こんにちは、ちゃむです。
「残された余命を楽しんでいただけなのに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
87話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 洗脳
ジルデル・ベースキャンプの副指揮官、マン・カルプ中佐はひどく機嫌が悪かった。
「ここは近所の公園じゃないんだぞ。犬や猫が好き勝手に出入りする場所か。」
外部の人間である皇子と皇女。
そこに加えてビアトンやキルエンまでベースキャンプに入り込み、騒ぎを起こしている状況が気に入らなかった。
さらに〈かっこいい皇女様〉だのと、皇女を持ち上げて歌う兵士たちの様子も気に食わない。
そして先ほど演習場で偶然見かけた皇女の姿は、笑うどころか失笑ものだった。
(あの歳で剣を持ち始めたとしても、せいぜい八年程度の修練だろう)
マン・カルプ中佐は、平民出身から叩き上げで指揮官にまで上り詰めた人物だった。
平民から準貴族へと昇りつめた、実力主義の軍人。
剣の腕も確かなものを持っている。
(最近の剣術学院は――)
彼の目に留まり、ベースキャンプの副指揮官として配属されていた。
(俺が三年かけて身につけた程度と、大差ないな)
皇女とマン・カルプでは、最初から見方が違っていた。
表向きには皇女は剣術を習っていないとされていたが、マン・カルプはその話を信じていない。
ビロティアンの剣式を習っていないだけで、幼い頃から十分な支援を受け、相当な訓練を積んできたに違いないと考えていた。
(それだけ恵まれた環境で、あの程度か?)
イサベルの実力は、一般に“秀才”と呼ばれる子どもが、十五歳前後で到達する程度の水準だった。
八歳であの実力なら、決して天才とは言えない。
皇室が「イサベルは剣術を学んでいない」と発表しているのも見栄や体裁のための言い訳にすぎない、と。
「剣術では何一つ成し遂げていない。実戦経験も皆無。その上、あの程度の腕の子どもに“無功勲章”が与えられるだと?」
マン・カルプは拳を強く握りしめた。
平民出身で、血のにじむような努力を重ねてここまで上り詰めた彼にとって、それは到底看過できない話だった。
怒りは抑えきれず、ついに机を――バンッ!と叩きつける。
「まともに剣も使えない半端な皇族に!無功勲章だと?ふざけるな!」
そのとき。
背後から、低く冷ややかな声が響いた。
「そうだな。お前は指揮官の地位には就いたが、勲章は一つも持っていない。」
「……誰だ!」
マン・カルプは勢いよく振り返り、立ち上がった。
だが背後には誰もいない。
それでも確かに声は響いていた。
「帝国のためにどれだけの功績を積もうと、お前に返ってくるのはただ一言――『平民の分際で』だ。」
「姿を現せ。」
「皇室の連中は言った。平民のお前に指揮官の席は与えられない、と。卑しい血の者がどうして貴族の騎士を従えられるのか、と嘲り、罵った。」
「……っ」
「だから当然だ。お前に与えられる勲章など、最初から存在しない。どれだけ功を立ててもな。」
声は淡々と続く。
「だが皇女は違う。ただ“皇女に生まれた”というだけで、勲章を与えられ、あらゆる戦地に自由に出入りできる特権まで手にしている。」
その言葉が終わるころ――マン・カルプの足元の影が、ぬるりと歪んだ。
黒い気配がにじみ出るように広がり、やがて彼の全身を包み込んでいく。
正体の知れない声が、耳元で囁いた。
「行け。お前の名誉と誇りを踏みにじった皇家に、復讐しろ。」
得体の知れない魔力がマン・カルプの身体に染み込むと、彼の瞳から理性の光が消えていった。
「……ふく……しゅ……」
「イサベルを傷つける以上の甘美な復讐はない。行け――偉大なるマン・カルプの名を知らしめろ。」
声は風に溶けるように消えていく。
「覚えておけ。お前に命を与えた者の名は、ビヘルム・ドマ・ラクティアン。」
マン・カルプは剣を握りしめたまま、ゆっくりと歩き出した。
やがて夜の巡回に出ていた兵士たちとすれ違う。
その中には、ルカイン伍長の姿もあった。
「気をつけ、敬礼!」
マン・カルプとすれ違った巡察隊は敬礼したが、彼はまるで気にも留めず、そのまま通り過ぎていった。
巡察隊の一人が小声で言った。
「なあ、ちょっと様子がおかしくないか?」
「指揮官が変なのなんて今さらだろ?」
「いや、でもなんか……酒でも飲んでるのか?」
「目を合わせるなよ。また雑用押し付けられるぞ。」
ルカイン伍長は遠ざかるマン・カルプの背中を見つめながら、静かに首を振った。
うまく言葉にはできなかったが、どこか“異質”な違和感があった。
巡察を続けた彼らは、その夜、この区域の夜間責任者である第三皇子カマンへと報告を上げた。
「特に大きな異常はありませんが……マン・カルプ准将の様子が、少しおかしく見えました。」
「何がおかしい?」
「まるで酒に酔っているようで、足取りも不安定でした。それに……」
ルカインは言葉を濁し、ためらった。
「はっきり言え。」
「気のせいかもしれませんが、どうも皇女様のいらっしゃる方へ向かっているように見えました。」
マン・カルプは、イサベル皇女の滞在する幕舎の前に立っていた。
「忠誠。」
幕舎前で警備にあたっていた兵士たちは、彼に向かって敬礼した。
「皇女に用がある。」
「今……この時間に、でありますか?」
「私が質問を許した覚えはないが?」
兵士は背筋を伸ばし、即座に姿勢を正した。
「失礼しました。」
「道を開けろ。」
「……はい。」
軍において、階級は絶対。
それは命令であり、時に生死を分ける掟でもあった。
兵士たちには、マン・カルプを止めるだけの権限も力もない。
問いただす間もなく、彼は無言の圧をまといながら前へと歩み出る。
そして冷たく言い放った。
「私の許可があるまで、誰一人この中へ入れるな。」
「はい、了解しました。」
このベースキャンプでは、マン・カルプは実質的に二番手の権力者だった。
皇子であるカマンでさえ、この場では彼より下の立場に置かれている。
兵士たちは小声でささやき合った。
「これ、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃなくてもどうしようもないだろ。俺たちに何ができる?」
「それもそうだな……。」
「念のため報告だけでも上げるか?」
「結局その報告もマン・カルプ准将に行くだけだろ?意味ないよ。」
「……確かに。」
「こういう時はな、余計なことはしないのが一番だ。」
マン・カルプはそのまま幕舎の中へと入っていった。
幕舎の内部は広く、奥にはイサベルの寝所が設けられていた。
寝所の区画までは、しばらく歩かなければならなかった。
すう……。
薄い幕が静かに揺れる。
マン・カルプ准将の右手には、赤い刃を持つ愛剣――“赤い月”が握られていた。
――殺せ。
どこからともなく、囁きが聞こえた。
その声に導かれるように、彼の足は止まらない。
一歩、また一歩と。
彼はイサベルの寝台へと近づいていく。
やがて視界の先に、布団から少しだけはみ出した小さな足が見えた。
「……そこか。」
マン・カルプはそのまま歩み寄り、
眠るイサベルの前に立つと――静かに、剣を振り上げた。
マン・カルプは、口の端を歪めて笑った。
「楽だな。」
殺すという行為が、これほど容易だとは。
だが――その動きは、次の瞬間ぴたりと止まった。
首筋に、冷たい刃の気配。
背後から、かすかな声が落ちる。
「口を閉じて。あの子が目を覚ましたら、頸動脈を裂く。」
いつの間にか、誰かが背後に回り込み、彼の首元に短剣を当てていた。
その気配は鋭く、そして静かに殺意を孕んでいる。
マン・カルプは眉をひそめた。
「……女か?」
この基地で、自分の気配を完全に欺き、背後を取れる人間など限られている。
だが――今、耳元で囁いたその声は、その“該当者”のものではなかった。
「お前は誰だ?」
「聞こえなかった?剣を捨てて、両手を上げなさい。」
背後を完全に取られたマン・カルプは、彼女の言葉に従い、ゆっくりと剣を手放した。
「ついて来い。」
彼女――キルエンは、そのままマン・カルプを連れて外へと歩き出す。
周囲の兵士たちが目を見開いた。
「じ、准将!」
「准将殿!」
だが、キルエンは一切振り向かず、冷たく言い放つ。
「あなたたちも黙りなさい。」
イサベルとの距離は、すでに十分に離れている。
そしてキルエンは、抑えていた気配を解き放った。
その圧は、戦場を知る者でなければ到底放てないもの。
同じ軍人である兵士たちでさえ、本能的な恐怖に身を強張らせた。
それでも、一人の兵士が意を決して口を開いた。
「い、いったい何をなさっているのですか?その方がどなたかご存じで――」
「未遂の殺人犯よ。」
キルエンは、簡潔に言い切った。
「この男は皇族に手をかけようとした。現行犯で拘束する。皇城まで連行するわ。」
「は……?」
「はぁ?」
場に動揺が走る。
だが、マン・カルプは意外なほど落ち着いていた。
「誤解だな。」
「誤解、ですか?」
「そうだ。私に皇女殿下を害する理由などあるはずがない。」
そのあまりの平静さに、兵士たちは一瞬たじろぐ。
「た、確かに……誤解かもしれません。」
「准将がそんな無茶をするとは……」
疑念はある。
だが、目の前にいるのは絶対的な上官だ。
彼らの心は、徐々に揺らぎ始めていた。
「とりあえず、ということですか?」
周囲がざわついた。
気づけば、兵士や騎士たちが次々と集まり始めている。
彼らの目には、マン・カルプよりもキルエンの方がよほど異様に映っていた。
この基地で、実質ナンバー2の人物の喉元に剣を突きつけているのだから当然だ。
「まずはその剣を下ろして話を――」
「現行犯で拘束したと言っている。」
マン・カルプは、ふっと息を吐きながら言った。
「……証拠は?」
「お前が幕舎の中に持ち込んだその剣だ。」
「その剣の名は“赤き月”。私の愛剣だ。皇女殿下が剣を学ぶと聞いて私の剣を贈るために、幕舎を訪れただけだ。」
「こんな夜更けに、しかも非公式で?」
「騒ぎを起こしたまま剣を渡せば、私の意図は“純粋な贈り物”ではなく、政治的な思惑として受け取られてしまうだろう。だから、誰にも知られずに皇女殿下へ渡したかっただけだ。」
キルエンは一瞬、言葉を失った。
本音を言えば、今すぐにでも喉元の短剣を振るってしまいたい。
だが、周囲にはあまりにも多くの目があった。
(私らしく、まず斬ってから考えるべきだったかもしれない……)
そんな後悔がよぎる。
結局、理性的に振る舞おうとしたことが、かえって状況をややこしくしている。
(人はやっぱり、本来の性分で動くべきね)
「ちょっと!今の、完全にアウトですよ。准将様を解放してください。」
「……ああ、失敗だったな。本来なら刺しておくべきだった。」
そのとき。
ざわめく人垣を割って、一人の男が前に出た。
帝国首席補佐官――皇帝直属の副官にして、実質的に次代の権力者。
ビアトンだった。
彼は穏やかな笑みを浮かべながら歩み寄る。
「やあ、マン・カルプ准将。」
「……おや、ビアトン卿。ちょうどいいところに来てくださった。誤解を解ける方が現れたようだ。」
マン・カルプは、ふと視線を横にやった。
その先には、顔を強張らせたキルエン。
その表情を見て、彼の気配がわずかに変わる。
「……上官に手を上げて追放された、あの“狂った女”が貴様か。そんな精神で、よくこの最前線に立てたものだな。」
「このままで、生きていけると思うのか?ビアトン卿、誤解を解いてください。」
キルエンは無表情のまま、ビアトンを見据えていた。
遠い昔――もはや記憶も曖昧なほど昔だが、彼女にとってビアトンは、友であり、そして恋人でもあった。
だからこそ、分かる。
あの男が浮かべる笑みの“本当の意味”が。
片方の口角だけをわずかに上げた、あの穏やかな笑み。
あれは――本気で怒っているときの顔だ。
「誤解?いいね、そういうの。」
ビアトンはゆっくりと歩み寄り、手を差し出した。
「キルエン卿。――その短剣を、こちらへ。」
「……断ったら?」
「嫌でも渡してもらう。」
ビアトンの目が、すっと細められた。
それはキルエンがよく知る、“本気の合図”だった。
「……」
一瞬の沈黙。
ビアトンは、ふっと小さく笑う。
キルエンは視線だけで問いかけた。
(――大丈夫なの?)
わずかに、ビアトンが頷く。
(心配するな。今は殺さない)
そんな意思が、確かに伝わってきた。
キルエンは短く息を吐き、ゆっくりと短剣を手放した。
ビアトンがそれを受け取る。
その瞬間、マン・カルプの表情がわずかに緩んだ。
「ははは!ようやく誤解が解けたようだな――」
その言葉は、最後まで続かなかった。
ビアトンが、何の前触れもなく短剣を振るったからだ。
キルエン以外で、その動きを捉えられた者はいなかった。
ビアトンの剣は、まるで幻のようだった。
冷徹で鋭い一閃が空間を切り裂き――次の瞬間、マン・カルプの上半身が音もなく滑り落ちた。
鮮血が、遅れて風に散る。
「な、何を――!」
騒然とする周囲をよそに、ビアトンはただ一人、静かに視線を落としていた。
その視線の先。
マン・カルプの肩口。
そこに刻まれていたのは、奇妙な紋様。
ビアトンはわずかに目を細め、口元だけで笑う。
「……おい。」
「まさか――俺に“仕込まれて”いたのか?」
低く、愉快そうな声。
「ビヘルムのクソ野郎が。」
マン・カルプは、もはや言葉も発せない。
その間にも、ビアトンは屍に刻まれた“解けた紋様”をじっと観察していた。
「外法の痕跡……やっぱりな。」
鼻につく違和感の正体に、ビアトンは確信を持った。
「マン・カルプ、お前……ビヘルムの細工に引っかかってたな。」
そう呟くと、彼はわずかに身をかがめ、死体の耳元へ口を寄せた。
「ビルヘルム。必ず見つけ出してやる。」
その言葉は、すでにこの場にいない“本体”へ向けられたものだった。
精神を介して繋がっている相手へ――はっきりとした宣戦布告。
マン・カルプの亡骸の背を、冷たい汗が伝う。
そのときだった。
「……あれ?何かあったの?」
間の抜けた声が、場の空気を一変させる。
振り返ると、寝ぼけた様子のイザベルが、片目をこすりながら幕舎から出てきていた。
ぬいぐるみのように人形を抱きしめたまま、眠そうな声で。
「お姉ちゃん?ビアトン様?」
――その瞬間だった。
異様な気配が走る。
マン・カルプの身体が、まるで影が剥がれ落ちるかのように、ずるりと歪んだ。
次の瞬間、黒い残像を引きながら一直線にイザベルへと突進する。
まるで、怨霊。
「皇女様!!」
キルエンの悲鳴が夜を裂いた。
反射的に駆け出すが――間に合わない。
影と化したマン・カルプの手が、イザベルへと伸びる――その直前。
地面が、光った。
イザベルの足元に、巨大な魔法陣が展開される。
圧倒的な魔力が、渦となって吹き上がった。
激しい風圧が巻き起こり、魔力で形作られた光が周囲を満たした。
イザベルの金色の髪が、魔力の嵐にあおられて大きく舞い上がる。
それはまさに、圧倒的な魔力の顕現だった。
魔法陣の中心から一本の巨大な剣が、すっと姿を現した。
それは、キルエンが彼女に贈った剣――『斬魔刀』。
「くっ!」
マン・カルプはとっさに後方へ跳び退いた。
ほんの一瞬遅れていれば、斬魔刀に貫かれていた。
だが――その一瞬で十分だった。
ビアトンが動く。
黒い煙のように歪んだマン・カルプの足首を、迷いなく斬り飛ばした。
しかし、血は流れない。
ただ、黒い霧がふわりと散るだけ。
苦痛の気配すらない。
――もはや、人ではない。
ビアトンは口元に笑みを浮かべながら言った。
「キルエン殿。皇女様を中へお連れしなさい」
大規模な魔法を使った反動か、イザベルはその場で気を失い、キルエンがすぐに抱き上げる。
彼女は一瞬だけ唇をきゅっと結び、小さく頷いた。
「……はい」
だがその場に残ったキルエンでさえ、背筋に冷たいものを感じていた。
――ビアトンの気配が、明らかに違う。
以前よりも、確実に強い。
(ビアトンがあんなに怒っているの、初めて見た……)
キルエンはイザベルを抱えたまま、足早に奥へと下がっていく。
「おとぎ話はここまでです」
その言葉とともに、イザベルの姿は完全に視界から消えた。
そして残されたのは、二人。
ビアトンと、“人ではなくなった”マン・カルプ。
「ここからは――大人の時間だ」
マン・カルプ准将は拘束され、そのまま皇宮へと送られた。
公式な発表は一切なかったが、基地内では「とんでもないことが起きたらしい」という噂だけが静かに広がっていく。
しかし、その詳細を口にする者はいない。
――いや、できなかった。
あまりにも異様で、あまりにも不気味だったからだ。
昨夜の出来事は、まるで“触れてはいけない禁忌”のように扱われ、誰もが口を閉ざした。
兵士も、騎士も、例外なく。
まるで――全員が同じ暗黙の了解に縛られているかのように。
そしてもう一つ。
誰一人として、ビアトンとまともに目を合わせようとはしなかった。
「しゅ、忠誠!」
「私は直属の上官ではありません。そこまで形式張らなくて結構ですよ」
「あ、いえっ!」
なぜか、兵士たちの態度は以前よりもさらにぎこちなくなっていた。
空気が張り詰めている。
勇敢なはずの兵たちの瞳にも、はっきりとした恐怖が宿っていた。
「みなさん、あなたのことを怖がっているみたいですね」
「皇帝陛下の側近ですからね。権力とは、そういうものです」
「……本当に、それだけですか?」
「おっと、いけない。少し本館へ戻らなければ」
どこか話題を逸らすようなビアトンの様子に違和感はあったが、イザベルは深く追及しなかった。
「本館へですか?」
「ええ。母に少しご相談したいことがありまして」
気づけば、イザベルは無意識にビアトンの袖をそっと掴んでいた。
まるで――離さないで、とでも言うように。
ビアトンの目には、それが子猫のように見えた。
そして、その瞬間。
――ドクン。
彼の心臓が大きく跳ねる。
あまりの衝撃に、思わず魔力で文字を浮かべてしまうほどだった。
【心臓:爆発寸前】
だが次の瞬間、理性がそれを押し潰した。
【それは私の言葉だ】
【著作権侵害を主張する】
ビアトンは、頭の中で騒ぐその声をあっさり無視した。
「本当は私も皇女様のそばを離れたくはありませんが……ここにはキルエン殿がいますからね。彼女に任せることにします」
昨夜の一件で、ベースキャンプの警備は大幅に強化されていた。
とはいえ、当面は大きな問題は起こらないだろう。
ビアトンの思考は、自然とイザベルの魔法へと向かう。
――あれは間違いなく、高位戦闘魔法。
中でも、上級魔法師が扱う“武具召喚”に極めて近い現象だった。
(記憶が曖昧になる前に、母上に確認しておくべきだな)
そう結論づけると、ビアトンは静かに歩き出した。
ビアトンは片膝をつき、イザベルの手の甲にそっと口づけた。
「ジルデル国王にお目通りするまでは、必ず戻ってまいります。どうか、少しだけお待ちください」