こんにちは、ちゃむです。
「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
162話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 動き出す歯車
ノアは皇宮へ戻ってから、息つく暇もなく公務に追われた。
ベリキン王国との交流に関する報告を済ませ、親善の贈り物と国王の親書を手渡す。元来が閉鎖的な王国だっただけに、今回の外交的成果はリューガ帝国にとっても極めて重要な意味を持っていた。
それらの対応だけで瞬く間に時間が過ぎ去り、家族との再会を祝う夕食を終えた頃には、すでに辺りはすっかり暮れていた。
「うう、疲れて死にそうだ……」
連日の激務でまともに眠れていなかったせいで、ノアの目の下には濃いクマが刻まれていた。
ようやく自室へたどり着き、ぐったりとした体をベッドに投げ出すように横たえる。
「お疲れさまでした。明日の午前中はご予定が入っておりませんので、どうかゆっくりとお休みください」
側近の秘書であるアンドリューが恭しく告げ、室内の明かりを落として下がろうとした。だが、今にも気絶しそうだったノアが急に起き上がり、彼を呼び止めた。
「おい、アンドリュー。お前は帝国の事情や噂話に詳しかったな」
「はい。情報は力の源ですから」
「なら、アルニマン侯爵家のレオについて調べてくれ」
その名前が飛び出した瞬間、アンドリューは含み笑いを浮かべた。
「レオ様のことですか? わざわざ調べるまでもなく、よく存じておりますよ」
「すでに知っているのか? なら、どんな奴か言ってみろ」
「彼は現在、皇室騎士団のエキスパート騎士です。二十歳という若さでエキスパートへ昇格したのは、我が国史上最年少の記録ですよ」
「二十歳でエキスパートだと? そんなに腕が立つのか」
「天才と称されるほどでしたから。殿下も幼い頃、あの方と一緒に剣を習いたいとねだっていらっしゃいましたが……ご記憶にありませんか?」
言われてみれば、昔そんな途方もない才能を持つ少年について耳にしたような気もする。ノアは、エステル傍らに立っていたレオの端正な姿を思い返した。整った容姿に加え、確かな実力まで備わっているという。
「それと、何かほかに情報は?」
胸の奥がざわつくのを覚えたノアは、首元まで留めていたシャツのボタンを苛立たしげに外した。
「社交界でも大変な人気者ですね。彼に心を奪われていない令嬢はいないとまで言われています」
「……エステルも、そうなのだろうか?」
レオを賛美する言葉ばかりが続き、ノアは少し自信なげにつぶやいた。
「はて、エステルお嬢様のことですか? そればかりは分かりかねますが」
しかしアンドリューには、主君がこれほど気をもむ理由がいまいちピンとこなかった。側近の目から見れば、エステルとノアの絆はすでに幼馴染の域を遥かに超えているように見えたからだ。
「私が留守にしている間に、あのレオがエステルに近づいたら――」
「殿下、要するに不安でいらっしゃるのですね」
主君の焦りの本質を悟ったアンドリューは、小さくため息をついた。
「私から見れば、レオ様にこれといった問題はありません」
「なら何が問題なんだ?」
「お二人とも、肝心な一歩を踏み出さないことが最大の問題です」
「どういう意味だ? 詳しく話せ」
アンドリューなら何か名案を出してくれるかもしれないと思い、ノアは身を乗り出した。
「お知り合いになられて、もう六年になります。その間、ちゃんとお気持ちを言葉でお伝えになったことはおありですか?」
「そりゃ、あるに決まっているだろう」
「本当ですか? 一体どのように?」
「好きだと、素直に伝えたぞ」
「それで、エステルお嬢様はなんと?」
「……それがだな」
勢いよく答えたノアの声音が、急に萎んでいく。
「エステルも私のことは好きだと言ってくれた。ただ……大切なお兄さまたちに向けるのと同じような意味で、だがな」
「あ……なるほど」
アンドリューは心底気の毒そうなため息をつき、深く頭を下げた。
「それでは想いが伝わっているとは申せません。ちゃんと言葉を尽くして、特別な意味なのだと伝えなければ」
最近の子供たちでさえもっと上手に恋をするというのに、恋愛に関してはこの二人はあまりにもうとかった。
「それで、その告白をなさったのはいつで?」
「四年前か、五年前だったか……。もうよく覚えていない」
「まったく……だからいつまで経っても友達のままなのですよ!」
それどころか、告白した時期すら忘れている主君に、アンドリューは思わず頭を抱えた。
「このままでは危ういですよ。エステルお嬢様はお美しく、大公殿下の寵愛を一身に受けておられる。デビュタントを終えれば、間違いなく大勢の男たちが群がってきます」
「そうなんだ……数日前にレオの奴を見たときから、嫌な予感がしていたんだ」
ノアは苦しげに顔をゆがめ、シーツの端を指先で強くねじった。
「昔はセバスチャン、今度はレオ、その次はまた別の男が現れるかもしれない……」
たとえエステル本人にその気がなくても、絶えず言い寄る者が現れれば、いつか心が揺らいでしまうかもしれない。そう想像するだけで胸が締め付けられるようだった。
「エステルにとって家族が一番大切なのは分かってる。でも、もう一度ちゃんと告白してもいいよな? もう六年もの月日が流れたんだから」
「もちろんでございます。今すぐ結婚しろと迫るわけではないのですから」
「よし、決めた!」
ベッドから勢いよく起き上がったノアの瞳に、強い決意の光が宿った。
「私、もう一度ちゃんと告白する!」
主君のその頼もしい姿を見て、アンドリューもようやく安堵の笑みを浮かべた。
「お心組み、お祈りいたします」
「あぁ。そうだ、アンドリュー。腕の良い職人を探して、指輪を作ってくれ」
「はじめから指輪をご用意なさるのですか?」
一般的に、女性に指輪を贈ることは結婚の申し込みと同義である。自分の気持ちにまだ気づいていないエステルが重荷に感じて逃げてしまわないかと、アンドリューは少し心配になった。
「昔、約束したことがあるんだよ」
もちろん正式な契りではなく、昔エステルと一緒に宝石店でダイヤを見物した際、冗談半分に交わした言葉にすぎなかったが。
「もし受け取ってもらえないなら、『ただの友情の証の指輪だ』と言い張るつもりだ」
「れっきとした言い訳の準備まで……」
すでにエステルと指輪を分かち合う想像をして機嫌を良くしているノアは、自身のすらりと長い指先を差し出してくるくると回してみせた。
「サイズは分かるのですか?」
「今度会ったときに、こっそり調べてくるよ」
「承知いたしました。それでは、腕利きの職人を探してまいりましょう」
主君に負けじと気合を入れたアンドリューが、ふと思い出したように机の一角を指さした。
「そうそう、殿下。こちらがこの一週間で届いたご招待状と手紙の山でございます」
エステルの予告通り、ノアの机の上には数え切れないほどの書簡が積み上げられていた。
「もしやと思い、一通りまとめておきましたが……」
「この中に、エステルからの手紙はあるか?」
「いえ、そちらには見当たりません」
「じゃあ全部捨ててくれ。興味はない」
貴族たちが何とかしてノアに取り入ろうと心を込めて書いた手紙の山を一瞥もせず、ノアは冷たく言い放った。アンドリューも心得たように、それらをまとめて箱の中に放り込んだ。
—
一方その頃――。
「お嬢様、到着いたしました」
「ありがとう、ヴィクター」
すっかり専属護衛として板についてきたヴィクターが、馬車から降りるエステルを優しくエスコートした。
ふくらはぎまで届く淡い緑色のワンピースをまとった彼女の姿は、周囲の景色まで明るくするほど爽やかだった。そのせいか、神殿へ向かう参拝客たちが次々と振り返り、目を奪われていく。
思いがけず注目を浴びることになったエステルは、少し気恥ずかしそうに神殿の敷地へと足を踏み入れた。
「今日も参拝客が多いね」
「今やここは聖地と呼ばれていますからね。あの一件が、かえって神殿を活気づけるきっかけになったようです」
「そうだね」
ヴィクターの言葉にうなずきながら、エステルはくすりと笑った。
あれから四年。
暴走した水晶玉が砕け散り、大騒動となった中央神殿の一角には、今では美しい小さな蓮池が造られていた。新たな結界を張った際の名残か、聖なる力が満ちているという噂が広まり、今では帝国中から人々が祈願や病の平癒を求めて訪れるようになっていた。
「おかげさまで、神殿もすっかり名誉を取り戻したな」
「はい。あの時のいざこざがなければ、神殿の権威は地に落ちたままだったでしょう」
偽聖女や伝染病をめぐる一連の事件以降、神殿に対する風当たりは強かった。特に真実を知らない民衆の間では、神の権威そのものを疑う声さえ上がっていた。しかし、エスピトスの結界が帝国を守っている以上、神殿を完全になくすわけにはいかない。皇室もその点を考慮し、以前の閉鎖的な体質を改めて一般に開かれた場所として存続させる道を選んだのだった。
「身分の高低に関わらず、誰もが救いを求められる場所。宗教とは本来そうあるべきだわ」
「おっしゃる通りです」
人通りの少ない脇道へそれ、木陰のベンチに腰を下ろしたエステルは、穏やかな表情で行き交う人々の姿を眺めた。
「ノアは、そろそろ来る頃かしら」
今日はノアとここで待ち合わせをしているのだ。
すると、背後から気配もなく近づいてきた誰かが、ごく自然にエステルの隣へ腰を下ろした。
振り返ると、見慣れた鮮やかな金髪が目に入り、彼女は目を丸くした。
「カリード? まさか、また私を待っていたの?」
「顔くらい見てもいいだろ。君が神殿に来る日は決まっているんだからな」
かつての一件で聖騎士の職を剥奪されたカリードだったが、当時の罪を償うように、今では一般人として参拝客たちの案内や雑務を手伝っていた。神殿を出て全く別の人生を歩む道もあったはずだが、彼はここに残る道を選んでいた。
「私たち、そんなに頻繁に顔を合わせるような仲でもないでしょうに」
エステル自身の身分がかつてより遥かに高くなったこともあり、ここ二年ほどで二人は互いに気兼ねなく言葉を交わすようになっていた。
「そういえば、シャロン様は戻っていらっしゃるの?」
「いや。今回は北部へ行っている。すべての神殿を巡る巡礼の途中だそうだ」
長老会も一新され、かつての権勢は失われていた。ラビエンヌの悪事を黙認していた長老たちは権限を剥奪され、神殿の体制は大きく変わった。その中でシャロンだけは例外的に残り、混乱した内部の立て直しに尽力していたが、現在は各地を回って傷ついた人々の治療に専念しているという。
「ところでエステル、誰か待っているのか?」
会話の途中でもエステルがしきりに門の方へ視線を走らせるのを見て、カリードが少し切なそうに尋ねた。
「うん。ここでノアと待ち合わせをしていて……あ、来た!」
ずっと無関心だったエステルの表情が、彼の名前が出たとたんパッと華やぐ。
自分と話している時とはあまりにも違うその輝くような笑顔に、カリードは苦笑交じりの小さなため息を漏らした。
「殿下、お戻りになられていたのですね」
少し遅れてやってきたノアの姿を見つけ、カリードはそう声をかけた。
「ああ、先週戻ったところだ。それじゃ、私はこれで」
「またな」
ノアに促されるまま、エステルは足早に駆け出していく。その背中に自分の声が届いているかすら怪しいものだった。
自分にはそこまでの関心を向けてくれないエステルを見送りながら、カリードは一人ベンチに腰掛けたまま呟いた。
「相変わらず、私の話など聞きもしないで行ってしまうんだな……まあ、分かっていたことだが」
ずっと昔からエステルに寄せていた淡い恋心。だが、ノアが常にその隣に立ち続けている以上、入り込む隙など最初からなかった。
「君が幸せなら、それでいいさ」
ノアを見るエステルの眼差しがどれほど特別かを知っているからこそ、カリードはただ静かに見守るしかなかった。
—
エステルは一直線にノアのもとへ駆け寄り、ふくれた頬で不満を漏らした。
「少し遅かったじゃない」
「悪い悪い。皇宮で急な公務が入ってしまってさ。だいぶ待ったか?」
「ううん、五分くらいよ」
悪びれないノアを見て、エステルは自然と彼の服の裾をつかんだ。
「そういえば、さっきカリードと話していたのか?」
「うん、偶然ね」
ノアが不機嫌にならないよう、エステルは話題をそらすように反対側へと歩き出した。誰にでも人当たりの良いノアだったが、なぜかカリードに対してだけは昔から警戒心を解いていなかったからだ。
「来るたびに顔を合わせるなんて、偶然にしてはできすぎだな。敵の多い私としては気が気じゃないよ」
そう言いながらも、最近はレオの存在ばかりに気を取られてカリードの存在を忘れていた自分に気づき、ノアはこっそり額を押さえた。
「誰も敵なんかじゃないわよ。さあ、早く水晶宮を見に行きましょう」
ノアの機嫌がこれ以上斜めにならないよう、エステルは彼の腕を引いて、かつて聖女宮があった地下へと急いだ。
かつての水晶宮は、新しく建てられた神殿の地下深くに厳重に封印されていた。以前のような薄気味悪い地下室ではなく、何重もの魔法の錠がかけられ、許可なく誰も立ち入ることができない構造になっている。もちろん、その扉を開くことができるのはエステルただ一人だった。
懐から鍵を取り出し、複雑な呪術が施された錠を一つずつ外していく。最後の重厚な扉を開け放つと、奥から青く透き通るような神々しい光があふれ出た。
「ここで待ってて。中の状態を確認してくるから」
ノアに目配せを残し、エステルは一人でその青い光の中へと歩み寄った。
水晶玉に触れられるのは、歴代でも彼女だけだ。
そっと手のひらを乗せた瞬間、柔らかな青い光がエステルの体を包み込み、周囲に温かな波動が広がった。
『……温かい』
懐かしいその感触に浸りながら、エステルはそっと目を閉じた。かつて自分を優しく包み込んでくれたエスピトスの温もりが、今もそこに残っていた。
不穏な気配が一切ないことを確認し、彼女はゆっくりと手を離した。
「異常なしよ。もう大丈夫」
ノアの待つ方へと振り返り歩き出そうとしたが、ノアはそこに立ったまま、一歩も動かずにじっと彼女を見つめていた。
「ノア?」
名を呼んでも反応がない。
不思議に思ったエステルが彼の脇腹を軽く突くと、ノアはハッとしたように瞬きをした。
「あ、ごめん……その、青い光に照らされた君がまるで女神のようで、つい見とれてしまって」
本心からの言葉だった。青く幻想的な光を纏うエステルの姿は、ノアの胸を言いようのない感情で満たしていた。
「ぼーっとしてないの。長居する場所じゃないんだから、早く行きましょう」
ノアの真剣すぎる視線に気恥ずかしくなり、エステルは慌てて扉の方へ戻り、ドアノブに手をかけた。
だが――奇妙なことに、ノブは空回りするだけで扉はびくとも動かなかった。
「あれ? どうして開かないの?」
「私に代わってくれ」
いつの間にか背後に回り込んでいたノアが、彼女の手の上に自らの手を重ねた。
触れ合った瞬間にピリッとした緊張が走り、エステルはわずかに肩を震わせた。
『近すぎる……!』
水晶宮の青い光だけがほの暗く照らす密室の中、二人きり。その事実を意識した途端、背後から伝わるノアの体温や、かすかな息遣いまでがやけにはっきりと感じられた。
ノアが扉を開けようと体をかがめたため、エステルの背中は彼の胸板にぴたりと密着し、二人の間に隙間は一切なくなっていた。自分がすっぽりと彼の腕の中に閉じ込められていることに気づき、エステルはごくりと喉を鳴らした。
『どうしよう……!』
顔のすぐ後ろにはノアの息がかかり、背中越しに心臓の鼓動さえ伝わってくる。少し横に避けようにも、体が緊張ですっかり硬直して動かなかった。
ノアは扉の鍵を確かめるふりをしながら、エステルの手に自らの指をゆっくりと絡ませた。細い指の隙間を埋めるようにしっかりと握りしめられ、逃げ場はどこにもない。
「本当だな、どうやら引っかかっているらしい」
「わ、私がもう一度やってみるわ」
「いや、いい。私がやるから、君はそのままでいて」
ノアは彼女が手を引こうとするのを許さず、しっかりと握り締めたまま顔を近づけた。
エステルの肩の高さまで下りてきた彼の顔は、横を向けば頬が触れ合うほどの距離だった。
「ノア……もう少し離れてよ、近すぎるわ」
息を潜めるようにエステルがささやいたが、ノアは聞こえないふりをしてさらに距離を詰めた。
「待ってくれ、もう少しで開きそうだから」
『どうしよう……!』
これ以上動けば唇が触れてしまいそうなほどの至近距離に、エステルはまるで石像のように固まった。息を大きく吸い込むことすらできず、喉の奥がカラカラに乾いていく。
「エステル」
逃げ場を探す彼女の耳元で、ノアが低く優しい声で呼んだ。
意を決してわずかに顔を向けたエステルの視界に、熱を帯びたノアの黒い瞳が真っ直ぐに飛び込んできた。吸い込まれそうなその眼差しから目をそらすことができず、エステルの心臓は激しく波打った。
「だ、やっぱり私が開けるわ!」
焦燥感に駆られたエステルは、半ばやけくそになってノブを強くひねった。このままでは理性が保てないと本能が告げていたからだ。
幸いにも、今度は引っかかりが嘘のように外れ、扉はあっさりと開いた。
「ほら、開いたわよ! 出ましょう!」
逃げるように外へと飛び出したエステルは、冷たい外気を吸い込みながら、真っ赤に火照った両頬を両手で覆った。
「ふう……中の空気はやっぱりこもってるわね」
慌ててごまかすエステルの顔は、熟したリンゴのように鮮やかな朱色に染まっていた。
一方、室内に取り残されたノアは、惜しそうに唇を引き結んだ。
「……もう少しで告白のチャンスだったのに。あんなにうまく雰囲気を作ったのに、どうして急に扉が開くんだよ」
絶好の機会を逃したことを心の底から悔しがりながら、ノアも遅れて部屋を出た。
外で待ち合わせていた二人は、先ほどまでの密着の余韻を引きずったまま、どこか気まずい空気を纏いながら並んで歩いた。
「き、今日はすごくいい天気ね! そう思わない?」
気まずさに耐えかねたエステルが、わざとらしく空を見上げて話題を変える。しかし、ようやく決意を固めたノアがここで引き下がるはずもなかった。
ノアは大きく歩幅を広げると、エステルの進路を塞ぐように目の前に立ちふさがった。そして、真っ直ぐに彼女を見据えて真剣な声音で告げた。
「エステル。私、君に伝えなければならないことが――」
「あ、そうだわ! 私たち、あの山に登ってみない?」
「……は? 登山?」
ノアの言葉を遮るように、エステルは神殿の敷地内にあるなだらかな小高い丘を指さした。
「あそこ、見晴らしが良さそうよ。行ってみましょう!」
返事を聞く間もなくスタスタと歩き出すエステルの背中を見送りながら、ノアは思わず頭を抱えた。
「もしかして、私から逃げようとしているのか?」
いつもならもっと素直なのに、あからさまに避けるような態度の裏にある彼女の動揺に気づき、ノアはふっと笑みをこぼした。
「まあいい。告白するには、あんな狭い通路より開けた山のほうがむしろ好都合だ」
そう考え直したノアは、すぐに彼女の背中を追って足取り軽く歩き出した。
二人は他愛のないおしゃべりを交わしながら、並んで斜面を登っていく。
やがて辿り着いた頂上には、一本の大きな木と、足元一面に広がる可憐な野花の原っぱが広がっていた。
「わあ、ここすごく綺麗。野花がたくさん咲いているのね」
嬉しそうに辺りを見回すエステルを見て、ノアはいたずらっぽい笑みを浮かべた。彼は足元の草むらにしゃがみ込むと、器用に何本かの野花を摘み取った。
「何をしているの?」
不思議そうに首を傾げるエステルの前で、ノアの手際よく指先が動き――あっという間に一つの即席の指輪が完成した。
「はい、これ」
ノアは得意げな笑みとともに、その花で作った小さな指輪を差し出した。
「わあ……これ、自分で作ったの?」
子供の遊びのような粗削りなものだったが、エステルは目を輝かせ、嬉しそうにそれを左手の薬指にはめた。
「サイズは合っているか?」
「ううん、少しだけ緩いわね」
真剣な面持ちになったノアが、花の茎をそっと引っ張って彼女の指にぴったりフィットするように微調整する。
「これでどうだ。完璧だな」
自分の指輪をはめた手を誇らしげに掲げ、エステルはくるりと一回転して見せた。
「気に入ったわ。じゃあ、そろそろ返してあげるね」
「なんだ、せっかく作ったのに返してしまうのか?」
「だって、本物の指輪じゃないもの。また今度、ちゃんとしたものを頂戴ね」
ちゃっかりと要求するエステルに、ノアは目を細めてにやりと笑った。
「一度私から渡したものを返せだなんて、そんな虫のいい話があるかよ」
「ケチねえ。……ねえ、こっちに来てみて! すごく景色がいいわよ!」
木陰の心地よい場所に腰を下ろしたノアは、隣の草をポンポンと叩いて促した。呆れたように笑いながらも、エステルはその隣にちょこんと座る。
「ふう、少し横になろうかな」
心地よい風に吹かれ、ノアはそのままゴロンと草の上に寝転がった。
「なんだか昔を思い出すな。あの鉱山の底で、一生懸命ダイヤを探してこうして並んで寝転がったっけ」
「懐かしいわね……あの時は本当にどうなることかと思ったけれど」
昔の思い出に浸るように、エステルも目を細めて微笑んだ。
ノアはそんな彼女の横顔を愛おしそうに見つめると、着ていた上着をさっと脱ぎ、ワンピース姿のエステルが汚れないようにとそっと背中の下に敷いてやった。
「この上に横になりなさい」
「ありがとう、ノア」
彼の優しい気遣いに胸を温めながら、エステルも彼の隣にゆっくりと身を横たえた。
頭上では大木の葉が風に揺れ、青々とした草原の匂いが鼻腔をくすぐる。どこまでも高い空には白い雲がゆっくりと流れていて、まるで絵本の一ページのような光景だった。
「ねえ、エステル。今度、二人だけでまたあの聖域に行ってみないか?」
「いいわね。そういえば、あそこを離れてから一度も戻っていなかったわね」
ノアと出会い、共に過酷な運命を乗り越えたあの聖域。二人の原点とも言える場所への思い出話に花を咲かせながら、二人はしばらく穏やかに空を見上げていた。
温かな陽射しの中、心地よい微風に包まれているうちに、エステルはだんだんとまぶたが重くなってきた。うとうとと意識が遠のく中、ふと横を向くと、ノアがじっと自分を見つめていることに気づいた。
吸い込まれそうな彼の黒い瞳と真っ直ぐに視線が絡み合った瞬間、エステルは心臓が跳ねるような動揺を覚えて慌てて視線を逸らした。
その拍子に、お互いの手の甲がふれあい、小指と小指がそっと絡み合う。
指先から伝わってきた微かな熱に、全身がぴりっと痺れたような感覚に襲われた。
「あ……ごめん」
気まずくなったエステルは唇をきゅっと結び、慌てて手を離そうとした。しかし、ノアの方が一歩早く動き、彼女の手を優しく、しかししっかりと包み込むように握りしめた。
「私たち、昔から何度も手をつないできただろう? このままでいいじゃないか」
「そ、そうね……」
ノアの言う通り、これまで数え切れないほど手をつないで歩いてきたはずだった。だが、今の状況は以前のそれとは決定的に何かが違っていた。
ドクン、ドクン――。
あまりにも大きく鳴り響く自分の心臓の音が、繋いだ手を通じてノアにまで聞こえてしまうのではないかと、エステルは気が気ではなかった。
鳥のさえずりと虫の音だけが響く静かな空間で、二人は言葉もなく、互いの瞳を見つめ合っていた。幼かったあの日の面影を残しながらも、いつの間にか大人びた互いの眼差しには、隠しきれない深い想いが宿っていた。
「エステル」
静寂を破るように、ノアが穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「なあに?」
「私、君に伝えたいことがあるんだ」
「……うん、聞いてるわ」
「君が好きだ。昔からずっと、友達としてではなく、一人の男として、君のことがたまらなく好きだ」
何の心の準備もしていなかったストレートな告白に、エステルは息を呑み、大きく見開いた目をしばたたかせた。
揺れ動く彼女の瞳を逃さぬよう見つめ続けながら、ノアは一言一句噛み締めるように続けた。
「突然じゃないさ。分かっているだろう? 私がどれほど長く、君だけを想ってきたか。君と出会ったあの日から、私の気持ちは一度だって変わっちゃいない」
ノアはそっと空いた手を伸ばし、エステルの頬にかかった髪を優しく耳の後ろへと滑らせた。
過酷な聖域に閉じ込められ、生きる希望さえ失っていた幼い日々から今まで。ノアにとって、一日たりともエステルを想わなかった日などなかった。
「ノア、私は……その……」
あまりにも純粋で、真摯すぎる告白の重みに気圧され、エステルは耐え切れなくなってぎゅっと目を閉じてしまった。
狂おしいほど高鳴る胸の鼓動を、どうにかして落ち着かせようとしたのだ。
「どうして目を閉じるんだい?」
「だって……恥ずかしすぎて、直視できないもの」
「どうして?」
「緊張しすぎて……うう、ねえ、今の私の心臓の音、あなたに聞こえてないでしょうね?」
「聞こえるものか。そんなに心配しなくてもいいのに」
エステルの可愛らしい狼狽ぶりに、ノアは愛おしそうに声を上げて笑った。どうしようもなく彼女が愛おしくて、これ以上我慢できそうになかった。
「好きだ、エステル。ずっと私のそばにいてほしい。もうただの友達ではなく、私の恋人になってくれないか?」
真剣な愛の言葉を告げながら、ノアは目を閉じたまま固くなっている彼女へとゆっくりと顔を近づけた。
「だから……その……」
頭の中が真っ白になり、何と返事をすべきか言葉を探そうとするエステルの前で、ノアはいたずらっぽく微笑んだ。
「いつまでそうやって目を閉じたままでいるつもりかい? 私がこれから何をするか、分かっていないようだな」
答えに窮するエステルを見て、ノアは悪戯っ子のように言った。
「三つ数える。その時までに目を開けなかったら、私の言うことをすべて受け入れたとみなすからね」
彼の吐息がすぐ額に触れるほどの距離まで迫っている。
逃げ出したいのに、緊張のあまり体が一歩も動かない。
「いち……に……さん」
優しく微笑んだノアが、まさに彼女の額へ唇を重ねようとした、その瞬間――
「エステル――!!」
「どこにいるんだ、エステル――!」
静寂を切り裂くような、よく通る二人の声が丘の下から響き渡った。
それは間違いなく、彼女を心配して探し回ってきた双子の兄たちの声だった。
現実に引き戻されたエステルは、ハッと目を見開くと、目の前に迫っていたノアの胸を慌てて両手で激しく押し返した。
「お、お兄様たち……どうしてここに!?」
寝耳に水だったのはノアも同じだった。せっかくの雰囲気を台無しにされ、彼は心の中で盛大に舌打ちをしたが、表情には出さないように必死で何食わぬ顔を取り繕った。
エステルは乱れた髪を慌てて整えながら、申し訳なさそうにノアを見上げた。
「ご、ごめんなさい……私を探しに来たみたい……」
「い、いや……大丈夫だ」
本当は悔しくてたまらなかったが、大人の余裕を見せようとノアは苦笑いを浮かべながらうなずいた。
「その代わり……今の私の告白、しっかり真剣に考えて、ちゃんと返事をくれよ」
「う、うん……わかったわ」
「君がいくら待ってほしいと言っても、私はいつまでだって待ち続けるからさ」
そう言葉を交わしているうちに、足音とともにジュディとデニスの姿が木々の間から現れた。
「エステル! おい、お前……二人きりで何をしてたんだ?」
ジュディは妹のそばにぴたりと寄り添うと、まるで敵を見るような鋭い目でノアをにらみつけた。デニスは無言のままだったが、その冷ややかな視線は双子の兄として十分にノアを威嚇していた。
「べ、別に何も! ただの散歩よ。ちょうど今、帰ろうとしていたところなんだから」
双子たちがまたいつ変な言いがかりをつけるかとヒヤヒヤしながら、エステルは必死になって大きく頷いた。
「じゃあ、私もう行くね、ノア! また今度ね!」
「あ、ああ……気をつけて帰るんだよ」
ジュディとデニスはノアを牽制するように一瞥すると、エステルを挟み込むようにして足早に丘を下っていった。
あっという間に遠ざかる三人の背中を見送りながら、一人残されたノアは名残惜しそうにその場で地団駄を踏み、自分の乱れた髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。
「くそっ……やっぱり一度のチャンスですんなりOKをもらうのは無理だったか。あわよくば額だけでなく唇にだって――!」
肝心なところで邪魔が入った悔しさに、ノアは歯ぎしりしながら天を仰いだ。
「まあいい……。少なくとも、彼女の指のサイズはしっかり確認できたからな」
それがせめてもの慰めだった。ノアは先ほどエステルの指にはめてやった野花の一輪を丁寧にハンカチに包み、大切に胸ポケットへとしまった。
「次は、ちゃんとした本物の指輪をこの手ではめてやりながら……改めて盛大に告白してやる」
心の中でそう固く誓いながら、ノアは今日のエステルの反応を思い出してふっと笑みをこぼした。あれだけ動揺していたのだ、彼女の心にも確実に自分の想いは届いている――そう確信したノアの足取りは、帰り道、不思議と軽やかだった。
1. ノアの決意と指輪の準備
2. 神殿での再会とカリードの想い
3. 水晶宮での密着と高鳴る鼓動
4. 丘の上の告白と邪魔者の登場