こんにちは、ちゃむです。
「余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
49話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 水底に沈んだ誓約
「……」
カーディエンはただ黙って、差し出された少女の背中をじっと見つめていた。
もどかしさに焦れたのは、見守る私のほうだった。
『この人は、本当に幼い頃から意地っ張りなんだから……!』
「どうして? 私じゃ頼りない? 大丈夫だよ、私、すごく力持ちなんだから! この前だってお父さんと腕相撲して勝ったんだよ?」
「……」
「心配しないで。どんなに重くても、あなたを置いていったりしないから」
その言葉が、凍てついた彼の心を動かしたのだろうか。
しばらく躊躇するように少女の背中を見つめていたカーディエンは、ふらつきながらもようやく身を起こした。そして、誘われるように少女の背中へと倒れ込む。
「うっ……」
いかに痩せ細った子供とはいえ、まだ幼い少女の細い背中には重すぎる質量だった。少女の膝が大きく揺らぐ。しかし、彼女は両足にぐっと力を込めて石畳を踏みしめると、なんとか体勢を整えて立ち上がった。
「君……すごく軽いね」
「……」
おんぶされたカーディエンは、やはり何も答えなかった。
少女はそのまま、小さな歩みを前に進め始める。少しずつ遠ざかっていく二人の背中をぼんやりと見送っていた私は、ハッとして慌ててその後に続いた。
薄暗い路地を歩む間も、少女は小鳥のさえずりのように絶えず背中の少年に話しかけていた。
「ねえ、君、名前はなんていうの? 私は……だよ」
「……」
「家族は? みんなどこにいるの?」
「……」
「どうしてそんなに怪我をしてるの? 誰かに意地悪されたの?」
「……」
「でも、もう大丈夫。お父さんを見つければ、大人たちが助けてくれるから。実はね、私、お父さんと一緒にここへ来たの。だから絶対に大丈夫だよ!」
カーディエンは頑なに沈黙を守り続けていたが、少女は気にする風もなく、楽しそうに独り言を紡ぎ続けた。
やがて、果てしなく続くかと思われた長い路地を抜けたとき、少女はふと足を止めた。きょろきょろと辺りを見回し、ぽつりと呟く。
「……あれ?」
『どうしたの? 何かあった?』
不安に駆られた私が少女のすぐ傍まで近寄ると、彼女は首をかしげ、呆然とした声を漏らした。
「ここ……どこだろう?」
「……」
背中のカーディエンも、そして追ってきた私も、同時に言葉を失った。
「えっ、こっちの道じゃなかったっけ?」
慌てた少女は、別の細い路地へと迷い込んでいく。それはまるで出口のない迷宮を彷徨うようだった。衰弱したカーディエンを背負ったまま、彼女はあちこちの路地を歩き回り、そのたびに「ここじゃないのかな……」と呟いては、トボトボと元来た道を引き返した。
当然だ。彼女自身も、この不案内な貧民街で完全に迷子になってしまったのだから。
「あっ、冷たい!」
街灯の鈍い光の中、ひらりと白いひとひらが舞い落ち、少女の鼻先をかすめた。驚いて顔を上げた少女の頬が、薔薇色に染まる。
「わあ、雪だ! ほら、初雪だよ!」
少女の弾んだ声に促されるように、カーディエンがゆっくりと顔を上げた。その深い紫色の瞳には、うっすらと涙がにじんでいる。
少女の無邪気さとは裏腹に、私の焦燥感は募る一方だった。
『このままじゃ、どんどん気温が下がってしまう……!』
このまま外にいては、二人とも凍え死んでしまう。
私は焦りから子供たちをその場に残し、一足先に周囲を駆け出した。
『貧民街なら、空き家の一つや二つはあるはず……!』
入り組んだ路地をしらみつぶしに探し回った末、ようやく風雨をしのげそうな、古びた無人のあばら家を見つけた。
『よし、ここなら朝まで持ちこたえられる!』
その場所を頭に叩き込み、私はすぐさま子供たちのもとへと引き返した。どこかへ移動してしまっていないか心配だったが、幸いにも二人は疲労困憊した様子で、元の場所にとどまっていた。
――だが、その光景を目にした瞬間、私は不意に足を止めた。
雪の降る寒空の下、少女はカーディエンをこぼれ落ちそうなくらいぎゅっと抱きしめていた。自分が着ていたはずのコートを脱ぎ、カーディエンの身体に半分分け合うようにして掛けている。
「お父さんが言ってたの。寒いときはね、体温を分け合えば暖かくなるんだって」
「……」
「だから心配しないで。すぐに暖かくなるからね」
カーディエンは、まるで物言わぬ亡骸のように青白い顔をしたまま、少女の腕の中に静かに身を委ねていた。
その痛々しい姿に、私はぎゅっと唇を噛み締めた。
『私が、余計なことをしてしまったの……?』
私があの少女をカーディエンのもとへ導いたせいで、関係のない無辜の子供まで、凍死の危機という苦境に巻き込んでしまったのではないか。
鋭い後悔が胸を刺したが、私は必死に頭を振ってその雑念を追い払った。今は悔やんでいる時間などない。私は少女に駆け寄り、声を張り上げた。
「寒さをしのげる場所を見つけたよ! 風を遮る家があるの!」
「えっ……また、あの不思議な声……」
「お願い、私についてきて!」
もし今、彼女に私の声が届かなくなっていたらどうしようと、心臓が爆発しそうだった。だが、それは取り越し苦労に終わった。
「うん……!」
少女は力強く頷くと、「よいしょ」と気合を入れ、再びカーディエンを背中に背負い直した。
「どこへ行けばいいの?」
「こっちだよ、ついてきて!」
一歩、また一歩。
少女は暗闇の中で大きな瞳をぱちぱちと瞬かせ、私の「声」だけを道標にして、懸命についてくる。
ふと、胸の奥に純粋な疑問が去来した。
『この子は、どうして私の声が聞こえるんだろう?』
それに、正体不明の声である私を、どうしてこれほど無条件に信じてついてこられるのだろう。何よりも――
『この少女は、一体誰なの?』
どれほど目を凝らしても、精神世界のモザイクがかかったように、少女の顔立ちや輪郭だけはぼやけて見えなかった。
これまでにない不可解な現象に、私の頭は疑問符で埋め尽くされていく。
そうして思考を巡らせているうちに、先ほど見つけたあばら家が前方に見えてきた。
「あっ!」
少女もその存在に気づいたようで、力を振り絞って足早に駆け寄る。みすぼらしい佇まいではあったが、小さな子供二人が身を寄せるには十分な空間だった。
「失礼します……」
律儀に小さな声で断りを入れてから、少女は家の中へと足を踏み入れた。
「わあ……」
外の凍てつく風が遮られた室内は、想像以上に暖かかった。さらに幸運なことに、部屋の隅には誰かが残していったらしい、古びた厚手の毛布が落ちていた。
『これなら、無事に朝を迎えられる』
安堵の溜め息をついた少女は、カーディエンをそっと床に横たわらせた。そして自らもその隣にぴったりと寄り添い、一枚の毛布を二人で分け合うようにして被る。
「今ごろ、きっとお父さんが私を探してくれているはず。だから、心配しなくても大丈夫だよ」
そのときだった。
堅く結ばれていたカーディエンの唇が、かすかに震えながら動いた。
「……お前、バカなのか?」
「え?」
「……本当のバカだ」
「ええっ!?」
あまりにも容赦のない幼いカーディエンの毒舌に、少女は大きなショックを受けたように目を見開いた。
傍観していた私も一瞬呆気にとられたが、
『子供の頃から、カーディエンはやっぱりカーディエンだったのね』
と、どこかおかしさを感じて妙に納得してしまった。
だが、彼のひねくれた性格を知る由もない少女は、むっとして声を荒らげた。
「私、バカじゃないもん!」
「いや、バカだ」
「違うってば! 私、アカデミーの入学試験だって満点だったんだから! お父さんも、首席合格だってすごく褒めてくれたもん!」
頬を風船のように膨らませて必死に抗議する少女。対するカーディエンは、声が小さすぎて私には聞き取れないほどの声量で、冷淡に問いかけた。
「どうして私を助けたの?」
「……あなたが馬鹿みたいなことをして、私まで巻き添えで死ぬところだったじゃない」
「え?」
「もし私があなたの立場だったら……絶対に助けたりしない」
幼いカーディエンの瞳には、その年齢には到底不釣り合いな、冷え切った諦念が宿っていた。
少女は呆れたように彼を見つめたが、彼は一向に気に留める様子もなく、弱々しく冷徹な言葉を並べ立てる。
「私みたいなやつを助けたって、あなたには何のメリットもない。感謝なんかされないし、お返しできるものだって何一つない。むしろ、厄介なことに巻き込まれるだけだ」
「……」
「あなたも後悔しているはずだ、私を助けたことを。そんな無意味な後悔をするなんて、やっぱりあなたはバカだよ」
どうしてこれほどまでに自分を卑下し、他人を突き放すような物言いができてしまうのだろう。
だが、尖った刃物のように鋭い言葉を吐く彼自身、本当はあまりに幼く、小さく、傷だらけだった。このような冷徹な思考を身につけるまでに、どれほど残酷な現実を生き抜いてきたのだろう。そう思うと、胸が千切れるように痛んだ。
「ねえ……」
じっとカーディエンを見つめていた少女は、やがてぎゅっと唇を噛み締め、怒りを滲ませて言い放った。
「君、すっごく性格悪いね」
「……」
カーディエンは凍てつくような冷たい一瞥をくれたが、少女は一歩も引かなかった。
「たとえ、時間を巻き戻して過去に戻れたとしても、私はまた絶対にあなたを助けるよ!」
「嘘だ」
「嘘じゃない! 私、そんな嘘つかないもん!」
少女はカーディエンの顔の前に、ぐっと自分の顔を近づけた。
「私はね、何度やり直したって、絶対にあなたを助ける」
「……本当に?」
「本当だよ! 信じられないなら、約束しよっか?」
「約束……?」
カーディエンが怪訝な表情を浮かべると、少女は目の前に小さな小指を突き出してみせた。
「約束っていうのはね、こうやって小指と小指を絡めて誓うことだよ。『絶対に守ります』って」
「……」
「約束はね、絶対に破っちゃいけないんだから」
「破ったらどうなる?」
「女神様に罰を当てられるの!」
「罰……?」
「そう。だから、約束は絶対に守らなきゃダメなの」
「……」
カーディエンはきゅっと唇を結び、目の前に差し出された白く小さな指先を、穴が開くほどじっと見つめた。
「私は何があっても、またあなたを助ける。約束するよ」
「……」
「だから、私を嘘つきって言ってバカにしたことを、ちゃんと謝って!」
「……嘘つきとは言ってない」
「言ったよ! さっき嘘だって言ったもん!」
「……」
ぐうの音も出なくなったカーディエンが黙り込むと、少女は指先をさらに近づけて、いたずらっぽく囁いた。
「謝ってくれたら、私もちゃんと約束を果たすから」
しばしの沈黙の後、悔しそうに唇を噛み締めていたカーディエンは、やがて小さくうつむき、消え入りそうな蚊の鳴くような声で呟いた。
「……だめ……」
「え? なんて?」
「……ごめん。嘘つきって言ったのも、バカって言ったのも……ごめん」
「ふーん?」
素直に謝罪を口にしたカーディエンの姿に、少女は腕を組み、わざとらしく目を細めて思案する素振りを見せた。
カーディエンは耳まで真っ赤にしてぷいっと顔を背ける。
その初々しい反応に、少女はひまわりが咲いたようににっこりと微笑んだ。
「よし! ちゃんと謝ってくれたから、私も約束してあげる!」
そう言うと、彼女はもう一度、誇らしげに小指を差し出した。
カーディエンはその指をただ見つめて躊躇っていたが、少女は待ちきれないとばかりに、彼の小さな手をがしっと掴んだ。
「……っ!?」
カーディエンは驚愕して手を振りほどこうともがいたが、体力を失い、衰弱しきった身体では、少女の拘束から逃れることなど到底できなかった。
「こうやって、小指を結んで約束するの」
「……」
互いの小指が絡み合うと、抵抗をやめたカーディエンは、諦めたように自らの指先をじっと見つめた。
「私は、……が何があっても……あ。そういえば、君の名前は?」
「……そんなもの、ない」
「名前がないの?」
コクン、と小さく頷くカーディエンの顔が、今度は恥ずかしさで真っ赤に染まった。
『カーディエンなのに……』
私は彼の名前を代わりに教えてあげたかったが、この美しい約束の瞬間を汚してはいけないような気がして、言葉を必死に飲み込んだ。
しばらくうつむいて考え込んでいた少女が、ポンと手を叩くように口を開いた。
「じゃあ、これならどう?」
怪訝そうに顔を上げたカーディエンに対し、少女はにっこりと微笑んで言った。
「……」
少女は確かに何かを口にした。しかし、その声はまるで深い水底に沈んでしまったかのようにくぐもり、私の耳にはどうしても聞き取ることができなかった。
「どう? 気に入った?」
少女の問いかけに、カーディエンは恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに小さく頷いた。
「よかった! じゃあ私は、これから先、どんなことがあっても……あなたを助けるって誓います。これで信じてくれる?」
「……」
カーディエンは言葉を返す代わりに、小さく頭を横に振った。
くすくすと嬉しそうに笑った少女は、そのまま自然な動作で、カーディエンの細い肩に自身の頭をこてんと預けた。
「眠くなっちゃった……」
「……寝ればいい」
「あなたも寝なよ。朝になるまでは、まだ時間がかかるから」
「……」
「朝になればね、お父さんが私を迎えに来てくれるの。その時にお父さんにお願いして、あなたも一緒に連れていってもらうから。私のお父さん、とっても優しいんだよ」
「……君の父親は、きっと私を軽蔑する」
「そんなことないよ! 本当に、本当に優しいんだから。お父さんが言ってたもん、弱い人は助けなきゃいけないって。あなたは小さくて弱いから、きっと助けてくれる。だから、私と……」
最後まで言葉を紡ぎ終える前に、少女はすやすやと深い眠りに落ちてしまった。
カーディエンは隣で無防備に眠る少女をしばらく見つめていたが、やがて、その小さな頭に自分の頭をそっと預けるようにして、静かに目を閉じた。
二つの小さな寝息が、廃屋の中に静かに響き、重なり合う。
私はその温かな光景を、言葉もなくただ立ち尽くして見つめていた。
心の奥がじんわりと温かくなるような、そんな美しい一幕。
――それなのに、なぜだろう。
私の胸を、得体の知れない嫌な予感が容赦なく蝕んでいく。
『カーディエンに、本当にこんな過去があったというの?』
いや、そもそも何かがおかしい。
この夢の中で、少女をカーディエンのもとへ導いたのは、他でもない「私」だ。私が介入しなければ、この約束は存在しなかったはずだ。
『おかしい。今までの夢と、決定的に何かが違っている……!』
そう気づいた瞬間、周囲の世界がガラスのようにひび割れ、崩壊し始めた。
私は恐怖に駆られ、ぎゅっと目を閉じた。
『夢が終わるの……!?』
しかし、次に目を開けたとき、私は依然としてあの粗末なあばら家の中に立っていた。
変化していたのは、ただ一つ。一瞬にして夜が明け、薄暗い朝日が窓の隙間から差し込んでいたこと。
そして、一気に「半年」もの歳月が経過しているということだった。
こんな奇妙な夢の飛び方は、初めての経験だった。
私は昇りゆく朝日を呆然と見つめた後、ハッとして勢いよく振り返った。
年月が経った今なら、もしかしたら少女の顔がはっきりと見えるかもしれない。
だが――
『見えない……』
カーディエンの姿は衣服も含めて成長しているのがはっきりと分かるのに、隣にいる少女の姿だけは、相変わらず霧がかかったようにぼやけ、暗く沈んだままだった。
なぜ? どうして彼女だけが拒絶されているの?
その疑問を打ち破るように、突然、乱暴な物音が響いた。
「見つけました!!」
緊迫した、切羽詰まった大人の叫び声とともに、一人の立派な体躯の男性が小屋へと飛び込んできた。
男は眠る二人を一瞥するや否や、少女だけを乱暴に抱き上げ、そのまま踵を返して立ち去ろうとする。
その拍子に、少女の肩に頭を預けていたカーディエンの身体が、力なく床へと転がった。
「ちょっと待って! まだそこに、もう一人子供がいるじゃない!」
私は思わず男に向かって叫んだ。しかし、毛布にくるまったまま倒れているカーディエンを一瞬だけ冷酷に見下ろした男は、何一つ気にする様子もなく、そのまま冷たく背を向けて出ていってしまった。
「待って!」
私は必死に男の後を追いかけた。しかし――
ゴンッ。
「うっ……!?」
ある一定の境界線に達した瞬間、目の前に透明な強固な壁が現れたかのように、私はそれ以上前へ進めなくなってしまった。
私は壁を叩きながら、遠ざかる男と人だかりを見つめるしかなかった。
保護者らしきその男は、取り戻した少女をきつく抱き締め、狂ったように涙を流している。腕の中の少女は、ぐったりと力なく垂れ下がったまま、指先一つ動かさない。
『どうして……?』
集まってきた群衆に遮られ、やがて男たちの姿は見えなくなった。
胸が引き裂かれるように苦しい。
『どうして、こんなに……涙が溢れてくるの……?』
他人の記憶を見ているだけのはずなのに、どうしてこれほどまでに絶望的な悲しみが込み上げてくるのだろう。いかに自分が感受性豊かであっても、これは異常だ。
やはり、この夢は何かが致命的に狂っている。
『これまで、夢の障壁が私の行く手を遮ったことなんて一度もなかったのに……』
私は、少女を連れ去った保護者の後ろ姿をいつまでも睨みつけた後、諦めて踵を返した。
この夢の真の主人は、あくまでカーディエンだ。彼のもとへ戻らなければならない。
『それにしても、この夢は一体いつ終わるの……?』
通常であれば、この断絶のタイミングで現実世界へと意識が引き戻されるはずだ。それなのに、どれだけ待っても、強制的に覚醒する気配は微塵もなかった。
『だから……カーディエンも目覚めることができないのね』
重苦しい思考を引きずりながら、私はカーディエンを残してきたあばら家へと戻った。
だが――
「……いない?」
部屋の中は空っぽで、そこにカーディエンの姿はなかった。
『あの衰弱しきった身体で、一体どこへ消えたの?』
まさか、自分を置いて去っていったあの少女を追いかけて行ってしまったのだろうか。
考えている暇はなかった。何としても彼を見つけ出さなければならない。
私は理性を失いそうになりながら、霧の立ち込める貧民街をがむしゃらに駆け回った。
「カーディエン!!」
どれだけ喉が枯れるほど名前を呼んでも、冷たい風が吹き抜けるだけで、返声はない。当然だ、夢の中の彼に今の私の声は届かない。
『一体どこに行ってしまったの……!?』
焦燥感に苛まれ、爪を噛み締めていたその時だった。
ふと、入り組んだ路地の奥で、小さな人影が揺れたような気がした。
『カーディエン……!?』
私は一縷の望みをかけてその影を追い、さらに深く、薄暗い路地の奥へと足を踏み入れた。
コツ、コツ。
不気味な静寂が支配する路地を抜けた先は、まるで世界の果てのような、荒廃した瓦礫の山だった。
その廃墟の中心、冷たい泥の上に崩れ落ちるようにして座り込んでいるカーディエンの背中を見つけた。
「カーディ……!」
駆け寄ろうと一歩を踏み出した、その瞬間。
私は、その場にいるのが彼一人ではないことに気づき、息を呑んで足を止めた。
暗闇の吹き溜まりから、現実のものとは思えないほど、不自然に真っ白で美しい手が、カーディエンに向かってそっと差し伸べられていた。
「私があなたを助ける。約束したでしょう?」
耳を疑うほど、澄んだ、優しい少女の声だった。
――約束?
『あの時の、あの子なの……?』
――違う。
その姿を視認することはできなかったが、私の魂が、直感が「違う」と激しく拒絶した。
あれは、あの夜、カーディエンの傍らで体温を分け合ってくれたあの無邪気な少女ではない。
それなのに、その声だけは、あの子の響きを完璧に模倣して紡がれていた。
「私の手を取って。私が、あなたを救ってあげるから」
優しく甘く、魂をからめ取るような誘惑の響きが、廃墟に満ちていく。
『……だめ。そいつの手を取っちゃだめ……!!』
本能的な恐怖が私を支配した。あの真っ白な手を取ってしまえば、二度と戻れなくなる。
しかし、私の心の叫びは届かない。
「約束……。そうだ、私たちは約束したんだ……」
カーディエンが、虚ろな瞳を持ち上げた。
そして、目の前に差し出された、白く痩せ細った不気味な手を――自ら進んで、しっかりと握りしめてしまった。
その瞬間、暗闇の奥から、歪んだ嘲笑の響きが世界を震わせた。
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おんぶの約束と偽らざる信頼
頑なに拒んでいたカーディエンが少女の「置いていかない」という言葉を信じておんぶを受け入れ、迷子になりながらも寄り添い合ってあばら家で一夜を共にしたこと。
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名前の代わりの言葉と、いつかの約束
名前のないカーディエンに少女が「水に沈んだような声(聞き取れない言葉)」を贈り、たとえ何度やり直したとしても絶対に彼を助けると小指を絡めて固く誓い合ったこと。
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ゆがめられた約束と偽りの手
少女と引き離されて半年後の夢で、カーディエンが少女に擬態した「暗闇からの白い手」を本物の約束と信じ込んで握ってしまい、不穏な笑い声が響いたこと。