こんにちは、ちゃむです。
「余命わずかな令嬢が黒幕家に偽装就職したら」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
47話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 覚醒する神聖樹
ゆっくりと周囲を見回したレモンの口元に、薄く冷たい笑みが浮かぶ。
「リビアさんも、ずいぶん大変な目に遭ったようですね」
彼の視線は、祭壇の下に転がした、半ば焼け焦げた男の死体へと向けられていた。
私は笑う気力すら湧かず、疲れ切った声で言った。
「ちょうどよかったです……。レモンさん、少し手を貸してもらえますか?」
すると、私をじっと見つめた彼は、意味ありげに口角を上げてみせた。
「おや、私を働かせるのですか? それ相応の報酬が必要になるのですが」
「そ、それは……」
今の私に支払える対価などあるだろうか。思わず口篭った私を見て、彼は一歩近づき、楽しげに言葉を続けた。
「まあ、リビアさんには返してもらうべき恩がたくさんありますからね。今回は特別に、無料(タダ)でお手伝いしましょう」
いたずらっぽく片目をつむってみせる彼の背後に、一瞬、本当に後光が差しているように見えた。胸いっぱいに強烈な感激を覚えながら、私はレモンを促して、横たわるカーディエンのもとへ急いだ。
「閣下を運ばないといけないのですが、私一人では重くて……一緒に――」
「よいしょ」
少し手伝ってもらおうと言いかけたその瞬間、レモンはカーディエンの腕を己の肩に回すと、あの大柄な体を驚くほど軽々と持ち上げてしまった。
唖然とする私を尻目に、レモンは淡々と言葉を紡ぐ。
「リビアさん。今のご自分の姿がどんな状態か、客観的にご存じですか?」
「私の姿、ですか?」
「ええ。これ以上『一緒に運びましょう』なんて言ったら、私が運ばなければならない人間が二人に増えるだけですよ。今のあなたは」
「あ……」
促されて、私は自分の姿を見下ろした。そこでようやく、暗がりで見落としていた己の凄惨な状態が視界に入る。
せっかくカーディエンが贈ってくれたお気に入りのドレスも靴も、あちこちが無残に裂け、どす黒い血に汚れていた。そのうえ、さっき拭ったばかりの鼻血がまた垂れていたのだろう。顔もきっと、直視できないほどひどい有様になっているに違いない。
「これくらい、まだ大丈夫で――」
強がりの言葉は、最後まで紡げなかった。気づけばレモンは、カーディエンを背負ったまま、躊躇なく壁の向こうの隠し通路へと進んでいたからだ。彼はちらりと振り返り、首を傾げた。
「来ないのですか?」
「……行きます」
慌てて荷物を背負い直し、私は彼の背中を追いかけた。
細く暗い通路を進みながら、ずっと気になっていた疑問を口にする。
「ところで、どうやって私を見つけたんですか?」
レモンは前を向いたまま、のんびりとした口調で答えた。
「リビアさんはご存じないでしょうけれど、私はあなたが会場に入った瞬間から、ずっとその一挙手一投足を見守っていたんですよ」
「……私をですか?」
なぜか背筋にゾクリとしたものが走り、思わず隣の彼の横顔を見つめると、レモンは含みのある笑みを深めた。
「おっと、誤解しないでください。ストーカーの類ではありませんよ。ただ……気づけばリビアさんの周囲では、面白い事件が次々と巻き起こるものですから」
「……」
「それに今回は、なかなか興味深いものを見せてもらいましたしね」
そう語るレモンの表情には、確実に何かを確信したような色のニュアンスが混じっていた。
「とにかく、あなたが急に会場から姿を消したので探していたところ、怪しい動きをする不審な男を見つけましてね。その後を追ったら、この場所にたどり着いたというわけです」
「その、不審な男というのは……?」
「知らなくてもいいことというのは、世の中にたくさんあるものですよ」
さらりと流された。けれど、私は見逃さなかった。
前を歩くレモンの神官服の袖口に、かすかに付着した生々しい血痕を。……その赤は、まだ完全に乾いてさえいなかった。
「中に入ってみれば凄まじい戦闘の形跡がありましたから、もしやと思ったのです」
「わざわざ『運命の蝶』なんて遠回しな言い方をして近づいてきたのは……」
「うっかり大きな声を出して、他の者にリビアさんの正体が知られては困るでしょう?」
どこまでも抜け目がない。さすがは裏社会を統べる情報ギルドのマスターだ。
「それはそうと……」
言葉を区切った彼の口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「どうやら私たちには、お互いに話し合わなければならないことがたくさんありそうですね」
「……レモンさんも、何か分かったことがあるんですか?」
「ええ。今回の潜入、収穫は決して少なくありませんでした」
自信に満ちた笑みを湛えるレモンと会話を交わしながら進むうち、前方からほのかな自然の光が差し込んできた。出口が近い。私とレモンは、自然と足早になった。
外へ出た瞬間、視界が一気に開ける。
同時に、私の目に一本の巨大な大木が飛び込んできた。
「この木は……」
ここは一体どこなのだろう。私は呆然と、その圧倒的な存在感を放つ大木を見上げた。
途方もなく巨大な木だった。しかし、今は真冬であるとはいえ、葉を一枚も残さず、まるで完全に死に絶えた枯れ木のような姿を晒している。何より異様なのは、その大木が、神殿の広大な中庭のような内部空間にそびえ立っていることだった。
立ち尽くす私の隣に、カーディエンを背負ったレモンが並ぶ。
「神聖樹です」
「神聖樹、ですか?」
初めて耳にする名前に私が首を傾げると、レモンはどこか複雑な、冷ややかな目でその木を見つめ、唇を軽く噛んだ。
「私もこの場所に潜入して初めて存在を知った木です。伝承によれば、女神テレイアがこのラグラナシア帝国に直接もたらしたという神聖な木だそうですよ。この木を中心に神殿が建築されたため、こうして建物の真ん中にそびえ立っているのです」
「女神がもたらした、神聖な木……」
これが?
微妙な表情を隠せない私を見て、レモンは私の思考を完璧に読み取ったように苦笑した。
「女神の奇跡にしては……ずいぶん痛々しく、枯れ果てた姿だと思いませんか?」
「……」
不敬かもしれないが、まさにその通りだった。私には、ただ静かに朽ちていくだけの、何の変哲もない巨大な枯れ木にしか見えなかった。
レモンは他人事のように肩をすくめる。
「私も正直、これが本当に神のもたらした神秘だとは信じていません。昔は乱立する宗教を一つにまとめるのが難しかったでしょうからね。こうして『神聖樹』という分かりやすいシンボルを作り上げ、人々をマインドコントロールして団結させたのでしょう。それに――」
レモンはどこか冷淡に言葉を失わせたが、私はなぜか、その痛々しい大木から目を離すことができなかった。
もしこれが、本当に神の意志の残滓なのだとしたら。
少しずつ、けれど確実に命をすり減らし、枯死していくその姿が――今、この世界で命の期限を突きつけられている自分自身の姿と重なって見えて仕方がなかったのだ。
私は吸い寄せられるように一歩近づき、ひび割れた冷たい樹皮に、そっと右手のひらを当てた。
生命の脈動は、何も感じられなかった。
「リビアさん、そろそろ行きましょう。長居は危険です」
レモンに促され、私は名残惜しさを覚えながらも木から手を離し、歩き出した。
人気のない静まり返った廊下をいくつか横切り、神殿の脇道へと抜ける。そこには、あらかじめ手配されていた一台の馬車が待機していた。メルセデス公爵家の紋章が入っていない、レモンが個人で用意した隠密用の馬車だ。
(本当に、この人の準備の良さには恐れ入るわ……)
感心しながら馬車に乗り込み、シートに深く身体を沈める。
「こんなふうに勝手に抜け出して、地上で怪しまれませんか?」
心配になって尋ねると、レモンは気にするなと手を振った。
「すでに儀式の退屈さに飽きて帰路についた貴族は大勢います。その流れに自然に紛れ込めば問題ありません。それに、メルセデス家の本物の馬車は、先にお屋敷へ帰るよう手を回しておきましたから」
「……そうなのですね、よかった」
ようやく緊張の破片が解け、私はどっと押し寄せた疲労に身を任せた。
座席に横たえられたカーディエンの青白い横顔を見つめる。
「閣下は……大丈夫でしょうか」
「先ほど軽く診てみましたが、外傷の類は一切ありませんね。むしろ肉体の衰弱度合いだけで言えば、リビアさん、あなたの方が何倍も深刻ですよ」
「私は大丈夫です」
内臓がひっくり返るような苦痛はあったが、外傷はない。それよりも心配なのは、カーディエンが原作にない形で、あの禍々しい魔力を自らの内に取り戻し、制御してしまったという事実だった。
馬車は神殿の重厚な門衛を欺き、王都の街並みを勢いよく走り始める。
遠ざかっていく神殿の輪郭を見つめながら、私はおそるおそるレモンに向き直った。
「……あの、襲撃してきた男性は、どうなったのでしょう」
「……ああ、あの男ですか」
一瞬きょとんとしたレモンだったが、すぐに合点がいったように頷いた。
「最初は狂乱状態でかなり抵抗したようですが、神殿の警備兵にすぐに制圧されたそうです。すでに神殿側が検死のために遺体を回収したと聞いています。近いうちに、トカゲの尻尾切りとして身元も公表されるでしょう」
「やはり、そうなのですね……」
「何か、気になることでも?」
レモンの探るような視線に、私は少しためらってから事実を告げた。
「実は……あの男の首に触れた瞬間、彼の記憶が見えたんです」
「記憶? あ底の能力ですか。リビアさんの、あの特別な力」
「はい」
「一体、何を見たのですか?」
レモンは穏やかな口調を崩さないが、そのレモン色の瞳は知的な好奇心で鋭く光っていた。
私は視線を落とし、脳裏に焼き付いた光景を呼び起こす。
「……あの男が、人間から実験によって怪物へと変貌させられるまでの、おぞましい記憶です。ただ、核心的な部分――誰がそれを行ったのかという部分だけは、まるで意図的に切り取られたように途切れていました」
「興味深いですね。それで、何か手がかりになるような名前は?」
「……ジェフリー。ジェフリー・カスパートという名前が、明確に残っていました」
「ジェフリー・カスパート……。少し前に突如失踪した、学院の神学教授ですね。そして――」
レモンはそこで一度言葉を区切り、静かに付け加えた。
「以前、リビアさんを誘拐した主犯格でもある」
私は小さく頷いた。あの断片的な記憶の中に映っていた、白衣を着て冷酷な指示を出していた男は、間違いなくジェフリー・カスパートだった。
「レモンさん、覚えていますか? 以前、私が調査をお願いした『神殿の裏側』という禁書の著者で、元神学科教授だった人物を」
「セルレベル・ナデル、ですね」
レモンが不敵な笑みを浮かべた。まるで、私が次に紡ぐ言葉をすべて予期していたかのように。
ジェフリーの前に神学科の最高権威として君臨していたセルレベル・ナデルもまた、ある日突然、不可解な辞表を提出して学院を去っていた。その直後に後任として教授の座に就いたのがジェフリーだ。それ以来、セルレベル・ナデルの行方は完全に途絶えている。
「ジェフリーがあの男の狂気の実験に関わっていたのだとすれば……」
「それだけでは、まだ彼らが繋がっているという決定的な証拠にはなりませんね」
「……あの男は記憶の中で、血を吐きながら一冊の本を書いていました。そして、その本を、学院の図書館の隠し本棚に隠していたんです」
「なるほど……」
レモンの目が細められた。彼は深く頷くと、確信に満ちた声で言った。
「それだけの具体性があるなら、調べる価値は十分にあります。セルレベル・ナデルと図書館の隠し部屋について、ギルドの総力を挙げて裏を調査してみましょう」
「ありがとうございます、レモンさん」
「では、今度は私の収穫をお話しする番ですね。ですが――」
その瞬間だった。
ガタン!と馬車が大きく揺れ、不自然に停止した。
驚いて窓の外を見ると、そこには見慣れたメルセデス公爵邸の重厚な正門がそびえ立っていた。
「着きましたよ」
レモンは軽く衣擦れの音を立てて席を立った。「私の話は、また次の機会にしましょう」
「待ってください! でも、レモンさんはもうルーン商会には……休職中なのでしょう? どこへ行けばまた会えますか?」
私の焦るような問いに、レモンはひどく意味深に微笑んだ。
「その心配はなさらなくても、大丈夫ですよ」
「え……?」
どういう意味だろう。答えを窮したその瞬間、馬車の扉が外から勢いよく開け放たれた。
「えっ、あ、あの、これは一体……!?」
振り返ると、そこには顔を驚愕に歪めた執事のウィンストンが立っていた。隣にはチェルシーも控えており、彼女もまた、信じられないものを見たというように目を見開いている。
二人の見慣れた顔を見た瞬間、張り詰めていた緊張の糸が音を立てて切れた。全身から急速に力が抜けていく。
「あ……」
「せ、先生――っ!?」
ウィンストンの切迫した叫び声が遠くで響く。
最後に、座席で固く目を閉じたままのカーディエンの姿を視界に焼き付けながら、私の意識は深い闇の底へと沈んでいった。
***
薄暗い月明かりだけが冷たく差し込む、神殿の地下廊下。
コツ、コツと、二つの足音が静かに響き渡っていた。
「彼はこの隠し部屋で、我が神へ捧げられる最高にして最後の『供物』となるはずでした。まさか、あの厳重な結界を破って逃げ出すなどとは想定外でしたが」
重々しく苦渋に満ちた男の声が、無機質な石壁に跳ね返る。
その視線は、隣を歩く一人の女性へと向けられていた。豊かな白髪を湛えた彼女に対し、男は一瞬言葉を濁すと、深く頭を下げた。
「供物の管理を怠り、このような不始末を演じたこと、すべては大神官である私の責任です。どのような処罰も受け入れます、セレスティナ様」
「ふふ、カルビヌロ様。そんなに怯えなくとも、あなたをお責めするつもりはありませんわ」
春の陽だまりのように穏やかで、底知れない慈愛に満ちた優しい声。
しかし、その声を耳にした瞬間、カルビヌロは大神官という地位にありながら、蛇に睨まれた蛙のように小さく身体を震わせた。
セレスティナの完璧に整った美貌には、薄い、妖艶な笑みが浮かんでいた。
「むしろ……私は面白いものを見つけた気がするのです」
「面白いもの、ですか……?」
カルビヌロが怪訝そうに問いかけ、振り返ろうとした、まさにその時だった。
セレスティナの足が、ぴたりと止まった。
視線の先にある空間を見つめたまま、彼女の動きが凍りつく。連動して立ち止まったカルビヌロが、彼女の視線を追って顔を上げた瞬間――その茶色の瞳は、驚愕のあまり限界まで見開かれた。
広い中庭の空間が、息を呑むような銀色の輝きで満たされていた。
「こ、これは……なんということだ……」
震える唇から、掠れた声が漏れ出す。
「テレイアの樹が……!!」
女神テレイアが帝国へ授けたとされ、何百年も前に完全に枯れ果て、ただの巨大な死に木と化していたはずの『神聖樹』。
その死せる大木が――今、圧倒的な銀色の光の粒子をまとわらせ、まるで命を得たかのように、幻想的な光の花を満開に咲き誇らせていたのだ。
カルビヌロの瞳が激しく恐怖と興奮で揺れる中、セレスティナの笑みはさらに深く、昏く広がっていく。
「やはり……“それ”がここを訪れたのですね」
「“それ”とは一体……?」
カルビヌロの慎重な問いには答えず、セレスティナは静かな足取りで神聖樹へと歩み寄った。彼女がその白く細い手のひらで幹にそっと触れると、荒れ狂うような銀色の輝きは、名残惜しそうにゆっくりと収束し、彼女の肌へと溶けていく。
「私たちが、ずっと、ずっと探し求めていた本物の光(うつわ)」
「……」
カルビヌロの表情が、冷徹な歓喜へと引き締まる。
まるで愛おしい我が子の頭をなでるかのように、優しく、優しく巨木の幹を撫でさすりながら、セレスティナは恍惚とした表情で小さく呟いた。
「ようやく見つけたわ、リビア・フリントン」
ゆっくりと振り返った彼女は、大神官へ向けて、この世の誰よりも美しい聖母のような微笑みを投げかけた。
「――彼を、利用する時が来ましたね」
「それでは……」
「ええ。私の、可愛い可愛い人形(カーディエン)を」
そう告げるセレスティナの表情は、狂気的なまでの慈愛に満ち溢れていた。
***
「……それで……」
「じゃあ、本当に……」
ざわざわ、と。
まるで深い水底に沈んでいるかのように、人々の話し声がぼんやりと鼓膜に届く。
私は重い、鉛のようなまぶたをゆっくりと開けた。何度か瞬きを繰り返すと、霞んでいた視界が徐々に輪郭を取り戻していく。
(……見慣れた、私の部屋の天井だ……)
ぼんやりと天井の木目を眺めていると、すぐ近くから切迫した話し声が聞こえ、私はそちらへ顔を向けた。
一人は、泣き出しそうな顔をしたチェルシー。そしてもう一人は――。
「ですから、決して安静を怠っては――あっ、意識が戻られましたか!?」
真っ白な高級ガウンを身にまとった、見知らぬ灰色の髪の男性が、私と目が合った瞬間に驚愕の声を上げた。
その様子を見るや否や、チェルシーが弾かれたようにベッドサイドへ駆け寄ってくる。
「先生! お気づきになったのですね!? 私のことが分かりますか?」
「……チェルシー……」
掠れた声で名前を呼ぶと、チェルシーは決壊しそうだった涙を堪え、ホッとしたように胸をなで下ろした。
すかさず、隣の灰色の髪の男性が上品に歩み寄り、一礼する。
「意識が戻られて本当に安心いたしました。はじめまして、フリントン先生。私はメルチェデス公爵家の主治医を務めております、シグモンと申します」
「主治医、ですか……?」
私は怪訝そうに彼を見つめた。公爵家に主治医がいること自体は当然だが、私はこの屋敷に来てから一度も彼の姿を見たことがなかったからだ。
私の疑問を察したように、シグモンは穏やかに微笑んだ。
「医学のさらなる探求のため、大陸一周の視察旅に出ておりましてね。少し前に帰国したばかりなのです。そうして帰国した途端、執事長から大慌てで呼び出されまして……本当に心臓が止まるかと思いましたよ」
「わ、私……うっ」
状況を把握しようと上体を起こしかけた瞬間、凄まじい立ちくらみと目眩が私を襲った。
視界がぐにゃりと歪み、崩れそうになった私の肩を、チェルシーが慌てて強い力で支える。
その様子を見ながら、シグモンが厳しい医者の表情になって口を開いた。
「重度の魔力枯渇による衰弱です。幸い大きな外傷はありませんが、細胞レベルで疲弊している。しばらくは絶対安静、ベッドから動くことも許されません。その旨はチェルシーにも厳命してあります」
私は力なく頷くしかなかった。あの凄まじい暴走魔力に巻き込まれて、この程度のハサミで済んだのなら奇跡に近い。
「では、私は薬の調合がありますので、また後ほど伺います」
彼が部屋の扉へ向かった、その時だった。私は必死に声を絞り出した。
「待ってください……! 閣下は、カーディエン様はご無事なのですか!?」
シグモンはピタリと足を止め、振り返った。しかし、その顔にはどこかぎこちない、不自然な笑みが浮かんでいた。
「……閣下はご無事です。命に別状はありません。ですから先生はどうかご心配なさらず、ゆっくりとお休みください」
それだけ言い残すと、シグモンはまるで私の追及から逃れるかのように、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
パタンと閉まった扉を、私は釈然としない思いで見つめる。
(カーディエンが無事なら、それで安心のはずなのに……)
どうして、こんなにも胸の奥がざわつくのだろう。シグモンのあの妙に歯切れの悪い態度が、嫌な予感を加速させる。
私は縋るような思いで、隣に立つチェルシーへと視線を向けた。彼女なら、何か事情を知っているかもしれない。
だが――彼女と目が合った瞬間、私の口は完全に凍りついた。
チェルシーの表情は、出会ってから一度も見せたことがないほど、冷酷なまでに頑なで、張り詰めていたからだ。
「チェル……」
「お休みください、先生」
「でも、閣下の状態がもっと詳しく知りたくて――」
「お休みください」
「……はい」
こうなった時のチェルシーは、私が何を言おうと絶対に耳を貸さない。私は抗うのを諦め、大人しくシーツを被って横になるしかなかった。
「スープと、精神を安定させる薬をお持ちします。それまで、どうか動かないでくださいね」
「待って、チェルシ――」
私の制止も虚しく、チェルシーは流れるような動作で部屋を退出していった。
バタン、という閉扉音の直後、気のせいだろうか――外側から「カチャリ」と、静かに鍵をかける音が聞こえた気がした。
――それから、一週間が経過した。
シグモンは毎日欠かさず部屋を訪れ、私の体調を細かく診察してくれた。七日目、彼はようやく満足そうに頷いた。
「素晴らしい回復力だ。これならば、明日から少しずつ、室内や庭の散歩程度の活動を再開しても問題ないでしょう」
「ありがとうございます、シグモンさん」
「ですが、決して無理をして魔力を練ろうとはしないでくださいね。その理由は……ご自身が一番よく分かっているはずだ」
シグモンの真剣な眼差しに、私は苦笑しながら小さく頷いた。
(魔力病、のことね……)
こうして体調を崩すたびに、自分の魂に刻まれた呪いのような病が、今この瞬間にも寿命を削り続けている現実を突きつけられる。
「では、本日の診察はこれで……」
「待ってください!」
立ち上がろうとするシグモンを、私は遮るように呼び止めた。この一週間、毎日欠かさず問いかけ、そのたびにかわされてきた質問をぶつける。
「閣下のご様子は、どうなのですか? もう一週間も経つのに、なぜ一度も私に会いに来てくださらないのですか?」
ガチャ、パタン。
シグモンは私の質問に答えるどころか、恐ろしいほどの素早さでカバンをまとめ、逃げるように部屋を飛び出していってしまった。
取り残された私は、恨めしげに閉まった扉を見つめ、すぐ横に控える鉄壁の侍女へと視線をスライドさせる。
チェルシーは、私が口を開く前にぴしゃりと首を横に振った。
「いけません」
「……まだ、一言も発していませんけれど」
「ご主人様(閣下)にお会いしたい、とおっしゃるつもりでしょう」
「……」
私はぎゅっと唇を結んだ。チェルシーはいつの間に、カーディエンのようなおぞましい読心術を身につけたのだろうか。
とはいえ、この数日間、私が何度懇願しても返ってくるのは「いけません」という冷徹な一言だけだった。
「チェルシー、私はもう本当に元気よ。シグモンさんだって、もう動いていいって太鼓判を押してくれたじゃない」
「はい。ですから、お庭のお散歩でしたらお許しいたします。当然、私も片時も離れず同行いたしますが」
『鉄壁』という言葉を人間の形にするならば、まさに目の前の彼女のことだろう。似たような不毛な押し問答は、この数日で数え切れないほど繰り返してきた。だから、私は知っている。チェルシーが一度決めたら、絶対にテコでも動かない頑固者だということを。
(……仕方ないわね)
だからといって、チェルシーの目を盗んで部屋を抜け出そうなどとは微塵も思わなかった。そもそも、この有能すぎる侍女を欺ける自信など万に一つもない。
となれば、残された手段は一つだけだ。
「分かったわ、チェルシー。あなたの言う通りにする」
私は殊更に素直に頷いてみせた。チェルシーが、訝しげな静かな眼差しで私を見つめてくる。
私はその黒真珠のような美しい瞳をまっすぐに見つめ返し、悪戯っぽく微笑んだ。
「その代わり――私から、一つだけ『お願い』を聞いてくれない?」
***
公爵家の最奥、主人の寝室の前。
ウィンストンは、酷く険しい苦渋の表情で正面の扉を見つめていた。
やがて、部屋の中から診察を終えたシグモンが疲れた様子で腰を伸ばし、部屋から出てくる。ウィンストンは弾かれたように彼のもとへ歩み寄った。
「シグモン殿……どうでしょうか」
シグモンはかける言葉を持ち合わせないように、ただ静かに、重く首を横に振るだけだった。
「そんな……」
ウィンストンの茶色い瞳に、深い絶望の色が濃く滲む。
彼の視線は、シグモンの肩越しに、部屋の奥へと向けられた。
天蓋付きの広いベッドの上には、カーディエンが固く目を閉じたまま、微動だにせず横たわっている。
かつての暴走時であれば、死人のように禍々しい黒い気流を放っていただろう。だが今の彼は、皮肉なほどに穏やかで、ただ深く、静かな眠りについているようにしか見えなかった。
以前の自分であれば、その穏やかな寝顔を見て、涙を流して喜んでいただろう。カーディエンを蝕んでいた狂気の魔力――『神の祝福』という名の呪いが、ようやく鎮まったのだと。
だが、どんな祝福も、許容量を超えればただの凄惨な呪いへと変貌する。その恐ろしい事実を、ウィンストンは今、骨身にしみて思い知らされていた。
「もう十日だ……。十日も経つというのに、まだ一度も目を覚まされないとは……」
ウィンストンは悲痛な面持ちで、自身の声を押し殺すように呟いた。
十日前――リビアとカーディエンが、互いに満身創痍の状態で、血に塗れて神殿から戻ってきたあの悪夢の日。
ウィンストンは、あの日の光景を今でも鮮明に、呪いのように記憶している。
メルセデス家の馬車がようやく帰還したと聞いて安堵し、自ら駆け寄ったが、御者台にいるはずの配下の姿はなかった。代わりに屋敷の敷地へ滑り込んできたのは、見知らぬ不気味な馬車。嫌な予感に駆られて扉を開けた瞬間、そこには、血と埃に塗れ、見るも無残な姿で折り重なるように倒れていた主人と、高貴な家庭教師の姿があったのだ。
長年メルセデス家に仕え、あらゆる政争や修羅場を経験し、一度として動じなかった老執事ウィンストンでさえ、あの瞬間ばかりは取り乱し、老体に激しい震えを募らせて狼狽した。今でも思い出すだけで冷や汗が背中を伝い、胸が締め付けられる。
その後、ウィンストンはカーディエンの看病を、チェルシーはリビアの看病を、それぞれ不眠不休で担当した。
数日後、リビアが無事に意識を取り戻したという知らせを聞いた時は、ようやく救われた思いで胸を撫で下ろした。主人であるカーディエンも、彼女が目覚めたのなら、すぐにその後を追うように目を覚ますはずだと、誰もが信じて疑わなかった。
しかし、一週間が過ぎ、十日が経過しても、カーディエンの長い睫毛がぴくりと動く気配すら無かった。
(ご主人様……。あなたは一体、今、どんな深い闇の夢をご覧になっているのですか……)
ウィンストンは絶望の深いため息をついた。
「申し訳ありません、執事長。私の医術が至らないばかりに……」
自分を責めるように俯くシグモンに対し、ウィンストンは力なく首を振った。
「いいえ、そんなことは言わないでください。むしろ、旅から帰国されて早々にこのような過酷な労働を強いてしまい、こちらこそ申し訳ない」
「そのようなお言葉は無用です。私はメルセデス公爵家の主治医。閣下をお支えすることこそが、私の存在意義なのですから」
使命感に満ちた熱い言葉を投げかけられても、ウィンストンの表情は一向に晴れなかった。それもそのはずだ。シグモンが危険を冒してまで大陸一周の過酷な旅に出た本当の理由は、カーディエンの魔力暴走を止める手がかりを探すためだったのだから。その彼が戻ってもなお、この眠りは打破できない。
「とにかく、魔力の循環自体に異常は見られません。むしろ、普段の暴走状態の時よりも遥かに安定し、凪いでいる。肉体が限界を超えた急速な自己治癒を行っているのでしょう。じきに、目を覚まされるはずです」
「……そうであってほしいものです、本当に」
力なく応じる年老いた執事に、痛わしげな視線を向けたシグモンは、声を柔らかくして言った。
「執事様、あなたも少しはお休みになってください。ここ数日、まともに睡眠をとっていらっしゃらないでしょう。閣下を案じるお気持ちは痛いほど分かりますが、このままでは閣下が目覚める前に、あなたが先に倒れてしまいます」
心配をかけるな、と促す医師に対し、ウィンストンは返事の代わりに静かに微笑むことしかできなかった。主人が眠り続けている今、自分が倒れるわけにはいかないのだ。
そんな頑固な執事を見て、小さくため息をついたシグモンが、踵を返して廊下を去ろうとした、その瞬間だった。
「……っ!?」
シグモンが唐突に息を呑み、身体を硬直させた。
気配もなく、寝室の前の廊下にひっそりと立っていた『人物』を見つけ、医師は驚愕に目を丸くした。状況を把握するためにウィンストンが近づくと、そこには意外な人物の姿があった。
「チェルシー? 一体どうしたんだ、リビア先生の看病は……」
チェルシーは感情の読めない瞳で一瞬ウィンストンを見つめると、小さく無機質に頷いて言った。
「執事様。ご一緒にお越しください」
「え……?」
あまりにも唐突で、問答無用な彼女の物言いに、ウィンストンは当惑の表情を浮かべた。しかし、チェルシーは真っ直ぐに顔を上げ、凛としたはっきりとした口調で告げたのだ。
「フリントン先生が、あなたにお会いになりたいと仰っています」
その黒真珠のような瞳には、『拒絶は一切認めない』という、尋常ならざる強い意思の光が宿っていた。
(まったく……。この娘は……)
ウィンストンは、この頃になるとチェルシーが本当にメルセデス家に忠誠を誓う人間なのか、それともリビアという一個人に完全に心酔している人間なのか、境界線が分からなくなってきていた。
それでも――。
(もしかすると……彼女なら……)
「……分かりました。行きましょう」
ウィンストンは翻意し、すぐに歩き出した。
リビアの部屋へと向かう彼の横顔は、今にも雨が降り出しそうな曇り空のように暗く沈んでいた。この十日間、主人の看病にかかりきりで、命の恩人でもあるリビアの様子を一度も見舞いに来られなかったことへの、激しい罪悪感と不義理が彼の胸を締め付けていたからだ。
部屋の前に到着すると、ウィンストンは震える手を上げ、静かにノックした。
コンコン。
「どうぞ、お入りください」
扉の向こうから、落ち着いた、いつもと変わらない凛とした声が返ってきた。ウィンストンは深く一度呼吸を整え、意を決して扉を開け、一人で室内へと足を踏み入れた。
部屋のベッドの上、背中にクッションを当てて腰掛けているリビアと、真っ直ぐに視線が交差した。
彼女の姿を目にした瞬間、ウィンストンの胸に、これまでの感謝、申し訳なさ、そしてやり場のない焦燥感が一気に込み上げてきた。老執事は、耐えきれずに深く、苦しそうに頭を下げた。
「先生……お見舞いが、これほどまでに遅くなってしまい……本当に、申し訳ありません……!」
それは、彼の張り裂けそうな心の底からの謝罪だった。
すると、リビアは慌てた様子でベッドから身を乗り出し、急いで彼を制するように両手を振った。
「あ、いいえ! そんな、執事さん! 私は本当にご覧の通り元気ですから、どうか頭を上げてください、お願いです」
その声は、私たちが最初に出会った時から何一つ変わらない、優しく、包み込むような温かさに満ちていた。
いつからだろうか。この頼りないはずの一介の家庭教師の声を聞くだけで、ウィンストンの頑なな心が、不思議と安らぎを取り戻すようになっていたのは。
だからこそ彼は、無意識のうちに、自分が長年一人で背負い続けてきたあまりにも重すぎる責任を、少しずつ彼女の細い肩へと託すようになっていたのだ。
亡きヴィンセント様の残した遺志、呪われたカーディエン様の未来、そして、崩壊寸前のメルセデス公爵家のすべてを。
ウィンストンは、ゆっくりと顔を上げた。
そして、夕焼けの残光を思わせる、美しく聡明な琥珀色の瞳を見つめた、その瞬間――。
「先生……っ」
これまで、誰の力も借りることなく、孤独に、黙々と呪われた公爵家を支え続けてきた年老いた執事は――。
「……どうか、どうかお力をお貸しください……!」
一介の家庭教師にすぎないはずの一人の女性の前で、ついに張り詰めていたすべての糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。
床に両膝を突き、リビアの前で、これ以上ないほど深く深く頭を垂れる。
「……どうか、我がご主人様を……カーディエン様を、目覚めさせてやってください……!!」
彼女なら。数々の不可能を覆し、冷酷だったカーディエンの心を開き、メルセデス家そのものを変えてみせたリビア・フリントンなら。
この、永遠の死に等しい眠りにつき続ける主人を、再びこちら側の世界へと連れ戻してくれるかもしれない。
そんな、身勝手で、けれども捨て去ることのできない一筋の希望を胸に抱きながら、老執事はただ、涙を落として祈るように跪き続けるのだった。
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レモンとの脱出と「神聖樹」の異変
レモンの手を借りて地下から脱出したリビアは、神殿の中心にそびえ立つ枯れかけた大木「神聖樹」を目にする。二人が去った後、その樹はリビアが触れた影響か、謎の白髪の女性・セレスティナたちの前で、突如銀色の光をまとって満開に咲き誇り、彼女たちにリビアの存在を確信させることとなった。
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ジェフリーと消えた教授の繋がり
馬車での退避中、リビアはレモンに襲撃者の記憶から得た情報を共有する。狂気的な実験には、以前リビアを誘拐して失踪した元教授ジェフリー・カスパートが関わっており、さらにその前任で同じく行方不明のセルレベル・ナデルという人物も繋がっている可能性が浮上し、レモンが裏の調査に動くことになる。
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昏睡するカーディエンと執事の懇願
公爵邸に戻って一週間が経ち、リビアの体調は回復しつつあったが、カーディエンは魔力が安定しているにもかかわらず10日間も目を覚まさずにいた。極限まで追い詰められ、張り詰めていた糸が切れた老執事ウィンストンは、リビアの前に膝をつき、「主人を目覚めさせてほしい」と涙ながらに懇願した。