こんにちは、ちゃむです。
「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
132話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 偽者の噂
エスターは今では二日に一度、保護所へ通っていた。
この日も双子の兄たちと共に馬車に乗り、保護所へ向かっている。
「昨日から保護所で文字の授業が始まったんだって。」
「本当ですか?じゃあ行く途中でジェロムも連れて行きましょうか?」
「そうしよう。」
三人はジェロムを連れて行くために、ビンミン家の近くに馬車を止めた。
ビンミン家の雰囲気は以前とは看板のように変わっていた。
もう貧民の家には見えないほどだった。
しかし、少し中へ入っていくと、不思議なほど長い行列が見えてきた。
「ジュディお兄さん、あの行列は何ですか?」
エスターが首をかしげながら、目の良いジュディに尋ねた。
「さあ?端が見えないな。」
そこには貧民だけでなく、一般の人々まで一緒に列を作って並んでいた。
三人は目を瞬かせながら列を確認しようと前へ歩いて行った。
デニスが長い足でスタスタ先に歩き、エスターとジュディもゆっくりその後についていった。
そしてしばらくして、人が長く並んでいる列の正体を知ることができた。
「井戸水じゃない?」
驚いたことに、人々はエスターが修理した井戸の水を汲むために長い列を作って並んでいたのだ。
「みんなあの水を汲むための列なんですか?」
「うん。私が一番後ろに並んでいた人に聞いてきたんだけどね。」
先に行っていたデニスが、一人で笑いを堪えながら聞いてきた話を伝えた。
「この井戸の水がすごく神秘的だって噂が広まってるんだ。水を飲んだら病気が治ったとか、頭が良くなったとか言う人までいるらしいよ。」
「え?さすがにそれは言い過ぎでしょう。」
井戸を修理した時に入り込んだ聖力が、何か作用しているのだろうか。
エスターはデニスが伝えた話に、妙に気まずい気持ちになりながら、そっと唇を噛み締めて頭を垂れた。
「とにかく皆が清潔な水を飲めば、病気にかかる危険も減るはずです。よかったです。」
ただのきれいな水ではなく、効能があるのは確かだから、伝染病を防ぐのにも大いに役立つだろう。
エスターとジュディ、そしてデニスは、自分たちのおかげで大きく変わった貧民街の雰囲気をしみじみと眺めた。
だが、このエスター一行を見守る者たちがいた。
黒いローブを深くかぶったまま、少し離れた場所に立っている二人。
「どうご覧になりますか?」
「まだよく分かりません。」
それは大神官カイルとジョフリーだった。
二人はつい数日前の夜、無理に祈りを捧げて見た夢を思い出していた。
それは――このテレシア領地の神殿内部が光に包まれる夢だった。
夢の中で、人々に囲まれて輝くまばゆい光を見た。
それが女神の啓示だと考えたのだ。
その真偽を確かめるために、ラビエンヌはひそかにテレシアまで足を運んできたのである。
「井戸の噂を聞いて、もしかしたらと思ったのですが、本当に驚きました。」
「はい。聖力が宿った井戸水だなんて……これは神殿で管理すべき聖物です。それがこんな通りに放置されているなんて。本当に……」
テレシアに到着し、井戸の存在を知って感嘆していた彼らの目に、ちょうどエスターの一行が映った。
「彼らは……ああ、顔を覚えています。大公の子どもたちですね。」
「ということは、あの娘は我々の神殿に連れて行くべき子でしょう。」
大公家の子どもたち。
その中でも特にエスターを見つめるカイルとジョフリーの視線が、鋭く動いた。
それが啓示かどうかも分からない夢に導かれた先で、聖女候補生だった少女と出会ったことは、単なる偶然だとは思えなかった。
エスターを観察する二人の瞳には、張り詰めた緊張が宿っていた。
「……そういえば、あの子」
ふとエスターを見つめ、何かに気づいたソフィアが、息を呑むようにして口を開いた。
「私たちが聞いていた啓示の内容と、容姿が一致しませんか?」
重大な事実に辿り着いたからか、その声はかすかに震えていた。
その震えは、はっきりとカイルにも伝わってくる。
「ええ。確かに、灰色の髪に桃色の瞳を持つ子でしたね」
カイルとソフィアの疑念が次第に膨らんでいく一方で、エスターと双子はジェロムを連れ、再び馬車へと戻っていった。
胸騒ぎを抑えきれないカイルは、出立の準備を整えながらソフィアに問いかけた。
「……どうします?追いかけますか?」
「ええ、ひとまず行きましょう。やはり、あの子には何かある気がします」
視線を交わし、無言のまま頷き合った二人は、急ぎエスター一行の乗った馬車の後を追った。
しばらくして、彼らが先行する馬車を見失わずに辿り着いた先は、テレシアの神殿だった。
すでに“保護所”としての名を掲げているため、身分を問われることもなく、二人は難なく中へ足を踏み入れることができた。
「思っていた以上に、きちんと管理されていますね」
「本当ですね。あの冷酷だと噂されていた大公が作らせた場所とは……とても思えません」
神殿が閉鎖され、混乱が生じているのではないかと予想していたが、実際に保護所で過ごす人々の表情は、穏やかで満ち足りたものだった。
「……だからこそ、女神様は私たちに、この場所をお見せになったのでしょうか?」
静かな問いかけが、神殿の空気に溶けていった。
「……もう少し、中を見て回りましょう」
カイルとソフィアは保護所の中を隈なく巡りながら、エスターの姿を探して何度も通路を往復した。
だが、かなりの時間が経っても、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
次第に胸に焦りが募り、二人は再び保護所の中央へと足を向ける。
その時――探していた少女が姿を現した。
大公家のもう一人の子どもと連れ立って戻ってきたエスターは、迷うことなく、患者たちが集まる区画へと向かっていった。
しかもそこは、重症者が集められている場所だったが、彼女は一切のためらいもなく近づき、治療に取りかかり始めた。
万が一を考えて、患者との距離を保ち、護衛もつけられてはいたものの、それでもカイルとソフィアの目には、あまりにも衝撃的な光景として映った。
「……いや、あの子……」
カイルは、エスターが治療に用いる聖力を目の当たりにし、驚愕を隠せずに息を呑んだ。
とりわけ、幼い年齢にもかかわらず扱っている聖力の質と量は――明らかに常軌を逸していた。
……それゆえに、二人は戦慄した。
「聖力をあれほど使い続ければ、いずれ限界が来るはずです。いったい、どうするつもりなのでしょう……?」
休む間もなく、次の患者へと聖力を注ぎ続けるエスターの姿を見て、ソフィアは思わず舌打ちした。
「もしかすると……聖力に限界が存在しないのではありませんか。そういう例も、ごく稀に報告はあります。もっとも、いずれも大聖女様方ばかりでしたが……」
言葉を失いかけたカイルが、はっとして息を呑む。
エスターの瞳が――先ほどまでとは明らかに違っていた。
「……ご覧になりましたか。あの瞳を」
「え、ええ。私も見ました。距離があるので断言はできませんが、確かに……色が変わっていました」
限りがないかのように溢れ出す聖力。
そして、金色に輝く瞳。
もはや否定の余地はなかった。
聖女であることを示す、動かぬ証拠を目の当たりにし、あまりの衝撃に、カイルとソフィアは同時に大きく口を開いたまま固まってしまう。
そのまま、しばらくの間――二人は一言も発することができなかった。
「……どうすればいいのか、まったく分かりませんね……」
複雑に絡み合う思いを抱えたまま、カイルとソフィアは互いの顔を見合わせ、深いため息を漏らした。
あれほど探し求めてきた――本物の聖女。
ようやく辿り着いたというのに、本来なら歓喜に包まれるべき瞬間であるはずなのに、胸に去来するのは戸惑いと痛みばかりだった。
「……悔やまれます。結局、私たち自身の手で、本物の聖女を追い出してしまったのですから」
「最初から手放さなければ、こんな事態にはならなかった……本当に」
どれほど神官としての立場を言い訳にしようとも、神殿が長きにわたって腐敗していた結果が、今まさに突きつけられている。
カイルとソフィアは、自らの罪を噛みしめるように、まるで裁きを待つ者のような面持ちで、女神の像を見上げた。
夢の中でこの場所を示し、本物の聖女――エスターへと導いたのは、疑いようもなく女神の啓示だった。
「……これから、どうすればいいのでしょう」
ソフィアの声が、かすかに震える。
「私たちは……あの子の、今の幸せを奪ってしまっても……いいのでしょうか?」
その問いに、答えを出せる者は――この場には、誰一人としていなかった。
人々に囲まれ、屈託のない笑顔を浮かべるエスターの姿を見つめながら、カイルは胸の奥が締めつけられる思いだった。
だが、ソフィアはすでに何かを悟ったかのように、静かに首を横に振る。
「……あの方が本当に聖女様であられるなら、このような場所に留まっていてはなりません。本来であれば、我らの神殿へお迎えするべきお方です」
「しかし、我々にはすでにラヴィエーヌ様がおられます。天の下に聖女が二人存在するなど、許されるはずがありません」
カイルもまた、エスターから視線を逸らせないまま、低く言葉を継いだ。
一度“聖女”として認めてしまった以上、今さら立場を覆すことはできない。
それをすれば、神殿の威信は地に落ちるだろう。
「……身分の低い子であれば、無理にでも連れて来るという選択肢もあったでしょうが……」
「相手は大公家ですからね。相手が悪すぎます……」
ソフィアは、どうにもならない現実に苛立つように、わずかに残った髪をくしゃりと掻き上げた。
答えの出ない葛藤だけが、重く二人の胸にのしかかっていた。
神殿が軽々しく手を出せない相手の中でも、最も危険なのが――ドフィンだ。
彼の有する財力も、軍事力も、いずれも神殿にとって無視できない脅威である。
決して敵に回してはならない存在だった。
しばらくの間、黙ってエスターの姿を見守っていた二人は、ここで結論を出すことはできないと判断する。
「……ひとまず、戻りましょう」
「聖女様に、ご報告なさるおつもりですか?」
「もう少し、考えさせてください。長老会に話すべきか、それとも聖女様ご本人に打ち明けるべきか……」
依然として目に宿る衝撃を拭いきれないまま、カイルとソフィアは重たい足取りで神殿へ戻るため、その場を後にした。
保護所に足を踏み入れた直後、エスターと双子はそれぞれの持ち場へと散っていった。
エスターはファラスとともに聖花の世話をするために。
デニスは子どもたちが文字を学ぶ教室の管理を。
そしてジュディは、検診のやり方を教える役目を担っていた。
「ファラスさん、聖花の調子はいかがですか?」
「事前に私のほうで浄化は済ませてありますが……やはり最後は、あなたの目で見ていただいたほうがよさそうですね」
エスターは頷き、ファラスの後を追って温室へと向かう。
聖花はすでに実用に耐えうるほどに成長している。
「半分は王城へ送ってください。おそらく、国境地帯へ回されると思います」
「承知しました」
ファラス自身が浄化を施したとはいえ、聖花を完全な状態に仕上げるには、やはりエスターの聖力が欠かせない。
彼女はしばらくの間、聖花の浄化に集中して時間を費やした。
それを終えると、重症患者の様子を確認するため、温室を後にする。
ちょうどその頃――教室では、デニスもまた持ち場を離れようとしていた。
「花の世話は、もう終わった?」
「ええ。これから患者さんの様子を見に行きます」
「じゃあ、一緒に下りましょう」
ジュディは一階で、子どもたちと木剣を使って遊んでいた。
特別に合流するでもなく、自然な流れのまま、それぞれが再び同じ行動へと溶け込んでいく。
そんな大公家の子どもたちの姿を見守りながら、保護所に身を寄せるテレシアの領民たちは、皆、深く心を打たれていた。
三人は気づいていなかったが、大公家――とりわけエスターへの賛美は、すでに領内のあちこちで囁かれるようになっていた。
人々は、もはや神殿が失われたことを嘆いてはいない。
その役目は、すでに保護所が果たしていたからだ。
テレシアに、もはや神殿は必要とされていなかった。
重症の患者たちを懸命に治療し続けるエスターの存在こそが、この地にとっての――新たな“祈り”そのものだったのだから。
列を成していた患者をすべて診終え、エスターは軽く肩を回した。
「……これで、終わりかな?」
そう呟き、何気なく振り返った、その瞬間――
「……?」
ちょうど保護所を後にしようとしている、数人の神官の姿が目に入った。
深くフードを被ってはいたが、顔までは完全に隠しきれていない。
反復された人生の中で、何度も向き合い、決して軽く扱えない存在だった彼らを、エスターが見間違えるはずもなかった。
「……知ってる人?」
「誰なの?」
エスターの表情が変わったことに気づき、デニスとジュディはその視線を追って、神官たちの背中を見やりながら問いかける。
「ファラスさん、今……顔、見えましたか?」
「いえ、私は見ていませんが……どうかしましたか?」
エスターは、隠しきれない動揺をそのままに、慎重な口調で言葉を選んだ。
「……たぶん、神殿の人たち。それも――かなり、立場のある人たちだと思う」
胸の奥で、嫌な予感が静かに、しかし確実に広がっていった。
「え?神官が、ここに……?」
「本当なの?だったら、今すぐ追いかけて捕まえないと」
「だめ。追うのはダメよ」
動揺するファラスと、すぐに駆け出そうとするジュディ。
そこへ、慎重なデニスの反応が重なり、三者三様の声が一斉に上がった。
「ここまで来たということは、神殿が閉鎖された事実を確かめに来たか……それとも――私の存在が理由でしょうね」
エスターは、後者である可能性が高いと、すでに覚悟していた。
(……黙っている場合じゃない。私も、動かなきゃ)
この場所を突き止めて現れた神官たちを見て、ラヴィエーヌよりも先に行動を起こす必要がある――そう、はっきりと決意する。
いつもは穏やかで柔らかな光を宿すエスターの瞳に、今は強い意志が灯っていた。
「行こう」
エスターは、双子とファラスを振り返り、静かに、しかし有無を言わせぬ声で告げた。
彼女はすでに、次の一手を見据えていた。
一行は部屋を移し、エスターは落ち着いた声で切り出した。
「ファラスさん」
「はい、何でしょうか」
「噂を流したいんです。そのために、ファラスさんの力を借りたい」
どうすればラヴィエーヌに実質的な打撃を与えられるか――そう思案しながら、エスターは言葉を選んで続けた。
「……どのような噂でしょうか?」
「中央神殿にいる聖女が、偽物だという噂です」
互いにしか聞こえないよう、声量は抑えられていた。
それでも内容のあまりの大胆さに、ファラスは思わず息を呑み、周囲を警戒するように視線を走らせて唾を飲み込んだ。
「……悪くない考えですね」
デニスが目を輝かせ、即座に同意する。
噂というものは、直接手を下さずとも相手の地位と信用を揺るがせる。
それは、ラヴィエーヌの座を脅かすには――あまりにも効果的で、そして手軽な方法だ。
聖女という地位は、帝国民の信仰そのものを基盤としている。
だからこそ事が大きくなれば、神殿側にとっても無視できない痛手となるはずだ。
「それから、もう一つ。帝国中に広まりつつある疫病――あれも、偽の聖女が原因で起きた、という噂です」
その一言で、場の空気がわずかに張り詰めた。
ドフィンにも話を通し、より本格的に噂を拡散させ、効果的に利用する手もある。
だが――まずは、元神官長であるファラスが“噂の出所”となること。
それができれば、信憑性は格段に高まり、強力な一手となる。
「……うちの妹は、どうしてこうも頭の回転がいいんだろうな」
一つひとつ論理的に意見を重ねていくエスターを、頬杖をついて眺めていたデニスが、感心したように苦笑した。
「そうでしょ。私に似たんだよ」
「調子に乗らないで」
デニスの言葉に、ジュディは即座に突っ込みを入れつつも、どこか楽しそうに笑っていた。
しかし、その表情は次の瞬間、ふっと引き締まる。
「ファラスさんは、どちらの味方なんです?私たちの側で合っていますよね?一応、元神官長まで務めた方でしょう。正直、私はまだ完全には信用しきれていません」
まだ幼いはずなのに、すでに相手を追い詰める術を心得ているジュディの鋭い気迫に、ファラスは内心で驚かされた。
「……私は、エステフィス様にお仕えする身です。そのお方の意思がここにある以上、異を唱える理由などありません」
エスター、ジュディ、デニス――三人と順に視線を交わしたファラスは、腹を決めたように、ゆっくりと頷く。
「偽物を引きずり下ろす道に、私も加わりましょう」
「ありがとうございます、ファラスさん」
「いえ。こちらこそ」
ファラスは、真の聖女であるエスターさえ健在であれば、神殿はいつか必ず正しい姿を取り戻せる――そう、固く信じていた。
その信念が、今この瞬間、静かに、しかし確かに火を灯したのだ。
「ファラスさんが協力してくだされば、少し噂を流すだけでも、雪だるま式に広がっていくはずです。ただ……テレシアが噂の発信地だと知られて、神殿の目を引いてしまわないかが心配で……」
エスターは語尾を弱め、ためらうように息を吐いた。
「問題ありません。虚偽の噂ではないのですから。むしろ、私はこの事実が一日も早く明るみに出るべきだと考えています」
「そうだよ。たぶん父さんも、テレシアから噂が広まったってことを、わざわざ隠そうとはしないはずだ」
デニスはそう言って、心配するなとでも言うように、エスターの頭をくしゃりと撫でた。
いずれ明らかになる真実。
神殿がエスターの正体に気づき、身柄の引き渡しを求めてきたとしても――それに応じるつもりは、毛頭なかった。
「……私たちが、守るから」
「……お兄ちゃんたちを、信じていい?」
不安を滲ませた問いに、答えは迷いなく返ってくる。
「もちろんだよ」
その一言が、エスターの胸に静かな勇気を灯した。
デニスとジュディは、同時に左右からエスターの手の上へ、自分たちの手をそっと重ねた。
その無邪気で、どこか微笑ましい仕草に、エスターの唇には思わず明るい笑みが浮かぶ。
「……信じる」
誰かを信じるということ。
それが自分の人生にとって、どれほど大きな変化であるのかを、彼らはまだ知らない。
エスターは、「守る」と言ってくれた兄たちの手を、嬉しそうに、そして力強く握り返した。
「ねえ、ジェロムって歌が上手でしょう?歌を作って、広めてもらうのも良さそう」
デニスは、以前読んだ小説の一節を思い出したように言った。
噂というものは、文字よりも言葉で、言葉よりも歌で――口から口へと伝わるほど、速く、遠くまで広がっていく。
ましてや歌となれば、その効果はさらに増す。
静かに進み始めた策は、やがて帝国全土を揺るがす、大きな波紋となっていくのだった。
「じゃあ……こんな歌はどう?」
歌を作ろう、という話になった途端、突然ひらめいたらしく、ジュディは意味不明なメロディを口ずさみ始めた。
あまりにも音程が自由奔放すぎて、歌い出した瞬間――エスターもデニスも、さらにはファラスまでもが、ぎこちない笑みを浮かべて耳を塞ぐ。
「ちょっと、みんな。なんで耳を塞いでるの?エスターまで?」
「あ……あはは。私、ただ耳がちょっと、むずがゆくて……」
とっさに誤魔化し、耳から手を離したエスターは、場を和ませるようににこりと微笑んだ。
その笑顔だけで、すっかり機嫌を直したジュディは、再び上機嫌で鼻歌を響かせる。
――正直、これ以上聞き続ける自信はなかった。
エスターは素早く気持ちを切り替え、話をまとめにかかる。
「……じゃあ、ジェロムを呼びに行きましょう」
その一言で場の空気は切り替わり、次の行動へと、自然に物語は進んでいく。
そう言って、エスターは真っ先に部屋を後にした。
少し遅れてジュディがぱたぱたと追いかけ、その賑やかな足音に、デニスは思わず声を立てて笑う。
――もう、怖くない。
いつだって、隣で守ってくれる大切な人たちがいるのだから。
固く決意したエスターは、小さな手をぎゅっと握りしめ、力強く前へと歩き出した。







