悪役なのに愛されすぎています

悪役なのに愛されすぎています【149話】ネタバレ




 

こんにちは、ちゃむです。

「悪役なのに愛されすぎています」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【悪役なのに愛されすぎています】まとめ こんにちは、ちゃむです。 「悪役なのに愛されすぎています」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介...

 




 

149話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 臆病者の言い訳

翌日、王都の空は一面どんよりとした黒雲に覆われていた。今にも雪へと変わりそうな重たい湿気が肌にまとわりつき、冷え込みはいっそう鋭さを増している。

この鬱々とした天候の中、エヴァンはひどく疲弊した顔のまま皇宮へと向かっていた。頭の中を占めるのは、あの日泣き崩れたロレッタの姿ばかり。

「魔法使いエヴァン。そこまで嫌なら、詳細な研究資料まで無理に共有しなくても構わないが」

不意に声をかけられ、エヴァンは驚いて思わず身を引いた。

「え、えっ!?」

目の前に座っていたのは、同僚の魔法使いミゲルだった。

「驚いたな。魔力石に関する研究の話だよ。上の空だったろう」

「あ、そ……そういうことではありませんでした。失礼しました……!」

エヴァンは顔を赤らめたまま、慌てて頭を下げた。

皇室との研究情報の共有会は「国家を代表する頭脳たちの発展のため」という美しい名目で開かれる場だったが、実際のところ、その裏では互いへの牽制や腹の探り合いがかなり強かった。彼らは皆、できる限り当たり障りのない情報だけを出し合い、肝心の高度な知識は自国や組織に持ち帰ろうとしていたのだ。

エヴァンは乱れた呼吸を整え、生真面目に向き直った。

「魔力石に関する研究は、可能であれば完全に共有したいと思っています。魔法使いミゲルの『感情研究』がそうであるように、これもまた、非魔法使いがどう反応するのかを知ることが極めて重要ですから」

「まあ……君がそこまで言うなら、共有すべきだろうね」

やがて馬車は皇宮の会議室近く、静かな湖畔の庭園へと到着した。エヴァンとミゲルは、他の魔法使いたちとともに馬車を降りた。

「おや、こんな偶然があるなんて」

馬車から降りたミゲルが、ぱっと表情を明るくして、近くの回廊へと駆け寄っていく。

「魔法使いミゲル?」

少し戸惑いを帯びた、けれど聞き覚えのある女性の声に、エヴァンは心臓が跳ね上がるのを感じて振り返った。

ミゲルが足を止めたその先には――ロレッタが立っていた。

侍女を一人も連れていないところを見るに、今回も兄である公爵とともに参内したついでに、一人で庭園を散策していたのだろう。彼女は、弾むような足取りでミゲルの前へと歩み寄った。

「魔法使いミゲル、お会いしたかったです。お元気でしたか?」

ロレッタは幼いころ、親しみを込めて彼を「おじさん」と呼んでいた。だが、以前ジェレミアに「高位の魔法使いに対して無礼だ」と叱られて以来、彼に対する呼び方や態度はきちんと改めていたのだ。

ミゲルはそれに応じるように、丁寧な口調からいつもの砕けた話し方へと戻した。

「やれやれ、またその余所余所しい言い方かい」

「仕方ないじゃないですか。お兄さまが、ミゲルには敬意と礼儀をもって接しろって厳しく言ったんですもの」

「貴族っていうのは、年を取るほどつまらない人間に育つものなのかね?」

「ふふ、それでも私は、ミゲルのことが変わらず好きですよ。自分が少しつまらない人間に近づいたという点は否定できませんけどね」

ミゲルはくすくす笑いながら、娘のように愛らしいロレッタの頭を、軽く叩くようにして優しく撫でた。

「今日もまた散歩かい?」

「いいえ、今日は約束があるんです。神殿の近くで」

ロレッタは人差し指を唇に当て、「お兄さまには内緒にしてくださいね?」と小さな声で付け加えた。

「なるほど。だが、あまり私と話している暇もなさそうだな。ほら、君の護衛役(・ ・ ・ ・)も本当に忙しそうだ」

「忙しい、ですか?」

ロレッタは不思議そうに顔を上げ、ミゲルと一緒に馬車から降りてきた魔法使いたちの様子を確かめた。魔塔に頻繁に出入りしている、見慣れた顔ぶれだった。

しかし――その中に、まさに、彼の姿があった。

「……エヴァン……」

ロレッタが小さくその名を呟いた、その瞬間。

魔法使いミゲルは、エヴァンに向かって大きく手を振り、「こっちへ来い」と合図を送った。

(お、おい……魔法使いミゲル、なんてことを……)

エヴァンは全身に強烈な緊張を張り付かせたまま、ぎこちない足取りで二人のもとへと近づいた。アウグストの結婚式の日以来、ロレッタと顔を合わせるのは、これが初めてだった。

「あ……あの……こんにちは、お嬢様……」

声がわずかに上ずり、彼は言葉を噛みながら、ようやくまともな挨拶を口にする。

「うん、こんにちは。エヴァン」

返ってきた声は、拍子抜けするほど柔らかく、穏やかなものだった。

もしかしたら、酷く拒絶されるか、よそよそしく冷たい目を向けられるのではないかと覚悟していた分、そのあまりにも軽やかな応答に、エヴァンの胸はじんわりと熱くなった。嫌われてはいなかったという嬉しさと安堵が一気に込み上げ、思わず目頭が熱くなる。

「魔法使いエヴァン。私の古い古傷の疼き方を見るに、もうすぐそこまで雨が来ているな。ちょうどよく君という護衛役もいることだし、君が彼女に傘を差してあげなさい」

そう言って、ミゲルはすべてを察しているような、意味ありげな笑みを浮かべた。

「話しておいたほうがよさそうだな。あの日の神殿のことまで含めて、ね」

「わ、私ですか!?」

焦るエヴァンを置いて、ミゲルは「じゃあ、年寄りの私は一足先に会議室へ行くとしよう!」と大声を上げて笑った。

「やれやれ」と芝居がかって腰をさすりながら、彼はほかの魔法使いたちのいるほうへゆっくりと歩いていってしまった。

突然、冷たい空気の中でロレッタと二人きりになり、緊張したエヴァンは、しばらくのあいだ自分の両手をぎゅっと握りしめて沈黙した。

「えっと……では、急いで馬車から傘を取ってきますね」

「ううん、大丈夫。取ってこなくていいよ」

ひんやりとした冬の手触りと、戻ってきた季節の気配に、エヴァンは慌てて首を横に振った。

「ですが、魔法使いミゲルの雨予報は、かなり正確ですから、お嬢様」

「それは知ってるわ」

「少しお待ちいただければ、すぐに馬車から傘を――」

「心配しなくていいよ、エヴァン。あなたは会議に行ってくるだけみたいだし、私のことは気にしないで」

どこか突き放すような、けれど含みのある言い方に、エヴァンは一瞬、その場に立ち尽くしたまま、何ひとつ言葉を返せなかった。

特にそれ以上伝えるべきこともなかったのか、ロレッタは「それじゃ、行くね」とだけ寂しげに告げ、回廊の向こう、庭園の奥へと姿を消していった。

ちょうどそのとき、空を覆っていた重たい黒雲から、冷たい雨粒がぽつり、ぽつりと落ち始める。

エヴァンは、今度は迷うことなく、ロレッタの背を追って走り出した。

幼い頃、彼女がふと寂しそうに漏らしていた言葉が、胸の奥に鮮烈に蘇ったからだ。

『実はね、私、雨が好きじゃないの。お母さまと永遠にお別れしたあの日、世界が壊れるような、痛いほどの雨が降っていて……』

その話をしていたときのロレッタの瞳には、かすかな涙が滲んでいた。だからこそ、エヴァンは彼女をひとりで雨にさらすわけにはいかなかったのだ。

(お嬢様を、ひとりで雨に打たせるわけにはいかない……!)

そう心の中で激しく呟きながら、彼は前を行くロレッタに向かって必死に手を伸ばす。

しかし、その指先が届く寸前――

がっしりとした体格の男性が、すっと影のように前に出て、エヴァンの行く手を完全に遮った。

驚いたエヴァンは、思わず顔を上げる。

「……メルン卿」

低く、落ち着いた声が雨音に紛れて響いた。

「こんにちは、魔法使いエヴァン」

騎士イサヤは、彼特有の柔らかな、けれど一切の隙のない笑みを浮かべながら、大きな傘をさっと広げた。おそらく彼は最初から、傷ついたロレッタを陰から支えるために、静かに後ろについてきていたのだろう。

ほどなく、彼の持つ大きな傘が、ロレッタの頭上をやさしく、完全に覆った。

ぽつ。

その傘の上に、空から落ちてきた最初の本格的な雨粒が軽く跳ねた。

「あ……」

エヴァンはそこでようやく、ロレッタが言った「心配しなくていいよ」という言葉の本当の意味に気づいた。

それは単に、彼の気遣いを遠慮して断るための言葉ではなかったのだ。彼女の隣には、もう、彼女を濡らさないための守り手がいる。

「……」

彼は、ロレッタがひとりで雨に打たれるのではないかと、自分がヒーローにでもなったかのように心配していた自分自身が、急に恥ずかしくなった。

(僕は……また、思い上がった勘違いをしていたんだ)

『だから応接室へ行く代わりに、手を取って――』

『ねえ、それ……してくれるよね? エヴァン』

『もし、私と……踊ってくれない?』

『私が……そう願ったら、いけない?』

これまでエヴァンは、自分が彼女との関係において、拒絶するか受け入れるかを「選ぶ側」なのだと、愚かにもどこかで思い込んでいた。だが、それはただの傲慢にすぎなかった。

選択の権利を許していたのは、最初から最後までロレッタの無償の優しさだったのだ。彼女が「いいよ」と隣にいることを許してくれていたからこそ、エヴァンはそばにいられただけなのだ。

もし、その絶対的な優しさが完全に失われてしまったなら――自分は、ただの何者でもない魔法使いにすぎない。

「……お嬢様……」

もう、声をかけることさえできない距離まで離れてしまったロレッタの背中を、エヴァンはただ黙って見つめることしかできなかった。

いつの間にか、皇帝の侍従たちが彼女を守るように周囲を固めている。

ぽつり、ぽつりと落ちていた雨粒は、いつの間にか勢いを増し、身体に痛みを覚えるほどの激しい冬の豪雨へと変わっていた。

その激しい雨の向こうで、ロレッタがふと足を止め、振り返った。

一瞬だけ、二人の視線が重なる。

「……!」

驚きに大きく見開かれた、彼女の深い蒼色の瞳。その切ない表情が、激しい雨に滲んで、エヴァンの胸の最も深い場所に焼きついた。

「……まだ、いたのね」

雨音の隙間から、そんな彼女の声が聞こえた気がした。どうやらエヴァンが、まだ諦め悪くここに立ち尽くしているとは思っていなかったらしい。

しかし、それもほんの一瞬のことだった。すぐにロレッタの背後へ回り込んだ若き皇帝が、二人の視線の間に完全に割って入り、彼女の視界からエヴァンを消し去った。

『君が空けた席を、私が占める可能性があるかどうか、だ』

あの日、応接室の廊下で皇帝が告げた「空けた席」という言葉は、少しも間違っていなかった。エヴァンはその残酷な事実を、冷たい雨に打たれながら、ようやく身を以て実感したのだった。

・・・

言うまでもなく、その後の会議にエヴァンはまったく集中できなかった。皇室の高名な研究員たちが彼にいくつか重要な質問を投げかけたが、彼は上の空で全く噛み合わない返事を返し、結局は周囲の白い目に唇をきつく噛みしめることしかできなかった。

結局、彼は何一つまともな成果を残せないまま、会議室の片隅で沈黙を守り続け、やがて逃げるように魔塔へと戻ってきた。

魔法で適当に乾かしていた湿ったローブを乱暴に脱ぎ捨て、エヴァンは自室の本棚の前に、骨が折れたように崩れ落ちるように座り込んだ。

(これから、僕はどうすればいい……。お嬢様を失って、どうやって生きていけばいいんだ)

答えなど、世界のどこにもなかった。

「……ばかだな、僕は」

ぽつりと呟いた、情けない声に応えるように、部屋の奥から静かな足音が近づいてきた。

やがて目の前に現れた使い魔のエコが、冷ややかな黄金色の瞳で彼を見つめ、短く言った。

「……外、まだ酷い雨が降ってるよ」

「……え、雨?」

驚いて顔を上げたエヴァンに、エコはそれ以上の慰めの言葉をかけなかった。

「言っておくけど、会いに行くなんて絶対にダメだからね。そんな勝手な真似をして会いに行ったりしたら、今度こそお嬢様の立場が悪くなる」

その猫の言葉は、妙に現実的で、容赦のない正論だった。

ロレッタのそばには、すでに彼女の身分にふさわしく、彼女を大切にしてくれる男たちがいて、その場の空気も穏やかに流れている。そこへ今さら、彼女を振ったエヴァンが身勝手な未練で割り込めば、彼女を再び社交界の悪評にさらすことになる。

「……まあ、お嬢様が僕のことなんて、今さら気にしてるとは思わないけどさ」

自嘲気味にそう言うと、胸の奥がじくりと音を立てて痛んだ。分かっていた。最初から、自分が彼女を突き放したのだから、こうなることは分かっていたはずなのに。

エコは何も言わず、ただじっとエヴァンを見つめていた。その無言の沈黙が、言葉で責められるよりも重く、彼の罪悪感にのしかかっていた。

エヴァンは両膝を強く抱え込み、深く頭を垂れた。

「お嬢様が……ほんの少しでも、僕のことをまだ気にかけてくださったら……よかったのに……!」

思わず胸の奥からこぼれ落ちたあまりにも率直で醜い未練に、エヴァンははっとして、「ち、違います!」と慌てて誰もいない部屋で首を振った。

ロレッタにとって、エヴァンが何の役にも立たない臆病な存在であることは、すでに何年も前から明らかだった。しかも彼は、あれほど自分を慕ってくれた彼女の純粋な心に、一生消えない傷まで残してしまったのだ。そんなエヴァンは、一生赦されることのない大罪人だった。

それだというのに、なおもロレッタの関心を、その視線を、自分だけのものとして望んでしまうなんて。

「僕は……なんて汚れきった、身勝手な人間なんだ……」

その情けない泣き言を聞きつけて、去ろうとしていたエコが足を止め、彼の顔をちらりと見やった。そして、再び同じ忠告を冷たく投げかけた。

「みっともないから、もうやめて」

「……そんな顔で会いに行ったら、お嬢様に、もっと徹底的に嫌われてしまうかもしれないよ?」

エコは尻尾をゆらりと揺らしながら、彼を突き放すように、けれどからかうように言った。その目の奥には、お前が本当にすべきことは何なのか、いい加減に気づけという光が宿っている。

(どうせ、これ以上嫌われることなんてない、か……)

「……まあ、そうだね」

エヴァンは小さく力なく頷いた。

「でも、もし会いに行くとしても、どうやって誘えばいいんだ? お嬢様は、もう僕なんかに二度と会ってくれないだろうし……ああ、僕はどうすれば……」

エヴァンは、溢れる想いを堪えきれず、机の上に大切に置いてあったロレッタのレースの手袋を手に取った。本当は、アウグストの結婚式の場で返すつもりだったのだが、あまりのパニックに状況が許さず、結局いまも彼の手元に残ったままだった。

彼がその繊細な手袋を、愛おしそうに胸に抱き寄せた、その瞬間だった。

「――シャーッ!」

鋭い威嚇の声とともに、エコが黄金色の瞳を吊り上げ、彼のローブの裾に容赦なく噛みついた。そのままグイグイと強い力で引っ張る。

(そんな薄汚れて濡れた格好で、大好きな女のところへ謝りに行こうなんて、何を考えてるのよ!)

言葉にされずとも、猫の凄まじい怒りは十分すぎるほどエヴァンに伝わってきた。

「……じゃあ、僕は、何を着て行けばいいのさ?」

エヴァンの情けない問いに、エコは呆れ果てたように深いため息をついた。

「はあ……ほんっとに、この大バカ」

そう吐き捨てるように鳴きながら、彼女はつかつかと部屋の隅にある豪奢な衣装棚の前へ歩いていった。エヴァンはその後ろ姿を見つめ、ゆっくりと立ち上がった。ありがたいことに、厳格な使い魔は、彼に最高の発言権を与えるための服を選んでくれるつもりのようだった。

・・・

エコは、彼に非の打ち所がない最高格の正装を着せたあとでも、まだ満足しきれなかったらしい。同僚の魔法使いの部屋から、見栄えのする可愛らしい花を何輪か勝手に拝借してきた。

「き、君……さすがに、これは丁寧すぎやしないか……? エコ」

鏡に映る、まるでこれからプロポーズでもしに行くかのような自分の姿を見て、エヴァンが猛烈に気恥ずかしそうに身を縮めると、エコは「自分が犯した罪の重さを思い出しなさい!」と、鋭く鳴いて言い放った。

「……そうですね。せっかく手伝ってもらったのに文句を言って、すみません」

彼はすぐに魔塔の馬丁に頼み、公爵邸へと向かう馬車に乗り込んだ。エヴァンは、もしかしたらエコも一緒に付いてきてくれるのではないかと少し期待したが、厳格な猫は決して馬車に同行しなかった。おそらく、彼が猫の助けを借りてロレッタに会ったところで、彼自身の覚悟がなければ何の意味もないと思っているのだろう。

――そう考えているようだった。

公爵家の広大な屋敷に到着すると、彼は迎えに出てきたベテランの執事ハインに、事前の約束もなく突然訪ねてきた非礼をまず深く詫びた。

「ロレッタお嬢様の手袋を、どうしても直接お返ししたくて伺いました。もし、ほんの少しでもお時間をいただけるなら……お目にかかれますでしょうか」

執事はエヴァンのそのただならぬ正装と必死な様子を見て、彼を静かに応接室まで案内すると、「お嬢様に確認してまいります」と告げて席を外した。

エヴァンは用意された高級な椅子に腰を下ろすこともできず、抱えた花束が潰れないように持ったまま、落ち着かない視線で豪奢な応接室の内装を見回していた。

(お嬢様がお見えになったら、僕は一体、何から話せばいいんだ……?)

まずは、エコに言われた通り、自分のこれまでの独占欲や臆病な罪を包み隠さず打ち明け、頭を下げて心から詫びよう。許しを乞うつもりはない。けれど、自分の過ちと彼女への想いがはっきりしている以上、このまま何も言わずに逃げてやり過ごすことだけは、男として絶対にできなかった。

エヴァンは花束を握る指に、静かに、強く力を込めた。

彼は、自分の突然の訪問に対してロレッタがどんな反応を見せるのかを一人で想像しているうちに、胸を突くある一つの明確な事実に気づき、愕然とした。

(どうすればいいんだ。僕は、ただ、お嬢様に会いたくて仕方がないんだ)

これほど拒絶されるのが怖いというのに、早くその愛らしい顔を見たい、声を聴きたいという剥き出しの気持ちが募って、気が狂いそうだった。怒られてもいい、なじられてもいい。彼女の姿を直接その目に映すことができるなら、それだけで十分だった。

(お嬢様の声を、もう一度だけ聞きたい……!)

ここまで来てようやく、彼女の手を取る機会が幾度もありながら、己の恐怖から何もできなかった過去の意気地なしな自分を捕まえて、強く揺さぶってやりたいほどの激しい後悔が押し寄せる。どれほどその頬を平手打ちされようと構わない。それほどまでに愛おしい願いを、どうして今まで自分から拒んできたのだろうか。

焦りと情熱が頭の先まで込み上げ、このまま本当に理性を失って取り乱してしまいそうになった、まさにその時だった。

コンコン、と静かに、軽やかなノックの音が響いた。

エヴァンは、その足音が決して「ロレッタのもの(予定どおり)」ではないことを、魔法使いの鋭い五感で瞬時に悟った。

――そう思った瞬間、彼は抑えきれない衝動に駆られ、応接室の扉へと自ら駆け寄って、内側から勢いよくそれを開け放ってしまった。

「お嬢様……!」

焦るあまり、思わず大声を上げてロレッタの名を呼んでしまったエヴァンだったが、すぐにそれがまた軽率な行動だったと気づき、顔をこわばらせた。

扉の前に立ってノックをしていたのは、先ほど彼を案内してくれた執事のハインだった。

「も、申し訳ございません、魔法使い様。実はお嬢様は、少し前に外出からお戻りになったばかりでして……大変お疲れのご様子ゆえ、今はどなたともご面会が難しいとのことです」

「お待ちします! 疲れが取れたあとで、今日の夜でも、明日でも、ほんの数秒だけでも構いませんから……!」

エヴァンが必死な形相で食い下がっても、ハインは困ったような、哀れむような表情を浮かべるだけだった。

「手袋だけでも、どうしても僕の手から直接お渡ししたいのです。それだけでも……どうか、叶いませんか?」

「申し訳ございません、魔法使い様」

執事は深く頭を下げた。「今のお嬢様には、何よりも絶対的な休息が必要なのです」

「ぼ、僕が……また、ご迷惑をおかけしてしまって……本当に、申し訳……ありません」

エヴァンは喉を詰まらせながら、かろうじてそう絞り出した。自分がどれほど彼女に嫌われ、拒まれているかを突きつけられた心地だった。

彼がためらいがちに返した謝罪に対して、執事ハインは決して「そんなことはございません」とは言わなかった。それが、公爵家としての無言の答えだった。

エヴァンは絶望に視線を落とし、腕に抱えてきた美しい手袋を、震える手でハインに差し出した。

「これは……ボルドウィン夫人がロレッタお嬢様に贈られた、大切な手袋だと聞いています。とても大切にされている品ですので、どうか、お嬢様にお渡しください」

ハインは手袋を見てすべてを察し、「確かにお預かりいたします」とそれを受け取った。

エヴァンは、別に用意してきたこの美しい花束も、もしかしたら一緒に渡してもらえるのではないかと一瞬だけ期待したが、さすがにそこまで我が儘を頼むことはできなかった。今の自分が持ってきた花を見て、ロレッタの気分がさらに悪くでもなれば、それこそ本当に取り返しのつかないことになる。

「では……突然押し掛け、大変失礼いたしました。これで、失礼いたします」

エヴァンは深く頭を下げ、ハインはすぐに彼を出口へと案内するために歩き出した。

豪華な玄関ホールに着くと、扉の向こうの馬車が屋敷の前に静かに停まっているのが、ふと目に入った。

「……それじゃ」

エヴァンが執事に向かって一礼し、その場を寂しげに離れようとしたとき、ホールの近くの壁に掛けられた、一枚の見慣れない肖像画にふと気づいて足を止めた。

それは、幼い頃のロレッタが描かれたものだった。わずかに悪戯っぽく持ち上がった唇が、ひどく愛らしくて、胸が締め付けられる。

「……初めて見る絵だ」

「初見かい?」

不意に背後から低く知的な声で話しかけられ、エヴァンは心臓が止まるかと思うほど驚いて振り返った。

そこに立っていたのは、クラウド・ボルドウィンだった。

彼はエヴァンの隣に静かに並ぶと、同じようにその幼いロレッタの肖像画へ視線を向け、静かに鑑賞を始めた。

エヴァンは横目でその美貌の横顔を盗み見て、思わず頬を羞恥で熱くした。正直に言えば、クラウドとロレッタは、血の繋がりゆえかどこか傲慢で気品のある雰囲気が似ていて、こうして彼と並んでいるだけで、自然と彼女の面影が脳裏に強く浮かんでしまうのだ。

「……はい。初めて……見る絵です」

「妙だな。これは彼女が生まれた時から、いつもここに掛けてあったはずだがね」

クラウドはそう言って、わずかに首を傾げてクスリと笑った。

しばらく自分の顎を指先で撫でていたクラウドが、「はは」と小さく笑いながら、エヴァンに視線を戻した。

「ロレッタはね、君がここへ来る直前まで、魔法使いエヴァンを玄関まで自ら見送りに出ようと、ずっとここで待っていましたよ」

「……え?」

「魔法使いエヴァン。君はこれまで、ロレッタに対して一度も、その臆病さゆえに距離を踏み越えるような真似はしていませんでしたね」

どうやらクラウド・ボルドウィンは、二人のこれまでの不器用な様子を、兄として静かに、すべて観察していたらしい。彼の言葉はすべて容赦のない事実だった。エヴァンにとって、自分のそばで楽しそうに話すロレッタを眺めることほど、この世で幸せな時間はなかった。今では、その視線すら自分の愚かさゆえに許されなくなってしまったけれど。

「その慎重な点については、君を少し見誤っていましたよ」

「……私が、お嬢様に多大なご迷惑をおかけしたということ、ですよね」

「分かっていますよ。実を言うとね、私も妻には毎日のように多大な迷惑をかけていますから。メロディなど、今でも私の顔を見るたびに必死に怒りを我慢しながら、私を“悪魔”だと罵ってきますよ」

クラウドはしばし、喉の奥でくぐもった楽しげな笑い声を漏らした。だが、エヴァンの表情は晴れない。

「ぼ、僕は……一生、あのお嬢さんに迷惑ばかりかける、最低な男なんですよ。だから……」

「……私はね、かつてメロディ嬢の夢を、私の我が儘で潰してしまった」

クラウドの言葉に、エヴァンはハッとして息を呑んだ。

「それどころか、一生を誓ったはずの男としての約束さえ、すべて私の都合で反故にしてしまったんです。彼女を愛するがゆえにね」

彼は両肩をすくめるようにして、大きく息を吐き出した。

「今やメロディ嬢はボルドウィン公爵家の仕事だけでなく、実家であるヒギンス家の面倒な用事まで、私のせいで一手に引き受けている。そう客観的に考えると……僕なんて男は、彼女にとっては大して魅力的な婚約者でも、夫でもなかったんでしょうね」

「で、でも……クラウド様は、いずれこの国を背負う公爵になられる偉大な方じゃないですか! そんな方が、魅力的な婚約者じゃないなんて、そんなはずは……!」

「それを魔法使いの君の立場に言い換えれば、君はいずれジェレミアの後ろ盾をすべて得て、魔塔の頂点に立つ男になる。身分なんて関係なく、ね」

クラウドはそう言って、どこか自嘲気味に、けれどエヴァンを試すように微笑んだ。

「この国のすべてが、いつかあなたという天才を称える日が来るでしょう、魔法使いエヴァン。ですから、自分の価値を低く見積もるような話は、これで終わりにしましょう」

クラウドは、床を見つめたまま固まっている青年の額を、軽く人差し指でパチンと叩いた。

「さて、質問ですが。君は今日は、なぜここへ来たのですか?」

「……それは……」

「彼女から完全に解放されないと言いながら、それでもこうして、みっともなく足を運んだ本当の理由は何でしょう?」

「それは……お嬢様の手袋が、僕の手元に残ったままでしたので……」

「魔法使いエヴァンは、本当にとても臆病で、言い訳が大好きな性格ですね」

クラウドは穏やかに微笑み、そばに立つハインへとすっと白い手を差し出した。ハインは、先ほどエヴァンから受け取ったばかりのレースの手袋を、慎重にクラウドの手のひらへ載せた。

「魔法使いエヴァン」

「……はい」

「もしロレッタが、あなたにとって身を滅ぼすような“害”となる存在だったとして――それでも、あの子に向けたあなたのその狂おしい感情を、すべて綺麗に手放すことができますか」

「……ですか?」

エヴァンは一瞬、その質問の意図がわからず呆然とした。しかし、次の瞬間、頭に血が上るのを感じた。

「ま、待ってください! そんなの、通る話じゃありません!」

エヴァンは思わず、公爵家の次期当主に対して声を荒らげていた。

ロレッタが彼を害したことなど、幼い頃から一度だってない。それに、仮に魔法使いの本能として、彼女への執着が自分を破滅させる理屈なのだとしても――この胸を焦がす想いだけは、絶対に、何があっても手放すことなどできなかった。どうして、そんなふうに rational(合理的)に割り切れるだろうか。幼い頃から今に至るまで、暗闇のような自分の人生をただ一人で支え続けてくれた、世界でたった一人の――。

「……あ」

エヴァンはそこでピタリと思考を止め、ぎゅっと唇を噛みしめた。

今、彼の胸に去来したその烈しい拒絶と怒り、そして「何があっても手放したくない」という強い執着……それこそが、これまで彼自身が、ロレッタに「僕を諦めてくれ」と求め続けてきたものの正体だったのだ。彼は彼女に、自分が今クラウドに言われて絶望したことと同じ残酷さを、何年も強いてきたのだ。

「受け取りなさい、魔法使いエヴァン。男なんていう生き物はね、大抵は臆病で、行動するのには何かしらの『言い訳』が必要な生き物なのさ」

クラウドはそう言って、手の中のレースの手袋をエヴァンの前に差し出した。エヴァンは、クラウドの差し出したその手袋と、彼の美しい顔とを交互に見つめた。

「……クラウド様」

震える指先で、彼はその手袋を、今度こそ自分の意志で受け取ろうと手を伸ばし――。

その瞬間、クラウドはふっと手袋を上へ引き戻した。

「だが、最後に一つ。この手袋が――もし私の愛する末の妹の手ではなく、私の弟(・ ・)の手に渡ったとしたら」

もう一度クラウドの顔を見上げたエヴァンの全身に、冷たい戦慄が走った。

先ほどまであった優しく柔らかい兄の微笑みは、そこには微塵も残っていなかった。目の前にいるのは、妹を害する者を決して許さない、社交界の冷徹な支配者だった。エヴァンは、彼がロレッタに対して並々ならぬ、狂気的なまでの愛情を注いでいる恐ろしい兄であるという事実を、あらためて思い知らされた。

「もし、あの子が今と同じように涙を流し、傷ついた姿のままでいたなら……」

「……」

「我がボールドウィン家は、本当に、あなたをただの魔法使いとして生かしてははおかないでしょうね。魔法使いエヴァン」

冷酷な警告を言い終えると、クラウドは憑き物が落ちたように、再びいつものように手袋を差し出した。

「肝に銘じます。クロード様」

エヴァンが恐怖に逃げることなく、まっすぐにその目を射返して即座にそう答え、手袋を両手でしっかりと受け取ったとき――クラウドの顔には、いつもの穏やかで優しい、どこか悪魔的な微笑が戻っていた。

 



 

 

  • 皇宮でのロレッタとの再会と、エヴァンの「勘違い」の自覚

    研究共有会のために皇宮へ赴いたエヴァンは、庭園で偶然ロレッタと再会します。以前と変わらぬ穏やかな態度の彼女に安堵したのも束の間、雨が降り出すと、彼女の隣にはすでに騎士イサヤが大きな傘を広げて寄り添っていました。自分が「拒絶か受け入れかを選ぶ側」だと傲慢にも思い込んでいたエヴァンは、選択権を与えてくれていたのは彼女の無償の優しさだったと気づき、さらにその後現れた皇帝にロレッタとの視線を遮られ、自分の席がもう失われたことを痛感します。

  • エコの容赦ない叱咤と、エヴァンの覚悟の変転

    激しい雨の中、会議で失態を演じて魔塔へ逃げ帰ったエヴァンは、自室で身勝手な未練に泣き言を漏らします。見かねた使い魔のエコから「みっともない」「会いに行ったらもっと徹底的に嫌われる」と容赦のない正論で突き放されますが、エヴァンがロレッタのレースの手袋を愛おしそうに抱きしめると、エコは激しい怒り(シャーッ!)とともに、彼に非の打ち所がない最高格の正装を着せ、公爵邸へ行くよう背中を押しました。

  • 公爵邸への突撃と、兄クラウドからの「悪魔の証明」と警告

    エヴァンは正装と花束を携えて公爵邸を訪ねますが、執事のハインからロレッタは疲労のため面会できないと拒まれ、絶望して手袋を託します。その帰り際、兄のクラウド・ボルドウィンに呼び止められ、「かつて我が儘で婚約者メロディの夢を潰した自分と同じく、君も言い訳が大好きな臆病者だ」と諭されます。クラウドから手袋を返され、妹への感情を手放せるかと試されたエヴァンは、自身がどれほど理不尽な残酷さをロレッタに強いてきたかを自覚し、手袋を受け取りますが、クラウドは最後に「もし妹が今度も涙を流し傷つくなら、ただの魔法使いとしては生かしておかない」と、妹を狂愛する兄としての冷酷な警告を突きつけました。

 

 

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