こんにちは、ちゃむです。
「公爵邸の囚われ王女様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
160話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 最初の一言
ロザリーは、クラリスの手首に白いリボンを優しく結び、ささやかな装飾を施した。まだ濡れたままの髪には結べないから、と言い添えて。
いつも自分に勇気を与えてくれるそのリボンを、丁寧に身につけたクラリスは、すっと胸を張った。
これなら――今の自分なら、きっと。
ノアの部屋の扉を、まっすぐに叩ける気がした。
「…………」
もちろん、そう感じたからといって、必ずしも思い通りにいくとは限らない。
クラリスは彼の部屋の前で、しばし立ち止まった。
(何から話せばいいんだろう……?)
いきなり核心の本題から切り出すべきか。それとも、まずは天気の話でもして相手の様子をうかがうべきなのか。
けれど、どれもしっくりこない気がして、最初の一言を考えあぐねていた。
するとその時、ポケットの中からひょいとマランギが顔を出し、勢いよく外へと飛び出してきた。短い腕をぐっと前に伸ばし、どこかへ向かって進もうとするその様子は、どう見ても悩むクラリスの代わりに扉をノックしに行こうとしている。
「だめっ!」
クラリスが慌てて大きな声で止めると、マランギはこれ見よがしに大きくため息をつき、くるりと向きを変えて、さっさと廊下の向こうへ去っていってしまった。
……危うく助かった、とクラリスは胸を撫で下ろす。
(心の準備もできていないのに、ノアと鉢合わせするところだった……あ)
ふと、マランギの後を追いかけようとしたクラリスは、自分の足元に目を落とし、凍りついた。
――取り返しのつかない失敗をしてしまった。
クラリスは、即座にそう悟った。
静まり返った夜の廊下で、あれほど大きな声を立ててしまえば、「ここに自分がいます」とノアに大声で知らせたようなものではないか。
(き、聞こえちゃったかな……? 本を読んでいて気づかなかった可能性も、ある……よね……)
そんな都合のいい淡い期待は、扉が「きい」と小さく軋む音とともに、あっさりと打ち砕かれることになった。
「……少女」
「あ、あはは……こんにちは、ノア」
ぎこちなく手を振って挨拶するクラリスに対し、彼は仮面の上から顔を押さえたまま、小さく頷くだけだった。
「ここで、何の用だ?」
その声音には、どこか――明確な警戒が混ざっていた。そう肌で感じ取れてしまうことが、クラリスの胸を少しだけちくりと刺した。
「ノアに……話したいことが、あって……」
「急ぎの用か?」
「う、うん……ほら、あの……崩れたゴーレムの件で」
「そうか。ならば、公爵に面会を願い出て、同席して話すのがよかろう」
静かで、あまりにも理にかなった提案。それはぐうの音も出ない正論であり、いかにも彼らしい冷静な判断だった。
――けれど。
クラリスの胸に灯った“どうしても伝えたい想い”は、そんな事務的な一言では、どうしても収まりきらなかった。
やはりノアは、クラリスが居心地悪そうに立ち尽くしているのを感じ取っていた。その上で放たれた、暗に拒絶するような言葉が、どこかひどく冷たく響く。仕方のないことだと分かっていながらも、やはり胸の奥が痛んだ。
「公爵様にお話しする前に、ノアに……」
クラリスは少し迷った末、彼の呼び方を変えることにした。なぜか今は、その方が彼の頑なな心を動かせる気がしたからだ。
「――魔法師シネット様にご相談したいことがあるんです。ですから……どこまでなら、魔法師として私の話を聞いていただけますか?」
「…………」
「もちろん、私は正式な魔法師ではありません。だからこそ、こういう特別な話を相談できるのは……世界で魔法師シネット様だけで……」
「…………」
「どうか、私を助けていただけませんか?」
しばらくの間、彫刻のように沈黙を保っていたノアだったが、やがて諦めたように扉を少しだけ大きく開けた。
「……入ってもいい」
「ありがとうございます、魔法師シネット」
クラリスは、彼が扉を開いてくれたこと、そして「魔法師シネット」と名を呼んだことでようやくこの場への立ち入りを認められたこと――その二つを同時に噛みしめながら、静かに彼の部屋へと足を踏み入れた。
ノアは書卓のそばに寄りかかったまま、入ってきたクラリスの方を振り返る。椅子を勧めようとしないのは、要件だけを手早く済ませて、彼女をすぐに帰すつもりだからだろう。
その距離は、わずか十歩ほど。クラリスは彼から少し離れた位置で足を止め、声を潜めて話し始めた。
夜はすでに深く更けていた。今夜は雲が厚いのか、窓から差し込む月明かりも乏しい。書卓の上で微かに揺れる一本の短い蝋燭の炎がなければ、クラリスはノアの輪郭すら、ただの暗い影としてしか捉えられなかっただろう。
「今日、兵士の皆さんが戻られたあと……すぐに、あの崩れたゴーレムのところへ行きました。とても……優しいゴーレムでした」
その言葉を口にした瞬間、クラリスの胸の奥に、あの静かな存在の気配が鮮やかによみがえる。ただ壊れ、沈黙していたはずの石の塊。それでも、確かにあそこには“心”を宿していた存在があったのだ。
クラリスは、ゆっくりと言葉を選びながら、続きを紡いだ。
「……そうでしたか」
ノアは軽くうなずいた。それは、続きを促す静かな仕草だった。
「ゴーレムは、二つの理由で今すぐその場から動けないと言っていました。一つは、その内部を保存魔法で守っているからだと……」
「……お母上の魔法、ですか」
彼は慎重に言葉を選ぶようにして、やがて丁寧な口調で答えた。それは一見すると礼儀正しい態度のようだったが、クラリスには、自分とそれ以上の距離を取ろうとしているようにも見えた。
「……はい」
クラリスは胸の奥の痛みをぐっと押し殺し、説明を続けた。
「先代の魔法師シネット――つまり団長様が、ゴーレムを通して構築した保存魔法が、今もかろうじて維持されているんです。その方が残してくださった魔力と魔力核を動力にして……」
「……本当に、驚くべきことですね。それは……」
ノアは仮面に手を当て、独り言のようにつぶやいた。その瞬間、彼の内に潜む純粋な好奇心が静かに灯り、隠された真実を確かめたいという衝動が湧き上がっているのが分かった。
本当は、もっと深く問いただしたかったはずだ。けれど、目の前の相手がクラリスだからだろうか、彼はそれ以上を口にしようとはしなかった。
――自分の命さえ実験台に載せるような苛烈な男が、なぜこんな場面では、自らの好奇心を律してまで距離を取ろうとするのだろう。
クラリスは少し拗ねたような、腹立たしいような複雑な気持ちを覚えつつも、今はその感情を飲み込み、話を先へ進めることにした。
「その……保全魔法を解除して目覚めさせるには、“真実を必要とする六人”が揃っていなきゃいけないって、ゴーレムが言っていました」
「保全魔法を開く鍵、というわけか。六人……」
ノアは静かに頷き、その条件に該当しそうな人物を、一人ずつ思考の中で拾い上げていく。
「セリデン公爵、バレンタイン、マクレド卿……それに私も入るだろう。……あとは……」
そこまで言って、彼は不自然に言葉を切った。
クラリスは、その中に自分の名前が挙がらなかったことに、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。思わず、肯定を求めるように片手を少し持ち上げる。
「……あの、私は」
「……そうだとしても、まだ一人足りないな」
遮るように被せられた彼の言葉に、クラリスの指先が、宙でぴたりと止まった。
――足りない。
その拒絶のような言葉が、思っていた以上に重くクラリスの胸に突き刺さった。
「公爵夫人も真実を求めてはいらっしゃいますが、お腹にはお子さまがいます。揺れる馬車に乗って、ここまで来られるかどうかは分かりません。ベンス卿やロザリーではいけないのでしょうか? お二人とも、公爵様の問題が解決することを心から願っているはずですから」
「正直に申し上げますと、その六人の中にその少女……あなたが含まれるのかどうかも疑問です。ゴーレムの中に眠る人物と、実質的な関わりを持つ六人、という意味なのかもしれませんし」
「やってみなければ分かりませんよ」
「……それは、もちろん実験してみて――」
「……そして、ゴーレムのもとへ行って一人ずつ確認すれば、答えは分かるはずです」
クラリスの強い口調に、ノアは少し言い過ぎたと思ったのか、気まずそうに視線をふいと逸らした。
「それにしても、保存魔法とは……。先日、魔法師アストが最後に語っていたことが……そういう意味だったのか。だから、魔法師の宝石が……」
「……魔法師の宝石、ですか?」
「いえ、確証はありません。あくまで私の推測ですから、どうか気に病まないでください。それより――ゴーレムが目覚められない、他の理由は思い当たりませんか?」
「……あ」
クラリスは、思わず自分の手首に視線を落とした。指先でなぞるように触れると、半ばほつれかけた白いリボンの感触が、不思議と高鳴る心を落ち着かせてくれる。
「……欠けて、外に出てしまった“かけら”があるから、だと思います」
「長い年月、外に晒されていたのなら……あり得る話だ」
「でも、それとは別に――団長様が意図的に外した石が、もう一つある気がして……それが……私の部屋にあるんです」
「……君の部屋に?」
クラリスは、こくりと小さく頷いた。
「以前、ノアが……いえ、魔法師シネットが、私にくださった、あの赤い石です」
「……ああ。そういうことか」
その瞬間、ノアの張り詰めていた声音がわずかに緩んだ。
「なら問題は単純だな。その石を元に戻せば、条件は揃う」
「……そ、そう……なりますよね?」
自分でもまだ確信が持てず、確認するように問い返すクラリスに、ノアは短く肯定を返した。
「理屈の上では、な」
その言葉はどこまでも冷静だったが、同時に微かな“希望”を含んでいるようだった。
――確かに、道はある。だがそれは、まだ誰も踏み出していないだけの道だ。
クラリスは、胸の奥で小さく息を吸い込んだ。
「それは困ったことですね」
「……困りましたね」
「これ以上、話し合うべきことはなさそうです。どうぞ、お気をつけてお帰りください」
「い、いえ、私――」
用は済んだと言わんばかりに告げられ、クラリスがもう一歩彼に近づこうとした瞬間、ノアは慌てて手を前に伸ばした。
「そ、そこまでです! その場でお話しください!」
「……あ」
近づいてはいけない、ということか。
クラリスは、胸の奥がじわりと冷えていく感覚をどうにか押し込めながら、再び視線を足元へ落とした。
「……落ちていった欠片が、もう一つあるんです」
「もう一つ?」
「その石は、かつてそのゴーレムの周囲を、何度も行き来していたそうです」
そう告げたクラリスは、少し気持ちが落ち着いたのか、顔を上げた。自分の言葉が、彼の胸にきちんと届いたかを確かめるように。
……図星だったのだろう。
彼が、ほんの一瞬だけ息を呑むのが分かった。
「私は――“ある目的”を抱いたまま、今なお活発に“活動”を続けている前代団長のゴーレムは……世界に一体しか存在しないと思っています」
「……っ」
ノアはわずかに身じろぎし、無意識のように仮面を押さえた。
「壊れた瞬間の感触を思い返せば、何の矛盾もありません。絶対に、辻褄は合っています」
「……君の言う通りだ。私の体を構成する石は、確かに母上――魔法師の魔法によるもの……だが、それ“だけ”ではない……」
「その“だけじゃない部分”が、はっきりしているんです。私は断言できます。ゴーレムマスターとして、この力に懸けて」
「……あ……」
その揺るぎないクラリスの言葉に、ノアはそれ以上、何も反論できなかった。
「でも――それは魔法師シネットを“守るため”のゴーレムですよね。だから……こうして、あえて二人きりでお話ししたかったんです」
「……その言い方は……この石と、私を……切り離せる可能性がある、と?」
「正直に言えば……どうすればいいのかは、まだ分かりません」
クラリスはそう告げて、少しだけ視線を落とした。
「でも――知らないままにしておくのは、もっと怖いんです」
その言葉は、弱々しくも、確かに偽りのない真実だった。
部屋の中に、短い蝋燭の炎が静かに揺れる。その淡い光の中で、二人の沈黙は、次第に重さを帯びていった。
――これは、ゴーレムの構造の話ではない。“彼自身”の在り方を問う、剥き出しの話なのだから。
「ですが、それはゴーレムですから。私なら形を変えられると思います。魔法師シネット様が、その機会をくださるのであれば」
「……」
「もちろん、もしお望みでなければ、この話はしばらく秘密にしておきます」
「そうなると、ゴーレムは失われたままになりますね」
「ええ、そうなります」
「それは……良くありません。母から託され、守ってきた真実は、あなたやセリデン公爵のお役に立つはずですし、私自身も、その中に残されたものが気がかりなのです」
「それでは、許可してくださるのですか?」
「そ、それは……そうなるのでしょうが……」
彼はひどく居心地の悪そうな表情を浮かべていた。クラリスに素顔を見せるのは、これが初めてではないというのに。
「何か問題があるのですか?」
問いかけられた彼ははっとした様子で、慌てて首を振った。
「い、いえ! いや、その……ありません。その……仮面が……」
「……黙っていてくれないと、困る」
クラリスがどれほど優れたゴーレムマスターであったとしても、今の彼女には――実際にその“石”に触れなければ、何も感じ取ることができないのだから。
「……あ……」
ノアは机の縁に手をつき、そのまま、ふっと力を抜いて身を預けた。それはまるで、長年背負ってきた何かを諦める前触れのような姿だった。
「……すまない、少女」
次の瞬間、彼はまるで日常の何気ない一幕のような調子で、唐突に謝罪した。
「……え?」
「いや……謝るべきかどうかは分からないが。ただ……少女は、少しばかり“見過ぎてしまった”」
戸惑いながらも耳を傾けるクラリスに向けて、彼は言葉を選ぶように、少しだけ間を置く。
「私の顔を飾っている、この石のことだ」
理由は分からない。なぜ彼が今になって、それを詫びるのか。
「……いつかは、真実を話すつもりではあった。だが――」
ノアの声が、わずかに低く沈む。
「もし、これさえ失ってしまったら……少女は、私を――」
その先を、彼は言わなかった。
だが、言葉にしなくても分かった。それは“存在”の話だ。守るために生きてきた者が、その守る理由そのものを失うかもしれないという、根源的な恐れ。
部屋の中で、蝋燭の炎が小さく揺れた。クラリスは何も言えず、ただ、その沈黙の重さを受け止めるしかなかった。
――これはもう、ゴーレムの構造や魔法の話ではない。彼が「何者としてここに在るのか」を、決定づけてしまう問いだった。
「……それで……」
彼は言葉を飲み込み、ゆっくりと仮面を外した。
白い額の下、長く伏せられていた二つの瞳と、鋭く続く顎の線があらわになる。そこまでは、クラリスが以前から知っていたノアの姿と大きな違いはなく、彼女はなぜノアがそこまで躊躇っていたのか理解できなかった。
「あ……」
だが、彼が紫色の瞳を静かに開き、視線が真っ直ぐに重なった瞬間。
ようやく、わかった。
彼女は「近づくな」と言われていたノアの忠告を完全に忘れ、気づかぬうちに彼へと一歩、踏み出していた。それでも、ノアは近づいてくるクラリスを止めようとはしなかった。
小さな灯りがともるそのわずかな領域を共有することになったとき、クラリスは、彼に起きた変化をよりはっきりと――はっきりと理解できた。
石は、消えていた。
そこに残されていたのは、本来の、白く滑らかな皮膚だけだった。
「……どうか、何も言わないでください。私も……分かっていますから」
彼は「醜い、ということだ」と、自嘲するように小さな声でつぶやいた。
「ノアは……優しいですね」
「無理に慰めなくても大丈夫ですよ」
「ち、違う! 本当に! 今すぐ満足したいだとか……そんな意味で言ったわけじゃない! あ、いや、その……違います!」
クラリスの顔にあふれ出した焦りの言葉を慌てて取り繕うと、ようやくノアは柔らかな眼差しで微笑んでくれた。
「……気にしないでください。私が勝手にあなたを困らせただけです。ごめんなさい。最近、少し頭の中がごちゃごちゃしていて……」
「あ、いや。僕も同じだよ」
「そうでしょうね。穏やかではない出来事が、続いていますから」
「起きているよ」
クラリスは、
(もちろん、それも理由だけど……今は、あなたが好きすぎるから)
という本当の言葉をそっと胸の奥にしまい込み、ただ愛おしそうに微笑んだ。
ともあれ、こうしてノアと向き合い、落ち着いて話ができる今この瞬間が、何よりも心地よかった。最近の彼は、クラリスと目が合うと、すぐに気まずそうに視線をそらしてしまっていたから。