こんにちは、ちゃむです。
「残された余命を楽しんでいただけなのに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
105話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 皇后の希望と、兄妹の秘密
「もう帰ってしまうなんて、寂しいです」
決闘が終わると同時に、皇帝と皇后は帰還の準備を始めていた。二人とも処理しなければならない政務が山積みなのだという。
イサベルはセレナにぎゅっと抱きついた。
「ごめんなさいね。私がわがままを言ったせいで、お忙しいのにここまで来ていただいて……」
セレナは愛おしそうに優しく微笑んだ。
「それなら、もう少しわがままを言ってくれてもいいのよ?」
イサベルは目をぱちぱちさせた。
「本当にそう思っているの」
「……本当ですか?」
セレナは静かにうなずいた。それは偽りのない本心だった。
実際、イサベル以外の皇子や皇女たちは、セレナに甘えたりわがままを言ったりしたことがほとんどなかった。イサベルのように、セレナを必要としてくれることもなかった。あの子たちは皆、幼い頃から自分自身を鍛え、剣術や学問に励むことばかりに意識を向けていたからだ。
――ほかの子たちは、こんなふうに私を求めてくれなかった。
セレナはずっと、そのことにどこか申し訳なさを感じていた。だからこそ、自分から子どもたちに近づくこともためらっていたのだ。まるで「時間を作って会いに行ってあげる」のではなく、「暇だから顔を出してあげる」と義務的に受け取られてしまう気がして、なかなか一歩を踏み出せなかった。
子どもたちも母親を必要とせず、母親であるセレナもまた歩み寄れないまま、長い年月が過ぎてしまった。どれほど理由を並べても、それは良い母親とは言えなかった。セレナはずっとその罪悪感を抱えて生きてきた。
「イサベルのおかげで、私もたくさんのことを学ばせてもらっているのよ」
イサベルは少し特別な子だった。いつも母親に会いたがり、一緒に過ごしたがっていた。その姿を通して、セレナはようやく気づき始めていたのだ。
――子どもたちは、私を必要としている。
ほかの子どもたちも、母親の愛情を必要としていなかったわけではない。ただ、それを求める方法を知らなかっただけなのだ、と。
セレナはイサベルのおかげで、その事実に手を伸ばしかけていた。まだ完全には変わりきれていなかったが、彼女の心は少しずつ動き出していた。
私は良い母親とは言えない。今までずっとそうだった。それでも――これからは、ほんの少しだけでも、今より良い母親になれるのではないか。そんな小さな希望を抱けるようになっていた。
「でも、毎日『お母様に会いたい』って泣かれたら困るわね?」
「毎日会いに来ればいいじゃないですか!」
「ふふ、嘘おっしゃい」
イサベルの頭には、瞬時に現実的な計算が浮かんだ。セレナの執務時間。睡眠時間。テイサベル移送館を利用した移動時間――どう考えても、毎日会うのは不可能だった。
「それなら、お父様を代わりに行かせるわ」
「お父様を?」
「お父様は剣を振ること以外、意外と暇を持て余しているもの。それに、お父様は剣を振ること以外は何もできないのよ。会議に出ても、みんな怖がって意見を言えなくなるから、まともに話し合いもできないでしょう? だから国政の役にはあまり立たないの」
皇帝本人の前で、その評価を容赦なく下げる。そんな恐ろしいことができるのは、世界中で皇后セレナくらいのものだった。
イサベルはなんだか気まずくなって、慌てて話題を変えた。
「で、でも、お父様も剣の鍛錬で忙しいじゃないですか!」
実際、それはビルロティアン帝国皇帝としての最重要任務の一つだった。
セレナはくすりと上品に笑った。
「大丈夫よ。あなたのお父様は、鍛錬をしなくても世界で一番強い人だから」
その言葉に、傍らにいたロンの耳がほんの少し赤くなった。ロンには「妻から直球で褒められると途端に弱くなる」という、奇妙な癖があった。
イサベルは二人を交互に見つめながら、思わず吹き出しそうになった。
『やっぱり、お母様が一番強いんだな』
彼女は改めてそう確信した。
馬車に乗り込もうとするロンとセレナを見送りながら、イサベルはふと思い出したように声を張った。
「セレモンお兄様にも、ちゃんとお母様の言葉を伝えておきますね!」
翌日。
イサベルはセレモンの天幕を訪ねていた。
「お兄様、お加減はいかがですか?」
「……急所だけは外してくださったようだな」
ベッドに横たわるセレモンは、全身を包帯でぐるぐる巻きにされていた。顔まで包帯だらけで、辛うじて片目だけが覗いている。まるで瑞々しい美青年の面影はない、見事なミイラ男の姿だった。神官の強力な治療魔法を受けたとはいえ、完治にはまだ数日ほど安静が必要なレベルの重傷だった。
イサベルはセレモンのベッドの端にちょこんと腰掛けた。
「『悲しい』って、そういうことなんですよ」
「……どういう意味だ?」
セレモンは包帯の奥で眉をひそめた。
彼としては、今回は理不尽な目に遭ったとしか思えなかった。妹が送った手紙一枚で、父親が激怒して飛んできて、大勢の兵士の前で自分を徹底的に叩きのめしたのだ。しかも決闘が終わった後も、ロンが真っ先に訪ねたのは自分の天幕ではなく、イサベルの天幕だった。傷ついた娘の心を慰めるために。
だからイサベルは、セレモンがきっと寂しさと悲しみを感じているはずだと思ったのだ。
正しいやり方かは分からない。それでも、悲しみという人間らしい感情を知らない兄に、その気持ちを教えてあげたかった。
「私は今、とっても幸せなんです」
「……お前が気分がいい、だと?」
「ええ」
セレモンはゆっくりと上体を起こした。
「お前は魔力を通じて、相手の感情を感じ取れるのだったな?」
そう言いながら、セレモンは重そうに腕を持ち上げ、イサベルに手を差し出した。重傷のせいか、その指先はかすかに震えている。
「握ってみろ」
イサベルはおそるおそるセレモンの手を握り、自身の魔力を通わせた。流れ込んでくる彼の感情を読み取ろうとする。
「ほ、本当ですね……?」
イサベルは衝撃に目を丸くした。
そもそもこの男には、はじめから“悲しい”という感情そのものが存在しないようだった。思わず混乱してしまうほど、セレモンから伝わってくる感情は、一点の曇りもない純粋な「喜び」だった。
「どうしてそんなに嬉しそうなんですか!?」
「父上が私を鍛えてくださったからだ。容赦なくな」
「……それなら私も見ていましたよ」
イサベルは苦笑した。あれは決闘という名の一方的な蹂躙であり、猛烈な「しつけ」だった。その結果が今のミイラ姿である。
「実を言うと、私はこれまで父上と本気で剣を交えたことがない。私がどれほど本気の殺意を向けて斬りかかっても、父上はいつも羽虫を払うように、軽々と受け流してしまわれたからな」
イサベルは黙って耳を傾けた。セレモンの手から伝わってくる感情は、相変わらず純粋な喜びの熱を帯びていた。
「母上は、私が何をしても愛してくださった」
それは、彼がまだ幼かった頃の思い出だった。セレモンがたまにブラドック公爵家から皇宮へ戻った時の話だ。
「今思えば、あの頃の私は本当に変なことばかりしていたな。しかも年を追うごとに、どんどん行動の度が過ぎていった」
「どうしてそんなことをしたんですか?」
「さあな。自分でもよく分からない。ただ、そうせずにはいられなかったんだ」
イサベルには、何となくその理由が理解できた。なぜセレモンが数々の奇行を繰り返していたのか。本人の口からは語られないが、おそらく口にするのもはばかられるほど残酷なことまでして、周囲を困らせていたのだろう。
――お母さんに、もっと自分を見てほしかったんだ。
生まれてすぐブラドック公爵家へ預けられたセレモン。彼は一度たりとも、ただの「愛される息子」として生きたことがなかった。生まれた瞬間から、帝国の闇を担う「第一の影」というシステムとしてしか扱われてこなかったのだ。
皇子たちに無条件の愛情を注がず、ただ過酷な競争と義務だけを強いるビロティアン皇室。小説で読んだ時は「冷徹な設定だな」としか思わなかったが、実際にその中で生きる人間にとっては、あまりにも残酷で孤独な環境だった。
「それでも母上は、私がどんな過ちを犯しても、一度も私を叱ったことがなかった。私はそれが当たり前だと思っていたんだ」
しかし時が流れ、歳の離れた弟妹たちが生まれた。中でも次男のミハエルは、特に手のかかる問題児だった。
「ある時、ミハエルがわがままを言って騎士のすね当てを蹴飛ばした。その時、母上はあの子をひどく叱ったんだ」
「……」
「それが、どうしようもなく羨ましかった」
セレモンは自嘲気味に笑いながら、片目でイサベルを見た。
「なぜ母上は私を叱らず、ミハエルだけを叱るのだろう――ずっとそう思っていた」
「セレモンお兄様、それはお母様がお兄様を愛していなかったからではないと思います」
「愛というものが何なのかは、私にはよく分からない。だが、母上がとても善良な方だということは知っている。私が生まれたばかりでブラドック公爵家へ送られることに、皇宮で唯一、涙を流して反対してくださった方でもあるからな」
「……」
「母上は私に、ずっと申し訳なく思っていたんだ」
皇后セレナは、子どもたちに対して大きな負い目を抱えていた。その中でも、とりわけ気にかけていたのがカマンとセレモンだった。カマンが幼い頃はセレナ自身が最も忙しく余裕がない時期で、そしてセレモンとは、そもそも一緒に過ごす時間さえ与えられなかった。
「だからだろうな。私がどれほど大きな過ちを犯そうと、どれほど酷いことをしようと、母上はただ悲しそうに私を抱きしめるだけだった。父上はそもそも関心すら示さなかったが」
「お兄様は、そのお母様の態度が嫌だったんですか?」
「……そうだったんだと思う」
セレモンは静かに答えた。
母が自分に対して、終わりのない罪悪感を抱き続けることを彼は望んでいなかったのだ。
「母上は私を見るたびに、どこか苦しそうだった。もしかすると、それがお前の言う“悲しみ”というものなのかもしれないな。不快な感情だということは分かるが、その感覚そのものは、私にはやはり理解できない」
イサベルは迷わず言った。
「それは、お兄様のせいでお母様が苦しんでいるのを見るのが嫌だったからですよ。お兄様だって本当は苦しかったはずです」
セレモンは包帯の中でしばらく考え込み、やがて小さくうなずいた。
「……そうかもしれないな」
「それが『悲しみ』なんです」
イサベルは諭すように優しく言った。
「大切な人が苦しんでいるのを見て、自分も同じように胸が苦しくなること。それが悲しみという感情なんですよ」
「……」
セレモンはまだ完全には理解しきれていない様子だった。だが、イサベルとこうして言葉を交わしている時間だけは、不思議と胸の奥が穏やかに落ち着くのを感じていた。
――なぜ私は、この小さな妹にこんな話をしているのだろう。
自分でも分からない。気づけば、これほど素直に胸の内を語った相手は、これまでの人生で一人もいなかった。
その時、イサベルがぽつりと言った。
「だからお兄様は、お父様やお母様に本気で叱られたかったんだと思います。叱られることで、お母様が自分に抱いている『罪悪感』という壁を取り払いたかったんじゃないでしょうか」
「……」
「それに……お母様はお兄様のその寂しい気持ちに気づいていたら、きっともっと、実の息子として厳しく叱ってくれていたはずです」
イサベルはそこまで言うと、そっと微笑んだ。
欠乏というものは、実にさまざまな歪んだ形で現れる――イサベルはそれを痛いほど理解していた。自分自身もそうだったし、長男のカマンもそうだった。そして目の前のセレモンもまた、全く同じだったのだ。彼が見せる異常なまでの奇行や執着は、愛の欠乏の裏返しだった。
「私は少し傷つきましたよ」
「何がだ?」
「お父様にこてんぱんに叱られたのに、あんなに嬉しそうにする人がどこにいるんですか? 私のせっかくの怒りが台無しです」
ただ病気をせず健康でいることさえ、誰かにとっては奇跡のような喜びになり得るように。ただ親に本気で叱られることさえ、この兄にとっては至上の救いになり得るのだった。
イサベルはセレモンと繋いだ手を、もう一度ぎゅっと握りしめた。
「それなら、これからは私に任せてください」
「何をだ?」
「私がお兄様を、お父様やお母様の代わりにしっかり叱ってあげます」
イサベルはその場から立ち上がると、腰に両手を当て、きりっと目に力を込めた。
「お兄様がまた他人のものを奪おうとしたり、変なことをしたりしたら、私がものすごく厳しく叱ってあげますからね!」
「何だって?」
セレモンは呆気にとられた後、包帯に包まれた肩を震わせながら笑い始めた。
「どうして笑うんですか! 私は今、本気なんですよ。ものすごく怖く叱るつもりなんですから。あとで怖くて泣いちゃっても知りませんからね。本当に警告しましたからね!」
とうとうセレモンは声を上げて吹き出した。
「はははっ! 面白いな、お前は」
「何がそんなに面白いんですか!」
「ほら、そこにある鏡を見てみろ。君が今、どれだけ可愛らしい顔をして怒っているか」
「可愛らしいですって!?」
イサベルは唇をきゅっと噛みしめた。
「それはお兄様が私の恐ろしさを分かっていないからです」
「君のことを分かっていない、か」
「ええ。私、こう見えても本気を出したらすごく怖いんですよ」
セレモンはしばらく肩を揺らして笑い続けた後、包帯でぐるぐる巻きになった重い腕を伸ばし、イサベルの短い髪をそっと撫でた。
「……確かに、噂の悪女とは似ているわけではないな」
「今さらですか?」
「私は『第一の影』として、あらゆる恐怖や怖れを感じないように訓練されてきたんだ。影が任務の途中で怯えていては務まらないだろう? だから、不要な感情を精神から削ぎ落とす訓練を受ける」
「そんな不健康なものまで訓練だと言うんですね」
「まあ、この世界には空を飛ぶ人間もいれば、魔法で巨大な火柱を噴き上げる人間もいる。かと思えば、私だって趣味の魔法でかき氷を召喚することくらいはできる。そんな奇妙な世界なのだから、心を殺す訓練があっても不思議ではないだろう」
イサベルはふん、と鼻を鳴らした。
「それでも、私のことは怖くないんですか? 怖がれるよう努力しなければならないんですか?」
「いいえ。その必要はありません。お兄様がそうやって強がるなら、とっておきのものを見せてあげます」
イサベルは机の上のペンを手に取ると、近くにあったノートにサラサラと何かを書き始めた。
「さて、ここで行列$A$と掛け合わせると単位行列$E$になる行列を、 $A$の逆行列と定義します」
イサベルは真剣な顔でペンを走らせる。
「ということです。ですから$B$は$A^{-1}$になります」
イサベルは満足そうにうなずいた。これならどんな暗殺者だろうと恐怖するはずがない。
「これを連立方程式の形で表すと――」
「そして3次元空間では……$det(A)$を求めて、シグマ($\Sigma$)で表現して……ここまでは非常に基本的な内容です。では、これを使って簡単な$3 \times 3$行列の逆行列を実際に求めてみましょうか?」
イサベルは「どうだ!」と言わんばかりの得意げな表情でセレモンを見た。セレモンは包帯の隙間から、その数式をじっと見つめていた。
この程度なら、怖がるはずがないのだ。
(11歳の頃、前世でこれを見た私は本当に恐ろしかったのに……!)
あれはまさに悪夢のような恐怖だった。自分には到底理解できない「基本概念」が世の中には存在し、周りのみんなは簡単に理解しているのに、なぜ自分だけが数学を理解できないのか。それは幼いイサベルにとって、世界の終わりにも等しい途方もない恐怖だったのだ。
イサベルの熱弁を黙って聞きながら、しばらく考え込んでいたセレモンが、ようやく口を開いた。
「ところで、イサベル」
「はい、何でしょう? さあ、怖いと言いなさい!」
「……お前は、一体これの何を怖がればいいんだ?」
「……え?」
「むしろ、そっちの呪文のような文字列の方が、よっぽど私を効率的に殺せそうじゃないか」
セレモンが包帯の間から指をパチンと鳴らした。
すると、影の中からどこからともなく、小さな針のような形状をした醜悪な魔獣が数匹飛び出した。魔獣たちはイサベルの書いた数式の紙を瞬時にずたずたに引き裂いた後、そのままテーブルに深く突き刺さった。
セレモンは純粋な好奇心に満ちた表情で尋ねた。
「普通は、こういう視覚的な暴力を『怖い』と言うんじゃないのか?」
彼が召喚した針が触れた場所は、ジュウジュウと不気味な音を立て、どろどろに溶けながら黒く腐食していった。
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皇后セレナの抱える負い目と変化
子どもたちに甘えられた経験がなく、良い母親ではないと自責していたセレナ。しかし、無条件に自分を求めてくれるイサベルとの触れ合いを通して、他の子らも「甘え方を知らなかっただけ」だと気づき、少しずつ母親として変わり始めていく。
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セレモンが奇行を繰り返した理由と「悲しみ」
生まれた瞬間から暗殺者(影)として育てられ、親の愛に飢えていたセレモン。母の罪悪感に満ちた生ぬるい態度に傷つき、弟のように「本気で叱られたかった」という本心をイサベルに見抜かれる。イサベルは「これからは私が代わりに叱ってあげる」と繋いだ手を握りしめた。
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恐怖の定義をめぐる、兄妹の致命的なズレ
不要な感情を削ぎ落とす訓練を受けてきたセレモンを怖がらせようと、イサベルは前世で最も恐ろしかった「数学の逆行列や連立方程式の数式」を突きつける。しかし、セレモンには全く通じず、逆に影の魔術で紙を腐食させ「普通はこういうのを怖いと言うのでは?」と問い返される結末となった。