こんにちは、ちゃむです。
「残された余命を楽しんでいただけなのに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
92話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- クジラとキツネの落差
「な、なんですって、陛下……ッ!? 一方的にそちらから契約を破棄するだなんて、そんな理不尽な暴挙が法的に許されるはずがありませんわ!」
大理石の謁見の間に激しい怒声を響かせたのは、帝国でも指折りの名門、ロスウィルド公爵家の傲慢な令嬢レイナだった。
対面するジルデル王国の国王バルキオは、彼女のあまりの剣幕に、わざとらしく両の肩をすくめてみせた。
「おっと、これは驚いたな。いやいや、お嬢さん。私は何もそんなに君を激怒させるつもりで話したわけじゃないんだがね」
「今さら、我が公爵家とのあの神聖な取引を、すべて無かったことにするおつもりですか!?」
「だから、事前の規約通りに高額な違約金(ペナルティ)はそちらの口座にきちんと支払っただろう? 急な破棄によって私の方だって相応の損はしているんだ、お互い様じゃないか」
事の発端は、数ヶ月前に遡る。
もともとジルデル王国とロスウィルド公爵家の間では、最高級のダイヤモンドの取引に関する厳格な独占供給契約が結ばれていた。すでにロスウィルド側から巨額の手付金も支払われている状態だった。
裏では事務的なすべての手続きが完璧に整っており、今日の謁見は、ただ形式的に用意された書類の最後に王の署名(サイン)を添えるだけで、すべてが完了するはずの簡単な段階だったのだ。
それほどまでに失敗の余地のない、あまりにも簡単な仕事であったからこそ、ロスウィルド公爵家も、次代を担う若いレイナに「箔」をつけさせ、外交の経験を積ませるという軽い目的だけで、この地へ彼女を代表として派遣していたのだ。
「さてねえ。我が国の市場にとって、君たちよりも遥かに素晴らしい好条件を提示してくれる新たな取引先(ナロモレ)が、このタイミングで不意に目の前に現れたと言ったら、君ならどうする? ……最初に交わした契約書の裏面にも、細かく書いてあったはずだろう。――『今後、市場においてより高品質のダイヤモンドを大量かつ安定的に確保できるルートが発見された場合、王家は違約金を支払うことで、この契約を合法的に破棄できる』とな」
レイナはあまりの屈辱と怒りのあまり、その洗練された身体を小刻みに震わせた。
「このダイヤモンドは、我が公爵家が支援するユルミエル家が血を吐くような思いで生み出した、大陸最高品質の奇跡の結晶ですのよ!? これ以上の品質など、この世に存在するはずがありませんわ!」
「あぁ、聞こえているよ。そんなに耳元で大声を張り上げなくても、ちゃんと私の耳には届いているよ、お嬢さん」
「……きっと、後悔なさいますわ。神に誓って、この無礼を絶対に後悔させてみせますから……!」
バルキオは、悔しさのあまり奥歯をガチガチと激しく食いしばるレイナの無様な姿を見て、心の奥底でくくっと冷酷に笑った。
(ロスウィルドの娘が、若さに任せた酷い礼儀知らずだという噂は以前から宮廷の裏で聞いていたが……。まさか、ここまで交渉のイロハも知らん無能な赤ん坊だったとはな)
彼女のその必死すぎる感情的な様子を見ていると、王としては怒りを覚えるよりもむしろ、哀れみの感情のほうが強く湧き上がってくる。
何より、昨日この同じ場所で対面した、あの幼いイサベル皇女の恐ろしいほどの完成度(落差)が、バルキオの脳裏にはあまりにも巨大に焼き付いていた。
(片や、国家の『理』と、商人の『利』を、何食わぬ顔で同時にこちらの手のひらへ差し出してくる本物の怪物。片や、自らの思い通りにならない現実に対して、ただ感情のままに騒ぎ立てるだけの無知な子供……。フン、これでは最初から勝負にすらならんな)
「もう話は終わりだ、公爵令嬢。さっさと自国へ帰りたまえ。……ほら、君たちの乗るべき港は、あちらの方角だよ」
「……港? 一体、何をおっしゃっているのですか、陛下」
「クジラ(ロスウィルド)というのは、元来、広い海の中にしか住めない生き物だろう?」
バルキオのすぐ隣に影のように控えていた、王国の首席補佐官ガブリジャンが、主君のあまりの寒すぎるダジャレに、小さく「コホン」と哀れむような咳払いをした。
長年仕えてきた主君のあの独特な老害の言い回し(ダジャレ癖)には、いい加球に慣れているはずの彼であったが、やはりこのような公式の外交の場で他国の使節に対して大真面目に放たれると、臣下として少しばかり気恥ずかしかった。
ガブリジャンはすぐさま王の本当の意図(毒)を正確に汲み取り、冷淡な声で翻訳して言い直した。
「――当王宮の『出口』はあちらでございます、レイナ様。どうぞお気をつけて」
それは、これ以上の対話を一切拒絶する、明確な退去命令(お払い箱)だった。
レイナは悔しさにその美しい唇を血が出るほど強く噛み締めながら、乱暴に踵を返して、謁見の間から外へと足早に出て行った。
その彼女の惨めな後ろ姿を見送りながら、バルキオは再び、軽く両の肩をすくめてみせた。
「ガブリジャン。あのイサベルという少女は、やはり噂通り、現帝国が総力を挙げて育て上げた最高の『政治的な戦略資産』だな。ロスウィルドの連中を市場から完全に叩き潰すために、今回の交渉の席を、あえてロスウィルド側にわざと先に譲って大恥をかかせたのだろう?」
「私も、全面的に陛下と同意見でございます。すべてはあの幼い皇女殿下の計算通りの筋書きでしょう」
「あぁ。近いうちに、この大陸の経済に、とてつもなく巨大な嵐の風が吹き荒れそうだな、ふふふ」
ひとしきり満足そうに笑ったあと、バルキオはふと、何かに気づいたように思い出した口調で言った。
「そういえば、ガブリジャン。あの皇女殿下は、私が昨日直々に手渡したあの極上の品(人形)を、今頃私室で気に入って遊んでくれているだろうか? ……なんだか、急に少し気になってな」
「……陛下。その子供騙しの贈り物の選定に関して、この私が裏で猛烈に反対していたこと……まさか、もうお忘れになられたわけではありませんよね?」
「いや、まさかあの子が、あそこまで内面が『できる(老獪な)』政治家だとは、会う前は思わなかったんだよ」
「今頃、あちらのキャンプでは、我がジルデル王国から国家規模で『軽んじられた(子供扱いされた)』と、大変不快に受け取られているに違いありませんわ」
イサベルは、帝国が丹念に育て上げた、恐るべき“政治的な戦略資産”。
見た目こそ愛らしい幼児の姿をしてはいるが――その内面(頭脳)には、何百匹もの老獪な年経た狐を飼い慣らしているかのような、恐ろしい政治家としての冷徹さを秘めた人物なのだ。
そんな百戦錬磨の相手に対し、ただの子供向けの人形を「はい、プレゼントだよ」とドヤ顔で贈ってしまったのは、一国の王の外交としては、明らかに致命的な大判断ミス(大恥)であった。
「……ガブリジャン。今すぐ一度、帝国軍のベースキャンプへ私の名代として様子を見てきてくれ。もし万が一、彼女の機嫌を損ねているようであれば……王のダジャレのせいだと上手く言い訳して、何としてでもその場を取りなしてほしい」
一方、その頃。
バルキオ国王から「狐を何百匹も飼う戦略兵器」と恐れられていた当のイサベルは、帝国軍のプライベートなベースキャンプの自室において、なんだかひどく、底なしに気分がブルーに沈み込んでいた。
先ほどまで、ユリと一緒にあの魔法の人形遊びに本気で全力で取り組んでいた分、自らの壊滅的な不器用さを突きつけられて、余計に深く落ち込んでしまっていたのだ。
「……ねえ、ユリ。一人の女性として客観的に見て、私のこの『ファッションセンス』って、一体全体何なのかしら?」
「……」
「そもそも、神様は私という一人の人間に、お洒落に関するセンスというものを、一寸でも与えてくださったのかしらね?」
「そ、……それは、その……」
いつもならどんな時でも優しく完璧に励ましてくれる有能なユリですら、目の前にある「髪の毛が大爆発した哀れな人形」の姿を前にしては、完全に言葉に詰まってしまっていた。
ほら、やっぱりそうなのだ。私は、生まれつき手先がとてつもなく不器用な子どもなのだ。
「どうして、私が良かれと思って優しく触るだけで、可愛いお人形のお洋服も髪の毛も、全部ダメになっちゃうのかしら……」
「だ、……ダメだなんて、そんな悲しいことをおっしゃらないでください、殿下! 殿下の施されたその着せ替えは、とても……その、独創的で『個性的』で、大変素晴らしいアバンギャルドな素敵さだと思いますわ! どうぞ、ご自身の感性に自信をお持ちください!」
「ふふ、いいのよ、ユリ。私、自分のことに関しては、これでも人より良いものを見抜く『見る目』だけは確かに持っているみたい。……だからこそ、自分で自ら服を組み合わせると、かえって全体のセンスが壊滅的にダメになるって事実も、今、自分の目で見て完璧に理解できたわ」
そう、私は、何もない“無”の空間から、新しく美しい芸術を生み出すようなクリエイティブなタイプ(デザイナー)の人間ではないのだ。
世の中にある「本当に良いもの」を鋭く見抜く審美眼は人一倍あるけれど、いざ自分の不器用な手でそれを作ろうと直接手を加えると、かえってすべてを崩してしまう呪いにかかっているのだ。
「あぁ、本当によかった……。私の代わりに、お洋服や髪の毛を完璧に美しく整えてくれる、ユリみたいに優秀で優しい侍女が、いつも隣にいてくれて」
「も、もったいないお言葉です、殿下! これからも殿下の美のために、一層精進いたしますわ!」
私は、自らの気持ちを切り替えるため、部屋の隅にある大きな姿見(鏡)の前に立った。
鏡の中に映し出されているのは、陽の光を浴びて豊かに輝く美しい金色の髪と、大陸の至宝である最高級の宝石を嵌め込んだかのような、澄み切った琥珀色の瞳。
その自らの生まれ変わった美しい容姿をじっと見つめていると、先ほどまでの人形遊びの失敗による激しい落ち込みが、不思議とスーッと凪ぐように心が落ち着いていった。
雪のように白い健康的なその素肌は、今着ている淡い青色(サファイアブルー)の洗練されたドレスの色彩と、実によく似合っている。
(あぁ、私……この世界のパーソナルカラーで言うなら、完全に『クールトーン(ブルベ)』の属性なのかもしれないわね)
「……綺麗。本当に……」
それは、単なる造形としての外見の美しさだけを指しているのではなかった。
そんな表面的な美しさを遥かに超えた、命の根源からあふれ出る、何かが確かにそこにはあった。たぶんそれは、今世のこの肉体が、前世とは違って何不自由なく「健康」であるという事実から、内側から自然ににじみ出ている種類の、本物の生命の美しさなのだろう。
「本当に、どこから見ても綺麗だわ……」
他人が私のこの姿をどう評価するかは、正直どうでもよかった。でも、他ならぬ私自身は、鏡の中にいるこの元気な顔も、この逞しい身体のすべてをも、本当に心の底から綺麗で、尊いものだと思った。
しっかりと血色の良い、桃のようにほんのりとピンク色に色づいているこの肌は、あの前世の病室で死にかけていた、あの青白く頼りない、いつ消えてもおかしくなかった自分自身の頼りない印象とは、180度全く違っている。
それだけ、今世の私の心臓は、五体満足に元気にドクドクと拍動し、身体の隅々にまで温かい血を巡らせてくれているという、何よりの絶対の証なのだから。
「唇も、こんなに赤くて、瑞々しいし……」
私は、愛おしさに誘われるまま無意識のうちに鏡の表面へと小さな手を伸ばし、自らの指先で、鏡の中の自分の唇へとそっと触れてみた。
ときどき、自らの幸せな現状を前にして、こんな不思議な奇妙な感覚に陥ることがある。
この鏡の向こうで元気に赤く色づいている綺麗な唇が、本当は自分のものなんかじゃないような、誰か別の幸せな女の子のものを借りてきているだけのように思えてしまう、そんな寂しい瞬間が。
私の人生の唇が、こんなに健康的な血色を帯びていいはずがないのに。昔の、あの冷たい病室の私の唇は、もっと、死人に近い灰色(パープル)に近い色をしていたはずなのに……。
「……本当に、綺麗だわ。私をこの世界に生まれ変わらせてくれて、ありがとう」
自分で自分に向けて何度も「綺麗だ」と呟いてしまうのは、客観的に見れば少しナルシストで変な気もするけれど、それでもやっぱり、今の私はまぶしいくらいに綺麗だった。
自分で口にするには少し照れくさくて大げさだけれど、今の私にとって、この生きているという美しさは、直視できないほどに輝かしいものだったのだ。
たぶん……こうして自らの二つの足でしっかりと大地に立ち、自分の目で鏡を見て、生きている今の自分に対して心から「ありがとう」と感謝できている、この奇妙な瞬間そのものが、何よりも世界で一番綺麗で、尊いことなのだと思う。
ふいに胸の奥から込み上げてきた、世界に対する猛烈な感謝の念に耐えきれなくなって、私は鏡の中の自らの指先に触れながら、あまりの嬉しさに、思わず鏡に向かってにっこりと大輪の花が咲くように幸せそうに笑ってしまった。
――しかし、その、ナルシスト全開の最も恥ずかしい瞬間のことだった。
「……お前、一体……そこで『何をしている』んだ?」
自室の背後の扉のほうから、低く、困惑に満ちた聞き馴染んだあの男の声が不意に響き渡った。
(――ひっ、!?)
私は驚きのあまり心臓が口から飛び出しそうになりながら、ハッとして血相を変えて振り返った。
そこには、私の実の兄である――皇子カマンが、これまで生きてきて一度も見せたことのないような、言葉を完全に失った形容しがたい奇妙な表情を浮かべながら、私の方をじっと凝視して立っていたのだ。
カマンは、その場で化石のように完全に固まっていた。
(神様……。私、この新しい世界に生まれ変わって第二の人生をスタートさせてから今日に至るまで、今この瞬間、初めて心の底から『恥ずかしすぎて今すぐ死にたい』って本気で思ったわ……ッ!!)
イサベルは、あまりの羞恥心のプライドの崩壊に、顔から火が出るどころか、今すぐ床の隙間にでも潜り込んでどこか遠くの世界へと逃げ出したくなった。
(だって、今の私の行動、どう客観的に100回見直したって『自分の美しさに陶酔して、鏡に向かってウットリと微笑みかけながら指先で自らの唇をなぞっている、超ド級の痛い重症ナルシストの幼児』にしか見えないじゃないのよーーっ!! 下手をしたら、過酷な政治闘争のストレスのせいで、ついに頭のネジが外れて正気を失ってしまった哀れな狂人に見えるかもしれないわ……っ!!)
私は慌てて、火傷でもしたかのように鏡の表面から小さな手をバッと離した。
けれど、私はプロの政治家(戦略兵器)なのだ。どんなに恥ずかしい致命的な失態を犯したとしても、プロたる者、常に氷のように冷静でいなければならない。
一体どの分野のプロなのかは自分でもさっぱり分からなかったけれど、とにかくイサベルは、この絶望的な修羅場を乗り切るため、全力で「プロの政治家らしく、どこまでも冷静に振る舞う」ことにした。
「……あら、お兄様? 一体いつから、そちらにいらしていたのかしら?」
「……あぁ。今、ちょうど中に入ってきたところだ」
イサベルにとって唯一の救いだったのは、このカマンという兄が、もともと感情をあまり表に出さず、常に冷徹で表情をほとんど変えない鉄面皮の人間だったことだ。
もしも、彼から「うわあ、こいつ、自分の顔を見てウットリしてるよ……近寄らんとこ……」というような、底冷えするような軽蔑に満ちた目で見つめられていたら、繊細なイサベルのガラスのハートは、今度こそ二度と修復できないほど深く粉々に傷ついていたに違いなかった。
「え、ええとね! 今のはね、何だか自分の顔の表面に、何か黒い汚れが不気味についているような気がして……」
「……」
「これ、もしかしたら私の顔の汚れじゃなくて、この鏡の表面のほうが汚れているのかしらと思って、指先で触って汚れの層を確かめていただけですわ! 本当よ!?」
何故だろう。必死にプロらしく言い訳を並べ立てて話せば話すほど、自らの声のボリュームがどんどん小さく、惨めに萎んでいってしまう。
しかし、対面するカマンのほうは、そんなイサベルの脳内での複雑で繊細な羞恥心の葛藤など、全く、一寸たりとも気づいてはいなかった。
というよりも、実際のところ、今の彼は裏での交渉がすべて上手くいったおかげで、ここ数年の中で最も「最高に機密が良い状態」だったのだ。
「……それにしてもお前。どうして、この私が部屋の中に入ってきたというのに、その私の歩法の足音に今の今まで全く気づかなかったんだ?」
「それは……その……」
イサベルは、さすがにその理由の真実として、「自分の今世のあまりの健康的な美しさに見惚れて、100%魂を奪われて没頭していたから」だなんていう、死んでも口にできない恥ずかしい本音は言えず、もごもごと口を尖らせて口ごもるしかなかった。
だが、カマンは特に、彼女のその明確な返答を待っている様子でもなかった。
彼は妹から言い訳の答えを聞くことはできなかったが、何故か、その表情はとても満足そうに優しく満ち足りていた。
(――あぁ、やはり、あの魔塔のビアトン卿。あなたの生前のあの見立ての言葉は……私の前においては、完全に間違っていたな)
実際、カマンがここへ発つ前、魔塔において補佐役のビアトから真面目な顔で直々に聞かされていた「皇女イサベルの警戒能力」に関する難解な分析話があったのだ。
『――ええ、カマン皇子。我がナロモレの主であるあのイサベル皇女殿下は、生まれながらに魔力に対する勘が非常に鋭く、その野生の直感も常人の領域を遥かに超越して敏感でいらっしゃいます。それこそ、バルキオ国王のちょっとした微かな表情の変化の裏の真意もすぐに見抜いてしまいますし、私の日々の心理状態の揺らぎすらも、一瞬で完璧に見抜かれるほどです。そしてご覧の通り、先のカルフ団長の隠密の侵入に対しても、ハナからすべて気づいていらっしゃいました。……それほどまでの規格外の方ですから、たとえ皇子殿下がどれほど足音を消して近づこうとも、おそらく、あなたが部屋の10メートルほど手前に近づいた段階で、その野生の本能によって一瞬で気配を察知されるでしょうね』
イサベルは、世界で最も鋭く張り詰めた警戒の感覚を持っている。だからこそ、普通の人間が近づけば、その気配の歪みによって瞬時に気づくのが当たり前のはずなのだ。
それなのに、彼女が今回、自分の接近に対して最後の最後まで一寸も気づかなかった本当の理由は――カマンの頭の中では、もう世界にただ一つしか残されてはいなかった。
(……つまりそれほどまでに、この私の存在に対してだけは、あの子は心の底から一寸の『警戒心』も抱いていない、ということか)
これは、人間に例えるなら「日常のありふれた環境音」を聞く仕組みと全く同じことだった。
人間というのは普段、自分の部屋にいる時、時計のカチカチという音や風の音といった、周囲にある当たり前の安全な環境音はいちいち意識することなく、脳が勝手に聞き流して排除している。しかし、もしそこに一寸でも「異質な泥棒の足音」や、自分にとって重要な情報を含む危険な音が混じれば、人間の意識は自然とそちらへと緊急で向かうものだ。
人間の放つ「気配」という魔力の真理も、それと全く同じロジックだった。
(あの子にとって、この私という実の兄がすぐ傍にやって来るということ自体が、もはや世界の何よりも当然のことであり……。私のまとうこの魔力の気配すらも、彼女にとってはあまりにも『当たり前の安全な環境(家族)』だからこそ、ハナから警戒のセンサーを作動させる必要すら感じなかったのだな)
だからこそ、イサベルが自分の接近に対して無防備に気づかなかったのも、兄としては無理のない、当然の嬉しい結果だったのだ。
(……ククッ、それにしても不思議だな。一体どうして、今の私は、こんなにも胸の奥の気分が最高に良いのだろうな?)
自分でも、何故こんな些細なことでここまで心が満たされているのか、なんともおかしく、奇妙な話だった。
それでもなお、カマンは今、自分の胸の内にあるその気分の良さが、決して偽物ではない本物の幸福であることを、素直に認めざるを得なかった。
何故だろう……。それはまるで、自らの冷酷な人生の中で、生まれて初めて本物の意味での「家族」という存在に出会えたかのような、そんな極上の充足感だった。
それは、十年以上もの長い間、常に孤独な病魔の苦しみの中で一人で血を吐きながら耐え続けてきた彼の、カラカラに乾ききっていた心の大地に対し、世界の何よりも静かで、温かい、潤いのある恵みの雨を優しく降らせてくれるかのような、そんな素晴らしい感覚だったのだ。
「お前。……ここのキャンプを、一体いつ頃に発って首都へ戻る予定なのだ?」
「そうですね……。ジルデル王家との裏での細かい書類の処理がすべて完璧に片付くまで、あと数日ほどは、この場所で時間を過ごすことになりそうですわ」
イサベルは、自らの恥ずかしい失態をごまかすため、さりげなくカマンの横顔の様子を上から下へとうかがった。
(もしも、今のナルシストな行動のせいで、お兄様から『何だこいつ……』って本気で嫌がられていたらどうしましょう。それは一人の妹として、ちょっと、……かなり悲しいかも……)
そんな不安の霧が、彼女の小さな胸の奥を一瞬だけよぎる。
「まあ、大まかな方向性の交渉は昨日すべて完璧に片付いておりますから、あとは実務方同士の細かい数字の調整だけですわ。そんなに長い時間はかからないと思いますけれど」
「……そうか」
若き王と、帝国の幼き皇女は、机を挟んで向かい合い、しばしの間、静かに言葉を交わし続けた。
国家としての大きな枠組みはすでに昨日の時点で100%決まっており、残された細かな部分は、実務担当の役人同士で勝手に詰めさせていく規則になっている。それでもカマンは、この対話の時間の終わりに、どうしても自らの口から彼女へ向けて伝えたい切実な言葉があった。
(……あぁ、できることなら、お前がこのまま首都へ帰らず、私のいるこの地にずっと残ってくれたらいいのに……)
これまでの人生で初めて、自らの鎧を脱ぎ捨てて、心から穏やかに笑って話すことのできる、本物の“家族”のような温かい存在。
自分がまだ幼い子供だった頃、暗い病室のベッドの中で毎夜淡く思い描いていた、あの理想の幸福な家族の温もりというものを、十数年の時を経て、彼は今、ようやくこの手に入れることができたような気がしていたのだ。
だからこそ、用事が済んだからといって、イサベルがすぐに遠い首都へと帰ってしまうのが、一人の兄としては少しだけ惜しくて、寂しかったのだ。
「お前。……まだ、この私に対して、新しく教えてくれるべき『大切なこと』が、色々と残されているのではないかね?」
――頼むから、もっと、こうして人間らしく心を通わせて話をするための方法を、この私に教えてほしい。
彼のその不器用な言葉の裏には、そんな一人の孤独な男としての、切実な甘えの意味がふんだんに込められていた。
その彼の隠しきれない不器用な温かい言葉を聞いた瞬間、イサベルの小さな胸の奥が、ふっと日だまりのように温かくなった。
あの、出会った頃は氷のように冷たかったカマンお兄様は、私の関わりによって、確かに内側から変わり始めてくれている。そして、これから流れる時間の中で、もっと、もっと素敵な優しいお兄様へと変わっていくはずだ。
(……あぁ、それでも。色々と恥ずかしい思いはしたけれど、私がこの地へやって来て、本当によかったわ)
誰かの温もりというものを本当の意味で知ったカマンお兄様は、これから先の人生、きっと昔よりは少しは幸せになってくれるに違いない。
――なら、私が今日までここで必死にやってきたすべての政治的行動は、この世界にとっても、確かに大きな意味のある素晴らしいことだったのかもしれない。
そう、心の底から真っ直ぐに思えたのだ。
カマンの内にあったあの冷たい鋼の殻を、自らの手でほんの少しだけ壊してあげられた気がして、イサベルの放つ声のトーンも、自然と世界の何よりも柔らかく、優しいものへと変わっていく。
「ふふ、お兄様。……誰かにわざわざ教わらなくとも……お兄様は、もともと誰よりも人を想う優しい心を、ちゃんとその内側に分かっていらっしゃいますよ」
「……」
本当は、カマンもその言葉を聞いて、こう言い返したかったのだ。
(あぁ、そうだな、分かっている。……だけど――私が言いたいのは、そんな国家の理屈のような意味じゃないんだ、イサベル。……私はただ、お前に、もう少しだけ私のいるこの地に残ってほしくて……もっとお前と、色んな他愛のない話をしていたいだけなんだ……)
けれど、生まれてからずっと感情を殺して生きる訓練を受けてきた彼には、そんなあまりにも子供っぽい我がままな言葉を、どうしても素直に口にすることはできなかった。
「だって、私のお兄様は、本当は世界で一番とっても優しい方なのですから」
「……」
二人の間に、心地よい静かな沈黙の時間が落ちる。
イサベルは少しだけその美しい琥珀色の視線を下へと落とし、彼の心を優しく救い上げるように、そっと言葉を続けた。
「まだ……私からお兄様へ、きちんとお伝えしたい大切なことも、たくさん残されておりますしね」
そう、まだあるのだ。――「私に対してなら、いつでも、どんな時でも、あなたのその泥臭い本音をすべて曝け出して甘えていいのよ」という、その最も肝心なメッセージを、まだ彼女は彼に対して直接伝えられてはいなかった。
その彼女の圧倒的な聖女の姿を前にして、カマンの脳裏には、昨日出会ったばかりのあの輝かしいイサベルの姿が、鮮やかな極彩色の光を放って次々とよみがえってきた。
『――ふふ……ッ! お兄様!』
『私、お兄様と過ごしたあの交渉の席、思っていたよりも、ずっと何倍も楽しかったですわ!』
『私の人生における“初めての瞬間”を、こうして一緒に特等席で過ごしてくださって、本当にありがとうございます、お兄様』
『これは、私の一寸の嘘偽りもない、心からの本当の気持ちですのよ?』
――あの時の、彼女が放った、一点の曇りもないまっすぐな光の言葉たち。
カマンは、目の前にいるイサベルが、これから先、もう少しだけでも自分に対して「本当の本音」を見せて甘えてくれたらいいのにと、一人の兄として切に願っていた。
自分自身が歩んできた、あの孤独で血を吐くだけだった暗い幼少期の道とは全く違う、光に満ち溢れた幸福な道を、この可愛い妹には歩んでいってほしい、と。
(……だが、今のこの私の口から、一体どのような言葉を使って、その想いをお前に伝えればいいというのだ……?)
心の中で言いたいことは、それこそ山のように、海のように溢れ返っているというのに、いざそれを形にしようとすると、自らの未熟な言葉の引き出しが上手くまとまってくれない。
彼の美しい唇は、長年の自制のせいで、どうしてもそれ以上は開かなかった。
生まれてから今日に至るまで、他人の口からただの一度も聞いたことがなく、ましてや自分自身の人生において一度も口にしたことのないような、そんな温かい「家族の愛の言葉」を他者に伝えるというのは、彼にとってはどんな国家の裏交渉よりも遥かに難解で、不可能な任務だったのだ。
カマンは結局、その開かなかった喉の奥へと、自らのすべての愛おしい言葉を静かに飲み込んだ。
結局、本当に言いたかった最大の言葉を最期まで口にすることができなかったカマンは、気まずさを誤魔化すようにして、自らの高級な懐の奥から、一通の美しく封印された上質な「紙(書簡)」を取り出すと、それを彼女の前へとそっと差し出した。
「……お兄様。これ、一体何かしら?」