こんにちは、ちゃむです。
「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
133話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- ノアが望むもの
ざっ、ざっ――。
カリードの重々しい足音が、皇宮の回廊に低く響き渡る。
彼はラヴィエーヌから託された薬を届けるため、皇宮を訪れていた。
厳しく引き締まった表情のまま、カリードは案内役に導かれ、奥の間へと進む。
「……中で、お待ちです」
その一言とともに扉が示され、次なる舞台へと、物語は静かに移ろっていった。
そして、扉の前を警護していた騎士の脇を通り抜け、カリードは重々しい緊張が満ちる部屋へと、ゆっくり足を踏み入れる。
「来たか」
その声の主――デイモンは、衣服もきちんと整えぬまま、乱れた姿で寝台に腰掛けていた。
カリードは一礼しながら、部屋の中をさりげなく見渡す。
壁という壁に掛けられた緋色の垂れ幕が視界を埋め尽くし、その強烈な色彩に、思わず目が眩みそうになる。
「持ってきたのだろう?」
「はい。こちらを、お預かりするよう仰せつかっております」
デイモンの合図を受け、カリードは寝台のすぐ前まで歩み寄ると、手にしていた木箱を差し出した。
――カチリ。
迷いのない手つきで、デイモンは箱の蓋を開ける。
中には、厚手の布に包まれ、大切そうに守られていた薬瓶が収められていた。
その姿を目にした瞬間、部屋の空気は、さらに張り詰めたものへと変わった。
「ほう……これが、例の品か」
「ご存じなのですか?」
ラヴィエーヌから受け取った時から、液体の正体が気になっていたカリードは、思わず声を潜めて問いかけた。
「知っているとも」
デイモンは、薄く歪んだ笑みを浮かべ、薬瓶を持ち上げて灯りにかざす。
それは――彼がラヴィエーヌに、ただ一つだけ頼み込んだ薬。
無色無臭の毒薬だった。
ついに己の手の中に収まった薬瓶を、デイモンは慈しむように包み直し、再び箱の中へと収める。
「……存分に役立てたと、伝えておけ」
「はっ」
それだけを命じられ、カリードは深く一礼すると、そのまま足早に部屋を後にした。
彼の役目は、あくまで“運び屋”。
それ以上を知る必要はなかったからだ。
――だが。
(……一体、何に使うつもりなのだろう)
回廊を進みながら、胸の奥に芽生えた違和感を、カリードは振り払うことができずにいた。
それが、後に大きな波乱を呼ぶ引き金になるとも知らずに。
自らの手で薬を渡してしまったにもかかわらず、胸に残る嫌な予感を拭えないまま、カリードは考え込み、深いため息を漏らした。
そのせいか、いつの間にか道を誤っていたらしく、気づけばかなり奥まで来てしまっている。
――引き返そう。
そう思った、その時だった。
「……カリード卿?」
聞き覚えのない声が、背後から彼を呼び止めた。
驚いて振り返ったカリードは、相手の顔を認めるなり、わずかに息を呑む。
「……ノア様」
(なぜ、俺の名を……?)
一瞬の戸惑いを胸に押し込め、カリードは歩み寄ってくるノアに向かい、慌てて頭を下げた。
「聖騎士カリード、皇太子殿下への伝令を終えたところでございます」
「ふうん……」
ノアは興味深そうに目を細める。
「聖女をお迎えに行くはずの聖騎士が、こんな時間に一人で皇宮をうろついているなんて……少し、妙だとは思わないかい?」
静かな声音とは裏腹に、その黒い瞳は鋭く、逃げ場を与えぬ圧を放っていた。
ノアの視線が、カリードの全身を値踏みするように、ゆっくりと上から下へと滑っていく。
張り詰めた沈黙の中、カリードは、喉の奥に込み上げる不安を必死に飲み込みながら、次に口にすべき言葉を探していた。
――この邂逅が、偶然であるはずがないと、嫌というほど理解しながら。
ノアは小さく息を吐いた。
聖花の保管庫へ向かう途中だったはずだ。
まさか、こんな場所でカリードに出くわすとは。
ノアの瞳に、疑念が色濃く宿る。
「聖女様の使いとして参りました」
「……誰の?」
一瞬の沈黙。
「…………」
「まさか、デイモン兄?」
ノアは、この場所からさほど離れていないはずのデイモンの居所――皇太子宮の方向を鋭く睨み、眉をひそめた。
「その通りです」
隠すべきか一瞬迷ったカリードだったが、そのような命を受けていなかったため、結局は正直に答えた。
「聖女様と、デイモン殿下の件で」
ノアの声が、低く沈む。
問うた瞬間、――ラビエンがまた何か企んでいるに違いない。
そう確信したノアの瞳は、氷のように冷え切っていた。
「……カリード卿。忠告しておくが」
その異様な空気に、カリードは思わず喉を鳴らし、固唾をのむ。
この先に続く言葉が、決して穏やかなものではないと、肌で感じながら。
カリードは、ごくりと喉を鳴らした。
回復して間もなく皇太子の座に就いたと聞いていたが、そこに立つノアに、幼さの名残は一切なかった。
「お前の主が何を企んでいようと、エスデアに指一本触れるな。――髪の毛一本でも傷つけたら、その日がお前の命日だ」
「な、何を突然……」
狼狽するカリードを前に、親切に説明してやるつもりなど微塵もないノアは、淡々と言い捨てた。
「今回はまだ“選択肢”が残っている。どうか、賢い判断をしろ」
「……どのような選択肢でしょうか?」
「さあな。それはお前が考えろ。俺が全部教えてやる義理はないだろう?」
その時だった。
ノアの背後に控えていた皇宮の秘書官が、緊張に強張った表情で駆け寄ってくる。
「殿下。先ほど、デイモン皇太子殿下より“時間を取る”との連絡が入りました。今すぐ、お目にかかりたいとのことです」
ノアは一瞬だけ目を細め――その唇に、意味深な笑みを浮かべた。
嵐は、すぐそこまで来ていた。
「……どういう関係なんだ」
カリードは、思わず独りごちた。
まさか――皇太子であるノアと、エスターがここまで親しい間柄だとは、夢にも思っていなかった。
それも、ただの顔見知りではない。
互いを信頼し、守ろうとするほどの、深い関係に見えた。
――大公の娘になっただけでも驚きなのに、今度は皇太子まで味方につけるとは。
エスターという存在が、自分の手の届かない場所へ、少しずつ、しかし確実に遠ざかっていく気がして、カリードは重く息を吐いた。
「……何が何だか、さっぱり分からない」
ここ最近、彼の周囲はあまりにも混乱続きだった。
中でも一番の衝撃は――自分が従い、信じるべき“聖女”ラビエンへの信頼が、音を立てて崩れ始めていること。
事実も。
自分の感情も。
どちらも整理できないまま、カリードは足取りも重く神殿へと戻っていった。
ノアはカリードと別れると、迷うことなく進路を変え、まっすぐデイモンのもとへ向かった。
その背中には、先ほどまでの軽口も余裕もない。
ただ一つ、はっきりとした決意だけが宿っていた。
――兄上は、どこまで知っている。
――そして、どこまで踏み込むつもりなんだ。
嵐の中心に足を踏み入れる覚悟を決めたノアの瞳は、静かに、しかし鋭く光っていた。
ノアは、皇太子宮へと足を向けた。
「お気をつけください」
「分かってる。兄さんがわざわざ呼ぶ時は、何か理由があるに決まってる」
これまでデイモンが一度でも、ノアを先に呼びつけたり、皇太子宮へ招いたことはなかった。
そんな彼が、突然「ティータイムを」と言ってきたのだ。
怪しさしかない。
「……デイモン兄」
扉を開けながら、ノアはそう声をかけた。
「早かったな。もう少し待つつもりだったんだが」
ソファに深く身を預けていたデイモンが、気怠げに上体を起こし、向かいの席を顎で示した。
ノアは一歩一歩、床を踏みしめるように歩き、示された場所に腰を下ろすと、長い脚を組んだ。
「急にどうしたの?」
「皇太子に任命されてから、何かと忙しかっただろう」
どこか探るような声音。
だが、その裏にある本心までは、まだ読めない。
ノアは視線を逸らさず、兄を見据えた。
――この人は、どこまで知っている。
――そして、どこから話すつもりなんだ。
部屋の空気が、静かに張り詰めていく。
湯気の立つ紅茶の香りだけが、この場が“穏やかな兄弟の会話”であると装っていた。
「……仲良くやり直してみないか、ってさ」
絶対にデイモンの口から出るはずのない言葉に、ノアは思わず小さく噴き出した。
どんな魂胆かは分からないが、とりあえず“話に乗る”という選択肢を取ることにする。
「随分と殊勝なことを言うじゃないか。生涯、俺たちが仲良くやれるとは思ってないけど……今からなら、まあ、不可能じゃないかもな」
デイモンはノアの皮肉を受け流し、湯気を立てるコーヒーを彼の前へ静かに押しやった。
「さっき淹れたばかりだ。飲みながら、ゆっくり話そう」
「……コーヒー?」
ノアは訝しげに眉を寄せ、自分の前に置かれたカップをじっと見下ろした。
青と白が上品に調和した磁器。
金の縁取りが施された、いかにも高価そうな逸品だ。
――だが。
神殿から“聖女の使い”として戻ったばかりのカリードが、皇宮内を動いた直後。
その、あまりにも出来すぎたタイミングで出された一杯。
「……ずいぶん用意がいいな」
ノアはまだ手を伸ばさない。
カップから立ち上る香りは確かに上質だが、彼の胸中に去来するのは、“もてなし”ではなく、“確認”という二文字だった。
デイモンはその視線に気づいたのか、意味ありげに口角を上げる。
「疑り深いな。昔から、そこは変わらない」
「兄さんが急に優しくなる方が、よほど不気味だ」
ノアはそう言い返しながらも、ゆっくりとカップに手を伸ばした。
――この一杯に、何が込められているのか。
それを確かめずに、話を進めるわけにはいかなかった。
――やっぱり、怪しい。
嫌な予感が胸をかすめた。
「俺が苦労して手に入れた高級豆で淹れたコーヒーだ。味も香りも、申し分ないはずだ」
「へえ?」
ノアは首を傾げながら、カップの白い取っ手をつまんで持ち上げる。
「……うん。香り、すごくいいな。兄さん」
そう言って、鼻先に近づけ、くすりと笑いながら香りを吸い込んだ。
今にも飲みそうな仕草に、デイモンの口元がわずかに緩む。
「だろう?さあ、飲め」
「でもな――」
その瞬間。
デイモンの期待は、あっさりと裏切られた。
カップを口元へ運んだノアは、そのまま向きを変え、すっとデイモンの前へと差し出したのだ。
「今日は、兄さんのほうが美味そうだ。……交換しよう」
一瞬、部屋の空気が凍りつく。
ノアはにこやかなまま、視線だけでデイモンを射抜いていた。
――毒味は、そちらからだ。
言葉にせずとも、その意図はあまりにも明白だった。
「飲もう。……大丈夫だろ?」
ノアの提案に、デイモンの表情が一瞬で凍りついた。
取り繕うこともできず、眉が強張り、唇がわずかに青ざめて震える。
「……俺のはコーヒーじゃない。お前は自分のを飲めばいいだろ?」
「へえ。兄さんが俺の好みを分かってるとは思わなかったな。最近、味覚が変わったんだ」
デイモンは自分の手元にあった、
ハーブティーの入ったカップを引き寄せようとした。
だが――
それより早く、ノアの手が動いた。
あっという間にカップは入れ替わり、デイモンの前には、もう戻せない位置に追いやられていた。
それを見た瞬間、デイモンの顔色がみるみる青白くなる。
「……急に顔色が悪いな。兄さん、大丈夫?」
「……ああ」
そう答えはしたものの、その声は明らかに上ずっていた。
大丈夫――その言葉とは裏腹に、デイモンの身体は、確実に追い詰められていた。
ノアは足を組み、余裕たっぷりにその様子を眺めながら問いかけた。
「いい豆なんだろ?どうして飲まない?」
「はは、俺は元々コーヒーは得意じゃなくてさ。お前のことを思って用意しただけだ。……やっぱり、もう一杯お茶を持ってこさせるべきだったかな」
それでも最後まで、デイモンはコーヒーカップに指一本触れようとしなかった。
その態度を見て、ノアは確信する。
――このコーヒーに、何かが入っている。
入れ替えたはずのハーブティーも、唇を軽く湿らす程度で口にしないのを見て、ノアは目を細めた。
「妙だな。兄さん……まさか、俺に出したコーヒーに“薬”でも入れた?」
冗談めかした口調だった。
だが、その言葉の奥に潜む鋭い棘を、デイモンが感じ取れないはずがない。
「……何を言ってる。薬だなんて、冗談にもならないだろ」
否定の言葉とは裏腹に、デイモンの視線は、わずかに揺れていた。
その小さな違和感を、ノアは見逃さなかった。
「無理だろ。兄弟の間柄で、俺がそんな真似をすると思うか?」
まるで盗人が逆上するかのように、デイモンは声を荒らげた。
誰が見ても、ぎこちない空気だ。
ノアはくすりと笑い、肩をすくめながら首を前に傾ける。
「落ち着いてよ、兄さん。そんなふうにムキになるから、余計に怪しく見えるんだ」
「怪しいのはお前だ。一体このコーヒーが何だって言うんだ?勝手に人を疑って、変な人間みたいに仕立て上げて」
一人で昂ぶり続けていたデイモンは、突如、目の前のカップを乱暴に掴んだ。
言葉を吐き捨てながら、カップを上下に激しく振る。
濃い香りを閉じ込めていたコーヒーが、縁から溢れ、卓上に飛び散った。
「……飲めないって言うのか?」
「まさか。飲めるさ。飲めるはずなのに――お前がそんなことを言うからだ」
その声は強がっていたが、揺れる瞳は、はっきりと“迷い”を映していた。
ノアはその様子を、楽しむように、静かに見つめていた。
デイモンはノアの視線を避けるように、ぎこちなく目を伏せながら、コーヒーカップを押し返した。
飲んですぐに症状が出る類の毒ではない。
体内に少しずつ蓄積されるタイプ――仮に今ここで口をつけたとしても、即座に異変が現れることはない。
だが、自分の体に“何か”が溜まっていく感覚を、デイモンほど鋭く察知する男はいなかった。
「……だろ?おかしい話だ」
わずかに突いただけで、必要以上に動揺する。
その様子を見て、ノアの中で疑念は完全に“確信”へと変わった。
細く白い指で、テーブルを――とん、とん、と、軽やかに叩きながら、ノアはにこりと笑う。
「じゃあさ。一口だけでいいから、飲んでくれない?別に難しいお願いじゃないでしょ」
その言葉に、デイモンは目に見えて動揺する。
喉が鳴り、乾いた唇を舌で湿らせながら、言い訳めいた言葉を次々と吐き出す。
「……今さら、そんなこと言われてもな。俺を疑ってるのか?兄弟だぞ?」
声は強気だったが、その奥に滲む焦りを、ノアは見逃さない。
ノアは背もたれに深く身を預け、余裕たっぷりに問いかけた。
「ねえ兄さん。もしかして今――俺に疑われてるのが、そんなに怖い?」
その一言が、デイモンの心臓を、確実に撃ち抜いていた。
「……あまりにも荒唐無稽だ」
ノアの挑発めいた言葉に、デイモンは舌打ちを噛み殺すように息を吐き、その勢いのまま、手にしていたコーヒーカップを半ば投げ捨てるように宙へ放った。
次の瞬間。
硬質な音とともに、カップは床へと叩きつけられ――無残に砕け散った。
陶器の破片が四方へ跳ね、中に注がれていたコーヒーは余すところなく床に広がり、絨毯を黒く濡らす。
「おっと……」
わざとらしく声を上げ、デイモンは両手を広げた。
「悪いな。手が滑った。まさかこんな失態を犯すとは……誰も怪我していないよな?」
口では謝罪を装っているが、その仕草も声音も、どこか芝居がかっていた。
ノアは眉をひそめ、肩に飛びそうになった雫を払う。
「少しは気をつけてよ」
淡々とした言葉だったが、視線は鋭い。
幸い距離があったため、割れた破片も、熱いコーヒーもノアには届かなかった。
騒ぎを聞きつけた侍女たちが慌てて駆け込んできて、床に散らばった陶片と染みを、手際よく片づけ始める。
その様子を横目に見ながら、ノアは何気ない口調で呟いた。
(……飲ませる気は、最初からなかった)
あれは事故ではない。
逃げだ。
疑われることから、“口にする”という選択肢そのものから――。
ノアは小さく息を吐き、視線をデイモンへ戻した。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
その間も、ノアとデイモンの間には、張りつめた沈黙が行き来していた。
侍女たちが部屋を出て、割れた陶器も、床の染みも、すべてがきれいに消え去ると――デイモンは何事もなかったかのように、再び余裕の笑みを浮かべた。
「お前が突拍子もないことを言うから、つい熱くなっただけだ」
「……それを、俺のせいにする?」
ノアの声は低く、冷えていた。
その表情はもはや、身内を見るものではない。
道端の塵芥を見るような、はっきりとした軽蔑が宿っている。
これまで“家族”だと思っていた。
兄として、頼れる存在だと――どこかで信じていた。
だが、その感情は今、きれいさっぱり削ぎ落とされていた。
(もう、兄として扱う必要はない)
そう悟った瞬間、ノアは一歩踏み出し、指先で自分の胸元を軽く叩きながら、淡々と告げる。
「デイモン兄。勘違いしているみたいだから、教えてあげる」
その声音は静かで、しかし抗いようのない重みを帯びていた。
「――俺が、皇太子だ」
「……は?」
デイモンの眉がわずかに跳ね上がる。
ノアは視線を逸らさず、続ける。
「今回、何が起きているのか気になってね。だから、わざわざ時間を作って来た」
それは説明でも、弁解でもない。
事実の提示――それだけだった。
ノアの立ち姿は、もう先ほどまでの“弟”ではない。
この場を支配する者の、それだった。
「だから、次に口を開くときは――」
ほんの一瞬、視線が鋭く細まる。
「“兄”としてじゃなく、皇太子に対する言葉として選んでほしい」
部屋の空気が、ぴたりと凍りついた。
「……でもさ。次から用があるなら、兄さんが直接来て」
「お前……」
ノアは、プライドを傷つけられて声を詰まらせるデイモンが、苛立ちを隠しきれずに腕をばたつかせる様子を一瞥すると、ソファから静かに立ち上がった。
「それと――」
振り返りもせず、淡々と言葉を添える。
「お互い、卑劣な真似はやめよう。みっともないし、恥ずかしいだろ?」
その一言は、忠告というより宣告だった。
ノアはデイモンの視線を正面から受け止め、一切の迷いもなく、はっきりとうなずく。
そして、柔らかな微笑みを浮かべたまま、踵を返し、部屋を出ていった。
残されたデイモンは、思った以上に大きく見えたノアの背中を、疑うように睨みつける。
「……あいつ、何なんだ」
胸の奥に、言いようのない苛立ちが渦を巻く。
思い通りにならない現実に怒りが爆発し、彼は床を乱暴に踏み鳴らした。
次の瞬間。
まだ片づけ切れずに残っていた破片に、素足の裏が深く食い込んだ。
「――っ、あああっ!!」
甲高い悲鳴が部屋に響く。
床に散った陶片は、まるで嘲笑うかのように、冷たく光っていた。
「け、怪我はありませんか?」
扉の前に控えていた秘書が驚いて中へ駆け込んできた。
「チッ。床がまだ片付いてないじゃないか。さっき来た侍女たちを全員連れて来い。俺の足に傷をつける気か?」
じくじくと血をにじませる足裏を見て舌打ちし、デイモンは怒りを抑えきれず苛立った声を上げた。
彼は侍女たちが入ってくるのを待ちながら、歯をぎりりと噛みしめた。
「勘のいい奴だ。直接食わせるのは無理だな。別の方法を探さないと」
ラビエンヌから受け取った薬瓶の液体は、まだ半分以上残っていた。
一方、皇子宮の外へ出たノアは、頭痛がするような表情で額を押さえた。
「そういう人間だとは思っていたけど……本当に失望したよ」
「ご無事ですか?本当に毒が入っていたのなら、知らないうちに中毒になっているかもしれません。心配です」
いつもノアの背後を影のように守るパレンが、不安げに声をかけた。
「飲んでないから大丈夫だ」
それでも何を仕込まれていたかわからず、ノアはひとまずエスターが送ってきた聖花が分類・保管されている倉庫へと向かった。
神殿が閉鎖された地域へ送る準備をしていた聖花の束の中から、ノアは花弁を少し摘み取る。
「これで十分だろう」
薬として煎じて飲めば効果はさらに高まるが、聖花は花びら一枚一枚がすべて薬効を持っていた。
ノアは持ち出した花弁を口に含み、ゆっくりと噛みしめる。
「エスターは……今、何をしているんだろう」
思いが滲むようなその独り言を、傍らを歩くパレンは黙って聞き、周囲を警戒するように視線を走らせた。
「殿下、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
パレンが先に何かを尋ねてくるのは珍しく、ノアは思わず瞬きをした。
「お嬢さまのことを、いつからそんなふうに好まれるようになったのですか?」
長くノアを見守ってきたパレンだからこその、打算のない純粋な疑問だった。
かつてラビエンヌに対しては、欠片ほどの情も向けなかったノアなのだから。
その問いに、ノアは歩みを止め、くすりと笑って空を仰いだ。
「いつだと思う?」
「絵を描きに来られた日ですか?」
「いや」
口に含んでいた花弁をそっと取り出しながら、ノアは穏やかに微笑んだ。
「それより、ずっと前だ。――聖域で、初めて入り込んで、いつの間にか四季を巡っていた……そんな感じだろうか」
正確な時期は、実のところノア自身にもわからない。
季節が移ろったその瞬間がいつだったのか思い出せないように、エスターへの想いもまた、ごく自然に変わっていったのだ。
ノアがただ“終わり”だけを待っていた絶望の夜々――その夢の中に現れたエスターは、現実よりもいっそう輝いて見えた。
最初のうちは、少なくとも彼女が自分と同じ境遇にいないという事実が、拙い慰めになっていた。
だが、毎晩のように夢に現れる彼女が実在の人物だと知ってからは、もはや気にせずにはいられなくなった。
「お嬢さまのことを、そのずっと前からご存じだったのですか?私の記憶では、あの時が初対面だったはずですが……」
「パレンの知らない、俺の秘密だ」
ノアはそう言って微笑み、意味ありげに片方の目を細めた。
そう言って、ノアは少しだけ顔をしかめた。
『今、俺がこうして生きているのは――エスターのおかげだ』
死にたいと願う日々を、それでも耐え抜けたのは、夢の中でエスターに会えるからだ。
いつからか記憶が途切れ、次に目覚める保証もないまま眠りに落ちるようになっても、恐れはなかった。
それでも平然としていられたのは、またエスターに会えると知っていたからだ。
「ただ、気がついたら……好きになっていた」
長い眠りから覚めたある日。
ぼんやりと頭を上げ、窓から差し込む陽の光を浴びた瞬間、悟った。
――ああ、俺はあの子を好きなんだ。
胸の奥が締めつけられるほど苦しくて、思わず悪態をつきたくなるような感覚だった。
そうして少しずつ、エスターはノアの内側に染み込み、気づけば彼のすべてを掌握するほど、深く深く食い込んでいた。
「最近、エスターを見ただろう?本当に幸せそうに笑っている」
「ええ。ずいぶん変わられました」
初めて絵を描きに来た頃の、あの陰りを帯びたエスターではないことを、パレンもはっきりと感じていた。
「……あの笑顔を、これからも守ってやりたい」
「突然、皇太子になろうと決められた理由も……」
「その通りだ」
権力には一切興味を示さなかったノアが、病を得てから変わった理由を悟り、パレンは静かにうなずいた。
「誰にも、エスターから笑顔を奪わせはしない」
ノアは、自分に残された人生のすべてを、エスターのために捧げるつもりだった。
彼が望むものは、ただ一つ――エスターの幸福、それだけだった。
その幸福を、再び覆い隠そうとするラビエンヌの存在を、まだ誰も知らなかった。
それは、ノアが神殿を――決して赦すことのできない理由でもあった。
エスターに対して拭い去ることのできない罪を犯したラビエンヌと神殿は、必ず裁かれねばならない。
「今生での罪じゃない、だと?」
そんな言い訳が通るはずもない。
一度や二度ではない。
十数回にもわたり、同じ過ちを繰り返してきた忌まわしい連中なのだから。
「――ゴミは、早く片付けないとな」
氷の欠片が落ちるような冷え切った声で、ノアはそう吐き捨てた。







