こんにちは、ちゃむです。
「残された余命を楽しんでいただけなのに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
96話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- アルミエールの怒り
私は自らのあまりの恥ずかしさに、少しばかり気まずくなってその視線を落とした。
「えっと……あのラーメンはね、私が単に自分がどうしても食べたくて作っただけの、ただの個人的な趣味の産物なのですけれど……」
どうやら、先日の討論会の席において、我がナロモレ商会が声高に主張した交渉の内容が、私のあずかり知らぬところで思った以上に国中に大きな政治的影響を与えていたらしかった。
世間の噂によれば、――『皇女イサベル殿下は、日々飢えに苦しむ貧しい平民や難民たちの命を救うため、自らの天才的な頭脳を以て“ラーメン”という画期的な奇跡の救荒食を開発され、それをほぼ無償に近い破格のボランティアで提供されている』――という、とんでもなく美しい聖女のようなおとぎ話にすり替わってしまっていたのだ。
実際の歴史を振り返れば、そのラーメンが多くの力なき人々の胃袋を満たし、現実に命を救う役に立っていること自体は、一人の人間として本当に良かったとは思う。
でも、私のただの食い意地から始まった極めて世俗的な意図が、周囲の大人たちの手によってあまりにも立派に、そして美化されて宣伝されてしまっている現状は、正直に言ってプロの政治家を気取る私としてはちょっと、……かなり恥ずかしくて死にそうだった。
「――やはり、私の目に狂いはありませんでしたわ。それほどまでに深い慈悲をお持ちの高貴なお方が、今度はこの『テイサベル移動ゲート』の技術を通じて、エレベ山脈の最も過酷な哨所を守り続けている我が最前線の兵士たちをも、裏から救おうとしてくださっているのですね」
このベースキャンプでの一連の奇跡のような出来事を間近で見てきたアルミエル中将は、だからこそ、プライドを捨ててこの幼い私に対して命懸けの助力を求める絶対の決心をしたのだと、熱い目で語ってくれた。
「まあ……私が実際にやった些細なことに比べて、周囲からちょっとばかり持ち上げられすぎている気はするのですけれど……」
でも、私にとっては、決して悪い流れではなかった。
私は、生まれながらに刻まれたあの呪いのせいで、この美しい世界で長く生き続けることなど到底できない身なのだ。どうせ人より早くこの世を去らなければならない運命であるのなら、その短い時間の分だけ、できる限り多くの人々の記憶の中に、私の生きた証を温かい形で残しておいてもらえたらいい。
たとえ周囲の評価が多少大げさで歪んだ美化であったとしても、後に残される家族の安全を思えば、私にとっては確かに大きな意味のある、最高の政治的アドバンテージ(名分)だった。
「アルミエル中将。あなたが、自らの配下であるあの兵士たちのことを、本当に心から大切に想っているその熱いお気持ちは、今の一言で私にも十分に伝わりましたわ。……ええ、良いでしょう。このイサベル・ビルロティアン、あなたのその命懸けの願いに応え、全力で力になりましょう。――ただし、私からも『絶対の条件』がありますわ」
「……条件、ですか?」
「ええ。この場で、私と一つだけ、魂に刻むような重い“約束”を交わしてくださいな」
その私の放った「約束」というあまりにも重苦しい言葉の響きに、アルミエル中将の凛とした表情が、わずかに不安げに曇った。
彼女が何故それほどまでに顔をこわばらせたのか、その本当の理由は、前世の記憶を持つ私には痛いほどによく分かっていた。
彼女は、自らの人生において「約束」という行為の持つ本当の絶対の重みを、この世界の誰よりも誠実に、そして重く受け止めてしまう不器用な人だからだ。だからこそ、相手を喜ばせるためだけに、その場しのぎの軽々しい「はい、約束します」なんていう都合の良い言葉は、死んでも口にすることができない高潔な人間だった。
前世の原作小説の歴史においても、アルミエルは後半のシナリオにおいて、最愛の妹を守るために我が皇室(皇家)を裏切るという最悪の選択を強いられ、自らの忠義の板挟みになって、血を吐くほどに深く苦しみ抜いていた。
今、私の脳裏の引き出しから、かつて原作の終盤で彼女が実の母である皇后セレナのドレスの裾に縋り付きながら、涙を流して激しく絶叫していた、あのあまりにも悲惨な悲劇の場面の描写が、鮮明によみがえってくる。
『――何故ですか、陛下! かつて、あの最前線の泥まみれの兵士たちが、毎日笑って人間らしく暮らせる最高の平和な世界を、私に直々に約束してくださらなかったのですか!?』
『この国のすべての民が、飢えることなく豊かに歌える国を必ず作ると、私にその手で約束してくださらなかったのですか!?』
『子どもたちに、もっと輝かしい素晴らしい未来を約束してくださらなかったのですか!? ……私は、私はあの日に交わした貴方様とのその神聖な約束の光だけを頑なに信じて、あの地獄のような最前線で、二十年もの長い間ずっと耐えて待ち続け蓄えてきたのですのよ――っ!!』
――あぁ、あれは。物語の中において、世界を滅ぼす希代の“悪女”として全読者から蛇蝎のごとく嫌われていた、あの本来のイサベルが犯した、歪んだ政治の罪の歴史の結末でもあったのだ。
あの原作の世界線における皇后セレナは、純粋なアルミエル中将の忠誠心を、自らの権力を維持するためだけに都合よく利用して使い潰していた最悪の存在であり――。その報いとして、後半の彼女は心が内側から弱り果て、かつて皇妃として持っていたはずの絶対の覇気すらも完全に失ってしまっていた。
結果として、皇室の最高機関であるあの「ゲルリン学院」の内部統制を十分に行うことができなくなり、学院は貴族たちの利権の巣窟となって、見るも無惨に底なしに腐敗にまみれていったのだ。
そして、その学院の腐敗による最悪のしわ寄せ(歪み)をダイレクトに受けて、真っ先に悲惨に命を落としていったのは、いつの時代だって、裏で何の権力も持たない貧しく力のない平民たち……。すなわちアルミエルにとっては、自らが命を懸けて共に戦ってきた、あの最前線の愛おしい兵士たちの命そのものだったのだ。
「……皇女殿下。一体、どのような内容の約束を、私に求められるというのですか?」
アルミエル中将は、覚悟を決めたように低い声で尋ねてきた。私は彼女の美しい瞳を真っ正面から見据え、一文字一文字を噛み締めるようにして、冷酷にこう言い放った。
「――この先、どのような世界の崩壊が訪れようとも、絶対に我がビルロティアン『皇家を裏切る』ことだけはしないでください」
「――っ!?」
その、私のあまりにも直球すぎる絶対の禁忌の単語(裏切り)を突きつけられた瞬間、アルミエル中将はまるで心臓を直接撃ち抜かれたかのように、その美しい目を限界まで大きく見開いた。
今の彼女にとっては、自らが命を捧げて仕えている大好きな皇室を「裏切る」という不届きな発想自体、これまでの人生の歴史において、ただの一度だって頭の片隅にすら浮かべたこともないような、あまりにもあり得ない天変地異の言葉であったからだ。
「……皇女殿下。それは、……一体どのような意味の、不敬なご質問ですの?」
アルミエル中将の大きな黒い瞳孔の奥に、かすかな、底冷えするような軍人としての鋭い『怒りの炎』が静かににじみ出た。
自分がこれまで国のために捧げてきた血のにじむような絶対の忠誠心を、目の前の幼い皇女から真っ正面から疑われたかのように感じて、プライドが激しく傷ついたのだろう。
(――よし。よかったわ、本当に……!)
私は彼女のその本気の怒りの表情を見て、不謹慎ながらも、胸の奥で大きな安堵の息を漏らしていた。
神に誓って、現時点の歴史の段階における彼女の魂は、未だ皇室に対する一寸の曇りもない本物の忠誠心で満ち溢れており、未来のあの「裏切り」という最悪の発想の種すら、まだその胸の内にはただの一片も宿してはいないクリーンな段階なのだと、完璧に確認できたからだ。
「中将、勘違いしないで頂戴。私はあなたの忠誠を疑っているわけでは決してないのよ。……ただね、もしもこれから先の長い未来において、我が皇宮のやり方にどうしても納得のいかない致命的な問題が生じたなら。あるいは、私たちビルロティアンの皇族が、政治の利権に目を眩まされて間違った暗い道へと進もうとしているのを、あなたがその目で発見してしまったなら……。――その時はね、今私に見せたその強い『怒り』の感情を、一寸も自らの内に押し殺すことなく、真っ直ぐに私たちに向けて叩きつけてほしいのよ」
「……は、……はい?」
「その、今私を貫いている本気の怒った美しい目で我が皇宮の玉座を真っ正面から睨みつけて、『一体これはどういうことですか、説明してください!』って、あなたのその気高い声で、ちゃんと私たちの喉元に本当の正義を問いただしてほしいの」
「…………」
前世の原作の物語におけるアルミエル中将は、これからの先二十年もの気の遠くなるような長い時間の間、上層部(ゲルリン学院)に対する自らの正しい怒りや不満のすべてを、一人の軍人としての忠誠心の枷によって、その胸の奥底へと健気に、痛々しく押し殺し続けてしまう。
上を信じて、信じて、ボロボロになりながらもそれでもいつか約束の世界が来ると健気に待ち続けて――。
そして最期の最期、これ以上の我慢の限界(限界点)を完全に超えてしまったあの日、溜め込んできたすべての怒りのマグマを一気に爆発させて、取り返しのつかない最悪の形で皇家を裏切ることになるのだ。
それは、人間の構築するあらゆる人間関係の歴史において、最も最悪で、最も悲惨な破滅を招くやり方(パターン)だった。
不満を自らの内にただ限界まで溜め込んで、ある日突然、何の前触れもなくすべての関係性を文字通り力尽くで破壊してぶつかっていく。
そんなことをされては、裏切られる側の皇室にとっても「一体何が原因でここまで拗れてしまったのか」とただパニックになって戸惑うだけだし、何よりも、二十年間も忠義の刃を自らへ向けて耐え続けてきた彼女自身の魂にとっても、あまりにも痛々しく、悲しすぎる最悪の結末を招くことになる。
「だからね、アルミエル中将。これから何かおかしいと思うことがあったなら、今日私に本音をぶつけてくれた時のように、いつでもお顔を上げて、私に対して正直にその言葉のすべてを伝えて頂戴。……この私、イサベル・ビルロティアンが、あなたの放つその正義の怒りのすべてを、この小さな身体で正面からちゃんと受け止めてみせますわ。そして、お兄様たちと共に、この帝国がもっと、もっと良い素晴らしい方向へ進んでいけるように、私が責任を持って全力で努力することをここに厳粛に約束します」
「皇女、殿下……」
「私たちがもし間違った道を選んでいるのなら、軍の最高幹部として、ちゃんと私たちの前で“それは間違っている!”って、真っ直ぐに叱ってほしいのよ」
私の放ったそのあまりにも年齢不相応な、どこまでも未来を見据えた絶対の救いの言葉が完全に予想外であったのか、アルミエル中将はしばらくの間、自らの淹れた茶の湯気を前にして、完全に言葉を失って深く黙り込んでしまった。
「……これからの我が帝国の未来には、私たちの過ちを真っ正面から厳しく正してくれる、あなたのような高潔な『本物の正義の人』がどうしても必要なのですわ」
――そう、私がこの世界を去った(死んだ)あとも、この地に残されて過酷な政治の荒波を生きていかなければならない、あの大好きなカマンお兄様をはじめとする大切な家族たちのために。
アルミエルという、帝国最強の無敵の“剣”の切っ先が、未来の悲劇によって私の大切な家族たちの喉元へと向かって翻ることが絶対にないように、今のうちから彼女の魂に、皇室という名の本物の「家族の絆」の楔を打ち込んでおく。
だからこそ、今、八歳の子供であるこの私にできるすべての予防線(保険)を、ここで全力で張っておくしかなかった。
「中将。もしもあなたが、この私との神聖な約束を生涯を懸けて守るとここで誓ってくれるのであれば……。私もまた、我がナロモレ商会の総力を挙げて、あなたの愛する最前線の兵士たちの待遇改善のために、全力でバックアップすることを誓いましょう。……あの腐敗したゲルリン学院を通して国家の公式予算を動かそうなんて、そんなお堅い正攻法を取っていては、いくら時間があっても足りないし、上の強欲な貴族たちを説得するのも簡単じゃありませんわ。それこそ、あの正攻法では、今夜も寒さに震えているあなたの兵士たちの待遇を、すぐに劇的に改善することなど土台不可能でしょう?」
イサベルは少しだけ間を置き、自らの琥珀色の瞳に、完璧なビジネスの勝者としての絶対の光を宿して不敵に微笑んだ。
「――でもね、中将。もしもその予算の壁に対し、この私と、大陸の富を支配する我がナロモレ商会が直接裏から動くとなれば……話は、根本から180度全くの別次元に変わってきますわ。……あの優しそうなおじいちゃん、バルキオ国王陛下とも裏で高度な経済連携(ダイヤモンドの独占契約)を交わして、ナロモレの最先端の魔道工学の技術を、国家を介さずにこのベースキャンプへと『直接物資として支援』して差し上げますわ!」
「――ええ、我がジルデル王国としても、そのような超法規的な民間主導の直接支援の形が取れるのであれば、これ以上ないほど喜んで協力させていただく所存にございます」
まさにその日の午後、ジルデル王国の絶対のナンバーツーであり、国王の右腕たる首席補佐官ガブリジャンが、直々に王の名代として、この巨大なジルデル・ベースキャンプの地を直接訪れていた。
ちょうどその日、キャンプの正門の厳重な警備任務に当たっていた最前線の平民兵士の一人が、あのルカイン伍長だった。
「……首席補佐官閣下。本日は、我がベースキャンプへ滞在されていらっしゃる、あの帝国の高貴なる皇女殿下にお会いするために、わざわざ直々にお越しになられたのですか?」
「あぁ、その通りだ。伍長、お手数だが取り次ぎを頼むよ」
ガブリジャンは、あの陰謀渦巻くジルデル王宮の過酷なまでの政争の嵐を自らの頭脳だけで完璧に勝ち抜き、王の右腕たる最高権力者の首席補佐官の座にまで上り詰めた、一級品の超エリート政治家だ。
そのため、相手の放つ僅かな空気の揺らぎや警戒の視線を、一目で100%正確に読み取ることができた。
――正門に並ぶ兵士たちが、今、明らかに自らに対して、普段とは比べものにならないほど異常なまでの「鋭い警戒の視線」を向けて身構えている。
彼は公務の実務として、この最前線のベースキャンプの地にはこれまで何度も足を運んできた歴史があるのだ。それにもかかわらず、今日という日に限っては、基地の内部を流れるピリピリとした緊張の空気の密度が、以前とは明らかに根本から違っていたのだ。
(……フフ、なるほどな。あのイサベル皇女という幼き少女は、ただこの地に数日間滞在しただけで、我が国の軍部にとってこれほどまでに最重要視して守るべき、巨大な『政治的絶対存在(モンスター)』へと変貌を遂げたということか)
帝国軍の最高幹部である要人がここにいる以上、周囲の護衛の警戒が厳しくなるのは当然のことではある。それにしても、兵士たちの態度がここまで硬くなっている真実の意味を考えると、やはり、昨日王宮で交わされたあのイサベルの恐るべき交渉の手腕が本物であったのだと、裏付けの事実を突きつけられたような凄まじい緊迫感を覚えざるを得なかった。
彼は、緊張を張り巡らせながら、皇女が現在仮のプライベートな客室として滞在しているという、軍の最高級の特製幕舎の中へと足を踏み入れた。
すると、その幕舎の内部には、皇女の同年代に見える、一人の精霊の気配をまとう非常に優秀そうな美しい侍女(ユリ)が、影のように静かに控えていた。
「――ジルデルの首席補佐官閣下。大変申し訳ありませんが、我がイサベル皇女殿下は、今まさに、このベースキャンプの最高指揮官であらせられる、あのアルミエル中将閣下と、奥の部屋で二人きりの極秘の会談を交わされていらっしゃいますの」
「ほう……? そうか、分かった」
ガブリジャンは、その侍女が何気なく放ったその一言の情報の裏にある、決定的な政治的手がかりを一瞬にして自らの脳脳へとインプットした。
(おやおや、恐ろしいことだ。……ただの皇女個人の付き人に過ぎないはずの、あの小さな幼い侍女までもが、この最前線の秘匿された絶対責任者である、あの『アルミエル中将』の本名をハナから完璧に知っており、しかもそれを、私の前で何の躊躇もなくこれほど自然に口にしてみせるとはな……)
アルミエル中将。
その名は軍の内部においては生きた伝説として広く知れ渡ってはいるものの、対外的にはその安全のために徹底して情報が秘匿されている、不気味な最高幹部のはずなのだ。だが、ただの侍女に過ぎない少女がそれを当然のように知り、交渉のカードとして私の前で自然に口にしているという現実。
(これは……私に対して、皇女側が裏での情報網の圧倒的な強さを、意図的に見せつけて威嚇してきている可能性が極めて高いな……!)
一瞬たりとも、この部屋の内部のすべてに対して油断をしてはならないと、ガブリジャンの政治家としてのセンサーが激しく警報を鳴らす。これだけで、あのイサベル皇女が、帝国においてどれほど重要な政治的戦略の絶対資産であるかを示す、何よりの揺るぎない証拠だった。
しかも、あの恐るべき皇女は、今まさに、軍の平民のカリスマであるあのアルミエル中将と、直接裏での会談を交わしているというのだ。普通の大人の倫理的な政治の常識で考えれば、この身分も立場も全く違う二人の少女が、わざわざ最前線の地で公式の場を介さずに直接会って話す理由など、この世界にどこを探しても一つもあるはずがないのだ。
――つまり。表の歴史には決して出せないような、皇室を揺るがすほどの強大な裏の「何か(陰謀)」が、今まさにこのベースキャンプの奥底で完璧に進行しているということに他ならない。
(あのイサベル皇女が、帝都の快適で豪華な王宮の暮らしをわざわざすべて投げ打ってまで、何故このような不便で泥臭い最前線のベースキャンプに長期間滞在し続けているのか……。その本当の不気味な理由が、今、すべて一本の線に繋がったな。……我が皇室の関知しないところで、あの一族(ビルロティアン)は、この大陸のすべてのパワーバランスを裏から書き換えるための、とてつもない軍事的な大勝負に打って出ようとしているのかもしれないな)
彼は幕舎の豪華なソファへと深く腰を下ろし、静かに、全身の魔力を尖らせながら皇女の帰還を待った。
もはや、この時のガブリジャンの目には、これから対面するイサベルという存在のことが、ただの可愛い八歳の子どもなどとは1ミリも写ってはいなかった。
外交において、相手を完璧に屈服させるためには、まず何よりも相手の持っている本当の恐怖の牙を「正しく見極めること」からすべてが始まる。
あのイサベル皇女は、もはや子どもの皮を被っているだけの、何百回もの修羅場を裏で勝ち抜いてきた、当代随一の熟練の政治家(モンスター)なのだ。
それからほどなくして、アルミエル中将との密談を完璧に終えたイサベルが、優雅な足取りで幕舎へと戻ってきた。
「――お初にお目にかかります、偉大なるイサベル皇女殿下。我がジルデル王国の首席補佐官を務めております、ガブリジャンと申します。どうぞ、我が公国とのこれからの深い友好のためにも、私のことは気軽に“ジャン”とお呼びくださいな、殿下」
「ふふ、ジャン卿。本当にお久しぶりですわね。本日は一体、どのような素晴らしい国務のご用件で、我がナロモレの客室へと足を運んでくださったのかしら?」
(――あ、……だ、だめ。ちょっと、……本気で笑っちゃいそうだわ……っ!)
目の前で大真面目に政治家らしいキリッとしたポーズを決めているガブリジャンを見た瞬間、イサベルは自らのプロとしての理性を総動員したにもかかわらず、思わず口元を震わせてくすりと笑いそうになってしまった。
何故なら、目の前に立つガブリジャンの両頬の横からは、手入れの行き届いた、異常なほど長く立派に伸びた自慢の「口ひげ」が、真横に向かってピーンと不気味に張っており、その全体のユーモラスな容姿が、前世の川に住むあの「ナマズ」の姿をあまりにも強烈に連想させたからだ。
しかも不思議なことに、彼が政治家らしい高度なセリフを話し終えるたびに、その長く立派な口ひげの両端が、まるで自らの意志を持っているかのように「ぴょこん、ぴょこん」と、リズムを取るための合図を打つかのように可愛らしく上に跳ね動くのだ。
(だめよ、イサベル……! 私は帝国の皇女なのよ! こんなシリアスな大人の外交の場において、相手のせっかくのトレードマークの外見の個性を笑うなんて、人間としてあまりにも無礼だし、プロ失格よ……っ!)
私は必死に、自らの腹筋にありったけの力を込めて、こみ上げてくる爆笑の波をこらえようとした。
――しかし、悲しいかな。そんな私の必死の神聖な自制の努力をあざ笑うかのように、最悪のタイミングで、部屋の窓の外から一匹の小さな、ひらひらと舞う純白の美しい「蝶」が、室内の明かりに誘われて中へと優雅に舞い込んできたのだ。
――そして、その空気の読めない白い蝶は、あろうことか、大真面目な顔をして直立不動で立っているガブリジャンの、あの長く立派な右側の口ひげの先端の上へと、まるでそこが最高の木の枝であるかのように、ちょこん、と可愛らしく静かに止まったのだ。
長く立派なナマズのひげは、その上に止まった白い蝶の小さな羽ばたきの振動に合わせて、まるで細い折れそうな枝のように、空中であからさまに「ふわり、ふわり」と滑稽に揺れ動き始める。
そして、彼が言葉を発するたびに――。
(ぴょん、ぴょん!)と、白い羽を乗せたひげが、室内に妙にシュールな残響を伴って、リズミカルに上下に跳ね踊るのだ。
今年で、ようやく八歳。
前世の歴史が証明する通り、ただの道端の落ち葉が風に舞ってコロコロと転がっているのを見つめているだけでも、箸が転んでもくすくすと一日中笑い転げてしまうような、そんなお年頃の肉体なのだ。
(――あ、あはは! だ、だめ、もう限界! 絶対に無理ーーっ!!)
ついに自制心のダムが完全に崩壊したイサベルは、上品に手で口を覆いながらも、――「ぷっ、あはははは!」――と、ベースキャンプの幕舎全体に響き渡るほどの、あまりにも可愛らしい、一点の曇りもない澄み切った爆笑の声を上げて吹き出してしまった。
しかし――。その、少女の無邪気極まりない純粋な爆笑の声を目の前で浴びせられたガブリジャンは、その瞬間、全身の皮膚に鳥肌が立つほどの猛烈なまでの恐怖を覚え、自らの気を狂ったように引き締めた。
(――う、……油断するな、ガブリジャン……っ! あの一見すると、無邪気で可愛らしい子どもの子どものような無垢な外見や、警戒を解かせるための完璧な天使の雰囲気に……決して騙されてはならないぞ……!)
これこそが、あの帝国が総力を挙げて作り出した、戦略兵器の真骨頂の罠(ハニートラップ)なのだ。あえてこちらの油断を誘うために、このような子どもの無邪気な笑い声を大音量で響かせ、こちらの精神的な防壁を裏から崩そうとしているに違いないのだから――相手はただの子供ではない。
それでも彼は、一流の政治家としてのプライドを保つため、表面上はどこまでも穏やかで余裕のある大人の笑みを浮かべ、自らのトレードマークである自慢の口ひげを、そっと左手でエレガントに撫でようとした。
「――ふふ、皇女殿下。我が国王陛下からの、あの神聖な贈り物に関して、何か気になることでも――」
そう高らかに言いかけた、まさにその刹那。ガブリジャンは、自らの言葉を猛烈なパニックと共に喉の奥へと飲み込んだ。
――何故なら、自らの左手で愛おしい口ひげを撫でようとした、まさにその瞬間。
自分の右側の口ひげの先端に、普通の日常では絶対にあり得ないような、何とも言えない不気味な「モゾモゾとした生き物の違和感」が、ダイレクトに指先へと伝わってきたからだ。
彼が、驚いて目だけを横の限界にまで動かしてそちらの視界の端を確認すると、そこには、真っ白な不気味な虫の羽が、ひらひらと自らの鼻のすぐ横で羽ばたいている絶望的な光景が映り込んできた。
「――うっ、……うわああぁぁぁっ、くそっ……!! な、なんだこれはぁぁぁ――っ!?」
実は、この国中から「冷酷な名ナマズ」と恐れられていたガブリジャン首席補佐官は、その老獪な見た目に反して、プライベートでは小さな「虫の存在」がこの世で一番大嫌いという、致命的な弱点を持っていたのだ。
ましてや、自らが毎日何時間もかけて命懸けで美しく手入れし続けてきた、あの世界で一番大切な自慢の口ひげの上に、よりによって不吉な虫(蝶)がダイレクトに止まって羽ばたいているなど、彼の貧しい想定の許容量を遥か彼方へと超越した、最悪の精神的テロ行為(アクシデント)に他ならなかった。
彼はあまりの劇的な恐怖とパニックのあまり、長年の洗練された高貴な政治家としての仮面を一瞬にして完全に消し飛ばし、普段の裏の生活のなかでも絶対に出さないような、とんでもなく粗暴で乱暴な本音の叫び声を口からブチまけてしまった。
慌てて手で口ひげを激しく叩き、白い蝶を部屋の彼方へと追い払う。
――あぁ、やってしまった。……私は、一国の代表として、帝国の最高幹部の前で、何という最悪な醜態を晒してしまったのだ。
蝶が消え去った静寂のなかで、自らの犯したあまりにも致命的すぎる大失態(プロ失格の行動)に気づいたガブリジャンの顔は、一瞬にして、恥ずかしさと恐怖のあまりに茹で上がったタコのように真っ赤に染まった。
「は、……皇女殿下! も、申し訳ありません……! 今のは、決して殿下の前で無礼を働く意図などではなく、ただの不可抗力の事故でございまして……!」
「いいえ、ジャン卿。どうぞお気になさらないで。生き物相手のことですもの、仕方がありませんわ」
イサベルは、彼のそのプロとしての最大のメッキが剥がれた大慌ての様子を見ても、ただの一寸も動じることなく、まるで最初からすべてを知っていたかのように、聖女のような柔らかな微笑みを崩すことなくそこに優雅に佇んでいた。
その、圧倒的な大物の余裕。
どのような不測の事態(アクシデント)が目の前で起きようとも、一瞬にして自らのペースへと巻き込んでいく、あの恐るべき落ち着き。
(……あぁ、恐ろしいことだ。このイサベル皇女という少女は、やはり……やはり私の想像を遥かに超えた、ただ者ではない本物の怪物だ……っ!)
ガブリジャンは、彼女のその完璧すぎる神聖な微笑みの前に、自らの背筋にゾクゾクとした冷たい寒気が走るのを止められなかった。
こちらの些細な政治的失敗や、一瞬の無礼の隙のすべてを、決して見逃さずに裏の減点対象として冷酷にカウントしている――そんな、一流の支配者だけが放つ、不気味な絶対の気配が彼女の背後には確かにあったのだ。もちろん、当のイサベルの頭の中にはそんな高度な脅迫の意図など1ミリもありはしなかったのだが、勝手に深読みして自滅していくガブリジャンは、一人で勝手に、精神的な緊張と恐怖のボルテージを極限にまで高めていくのだった。