大公家に転がり込んできた聖女様

大公家に転がり込んできた聖女様【154話】ネタバレ




 

こんにちは、ちゃむです。

「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【大公家に転がり込んできた聖女様】まとめ こんにちは、ちゃむです。 「大公家に転がり込んできた聖女様」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹...

 




 

154話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 未来を紡ぐ金の糸

「う……」

どこからか漂ってくる、えも言われぬ甘い香りをかすかに感じながら、エスターは意識を取り戻し、ゆっくりと目を開けた。

目の前には、色とりどりの美しい花々が咲き誇る、見渡す限りの見事な庭園が広がっていた。

「ここは……どこ?」

ぼんやりと周囲を見回していたエスターは、自分がいつの間にか瀟洒なテーブルの椅子に座っていることに気づく。

「どういうこと……?」

聖女宮の地下で水晶球を壊した記憶までは鮮明にある。だが、その後、崩れゆく神殿からどうやって抜け出したのかが、どうしても思い出せなかった。

「……私、死んだの?」

エスターはそっと自分の両手を見つめた。

パチン、と小鳥たちが澄んだ声を響かせ、羽音を鳴らしながらエスターのすぐそばをかすめて飛んでいく。あまりにも穏やかで平和な光景を見ているうちに、それまで張りつめていた気がふっと緩んでいくのが分かった。

「これで、本当に終わり……? みんなにちゃんと別れも言えなかったのに……」

胸が締めつけられ、どうしようもなく涙がこみ上げてくる。鼻の奥がつんとして、目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。

その時――背後から突然、穏やかな声が響いた。その声に、こぼれかけた涙がぴたりと止まる。

「おいで。ここまであなたを連れてくるのに、ずいぶん手間がかかったよ」

いつの間にか現れたその人は、エスターの向かいの席にしなやかな動作で腰を下ろしていた。その顔を見た瞬間、エスターの瞳が大きく揺れる。

「エスピトス様……?」

前回会ったときはかろうじて輪郭しか見えなかったのに、今回はその表情の機微までがはっきりと見て取れた。

いつも想像していた厳格な神の姿とは少し違っていたが、ひと目見た瞬間、彼女が女神エスピトスであると本能が告げていた。「美しい」というありきたりな言葉では到底表せないほどの、圧倒的な神々しさ。エスターを見つめるエスピトスの眼差しは、慈愛に満ちていて、どこまでも温かかった。

「そうよ。私がエスピトス」

「ここはどこですか? 私、やっぱり死んだんですか?」

あまりに現実感がなく、自分が本当に魂だけの存在になってしまったのか確かめたくて、エスターは真っ直ぐに彼女を見つめて尋ねた。

するとエスピトスは、いたずらな少女のようにくすくすと言顔をこぼした。

「まさか。あなたはちゃんと生きているわ。少し話をするために、ほんの少しだけ眠らせただけよ」

「本当ですか?」

「ええ。ここまで運命を切り開いてきたあなたを、そんな簡単に死なせるわけがないでしょう?」

「……ですよね?」

赤く充血していたエスターの目が、驚きで丸く見開かれた。そして、目を覚ましてからずっと不安げに下がっていた口元が、安堵でゆっくりと上がっていく。

「でも、聖女宮が完全に崩れて、そこから抜け出せなかったはずなのに……」

「心配しないで。ちゃんと安全な場所に移しておいたから。まあ、あなたを助けようとして、一緒にこちらの領域へ入り込んできた子がいて、少し驚いたけれどね」

「入り込んできた子、ですか?」

「その話は後にしましょう。私たちには、これから時間がたっぷりあるのだから」

いたずらっぽい笑みを浮かべるエスピトスは、エスターとこうして言葉を交わせることを、心から喜んでいる様子だった。

「生きているなら、早く戻らなきゃ。お父さんが心配します」

だが、ゆっくりと逢瀬を楽しみたがるエスピトスとは対照的に、エスターは一刻も早く現実の世界へ戻ろうと、勢いよく立ち上がった。

エスターがそそくさと帰ろうとするので、エスピトスはまるで深く傷ついたかのように、大げさに衝撃を受けた表情を浮かべた。

「ちょっと待って、もう行くの? 私がどれだけこの瞬間を待ち望んでいたと思っているの?」

しかし、あまりに親しげに振る舞うエスピトスの態度に、エスターの心にはむしろ冷ややかな戸惑いが広がっていた。

「待っていたって……私があんなに助けを求めて、何度もあなたの名前を呼んだとき、一度だって応えてくれなかったのに」

今は家族の愛を知り、少しずつ薄れてきているとはいえ、なかったことにはできない、生き地獄のような十四回の人生。そのすべてを見て見ぬふりをしてきたのは、他ならぬ目の前の女神ではないか。

「……本当に、つらかったでしょう?」

エスターが責めるような視線を向けると、エスピトスの纏う雰囲気が、一瞬にしてしっとりと落ち着いたものへと変わった。

「あなたが私を責めていることは分かっているわ。私への不信や憎しみ……あなたがその小さな身体で抱えてきたすべての感情が、ちゃんと私に伝わってきているもの」

「はい。私はあなたを絶対に許しません」

エスターの目は、冷たく、深く沈んでいた。

「あなたには、ずっと申し訳なく思っているわ。何度も、何度も辛い思いをさせてしまったから。でも……言い訳に聞こえるかもしれないけれど、あなたたちの世界に直接干渉できない私にできたのは、あなたの魂を繋ぎ止め、生かし続けることだけだったのよ」

“関与できない”という言葉に、エスターはわずかに首を傾げた。

「あなたは、万能の神なんですよね?」

「契約のせいよ。神である私であっても、その盟約の枠を超えて、あなたたちに直接手を出すことはできないの。それに、かつての水晶球も何百年もかけて人間の欲望で汚染されてしまって、私の力自体もかなり弱まっていたのよ」

「でも、代神官たちにはお告げを出していたじゃないですか。そうやって、声だけでも私に伝えることはできたはずなのに……」

「それにも厳しい制約があるの。神殿の内部で、莫大な聖力を媒介にしてしか、外に意志を伝えることはできない。しかも、昔に比べて――あなたの聖力はとても弱かったし、そもそも、あなたは私に祈りもしなかったでしょう?」

エスピトスは、私の苦労も分かってくれないのねと言わんばかりに深くため息をつき、言葉を続けた。

「あの薄暗い地下の牢獄で、あなたの意識にほんの少し入り込むだけでも、どれほど難しかったことか」

「牢獄……?」

一瞬きょとんとしたエスターは、すぐに何かに気づいたようにハッと唇を噛んだ。これまで神の声が届いていたのは、死の直前の“あの瞬間”――絶望の淵にいた自分にだけだった理由を、ようやく理解したのだ。

「じゃあ、私が前に感じていたあれも、本当に……」

前世の数々の中、暗い牢に閉じ込められ、一人で泣き疲れて眠りに落ちるとき。ときどき、誰もいないはずなのに、誰かがそっとそばに寄り添ってくれているような温かい気配を感じたことがあった。

ただの寂しさが見せた錯覚だと思っていたけれど――あれは、エスピトスの必死の顕現だったのかもしれない。

「毎回、この言葉をあなたに伝えたかったの。過酷な運命に耐えてくれて、ありがとうって。こんなにも重いものをあなた一人に背負わせてしまって、本当にごめんなさいって」

さっきまでの無邪気な子どものような雰囲気は消え、エスピトスの声には神としての深い重みが宿っていた。

エスターはまた涙がこみ上げてきそうになり、それを拒むようにぐっと目に力を入れた。

「……そこまでして、どうして私を何度も生かし続けたんですか?」

「あなたしか、世界を救う希望がなかったからよ」

エスピトスの瞳は、怒っているようにも見えるほど、どこまでも澄みきっていて純粋だった。

「このままだと、帝国は確実に滅びる。そんな無惨な未来を、私はすでに十四回も特等席で見せられてきたのよ」

「じゃあ、さっき地下で見た、あの禍々しい黒い気配って……?」

「そう。あれは人々の尽きない欲望を糧に育った、“闇”の塊の始まり。あのまま放っておけば、結界は完全に破られ、やがて世界を浸食して、帝国全体を永遠の闇に沈めてしまっていたはずよ」

そんな恐ろしい未来など想像したこともなかったエスターは、思わず息を呑み、己の腕をきつく抱きしめた。

「もう……大丈夫なんですよね?」

「ええ。あなたが水晶球を完璧に壊してくれたでしょう? あなたがその手で、滅亡の未来を完全に変えたのよ」

「でも……結果的に結界は壊れたままですし、まだ世界は危険なんじゃ……」

「それもそうね。だから、手遅れになる前に、今ここで新しい結界を作らなければいけないの」

エスピトスがしなやかに腕を持ち上げると、周囲で楽しげにさえずっていた鳥たちが、吸い寄せられるように彼女の指先へと集まってきた。庭の一角とは思えないほど美しいその光景は、思わず見とれてしまうほど幻想的だった。

「ここは、かつてオスティン帝国が初めて築かれた場所。私が初めて初代聖女レイリアと契約を交わした、じまりの地でもあるのよ。レイリアは、ちょうどあなたが今座っているその場所に座っていたわ」

エスターは驚きながら、改めて自分が座る石の椅子と周囲の庭園を見渡した。

「私はここで、とても長い間、この国と人間たちを見守ってきたの」

その瞬間、エスターの頭の中に、エスピトスが遥かなる時の中で見てきた光景が一気に流れ込んできた。

地平線の先まで続く広大な大地、息をのむほど美しい四季折々の自然、そして、平凡だからこそかけがえのない、愛おしい人々の温かい日常――。

「もう一度、この美しい帝国を守れるように、私を手伝ってくれる?」

「……私が、ですか?」

ぼんやりとそのまばゆい光景に見入っていたエスターは、突然の神からの申し出に驚いて、思わず自分を指差した。

「ええ。あなたが私と、新しく完璧な契約を結んでくれればいいのよ」

エスターが答えに詰まって口を閉ざすと、エスピトスはそれを見透かしたようにくすりと笑った。

「また自分だけに重荷を背負わされるって、そう思って怒っているの?」

「はい……。終わりがないんです。何度も私を生き返らせて水晶球を壊させたかと思えば、今度は新しい契約だなんて……」

なんだか自分ばかりが理不尽な目に遭っている気がして、エスターが頬をふくらませてぶつぶつと文句を言うと、エスピトスはたまらなく愛おしそうに目を細めた。

「あなたが、特別だからよ。あなたはすべての祝福を一身に受けて生まれた子なんだから」

「祝福ですか? 私はずっと、自分が神に呪われているのだと思っていました」

「そんなはずないわ。今まで、あなた以上に私の愛を注がれて生まれてきた子はいないもの」

エスピトスの声は、たとえそれが優しい嘘だとしても、そのまま信じてしまいたくなるほど甘く、心地よく響いた。

しばらく彼女をじっと見つめていたエスターは、小さくため息をついて、諦めたように再び席に座り直した。

「……どうすればいいんですか?」

するとエスピトスは一歩近づき、いたずらっぽく微笑みながら言った。

「私に向かって、手を伸ばして」

「こう、ですか?」

「そう、そのまま、私と手を重ねて」

エスピトスの透き通るような手のひらと、エスターの小さな手のひらが、そっと触れ合った。

その瞬間、かすかな地鳴りのような震えとともに、二人の手の隙間から眩いばかりの明るい光があふれ出した。

エスピトスはその手をゆっくりと動かし、石のテーブルの上へと乗せた。次第に強くなっていく光は、やがて二人をすっぽりと包み込み、そのまま凄まじい勢いで広がって空間全体を真っ白に照らし出した。

いつの間にか、周囲にあった美しい庭園も花もすべて消え去っていた。

無限に続くかのような白い光の中に、エスターとエスピトスの二人だけが静かに残されている。

「この新しい契約を結べば、聖女としてのあなたの力は、そのほとんどが失われることになるわ」

「……望むところです。私は聖女としてではなく、一人のエスターとして生きていきたいので」

「ええ、分かっているわ。それでも――あなたがその天寿を全うして死ぬまでは、この世界に新しい聖女は現れないのよ」

エスターがしっかりと頷いて同意すると、重ねていた二人の手から、今度は金色の糸のような輝きが無数にあふれ出した。

細く長い光の糸はこの白い空間を満たしながら、遥か遠くの現実世界へと伸びていき、帝国のあちこちへと広がっていく。息をのむほどに、美しい光景だった。

エスターは、まるで世界を支える光の柱のように広がる金の糸が織りなす幻想的な景色を、ただ呆然と見つめていた。

「これで、私の聖なる力はあなたと、そして将来、あなたの子孫にだけ受け継がれることになるわ」

「えっ……? それって、私の子供たちにとっても呪いになりませんか?」

「そこは『祝福』と言ってくれないかしら?」

「……」

納得できない様子でエスターが抗議しようとしたが、エスピトスはすでに契約は完全に結ばれたものだと言わんばかりに、楽しそうに笑って聞く耳を持たなかった。

「どんな神様なんですか、本当に……」

「あなたが、それほどまでに大切だからよ」

むっとした顔でエスピトスを睨んでいたエスターだったが、ふいに何かを感じ取って首をかしげ、耳を澄ませた。

「さっきから気になっていたんですけど……誰かが、私の名前を必死に呼んでいる気がします」

エスターの言葉に、エスピトスは困ったように両肩をすくめた。

「今さら気づいたの? 私はさっきから、お前の耳元で『エスター!』って痛くなるくらい大声で騒がれているわよ。うるさすぎて、あなたと満足に話もできないくらいだわ」

いつの間にかまた親しみやすい様子に戻ったエスピトスは、くすくす笑いながら前に手を差し出した。

「もう少しあなたと話していたいけれど、そろそろ現実へ帰してあげないとね」

彼女が手を振ると、金色に輝く長い通路のような光の道が、二人の前にまっすぐに現れた。

「この道を迷わず進めば、あなたの愛する世界に戻れるわ」

「それでは、失礼します」

道が現れた途端、エスターはぱっと嬉しそうな笑顔を浮かべ、迷うことなくその道へと足を踏み出した。

「後悔しないとは分かっていたけれど……それでも、ちょっと寂しいわね」

振り返ることなく歩き出したエスターの小さな背中を、エスピトスはどこか切なげな目で見つめていた。

その時だった。

このまま光の彼方へ進んでいくと思われたエスターが、ふいにピタリと足を止めたのだ。そしてくるりと振り返ると、再びエスピトスの方へと、タタタと小走りで戻ってきた。

「……な、なんで? どうしたの? そんなに私との別れが名残惜しくなっちゃった? それとも、一発くらい私を殴っていく? 私、これでも神様なんだけど」

口をぎゅっと結んだまま近づいてくるエスターの様子に、戸惑ったエスピトスはぱちぱちと瞬きをしながら、思わず一歩後ずさった。

「はい。なんだか、このまま何もせずに帰るのは悔しくて」

エスターは小さな拳を固く握りしめ、それを高く持ち上げた。そして、その拳で本当にエスピトスへ向かって殴りかかろうとして――。

その拳は、エスピトスの肩へ向かって容赦なく振り下ろされた。

神であるエスピトスなら、当然十分に避けられたはずだった。しかし、彼女は避けることなくその場に佇み、エスターの怒りを受けるつもりでいた。もしエスターが本気で自分を殴るのなら、彼女の気が済むまで何発でも受ける、それが神としてのせめてもの贖罪だと。

だが、エスターの拳は当たる直前でふっと力が抜け、エスピトスの腕にぽむ、と軽く触れるだけに終わった。

「あなたのこと、簡単に許すつもりはありません。今回、あなたの言う通りにしたのも、私の大切な家族やみんなを守りたかっただけですから」

殴る代わりに、エスターはその小さな手でエスピトスの両腕をぎゅっと掴んだ。

「わかっているわ。許してほしいなんて、最初から思っていないもの」

エスピトスは痛い痛いと大げさに顔をしかめながらも、どこか嬉しそうに微笑んだ。

すると、決意を秘めた瞳をしたエスターが、そのままエスピトスの細い身体を強く抱きしめた。

「それでも……今の素敵なお父さんやみんなに会わせてくれて――私を、もう一度生き返らせてくれて、本当にありがとうございました。もし、あのまま何も知らずに死んでいたら、私はこんな温かい幸せを知らないままでした」

思いがけない純粋な感謝の言葉に、エスピトスは少し驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくりと愛おしそうに目を閉じると、壊れ物を扱うように優しく、エスターを抱きしめ返した。

「……ごめんね」

その声に込められた微かな震えと涙の気配は、エスターの耳にもはっきりと届いていた。

「……じゃあ、もう本当に帰りますね」

少し気まずそうに体を離したエスターは、自分の感傷的な行動が急に恥ずかしくなったように、ぷいと視線をそらした。

「これからは、もう死んでも二度と生き返ることはないって、ちゃんと分かっているでしょうね? 普通の人間と同じ、一度きりのたった一つの人生なんだから、怪我をしないように気をつけなさい」

「当たり前ですよ。不確かな明日があるからこそ、私は毎日を全力で大切に生きるんです」

エスターはもう一度エスピトスに背を向け、今度こそ前に伸びる黄金の道へ向かって力強く走り出した。

しばらく走ったあと、ふと気になって振り返ると、そこにはもうエスピトスの姿はどこにもなかった。

「どこまで続くんだろう……」

結構な距離を歩いたはずなのに、光の通路はまだ先へと伸びている。

すると、通路の周囲に、丸いシャボン玉のような光の玉が一つ、また一つと幻想的に浮かび上がり始めた。

綺麗だな、と見入っていたエスターの目に、ふと、ある一つの光の玉の中に見覚えのある愛しい顔が映り込んだ。

「……ノア?」

浮かび上がる光の玉の中に、苦しそうに眠っているノアの幼い顔が、大きく映し出されていた。ノアは恐ろしい何かにうなされているのか、痛々しく顔をしかめ、額から冷や汗をだらだらと流している。

「悪い夢でも見ているのかな……」

その様子がどうしようもなく心配になったエスターは、元の道から少し外れ、吸い寄せられるようにその光の玉へと近づいた。聖女宮で意識を失う直前、瓦礫の向こうに見えたノアの幻影と同じではないか、そう思ったのだ。

そっとその光の玉に手を触れた、その瞬間――。

「えっ!?」

エスターの身体は、一瞬にしてその光の玉の中へと吸い込まれてしまった。

驚いて周囲を見渡すと、見慣れたどこか陰気なベッドと、大きく開かれた窓が目に入った。

「ここは……皇宮の聖域? でも、どうしてノアがまたこんなところにいるの?」

ひとまず結界の中に入ってしまった以上、エスターはベッドに横たわるノアへとゆっくり近づいていった。

骨が浮き出るほど痩せ細った小さな体に、生気を失ってやつれた顔つき。それは、ノアをいつも以上に鋭く、そして壊れやすく見せていた。

「まだ、すごく幼い……。私と最初に出会う前の頃みたい」

眠っているノアの姿は、エスターが今よく知っている、いつも自信に満ちたノアとは多くの部分で違っていた。あどけなさの残る顔立ちではあるが、それ以上に、見ていられないほど痛々しく、苦しそうに呼吸をしている。

今のノアではない、過去の記憶の残滓だと分かってはいても、目の前の苦しみをどうしても見過ごすことができず、エスターはノアの細い胸にそっと手を置いて、静かに撫でてあげた。

「大丈夫だよ、ノア。悪い夢は、目が覚めればちゃんと終わるから」

エスターの聖力による温もりのおかげか、少しずつノアの表情が和らいできた。そのとき――。

ノアのまつ毛が、わずかに震えた。

「目が……」

ゆっくりと開かれた幼いノアの目を見て、エスターは思わず息をのんで一歩後ずさった。

その瞳には、子供らしいどんな感情も宿っていなかった。すべてを諦め、ただ冷たい死が訪れるのをじっと待っているだけの、虚無の目。エスターには、それが痛いほどはっきりと分かった。

(まるで……昔の私みたい)

今のノアの絶望した姿は、かつて神殿の地下でただ死を願い、ドゥエン大公を必死に探し求めていた頃の自分と完全に重なり、エスターの胸は締めつけられるように痛んだ。

「あなた……私を殺しに来た、新しい暗殺者でしょう? だったら、早く殺してよ。抵抗はしないから」

いつもエスターの前で明るく、人懐っこく笑っているノアからは、到底想像もできないほど冷え切った言葉だった。

(こんなに苦しんでいたんだね、あなたも……)

ノアはどんな困難であっても、一人で笑って乗り越えていく強い男の子なのだと思っていた。でも――本当は、こんなふうに誰にも言えず、限界まで追い詰められていたなんて、思いもしなかった。

「……死にたいの?」

「そうだよ。どうせこんな酷い病気にかかった時点で、俺の命は終わりなんだ。こうして無理に薬漬けにされて延命して生きることに、何の意味もない。いっそ今すぐ死んだ方がましだ」

初めて会ったはずの“暗殺者の少女”に、淡々と殺してほしいと頼みながら、ノアは諦めたように静かに目を閉じた。

「それでも、私はあなたを死なせない」

エスターの毅然とした言葉が意外だったのか、ノアは再びうっすらと目を開け、理解できないという戸惑いの表情を浮かべた。

「家族にさえ、とうに見捨てられたんだ。皇宮のみんな、俺がこのまま静かにここで死ぬことを望んでいる」

「少なくとも、私は違う。だから……耐えて」

エスターは、ベッドの上のノアの痩せた手の上に、そっと自分の小さな手を重ねた。

突然流れ込んできた本物の人間のぬくもりに、ノアの凍りついていた瞳が激しく揺れ動く。

「耐えたら……? 耐えたって、俺の何が変わるっていうんだよ」

「変わるよ。諦めなければ、未来はいくらでも変えられる」

エスターはノアの目をまっすぐに見つめ、包み込むように柔らかく微笑んだ。

すると戸惑ったのか、ノアの白い頬がみるみるうちに林檎のように赤く染まっていく。

「お前……本当に殺し屋じゃなかったのか……? ここは一体どこだ? いや、俺はまだ、都合のいい夢を見ているのか……?」

「うん。これは、夢だよ」

まだ完全に疑いの色を消せない幼いノアは、エスターの顔をじっと見つめたまま、掠れた声で尋ねた。

「……名前は?」

「ふふっ」

エスターは目を丸くし、くすっと小さく笑った。

そういえば――現実の世界で、聖域で初めて正式に会ったとき、ノアはどうして初対面のはずの自分の名前を最初から知っていたのだろう。あのときは不思議に思っていたけれど、今のノアはこうして私を警戒し、名前を尋ねてきている。

「これも、最初から決められていた運命だったのかな」

エスターはふっとベッドの方へ体を沈め、横たわるノアの細い首元に、そっと愛おしさを込めて腕を回した。

「な、何して……やっぱり、油断させて俺を殺しに来たのか……!?」

耳まで真っ赤にして戸惑うノアの耳元で、エスターは静かに、けれど優しくささやいた。

「エスター。私は、エスターだよ」

その大切な名前を告げた瞬間、エスターの身体は、来た時と同じように光の粒子となってふっと姿を消した。

「え……?」

突然目の前からいなくなった少女を探すように、ノアは何度も何度も瞬きをし、やがて信じられないというように己の頭を乱暴にかきむしった。

「本当に、ただの夢だったのか……? それとも、俺はついに死に際で幻覚まで見始めたのか……」

再び一人きりに戻されたノアの視界は暗く沈み、彼は光を拒むように、自分の腕で痛む目を覆った。

それでも――その日から、幼いノアの頭の中には、「エスター」という一つの美しい名前が、決して消えない楔のように深く刻み込まれていた。

それは、皇宮から一人寂しく追い出されて以来、ずっと絶望で空っぽだったノアの瞳に、再び生きるための小さな光が宿り始めた、記念すべき日でもあった。

 



 

 

  • 女神エスピトスとの新たな契約と、一度きりの人生の獲得

    エスターは女神エスピトスと対面し、14回もの過酷なループの真相と、自分が世界を滅亡から救ったことを知ります。そして世界を維持するための新たな結界の契約を結んだことで、エスターは聖女の力をほぼ失う代わりに、二度と生き返ることのない「一度きりの普通の人間としての人生」を歩むことになりました。

  • 現実世界への帰還途中で迷い込んだ「幼いノアの精神世界」

    現実世界へと続く光の道を戻る途中、エスターはかつて皇宮の聖域で病に苦しみ、孤独と絶望の淵にいた「幼い頃のノア」の夢(記憶の残滓)を見つけ、その中に吸い込まれてしまいます。

  • ノアの生きる希望となった「エスター」という名前の伏線回収

    すべてを諦めて死を望む幼いノアに対し、エスターは「諦めなければ未来は変えられる」と抱きしめて励まし、別れ際に自分の名前を告げます。これがノアの生きる光となり、現実世界での初対面時にノアがなぜ最初から彼女の名前を知っていたのか、という運命の伏線がここで回収されました。

 

 

 

【公爵邸の囚われ王女様】まとめ こんにちは、ちゃむです。 「公爵邸の囚われ王女様」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介となって...