こんにちは、ちゃむです。
「余命わずかな赤ちゃん薬師は天才なのを隠さない」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
43話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 錆びぬ冷刃
サン・コンミンは全身を激しく震わせていた。
(どうして……こんなことになったんだ?)
首を踏みつける足は、まるで千斤の巨石のごとき重みを持っていた。額から落ちた汗が地面に沁み込んでいく。あまりの恐怖に頭の中は真っ白になり、ただ荒い呼吸だけが空を切る。
このままでは、真実、首の骨をへし折られて死ぬ。
それは修羅場を潜り抜けてきた武人としての直感だった。目の前に立つ男――フク・ビフとの圧倒的な実力差。どんな悪あがきをしようとも、一瞬で命を狩り取られるという事実を、彼は骨の髄まで痛感していた。
(なぜ……なぜだ……)
この凄惨な事態を招いた始末が、混濁した頭の中に鮮明によみがえる。
『どんな手を使ってでも刺激してみろ。必ず確認するのだ』
『……』
『黒飛侯(フクビフ)、あの間抜けがどう反応するかをな』
主人は優雅にそう囁いた。そんな陰惨な命令を口にしながらも、その優美な顔立ちには一片の揺らぎすら浮かべていなかった。
『あの男の娘は天才らしい。ちょうど試験の結果が私の耳に入ってきたところだ。姉上はまだご存じあるまい』
『……』
『サン・ゴンミン、お前を信頼しているぞ。その小娘を徹底的に叩き潰せ。二度と市場で薬師や医者として顔を上げられぬよう、叩き落としてやるのだ』
主人は口元を扇で隠し、うっすらと薄笑いを浮かべていた。
『偽医者に仕立て上げろ。……ふっ、そう言えば、我が家の愚直な武人がどう動くか、おおよその見当はつくがな』
サン・コンミンは身を竦ませた。主人の言葉に狂いはなかった。
生真面目で融通の利かない武人であった彼は、ただ愚直に主人の命を待っていたのだ。
『決定的な場面で口にすべき言葉を授けてやろう。フク・ビフを揺さぶるのなら……奴が少しでも過去を、あの記憶を取り戻しているのなら、必ずや“その言葉”に喰らいついてくるはずだ』
彼は、主人の指示通りに動いた。一言一句違えず、何一つ余計なアレンジを加えることなく。
『そして、奴が乗ってくれば作戦は成功だ』
自分に非があるとすれば、それは主人の命を忠実に遂行したことだけだ。それなのに――。
『し、死ぬ……っ!』
首を押し潰す足輪の力は増すばかりで、今にも首骨が砕ける嫌な音が響きそうだった。たとえここで生き長らえたとしても、二度と武人として立つことは叶わないだろう。
主人は言っていたはずだ。「すべての責任は私が持つ」と。
(……だが、今になって怖気が走る。主人は本当に……巨額の金を投じて、私を元通り治療してくれるというのか?)
その土壇場に至って、サン・コンミンはようやく悟った。自分がいいように騙されていたのだと。主人がこれまで、数多の武士をまるで使い捨ての兵卒か人形のように捨て去ってきた光景を、己の目で見てきたというのに。
(自分だけは特別だと、信じ込んでいたなんて……)
「お前は掛け替えのない存在だ」と甘く囁く言葉など、信じるべきではなかったのだ。あの優雅な笑みの裏にあった冷酷さを、忘れるべきではなかった!
主人はハナから、自分をも盤上の使い捨ての駒としてしか見ていなかったのだ。
(滅びろ……黒家の女め……!)
気づくべきだったのだ。黒家の血を引く直系など、どいつもこいつも同じなのだと。高貴を気取り、腹の底では陰険な企みを巡らせ、武士や薬師を都合のいい道具として扱う怪物たち。
分かっていて、自らこの地に足を運んだはずだった。だが、どう転んでもこの忌々しい帝国を抜け出せるのなら、各地の凄惨な戦場を転々とするよりはマシだと思い込んでいたのだ。結局のところ、求人札を見てハエのように群がったのは自分自身なのだから、自業自得と言われれば返す言葉もない。
「ぐっ……く、苦しい……っ!」
命令は遂行した。だが、引き換えに自分はここで命を落とす。
「黒家の近衛武士が、浅ましく命乞いなどするな」
「ごほっ、がはっ……!」
そこに一切の情けはなかった。まるで冥府の死神のごとき、冷徹な声が頭上から降ってくる。
「教育が届いておらんようだな」
血走った目をかろうじて開くと、そこには感情を一切削ぎ落とした、冷酷な男の顔がぼんやりと映っていた。
「背後の主を裏切れ」
「ぐっ、あ……」
(……裏切れば、あるいは苦しまずに楽に殺してくれるのだろうか)
溢れ出る殺気に射抜かれながら、サン・コンミンはいっそこのまま意識を失い、死に絶えてしまいたいと切望した。
もう終わりだ。
彼は黒飛侯という男の恐ろしさを誰よりも知っていた。かつて黒家において「最凶の剣」と恐れられた男。裏の汚れ仕事を一手に引き受けてきた、一族の狂犬。
記憶を失い、往年の力など残っていないという噂ばかりが独り歩きしていた。その甘い噂を鵜呑みにしたことこそが、最大の致命傷だったのだ。
どれほど錆びつこうとも、名剣はどこまで行っても名剣なのだから――。
サン・コンミンが絶望に打ちひしがれ、死を受け入れようと目を閉じた、その瞬間。
「お父さん」
耳元を掠めたのは、あまりにもか細く、穏やかな少女の声だった。
フク・ビフは、風を切って己の衣の裾を掴んだ娘の姿を見つめた。
(今の自分の顔は、さぞ恐ろしい殺気に満ちているだろう)
かつて数々の修羅を潜り、悪名を馳せていた頃と同じ、血生臭い鬼の相になっているはずだった。己でさえ殺気を制御しきれずにいるのだから、幼い子供にとってみれば、生きた心地もつかない恐怖そのものであるはずだ。
しかし、目の前の少女――ビユは、揺らぎのない澄んだ瞳で父を見上げ、静かに告げた。
「やめて」
「……」
フク・ビフの周囲には猛烈な風の結界が張り巡らされ、何者も立ち入ることを許さなかった。しかし、この小さな娘だけは例外だった。
「殺しちゃ、だめ」
その一言で、彼の荒れ狂う動きがピタリと止まった。
いかなる理屈をもってしても説明のつかない、奇跡のような出来事だった。
「私はね、人を助ける人なの。それに……ここは診療所なんだから」
フク・ビフはゆっくりと足の力を抜いた。まるで、長年仕込まれた忠実な獣が主の命に従うかのように。それどころか、彼は静かに一歩、後ろへと下がってみせたのだ。
ようやく首を押し潰していた重圧から解放されたサン・コンミンは、死の淵から這い上がるように激しく咳き込み、落ちた息を必死に吸い込んだ。
ビユは満足そうに、にっこりと微笑んだ。
「よくできました! お父さん、最高!」
その瞬間。
フク・ビフは一瞬だけ、時が止まったかのように固まった。
『よくやったわ、あなた。本当にかっこよかった』
胸の奥底で、かつて誰かが浮かべた優しい笑顔がフラッシュバックし、痛むはずのない心の傷がちくりと疼いた。
一方、ビユは陰で大きく胸を撫で下ろしていた。
(うわぁ……本当に私の言うことを聞いてくれるなんて思わなかった)
他人の目にどう映っていたかは分からないが、少なくともビユの目には、目の前の父が完全に理性を失いかけているように見えていたのだ。人が激昂した時に現れる独特の身体的変化。
(本当に狂ってしまって、手がつけられなくなるんじゃないかって焦った……)
だからこそ、父に近づく瞬間も半信半疑だったのだ。「やめて」と声をかけたところで、今度ばかりは振り払われるかもしれない――そんな恐怖が頭をよぎっていた。
結果として無事に治まったものの、冷や汗ものだったことに変わりはない。
「ふぅ……」
今、二人は静まり返った診療室の椅子に並んで座っていた。騒動は収まり、野次馬の視線もすっかり途切れている。
外では、チョク・ユハが「落ち着かれるまでは私が後始末をいたします。中でお休みください」と買って出てくれた。ベムベムとラオンの小さな動物たちは、興奮冷めやらぬフク・ビフの殺気に触れて危険が及ばぬよう、タク・ミンジェが黒桂園へと避難させてくれている。
ビユは、父の大きな手をぎゅっと握りしめた。そこは、感情の昂ぶりを鎮めるためのツボだった。
「もう、落ち着いた?」
「……まるで私が、正気を失った狂人のような言い草だな」
「そう見えたよ? 違ったの?」
「…………」
フク・ビフはすぐには答えなかった。どこか気まずそうに視線を泳がせ、間を置いてから重い口を開いた。
「怒りには震えていたが、理性を失ってなどいなかった。最初から……お前の言葉を聞き入れないという選択肢など、私には存在しない」
もちろん、ビユがその言葉を100%真に受けたわけではない。
「……隠す準備でもしていたの?」
「殺そうとしていたのではない。準備の途中で、お前が止めたのだ」
「殺してないもん」
「そうだな」
フク・ビフはしばらく宙を見つめた後、静かに視線を巡らせた。
外からは、「公民殿、ご無事ですか……!」という声と、「いいからお前はあっちを片付けろ!」という怒号が遠く聞こえてくる。
連れていかれるサン・コンミンの最後の姿は、惨めそのものだった。同僚の武士に担ぎ上げられ、引きずられるように去っていったのだ。屋敷に戻ったところで、もう以前のように主人に重用されることはないだろう。
(捨てられるな)
黒家の直系どもは、用済みの道具とみなせば容赦なく切り捨てる。自分をおびき寄せるという当初の目的は、すでに達したのだから。
フク・ビフはそれが自分を嵌める罠だと知りながらも、あえてその誘いに乗ったのだ。
「先に言っておくがな」
フク・ビフはビユの目をまっすぐに見つめた。
「今後、同じような事態が起きた時は、容赦なく前に出ろ。私を止めるためなら、殴ろうが、罵ろうが構わん」
「……私が叩いたって、痛くも痒くもないでしょ?」
ビユは真顔で返した。正気を失いかけた巨漢の剣士を、子供の小さな拳で叩いたところで何になるというのか。
「……私は昔、どうしようもない人間だった」
あまりに唐突な告白だったが、ビユは不思議と驚かなかった。
「幼い子供を除けば、一族の者は皆そのことを知っているはずだ」
「……」
「私は一族の中でも群を抜いた狂人であり、血も涙もない人でなしだった」
その言葉は過去の記憶を語っているようでもあり、記憶を失った今の自分を嘲笑う皮肉のようでもあった。
「……それで、後悔してるの?」
「分からん」
フク・ビフは淡々と答えた。
「後悔できるほど、昔の自分を覚えているわけではないからな」
結局のところ、すべては「失われた記憶」という底なし沼に行き着くのだ。かつての彼は、その事実にどれほど苛まれ、苦悩してきたことか。
フク・ビフの血のように赤い瞳が、しっかりと娘の顔を捉えた。
「さきほど怒りが頂点に達した時、私はこう考えたのだ」
すべてを失った自分が、この小さな娘に残してやれるものは何があるだろうか、と。
「もし……私が狂気に呑まれそうになる瞬間、お前だけが私を正気に繋ぎ止める鎖となれるのなら」
「……」
「一族の者どもも、お前を無下に扱うことはできなくなるだろう、とな」
彼は自らの首に目に見えぬ首輪をはめ、その手綱を幼い娘に委ねることにしたのだ。あまりにも小さく、守る術を持たない彼女を守るために。
この子は恐ろしいほど賢く、聡明だ。かつての栄光を失った落魄の父であっても、まだ娘に授けられる強力な「武器」があった。
「最初に会った日、お前は本館へ行きたいと言っていたな。お前が一族の中で持つべき『影響力』――それを、私が授けてやる」
ビユは思わず目を見開いた。
「一族は今なお、私と私の能力を狙っている。病状を確かめようと執拗に探りを入れ、時には私を抹殺するために刺客すら送り込んでくる」
風を操る能力者――それはこの大陸において、あらゆる勢力が喉から手が出るほど欲する存在だった。だからこそ一族は、記憶を失い廃人同然となった彼を見捨てず、手を変え品を変え刺客や使いを送り続けてくるのだ。
記憶を失った男が、人間という存在そのものに絶望し、ほとほと嫌気が差すには十分すぎる日々だった。
「この世界の誰も、私を意のままに操ることなどできん。……お前以外はな」
フク・ビフは静かに告げると、ビユの背後へと視線を向けた。
そこには、時折ふっと気配を見せる女性の影があった。何かを思い出しかけているかのような、幻影めいた存在。彼の表情に大きな変化はなかったが、自分をまっすぐに見つめ返す少女の瞳が、心の底から愛おしいと感じた。
フク・ビフの口元が、柔らかく解けた。
美しく咲き誇る花にも、愛らしい小動物にさえ、心を動かされたことなど一度もなかった男が。
(――これは、特別な感情なのだ)
己の中にある確かな変化を認めた男は、静かに、けれど揺るぎない誓いを立てた。
「お前が私を、本当の父として認めてくれるその日まで――私はお前だけの、一振りの剣であり続けよう」
-
裏切られたサン・コンミン: 主人(黒家の直系)の命令通りにフク・ビフを挑発したサン・コンミンでしたが、用済みとして見捨てられ、フク・ビフの圧倒的な力に踏み潰され死の淵に追い込まれます。
-
ビユによる制止: 殺気に飲まれ暴走しかけていたフク・ビフでしたが、「殺しちゃだめ、ここは診療所だから」という娘・ビユの一言で、ピタリと動きを止めます。その姿にかつての妻の面影が重なります。
-
父娘の会話: 落ち着いた後、フク・ビフはビユに対し、「私を止めるための鎖になれ」と告げます。一族が自分を狙う中、己を手なづける唯一の手綱を幼い娘に委ねることで、ビユに一族での強力な影響力(武器)を授けようとするのでした。
-
フク・ビフの誓い: かつて「最凶の剣」と呼ばれ人間嫌いだったフク・ビフは、ビユに対する特別な感情を自覚し、「お前が本当の父として認めてくれるその日まで、お前だけの剣であり続けよう」と静かな誓いを立てます。