悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す

悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す【82話】ネタバレ




 

こんにちは、ちゃむです。

「悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す】まとめ こんにちは、ちゃむです。 「悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す」を紹介させていただきます。 ネタバレ...

 




 

82話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 陰鬱な最奥での再会

『体力があるうえに、あそこまで隙なく動けるなんて絶対におかしかった。紅河(ホンハ)の一族が、わざわざああいう健常な連中を送り込んできたのも偶然じゃない。すべては、この最悪の状況を意図的に作り出すための計略だったんだわ』

目の前でジキセンがのたうち回り、苦痛に呻く無様な姿を見つめながら、リリカは血の気が引いた頭でそう確信していた。

今回の遠征に同行させた生贄たちは、最初から紅河の一族が送り込んだ刺客――リリカの命綱であるジャコブを、戦場の混乱に乗じて確実に奪い去るために選りすぐられた手駒だったのだ。

『ジャコブのいない私には、もう何の奇跡も起こせない。あいつらはそれを分かっていて……』

紅河の一族が牙を剥き、リリカを完全に支配下に置くために仕掛けた罠。その結果として雪原に残されたのは、ジキセンの肉体に刻まれた、人間の手に負えないほどの深い、深すぎる致命傷だった。

だが、幸運だったのか不幸だったのか――リリカが恐怖のあまり治癒の力を一切使えなかったにもかかわらず、プリムローズ騎士団の壊滅は免れ、全体の被害は奇跡的に少なかった。

すべては、出発前にユリアが密かに手渡していた量産型の回復霊薬(ポーション)のおかげだった。

「プリムローズ騎士団は、あの極限状態の戦場でも、躊躇なく少公爵殿にユネトの回復霊薬を使ったそうですよ。自分たちだって、いつどんな大怪我を負うかも分からなかったというのに」

「私もその噂を聞きました。本来ならあの凄惨な魔物の刃だ、片脚を切断されてその場で失血死していてもおかしくなかったのに、命だけでも辛うじて助かったのは、完全にその霊薬のおかげだったとか」

普通なら、あの危険等級の超大型魔物に奇襲されながらも、騎士団がほぼ五体満足で生き延びたという驚異的な大戦果そのものに賞賛が集まったはずだった。

「でも、いくら一命を取り留めたからって、これから一生、まともに脚が使えなくなるのでしょう?」

だが、傷を負った相手は、ただの兵卒ではない。“剣の祝福”を授かり、次期公爵となるはずだったジキセン少公爵なのだ。

「神殿の高位神官の治療をすぐに受けていれば、後遺症もなく動けたはずなのに……いくら天下の聖女様でも、完全に失われた脚を無から生やすことまではできないそうですからね」

「聖女様……いえ、リリカ令嬢が、あの時あまりにも凄惨な光景に衝撃を受けてしまい、恐怖で力を使えなかった、という不穏な話もあるみたいですよ?」

そして、かつて「帝国最強」と謳われた己の脚が永遠に失われたという残酷な事実を、世界で誰よりも重く、絶望と共に受け止めていたのは――他でもない、当事者であるジキセンだった。



「これ……夢だよな?」

意識を取り戻し、ゆっくりと目を開けた時、自分が公爵城の極上の絹に包まれた寝台に横たわっていることに、ジキセンはほんの一瞬だけ安堵した。

だが次の瞬間、毛布を跳ね除け、無残に短く切断され、白い包帯が痛々しく巻かれた左脚の虚無を見た瞬間、彼は魂の抜けた声でそう呟いた。

「あり得ないだろ……リリカがすぐ傍にいたんだぞ? なんで俺が、こんな目に遭わなきゃいけないんだよ……?」

「……」

「おい、誰か答えろよ。俺の体調が悪かったからか? 二日酔いの幻でも見ているのか? ……そうだよな? きっとそうだろ?」

激しく怒鳴り散らすことすらしない。ただ、ジキセンは幽鬼のような目で、室内に控える医師や使用人たちに静かに、そして執拗に問い続けた。だが、誰もが目を背けて沈黙を貫くにつれ、彼の声は恐怖によって次第に狂気的な大きさを帯びていった。

「ふざけるなよ! 返事しろって言ってるだろ! なんで誰も俺の目を見ないんだ! なんで黙ってるんだよお前ら!!」

「……そ、その……少公爵様……」

「もういい、わかった。どうせこれはタチの悪い夢なんだろ? もう一度寝て、すっきりと起きればすべて元通りだ。俺の脚はちゃんとある。俺は、帝国最強の騎士なんだから……!」

しかし、ジキセンの凄惨な悪夢が終わることはなかった。

何日経ち、何度絶望の中で朝を迎えても、切断された左脚の肉が戻ることは二度となかった。

「リリカァァァァッ!!!」

普段からジキセンの傲慢さを嫌っていた者たちですら、思わず耳を塞いで顔をしかめるほど、公爵城の最奥から耳を裂くような怨嗟の絶絶叫が響き渡った。

その叫び声とともに、ジキセンは弾かれたようにベッドから起き上がった。完治していない血塗れの身体であるにもかかわらず、屈強な大人の男たちが数人がかりで力づくで取り押さえなければならないほど、彼は狂ったように暴れ回った。

「リリカ! お前、わざとだろ!? わざとあの時、俺を治療せず見殺しにしたんだろ!!」

「し、少公爵様! お暴れになっては傷口が!!」

「それとも、やっぱりお前のあの治癒の力って、あの不気味な下僕の男がいないと一歩も使えないのかよ!? 本当は“祝福の力”なんて最初から持ってなかったのか!? だから今さら、俺の前でその大嘘がバレたんじゃないのか、あぁ!?」

そして、この凄惨な状況に、ジキセン以上に激しく動揺していたのはリリカだった。

最初は、ただジキセンの弱みを適度に握り、自分に依存させるだけのつもりだった。まさか不測の事態とはいえ、本当に兄が脚を失うほどの致命傷を負うとは夢にも思っていなかったのだ。神殿の誇る絶対的な神聖力をもってしても、完全に物理的に消失した四肢を再生させることは不可能だった。

『ほどほどに……私なしでは生きられない程度の怪我をさせるだけのはずだったのに……!』

ジキセンがリリカに依存する状況を作ること自体は、むしろ彼女が望んでいた完璧なシナリオだった。だが、「治せる怪我をわざと長引かせて恩を売る」ことと、「脚が切断されて二度と元に戻らない不具になる」ことは、世間に対する意味合いがまったくの別問題だった。

誰かにわざわざ確認せずとも、リリカには社交界や市井の人々がこの凄惨な件をどう噂し、自分を後ろ指差すか、容易に想像できた。

――リリカ令嬢が目の前にいたのに、治療もせず実の兄を見捨てたらしい。

――聖女とまで崇め奉られておきながら、身内の治療すらできず、帝国最高峰の剣士としての人生を永遠に終わらせたんだって。あれだけ美しい聖女だともてはやされていたけれど、結局いざという時には誰も救えない無能な偽物だったな。

もはや、ジキセンが武闘大会で惨敗したことなど、誰も気に留めなくなる。

『少公爵が武闘大会で負けたことより、“神に選ばれたはずの聖女が、実の兄を救えなかった”という残酷な事実の方が――』

目の前にいた兄を治療できず、脚まで失わせた。そちらの方が、はるかに大きな、格好のスキャンダルとして大陸中に広まるだろうから。

リリカは自室で頭を抱え、ぎゅっと目を閉じた。これまでジキセンが積み重ねてきた数々の傲慢な失態や酒癖の悪さなど、もはや誰も気にしなくなる。彼の歪んだ性格や過去よりも、“剣の祝福”を持つ将来有望だったはずの若き少公爵の未来が完全に潰えた――その悲劇の方が、よほど世間にとって蜜の味であり、興味深い話だった。

だが、その件に関しては、リリカの側にも激しい怒りと納得いかない思いがあった。まさかジキセンが、危険等級でもないあんな程度の魔物の攻撃すら防げず、一撃で脚を切り落とされるほど弱り切っていたとは思わなかったのだ。

最前線で聖騎士たちが彼を後方に下がらせた時、彼らが最優先にしていたのは高貴なリリカの安全だった。ジキセンがリリカを守るどころか、自分の身一つすら守れないなど、現場の誰も想像していなかったのだ。それなのに、あっさりと脚を切断されるなんて。

武闘大会で敗れたのも単なる一時的な不調のせいだと思っていたが、もしかすると、あいつは本当に――。

「……いや、違うよな、リリカ? お前が本当は、後から綺麗に治してくれるんだろ? ごめんな、俺が今まで浅はかだった。お前を脅したりして悪かった。だから治してくれ、な……?」

けれど、今さらそんなジキセンの哀れな懇願に、何の意味があるというのか。もう、取り返しのつかないことは起きてしまったのだ。

『お兄様の実力不足のせいで自業自得の怪我をしたのです』――そんな本当の事実を少しでも口にすれば、火に油を注ぐだけなのは目に見えていた。もしそんな言い訳を漏らした瞬間、リリカは“前代未聞の冷酷な悪女”として世間から完全に叩き潰されるだろう。これまでジキセンに無関心だった者たちですら、こぞって神殿の味方をするふりをして口を揃えるに違いない。

ジキセンは、少し前までリリカへ向けて激しく怒鳴り散らし、疑惑を喚き散らしていた男とは思えないほど、今はただ捨てられた子供のように必死に彼女の手を握りしめていた。

「頼む、リリカ。俺の脚、本当はちゃんと治るんだよな……?」

「治るよな? 少し傷が深かっただけで、神殿の秘術で時間がかかっているだけなんだよな……?」

「……はい。お兄様」

確かに、ジキセンは完全にリリカへ依存する形になっていた。ただし、その度合いが彼女の許容量を遥かに超えていただけだ。

『しばらくの間、この廃人は何を言っても、どんな嘘でも信じるしかないのよ』

高位神官であっても、聖女であるリリカですら絶対に治せない傷。たとえ今から逃げたジャコブの力を無理やり使ったとしても、失われた脚を戻すことはできない。存在しないものを再生することは、この世界の理として不可能なのだから。

「今、俺の身体が弱り切っているからって、心の中で馬鹿にしているのか……!? 何なんだよ、その目は! お前ら全員、俺を憐れんで笑っているんだろ!」

もともと傲慢で神経質だったジキセンの精神は、五体の欠損によって徐々に、だが確実に崩壊へと向かっていった。身の回りの世話をしていた従僕や使用人たちでさえ、彼の昼夜を問わない理不尽な癇癪と物の投げつけに耐えきれなくなっていった。誰一人として彼の部屋に長く留まることはできず、次々と恐怖と精神疲労から職を辞していった。彼の部屋には、常に投げつけられて壊れた高級な調度品や、粉々に砕け散った家具の破片が惨めに散乱していた。

「リリカ……お前の兄は、本当にもう、一生あのまま治らないのか?」

「それは……」

「いや……違うよな? 時間が経てば、また元通りに剣を振るえるようになるんだよな?」

そして、次期後継者がああなってしまったのを目撃したプリムローズ公爵もまた、平静を保ってはいられなかった。武闘大会で敗北したジキセンに対し、世間の目を誤魔化すために半ば強引にあの危険な魔物討伐へ送り出したのは、他でもない公爵自身だったからだ。自分の判断が、息子の騎士としての命を完全に終わらせた。

「お前がすぐ傍にいたのに、治療せずわざと放っておいたなんていう不届きな噂が流れているが……そんなこと、あるはずがないよな?」

自分が犯した最悪の失策という事実から目を背けるように、プリムローズ公爵はリリカの細い肩に縋りついた。

聖女として、人々からの盲目的な依存や、こういう重苦しい視線には慣れていたはずだった。息子をどうか助けてくれと醜く懇願する、かつては絶対権力者だった父親の姿。けれど今、リリカが背筋に耐え難い寒気を覚えたのは、単に零落した父親への嫌悪だけが理由ではなかった。

今のプリムローズ公爵の瞳に宿る暗い光が、ベッドの上で狂い散らかしているジキセンの視線と、まったく同じだったからだ。

神に縋るように涙を流して懇願しながらも、次の瞬間には、自分の意に沿わなければ「リリカこそがすべての元凶だ」と一転して刃を突きつけて責め立てそうな、底の浅い矛盾した眼差し。

いつ爆発して自分を殺しにくるか分からない、その致命的な危うさまで。ジキセンは、嫌になるほどこの父親にそっくりだった。リリカがどれだけ美しい仮面をかぶり、努力して周囲を欺いても決して変えられなかった、彼らが生まれ持つプリムローズの血筋特有の残酷な性質。

「プリムローズ公爵家の正門を固く閉ざせ。一切の者を中に入れるな」

公爵からそう厳命が下り、ジキセンへの面会は全面的に禁じられた。こんな一族の致命的な醜聞めいた話を外部へ一切漏らすな、というプリムローズ公爵の必死の隠蔽工作だった。

「狂ってるわ……」

だが、閉ざされた公爵邸の中に、ただ一人だけ例外として足を踏み入れた者がいた。

「原因を作った相手がすぐ傍にいるのに、もしかしたら、その本人であるリリカならいつか奇跡を起こして治せるかもしれないって歪んだ期待にしがみついているから、リリカにだけは手を出せないんじゃない?」

静まり返った廊下に、皮肉混じりの鈴の鳴るような声を響かせたのは、かつてこの家門から無価値として追放されたユリアだった。

『それでも相手は公爵家の嫡男であり、名ばかりとはいえ“剣の祝福”を持つジキセンだもの。国の将来を担うはずだった最高戦力が再起不能になった――だからこれほど、社交界は格好の娯楽として大騒ぎになっているのよ。もし、あの戦場で死んだのが高位貴族でも有力者でもない、ただの平民上がりの騎士だったなら、ジキセンほど話題にすらならなかったでしょうね……』

ユリアは誰もいない、不気味なほど静まり返った公爵邸の冷たい廊下を、毅然とした足取りでゆっくりと歩いていく。

『今回、私が事前に作った回復薬を、騎士たちが機転を利かせてあいつに使っていなかったら、どうなっていただろう』

プリムローズ騎士団があの戦場から生きて帰ることはおろか、ジキセン自身、その場で下品に失血死して、今頃は墓の下に入っていたはずだ。もし傷を負ったのがジキセンではなく別の誰かだったなら、ここまで神殿や公爵家を巻き込んだ否定的な泥沼の反応も起きなかっただろうに。

そしてユリアは、公爵城のさらに奥深く、日当たりすら悪い地下に近い場所へと向かった。かつて彼女が「無能」として厳罰を受け、冷たい床に閉じ込められていた――見覚えのある陰惨な場所へ。

部屋の中には、ジキセンが以前好んで使っていた豪華な一級品の家具などが不釣り合いに運び込まれてはいたが、およそ“公爵家の輝かしい後継者”が暮らす部屋とは思えないほど、日差しすら入らない暗く陰鬱な空気が淀んでいた。

『ジキセンの部屋って、公爵城で最も陽の当たる中心部にあったはずなのに……こんな呪われた場所へ移されたのね』

おそらく片脚を失ってから、ジキセンは以前のように大声を上げて周囲を威圧する気力すらなくしたのだろう。そうでなければ……醜い不具の姿になったかつての自慢の息子を、プライドの高い父親がまともに直視していられなかったのかもしれない。世間にその姿を絶対に見せたくなかったのだ。

ギィ……と重い扉を開けると、そこには車椅子に乗り、暗闇を見つめる男がいた。

「何だよ、お前……ユリア……?」

「こんにちは。お兄様」

ユリアはどこまでも穏やかに、声音を一切乱さずに挨拶した。

ジキセンは、見ないうちに恐ろしいほどやつれきっていた。昼間だというのに薄暗い部屋の中でも、頬が削げ、目に生気がないのがはっきりと分かるほどに。

突然目の前に現れた、かつて見下していたはずの妹を見て、ジキセンの瞳が激しく揺れる。

「何だよ。家を追い出されたはずのお前が、なんでここにいる!? 誰もいないのか!? 誰か、今すぐこの不快な女を部屋から叩き出せ!!」

「……」

「追い出せって言ってるのが聞こえないのかお前ら!!」

「無駄よ。プリムローズ公爵が、私が入ることを直々に許可したのだから」

「……は? 父上が……?」

自分を嘲笑いに来たに決まっている宿敵の訪問を、なぜあの厳格な父親が止めなかったのか。予想外の返答に、ジキセンは頭が追いつかず、しばらく呆然と口を開けた。

「回復薬を量産した最先端の錬金術ギルド長であるお前なら……もしかして、俺のこの失われた脚も、無から治せるんじゃないかって……父上はそう思ったのよ。浅ましいわね」

ユリアの口から返ってきたのは、想像もしなかった冷徹な言葉だった。呆けたように瞬きを繰り返していたジキセンは、遅れて、胸の奥から這い上がるような歪んだ気迫を少しだけ取り戻す。

あの雪原で、切断された太腿の断面から噴き出していたおびただしい量の黒赤い血。もし、ユリアが騎士たちに持たせたあの回復薬がなければ、ジキセンは廃人になるどころか、その場で惨めに命を落としていた。

「……これで少しは、私の話に真面目に耳を傾ける気になった?」

ユリアは、ここで残酷な嘘をつくような真似はしなかった。

『エリクサーを使えば、失った脚を再生できる――』

それは前世の知識からしても、理論上、可能性はゼロではないかもしれない。あまりに貴重で量産できない代物だから、人体実験などは十分にできていない。だが、“死にかけた人間すら完全に救う”とされる伝説の錬金術師の秘薬なら、奇跡を起こせる可能性はあった。

『どうせ、こんな男には絶対にエリクサーなんて使ってあげないんだから、関係のない話だけれど――』

世間の誰かは、今のユリアの態度を責めるかもしれない。どれほど過去に仲が悪くても、血の繋がった実の兄が目の前で苦しんでいる姿を、薬があるのに放っておくのか、と。

けれどユリアは、心の中で冷ややかに反論した。

『それなら、あの戦場で、目の前で大怪我を負っていくジキセンの脚が切り落とされるのを、何の代償も払わずにただ見過ごしたリリカの方が、はるかに残酷で酷い聖女じゃないかしら?』

騎士たちの命を救うために善意で送った回復薬が、結果として最も憎むべきジキセンの延命につながった。皮肉な話ではあるけれど……それでも、その事実があったからこそ、ユリアが率いるユネトの“秘薬”には、再び国家レベルの絶大な希望と価値が向けられることになったのだ。

そう考えると、少なくともこの男が戦場で生きた肉塊として生き延びたこと自体は、ユリアにとって決して悪いことではなかった。

『誰だって、世界のすべてを失った瞬間には、何でもいいから目に見える蜘蛛の糸にすがりたくなるものよね』

ユリアの予想通り、ジキセンは精神的に極限まで追い詰められていた。しかも、その心の傷口を、ユリアのように感情を排して鋭く突いてくる相手には、今の彼は何一つ言い返す言葉を持たなかった。

当然だった。名門プリムローズ公爵家の誇り高き嫡男として生まれ、生まれながらに世界無比の“祝福”まで授かった天才。剣の才能だけで大陸に名を轟かせ、自分が栄光ある公爵になる未来を疑ったことなど、生まれてから一度もなかったのだから。

そんな彼にとって、片脚を失って車椅子に縛り付けられるというのは――幼い頃から積み上げてきた人生のすべて、存在意義そのものが音を立てて崩れ落ちるのと同じ意味だった。

もう、自分の未来に光など何も見えなかった。

こんなにも惨めな現実を、どうしても認めたくなかった。

だから現実から目を背けて狂ったように眠り、そして目覚めるたびに、左脚がなくなっている地獄の現実に引き戻され、思い知らされる。夢の中では、確かに今でも五体満足の両足で力強く地を踏みしめ、武闘大会で華々しく勝利し、魔物など容易く一刀両断に斬り伏せていたのに。

「お前……」

そして、もう現実から逃げ続けることはできなかった。今日見た夢の最後で、ジキセンは本能的に理解してしまったのだ。――夢の中でさえ、自分の左脚はもう二度と戻らないのだという、絶望の事実を。

「お前が送った回復薬を、騎士たちが俺に使ったんだってな。あれほど俺を“お兄様、お兄様”と慕って守るだの何だの言っていたリリカは、いざという時に何の役にも立たない無能だったのに……結局、最後に俺の命を繋ぎ止めたのは、家を追い出されたお前だったってことか? ……俺を今、ここで生かしているのは、お前なんだな?」

ジキセンはそれ以上、ユリアを睨みつけることもできず口を閉ざした。ユリアの言葉は、ぐうの音も出ないほど否定できない事実だったからだ。

“聖女”と呼ばれるリリカは自分の保身のために治療を後回しにして、結果として自分を見捨てて脚を失わせた。それなのに、自分がこれまで「祝福も持たない無能」とずっと見下し、虐げていたユリアという存在は、巡り巡って自分の命を救っていた。リリカとは比べ物にならないと、散々侮っていた相手が、だ。

「……本当に、お前があの奇跡のような回復薬を作ったのか?」

まだ微かな警戒とプライドは残っていたものの、その声音は誰が聞いても哀れなほど弱々しかった。ジキセンの瞳の奥に浮かんだ「もしかしたら、ユリアなら俺の脚を元通りに……」という浅ましい希望の光を、ユリアは見逃さなかった。

「じゃあ……お前のその錬金術なら、俺のこの脚も、元通りに治せるのか……?」

だが、ユリアはジキセンが喉から手が出るほど欲しがっている答えを、決して返さなかった。代わりに、冷淡な態度でまったく別の話を切り出した。

「武闘大会であなたが名もなき外国の騎士に負けた件よ。社交界の周りの連中は“油断して日頃の鍛錬を怠ったからだ”って好き勝手に嘲笑っていたみたいだけど――私は、最初からそうは思わなかったの」

「……何?」

「分かっているでしょう? プリムローズの確固たる祝福の力を持つ人間が、いくら不摂生をしていたからって、あの程度の相手に簡単に負けるはずがないもの」

「……え?」

「つまり、あなたの肉体に宿っていた“祝福”そのものが、あの時点で急速に弱まっていたんじゃないかしら?」

欲しかった治療の答えではなかったのに、ジキセンは怒ることすらできなかった。ただ、核心を突かれて目を見開いたまま、化石のように固まる。

「ど、どうしてそれを……お前が知っているんだ……!?」

問い返しながらも、本人はとっくに気づいていたのだ。武闘大会の時点で、自分の剣の力が以前とは比べ物にならないほど落ちていたことに。そして、一族の誰よりも先に、その致命的な異変を見抜いたのがユリアだった。

「それを確かめたくて、今日ここへ来たの。私だけが、この世界の祝福の変異に気づいているのか知りたかったから」

「お前も……お前も、祝福の力が弱くなっているっていうのか? でも、お前が代表をしているユネトの“成長の祝福”は、今でも普通に大儲けして動いているじゃないか!」

「事前に、祝福が満ちているうちに薬を大量に作り置きしていたのよ。これから、この世界に大きな異変が必要になると思ってね」

「……これから、俺たちはどうなってしまうんだよ」

ユリアの流暢な嘘混じりの言葉に、ジキセンの表情が恐怖でみるみる曇っていく。

「やっぱり……俺だけじゃなくて、“祝福の力”そのものに、この大陸全体で何かの異常が起きている……そんな不気味な感じが、ずっと前からしていたんだ」

「……!」

その瞬間、ジキセンは勢いよく車椅子から顔を上げた。自分だけの気の触れた感覚ではなかったのだ。同じく祝福を持つユリアも、全く同じ決定的な違和感を抱えて怯えていたのだと、彼は都合よく誤信した。

「でも、おかしいだろ! 俺たちの力はこんなに鈍って消えかけているのに、なんでリリカだけは、今でも普通に、それどころか前より頻繁にあの強力な治癒を使えているんだよ……!」

「だから言っているのよ。リリカのあの力は異常なの。あれは、私たちが持つ正当な“祝福”とは、最初から全くの別物だったのよ」

少なくとも、ジキセンの失った脚をいつか治せる可能性があるのは、今のところリリカの神聖力しか存在しない。だからこそ、彼は本能的に、あの冷酷な妹へ無意識にすがろうとしていたのだ。

そう考えると、ジキセンは自分が戦場や治療現場で感じていたあの生々しい違和感を、どうしても今、誰かに伝えなければならない気がした。彼は声を荒げながら、リリカに対してずっと抱いていたどす黒い疑念を一気に吐き出す。その中には、誰にも打ち明けられなかった不具者としての不安や惨めさが混ざり合っていた。

「リリカは絶対わざとだ……! 間違いない! あの遠征の前、俺が部屋であいつを少し脅したから……その意返しに、わざと俺の脚が切られるのを見守っていたんだ!」

「脅した?」

「リリカの力は、俺たちの持つ“祝福”とは根底から違うんだ! 力の流れ方が、あいつ自身の体内からじゃなく、全然違った!」

まるで重大な一族のタブーを暴いたように、ジキセンは必死に訴える。だが、ユリアにとってそれはすべて予想の範囲内の、答え合わせに過ぎなかった。

彼女が今日、わざわざこの不快な男の部屋へ来た理由は、まさにその仮説の確認だったのだから。同じ“祝福”を持つ者として、ジキセンの野性的な直感が何を感じ取っているのかを確かめたかったのだ。

「やっぱり、あいつの治癒はおかしかったのね。……それに何より、あなた自身が一番近くで、その歪さを感じていたんでしょう?」

「ああ! 俺の脚が魔物に切り落とされたあの決定的な瞬間、あいつ……リリカはすぐ目の前にいたのに、本当に何もしなかったんだ! 怯えてすらいなかった、ただ俺を見つめていたんだ!」

ジキセンとリリカの関係が破滅的に悪化すること自体は、ユリアも想定していた。けれど――目の前で実の兄が脚を失うほどの重傷を負ったのに、リリカが何の行動も起こさなかったのは、さすがに不自然の極みだ。それは単なる兄妹仲の不和という問題では済まされない。

状況は、あまりにも深刻すぎた。だからこそ、ユリアは別の決定的な可能性を確信する。

――もしかして、リリカは自分の意思で“治さなかった”んじゃない。

――あの時、本当に“治せなかった”のではないか?

そう考えると、これまでのすべてのタイムラインの違和感に完璧な説明がついた。実際、リリカが肝心な場面で神聖力を全く発揮できていないように見える不自然な場面は、過去にいくつか存在していたのだ。そして、そこには明確な共通点があった。

――リリカのそばに、いつも影のように寄り添っている、あの男性使用人(ジャコブ)がいないこと。

さらに、彼女が目覚ましい“治癒”の奇跡を人前に見せる時は、決まって事前の準備があるか、人目のない場所に限られていた。ユリアは静かに、冷徹に思考を巡らせる。

――もしかすると、本当にあの治癒の奇跡の力を持っているのは、リリカではなく、あの男性使用人の側なのではないかしら。

なぜ彼が自分の力を隠し、リリカを聖女に仕立て上げるために協力しているのか、その歪な理由はまだ分からない。恩義があるのか、それとも紅河一族特有の弱みを握られているのか。だが、今はそこは本題ではなかった。リリカの「聖女」というハリボテの化けの皮を剥ぐための、決定的なピースが揃ったのだ。

「お前も感じているんだろ!? 祝福の力が前と違うって! なのにリリカだけが、今でも平然と聖女として君臨しているのは絶対に狂っているんだ!」

ジキセンは感情を抑えきれず、車椅子の手すりを叩いてまくしたてる。

「最近は俺たちの力がこんなに鈍っているのに、あいつだけ前より頻繁に街に出て治癒を安売りしている! 普通そんなことあり得るか!? むしろ、一番酷使しているあいつの力こそ、真っ先に使えなくなっていてもおかしくないのに!」

「……確かに、あなたのその理屈は完璧に通っているわね。お兄様」

「やっぱりそうだろ!? 祝福の力なんて、本来は高貴なプリムローズ家の血筋しか使えない聖なるものなんだ! なんで神殿の使用人の男があんな真似をできているのかは分からないが……あいつらは何か大きな嘘をついている!」

リリカが“聖女”として初めて奇跡の力を覚醒させたのは、あの緊迫した狩猟大会の時だった。だが当時は、誰もが「聖女覚醒」というあまりにも衝撃的な奇跡そのものに意識を完全に奪われていた。目の前で多くの貴族たちが毒に倒れ、ビビアンまでもが命の危機に瀕していた極限状況で、リリカの力の正体や不自然な魔力の流れを、冷静に観察できる者など誰一人としていなかったのだ。

それでも、今振り返るとすべてが歪で不自然だった。前世の小説の記述では、確かにリリカには“治癒の祝福”があると書かれていたはずなのに――この歴史は、何かが根本から狂っている。

「……わかったわ。私、その件について少し裏を調べてみる」

「お、おい、ユリア! 俺のこの脚はどうなるんだ……!? 治せるんだろ!? お前の錬金術なら、俺を元に戻せるって言ってくれよ!」

「そこは、まだ何とも言えないわ。少し待ちなさい」

ユリアは意味深な含みを持たせた言葉だけを残し、車椅子にすがるジキセンに背を向けた。彼女にとっては、もうこの部屋に滞在する理由は1秒たりともなかった。ジキセンという愚か者から引き出した情報だけでも、リリカと神殿の不正を暴き、破滅に追い込むための疑惑を深めるには、お釣りがくるほど十分だったからだ。

「ゆ、ユリア……! 待ってくれ、ユリア!!」

背を向けた彼女の後ろ姿に向かって、ジキセンが狂ったように必死の声で呼び止める。その声は情けなく震え、今にも涙が溢れ出しそうだった。

「俺が悪かったんだ……!! 祝福も持たない無能なお前に対して、あんな酷いことをして……俺、自分が今までどれだけ愚かなことをしていたのか、この脚を失ってようやく分かったんだ……!」

そこには、かつて公爵邸の廊下でユリアを怒鳴り散らし、虫ケラのように蔑んでいた頃の傲慢さも見下しも、微塵も残っていなかった。ただ、目の前の救世主に縋りつくような、生存本能だけの必死さしかなかった。ユリアに対して、生まれて初めて、打算を取り払った本心から助けを求めているようにも見えた。

「お前だけだ……。今思えば、お前だけが、俺の本当の家族みたいだったんだ……!」

「……」

「父上にもお前から話してくれ! 俺の脚を治して、また俺が元の完璧な姿に戻れるように……栄光あるプリムローズ公爵家の正当な後継者に戻れるように、頼む、ユリア、お前からも父上に言ってくれ!!」

ユリアは、冷たい鉄の扉の前で、ピタリと足を止めた。

背後から聞こえるその涙ながらの言葉に、ジキセンの声音には、やはりどこまでも自分本位な「後継者に戻るための道具」としての打算めいた色が透けて見えていた。

「そ、そうだよな! お前だって、やっぱりリリカみたいな偽物じゃなく、この俺こそがプリムローズの公爵に相応しいと思っているから、わざわざ助けに来てくれたんだろ……」

「じゃあ――その公爵位は、代わりに私が継いでもいいってこと?」

「……え?」

今まで必死に涙を流して殊勝な態度を取り繕っていたジキセンの顔が、一瞬で凍りついたように固まった。

ユリアは振り返り、その哀れな表情を見て、クスリと小さく冷ややかに笑った。

「……やっぱり、全部口先だけの嘘だったんじゃない」

「ち、違う! 俺は今こんな状態で、頭が混乱していて……ユリア! お前が今、また俺を“お兄様”って呼んでくれたのが、どれだけ、どれだけ嬉しかったか分かってくれ――!」

――違う。最初から最後まで、あなたにとって「都合の良い、愛すべき妹」と呼べる人形は、リリカだけだったでしょう?

ユリアの脳裏に、前世で、この男が冷酷に自分を刺し殺した最悪の瞬間が鮮明に蘇っていた。

自分と同じ鮮血のような赤い瞳に宿っていた、あの露骨な嫌悪と汚物を見るような侮蔑の視線。道端の消えるべきゴミでも見るような冷たい目。

これほどの命を奪われた憎悪や軽蔑を、どうして「反省した」というたった一言で忘れられるというのだろう。

――今日からは、もう公爵家の名を汚されることもないでしょうね。死んでくれて清々したわ。

あの時、胸を貫かれた痛みと共に耳にした彼の冷徹なセリフは、きっと一生、死んでも忘れられない。

『あんなふうに前世で私をなぶり殺しておいて、自分が弱った途端に、すぐに態度を変えて妹扱いできるなんて、本当にどこまでも軽い気持ちで人を見下していたのね』

あれほど盲目的に可愛がっていたはずの妹リリカのことも、自分の利益にならないと分かった途端に、前世の私への仕打ちを棚に上げてこの態度だ。

『どうせ全部、自分の立場を守るための薄っぺらい嘘なんでしょう……。いいわ、私もあなたのその哀れな一人芝居に、最後まで適当に合わせてあげる』

結局、それだけの薄汚い関係だった。ただの、血が繋がっているだけの赤の他人。

――いったい、どこまで自分勝手なら気が済むのよ。

結局、今世でもプリムローズ公爵家を去る最後の時に、私の首を力任せに絞めて殺そうとした、あの時の狂気こそがあなたの本心だったのよ。人は余裕を失い、追い詰められた瞬間にこそ、隠せない本音が出るものだから。

――だから、私はもう絶対に、あなたという男を許さない。

“お兄様”って呼んであげるのも、今日、この瞬間が人生で最後。

ユリアはそう、冷徹に心に決めていた。前世で自分を殺した男。そして今世でも、最後の最後まで自分を拒絶し、首を絞めた男。そんな相手を、家族だなんてもう1ミリも思えるはずがなかった。

「ベレランド湖で、あなたが昔、私のために摘んでくれたあの赤い花……忘れられるわけないじゃない」

けれどジキセンは、“幼い頃に妹に花を渡した”という都合の良い事実しか覚えておらず、その大切な思い出の相手がユリアだったのかリリカだったのかさえ、記憶が曖昧になっているようだった。

「私に一生あげるって言って不器用にお冠を作ってくれたくせに、結局、後から来たリリカに、ヘラヘラ笑ってそれをそっくりそのまま渡したでしょう?」

最後の最後の瞬間にまで、自分の命を救ってもらうために記憶を捏造して取り繕おうとするその卑しい態度は、かえってユリアに、前世と今世の最悪な嫌な記憶ばかりを呼び起こさせた。

背後で今、ジキセンがどんな絶望に満ちた滑稽な顔をしているのだろう。もう、知りたくもなかった。

「ユリア! 待ってくれ、ユリア!!」

加害者というのはいつも、自分が他人に与えた致命的な傷のことを、都合よく簡単に忘れてしまう。

けれど、被害者であるユリアは違う。あの胸を貫かれた日の一歩一歩の感覚も、そして今世でこれまで積み重なってきたすべての理不尽な傷も、決して忘れはしない。

ユリアは一度も振り返ることなく、ジキセンの哀れな叫び声を完全に無視して、暗い地下の部屋を後にした。

 



 

 

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