こんにちは、ちゃむです。
「公爵邸の囚われ王女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
175話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 新しい夜明け
ユジェニの父であり、そして実のところ王の父でもあったマクレド卿の葬儀を終えたのち、アメルダは自ら望んで、セリデンの地下牢へと入った。
そこは、セリデンの寒さから逃れてきた怪物たちが集まる場所で、どんな罪人であっても、この地の凄惨さの前では苦痛の悲鳴を上げずにはいられない場所だった。ブリエルは、彼女の身分を考慮して、もう少し環境の整った場所を提案した。だが、彼女はそれを受け入れなかった。
やがて、彼はその場所へ足を踏み入れた。
都での慌ただしい日々がひと区切りつくと、ライサンダーは忘れずに、母のもとを訪ねた。
ブリエルが人手を雇い、監獄は新たに清掃されたというが、長年汚れきっていた牢獄には、独特の湿った土の匂いが今も染みついていた。
――王室の赤き薔薇、アメルダ・セファスが、本当にこんな場所にいるというのか? それも、自ら望んで?
ライサンダーは、どうにも信じられないという表情で、薄暗い周囲を見渡した。地下道を照らしているのは、ところどころの壁に掛けられた、淡い光を放つランプだけだった。
彼女は、牢獄の最も奥にいた。ライサンダーは程よい距離を保ったまま立ち止まり、檻越しに彼女の姿を見つめる。
装飾のない黒いドレスに身を包んだ彼女は、唯一の家具である簡素な寝台に腰を下ろしていた。そして――誰かが置き去りにしていった小さな木箱の上の一本の蝋燭を灯し、そのかすかな明かりを頼りに、本を読んでいたのだった。
「……母上。」
彼の呼びかけにも、返事はなかった。彼女はただ黙々と書物に目を落とし、読み進めているだけだった。
「間もなく、私が即位することになります。母上にも、必ずお伝えしなければならないと思い、こうして直接参りました。」
彼にとって王位とは、アメルダの人生そのものだった。それが今、完全に消え去ってしまったのだ。この現実が、彼女にとってどれほど耐え難い苦痛であるか、想像に難くなかった。
しかし、それでも反応は返ってこない。代わりに、紙をめくる乾いた音が、返事のように響いた。
「兄上は、血統に関する件を公にするおつもりはないと仰いました。ただし、後世に閲覧が許される王室の公式記録には、事実を明確に残すとのことです。」
マクシミリアンがこの事実を公表しない理由については、『先王の遺志を尊重するため』だと説明された。そして、彼が最後に残した手紙には、すでにライサンダーを実子として認める旨が記されていた。そう言って、彼女はそれを受け入れたのだ。そして同じ理由から、バレンタインもまた、王子としての地位にとどまることを選んだ。
「兄上は、今この瞬間からでも、皆が幸せに生きられる道を探さねばならない、とおっしゃいました。だから……」
ライサンダーが言葉を詰まらせる間も、背後では、静かにページを繰る音が途切れなかった。
「――あの方は、決してセリデンを離れられない、とも」
それは、ライサンダーの進退を巡り、マクシミリアンが熟考の末に口にした答えだった。
『セリデンの発展事業は、ようやく動き始めたばかりだ。長年、我が民とともに歩んできたこの仕事を、他の誰かに委ねることはできない。どうか、私が冬城に対する責務を、最後まで果たせるようにしてほしい』
そう語りながら、彼は――自分がその地をどれほど特別に思い、深く愛しているのかを、静かに、しかし確かに語ったのだ。妻と娘との思い出が刻まれたその場所を守るためなら、自分は何をも厭わない――そんな決意とともに。
もしかすると彼は、最期の瞬間まで、あの冷たい土地を選ばなかったのかもしれない。ライサンダーは、セリデンにおいて完全に兄の存在を消すという決断に、少なからず胸の痛みを覚えていた。
それでも同時に、その判断が、比較的立場の弱い二人の弟を守るためであったことも理解していた。たとえバレンタインやライサンダーが、新たなセリデン公としてこの地に戻ってきたとしても、彼らが魔物と直接刃を交えることはないだろう。
「……だから、少しだけ寂しいのです。」
彼は苦みを帯びた表情のまま、ゆっくりと頭を下げた。
「母上が思い描いておられた未来が、こうして現実のものとなりました。形は多少異なりますが……バレンタインが、私の後を継ぐことになります。」
「……あ。」
初めて、反応が返ってきた。アメルダがようやく書物から視線を離し、顔を上げたのだった。
「もちろん、まだ幼いからこそ――兄上と私は力を合わせて、しっかりとバレンタインを支えていくつもりです! ……そうでしょう、母上? 兄上は、必ずバレンタインを守ってくれるとおっしゃいました。――母上の、末のご子息を!」
そう言った彼は、込み上げるものを抑えきれず、涙をこぼした。
「……本当に、あるんだ……」
だが、返ってきた言葉は、どこか少し違っていた。
「……母上」
「――本当に、書いてあったの。私の名前が……ああ……」
彼女は本を手にしたまま、牢の扉の前まで歩み寄ってきた。その本から、ずっと目を離さなかったまま。
そのとき、ライサンダーはようやく気づいた。それは印刷された書物ではなかった。誰かが丹念に書き綴った、手書きの日記だったのだ。日付と、その日の出来事が、どこか不揃いな筆致で、丁寧に記されていた。
実に不思議な代物だった。表紙は高価な布で仕立てられており、手に取った紙も厚みのある上質なものだったが、肝心の文字だけが、ひどく不格好だった。
「……ああ、エレオノーラ……」
アメルダがその本を大切そうに抱きしめて、ようやくライサンダーは、その文字の主が誰なのかを悟った。
彼女と母が一緒にお茶を飲む日には、ライサンダーはマクシミリアンとともに庭の片隅に身を潜め、二人の様子をこっそり眺めることもあった。いつも厳格な母が頬を赤らめて照れたり、子どものように拗ねてみせたりする姿が面白くて、思わず笑ってしまったこともある。誰からも好かれてしまう、その優しさ。それこそが、エレオノーラ王妃の本当の力だった。
「まったく、ひどい女だな。こんな下手な字で、よりによってこのアメルダの名前を書くなんて!」
「…………」
「それに、私の名前の前に、よくも『私の弟』なんて――」
――そう書き残してくれた、あなたのその愚かさと、ひたむきさを……どうして、私が愛さずにいられるでしょうか。
そう言って、彼女は――かつて庭園で見せたように、頬を赤らめた。長い牢獄生活で、すっかり色を失っていた顔に、久方ぶりの血の気が差したのだ。
「……あなたを……殺したい」
続けてこぼれた囁きは、まるで熱に浮かされた告白のようだった。胸いっぱいに満ちる、息が詰まるほどの幸福に、しばし身を委ねて――。
「……あ」
彼女は何かに気づいたように虚空を見つめ、やがて瞳の焦点が合っていく。――まるで、夢の縁から現実へと引き戻されたかのように。
「あ、あああっ!」
彼女は本を抱えたまま、その場に崩れ落ち、床に膝をつくと、激しく嘔吐し始めた。
「…………」
ライサンダーは、鉄格子の向こうへと手を伸ばし――彼女へ近づこうとした。彼女の肩を、そっと叩いてやりたかった。だが、ライサンダーはそれを思いとどまった。なぜか……母が何を考えているのか、分かってしまった気がしたからだ。
それは、かつてライサンダーが王城の廊下で、マクシミリアンを何度も何度も待ち続けていた頃と、よく似ていた。そして、アメルダが待ち続けている相手は――エレオノーラ王妃。もう……この世にはいない人だ。しかも、それはアメルダ自身の手によるものだった。
「……ごめんなさい」
ライサンダーは、唇を噛みしめながら、到底埋め合わせにはならない謝罪を口にした。母と彼は、同じ罪を背負っている。だが、救われたのが彼だけだったという事実が、あまりにも残酷で、胸を締めつけた。
「もし、私が兄上を殺していたなら……母上と同じ罰を受けていたはずだと、分かっています」
永遠に帰ってこない人を待ち続け、その喪失に苦しみ続ける――それこそが、彼女に与えられた罰なのだ。
「一生をかけて……償います。私たちの罪が消えることはないでしょう。それでも、せめてこの世界に残された苦しみが、ほんの少しでも減るように……」
ライサンダーは、冷たい鉄格子を強く握りしめた。
「……聞いていますか、母上?」
だが、返ってきたのは、変わらぬ沈黙だけだった。
それでもライサンダーには、母がなぜ自ら進んで、この場所に身を置いたのかが、わずかながら理解できた気がした。気高く、誇り高い貴婦人であったアメルダは、こんなふうに正気を失った姿を、誰の目にも晒したくなかったに違いない。同時に――たった一人、何よりも大切だった存在を、自らの手で殺めてしまったという事実への、罰を望んでいたのだろう。これほど苦しみながらも、なお自ら命を絶たずに生き続けることさえ、彼女にとっては贖罪としては不十分だった。
それほどまでに、彼女は厳格だったのだ。――ライサンダーが、ずっと愛し、敬ってきた、その厳しさで。
「……もうすぐ、正式な戴冠式があります。正しく――返事すらもらえなくて、来ていただくことも叶わないでしょうが……それでも……どうか、見守ってください。母上」
それ以上の答えを待つことなく、彼は踵を返し、牢を後にした。背後から聞こえてくる、押し殺した嗚咽のような泣き声は、いつまでも途切れることがなかった。
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一方その頃、ライサンダーと共にセリデン邸へ戻ったマクシミリアンは、ブリエルの前で、自身の「無価値さ」を堂々と証明していた。
「私は、戴冠式において最も取るに足らない装飾品にすぎません」
「そんなはずはありません。セリデン公爵がバレンタイン王子殿下を支持するというのが、どれほど重要なことか。その際、ゴーレムの下で見つかった宝石を献上されるのでしょう?」
代々、直系の後継者にのみ受け継がれてきた王室の――王家の宝剣を捧げるというのは、きわめて象徴的な行為だった。
「それは郵送するつもりです。差出人にはセリデン公爵、受取人にはバレンタイン・セファスと記しておけば、誰の目にも、私が彼を支持していると分かるでしょう」
「王家の宝剣を……郵便で送ると?」
「はい。持ち主に代わって品物を運ぶのは、郵便局の重要な業務です。何か問題がありますか?」
――いや、どう考えても問題だらけだった。ブリエルは、切実な眼差しで夫を見つめ、きっぱりと首を横に振った。
「だめよ。やっぱり許可できないわ」
「……あぁ……」
マクシミリアンは、今にも世界が終わるかのような顔になった。
「で、でも……!」
彼は気を取り直し、もう一度彼女を説得しようとした。
「セファスの古くからの伝統によれば、妻が子を産む際に、誓いを守るのは夫の義務だとされています。私はこの国の血統を継ぐ者として、その伝統を受け継がねばならない立場なのです」
「……ふむ」
今回はさすがに反論しづらいと、ブリエルは一瞬眉をひそめた。だが、すぐに手を打ってこう言った。
「わかりました。ですが、戴冠式には出席してください」
「そんな理不尽な!」
「出席してください」
「……本当に……」
ブリエルは両目をぎゅっと閉じた。押し寄せる魔物の大群を前にしても、身じろぎ一つしなかった広い肩が、深く沈み込む。
「……ああ、わかり……ました」
「よろしい。では、子を産むことは私に任せてください! なぜか、うまくできそうな気がするんです」
ブリエルは、ふっくらと膨らんだお腹を撫でながら、楽しそうに笑った。だがマクシミリアンは、彼女の身を案じて生きた心地がしなかった。すでに出産予定日は過ぎているというのに、陣痛が始まる気配がまるで見えないのだ。ロザリにこのことをそっと相談すると、彼女は微笑みながら、あっさりと言ってのけた。
「初産のときは、よくあることですよ」と。
――いや、だとしたら。最初から予定日を、もっと後に設定しておくべきではなかったのか。こんなに呑気に構えるくらいなら、あの“予定日”という言葉はいったい何のためにあるのだ!
「あ、それからね」
何かを思い出したように、ブリエルは話を続けた。
「クラリスも連れていってちょうだい。あの子、今日の昼間、絶対に王都へは行かないって、私にずいぶん強く念を押してきたでしょう? まったく……もう反抗期なんて、早すぎない?」
そう言って、彼女はくすくすと笑った。
「でも、もう逃げられないわよ。――今さら、どうしようもないんだから」
「……っ!?」
マクシミリアンは片目を大きく見開いた。彼は、自分の妻に対して“えこひいき”をするなどという行為を、想像したことすらなかった。だが、それが可能だという。やはりクラリスはすごい……。
――いや、自分もえこひいきをすれば、ここにいることが許されるのかもしれない。
彼は慌てて姿勢を正した。セリデン邸の石壁を手でなぞることも忘れなかった。この壁にはクラリスの力が染み込んでいるはずだ。それを受け継ぐなら、自分にも同じ勇気が芽生えるに違いない。こうして彼は、結婚生活十年にして初めて、尊敬する妻に対してえこひいきをすることを決意したのだった。
「それなら、私もクラリスと一緒にここに残――」
「いいえ、行ってください」
「……はい」
――失敗した。
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幸いにも、マクシミリアンは“セリデン公の夫”としての最低限の務めを果たすことができた。戴冠式への出席について話していたその夜、ついにブリエルに陣痛が訪れたのだ。
マクシミリアンは、妻が痛みを感じた時刻を克明に記録し、必死に言葉をかけて彼女を落ち着かせながら、屋敷で待機していた医師たちと、経験豊富な侍女たちを総動員した。彼は覚悟していた。これまで読んできた出産に関する書物のすべてを、今日この日のために使い切るつもりでいた。
――だが。実際に彼ができたことと言えば、ブリエルの手を握り、気を失わないように名を呼び続け、額に浮かぶ汗を拭ってやることくらいだった。それだけだった。
それでも彼は、決してその手を離さなかった。どれほど非力で、どれほど無力でも、ここにいると、そばにいると、そう示し続けることだけは、やめなかった。嵐のような夜の中で、マクシミリアンはただ、ブリエルの鼓動と呼吸に耳を澄ませながら、ひたすらに祈り続けていた。
その苛烈な苦しみを和らげる方法は、ひとつもなかった。彼は、自分がここでは結局のところ、取るに足らない飾りに過ぎない存在であることが何よりもつらかった。
一方でブリエルは、あれほどの苦痛の最中でさえ、時折笑みを浮かべるほどに気丈だった。夜明け前の暗闇が去り、朝日が昇ったころ、皆が待ち望んでいた二人の第二子が、この世界に迎え入れられた。それは、かつてブリエルが語っていた通りの――男の子だった。
ブリエルが腕に抱いた赤子の、物珍しそうにくしゃくしゃとした顔をのぞき込むと、マクシミリアンは寝台に身を伏せ、ほとんど泣き崩れていた。
「もう二度と、あなたにこんな思いはさせません。絶対に……」
「そんなことを言うのは、生まれてきたこの子に失礼ですよ。ほら、こんなに可愛いでしょう」
ブリエルは疲れた様子こそ見せていたが、両頬は健康的な色に染まり、微笑みながら、布に包まれた小さな赤ん坊をそっと彼に差し出した。
彼は、ようやく生まれた我が子と向き合っていた。初めて腕に抱いたその存在は、彼の前腕よりもずっと小さく、あまりにか細くて、壊れてしまいそうだった。小さな身体には指もきちんと揃っていて、その先には米粒のように小さな爪まで、確かに付いている。
――これほど小さなものが、この世に出るために。十人を超える大人たちが、一晩中右往左往していたのだと思うと、なぜだかひどく不思議に感じられた。
「……小さすぎないか」
「赤ちゃんですもの」
ブリエルは、当然でしょうとでも言うように言って、もう一度赤子を差し出した。彼は消毒された布に包まれた我が子を、恐る恐る、それでいて急ぐように受け取った。腕の中の重みは、ほとんど感じられないほど軽い。それなのに――胸の奥に、ずしりとした何かが落ちてきた。
赤子は、ブリエルにも似ている気がしたし、クラリスにも似ている気がした。あるいは、誰にも似ていない、この子だけの顔なのかもしれなかった。どうであれ、確かなことが一つあった。
――この命は、もう自分のものではない。彼はすでに、この小さな生命に、すべてを差し出してしまっていたのだから。
腕の中で、赤子がかすかに身じろぎをする。小さな指が、彼の服の端を掴んだ。その瞬間、マクシミリアンは、言葉にならない息を吐いた。
守らなければならない。何があっても。過去も、罪も、王冠も、責務も――すべてを背負ってでも。彼は、初めて本当の父になったのだ。
彼女がその人を深く愛していることを、彼はごく自然に理解した。ほどなくして知らせを聞きつけたクラリスが、寝間着の上に薄い外套を羽織ったまま、慌てて駆け込んできた。
「どうして……どうして私に一言も知らせてくださらなかったんですか……!」
陣痛が始まったのはクラリスが床に就いた後のことだったため、夫妻は成長期の子どもをわざわざ起こさなかった。その点がどうにもクラリスには不満だったらしい。頬をいっぱいに膨らませている様子からも、それがはっきりと伝わってくる。
扉を開けて入ってきた彼女は、まずマクシミリアンの腕の中に抱かれた赤子の姿を見つけた。
「……あっ」
マクシミリアンは、クラリスがすぐさま駆け寄って赤ん坊を抱きたがるものと思っていた。だが彼女は、さっと自分の身なりを確かめると、はっとしたように後ずさった。
「わ、私、顔を洗ってきます。服もちゃんとしたものに着替えますね。こんな格好で初対面なんて……そうしたくないんです」
ぱたぱたと部屋へ駆け戻ったクラリスは、夏の夜にかいた汗をきれいに洗い流し、装飾のほとんどない落ち着いたワンピースに着替えてから、再び部屋へ戻ってきた。そして育児書を完璧に読み込み、マクシミリアンから赤子の抱き方を教わったあと、ようやく初めて赤ん坊を腕に抱くことができた。
「こんにちは、セリデンへようこそ。」
クラリスは初めて会う年下の家族に、心からの幼い挨拶を向け、ブリエルとマクシミリアンに向かってやさしく微笑んだ。二人もまた、クラリスにつられて笑みを返す。
「内壁は、あなたが早く成長して、壁いっぱいに落書きをしてくれたらいいなって言っていて、外壁は何も言わないけれど、正門の前にきれいな雪だるまを作ってくれるのを期待しているみたい。それから、私は……」
クラリスは、赤ん坊を落としてしまわないか心配になったのか、少しぎこちない姿勢のまま抱き続けていた。しかし、腕の中の子をそっと覗き込むと――その眼差しは、この世の何よりも柔らかかった。
「目を上手に使えるよう、ちゃんと教えてあげるわ。あなたはセリデンの子なんだから」
「私の娘は、目の使い方の名人になるのよ」
マクシミリアンは、そう言ってクラリスの頭をそっと撫た。彼女は、小さな子どもに目の使い方を教えている自分の姿を思い描いたのだろうか。期待に満ちた、どこか楽しげな微笑みを浮かべている。
「子どもには、木の上に登った記念日も作ってあげなくちゃね。クラリス」
ブリエルの言葉に、クラリスは勢いよくうなずいた。
「もちろんです。それは私たち家族の誇りある伝統ですから」
いつの間にか静かに近づいてきたロザリアが、クラリスの腕の中から赤子を抱き上げた。体を清める必要があるからだ。クラリスは名残惜しさを隠そうともせず、ロザリアの腕に移された赤子を、いつまでも見つめ続けていた。
ぬるめのお湯で気持ちのいい短い沐浴を終えた赤ん坊は、再びロザリアの腕に抱され、やがてベビーベッドへと寝かされた。その上では、クラリスが前もって用意しておいたモビール式の平和塔がくるくると回っている。いつかこの子の楽しみになる日を、心待ちにしているかのようだった。
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「いいですね? アチに何かあったら、必ず鐘を一度鳴らしてくださいね? 約束ですよ?」
戴冠式に参列するため王都へ向かう、その出発前のことだった。クラリスは内壁と外壁に溢れるほどの魔力を配りながら、何度もアチの様子を見てほしいと念を押した。
アチ――それが、生まれたばかりの赤ん坊の名前だった。
[もちろんです! 我ら内壁の一同は、すでにアチ坊ちゃまの愛らしさにすっかり魅了され、目が離せなくなっておりますから――捨てられませんよ]
【守護の鐘は、そんな下卑た行いのためにあるのではない!】
「赤子を守ることは、下卑た行いじゃありません。よく考えてみてください。赤子がいなければ、葬列の先頭に“泣き女”を立たせるのは、いったい誰になるんです?」
【大切な赤子殿を害する者は、すべて谷底へ投げ捨ててやる】
外壁は、泣き女にあっさりと占拠されてしまった。
【……もちろん、お前もだ】
彼が小さく付け加えた言葉に、クラリスは笑いながら問い返した。
「外壁の警備ごと、谷底に投げるってことですか?」
【主人を投げ捨てるような愚かな石がどこにいる! お、俺は……違う! 忘れろ!】
[外壁の鐘は、誰であれクラリスを悲しませる者を決して許さない、という意味だ。特に魔法使いシネットに対しての言葉だ]
「……あ……」
[これでようやく、セリデンに残された最後の――侵入者はきちんと遮断してくれるんですよね?]
「ええ、それは当然です。ノアには、いずれ私の気持ちをきちんと伝えなくてはなりませんから」
クラリスは少し迷うように、言葉を選びながら答えた。彼女がここまで逡巡しているのには、理由があった。
ノアに『お母様が残されたもの』について手紙を送って以来、どうにも……微妙な返事ばかりが返ってくるようになったのだ。何かを隠している、と言うべきか。それでいて、彼の手紙が冷たくなったわけでもない。
「……うん。たとえ私の望む答えじゃなかったとしても、ノアにだけはきつく当たらないで。みんな分かってるでしょう? ノアが北方の国境で、どれほど活躍してくれたか」
壁たちは、何も答えなかった。けれど、彼がどれほど大きな功績を立てたのか、そしてクラリスが彼の便りを心待ちにしていることだけは、確かに理解しているようだった。
「ありがとう。何があっても、アチのことをよろしくね。……分かった?」
[任せてください!]
【問題ありません】
クラリスは急いで帽子をかぶり、自室を後にした。
まだ部屋で静養しているブリエルと赤子に挨拶を済ませると、彼女はマクシミリアン、ライサンダーと共に、王都へ向かう馬車に乗り込んだ。
馬車が走り出すと、窓の外には、かつてないほど美しく澄み渡ったセリデンの青空が広がっていた。数々の真実を乗り越えた彼女たちの胸には、もう未来への恐れはなかった。
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アメルダの贖罪: マクレド卿の死後、アメルダは自ら望んでセリデンの冷たく凄惨な地下牢へと入り、エレオノーラ王妃への深い愛と自らの罪への呵責を抱きながら、永遠に帰らぬ人を待ち続ける過酷な罰の中で生きていくことを選んだ。
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新たな生命の誕生: 王都での戴冠式を控える中、セリデン邸ではブリエルとマクシミリアンの間に待望の第二子である男の子(アーチ)が誕生し、マクシミリアンは父としての深い覚悟を固め、クラリスも姉として大きな愛情を注ぐようになった。
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未来への旅立ち: 王室の血統や過去の複雑な真実が整理され、セリデンを守る壁たちや家族の絆に温かく見守られながら、マクシミリアン、ライサンダー、クラリスの一行は新たな時代の幕開けとなる戴冠式のため王都へと出発した。