こんにちは、ちゃむです。
「余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
45話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 悪夢の祭壇
魔力の渦は次第にその規模を拡大し、ホールの中心に生じた虚無の穴は、周囲にあるすべてを狂暴に飲み込もうとしていた。
私は、あの禍々しい現象の正体をよく知っている。
「魔力暴走が始まったのよ……!」
それも、本物の魔力暴走だ。一度始まってしまえば、周囲のあらゆるエネルギーと物質を貪り尽くすまで、決して止まることはない。
「こちらへ! この通路へ避難してください!」
「前の人を押さないで! 落ち着いて行動を!」
「こちらです! 急いで!」
ホールの入口を大きく開け放った聖騎士たちは、パニックに陥った人々を必死に外へと誘導していた。招待客たちは悲鳴を上げ、少しでも早く生き延びようと前後の人を押しのけ、怒号を響かせる。だが、その利己的な行動がかえって凄惨なボトルネックを生み、避難を決定的に遅らせる結果となっていた。
居残った一部の聖騎士たち、そしてエデンとヒステリオンは、暴走した男を食い止めようと果敢に対峙していた。彼らは一斉に剣を白刃をきらめかせて突撃したが、男の体から全方位に放たれた魔力の嵐によって、触れることすらできずに木の葉のように吹き飛ばされてしまう。
私は騒乱のなか、視線を一段高い壇上へと向けた。
聖女セレスティナと大使館長カルビヌルは並んで立ち、冷然とこの事態を見守っていたが、やがて頑強な聖騎士たちに厳重に護衛されながら、後方の安全圏へと退避していった。
――でも、気のせいだろうか。
『今、セレスティナと明確に目が合った気がした……』
いや、気のせいなどではない。ホール全体の明かりが灯ったあの刹那から、セレスティナの琥珀色の瞳は、まっすぐにこちらを見つめ続けていたのだ。
「いや、今はそんなことを気にしている場合じゃないわ」
男の魔力暴走が完全に臨界点を迎えてしまった以上、一介の家庭教師にすぎない私にはもう、どうすることもできない。
『……助けてあげられなくて、ごめんなさい』
心の中で狂人の男に深く詫びる。だけど、今の私には何があっても守らなければならない、最優先すべき人がいた。
「閣下」
私はその大きな手を強く握りしめたまま、カーディエンのほうを振り返った。
相変わらず彼の意識は戻っていない。しかし、唯一の救いは、男の暴走に誘発されかけていたカーディエンの魔力暴走が、まだ本格的には始まっていないということだった。
私は素早く周囲に視線を走らせる。
『正面のメイン出口は絶対に駄目ね』
あの大混乱の渦に飛び込めば、人間の波にもみくちゃにされ、身動きが取れなくなるのは火を見るより明らかだ。もし私一人だったなら、強引に突破を試みる価値はあったかもしれないけれど……。
『それなら――あっちよ』
私は、貴族たちが集まっていたプライベートルーム側へと続く、側道の廊下の入口へ目を向けた。巨大な楕円形をしたその入口の前は、皮肉なことに今は人影もなく、がらんと静まり返っている。何より、今私たちがいる位置からも非常に近かった。
『あそこなら、ひとまず確実に身を隠せるはず』
よし、と腹を決める。
「閣下、あちらの廊下へ向かいます。分かりましたね? 私の手を絶対に離さないでください」
私は、言葉が届いているかも定かではないカーディエンの耳元で、祈るように小声で囁いた。そして、すぐに彼の手を引いて力強く歩き始める。
幸いなことに、カーディエンは抵抗することなく、素直に私の歩調についてきてくれた。完全に意識を消失しているわけではないのだ。それに、繋いだ手を通して私の魔力を絶え間なく送り続けていたことも、防波堤として功を奏したらしい。
避難した廊下の中は、ホールの喧騒が嘘のようにひっそりと静まり返っていた。
私は目的のプライベートルームの扉を開けようとして――ふと奇妙な感覚に襲われ、足を止めて薄暗い廊下の奥を振り返った。
この既視感は何だろう。この特有の冷気とはめ殺しの窓、私はこの廊下をどこかで見たことがある。――そこで、ようやく記憶が繋がった。
『……夢の中で、繰り返し見た場所だわ』
神殿へ到着する直前に見た、あの不吉な夢。
『間違いない。あの時、私が彷徨っていたのはこの廊下だったんだ』
私はしばらく呆然と空間を見つめていたが、意を決して廊下の奥へと足を進めた。
今が一刻を争う異常事態なのは百も承知だ。でも、もし本当にここが夢で啓示された場所なのだとしたら――。
『チャンスは今しかない』
あの夢の光景は、きっと私に重大な何かを伝えようとしていた。それに考えてみれば、私がこの神殿へ来た本来の目的は、イグリドの手がかりを掴むことでもあったのだ。すべての人間の方隊と視線がホールの一点に集まっている今こそ、隠された真実に迫る絶好の機会だった。
『せめてカーディエンだけでも、安全な場所へ連れて行きたい』
私は今も手を通して、自分の特異な力をカーディエンの体内へ送り続けている。この手を一度でも離してしまえば、彼の精神の均衡が崩れ、再びあの恐ろしい魔力暴走が始まってしまうかもしれない。それに、今の彼は一人でいるよりも、私と一緒に未知の空間にいるほうがはるかに安全なはずだ。
どれくらい歩いただろうか。静まり返った廊下の突き当たりで、私は足を止めた。
「……見つけた」
私は呆然としたまま、壁に厳かに飾られた一枚の巨大な絵画を見つめた。
それは、世界の悪を容赦なく討ち果たす女神テレイアの姿を描いた宗教画だった。見ているだけで肌に鳥肌が立つほど、生々しい迫力と狂気に満ちている。まるで本当に目の前で起きた凄惨な出来事を、そのままキャンバスに写し取ったかのようだった。
けれど……。
『私が覚えている夢の絵は、これじゃないわ』
私は乱れる息をどうにか整え、繋いでいたカーディエンの手をそっと離した。そして、その禍々しい絵画へと一歩近づく。普段の私なら、神殿が管理する貴重な美術品に勝手に触れようなどとは、恐ろしくて天地がひっくり返っても考えられなかっただろう。
『でも、確かめたいの』
夢に現れたあの謎めいた人影は、一体誰だったのか。そして、あの人影は私に何を伝えようとしていたのか。
『前回も、あの存在は私に重大な気づきを与えてくれた。ジェフリーの時みたいに』
ならば今回も、何か決定的な真実を教えてくれるのではないだろうか。
「うっ……重い……!」
絵画自体はそれほど巨大ではないというのに、それを囲む精緻な額縁は想像を絶するほど重かった。指先に全魔力を込めて息を詰め、私はようやくその絵を力任せに裏返した。そして、一歩後ろへ下がる。
その瞬間、私の視界は夢で見せられた光景と、完全に一致した。
――まさにその時だった。
ゴトン、と。
建物の深部から、何かが重々しく噛み合うような音が響いたかと思うと、
ゴゴゴゴゴ……と、地鳴りのような振動が足元を揺らした。
『壁が……動いている!?』
額縁の固定軸を中心にして、強固な石壁全体がゆっくりと回転を始めたのだ。信じられない隠しギミックを前に、私は驚愕で目を見開いた。
やがて、人一人がようやく通れるほどの薄暗い隙間が現れる。その先には、すべてを拒絶するような完全な闇が広がっていた。
『これは一体、どこへ繋がっているの……?』
足を踏み入れても大丈夫なのだろうか。私は激しい躊躇いに襲われながらも、再びカーディエンの手をそっと握り直した。この秘密の空間の先に、何が待ち受けているのかは分からない。
『でも、もう引き返すには遅すぎるわね』
だが、内部はあまりにも一寸先も見えない暗黒で、すぐに生身のまま足を踏み入れる気にはなれなかった。もし私一人なら、いざとなれば身体能力で逃げおおせるかもしれない。けれど、今の状態のカーディエンを連れての暗闇はリスクが高すぎる。
『あ、そうだわ。あれがあった』
私は自分の右手首へと視線を落とした。小さな精緻なペンダントがあしらわれたブレスレット。カーディエンが以前、私に贈ってくれた最高級の魔法道具だ。
『本来の用途とは違うけれど……贅沢に使わせてもらうわね』
私はそのブレスレットの術式へと、自身の魔力をそっと流し込んだ。すると、埋め込まれた深い紫色の宝石から、シアーな淡い光がぽつぽつと漏れ出した。空間全体を十分に明るく照らせるほどではないものの、周囲の足元の様子を見分けるには不自由しない程度の光量だ。
『カーディエンの様子は……』
私は明かりを頼りに、彼の顔をのぞき込んだ。彼の瞳を禍々しく覆っていた黒い気配は、私の魔力供給のおかげか、少しだけ薄れたように見える。だが、意識は依然として混濁したままで、焦点の合わない虚ろな目をしていた。幸いなことに、魔力暴走の深度はこれ以上進行していないようだった。
『私がこの手を離したら、彼は一瞬でまた暴走の深淵に落ちてしまう。だから――』
だからといって、カーディエンをここに置いていくという選択肢は、最初から存在しない。
仕方がない、と私は小さく微笑んだ。
「一緒に行けるところまで行きましょう、閣下」
私は彼の手を今度こそしっかりと握り直し、カーディエンを伴って壁の向こうの暗黒へと足を踏み入れた。
二人が完全に中へ入った瞬間、背後で再び大きな重量音が響き、回転した石壁は容赦なく閉ざされてしまった。
暗闇の中では底なしの奈落のように思えたが、宝石の光で照らしてみると、そこは地下へと果てしなく続く急勾配の石階段だった。
『神殿の地下に、こんな大がかりな隠し通路が存在するなんて聞いたこともないわ』
当然、原作の小説でも一度だって語られたことのない領域だ。一体、この異様な空間は何のために、誰の手によって造られたのだろう。
それよりも――。
『あの夢の人影は、どうしてこの場所の存在を知っていて、私に精確に教えてくれたのかしら』
夢の中の人影は、明確にあの絵画を指し示していた。そして、その絵は現実世界で裏返ることで隠し扉を作動させた。私はそのお告げの通りに行動した結果、この未知の空間へとたどり着いたのだ。
そして……。
『あの時、夢で見た月は――あの男を包んでいた気配と同じ、禍々しい「黒」だった』
ふと、ホールで乱入したあの男の体から立ち上っていた、黒い瘴気が脳裏によみがえった。まさか、あの不気味な黒い月は、今日この日に起こる惨劇を予言していたのだろうか。本当に、これらすべては単なる偶然の積み重ねにすぎないのだろうか。
『……そんなはずはないわ』
本来、夢とは自分がこれまでに獲得した記憶や知識を反芻し、脳が反映して映し出すものだ。けれど私は、自分の魔力を武器として転用する方法も、この神殿にこんな隠し部屋があることも、知識としては一切持ち合わせていなかった。
だとしたら、やはりあの人影は――。
『あの存在の正体は、一体何なの?』
あの意志は、私に何を伝えようとしているのだろう。次々と答えのない疑問が浮かんでは消える。
――神聖力は、呪いにもなれば、強力な武器にもなる。
以前、夢の中で告げられたその言葉が頭をよぎった。
『あの言葉の通り、私の力で悪夢を見せられたジェフリーは、現実世界で半ば狂い果ててしまった』
そして、二度目の夢で見た「狂人の乱入」という出来事も、寸分狂わず現実となって私の目の前で起こった。
だとしたら――最後に残された、あの言葉は。
――『偽物は本物にはなれない』
あの不穏なフレーズは、一体何を意味しているのだろう。「偽物」とは何を指し、「本物」とは何を指すのか。その疑問のパズルだけは、まだ決定的なピースが見つからなかった。
偽物は、本物にはなれない――。
『……まさか、この世界の誰かが、本物のふりをして人々を欺いているということなの?』
私は歩きながらぼんやりと考え込んでいたが、ふと我に返って隣の人物に声をかけた。
「閣下、足元が急ですから、お気をつけくださいね」
すると、カーディエンはぼんやりとした視線をゆっくりと私へ巡らせ、小さく、こくりとうなずいた。
「わあ……」
私はそんな彼の反応を見て、思わず不思議そうな目を丸くした。おそらく、私の継続的な魔力治癒によって魔力暴走が少しずつ鎮静化し始め、深い眠りから覚めかけのようになっているのだろう。頭が完全に働いていない、無防備でぼんやりとした状態だ。
『普段のあの人が、こんなに素直に私の言うことを聞くなんて、なんだか不思議だし……』
それに、ほんの少しだけ、可愛いと思ってしまった。
現在の危機的な状況にはまったく不釣り合い極まりないけれど、こんな無防備なカーディエンを至近距離で観察できる機会なんて、この先一生お目にかかれないかもしれない。
私は悪戯心が芽生え、わざといつもより数倍優しい声音を作って言った。
「私の手を、しっかり握っていてくださいね。暗いですから、はぐれないように」
コクリ、と彼は素直に首を縦に振る。
「いいですか? ちゃんと私の言うことを聞いてくださいね。勝手にどこかへ歩き回ったら駄目ですよ」
コクコク。
カーディエンは、私の紡ぐ言葉のすべてに、従順に何度も深くうなずいてみせた。
『……まるで、大きな大型犬みたいね』
もともとカーディエンは、その美しい顔立ちの割に目元がほんの少しだけ垂れ気味なのだ。だから、普段のあの鋭く冷徹な眼差しが消え失せると、驚くほど人懐っこい犬のような雰囲気になる。
『こうして無防備な姿を見ると、弟のヴィンセントと本当に血が繋がっているんだなって実感するわ』
もっとも、二人は単なる親友のような関係ではない。紛れもない、唯一無二の家族なのだから。
「普段から、これくらい大人しくて素直だったらいいのにね」
私が小さな独り言をこぼしながら、さらに階段を下りていったその時――気のせいか、私のか弱い手を握る彼の大きな手に、ギュッと微かな力が込もったような気がした。
『まさかね……』
今の彼は、意識の海で半分眠っているような状態だ。だから、これは私の言葉に反応したわけではなく、ただの神経の反射運動にすぎない。私が何を言ったのかまで正確に理解しているはずがなかった。
……ちょっと待って。
『これって、もしかして絶好の機会じゃないかしら?』
地下へと続く石階段はまだまだ先が長く、カディエンは相変わらずぼんやりとしたまま半覚醒の状態だ。ということは、これまで彼に理不尽にしでかされてきた数々の嫌がらせや、胸の奥に溜め込んでいた不満をすべてぶちまけるなら、今この瞬間をおいて他にないのではないか。
そう思い至ると、この千載一遇のチャンスをただ無為にやり過ごすのが、無性に勿体なく感じられてきた。
私はしばらく暗闇の中で考え込み、どんな辛辣な言葉を叩きつけてやろうかと思案を巡らせた。やがて、おもむろに口を開く。
「ご存じですか? 閣下って、本当に信じられないくらい性格が悪いんですよ」
静かな私の告発が、狭く密閉された地下空間の中に微かに反響した。一度言葉として決壊してしまうと、これまで胸の奥底に澱のように溜まっていた不満が、堰を切ったようにあふれ出して止まらなくなった。
「それに、何かあるたびにすぐ私をからかって、意地悪なことばかり言うし……」
「……」
「強引で、頑固で、自分の気に入らないことが少しでもあるとすぐ子供みたいに意地を張るし、おまけに壊滅的に不愛想ですし……」
脳裏のどこかで『本当に本人の前でこんな暴言を吐いていいのだろうか』という常識的な理性が囁いたが、すぐに『今言わなきゃ、こんなこと一生口にできないわ!』という破れかぶれの感情がそれを圧殺した。
結局、勝ったのは後者だった。そうだ、こんな神がかり的な機会、もう二度と訪れないかもしれないのだ。
私は胸の内に溜まりに溜まっていた愚痴を、次から次へと容赦なく吐き出していった。当然、彼からの返事はない。
……万が一、今この瞬間に流暢な返事が返ってきたら、それはそれで私の社会的生命が完全に終わるのだけれど。
私はひとしきり毒を吐き終えると、しばらく気まずい沈黙を保ち、それから――もう一度だけ、小さく口を開いた。
「でも……」
自然と、視線が暗い足元へと向く。
カーディエンと出会ってからのこれまでの思い出が、万華鏡のように次々と脳裏を駆け巡っていった。まだ出会ってから半年も経っていないというのに、どうして私たちの間には、こんなにも彩り豊かな記憶が溢れているのだろう。
気づけば、私の唇からは自然と柔らかな笑みがこぼれていた。
「それでも――私は閣下が好きですよ」
どうせ本人の耳には届いていないと確信していたからこそ、何の虚飾もない、剥き出しの本音がするりと口をついて出た。けれど、自分の口から出た言葉の破壊力に、今更ながら少しだけ猛烈な照れくささが込み上げてくる。
こんな恥ずかしい告白、普段のあの冷徹な公爵の前では口が裂けても言えるはずがない。でも、だからこそ。こんな夢のような状況に免じて、一度くらいは伝えておきたかったのだ。
「見ていて思うんです。閣下は、私が閣下とメルチェデスの皆をどれだけ大切に、愛おしく思っているのか、全然分かっていない気がします」
地下へと続く道は、どこまでも深く、暗く伸びていた。
この最果ての先に、一体何が待っているのだろう。何が待ち受けていようとも、今この瞬間を流れる穏やかで優しい時間が、永遠には続かないことだけは痛いほど分かっていた。
この幸福な時間がいつか必ず終わりを迎えると知っていたからこそ、私は躊躇うことなく本音を重ねた。たとえ、本人には決して届かない虚空の言葉だとしても。
「ご存じですか? 私が初めてメルチェデス公爵家へ足を踏み入れた時、心の中で何を考えていたか」
「……」
「――世界中で、あなたしか私を救えないって、そう思っていたんです」
「……」
「破滅へ向かう私を助けられるのは、このカーディエン閣下だけだって」
あの必死だった頃を思い返すと、思わず小さく自嘲気味な笑みが漏れた。あの時は、まさかメルチェデスの家宝がすでに失われていたなんて夢にも知らなかった。そして、私たちの心の距離が、こんなにも近い場所で重なり合うなんて、想像すらしていなかった。
「だから最初は、家宝がなくなってしまったって聞いた時、目の前が真っ暗になって本当にショックだったんですけど……」
私は一歩一歩、足元の安全を確かめるように慎重に階段を下りていった。速すぎず、遅すぎず、彼の歩調を優しくエスコートするように。
「今は、もう大丈夫です。むしろ、メルチェデス公爵家での毎日の暮らしがとても楽しくて、温かい人たちに恵まれていて……この生活が、もう少しだけ長く続けばいいなって、よく一人で思うんです。そして……」
「……」
「閣下は、ご自分で思っているよりずっと優しくて、本当は思いやりのある人なんですよ。だから――私はあなたが、好きなんです」
彼と一緒に、ささやかな未来の断片を思い描いていた日々を反芻し、私は愛おしさに小さく微笑んだ。
けれど、始まりがあるものには、必ず終わりがある。――世界とは、そういう残酷なルールで回っているものだから。
私の前世の命が突然の事故で尽きた時のように。たった一人の家族だった、愛する父を何の前触れもなく喪失したあの時のように。
「……何の心の準備もできていないまま迎える突然の別れは、人が思っている以上に、身を切られるほどつらいものなんです」
かつて私を襲った、あの圧倒的な喪失の虚しさと冷たさは、今でも魂に鮮明に焼き付いている。
「だからなんです。私は別れの日をただ絶望して待っているわけじゃなくて……今があまりにも楽しくて幸せだからこそ、その反動に耐えられるように、心の準備をしておきたいだけなんです」
やがて、ようやく果てしなかった階段の終わりが見えてきた。私は胸の高鳴りを覚えながら、自然と歩みを緩める。
この先には、一体何が隠されているのだろう。
『……危険な罠とかでなければいいけれど』
夢の中のあの女性は、私を陥れるような危険な場所へ導いたわけではないはずだ。それでも、合理的な理由のない不穏な胸騒ぎが、肌をチクチクと刺していた。
「閣下、ここから先は本当に危ないですから、私の手を……」
絶対に離さないでください――そう言って念を押し、振り返った私は、言葉の続きをすべて喉に詰まらせて息を呑んだ。
カーディエンの紫色の視線が、驚くほどまっすぐに、私を射抜いていたからだ。
――まさか。
意識が、完全に覚醒したのだろうか。
「閣……下?」
私は心臓の鼓動を跳ね上がらせながら、慎重に彼の顔色をうかがった。
しかし、彼の美しく固く閉じられた唇が開くことはなかった。よく観察してみると、その美しい瞳の焦点はまだどこか焦点が定まりきっておらず、虚空を彷徨っている。
私は小さく首をかしげた。
『私の気のせいだったのかな……?』
ほんの一瞬、魂ごと目が合ったような強烈な錯覚を覚えたのだけれど。それでも、彼の意識が正常な状態へと戻りつつあることだけは、確かなようだった。
『このまま私の魔力を注ぎ続ければ、彼は今回の魔力暴走を完全に起こさずに乗り切れるかもしれない』
私は確かな希望を抱き、カーディエンの手を今一度しっかりと握り締めたまま、最後の階段を踏みしめた。
その先には、巨大な重厚極まりない鉄の扉が立ちはだかっており、大がかりで分厚い錠前によって厳重に閉ざされていた。
『これじゃ、物理的に中へ入れないわね……』
『このまま、何の手がかりも得られないまま引き返すしかないのかしら』
だが、ここまで来て何の成果も残せずに引き返すのは、あまりにも惜しかった。それに、階段を下りながらふと脳裏をよぎった記述がある。
『……ジェフリーの日記に書かれていた、神殿の構造と完全に一致しているわ』
神殿の最深部地下にある、おぞましき隠し空間。ここは、あの悪名高きイグリドの隠れ家ではないかと疑うには、あまりにも十分すぎる舞台装置だった。
『外側からこれほど厳重に鍵が掛かっているということは、現在、中には誰もいないということよね』
あるいは、内部に別の脱出口が存在するのかもしれない。いずれにせよ、この扉の前で回れ右をするわけにはいかなかった。
どうやってこの鉄壁を突破すればいいのか考えていると、ふと自分の手首にあるブレスレットが目に留まった。
『そういえば、このブレスレットには、確か特殊な「思念伝達の魔法」が組み込まれていたはずよね……』
「思念伝達の魔法……?」
かつてジェフリーと死闘を繰り広げた時の記憶が鮮烈によみがえり、私はごくりと固い唾を飲み込んだ。そして、頑強な錠前に向かってそっと手をかざし、自身の魔力を指先に集中させる。
パキパキパキッ――!
不気味な凍結音が響き、周囲に一気に極低温の冷気が広がった。頑強だった錠前が、みるみるうちに真っ白な霜に覆われ、完全に凍りついていく。そのまま術式を解除すると、錠前はもはや脆い氷の塊と化していた。
『そして、次は……』
私は深く息を吸い、横に立つカーディエンの大きな背中のすぐ後ろへと身を寄せた。
『危ないから、盾になってもらうわね』
カーディエンの頑丈な背に身を隠すようにして、私は凍りついた錠前に向かって、衝撃の魔法を鋭く放った。
ドォン――!!
凄まじい爆発音とともに、凍りついて脆くなっていた錠前は、ひとたまりもなく粉々に砕け散った。そして、鋭利な破片が散弾のように四方八方へと激しく飛び散る。
「うっ……!」
矢のような速度で私に向かって飛んできた鋭い鉄の破片は、しかし、私の目の前で目に見えない壁に衝突し、カランと虚しく弾き返された。
『本当に、自動で防護膜が生成されるんだわ……!』
カーディエンが以前言っていた通り、危険を本能的に感知したこの腕輪が、私がわざわざ呪文を唱えて魔力を注ぎ込まなくても、自律的に強固な防護膜を展開してくれたのだ。そのおかげで、私の後ろに庇う形になっていたカーディエンも、無傷で済んだ。
『便利極まりないけれど……これは無限に使えるわけじゃないわね』
あらかじめ腕輪自体に蓄えられていた高密度の魔力を消費して発動しているようだから、乱用は禁物だ。
ともかく――私は反射的に顔の前に上げていた腕をゆっくりと下ろした。
錠前は完全に粉砕され、ただの無害な鉄屑となって床に転がっている。
『よし、成功よ』
私は鉄の扉へと一歩近づき、残っていたいくつかの補助鍵も手際よく外した。そして、全体重をかけて力いっぱい扉を押し込む。
ギィィィ……。
耳障りで不気味な軋み音を立てながら、巨大な扉がゆっくりと内側へと開いていった。
すると次の瞬間、部屋の奥から鼻を突くような強烈な悪臭が、文字通り這い出てきた。それは長年よどんだ腐った水のような臭いでもあり、有機物が無残に腐敗しきった時の、おぞましい死の臭気でもあった。
『……本当に入っても大丈夫かしら?』
一瞬、生物としての本能的な嫌悪感から足がすくみかけたが、ここまで来て引き返す選択肢などない。
『幸い、気配を察するに内部には誰もいないみたいだしね』
「ゴホッ、ウッ……」
私は再びカーディエンの手をきつく握り締め、慎重にその暗黒の空間へと足を踏み入れた。
内部は、想像を絶するほどひどく暗かった。ここへ降りてくる途中の階段も十分に一寸先も見えない暗闇だと思っていたが、この部屋の持つ暗さは、光そのものを吸い尽くすかのような異質なものだった。
『このカーディエンの腕輪がなかったら、本当に一歩先を踏み出すことすらできずに立ち往生していたわね』
そう考えると、この腕輪は私の想像をはるかに超えて万能で便利だった。暗闇を照らす灯火になり、強力な魔法の起点になり、さらには持ち主の危機に自動で防護膜まで展開してくれる。
改めて、カーディエンは本当に、とんでもなく素晴らしい宝物を私に惜しげもなく贈ってくれたのだと、胸が熱くなる。これほど小さな宝飾品に、ここまでの超高等な複合魔術を組み込ませるには、天文学的とは言わないまでも、一国の国家予算に匹敵するほどの莫大な費用と最高峰の魔術師の労力がかかったはずだ。
そんな家宝級の貴重なものを、出会って間もない一介の家庭教師にすぎない私に、平然と差し出すなんて。
『カーディエンにとって、私は一体――どんな存在なのかしら?』
単なる「雇われ家庭教師」に対する待遇ではないことだけは、私のような鈍感な人間でも嫌というほど理解できた。
だが、今はそんな甘やかな疑問に浸っている場合ではない。
「ここは、一体……?」
腕輪の宝石が放つ淡い光だけでは、広大な内部の全容を映し出すには到底足りなかった。
ひとまず足元の周囲だけを部分的に照らしてみても、目に映るのは、何の変哲もない冷たい石壁と、そして――何かの液体が飛び散ったような、正体不明のどす黒い染みが点々と残る、灰色の床だけだった。
『でも、どうしてかしら……。初めて来たはずなのに、どうしてこんなに、この光景に見覚えがあるの?』
記憶の最も深い片隅に、このおぞましい光景の断片が、確かにこびりついている気がしてならない。私は全身を襲う奇妙な悪寒に耐えながら、光の束を頼りに、ゆっくりと前へ進んだ。
すると突然、私のドレスの足先に、ゴツリと固い何かが当たった。
「……?」
私は不審に思い、その足元へと腕輪の光を向けた――その瞬間、私は恐怖のあまりその場で息を完全に止めた。
「……っ」
その時になってようやく、私はこのおぞましい場所を、かつてどこで見たのかを完全に思い出したのだ。
『カーディエンの――あの狂気的な「悪夢」の中だわ……!』
幼い頃のカーディエンが拘束され、正体不明の非人道的な手術を無理やり受けさせられていた、あの地獄の実験室。
いま私の目の前にあるのは、あの悪夢の中で彼が四肢を冷たい鉄鎖で繋がれていたものと、寸分違わぬ形状をした、おぞましき「石の祭壇」だった。
ただ悪夢の光景と違っていたのは、目の前にある本物の祭壇は、はるかに長い年月を経て激しく風化していること、そして何より――その表面には、人間の血が乾ききったような、おぞましい茶黒い染みが、まだらにびっしりとこびりついていることだった。
-
避難の混乱とカーディエンの連れ出し
魔力暴走によって会場が大混乱に陥る中、リビアは意識が混濁した状態のカーディエンの手を引き、人が殺到する正面出口を避けて、夢で見覚えのあるプライベートルーム側の静かな廊下へと避難します。
-
夢の啓示と地下の隠し空間への侵入
廊下の突き当たりで夢に見たテレイアの絵画を発見したリビアは、それを裏返すことで壁の隠し扉を作動させます。カーディエンから贈られた魔道具のブレスレットを灯りや防護膜として使いながら、厳重に閉ざされた鉄の扉の錠前を魔法で破壊し、地下の暗闇へと進みます。
-
届かぬ本音の吐露と悪夢の祭壇の発見
カーディエンが半分眠っているのをいいことに、リビアは日頃の不満や「それでも好きだ」という飾らない本音を打ち明けながら階段を下ります。しかし、辿り着いた最深部の部屋で彼女が目にしたのは、幼いカーディデンの悪夢の中に登場した、凄惨な人体実験の痕跡が残る「石の祭壇」そのものでした。