターだったが、どういうわけか、目に入ったのはドゥインの広い太腿だった。少し考え込んでから、遠慮がちに尋ねる。
「お父さま……膝、借りてもいいですか?」
その瞬間、ドゥインの目が見開かれ、表情が喜びと驚きで強張った。
「そ、それは……もちろん構わないが……」
「エスター! ほら、こっちにも私の膝があるよ!」
ドゥインが固まっている隙を突き、ジュディが自分の膝を叩いて必死にアピールする。だが、この幸福な瞬間をみすみす逃すほど、ドゥインは甘くなかった。一瞬よろめいただけで、ジュディに主導権を譲る気など、微塵もなかった。
「エスターが乗るには、ジュディ、君の脚はまだ小さすぎるな」
実際、ドゥインに比べると安定感がはるかに劣るジュディは、不満そうに唇を尖らせた。
結局、エスターはドゥインの膝を枕にして横になることになった。思っていた以上に心地よかったのか、自然と満ち足りた微笑みがこぼれる。
「ありがとうございます、お父さま」
膝枕のまま眠ってしまいそうなほど無防備なエスターの姿に、ドゥインは激しく胸を打たれた。彼は意識のすべてを自分の膝に集中させ、エスターの頭が揺れないよう、信じられないほど慎重に支え続ける。
「お父さま、あとで私と交代してくださいね」
「公平に、三十分ずつっていうのはどう?」
ジュディだけでなく、本を読んでいたデニスまでがエスターの頭を狙って声を上げたが、その頃にはもう遅かった。エスターは小さく可愛い寝息を立てながら、深い眠りへと落ちていっていた。
そしてもう一つ。エスターは全く気づいていなかったが、彼女が眠っている間に足元から這い出てきた蛇のせいで、馬車内には小さな騒ぎが起きていた。
「へ、へ、蛇!!」
「うるさいわね。シュラじゃない。エスターが起きるでしょ」
相変わらず蛇を怖がるジュディは壁にぴったり張り付き、その騒ぎを呆れ顔で収めたのはデニスだった。
・・・
ラビエンが資格試験に落ちたという知らせは、すぐにブラウンズ公爵へ伝わった。神殿の内部に潜ませていたスパイたちが情報を集め、それを伝書鳩に託して送ったからだ。
「試験会場にあの子が現れただと? はっ、なんという……」
ラビエンの試験を妨害した人物がエスターだった――それを知り、ブラウンズは衝撃を隠せなかった。
「自分が聖女だという事実を、知っていたのか……」
さらにラビエンがその場で聖女の座を剥奪されたと知り、彼はあまりの絶望に思わず足をふらつかせた。
「すべて露見したか……」
ブラウンズが想定していた数々のシナリオの中でも、最悪の展開だった。
それでも、アルベルトの暗殺ギルドにわずかな望みを託していたが――最後に報告を持ってきた部下は、さらに悪い知らせを告げる。
「……申し訳ありません。大公殿下が自ら事態の収拾に乗り出され、我々では手出しできませんでした」
「誘拐は失敗し、アルベルトはテレシアへ連行されたというのか……?」
あまりにも多くの致命的な出来事が一度に押し寄せ、ブラウンズの体は激しく衝撃を受け、手がぶるぶると震えた。
「それでも不幸中の幸いなのは、アルベルトが口を割ることはないという点です。あの者たちは捕まれば、むしろ死を選ぶような連中ですから。信頼して問題ありません」
「それはいいとして……ラビエンはどうしている?」
「お嬢様は部屋に閉じ込められております。神殿の連中から、激しい叱責を受けている最中かと。様子を見に行かれますか?」
聖女の座を奪われただけでなく、監禁までされていると聞き、ブラウンズは怒りのあまり机を拳で激しく叩いた。
「神殿の連中め……私に一言の相談もなくこんなことをするとは。私を差し置いて勝手に動くつもりか?」
「公開の場で試験が行われた影響が大きいのでしょう。力の差もあまりに明白でしたから」
「……私が直接、神殿の連主に会いに行けば――ラビエンが再び聖女に返り咲く可能性はあるか?」
「状況を見るに難しいでしょう。今はお嬢様が大きな罰を受けないように外へ出すことが最優先かと」
部下の冷静な分析を聞いたブラウンズの表情は、すっと氷のように冷え切った。つい先ほどまでラビエンの扱いに迷っていたが、もはや進むべき道は決まった。
「我が家を存続させるには、今回の代で必ず聖女を輩出しなければならない」
「しかし、お嬢様はすでにその機会を失っております」
「ラビエンはもういい」
あまりにも冷酷に愛娘を切り捨てる言葉に、側近は思わず戦慄して顔を上げた。
「だが、まだ手はある」
ブラウンズ公爵は、自らの望みを叶える手段がまだ残されていることを、はっきりと理解していた。できれば使いたくはなかったが、ここまで事が進んだ以上、彼に選択の余地はなかった。
「まずは皇宮へ向かう」
「し、神殿ではないのですか? お嬢様のもとへ行かれるのでは……?」
「皇宮だ」
ブラウンズの声は、暗い決意を孕んで断固としていた。
・・・
エスターと一行が屋敷に到着したのは、すでに遅い夜だった。
ドゥインは子どもたちを先に休ませると、すぐに執務室へ向かい、ブラウンズ家に関する資料を一つ一つ丁寧に確認していった。やがて目的の資料を見つけ出し、満足げに執務室を後にする。
そしてエスターの様子を確かめるため、静かに階段を上がった。
「よく眠っているな」
音を立てないよう静かに扉を開けて中をのぞくと、エスターは片足を布団の外に出したまま、ぐっすりと眠っていた。ドゥインはその無邪気な姿を愛おしそうに見つめながら、そっと布団を引き寄せてきちんとかけ直してやると、静かに部屋を後にした。
「お風呂から上がってすぐ、お休みになられました」
エスターの部屋の前まで付き添ってきた執事デルバートが、ドゥインに報告した。
「ずいぶん疲れていたのだろう。昨日はいろいろあったからな」
「お嬢様がお戻りになって、ようやく屋敷に活気が戻ったように感じます」
「そうだな。このところは、どこか空っぽのようで落ち着かなかった」
毎晩、双子の寝顔を確認するドウェンは、主のいないエスターの部屋の扉も必ず開けていた。この一週間、ぽっかりと空いたままのベッドを、どれほど寂しげな目で見つめていたことか。デルバートは、もうそんな寂しい主の光景を見なくていいのだと思うと、胸の奥が少し軽くなった。
そのとき、階段の方から鎧を身に着けた騎士が慌ただしく駆け上がってくる音が響いた。ドゥインはその騒がしさにエスターが目を覚まさないよう、静かにするよう手で合図しながら問いかけた。
「何事だ?」
「ベン様がお戻りになりました。到着次第お伝えするよう仰せつかっておりまして……」
後処理のため神殿に残してきたベンが、数時間遅れて帰還したのだ。ドゥインは軽くうなずき、そのまま執務室へと向かった。ベンもすでにそこへ来ていた。
「どうなった?」
「神殿に事情を説明し、正式な調査を要請しましたが、あちらは自分たちとは無関係だと主張しています」
「やはり、か」
「ひとまずは。神殿側は“聖女”を理由に彼女の外出を制限することはあっても、外部の人間を雇って拉致を行う動機はないと……」
「そうだろうな。おそらくブラウンズか、その娘の差し金だ」
「ですが、お嬢様が神殿にいる最中に襲撃を受けたのは事実です。黒幕が判明すれば、別途責任を追及するとのことでした」
ドゥインは、ベンがうまく処理してくれたのだろうと納得し、静かにうなずいた。
「向こうから“聖女”について何か言及はあったか?」
「今のところはありません。内部でも意見がまとまっていないようで、口を慎んでいる様子でした」
「なるほど」
しばらく顎に手を当てて考え込んだドゥインは、やがてベンを連れて建物の外へ出た。とっくに休む時間は過ぎていたが、彼の足は寝室ではなく、アルベルトが収監されている大公邸の地下牢へと向かっていた。
「何か分かりましたか?」
「連れてきた連中が、どのギルドに属しているか……おおよその見当はついた」
「分かった、のですか?」
アルベルトを尋問して得た情報ではなかった。到着後すぐに騎士団長へ引き渡し、過酷な拷問にかけさせたが、どれだけ痛めつけても彼は頑なに口を割らなかったという。
しかしドゥインは、先ほど調べたブラウンズ家の資料から、アルベルトが所属していたギルドの目星をつけていた。少し前、ブラウンズ家の弱みを探るために徹底的に資料を洗い直していたのだ。その際、裏仕事を請け負うギルドがいくつも関与していることに気づいていた。中でも最も危険と記されていた暗殺ギルド――おそらくそこだろうと踏んでいる。
「さて、どうするか」
牢の入口を抜け、薄暗い地下へと足を進めると、見張りの騎士が敬礼した。アルベルトは鉄格子の中で、血にまみれたまま椅子に固く縛り付けられ、意識を失っていた。
「お前たちは外にいろ」
「はっ!」
騎士たちを全員下がらせると、ドゥインは鍵で重い鉄扉を開け、中へと足を踏み入れた。
「起きろ」
そばに置かれていた桶から水を汲み、アルベルトへとぶちまける。
「ぐっ……!」
意識を失っていたアルベルトが、びくりと目を見開いた。それはただの水ではなく、塩水だった。傷口に容赦なく染み込み、全身を焼くような激痛が走る。
「く……っ……!」
騎士団長によって刻まれた無数の傷が、再び激しく痛みを訴えていた。
「私は慈悲深い人間じゃない」
ドゥインは冷ややかに告げると、椅子ごとアルベルトを強く蹴り飛ばした。鈍い音とともに、アルベルトの体は冷たい床へと叩きつけられる。
ドゥインはその頭を無造作にブーツで踏みつけながらも、表情一つ変えなかった。
「あなたが私の娘に手を出した以上、楽に死ねると思わないことだ」
エスターに剣を向け、さらには誘拐しようとした――その事実だけで、この場で八つ裂きにしても足りないほどだった。もし自分があの場にいなければ、娘が連れ去られていたかもしれないと考えるだけで、血が逆流するような怒りが込み上げる。
「だが、あなたより先に始末すべき相手がいる」
それでもアルベルトをすぐに殺さず生かしている理由は一つ。ブラウンズを確実に捕らえるためだった。ドゥインは戦場で幾度も見せてきた圧倒的な殺気をアルベルトに向けながら、首を掴み、その目を真正面から見据える。
「あなたたちのギルドは、もう突き止めてある」
騎士団長がどんな脅しをかけても反応を見せなかったアルベルトだが、今回はさすがに大きく動揺した。
「あなたが消えたとしても、まだギルドの連中は残っているようだな。神殿にもまだ何人も生きているしな」
ギルドを見つけたというのは半分は探りだったが、アルベルトの反応を見る限り、的確に急所を突いたようだった。
「うっ……」
「あなたの部下たちとその家族まで、関係する者はすべて絞首刑に処すことができる。生まれたばかりの赤ん坊でさえな。私にはその力がある」
ドゥインの悪名をよく知っていたアルベルトは、それが決して脅しではなく本気だと感じ、唇をガタガタと震わせた。
(ジェイスの妻は、もうすぐ出産だと言っていたが……)
部下の中には、妻の出産のために今回は同行できなかった者がいた。ドゥインがギルドの存在を完全に突き止めたとなれば、ジェイスとその妻、さらには生まれてくる子どもまでも捕まるかもしれない――そんな恐怖と焦りに苛まれ、アルベルトはぎゅっと目を閉じた。
「誰が今回の件を仕組んだのか言え。そうすれば、あなたの部下たちは助けてやる」
ドゥインの口から「助ける」という慈悲深い言葉が出るとは思っていなかったアルベルトは、疑念の目を向けた。ドゥインはこれまで布で塞がれていたアルベルトの口を解いてやった。
「悪い提案じゃないだろう?」
「……く、嘘だ」
「嘘ではない」
ドゥインはアルベルトが自分に向ける信じがたい視線を受けると、拘束された腕の一つを取り出し、反対側へと容赦なくバキリと折り曲げた。凄絶なアルベルトの苦痛の叫びが牢の中に響き渡ったが、ドゥインはまばたき一つしなかった。
「それでも顧客を売ることはできない。顧客こそがギルドだ」
「それほどまでにギルドは、共に生死を分かち合った仲間たちの命よりも大事なのか?」
「……」
アルベルトの心はすでに激しく揺らいでいた。金のためなら何でもし、人もためらいなく殺してきた彼だったが、彼にとって部下たちは家族以上の存在だった。ほかの人間がどうなろうと構わなくても、部下たちだけは大切だったのだ。
「本当に……私の部下たちの命は、すべて保証してくれる……のか?」
「そうだ。あなたは無理だがな」
ドゥインは腰に差していた剣を静かに抜き、アルベルトの首に当てた。鋭い刃が首の中央をわずかに裂くと、浅い傷とともに赤い血がにじみ、つうっと流れ落ちた。
「くっ……」
「すでに誰が依頼したのかは大体見当がついている。あなたは、私の言う人物で合っているかどうか答えればいい」
ドゥインは首を傾け、アルベルトの喉に当てた剣にさらに力を込めながら、低く尋ねた。
「ブラウンズか?」
ドゥインの放つ殺気は、今すぐアルベルトの首をそのまま斬り落としてもおかしくないほどに濃密だった。
「……そうです」
しかし、数々の修羅場をくぐり抜けてきたアルベルトが、ただその殺気に屈したわけではなかった。時間を稼いでも通用する相手ではないと悟り、せめて部下だけでも助けようと腹をくくったのだ。
「くそったれ……」
確証を得たことで、ドゥインの胸にブラウンズへの怒りが抑えきれずに込み上げてきた。
「以前も、同じようなことをしていたんだろうな」
監禁されて生きてきたエスターの壮絶な過去を思い出し、ドゥインの手元にぐっと凄まじい力がこもった。その拍子にアルベルトの首に剣が食い込み、傷が深くなった。
「殿下、おやめください! 彼には公の場で証言させなければなりません」
ベンの制止により刃はわずかにそれ、致命傷は避けられたが、アルベルトは苦痛のあまりすでに気を失っていた。
「分かっている。殺しはしない」
ドゥインは怒りを抑えるために深く息を整え、剣をサヤに収めた。
「医者を呼んで治療させろ」
理性を取り戻すと、冷たい夜風に当たるために牢の外へと出た。
「大丈夫ですか?」
「ブラウンズ……あの男への沸き立つような殺意が湧いた。あの瞬間、奴があいつ(過去の宿敵)に見えた」
「承知いたしました」
「ベン、四大名家の会議を招集する。日程はできるだけ早く。ブラウンズ家を除いた残り二家と調整してくれ。ああ、場所は王宮がいい」
ブラウンズが公爵の娘を襲撃したという事実を証言する明確な証人まで手に入れた以上、これ以上待つ必要はなかった。
「承知しました。それと、公爵邸に送っておいたルシファーも連れて戻ってくるのはいかがでしょうか。今回の会議の大きな助けになるかもしれません」
「それがいいな」
ルシファーを送った本来の理由を思い返しながら、ドゥインは疲れた目で夜空を見上げた。
コツ、コツ、と静かに足音が響く。
地平線の向こうからは、すでに新たな波乱を予感させる朝日が、白々と昇り始めていた。
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【エスターの誕生日会への招待と、深まる家族の絆】
ドフィンは大公としての警戒心を完全に解いてはいないものの、娘を救ってくれた皇太子ノアをエスターの誕生日会へと正式に招待する。帰途の馬車内では、エスターを溺愛するドフィンや双子(ジュディ、デニス)の温かい家族愛に包まれ、エスターはドフィンの膝枕で深く安心した眠りについた。
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【追い詰められたブラウンズ公爵の冷酷な切り捨て】
ラビエンヌの聖女資格剥奪と、暗殺ギルドによるエスター誘拐の失敗を知ったブラウンズ公爵は絶望する。もはやラビエンヌでは家門を存続できないと冷酷に娘を切り捨てた彼は、神殿ではなく、残された最後の手段を実行に移すべく断固たる決意で皇宮へと向かう。
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【地下牢での尋問と、ブラウンズ家打倒の決定打】
ドフィンは捕らえた暗殺ギルドの首領アルベルトに対し、部下の命や家族の安全を引き換えにする冷徹な尋問を行い、エスター襲撃の黒幕がブラウンズ公爵であるという決定的な自白(証言)を得る。ドフィンは激しい殺意を抑え、ブラウンズ家を断罪すべく「四大名家会議」の緊急招集を命じた。