こんにちは、ちゃむです。
「悪役なのに愛されすぎています」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
122話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 波風
目を覚ましたとき、部屋はすっかり静まり返っていた。
頭の奥がじんじんと痛み、寝乱れた髪をかき上げながら、ロレッタはゆっくりと起き上がった。
外を見ると、嵐はすでに過ぎ去っており、澄んだ夜空の月光が窓辺から差し込んでいた。
「……めちゃくちゃだわ。」
掠れた声でつぶやきながら、ロレッタは部屋を見回した。
床には、投げ出されたブランケットのそばに、砕けたガラスの破片と、散らばったキャンディの欠片が転がっていた。
――あのとき、エバンに渡すはずだった“特別な贈り物”。
その残骸を見つめるロレッタの目に、静かにまた涙が滲んだ。
『……毛布を投げたときに、一緒に落ちちゃったんだわ……』
お兄様たちに渡すはずだった砂糖まで台無しになってしまった。
ロレッタはやりきれない気持ちのまま、再びしゃくりあげた。
しばらく泣きじゃくったあと、ふと抱えていたクッションをどけると、ぽっかり空いた本棚の隙間が目に入った。
『……本が、ない?』
不思議に思いながら棚の下を覗き込むと、床に無惨に落ちている本が見えた。
記憶はないけれど、泣きじゃくっていた時に本まで投げ飛ばしてしまったのかもしれない。
あまりに取り乱していたせいで、いつ眠ったのかさえ覚えていないほどだった。
『……ほんと、最低だ、私。』
「物を大切にしない人には持つ資格がない」――かつてそう教えられたことを思い出す。
『でも……悔しいの。』
これまでは、どんなにつらくても――“エヴァンからの手紙と、きっとまた会える”という希望だけを支えに耐えてこられた。
『でも今は……エヴァンの手紙だけじゃ、この胸の寂しさは埋まらない……』
胸の奥までふくらんでいた期待がしぼんでしまったせいか、痛みは先ほどよりも深く、静かに彼女を締めつけた。
「……会いたいよ。ひっく……」
ロレッタは膝を抱き、顔を埋めてまた泣き出した。
涙が落ちる音だけが、月明かりの中に響いていた。
そのとき――
「にゃあ。」
耳慣れた声とともに、小さな足音が近づいた。
ふいに肩のあたりに柔らかい温もりがのしかかる。
ロレッタがはっと顔を上げると、そこには見慣れた灰色の毛並みがあった。
何度も彼女の部屋に遊びに来ていた猫――エコだった。
エコは金色の瞳でロレッタをじっと見つめ、まるで彼女の涙の理由を理解しているかのように静かに瞬きをした。
「エコ!」
ロレッタは慌ててその小さな体を抱きしめた。
普段ならすぐに逃げてしまうくせに、今夜のエコはおとなしく彼女の腕の中にとどまっていた。
「……わたしが寂しそうだから、来てくれたの? そうなんでしょ?」
問いかけても、エコはただ喉を鳴らして応えるだけだった。
けれどその小さな温もりが、泣き疲れたロレッタの心を少しずつ、やわらかく包んでいった。
……たぶん、ロレッタのことが心配で来たわけではないのだろう。
エコは身をくねらせながらロレッタの体から抜け出し、彼女の隣にちょこんと座った。
よく見ると、エコの背には小さな袋が括り付けられていた。
足に通して背負えるようになっているらしく、人間の拳よりずっと小さい巾着がとても愛らしい。
「なにこれ、エコのカバン?」
「ナ」
「かわいい、ちょっと開けてみるね」
小さな留め具を穴に差し込んで開けると、すぐに中身を確認できた。
まず最初に出てきたのは、手紙だった。
ロレッタはその手紙を見て少しだけ嬉しくなりながらも、どこか満たされない気持ちが胸に広がった。
――今日もまた、エヴァンの文字にすがるしかないなんて。
【約束を守れなくてごめんなさい、お嬢様。塔主様はとてもご健勝です。魔力石に関することでしばらく忙しくされていました。
──どうやら、私が令嬢の寂しさを案じていたのをエコが察してくれたようです。
そこで、彼は「贈り物を届けたい」と言い出しました。
エコの持っているバッグは、魔法使いミグエルが作ってくれたものです。
贈り物があなたのお気に召せばよいのですが……。
バッグには、私の魔力を“限界まで”込めておきました。
だからきっと、いつでもあなたを守ってくれるでしょう。
──ただし、決して他の誰にも見せないでくださいね!本当に、絶対に!】
手紙の最後には、そんな走り書きが添えられていた。
ミグエル――それは、ロレッタにも覚えのある名前だった。
以前、彼女に透明の腕輪を作ってくれた老魔法使いの名だ。
どうやら、あの時よりもさらに強力な魔法がこのバッグに施されているらしい。
手紙を読み終えたロレッタは、改めて便箋の端から端まで目を走らせた。
「……でも、エバンの“魔力を込めた”って、どこに?手紙が少し長いくらいで、特に変わったところなんて……」
「にゃあ。」
ロレッタのつぶやきに、エコが短く鳴いた。
その声が、まるで「よく見てごらん」と言っているようで、ロレッタは思わず封筒の中をもう一度のぞき込んだ。
エコがもう一度袋の中を見ようとしているようだったので、ロレッタは小さな袋に手を深く差し入れた。
指先に小さいけれど硬いものが触れた。まるで石のような感触だった。
「もしかして、これ……?」
ロレッタはそれを慎重に取り出し、掌の上に乗せた。
指先ほどの大きさの小さな石は、最初は無色透明で、何の変哲もなかった。
しかしロレッタの手の上で数秒間静かにしていると、徐々に淡い緑色の光を放ち始めた。
「エヴァンの……色だ」
間違いなく、これは彼の魔力だった。
ロレッタは石からあふれ出す温かな光に、凍えるような指先を委ねた。
目を閉じると、まるでエヴァンがすぐそばにいるような気がした。
『……これは、ぼくを通って流れた魔力、つまりぼく自身……。もう、なくなってしまったけど。』
――エヴァンが言っていた言葉を思い出すと、まるで今も二人が共にいるかのように思えた。
ロレッタはほほえみながら、エバンへの返事にどんな言葉を綴ろうかと考えていた。
――「まずは、エバンが約束を守ってくれたことを伝えたいわ。」
今日こうして再び会えたことも、彼が「寂しくないように」と魔法を残してくれたことも、すべて約束どおりだ。
そのことをちゃんと伝えたい。
そして、そんな優しいエバンのことを、以前よりもっと好きになったと。
「ねぇ、エコ。」
ふと隣に丸まっていた猫に声をかけると、エコはゆっくりと尻尾を動かしてロレッタを見上げた。
「この石……ただの石じゃないよね?」
「にゃあ。」
ロレッタはそっと指先で石をなぞった。
淡い光がその表面に滲み、小さな波紋のように広がっていく。
――手紙には、“エバンの魔力を限界まで注ぎ込んだ”と書かれていた。
そして、ロレッタが知るかぎり、そんなことができるのは――
たったひとり。
エバンだけだった。
「まさか……魔力石!?」
彼女が驚きの声を上げたその瞬間——
コン、コン。
部屋の扉をノックする音が響いた。
ロレッタはベッドの上の猫と魔力石を交互に見つめながら固まった。
『ど、どうしよう……!もし見つかったら、本当に大ごとになる……!』
コン、コン。
再びノックの音が響いた。先ほどよりも少しだけ急いた音だった。
応接室で泣きじゃくったあと、ロレッタが部屋に戻ると、クロードは彼女を追うことはなく、そのまま魔塔へと向かっていた。
黒い雲が途切れることなく空を覆いはじめ、やがて赤い稲光が空を走った。
しばらくすると雷鳴と稲妻が、まるで世界そのものを揺るがすように轟きはじめた――。
夜がゆっくりと明けていく。
クロードは背もたれに体を預け、途切れなく窓を叩く雨の筋をぼんやりと見つめていた。
どうすることもできないまま、夜が終わり、やがて東の空が淡く染まっていく。
――「……避けてください!」
耳の奥に、いまだ鮮明に響く叫び。
無力な男である彼は、その言葉どおりにただ立ち尽くすしかなかった。
彼女の背中を追うことも、永遠を誓うこともできず。
そんな臆病な自分にさえ、彼女はそっと唇を重ねてくれた。
おそらく、それは――哀れな人間への、最後の慰めだったのだろう。
クロードは窓に額を押し当て、ひとり、深く息を吐いた。
「……ふう。」
どれほど時が経っても、あの瞬間だけは忘れることができない。
その記憶は、まるで呪いのように彼の胸に居座り続けていた。
そして彼の脳裏には、あの翌日のことがよみがえる。
――彼女が旅立った朝、クロードはメロディと交わした“約束”を思い出していた。
クロードは記録官を訪ねた。
記録官の語る内容は、以前メロディが話してくれたこととほとんど同じだった。
「記録官殿は……後悔なさらないのですか?あのときクリステンソンであの靴を見つけなければ良かったと……」
クロードの問いかけに、彼女は静かに首を縦に振った。
「別の記録官が見つけていたら、世界がもっと早く混乱していたでしょう。だから、これでよかったんです。」
彼女は寂しそうな笑みを浮かべながら続けた。
「まさか、生涯スス師が抱えていた仕事を、自分が受け継ぐことになるとは思いませんでした。もう……勇者を探し出すこともできませんのに。」
「もしかして……」
クロードは、彼女がすでに覚悟を決めていると感じつつも、さらに深く踏み込んで尋ねた。
「スス師が守ろうとした“相手”とは……誰だったのか、ご存知ですか?」
幸いにも、彼女はクロードの無礼を気に留めなかった。
――「怒ってなどいません。その方が職業倫理を貫いたのだと、むしろ感心したくらいです。」
さらりとそう答える姿に、クロードは、彼女が少しだけ過去の後悔を手放そうとしているように見えた。
――「……でも、あんな言い方はよくありませんでした。どんなに記録が大事でも、人の命より尊いものなどありませんから。」
彼女の静かな言葉が、ふと車内に残響する。
馬車の揺れが穏やかになった頃、クロードは外の風景が徐々に変わっていくのを感じた。
やがて、道の先に塔の尖端が見え始める。
まもなく、彼らは魔塔の近くへと差しかかっていた。
「……坊ちゃま。」
控えめな声が小さな窓越しに響く。
御者が振り返り、「入口が混み合っております。どうなさいますか?」
クロードは軽く顎に手を当てた。
「構わない。少し待とう。」
――外は雨上がりの曇天。
塔の周囲には、黒衣の魔導士たちと幾台もの馬車が並び、静かな緊張が漂っていた。
「……それとも、少し離れた場所に停めますか?」
「雨に濡れたところで問題はありません。適当な場所で降ろしてください。」
馬車は魔塔の入り口から少し離れたところで止まった。
雨脚は次第に強まっていき、御者は不安げに空を仰いだが、クロードは傘も差さずに軽やかに魔塔の中へと駆け込んでいった。
入口に着いてコートの水気を払っていると、近くの階段から白いローブをまとった一団が列をなして降りてくるのが見えた。
クロードはすぐそばの柱の陰に身を潜めた。
降りてきたのは神殿の高位司祭と皇室付きの医官たちだった。
皆、一様に険しい表情を浮かべており、何か思い通りにいかないことがあったのは明らかだ。
その一団の背後には、ジェレミアが苦笑いを浮かべながら従っていた。
もちろんその表情は、クロードにしか分からないものだった。
もし他の者が見たら、それはきっと人懐こい微笑みに見えたに違いない。
弟子たちや学者たちは、次々と馬車を連ねて魔塔の前に到着していた。
そのたびに、ジェレミアは完璧な礼で一人ひとりに挨拶をしていく。
すべての馬車が十分に離れたのを見計らって、クロードはそっと彼の背後へと歩み寄った。
少し驚かせてやろうという、悪戯心からだった。
「兄さん。」
だが、驚いたのはクロードのほうだった。
ジェレミアは振り返ることなく、まるで最初から気づいていたかのように淡々と口を開いた。
「来るのがわかっていました。」
「……知ってたのか?」
クロードが少し苦笑して問うと、ジェレミアは眼鏡の位置を直しながら、いつもの冷静な声で答えた。
「兄さんはそういう冗談が好きですから。先日、追跡魔法を施しておきました。――今では、どこにいても兄さんの居場所がわかります。」
「……!」
クロードは言葉を失った。
それは弟のいたずらではなく、深い愛情と警戒心の入り混じった“優しい監視”だったのだ。
クロードは突然のことに驚き、反射的に体を引いた。
もっとも、ジェレミアの魔法が肉眼で見えるわけでもないのだが。
「冗談ですよ。そんな非倫理的なことはしません。」
「びっくりしたじゃないか。」
「それより、雨に濡れてしまったようですね。」
ジェレミアは片手を上げ、クロードの目の前に差し出した。
その手のひらに、柔らかな緑の光がふわりと灯る。
次の瞬間、クロードの衣服と髪にまとわりついていた水滴がぶわっと浮かび上がり、空中でひとつの大きな水球を形作っていった。
「放っておいても乾いたかもしれないが……ありがとう。」
「兄上が風邪でもひかれたら困ります。僕は兄上の専属護衛ですから。」
ジェレミアはあっという間にその巨大な水球を魔塔の外へと押しやり、軽やかに身を翻した。
「では、ご案内します。」
そう言うと、彼はくるりと背を向け、早足で歩き出した。
会話が始まった。
クロードが口を開く前に、ジェレミアはすでに彼の意図を察していたようだった。
二人は猫たちが群がる石段を並んで上っていく。
「――塔主の具合は?」
「問題ないかと存じます。あの方が執務室での怠惰さえ控えれば、ですが。」
まるで先日、神殿や王宮の学士に言われた言葉をそのまま引用するような、穏やかだが皮肉を含んだ答えだった。
「最近は陛下も、やけに塔主殿を気にかけておられるようだね。」
「頼んだ覚えはないのですがね。……実にご熱心で、こちらが参ります。」
ジェレミアは眉をしかめ、ため息をついた。
彼の冷静さの中に、確かな苛立ちが滲んでいる。
「まったく、あれほどまでに通い詰めておきながら、癒やしの魔法の妨げになることに気づかないとは。」
「通い詰めて……いるのか?」
クロードが驚いて尋ねると、ジェレミアは淡々と答えた。
「ええ。最近は“聖師(せいし)様”ではなく、“陛下”と呼びかけておられるくらいには、親しげに。」
クロードは思わず口元を押さえ、笑うでもなく、深く息を吐いた。
――どうやら塔主の病よりも、周囲の人間関係のほうがよほど厄介らしい。
クロードは、ようやくジェレミアがここまで怒っていた理由を理解した。
魔塔主はこれまで、意図的に皇室との関わりを避け続けてきた。
貴族たちとの交流もほとんどなく、ただ魔法の発展と魔法使いたちの安全だけを願い、政治から距離を置いてきたのだ。
「皇帝陛下は、魔力石の発見に皇室の功績があると主張したいのでしょう。」
「……そうだろうな。」
クロードはジェレミアの隣を歩きながら、少し異なる意見を口にした。
「とはいえ、皇帝陛下と魔塔主殿も俺たちと同じ兄弟のような間柄だ。多少は心を砕くものじゃないか。お前が俺の風邪を気にするのと同じようにな。」
「……あの方々と私たちが、同じだなんて!たとえ兄弟といっても、私たちは……!」
ジェレミアはそこで言葉を切り、わざと視線を逸らして不自然に襟元を整えた。
耳の先がほんのり赤く染まっているのを、クロードは見逃さなかった。
「……互いに“信頼”し合っていると?」
クロードが皮肉まじりに言うと、ジェレミアは短く息を吐き、「ご自由にどうぞ」とだけ答えた。
それ以上の言葉は、唇の裏で押し殺された。
沈黙のまま、二人はさらに階段を上り続ける。
廊下を抜けた先の大きな扉の前で、ジェレミアがようやく足を止めた。
「こちらです。」
彼の言葉と同時に、扉が静かに開く。
誰も手を触れていないのに、内部の魔法が反応したのだ。
クロードはその荘厳な光景に一瞬息を呑み、姿勢を正して深く頭を下げた。
「ご無沙汰しております、塔主様。」
「――誰かと思えば、私の弟弟子か。」
微かに掠れた声。
だがその響きには、かつての威厳と慈しみがまだ残っていた。
クロードはその声を聞いた瞬間、思わず顔を上げる。
そこにいたのは――もはや健康だった頃の塔主ではなかった。
蒼白な頬。
わずかに震える指。
それでも瞳だけは、燃えるような知性の光を失っていなかった。
「久しいな、クロード。……顔を見せに来たのか?」
その声に混じる浅い息遣いを聞き、クロードの胸に鈍い痛みが広がった。
白い髪はほとんど抜け落ち、地肌が透けて見えるほどだった。
「ご苦労されたと伺っています。」
クロードが心配そうに近づくと、魔塔主はゆっくりと顎を引いた。
「ここ数日は大丈夫だったのですが……おそらく、傷んだ体が雨の気配を察したのでしょう。」
軽く頭を下げるようにしながら、申し訳なさそうに微笑む。
「弟と邸宅で過ごしていることを、無理に引き止めたのかもしれません。」
「謝られるようなことではありません。ジェレミアとこうして会えたのですから。」
魔塔主はクロードが何かを言いかけてやめたのを察し、代わりに彼に席を勧めると、弟子であるジェレミアに柔らかい声をかけた。
「たとえ兄君でも、私にとっては大切なお客様です。無愛想な態度は感心しませんよ。」
「……大接見の場を欠くなど、塔主の名折れになりましょう。」
「それならエヴァンを向かわせて――」
「いや、お前が行くほうがいい。」
塔主は弱々しくも確かな声で制した。
「魔導士ミグエルのもとへ行けば、私が頼んでおいた特製の霊薬が受け取れるはずだ。」
ジェレミアは、師の傍を離れるのを明らかに嫌がっていたが、命に背くことはできず、静かに一礼して部屋を後にした。
残されたのは、塔主とクロードの二人だけ。
塔主は唇の端をわずかに持ち上げ、
「……弟子があれほど師を慕ってくれるのは、少々困ることもあるな。」と、穏やかに笑った。
「まるで親のように心配してくれるが、離れるのが辛いのだろう。」
クロードはその言葉にうつむき、「……申し訳ありません。」と低く答えた。
塔主は首を横に振った。
「責めてはいないよ。だが――君にも少し、休息が必要だ。」
クロードの胸に、罪悪感と感謝が入り混じる。
彼は沈黙のまま、師のやせ細った手を見つめた。
塔主の指先は、まるで魔力そのものが少しずつ消えていくように、かすかに震えていた。
魔塔主は穏やかな表情で顎に手を添え、何を話しても構わないというようにクロードを見つめた。
「魔塔主殿、先ほど塔の入り口で、皇室の医官や神殿の使者たちと遭遇しました。」
「兄上も心配になられたのでしょう。」
彼は短く咳払いをしてから、ゆっくりと顎を引いた。
「この身が先に逝ってしまうのではと、気が気でないようです。」
「……陛下には、お会いにならないおつもりですか?」
クロードは声を潜めて尋ねた。
魔法使いたちに聞かれてはまずい話題なのかもしれなかった。
「永遠に会うことはないでしょう。」
「せめて手紙でも……」
「書くこともありません。」
その口調には一片の迷いもなかった。
「魔塔主殿、ジェレミアのことを覚えていらっしゃいますか?昔、あの子が工匠を好んでいた頃のことを――」
「……あの頃の話です。」
クロードの声は静かだったが、その奥に微かな感情が揺れていた。
「ええ、忘れるはずがありません。」
塔主は目を閉じ、ゆっくりとうなずいた。
「私も気が気でなかった。幸い、公爵家の兄弟たちがあの子に先に手を差し伸べてくれたおかげで、あの悲劇は避けられた。」
「そして――あなたがジェレミアを、私たちのもとへ導いてくださった。」
クロードは一瞬言葉を探したあと、
「
それ以来、私は……塔主様が“家族”というものを何よりも大切にされる方だと、ずっと思っておりました。」と続けた。
沈黙。
それは、同意とも、否定ともつかない重い沈黙だった。
クロードは、思い切って問いかけた。
「塔主様。……僭越ながら、お身体のことをお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
塔主はジェレミアや公爵家との関係が改善していることを喜ばしく思いながらも、自らの家族について話が及ぶと、わずかに顔を曇らせた。
もちろん、他人の人生を自分のように望むことはできない。
だが――王宮で続く不穏な出来事の影に、その“家族”が関わっているのではないかという疑念が、クロードの胸の奥に静かに沈殿していた。
しかし、ジェレミアが再び公爵家に戻れるよう尽力してくれた人物の兄である魔塔主が、ジェレミアの手紙にきちんとした返答をしなかったことがクロードの心に引っかかっていた。
「もしや、故意ではないとしたら……」
魔塔主の表情を注意深く観察していたクロードが、再び口を開いた。
「質問を変えます。魔塔主殿は長い間、皇帝陛下はもちろん、王宮にも一切近づかれませんでした。それほどまでに距離を置くほどの――いや、約束でも……」
「約束」という言葉に、魔塔主の瞳が一瞬揺らいだ。
クロードはその変化を見逃さなかった。
「理由が……あるのですか?」
クロードの問いが終わるや否や、魔塔主の様子が急激に悪化し始めた。
ジェレミアが慌てて駆け寄り、素早く魔法を発動して彼を支える。
クロードは思わずその場に釘付けになった。
これ以上留まっても意味がないと悟ったクロードは、言葉を交わせないことを痛感し、静かに邸宅へと戻った。
──その頃。
塔から公爵家へ向かう馬車の荷台には、小さな影がひとつ、誰にも気づかれず潜り込んでいた。
それは、猫のエコーだった。
クロードも、御者のマブも、そのことをまったく知らなかった。
魔力石とエコーの存在に支えられて気分が少し明るくなったロゼッタは、突然「コツン」と響いた音に肩をすくめた。
音の正体に気づき、彼女は慌ててクッションをかき寄せ、エコーの小さな体を覆い隠す。
「エコー、絶対に動いちゃダメ。私以外の人に見つかったら困るんだから。いい?」
猫は「にゃ」と短く鳴いて、ロゼッタの膝の上で小さく身をすくめた。
安心したロゼッタは、魔力石をそっと懐の奥にしまい、扉の方へ視線を向けた。
そして――扉が静かに開き、彼女の前にひとりの少女が姿を現した。
「……お嬢様。」
ハナはロレッタの顔を確認するなり、今にも泣き出しそうな表情で駆け寄り、彼女をぎゅっと抱きしめた。
「本当に辛かったでしょう?ああ、お嬢様……あんなに心待ちにしていらしたのに、どんなに胸が痛んだことでしょう。」
どうやらハナは、遅い時間までロレッタのことを心配してくれていたようだった。
そんな優しいハナに対して、部屋に入ってこないでと強く当たってしまったことが、ロレッタの胸に重くのしかかる。
「……わたしが悪かったの。ごめんなさい、悪い子だったわ。」
「いいえ。」
ハナは優しく首を振った。
「お嬢様はちっとも悪くありません。あ、そうそう……ご当主様がずっと、そわそわしながらお待ちなんですよ。」
「お父様が?」
「はい。ご当主様がご自分で直接いらっしゃると仰って……それをロニぼっちゃまが必死で止めているところです。」
「……どうして?」
ロゼッタが首をかしげて尋ねると、侍女の少女は肩をすくめながら答えた。
「おそらく、ロニ坊ちゃまはお嬢様ご自身の手で扉を開けて出てこられるのをお待ちになりたかったのだと思います。“もう子ども扱いする年ではない”と、公爵様におっしゃっていましたから。」
「お兄様ったら……私にはいつも“子どもだ”って言うくせに。」
ロゼッタが少し唇を尖らせると、侍女はおずおずと尋ねた。
「では、公爵様に“お嬢様はお元気です”とお伝えしてもよろしいですか?」
「もちろん――!」
勢いよく言いかけたロゼッタは、ふと口をつぐんだ。
「……もしかして、何かおありなんですか?」
「ええ、うん……そのね。」
ロゼッタは小さな両手をぎゅっと握りしめ、俯いた。
「わたし……ちょっと悪いことをしちゃって、今すごく反省してるの。でも、お父様に知られたら……」
言葉の続きを飲み込んだ彼女の瞳には、子どもらしい不安と、どこか大人びた決意が同時に宿っていた。
「内緒にしてくれる?」
「……悪いことをしたんですか?」
ロレッタは小さく笑って、部屋をぐるりと見回した。ハナもつられて顔を上げ、呆然としたロレッタの部屋の有様に目を丸くした。
「お嬢様、どこかお怪我はありませんか?」
「うん、大丈夫。ただ……ガラスの破片、片付けてもらえる?本は自分で整理するから……」
「もちろんです。少々お待ちください。」
ハナは素早くランプと掃除道具を持って戻ってきた。
彼女が割れたガラス片と砂糖を手際よく片付けている間、ロレッタは床に落ちた本を拾い集めていた。
その間も、エコーはベッドの上で静かに丸まっており、ハナの目には映らなかった。
「お嬢様、いったいどうしてガラスが割れたんですか?」
「……たぶん、本を投げたときにそうなったんだと思う。」
「本?お嬢様の部屋で本が床に散らばっているなんて珍しいですね。」
「……音は聞こえなかったけど。」
「うん、多分、雷が鳴ってて誰も気づかなかったんだと思う。」
ロゼッタは少し曲がった古い本を抱きしめながら、気まずそうに笑った。
「ねえ、お願いがあるの。この部屋がこんなふうになっちゃったこと、お父様にもお兄様にも……内緒にしてくれる?」
その言葉に、侍女の少女は一瞬ためらい、視線を落とした。
実は公爵から、“ロゼッタの部屋で何かが壊れたり、異変が起きた場合は必ず報告するように”と厳命されていたのだ。
「申し訳ありません、お嬢様。公爵様が――」
「でも!」
ロゼッタは潤んだ目で少女を見上げた。
「わたし……みんなにひどいことを言ったの。そのせいで部屋の物まで壊れちゃったのかもしれない。もしお父様に知られたら……がっかりされちゃうでしょ?」
彼女の声は震えていた。
罪悪感と恐れが入り混じり、けれどそこには、赦しを乞うような小さな希望も滲んでいた。
「お嬢様がダメになったりなんてしませんよ。皆さん、お嬢様のことを本当に大切に思っているんですから。」
「それでも……きっと私は、だらしない子だって思われたと思うの。ううん、実際にだらしなかったのよ。本当に反省してる……。」
ロレッタは両手をぎゅっと組み合わせ、必死にお願いするように言った。
「だから今回だけ、ほんの一度だけでいいの。お父様には黙っていてほしいの。ね? これからはちゃんとしたロレッタになるから。」
ハナは困ったような表情で深く息を吐いた。
本来、公爵家ではどんなことであれ公爵の判断が最優先される。
けれど、ロレッタがここまで真剣に、必死にお願いするのは初めてのことで、簡単には断れなかった。
やがてハナはロレッタの前に歩み寄り、そっと自分の小さな手を差し出した。
「わかりました。お約束します、お嬢様。ただし——」
「もう、こんな危ないことはなさらないでくださいね?お嬢様がケガでもなさったら、皆が悲しみますから。」
ロゼッタは赤くなった手を握られ、少しうつむいた。
けれどすぐに顔を上げ、小さく笑ってうなずく。
「うん、約束する!もう悪いことは言わないし、誰も傷つけない。……そして、こんなこともしない!」
部屋の片づけがすべて終わるころ、ロゼッタは侍女を伴って公爵の部屋へ向かった。
扉を開けると、そこには公爵と兄のロニー、そして塔から戻ってきたクロードが待っていた。
三人は優しい笑顔で彼女を迎えた。
ロゼッタはこれまでの失言や態度を心から詫び、涙ぐみながら頭を下げた。
公爵たちはその謝罪を静かに受け入れ、「一人で悩ませてしまってすまなかった」と今度は彼女に謝ってくれた。
短いけれど温かな時間が流れた。
やがてそれぞれの部屋に戻る支度をする中で、公爵はロゼッタの侍女をそっと呼び止め、静かにひとつだけ頼みごとを告げた――
公爵はまるで部屋の様子を確かめるように、何気なく尋ねた。
「……もしかして、ロレッタの部屋で何か問題があったりしなかったか?うん、何か壊れたとか。」
ハナはにっこり微笑みながら、穏やかに首を振った。
「いえ、全くです。お嬢様はいつも通りお元気でしたよ。」
「そうか。」
公爵が特に疑う様子もなく納得したようなので、ハナも胸をなで下ろした。
思えば、再び平穏を取り戻した家族の間に、わざわざ波風を立てるようなことを言う必要はまったくなかった。
それに、ロレッタも「もう二度とこんなことはしない」と約束してくれたのだ。
ハナはこの件を、自分だけの秘密として心にしまっておくことにした。







