こんにちは、ちゃむです。
「残された余命を楽しんでいただけなのに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
107話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 矛盾を越える奇跡
カリンは驚きに目を丸くした。
「人魚族とそこまで親しく交流できる方がいらっしゃるなんて、知りませんでした……。」
まさか人魚族の背に乗ってバルガルト湖を渡る日が来ようとは、夢にも思っていなかった。
「私の母と、ここの人魚族の族長が親友だったんです。」
「お母様というと……」
「ええ。ベクサという名前でした。」
「……やはり噂は本当だったのですね。」
ビアトン卿が、あの大魔導師ベクサの息子であるという噂は広く知られていた。だが、それを真に受ける者は少なかった。何しろ魔法連邦の歴史上、最も偉大と称された魔導師の――
「『息子がビロティアン帝国の首席補佐官になるはずがない』――そう考えるのが普通でしたから。」
言葉を交わしながら進むうちに、目的の場所にたどり着いた。
「ここが……パヘルロ家ですか。」
想像していたよりもずっと質素な屋敷だった。人の気配もほとんど感じられない。
歩を進めながら、ビアトン卿はこれまでの経緯をかいつまんで説明してくれた。
「私、何も知りませんでした……。偉大な魔導師ベクサ様が亡くなられていたなんて。しかも、ナルビダルの死が原因だったなんて……。事前に教えていただけていれば、きちんとお悔やみを申し上げられましたのに。」
「母の死は秘密なんです。」
「……」
カリンは少し首をかしげた。どうしてこれほど重い秘密を、自分には何のためらいもなく打ち明けてくれるのだろうか。
「ついてきてください。」
案内されたある場所へ足を踏み入れた瞬間、カリンは思わず息をのんだ。
「母が私に遺した遺産であり、宿題でもあります。」
「……」
もしこの場所の存在が公になれば、間違いなく戦争が起きるだろう。魔法連邦中の数え切れないほどの魔導師や魔塔の塔主たちが、喉から手が出るほど欲しがり、血眼になって奪い合うはずだった。
「私は魔法連邦の出身です。ですが……捨てられました。そんな私を信じて、ここへ連れてきてくださったのですか?」
「カリンさんを信じない理由なんて、一つもありませんから。あなたは根が善良な人です。」
カリンはしばらく黙ってうつむいた。
生きてきて、初めて掛けられた言葉だった。
幼い頃は保育園でいじめられ、その後はビルヘルムによって監禁同然の生活を強いられてきた。最近では、魔法連邦の裏切り者という汚名まで着せられた。彼女の人生は、常に肯定ではなく否定で満ちていたのだ。
だからこそ、誰かに肯定されるということが酷く妙で、居心地が悪かった。ましてや、それがイサベル様ではなく、他人の口から告げられたのだから尚更だ。
ビアトン卿は穏やかに微笑んだ。
「ほかのことは分からなくても、あなたが皇女様に対して本気だということだけは分かります。」
「……」
「違いますか?」
「……その通りです。」
「どうしてそこまで本気になれるのですか?」
「それは……」
沈黙が流れる。代わりに答えたのはビアトンだった。
「皇女様が、あなたの『希望』になってくださったからでしょう?」
「……」
「私も同じです。」
ビアトンはゆっくりと歩きながら言葉を続けた。
「母が残した、ナルビダルの刻印に関する研究資料がここにあります。あなたが希望を見つけたのなら、私は自分の使命を果たさなければなりません。もしかすると……そのためには命を懸けることになるかもしれません。」
「どういう意味ですか?」
「竜と関係があるかもしれないのです。」
「……」
「私は、一頭の竜を知っています。」
ビアトンは、かつてロベナと交わした記憶を思い出していた。
『師匠が何か言ったら、一度は素直に聞いてみなさい。』
『聞いたら500ディルくれますか?』
『500ディルなんて安いものよ。』
ディルとは、五百年も前の帝国で使われていた貨幣単位だ。しかしロベナ大公は、まるで自分がその時代をリアルタイムで生きてきたかのように、あまりにも自然に答えていた。
カリンは怪訝な表情を浮かべた。
「……本当に、竜をご存知なのですか?」
「まあね。とにかく今は、カリン卿の魔力回路を回復させることに集中しましょう。今のままでは、あまり役に立てそうにないからね。」
それから数日が過ぎた。
ビアトンとカリンは、ベクサの研究資料をもとに一つの小さな錠剤を完成させた。破壊された魔力回路を修復する、奇跡のような神秘の薬だ。
「これで、最後に必要なものが一つだけ残りましたね。」
「……そうですね。」
ベクサでさえ理論上でしか完成させられなかった薬。それには明確な理由があった。
「地平線の彼方まで凍らせられるほどの強大な氷属性の魔力。ただし、その魔力は重なっていてはならず、さらに破壊力は極めて低い上、わずかに火属性が混ざっていなければならない。」
これほど破綻し、矛盾した条件もなかった。
「重なっていてはならない」ということは、結局たった一人で――純粋な個人の力で魔法を発動させなければならないことを意味する。
そもそも、それほど強大な魔力を一人で生み出せる人間など大陸にもほぼ存在しない。奇跡的に存在したとしても、極めて優秀な魔法使いであれば純粋な属性魔力を扱うため、不純物など混ざるはずがないのだ。仮に不純物が混ざっていたとしても、それほどの力を持つ魔法使いの一撃なら、凄まじい破壊力を伴ってしまう。
完全に矛盾していた。カリンは肩をすくめる。
「理論上だけの存在だと言われる理由が分かります。こんなの、絶対に不可能です。」
「いいえ、可能です。」
「そう言っていただくのはありがたいですが、できないものはできません。」
ビアトンは余裕の笑みを浮かべた。
「皇女様が起こした奇跡をご覧になっていないから、そうおっしゃるのでしょう。理解できますよ。」
「奇跡、ですか?」
「ええ。『北極氷水』というものをご存じないでしょうから。」
カリンは首を傾げた。『北極氷水』などという奇妙な魔法の名は聞いたこともない。たとえそんな魔法が存在するとしても――。
「……どうしてビアトン卿は、そんなに自慢げなのですか?」
「自慢げですって? とんでもない! 私は自慢というものを一切知らない人間ですよ?」
「……」
「皇女様が奇跡を起こされた瞬間をこの目で見届けられたことの、一体何がそんなに自慢だというのです? しかもその時、皇女様が気を失われて本当に驚いたんですから。もちろん、私が怪我をしないよう絶妙なタイミングで受け止めてくださったのですがね。ふふ。」
「……今のそのお姿が、少しも見苦しくないとでもお思いなんですか?」
「謙遜しているように見えませんか?」
「どうか謙遜であってほしいと心から願っています。」
どう見ても、ただの親バカならぬ「主君バカ」のドヤ顔だった。
ビアトンは「空島」を訪れていた。
島の中心にそびえ立つ巨大な屋敷――そこがロベナ大公邸である。
「珍しいこともあるものですね。今日はご自宅にいらっしゃるのですか?」
「家にいなくてどこにいるというんだ。それより、お前こそ何の用だ?」
「愛する弟子が訪ねてきたのですから、もう少し歓迎してくださっても良いのでは?」
「尊敬する師匠に会ったら、まず頭を下げるのが礼儀だろうが。」
「今どきそんな時代でもないのに、ずいぶん古臭いことをおっしゃるんですねぇ。」
「ふるくさい……?」
ロベナはうっすらと眉をひそめた。聞き覚えのない言葉だったが、「知らない」と認めるのはなんとなく癪だった。
だが、ビアトンは昔から勘が鋭い。
「『古臭い』という言葉、ご存じないのですか?」
「知っている。」
「へえ、どういう意味ですか?」
「……」
「大丈夫ですよ。流行りの言葉をご存じなくても理解できますから。」
ビアトンは意味深な笑みを浮かべていたが、ふと思い出したように1冊の本を取り出した。
「以前から少し気になっていたんです。母の遺品を整理していたら、これを見つけまして。」
開かれたページには、とても古い肖像画が描かれていた。五百年前に生きた、初代大公の姿。
「だから師匠にあんなに似ていたんですね?」
「私の先祖なんだから、似ていて当然だろう。」
「五百年も経っているんですよ?」
ビアトンは目を細めた。
「師匠、正直に話してください。」
「何をだ?」
「……竜、ですよね?」
「竜? 何のことだ?」
「歳を取って物忘れがひどくなった設定に切り替えたのですか?」
「……」
竜の存在を知らないと言うほうが、よほど不自然だった。伝説として語る者や否定する者はいても、「竜」という概念そのものを知らない人間など存在するはずがない。
重苦しい沈黙が流れる。やがて、ビアトンがおそるおそる口を開いた。
「り、竜に殺されちゃったりします……?」
「……いっそ今ここで殺してやろうか。」
「それだと竜が怒るって聞きましたけど、本当に怒るんですか?」
「……」
「もしかして、正体を知った人間を口封じに消したりするんですか……?」
「そんな都合の良い口封じがあるか。」
ロベナは「はあ」と深くため息をついた。別に正体がバレたからといって、殺さなければならない決まりなどない。
「それで? 昔から感づいていたくせに、どうして今さらそんな話を持ち出してきたんだい、可愛い弟子殿?」
「竜の心臓が必要なんです。一つ譲っていただけませんか?」
バキッ!
激しい音とともに、金属製の灰皿が飛んできた。
ビアトンは身を捩らせ、間一髪でそれをかわす。スパルタな母・ベクサに鍛え上げられた反射神経のおかげで、なんとか命拾いした。
「屋敷を壊す気ですか!?」
「お前をブチ殺したほうが後腐れがなくて良いからな。」
「いやいや、心臓の一つくらい譲ってくれても良いじゃないですか。竜なら心臓が百個くらいあるんじゃないんですか?」
「バカ言んじゃないよ!」
ロベナの拳骨が容赦なくビアトンの脳天に振り下ろされた。服はあちこち破れ、顔にも擦り傷ができたが、不思議と致命傷は避けていた。
「竜の心臓だって一つしかない!」
「じゃあ、その心臓をあげたら死んじゃうんですか?」
「当たり前だろう!」
「では、師匠を殺しても良いですか?」
「できるものなら、やってみな。」
ロベナがニヤリと凶悪に口端を上げたのを見て、ビアトンは速やかに一歩引き下がった。
「やっぱりやめておきます。私が先に死ぬのは嫌ですから。」
「なんだ、期待外れね。全力で向かってくるかと思ったのに。」
ロベナは目を細めて弟子を見つめた。
(ずいぶん腕を上げたね……)
本来、人はある程度の極みに達すると成長は鈍化するものだ。ロベナから見れば、ビアトンはすでに完成された限界点にいる存在だった。これ以上の伸び代はないと思っていたが、どうやら思い違いだったらしい。
人間というのは、何か強力な『きっかけ』さえあれば、どこまでも限界を超えて成長する。ビアトンには、その出会いがあったのだ。
(やっぱり、だから私は人間が好きなんだ)
ここが限界だと思えばそれを乗り越え、次の限界が見えればそれさえも破っていく。まるで彼らには、本当の限界など存在しないかのように。
ロベナは静かに口を開いた。
「……ナルビダルの刻印が理由なら、諦めなさい。」
ビアトンの顔から、一切の戯けが消えた。ロベナは真摯な瞳で言葉を重ねる。
「それは竜でさえどうすることもできない――神の呪いなのだから。」
ビロティアン皇宮、セレナの寝室。
皇后セレナは、窓の外に浮かぶ月を静かに見上げていた。
(ブラドック公爵と話をしなければ……)
五百年もの間、脈々と受け継がれてきた裏の伝統。
今回セレモンと対話し、彼に接したことで、セレナはその伝統の意義に強い疑問を抱き始めていた。
かつて乱世を極めていたビロティアンとは違い、今では皇帝ロンを中心とした強固な中央集権体制が確立されている。歴史上、これほど強大で安定したビロティアン帝国は存在しなかった。
そんな時代に、本当に『第1の影』などという残酷な存在が必要なのだろうか。剣林学院は今なおその必要性を主張しているが、本当にそうなのか。
(時代は、もう変わったのよ……)
セレモンを見ていると、強くそう感じた。
セレモンは、ルンに叱られているその瞬間を、どこか嬉しそうに楽しんでいた。まるで、ずっと誰かに叱られ、正されることを望んでいた幼子のように。
(ロン殿下も、それに気づいているはず。)
少々強引な人ではあるが、決して情の分からない人ではない。だからこそ、あえて大げさに振る舞っているのかもしれないのだ。
(私たちも、変わらなければ……)
セレナにとっても、帝国の変革は最優先事項だった。それは愛する夫・ロンにとって、何よりも大切なことだったから。
若い頃の自分は、そのためだけにただひたすら走り続けてきた。けれど必死に駆け抜けるうちに、気づけば大切な家族や周囲の人々からあまりにも遠く離れてしまっていたのだ。
背後の扉が開き、ロンが静かに入ってきた。
セレナは月を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「愛していた気持ちは、本物だったのです。」
「……」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。ロンはそっと歩み寄ると、後ろから妻の肩を優しく抱きしめた。
「でも……心だけだったのです。」
「……」
「それは、本当に『愛』と呼べるものだったのでしょうか?」
萬人の母となるために心の奥底に封じ込め、見ぬフリをしてきた罪悪感を、彼女は夫の前でゆっくりと吐き出していった。
「カマンが、あれほど私を慕ってくれていたことは分かっていました。」
分からないはずがなかった。母親なのだから。
「でも、私はあまりにも忙しすぎた……。」
戦争を止めなければならなかった。帝国に繁栄をもたらさなければならなかった。複雑に絡み合った貿易紛争を解決しなければならなかった――。
そんな言葉は口にしなかった。結局は、身勝手な言い訳に過ぎないからだ。
「結局のところ、私はあの子たちに愛を何一つ与えられなかったのです。」
「……」
「最近、切実に思うのです。行動の伴わない愛など、愛ではないのだと。」
「君は最善を尽くした。」
「本当に最善だったのでしょうか……?」
「間違いない。私が保証する。」
「私もそう信じて、現実から目を背けていました。でも、違っていたのです。私たちの幼い娘が、私にたくさんのことを教えてくれました……。」
イサベルを見ていると痛感するのだ。自分のしてきたことが、いかに歪んでいたかを。
「あの子は、母親の私よりずっと立派です。」
イサベルは親友のホタルコオロギのために自分の命を削り、皇女としての責務を果たすために巨人と戦った。エレベ山脈の兵士たちのために保存食を作り、飢えた人々のために新しい食べ物を開発した。
カリンには絶望を溶かす『春』を贈り、ビアトンには暖かな人の温もりを与えた。
アルフェア王国の人々が、彼女を『歩く救世主』と呼ぶ理由が今ならよく分かる。
「人は完璧にはなれません、ロン。ですが、昨日より少しでも良い今日を目指して足掻くことはできるはずです。」
セレナは溢れる涙を拭いもせず、続けた。
「今の時代に『第1の影』は必要ない――そう薄々勘づいていながら、私はその仕組みを壊そうとしませんでした。ただ従っていたのです。『皇室を守る最後の砦だから』と自分に都合よく言い聞かせて……。本当はただ、魔法学院との摩擦を恐れて逃げていただけなのに。」
その影の生贄となる子どもたちに胸を痛めて見せても、何一つ行動を起こさなかった。叱らないこと、優しく接することだけで『良い母親』を気取り、自分を慰めていただけだったのだ。
「誰よりも我が子を愛している気でいました。でも……本当は誰一人として愛せていなかった。誰にとっても完璧な『皇后』にはなれたけれど、自分の子どもたちの『母親』にはなれなかったのです。」
セレナはロンの胸に顔をうずめ、押し殺していた感情を爆発させるように泣きじゃくった。
「子どもたちの母親になりたい……! 今さらそんなことを願うなんて、あまりにも身勝手でしょうか……?」
「私は、君が本気で望んで叶えられなかったことなど、一度見たことがない。」
ロンは抱きしめる腕にギュッと力を込めた。胸が引き裂かれるように痛む。
目の前にいる女性は、自分と共に帝国を支えてきた気高き巨人だった。その巨人が今、自分の腕の中で誰よりも小さく震え、打ちひしがれている。その姿が、たまらなく愛おしく、そして辛かった。
(まるで、私自身を厳しく叱責されているようだ……)
セレナは「自分は母親失格だ」と泣いている。それは同時に、ロン自身も父親失格であると突きつけられているのと同じだった。
(どうすれば、良い父親になれるのだろうか……)
そんなこと、誰からも教わったことがなかった。
ビロティアン皇室の歴史に『温かな親』などという概念は存在しない。
(分からない……誰か教えてくれ……)
だが、自分を導いてくれる父も母も、彼には最初から存在しなかったのだ。
そして時間は流れ、ついにイサベルの九歳の誕生日がやってきた。
誕生日の夜明け――。
市場長のデイルサが大事そうに抱えているケーキを見たユリは、思わず目を丸くした。
「わあ……っ!」
「どうした?」
「デイルサ市場長がお菓子作りをしているなんて初めて見ました! これ、ご自分で作られたんですか!?」
「……」
デイルサは氷のように冷ややかな無表情のまま、じっとユリを見つめた。
あまりの圧に、ユリは急に恐ろしくなってキュッと首をすくめる。
(お、怒らせちゃったかな……!?)
そこへ、ひょっこりとビアトンが助け舟を出した。
「デイルサ執事長、何をそんなに照れているんだい?」
「……どういう意味だ。」
「見ているこちらまで甘甘な気分になるほど照れているじゃないか。」
「朝っぱらから戯れ言を抜かすな。」
デイルサはバッと翻転すると、逃げるようにその場を去っていった。
クスクスと楽しそうに笑うビアトンに対し、ユリは冷や汗をかいている。
「お、お怒りになってしまったでしょうか……?」
「大丈夫だよユリ。デイルサ執事長は今、生きてきた中で一番恥ずかしがっているだけだからね。デイルサが最初から執事長だったわけじゃないって知っているかい?」
「はい。『皇室剣士団』で“黒い鯨”の異名を持っていた、恐ろしいほど強い騎士様だったんですよね。」
「そう。最初から執事として洗練された英才教育を受けてきたわけじゃないから、実は家事全般が少し苦手なんだよ。」
ビアトンはしゃがみ込み、秘密を打ち明けるようにユリの耳元でささやいた。
「初めてお菓子作りを習った時なんて、力加減が分からなくて調理器具を全部叩き潰しちゃってね。『ベーキングだけは死んでもやらない』って心に決めていたくらいなんだ。」
「ええっ!? あのデイルサ執事長がですか!?」
「ああ。だから今まで誰も、デイルサがお菓子作りをする姿なんて見たことがなかった。……でも、あれだけのクオリティのケーキを作れるようになったということは、裏でどれほど練習したことか。」
「……練習していたんですか? あの執事長が?」
「みんなが寝静まった夜明け前に、一人でコソコソ練習していたんだろうね。知っての通りデイルサは筋金入りの完璧主義者だ。自分が不格好に失敗する姿なんて、絶対に誰にも見せたくないのさ。」
「……」
「それなのに、一番見られたくなかった君たちに手作りケーキを見られてしまったんだ。今頃、穴があったら入りたいどころか地面に潜り込みたい気分じゃないかな? ねぇ、ユリモル製菓のユリ代表?」
夜明け前から、ビアトンは多忙を極めていた。
規模こそ小さなパーティーではあったが、イサベルが心から喜んでくれるよう、ありったけの愛と真心を込めて準備を進めていたのだ。
ちなみに魔法学院からは、「帝国首席補佐官ともあろう者が、そんな些細な子どもの誕生会などに時間とエネルギーを浪費するなど言語道断」と苛烈な非難が寄せられていた。
「まあ、どうでもいいや。」
ビアトンは鼻で笑い飛ばした。どうやら、例のマスコット(?)であるキムベルルの適当さに少し感化されてしまったらしい。
「こういう時は、こう思えばいいんだよね、キムベルル?」
【違います。】
「あれ、じゃあどう言うんだっけ?」
【なるようになります(ケセラセラ)。】
「ケセラセラ? ふん、いいねそれ。」
聞き慣れない異世界の言葉だったが、妙に心地よく胸に響いた。
普段は不毛な口喧嘩ばかりしているキムハチ(キムベルル)とビアトンだったが、今日ばかりは妙な連帯感で息がぴったり合っていた。
【くまみ家庭教師・キムハチ】
「ところでお前、そのモコモコした毛の中に何を隠しているんだい?」
【秘密。】
ビアトンは目を細めた。モフモフした毛の奥から、尋常ではない高濃度の魔力波動がダダ漏れている。
(やっぱり、ただのミツバチじゃないな……)
翻訳魔法がかかっているわけでもないのに自在に意思疎通を図り、あろうことか皇宮の厳重な宝物庫までコソコソ荒らしまわっている怪しい存在。
(お前の正体は、一体何なんだ……?)
――まあ、それも後回しだ。
今一番重要なのは、世界で一番大切な少女の、九歳の誕生日を最高のものにすることなのだから。
今回のエピソードの要点を3つにまとめました。
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カリンの救済と「北極氷水」の伏線
ビアトンはカリンを信頼して母ベクサの遺産を明かし、彼女の魔力回路を治す薬を提示。完成に必要な「破壊力のない巨大な氷魔法」の条件に対し、ビアトンはイサベルが起こした奇跡「北極氷水」こそが解決の鍵だと自信を見せます。
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ロベナの正体と「神の呪い」
ビアトンはロベナ大公の正体が「竜」であると見抜き、イサベルの刻印を解くため心臓を求めますが拒否されます。ロベナは成長し続ける人間(ビアトン)を評価しつつも、刻印は「竜でもどうにもできない神の呪い」だと告げます。
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皇室夫妻の葛藤と温かなお誕生日
セレナとロンは親としての不条理な制度(第1の影)や愛の欠乏をイサベルから学び、不器用ながら良き親になろうと涙を流します。そして迎えたイサベル9歳の誕生日、デイルサやビアトンたちが心を込めて祝宴の準備を整えます。