こんにちは、ちゃむです。
「利用され長女はもう我慢しません」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
27話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 奇妙な契約
「ここは……」
ラディスはその場所を、痛いほどよく知っていた。
前世において、彼女を含む隊員たちはこのマゲス樹を守る魔物たちと、三日三晩にわたって死闘を繰り広げた。最終的に生き残ったのは彼女一人だったが、それは決して勝利などではない。仲間たちのほとんどが命を落とし、かろうじて生き延びた者たちも強烈な魔気に侵され、筆舌に尽くしがたい苦しみの中で息絶えていったのだ。
『だめ……テス、起きて。メリク、目を開けて……!』
朦朧とする意識の中、死屍累々の間をさまよっていた彼女の目に、一筋の不思議な光が飛び込んできた。
あれは、あの魔晶石だった。
五色の気まぐれな輝きを放つ、最後に残された戦利品。何かに引き寄せられるようにそれを拾い上げ、ティルロード家へと持ち帰ったものの、結局はマーガレットの手に渡ることになった因縁の石。
『あれが、今もここにあるの……?』
ラディスは警戒を解かないまま、全身から血を流しながら這うアラクネの背を追った。
たどり着いた場所は、記憶にある場所と寸分違わぬ光景だった。魔界樹の根元にぽっかりと口を開けた、巨大な空洞。
しかし、その場所に魔晶石の姿はなかった。
【巣へ、巣へ……】
アラクネはカチカチと狂おしく八本の脚を鳴らしながら、なおも前へ進み続ける。そして空洞の中央までたどり着くと、ついにその場に糸が切れたように崩れ落ちた。
再び、乾いた甲殻が割れる音が響く。震えていた脚が力なく伸びきり、もうこの蜘蛛が二度と立ち上がることはないだろう。
それでもアラクネは、自身の死など少しも気にかけていないようだった。
彼女は最後まで抱え込んでいた光る卵を、マゲス樹の根元――かつて魔晶石が鎮座していたその場所へと、そっと優しく置いた。
【これで……いい】
そう呟くと、アラクネは二度と動かなくなった。
◇ ◇ ◇
実際には「キーッ、キーッ」という耳障りな鳴き声にしか聞こえないはずだ。だが、まだ微かに息のあるアラクネの意識は、確かに言葉を紡いでいた。
ラディスは剣を構えたまま、慎重に距離を詰める。蜘蛛の胴体からは生臭い黒い血がとめどなく流れ出し、地面に大きな水たまりを作っていた。
【……兄さん】
耐え難い悪臭に鼻をひくつかせながらも、ラディスは息を殺してさらに近づく。
【……セブリが……望んでいるのは……均衡……】
ラディスは思わず眉間を寄せた。
何を言っているのだろう。魔物の言葉が聞き取れるなど聞いたことがない。
魔物にも知性はあり、群れの中で意思疎通を図ることはある。一般的に、姿かたちら人間ルに似た魔物ほど知能が高く、高度なコミュニケーション能力を持つとされる。人魚は人間には理解不能な歌で語らい、エルフには独自の文字文化すら存在する。
だが、アラクネは違った。どれほど人間に近い上半身を持っていようとも、口から漏れるのは野獣の悲鳴だけだったはずだ。犬が吠え、鳥がさえずるのと何ら変わらないはずの鳴き声が、なぜ今ははっきりとした「言葉」として脳に響くのか。
「私に……一体、何が起きたっていうの……?」
心臓が激しく逆巻くように鼓動し、全身が抑えきれない震えに包まれる。
前世の記憶を思い出したときや、魔晶石の魔力を吸収したときでさえ、これほど異常な現象は起きなかった。これはそれらとは比較にならない、おぞましい信じがたさだった。
「これじゃあ……まるで、私が魔物みたいじゃない……」
総毛立つような恐怖に、ラディスは思わず持っていた剣を取り落とした。
「違う……そんなはず、ない」
小刻みに震える両手をゆっくりと目の前まで持ち上げる。
手のひらは返り血で赤く染まっていた。先ほどアラクネの首を刎ねた際、鋭い鉤爪に掠られてできた深い傷から滲み出たものだ。
しかし、その生々しい「赤い血」を見たことで、彼女はかえって奇妙な安堵感を覚えた。
「私は……人間よ」
たとえ一度死んだ記憶を持っていようとも、魔晶石の力を宿していようとも、アラクネの言葉を理解してしまっていようとも――それでも、自分は生身の人間だ。
「私は、人間よ……!」
そうでなければ、耐えられなかった。
彼女の腕からぽたぽたと滴り落ちた赤い血が、床の冷たい石を濡らしていく。
「人間……なんだから……」
プツリと糸が切れたように力が抜け、ラディスはその場に膝から崩れ落ちた。
ねばつく黒い血の匂いの中、両手で顔を覆い、目を固く閉じたまま荒い息を繰り返す。
あまりの混乱に溺れていた彼女は、だからこそ、見ることができなかった。
地面に広がるアラクネの冷たい黒い血と、彼女自身の傷口からこぼれ落ちた赤い血が、まるで磁石に引き寄せられるようにゆっくりと溶け合い、そして消えていくのを。
そして、その傍らで先ほどまで淡く光っていた卵が、突如として眩いばかりの光を放ち始めたことも――。
しばらくして、ラディスは冷たい手で自分の顔を激しく拭い、大きく息を吐き出した。
ここでいつまでも蹲っていても、答えなど降ってはこない。何が起きたにせよ、まずはここから生きて戻らなければならないのだ。
「そうね……帰ろう……」
自分に言い聞かせるように呟き、ラディスは転がっていた剣を拾い上げて立ち上がった。
――その時だった。
血に濡れた指先が触れた瞬間、剣の鍔元から、ふわりと小さな炎が立ち上った。
「えっ……?」
それは、彼女自身が魔力を込めて生み出したものではなかった。
真紅の花びらを思わせるその炎は、熱くもなければ、周囲を焼き尽くすように荒々しく燃え盛ることもない。まるで緑色の分厚い塊の内側から、静かに花が咲くように、じわりと広がっていった。
異変は加速する。剣の表面を何層にも覆っていた緑色の忌々しい塊が、パリパリと音を立てて剥がれ落ち始めたのだ。大きな破片はそのまま床へ落下し、細かな欠片は一瞬で燃え尽きて灰へと還っていく。
そうして、ラディスの手の中で――その剣は、本来の眩い姿を現した。
「……っ!」
緑の呪縛から解放された刀身は、息をのむほど美しかった。
普通の鋼でも、魔力で強化された合金でもない。まるで漆黒の夜空から削り出したかのような、しかし圧倒的な光沢を放つ銀色の剣。長い間あの不気味な塊の中に閉じ込められていたというのに、まるで今この瞬間に鍛え上げられたかのような、神聖なまでの輝きをまとっていた。
「これ、今度は一体何なのよ……?」
現実逃避するようにぎゅっと目を閉じ、もう一度見開く。だが、目の前の光景は消えない。どうやら、彼女の受け止められるキャパシティはとうに限界を超えてしまったらしい。誰かに悪質な幻覚魔法でもかけられ、その隙に手の中の武器をすり替えられたとしか思えなかった。
「これ……もう私の知ってる剣じゃない気がするんだけど……」
困惑する彼女の目の前に、ふわりと奇妙なものが浮かび上がった。
【ゴミではない】
それは、半分ほど燃えかけて「ヘス」と「ティア」の文字がかろうじて残る、かつて彼女が柄に貼り付けていたあの紙片だった。
ラディスは現実から目を背けるように両腕で顔をゴシゴシと擦り、現実逃避を断ち切るように大きく目を見開いた。
その時だった。
【……ティア】
「……?」
【ヘスティア……!】
耐えかねて、ラディスは思わずその剣を床へと投げ捨てた。
頭を冷やすように死んだアラクネの死体、光る卵、そして意思を持つかのように独りでに変化した剣を順に見回す。どれをとっても怪異のオンパレードだった。
「……もう何も見なかったことにしよう。全部ここに置いて帰ろう」
【おい、私を投げるな!】
ガタガタと震えながら背を向けたラディスに、容赦なく声が飛ぶ。
「ふぅ……」と盛大に深呼吸を一つし、彼女は一歩を踏み出した。
【ヘスティア】
「……」
【ヘスティアよ!】
「違うっから!」
悲鳴を上げながら振り返ったラディスは、その光景に完全に凍りついた。
先ほどまで確かに床に転がっていたはずの剣が、柄を下にして、まるで人間のようにシャキッと立ち上がっている。
「うそ、でしょ……?」
【ヘスティアよ、我が魂と結ばれし者よ……!】
「まさか……剣が、喋って、動いてる……?」
ラディスは喉の奥でごくりと生唾を飲み込んだ。
【摂理により宝座へと選ばれし者よ。その血に宿る力によって、我を目覚めさせ……】
これ以上聞いていたら頭がどうにかなってしまいそうだ。ラディスはくるりと背筋を向け、一目散に駆け出した。
「呪われた剣だーーっ!」
そして、マゲス樹の太い根にしがみつき、よじ登ろうとしたその瞬間――。
ヒュッ。
背後から飛んできた剣が、まるで吸い付くように彼女の指の間にぴたりと収まった。
「わ、わ、わあっ!?」
【私の話を聞け!】
パニックに陥ったラディスは、無意識のうちに全魔力を引き寄せ、その手に握った剣を背後へと思い切り振り下ろした。
キィン!
「きゃっ!」
【うわっ!】
痛かった。本気で痛かった。
確かにマナを込めて叩きつけたはずなのに、手応えはまるで素手でぶ厚い鋼の壁を全力で殴りつけたかのような、骨の髄まで響く激痛だった。ラディスは空洞の壁にもたれたままずるずると座り込み、ジンジンと痺れる拳を両手で押さえた。
【うわあっ、ああっ! ど、どうしてそんな暴力を振るうんだ!?】
剣のほうも相当慌てているらしい。一人で床の上をゴロゴロと情けなく転がり回っている。
ラディスは目に浮かんだ涙を必死にこらえながら、かすれ声で言い放った。
「さすが魔物の森ね……こんな頭の狂った変な剣まで落ちてるなんて。私、もう帰るから!」
【ヘスティア!】
「だからそのヘスティアって誰よ!」
剣も少しは落ち着いたのか、再びガタガタと体を起こし、ふらつきながらも立ち上がった。
【君だ】
「違うわよ!」
【おお、ちょうどあそこにクロノスもいるな】
剣は誇らしげに、柄頭(ポンメル)で例の光る卵を指し示した。
熱を帯びてヒリヒリする拳をさすりながら、ラディスは冷ややかに言った。
「よし。じゃあ、その剣も卵も、仲良くここでトモダチとして暮らしてね。いいわね?」
【いや、私はクロノスなどとは関わりたくない! 私の主はお前だ、ヘスティア!】
「はあ?」
「私に名を与えよ。それでお前と私の契約は完成する!」
「断るわ」
【えっ……?】
ラディスのあまりに冷淡な即答に、剣の動きがピタリと止まる。
「正体も分からない、勝手に喋る変な剣と契約なんて……なんで私がしなきゃならないのよ。絶対にしない。ただの鉄の塊で十分だから!」
【え、えぇっ!? そんな悲しいことを言うな!】
「あなたはここにいる方がお似合いよ。あのクロノスとかいう卵と一緒に、仲良くのんびり暮らしなさい」
ラディスが今度こそ完全に背を向け、冷酷に歩き出したその瞬間。
――ドスッ!
凄まじい風圧を伴って飛んできた剣が、彼女の足元の床に深く突き刺さった。
【ど、ど、どうしてなんだ、ヘスティア!? 私はこんなにも君を……!】
「人違いです。私はヘスティアなんかじゃありません」
【ヘスティアでないはずがない! お前の血で私を目覚めさせたではないか!】
「違うわよ」
ラディスは、うずくまったまま息絶えているアラクネの巨大な死体を顎でしゃくってみせた。
「彼女よ。彼女があの場でたくさん血を流したの。血を浴びたのは彼女のほうよ」
【あれは魔物だろう!?】
「あなたも十分そっち側の生き物に見えるけど?」
【ぐっ……!】
図星を突かれたのか、剣はプルプルと情けなく震え始めた。
傍から見れば、人間と武器が口喧嘩をしているというこの上なくシュールで滑稽な光景だったが、今のラディスにそんな茶番を楽しんでいる余裕など微塵もなかった。
彼女はマゲス樹の根元に力なく腰を下ろし、本日何度目か分からない深い、深いため息をついた。
「はぁ……もう二度と、こんな呪われた場所には足を踏み入れたくない……!」
【……】
剣は何かを深く考え込むように、パタリと動かなくなった。
――いや、剣なのだから黙っていて当然なのだが。
「私はもう行くからね」
ラディスは洞窟の出口へと続く壁をよじ登るため、近くに垂れ下がったマゲス樹の太い根に手をかけた。
【なるほど。だから、どちらも完全には目覚めていなかったのか】
「……は?」
【お前、過去の時間を巻き戻したな?】
その一言に、ラディスは心臓が凍りつくような衝撃を受けた。
掴んでいた根から思わず手が離れ、その場にずるりと滑り落ちそうになる。彼女は目を限界まで見開いたまま、恐る恐る背後を振り返った。
ラディスは立ち上がり、じっとその銀色の剣を見据えた。
「今、何て言ったの……?」
【ふむ、これはなかなかややこしい因果だな。どちらの魂も完全に定着しておらず、かといって完全に眠っているわけでもない。まあ、主の補佐とはそういう役割なのだがね】
「さっきから、何を勝手に……!」
【フフフフフ!】
剣は不気味に、しかしどこか誇らしげに笑った。
【お前、自分の身にいったい何が起きたのか、本当は分かっていないのだな? その秘密を知りたいだろう? だがその前に、まずは我々の契約を完全に済ませよう! 私がこの自我を保つために……ヘスティアよ、私にふさわしい名を授けろ!】
ラディスは心底うんざりしたように、深い深い絶望のため息をついた。
そのとき、足元の地面に転がっている一本の小枝が視界に入った。先ほど彼女が雑に書き殴った、あの文字が微かに残っている。
【ゴミではない】
ふと、その言葉が脳裏をよぎる。
「……レギア」
彼女が無意識にその音を口にした瞬間、銀色の剣から再びまばゆい真紅の炎が噴き上がった。
今度の炎は先ほどとは比べものにならないほど巨大だった。剣はまるで夜空を焦がす大松明のように激しく燃え上がり、薄暗い洞窟の隅々まで鮮やかに照らし出す。
【レギア……! 良い、実に素晴らしい名だ。『王』を意味する古き名か……! まさにこの私にふさわしい、気高い名だ……!】
「いや、そういう深い意味でつけたわけじゃないんだけど……」
【ヘスティア! 我と永遠に運命を共にする者よ! 均衡を守るために選ばれし守護者よ! そなたはその血に宿る奇跡の力で長き眠りから我を目覚めさせ、新たな自我にふさわしい真の名を授けた。これをもって、我らの契約はここに成就した!】
剣は止まることを知らない猛烈な勢いでまくし立てる。もし実体のない鉄の塊に舌があったなら、とっくに噛み切っていただろうと思えるほどの熱弁だった。
【レギア……気に入ったぞ。ははははは!】
「……」
ラディスは、興奮のあまり四方八方へ火花を散らす鬱陶しい剣を、冷めた目で見つめていた。やがて剣の表面を包んでいた炎が次第に収まり、力尽きたようにカランと地面に落ちて沈黙する。
「……満足した? それで気が済んだわけ? じゃあ、さっきの話の続きをしてもらえるかしら」
【……】
「私が時間を巻き戻したって言ったわよね? どうしてそれをあなたが知っているの?」
【……】
「それより、私の身にいったい何が起きたっていうの? せめてその理由だけでも教えてくれないと困るんだけど」
【……】
「ねえ、今さらまた普通の剣のふりをしたって無駄よ?」
【……】
「はぁ……」
ラディスは熱を持ちすぎて痛む耳たぶをそっと指先でさすり、再び重い足取りで洞窟を後にしたのだった。
◇ ◇ ◇
剣をその場に捨てていきたい気持ちは山々だったが、「時間を巻き戻した」などという聞き捨てならない秘密を握られている以上、置いていくわけにもいかなかった。
ラディスは心底気が進まない面持ちのまま、そのおしゃべりな剣を適当に腰の鞘へと納め、薄気味悪い洞窟を抜け出した。
そのまま一目散に魔物の森を突っ切って帰ることもできたが、彼女はふと足を止め、先ほどの石門の前へと引き返すことにした。
「やっぱり、あそこの文字が引っかかる……」
先ほど苔を剥ぎ取った場所。
ラディスは、平凡な鉄くずのふりをしているおしゃべりな剣の鋭い切っ先を借り、石門の表面を頑固に覆う分厚い苔を丁寧に削り落としていった。
案の定、隠されていたものはそれだけではなかった。
丁寧に磨き上げられた石門の硬質な表面には、誰かが古代の強い魔力で刻み込んだような、長く美しい一筋の線が浮かび上がっていた。
ラディスはその線に沿って、さらに周囲の苔を払っていく。
線の先端は、ぴたりと一つの方向を指す矢印になっていた。
「ここに、まだ何か隠されているってこと?」
ラディスは矢印が示す先の汚れを拭い去った。
「これは……」
そこには、紛うことなき古代の文字と紋様が刻まれていた。
ゲートで見かけたものと酷似しているが、それよりもはるかに繊細で複雑な形状をしている。縦長に描かれた紋様の中央には、ちょうど丸い何かが収まるほどの円形のくぼみがあった。
「これがもしゲートの起動装置なのだとしたら……ここに魔晶石をはめ込めば、動くかもしれない」
だが、今のラディスは肝心の魔晶石を持っていなかった。
「……まさか、アラクネの死体があるところまで、もう一度取りに戻れって言うの?」
普段の彼女なら迷わず取りに戻っていたはずだ。だが、あの空洞であまりにあっけない最期を目の当たりにしたせいか、どうしようもない後味が残り、彼女はアラクネの亡骸をそのまま放置してきてしまっていた。
それでも、この謎を解くために必要不可欠だと言うなら、戻るほかないのだろうか。
「うーん……」
念のため、彼女はためらいがちにソウルイーターの柄に手を置いた。
「えっ……!?」
瞬間、ソウルイーターが自発的に猛烈な光を放ち始めた。
「な、なんで……?」
底知れぬ闇の渦に吸い込まれていくように、彼女の視界が一面を真ッ黒に染め上げていく。まるで全身の肉体と精神が細かく分解されていくような、強烈な浮遊感。
[……ティア]
「ん……?」
[帰って……きた……のね……]
どこか遠い記憶の底から、あるいは目の前のすぐ近くから、一本のろうそくに火が灯るような気配がした。それは懐かしく、そして温かな光だった。
彼女の意識は、抗う間もなくその光へと引き寄せられていく。
「あなたは……果たさなければならない……」
「何を……?」
やがて、その優しい温もりに満ちた光が、すっぽりと彼女の体を包み込んだ――。
◇ ◇ ◇
ルセル侯爵邸。
「一体、どこへ消えたんだ……ッ!」
静まり返ったルセル侯爵の寝室。
風呂上がりなのか、腰に一枚のタオルを無造作に巻いただけの姿で、イヴ・ルセルは大きなベッドの端に深く腰掛け、頭を抱えていた。
「ラディス……一体どこにいるんだよ……」
はぁ、と絞り出すような溜息が漏れる。
――私の、かけがえのない大切な人……まるで本当に、青空の向こうへ飛んでいってしまったかのように。
「まさか……地面の底にでも飲み込まれたわけじゃないだろうね?」
ラディスが姿を消してから、すでに三日が経過していた。
もともと「夜の散歩」と称して夜歩くことの多い彼女だったが、夜明け前には必ず自室へ戻ってきていた。そのため、イヴ・ルセルも最初はそれほど深刻に捉えていなかったのだ。
ラディスは年齢以上に落ち着いており、肝が据わったところもあった。だからこそ、彼女の自立心を尊重してあまり干渉しすぎないようにしていた。これまで苦難ばかりの人生を送ってきた彼女なのだから、少しは自由に羽を伸ばさせてやりたいという甘えもあった。
だが、それが裏目に出た。信じすぎて自由にさせすぎたのが、最大の失敗だったのだ。
屋敷の周辺をしらみつぶしに捜索させ、近隣の町やラリングへも人を走らせ、さらには実家であるティルロード家に戻ったのではないかとまで調べさせたが、ラディスの足取りは完全に途絶えていた。どこにも痕跡すらない。
「ラディス……」
胸を締め付ける耐え難い不安に、イヴ・ルセルの美しい顔が苦悶に歪む。
彼は乱れた前髪を無造作に後ろへとかき上げた。
その瞬間――。
彼の膝の上に投げ出されていた何かが、ふわりと淡い白銀の光を放った。
◇ ◇ ◇
「……っ!」
強烈な光に目を覚まし、ラディスは驚愕に目を見開いた。
眩い光の奔流が収まったかと思うと、次の瞬間、彼女の体はなぜか見知らぬ男の頑強な腕の中にしっかりと抱きかかえられていた。
「きゃっ……!?」
突然のことにラディスが声を上げたが、抱き止めた男のほうも、今にも心臓が止まりそうなほど魂の抜けた顔をしていた。
だが、そんな焦燥に満ちた表情をしていなお、その男の顔立ちは息をのむほど端正で美しかった。
線の細いオリビエを「芸術品のような美」と例えるならば、目の前のこの男には「圧倒的な気高さと凛々しさを備えた野性的な美」という言葉が完璧に似合っていた。
濃い眉の下には切れ長の鋭い眼光があり、宝石のように深い金色の瞳が、信じられないものを見るように彼女を映している。
「きみ……!」
男の整った顔が、みるみるうちに赤く染め上がっていく。
その熱を帯びた視線に気恥ずかしくなり、ラディスはそこで初めて、自分が――文字通り、タオル一枚だけを腰に巻いたほぼ裸の男の膝の上に、すっぽりとまたがるように座り込んでいることに気づいた。
「ご、ごめんっ!」
慌てて身を起こそうとしたが、焦ったせいでバランスを崩し、彼女の手のひらは男の鍛え上げられた引き締まった裸の胸板へとダイレクトに押し付けられてしまった。
行き場を失ったラディスの視線は、そこからさらに男の広い肩幅、隆起した腕の筋肉、美しく割れた腹筋、そして均整の取れたウエストラインへと、恥ずかしさのあまり狼狽しながらさまよってしまう。
「ラ、ラディス……!」
「っ……!」
「いったい、どこへ行っていたんだ……っ!」
その美しい男は、あのイヴ・ルセルとまったく同じ、優しくも切実な声で彼女の名前を呼んだ。
そして――潤んだ金色の瞳から大粒の涙をこぼしながら、両腕で彼女を壊れ物でも扱うかのように、力強く、そして愛おしそうに抱きしめたのだ。
ラディスはこれまでの二度の人生において、数え切れないほどの修羅場を耐え抜いてきた。
頭上にアラクネの巨大な影が現れたときも、動物の言葉が頭に直接響くようになったときも、勝手に喋り出す狂った剣に「名前をくれ」とつきまとわれたときさえ、彼女は気丈に耐え抜いてきた。
だが――。
ほとんど裸同然の圧倒的な美男子が、甘い香りを漂わせながらその逞しい胸に彼女を抱き寄せ、震える首筋にそっと頬をすり寄せてきたその瞬間。
彼女の精神力は完全に限界を迎え、二度の人生を通して初めてとなる、「気絶」という名の現実逃避を経験することになったのだった。
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魔物の森での戦いと剣の覚醒: ラディスはアラクネの死に際し、言葉を話す蜘蛛の最期を見届けます。さらに、自分が魔物のような異常な体験をしていることに恐怖を感じますが、自身の血を見て「人間であること」を必死に自分に言い聞かせます。その際、呪縛に覆われていた古い剣が真紅の炎を伴って覚醒し、ラディスに「ヘスティア」と呼びかけて契約を迫る「レギア」という名の自我を持つ剣に変貌しました。
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「時間を巻き戻した」という秘密: 剣(レギア)との問答の中で、ラディスが過去の時間を巻き戻した存在であるという秘密を、剣に見抜かれます。レギアは、ラディスの血で目覚めた自身の主が彼女であることを主張し、半ば強引に契約を成就させました。
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古代の謎と転移: ラディスはアラクネの空洞でゲートの起動装置と思われる紋様を発見し、ソウルイーター(レギア)に触れた瞬間、意識が分解されるような感覚と共に、懐かしく温かな光に包まれます。
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イヴ・ルセルとの再会(気絶): 3日間行方不明だったラディスは、突如としてルセル侯爵(イヴ)の寝室へと転移します。風呂上がりの無防備な姿のイヴの膝の上に、ほぼ裸の状態で出現してしまったラディス。イヴは安堵と愛おしさから、涙を流して彼女を強く抱きしめますが、あまりの状況の混乱とイヴの妖艶な色気に圧倒されたラディスは、人生で初めての「気絶」という現実逃避に至ります。