こんにちは、ちゃむです。
「悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
73話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- カップル香水
「エノク皇太子がユリアって呼んでたの、聞いた?」
「当然でしょ!むしろ聞けって感じだったよね?」
「あの時の、あの子を見る目……すごく甘かったよね……」
それだけじゃない。
私のつけていた香水とエノク皇太子の香りが混ざったあの空気まで皇太子の香りと混ざり合って調和を生んだことへの反応も大きかった。
「それ、“カップル香水”ってやつじゃないですか?」
一緒に過ごす時間が増えるほど、香りが少しずつ溶け合って、まるで新しい香りになったかのように感じられる——そんな香水のことだ。
……私の香水は、エノク皇太子を思い浮かべながら、ずいぶん前に練習で作ったものだったのに。
重厚で少し荒っぽい彼の香りが、私の上品なフローラルと混ざって、妙に相性がいい。
(思ったより……私たちの香り、広まってるのね)
そういえば、ダンスのあと、やけに人が寄ってきていた。
私が作ったものの中で、ここまで意図せず話題になったのは初めてだ。
(いっそ、商品化する?)
ユネットには、もう問い合わせが山のように来ているらしい。
問い合わせが殺到している、という報告まで上がってきた。
——代表様が他の方と同じ香りを共有されることに抵抗がないようでしたら……香水事業をご検討ください。
私は、誰かが私と同じ香りを使うことに対して、特別に嫌悪感を抱く性格ではない。
むしろ理性的に考えれば、香水事業は十分に“あり”だ。
(既存とは違う、個性的な香りだし……需要はあるはず)
個人の好みを尊重するコンセプトにすれば、なおさら受け入れられるだろう。
それに、私とエノク皇太子——二人の話題性もある。
上手くやれば、“カップルフレグランス”として売り出すことだってできる。
普段の私なら、ここで即決して動き出していたはずだ。
けれど——今回話題になっているのは、あくまで“カップル香水”。
(エノク皇太子を思って作った香りを、他の人に——?)
その一点だけが、妙に引っかかった。
男が使うのは嫌だった。
それに、他の女性が私と同じ香りをまとって、万が一エノク皇太子と香りが混ざるのも——嫌だった。
これは、あの瞬間も、あの関係も、全部“私たちだけのもの”であってほしい。
(……うん。この香水は、二人だけでいい)
私はそう結論づけて、発売しないことに決めた。
「香水は誰が作ったのか、どこで手に入るのかと聞かれて……ユリア様からいただいたものだと答えました。ユネットで売っているのかとも聞かれまして」
そして、エノク皇太子と会った日——一緒に散歩をしているとき、自然とその話題になった。
「殿下。今回、香水が話題になっているのはご存じだと思いますが……私は、発売するつもりはありません」
少しだけ声を落として、そう伝えた。
「ただ……私たち二人だけで使いたいんです」
エノク皇太子は、その言葉をまるで大事な贈り物のように受け取った。
そもそも彼は、私にだけ特別に名前を呼び、誰にもしてこなかったパートナーの申し込みまでしてくれた。
――私が特別だと、はっきり示してくれた。
だから今度は、私の番だった。
彼を“特別だ”と伝える番。
「……ひとつ、正直に言います」
私は少し視線を落として、けれど逃げずに言葉を続けた。
「前に、ただのルームスプレーだって言いましたよね。でも、違うんです」
ゆっくりと顔を上げる。
「最初から――殿下を思って作りました」
一瞬の静寂。
「エノク・フィアステ。あなたは、私にとって他の誰とも違う人です」
胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……これから先も、他の男性を思って香りを作ることはないと思います」
その言葉を聞いた瞬間、エノク皇太子の表情が、はっきりとほどけた。
凍てつく冬に、春の花が咲いたみたいな――そんな明るい笑みだった。
「私は特別ですか?」
「はい」
迷いなく答えると、彼の目がわずかに細まる。
「名前を許したくらいには」
言いたいことがちゃんと伝わったみたいで、少しだけ胸の奥が軽くなった。
あれ以来、空気が変わった。
ふとした瞬間に感じる視線も、前よりずっと近い。
距離は、確実に縮まっている。
そして――
「それなら……これからは、堂々と外でお会いしてもいいですか?」
静かに、けれど逃げ道を与えない声音。
一歩、踏み込んできた。
あの瞬間、エノク皇太子がどんな顔をしていたのかは、はっきりとは覚えていない。
ただ、これまでで一番勇気を出したような――それでいて、どこか緊張しているような、そんな空気だった。
目の前で、私が望んでいた表情をしてくれているのに、それでもどこか現実味がなくて。
「外で……デートがしたいです」
はっきりと、“デート”という言葉。
私はしっかりと頷いた。
誤解させないように。
「ユネットでは香水を発売しないそうです。二人だけの香りだとか」
「ロマンチックですね。私もそんな香り、一つくらい欲しいですわ」
「欲しいですって」
「“ユリア”なんて呼ばれてるなんて……エノク皇太子殿下がそんなふうにするとは思いませんでした!」
「フリムローズ公爵家を出たのに、ずいぶん堂々としてますね?公爵様は名残惜しかったのか、引き止めているようにも見えましたけど」
社交界の中心になったユリアの話題で、どこへ行っても彼女のことばかり。
「でもこの前、リリカ様が“二人は何でもない関係”っておっしゃってませんでした?」
「そうでしたっけ……?」
「よく見るとそこまで親しそうでもないし……勘違いだったのかもしれませんね。わざと嘘をついたわけではないでしょうけど」
結果的にリリカの発言は誤りだったが、誰も強く責めることはなく、そのまま流された。
けれど、ほんの一瞬の沈黙だけは避けられなかった。
誰も口には出さないけれど、どこか気まずい空気が漂っていた。
そういうふうに推測されていた。
フリムローズ公爵家がぎくしゃくしていることや、ミュージカルで言われていたように、リリカが一方的にユリアをいじめていたわけではなさそうだ、という話だった。
もちろん…相手がユネットの代表であるユリアと聖女リリカである以上、詳しく踏み込むことはできなかったが。
噂が絶えない社交界では、こうした憶測も珍しくない。
それでも聖女相手にユリアが非難されないのは、それだけユネットの影響力が大きいからだった。
「ユリアが私たちにそんなことするはずないでしょ?」
「やっぱりエノク皇太子殿下が後ろについているからでしょうね。仲がいいって噂はあったけど、本当じゃなかったのかも。だからあんな態度だったのよ。前はあそこまでじゃなかったのに……」
「そうよ。家族と距離を置いて金をかすめ取るなんて、あの子らしいやり方じゃない?」
舞踏会から戻った家族たちは状況を受け止めきれず、現実から目を背けていた。
さらにユリアについても、「昔はもう少しまともだったのに」「ああなったのはエノク皇太子のせいだ」など、以前なら口にしなかったような話まで出てくる。
ついには、こんな言葉まで漏れた。
「……私たちが、もう少しあの子に優しくしていれば違ったのかもしれないね」
フリムローズ公爵の重い一言に、ジキセンがすぐさま口を挟む。
「ですがユリアの性格はご存じでしょう。あのトラブルメーカーにこちらが歩み寄ったところで、変わるとは思えませんが?」
「それはそうだな。お前の言う通りだ。最近は少し大人しくなったと思っていたが、結局は相変わらず問題ばかり起こしているじゃないか」
「そうでしょう?前は“ユリアは素直でいい子だ”なんて言っていたくせに、今は“問題ばかり起こす”だなんて、都合よく言い分を変えているじゃないですか」
二人は延々とユリアの話を続けた。
「ユリアが……」
「ユリアは……」
だが実際には、ユリアがどんな人間だったのか、なぜ変わったのか――そんなことは彼らにとって大した問題ではないようだった。
彼らの頭の中を占めているのは、ただ一つ。
自分たちを拒んだ“ユリア”という存在だけ。
内容はどうでもいい。
ただ彼女の話題を口にしていないと落ち着かない、そんな様子だった。
「そもそも、母親があんなふうに出ていった時点で……」
そしてついには、使用人たちに対してまで“その話題は口にするな”と、強く口止めをする始末だった。
追い出された公爵夫人の話まで持ち出された。
それに加えて、あの人たちはユリア、ユリアとばかり言って――公爵家にもいない人間のことばかり気にしている。
その状況がリリカには耐えられなかった。
家でも社交界でもユリアの話ばかり。
それなのに、家の中でまで同じ話題なんて。
私を平手打ちしたのはいつの話?
そのくせパートナー申請までしておいて、今さら興味がないみたいな態度……!
(本当にイライラする……)
ビエイラ伯爵を動かそうとしたが、あっさり失敗した。
ユリアが異種族の男と会っているという噂も、皇太子をパートナーにしたことでむしろ笑い話になり、逆にエノク皇太子の目を覚まさせるきっかけになったようにさえ見えた。
狩猟大会の時も、結局はしがみついていると揶揄されただけで……。
ビエイラ伯爵家で正式に伯爵となったことすら完全に見下され、嘲笑の的になっていた。
名ばかりの伯爵――そんな扱いだった。
マルセル・ビエイラは誰からも信用されず、伯爵位を継いだ途端、ビエイラ家と進めていた事業もすべて白紙にされた。
顔を上げられないほどの屈辱を味わったうえ、周囲からも見放されている。
リリカは奥歯を噛みしめた。
ユリアが以前ほどビエイラ伯爵を気にしていないと分かっていながら、それが逆に彼を後押しする結果になるとは思ってもいなかった。
(このままじゃダメ……)
だが「安全で楽だから」という理由だけで、マルセル・ビエイラを動かすわけにはいかない。
リリカは遅れて自分の選択を悔やみ、まともな計画を立て直そうとしたが――その間にも、ユリアの時間は確実に進んでいた。
(準備は順調)
今この瞬間は、私が長いあいだ準備してきた成果が形になりつつある時だった。
(既存の化粧品に加えて新作、それに薬まで並行して準備してるから、材料が足りなくなるかと思ってたけど……思ったより余裕がある)
普通ならこの時期、栽培地に顔を出して成長促進の祝福をかけてほしいってフロレンスから依頼が来るはずだ。
私一人の“成長の祝福”じゃ足りなくて、フロレンスとセリアンの力も借りてきた。
でも最近は、フロレンスがいても足りないくらい必要な素材の量が増えていて、管理もかなり大変になってきている。
大変になるところだった。
幸い最近は錬金術ギルドにいる間、爵位が必要になることもなさそうで、セリアンにはフロレンスの手伝いに行ってもらっていたけれど……
「まだ私の“成長の祝福”、ちゃんと回ってるの?」
訪問要請どころか、作物が元気に育っていて気候調整の負担も減っている、という報告が返ってきた。
「はい。なので、私がしばらく不在でも問題ないかと」
「ふーん、早く首都に戻りたくて言い訳してるんじゃない?」
「いえ、なぜ私がそんなことを」
「一人でいるユリアお嬢様が心配、とか?」
「おかしなこと言わないでください!」
それまでの砕けた口調を引っ込め、きちんとした言葉遣いに戻って、気づかないうちに敬語まで使うようになっていたセリアンだった。
彼がわざわざ私を騙す理由もない。
冗談でからかっただけだと分かり、私は小さく笑って頷いた。
「分かった、分かった。信じてるって。今回から報告書も提出するって言ってたけど、ちゃんとできてるじゃない?」
私はセリアンの報告書をぱらぱらとめくりながら、思わず感嘆の声を漏らした。
作物が不足している様子はまったくなく、状況はきれいに整理されていた。
「すごいわね。領地にあなたまで送り込まなきゃいけないかと思ってたのに……作物の育ちが想像以上だわ。フロレンスの腕が上がったのかしら?」
「彼も場数を踏んでかなり腕を上げましたが……お嬢様も成長していらっしゃるのでは?」
「私?成長の祝福もだいぶ使いこなせるようになってきた……ってことかな。うん」
ここ最近、成長の祝福が伸びているとは感じていた。
扱いやすくなっていたし、使うたびに手応えもあったからだ。
でも「熟練」と言われると、どこかしっくりこない。
「もちろん努力はしてるよ。でも今回みたいに一気に伸びたっていうのは……努力に対して急すぎる気もする。まあ、悪いことじゃないけど」
少し自慢っぽく聞こえたかもしれない言い方だったが、セリアンは真面目な顔で受け止めた。
「私も同じように感じています。あくまで推測ですが……祝福の力が“精霊”の影響を受けている可能性はありませんか?」
「精霊?」
「フリムローズ公爵家に降りる祝福の力。その根源は、古代の精霊ではないかと私は考えています」
「……」
「もちろん、私の思い違いかもしれませんが」
「いや。精霊の話なら、聞いたことはあるよ。家に伝わる伝説でね」
どの家にもそれっぽい伝承はあるものだ。
祖先が狼の子だったとか、神の血を引いているとか——たいていは眉唾で、深く気にしたことはなかったけれど……
「精霊、か……」
だけど、今回は妙に引っかかる。
時間を遡り、この世界が小説『転げ落ちた公女を愛してください』の中だと気づいたあの瞬間——確かに、子どもの笑い声のようなものを聞いた気がした。
「あの時は“やり直す機会をもらえた”ってことばかり考えて、深く気にしてなかったけど……もしかして、この人生そのものを精霊が与えてくれたのかも?」
ふとそんな考えがよぎる。
「でもセリアンって精霊師でしょ?どうして“推測”なの?精霊なら全部分かるんじゃないの?」
「祝福に宿っているのは、おそらく“古代精霊”です。私が扱うような、意思疎通ができる通常の精霊とは別物なんです」
現代の精霊ですら解明されていないことが多いのに、古代精霊となればなおさらだという。
セリアンは少し言葉を選びながら続けた。
「確証はありません。ただ……以前よりもお嬢様の周囲に感じる気配が強くなっています。もしそれが精霊だとするなら、“数”が増えているように見えます」
「最初にお会いした頃とは、明らかに違います」
「……」
「精霊師が意図的に呼び寄せたのでない限り、これほど多くの精霊が一箇所に集まるのは異例です。それに……その気配がどこか懐かしいのです」
「フリムローズ公爵家で感じたから?」
「お嬢様もお気づきでしたか」
――そう。私も、薄々感じていた。
ユネットで必要とされる力を使い続けているはずなのに、あの“気配”はずっと消えない。
「私は確かにフリムローズ公爵家で育った。でも、あの時に感じていたものと同じ気配が、今も残ってる」
セリアンは静かに頷いた。
「本来であれば、フリムローズ公爵家の一員が祝福の力をさらに覚醒させたのなら、精霊たちは喜ぶはずです。ですが……」
わずかに言葉を切り、低く続ける。
「集まっている精霊たちは、どこか苛立っているように感じます」
「……そうかもね」
「怒りに駆られている最中にお嬢様が現れたことで、ジキセン小公爵についていた精霊たちが、お嬢様のほうへ移ったのではないかと……そう考えました」
「思い出した。セリアンが家を出るとき、何かをじっと見てたでしょ?あれって、それだったの?」
「はい」
精霊の感情に影響されて、祝福の力が強まっている――?
だとしたら、なぜ彼らは怒っているのだろう。
「もし“何か”が原因で精霊たちが怒り、お嬢様についてきたのだとすれば……今起きている現象も説明がつきます」
「筋は通ってるね。私もその可能性はあると思う」
「信じていただけて……ありがとうございます」
セリアンはほっとしたように目を伏せ、すぐに視線を逸らした。
口元をわずかに緩めたが、どこかすっきりしない。
「家門に長く宿る力が精霊だっていうなら、“怒ってる”なんて話は少し大げさに聞こえるかもね」
まだ断定はできないけれど――
「でも、精霊のおかげで祝福が強くなってるなら、それはそれで悪くないか」
ふと別の可能性が頭をよぎる。
精霊が移動したのだとしたら、もともとその力を持っていたジキセンやリリカは、逆に弱くなっているのでは?
(……さすがに考えすぎか)
小さく息をつき、思考を切り替えた。
今は仮説を広げるよりも、周囲の変化を見た方が早い。
(あの二人の様子を、もう少し注意して見てみよう)
もし本当に祝福の力が弱まっているなら――きっと、どこかに“ほころび”が出ているはずだ。
剣の祝福か、治癒の祝福か。
どちらにせよ、他人の目にもはっきり分かる類のものだから。
「じゃあセリアンはどうするの?私の力が強くなったら、弟に会いに行く回数も減るんじゃない?」
休みがないわけじゃない。
でも、公務の合間に会うよりは、まとまった時間を取って会った方がいいに決まってる。
けれどセリアンは、少しも迷わず肩をすくめた。
「ふん。あいつももう、昔みたいに可愛げはありませんし」
「フロレンスが聞いたら、きっと拗ねるよ?」
「それよりも――もっと気がかりな人がいますので」
「……それって、私じゃないよね?」
「ご想像にお任せします」
にやりと笑うセリアンに、思わずため息が漏れる。
(ほんと、食えない人だな……)
そう思いながらも、私は彼を護衛騎士としてさらにこき使うことにした。
やがて大きく笑った。
セリアンはくすっと笑い、その冗談を軽く受け流した。
「これからは給料をもらう準備でもしておいてね。」
「え?」
「フロレンスも同じよ。」
私は以前、ユネットの産業が発展したら報酬を出すと言ったことがあった。
もし仕事ができるなら、給料は払うつもりだ。
もちろん私がオークションで稼いだ資金があるから、3年くらいは問題ないけど。
実際、3年も経ってはいない。
――…どうしてここまで? 命令して従わせる方が、あなたにとっては簡単なはずなのに。他の貴族たちが奴隷を扱うみたいに。
――私は言われたことだけやる奴隷じゃなくて、自分で考えて動く人材が欲しいの。
フロレンスとセリアンは、もはや単なる奴隷ではなかった。
ユネット産業を私が軌道に乗せられるよう、背後から支えてくれる優秀な中核人材だ。
「ねえ、本当?奴隷に給料を出すの?」
セリアンはよほど驚いたのか、使っていた敬語を引っ込めて思わず砕けた口調になった。
「一応、私が代表なんだから、敬語は使ってほしいんだけど。以上」
「いやさ、最初に会ったときから思ってたけど……こんな人、いや代表、いる?いるの?」
呆れたような言い方だったけど、セリアンの顔はこれまでで一番明るかった。
「働いてくれる人にお金を払うのは当たり前でしょ」
初めて会った頃はあんなに反発していたのに、今では確かな信頼関係が築かれていた。
時間がそれを可能にしたのだ。
私は微笑みながら、次の報告書に目を通した。
資金を錬金術ギルドに投資した結果……思っていた以上に成果が出ている。
「最近見る報告書、どれも当たりばかりね。ほっぺたが痛くなるくらいだわ」
そして最後に――私はパルニエ副ギルド長から追加の報告を受け取った。
「この前、別のギルド員が発毛剤の開発中に染料を作ったって話、ありましたよね?」
「ええ、あったわね」
染料は、私が医薬事業を考えたときに最初から想定していたものではなかった。
けれど――化粧品と医薬、その両方をつなぐ橋としては理想的な存在だった。
(話題性は抜群になるはず。だって“髪色”って、誰もが気にするテーマだから)
単なるファッション目的の人から、白髪を隠したい人まで――需要は幅広い。
(特定の年齢や性別に限られないのがいい)
以前、私に悪意のある噂が広まったときも思った。
(“みんなが使うもの”になれば、この商品は簡単には切り捨てられない。むしろ私の後ろ盾になる。根も葉もない中傷に振り回されることも減るはず)
染料は、これから展開する医薬品をイバフネ教から守るための“盾”にもなる。
(これは絶対に当たる)
既存のユネットの化粧品と組み合わせた販売戦略まで、頭の中で自然と組み上がっていく。
発毛剤の開発中に偶然生まれた――なんて片付けるには、あまりにも完成度の高い商品だった。
従来の染髪方法みたいに、副作用があったり思い通りの色が出なかったりするものとは全然違う。
でも――パルニエ副ギルド長は、そのすごさを語りに来たわけじゃなさそうだった。
「発毛剤が失敗したって聞いて……ああ、いや、少し改良すればいけそうなんです」
その目がきらりと光る。
落ち着いている彼がこんな表情をするのは、爆発薬の時以来、二度目だった。
(まさか……)
「それで試しに作ってみたら……効果、あると思います!」
「え、本当に?いつから研究してたの?」
「結構前からです。発毛剤の研究の過程で効果があると感じたのは確かです。でも、未完成のままでは期待だけ持たせてしまうので……完成するまでは誰にも話していませんでした」
普段は飄々としているパルニエ副ギルド長の声が、今日は妙に重かった。
「ギルド長、ちょっと髪を見ていただけますか? 以前と比べてどうでしょう?」
「……ああ」
(やっぱりね)
パルニエ副ギルド長も、髪の悩みを抱えていたらしい。年齢的にも無理はない。
中年男性なら多くが気にする問題だ。
きっとそれで、一度失敗した発毛剤の研究をもう一度引っ張り出してきたんだろう。
気持ちは分かる。
けれど――それで判断を甘くするわけにはいかない。
(ちゃんと見極めないと)
期待に満ちたその表情に水を差すのは気が引けたけど――私はパルニエ副ギルド長の髪をじっと見つめて、ゆっくり口を開いた。
「一生懸命研究されたのは分かります。でも……申し訳ありません。発毛剤は商品化できません」
遠回しに言うこともできた。
傷つけないようにぼかすことも。
けれど――これは“医薬”だ。
効いているかのように見える、なんて曖昧なもので世に出すわけにはいかない。
「脱毛って聞いてから余計に分かるんです。平均より……やっぱり毛量が少ないです。副ギルド長の髪は」
あえて、はっきりと言い切った。
「副ギルド長がどれだけ心血を注いだかは分かります。ですが正直に言うと……以前より髪の状態が良くなっているとは思えません」
ユリアは淡々と告げた。
それでもパルニエ副ギルド長は表情を崩さず、すぐに切り返す。
「具体的に数値で見ると、どの程度でしょう?」
「……平常時の7〜8割、といったところでしょうか」
冷静に答えながらも、ユリアは内心で少し言い過ぎたかもしれないと感じていた。
あれほど時間と労力をかけた研究だったのに、結果はむしろ逆効果に近い。
改善どころか、悪化の可能性すらある。
(普段なら、こんな判断を誤る人じゃないのに……)
焦りが視野を狭めているのかもしれない。
どう言葉をかけるべきか――ユリアは一瞬、迷った。
「……あったのか」
思わず呟いた。
ユリアの冷静な評価とは裏腹に、パルニエ副ギルド長はむしろ勢いを増して机を叩いた。
「7割から8割?それなら十分成功だ!」
「え?」
思わず聞き返す。
「俺の髪、カツラじゃないんだ!」
「……はい?」
「正直に言う。今のこれは、普段つけてたカツラを外した状態だ! 元はほとんど禿げてたんだよ!」
――場が一瞬、静まり返った。
あまりにも衝撃的な告白だった。
「何をやってもダメだったこの頭が、ここまで戻ったんだぞ?だったら他の人間にも効くに決まってる!」
なるほど、そういうことか。
私はようやく理解した。
(……つまり、この人にとっては“7〜8割”でも劇的改善ってことね)
理解した瞬間、私は思わず椅子を蹴って立ち上がった。
「ちょっと待ってください!ほぼ禿げていた状態からここまで戻ったってことですか!?」
あり得ない――いや、あり得てしまっている。
これまでどれだけの人間が望んでも叶わなかったこと。
神の奇跡でも難しいとされていた分野。
それを――「よりによって、あのイバフネ教に軽んじられていた錬金術ギルドで……!」
思考が一気に加速する。
これは、ただの新商品じゃない。
市場がひっくり返るレベルの発明だ。