こんにちは、ちゃむです。
「悪役に仕立てあげられた令嬢は財力を隠す」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
59話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 大騒ぎ
不意に――連絡が入った。
ユリアからだった。
発信者の名を見た瞬間、エノク皇太子の表情から、すっと熱が引いた。
予定を確認することすらせず、彼はその場で静かに立ち上がる。
「……今日は、ここまでにしておこう。」
「えっ……殿下。もしや、何かご急用でも?」
「そういうわけではない。ただ――別件ができた。」
「承知しました。こちらは我々で引き継ぎますので、どうかお気をつけてお戻りください。」
エノク皇太子は、どこか落ち着かない様子でそれだけ答えたが、側近たちはそれを、さほど深く考えなかった。
――それが、“ただの用件”などではないと、気づきもしないまま。
侍従が手渡した手紙が、それほど重大な内容ではなかったからこそ、エノク皇太子がこのような反応を示すはずがない――そう思ったのだ。
「殿下も、本当にお変わりありませんね。夜遅くまで国のために尽くしておられる。私たちは、この仕事さえ終えればそれでいいのに」
「隣国のコンラッド子爵や、ハワード卿は家庭を持たれましたが、殿下はまだ、恋愛を楽しむ年頃でしょう。この年寄りの胸が痛みますよ」
側近たちは、エノク皇太子を「自分の幸せより、まず国を優先する人」として見ていた。
その眼差しには、慈しみと、いたわりの感情がはっきりと滲んでいる。
エノク皇太子は、内心では素っ気なく応じた。
『令嬢に会いに行くだけだ』
だが、エノク皇太子は、それをわざわざ訂正しようとはしなかった。
彼らが勘違いしているおかげで、殿下が突然席を立った理由を、深く詮索されずに済んでいるのだ。
普段から膨大な仕事を抱え、常に多忙を極めているからこそ成り立つ――それは、ある意味で彼だけが許される行動だった。
今夜、ユリアと会うことにした湖畔は、美しかった。
静かで――澄みきっていて。
だが、暗い水面に月明かりが射し込むその光景は、どこか神秘的な生命力を宿しているようにも見えた。
(……なるほど。まるで彼女自身のような場所だ。)
少し離れたところを、ユリアが歩いてくる。
金色の靴が、闇の中でも淡く輝いていた。
冷たくも揺るがない足取りで――
(どうして、わざわざこの景色を見せたいと言ったのか……今なら、わかる気がする。)
返事のない行動さえも含め、目の前に現れたユリアの姿を、彼は静かに見つめていた。
ユリアの姿は、いつの日かのように、彼の心をときめかせた。
ただ、それだけでよかった。
もちろん、ユリアが美しいのは確かだったが、それだけが理由で惹かれていたわけではない。
丹念に着飾った貴族の令嬢たちは、大抵が美しかった。
けれど、ユリアを見たときに覚える気持ちは、そうしたものとは違っていた。
見ているだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
一緒に過ごす時間が特別に感じられて、どれほど時間を費やしても惜しくなくて、ただ……眺めているだけでも満たされる。
――いや、正確には、「見ているだけで満足する」などというものではない。
「解毒剤の開発に力を入れるつもりだと言っていました。これからは、山毒蛇やほかの動物の毒で苦しむ人が出ないように、と」
ユリアは神薬の話をしながら、どこか楽しげに目を輝かせていた。
もちろん、それは彼がよく知る聡明で理性的なユリアそのものの姿だった。
「……」
――けれど、今夜は少しだけ違って見えた。
胸の奥に、微かなひっかかり。
その違和感に気づいた彼は、そっと視線を周囲へ巡らせた。
いつもとは違う場所――静かな湖畔、物寂しい夜の空気。
狩猟大会のとき、あの独特の雰囲気が妙に心地よかったことを思い出す。
そして、そんな状況で“急な呼び出し”が届いたのだ。
――もしかすると、自分も期待していたのかもしれない。
言葉にならない何かを。
けれど、結局のところ――
ユリアと向かい合えば、会話はすぐに仕事の話へと戻ってしまうのだった。
情熱的なのは好ましいし、自分も決して怠け者ではないと思っているが、それでもユリアは、何をするにも常に全力だった。
『さっきも、ヴィヴィアンの話題じゃなかったら、少し嫉妬していたかもしれない……』
とはいえ、倒れたヴィヴィアンのために取り組んでいることなのだから。
妹と仲が良いのは、良いことだ。
……本当に、良いことのはずだ。
『もしかして、私に会いに来たのではなく、ヴィヴィアンの兄に会いに来たのだろうか?』
会話を重ねるほど、彼は次第に落ち着かなくなっていった。
『私は、令嬢にとって、ただの事業上の協力者に過ぎないのではないか?』
知り合って、それほど長いわけでもない護衛騎士より、よほど距離のある存在なのでは――
そんなことを考えてしまうほどに。
《彼は半獣族ですから。かつて奴隷にまで落とされた身ですし……人間に対して、これ以上憎しみを抱かせたくなかったのです。神殿の権威で押さえつけるような真似は、したくありませんでした。》
ユリアのその言葉は、一見すると思いやりに満ちたもののように響いた。
だが、彼には別の感情が芽生えていた。
(……護衛騎士のことになると、ここまで気を配っているのか。)
ただの価値観の違い――そう受け止めるには、あまりにも引っかかる。
冷静で、妥協を許さない彼女が、こと護衛に関してだけはやけに肩入れしているように見えた。
それは――皇太子としても、釈然としない。
半獣族を帝国の臣下として受け入れ、奴隷売買の取り締まりを強化している一方で、自らの傍近くで起きた出来事をただ“同情”だけで済ませてしまうのか。
(……おかしい。)
狩猟大会で、怪我を負った彼に自分のハンカチを差し出し、挙げ句の果てには獲物まで譲った――あの時点で、もう何かが変わっていたのかもしれない。
(もしや……そこから、何も進んでいないのではないか?)
思わず、手に力が入った。
格好つけるどころか、自分の情けないところばかりが、次々と意識に浮かんでくる。
いつも「完璧な皇太子」と呼ばれてきた。
どんなことも、見事にやり遂げて当然だと思っていたのに……なぜ、ユリアの前では、こんなにも自分が小さく感じられるのだろう。
『俺は、こんなにも器の小さい人間だったのか?結局、やっていることは、護衛騎士の引き立て役じゃないか』
――お兄様は、誰かを好きになったことはあるの?
数年前、ヴィヴィアンと交わした会話が、ふと脳裏をよぎった。
皇太子として、そろそろ婚約くらいは考えなくては、そんな話が出始めた頃だった。
――……あるよ。
そのとき彼は、初恋だったユリアの顔を思い浮かべながら、そう答えたのだ。
――え?本当?誰なの?
――そこまで話す必要はないだろう。
――ああ……お兄様も、人間だったんだね。私はてっきり仕事に取り憑かれた人間みたいだと思っていたのに……
ビビアンの言葉が、胸の奥で反響する。
《からかってるのか?》
《お兄さまが誰かを想って、どうしたらいいのかわからなくて苦しむなんて、想像もつかないわ。もし誰かを好きなら、まず私が気づくはずじゃない?なのに、全然そんな素振りなかったもの。》
ビビアンは苛立ちを隠そうともしなかった。
《誰なの?ねえ、誰?私が力になるわ!帝国の皇太子が想いを寄せているのに、どうして相手の方は何も――》
《もう……終わった。》
《……そう。》
《気にするほどのことじゃない。別に、深く想い詰めていたわけでもないし。君が言うような“苦しい恋”とは、程遠かったよ。》
それでも――あの頃は、まだ良かった。
幼くて、拙くて、それが恋だったのかすらわからない感情。
だが今は違う。
いまだ未練が残る相手のことを無意識に気にかけ続けている――
そんな自分の姿に、彼はようやく気づき始めていたのかもしれない。
けれど、そのときは本当に、それでいいと思っていた。
――ところが……
『今は、まったく平気じゃない』
誰かを好きになって、どうしていいかわからない?
仮に誰かを好きになったとしても、それは自分とは無関係で、あくまで冷静に、相手との関係を保つ――そういう話だったはずだ。
――少し息抜きをなさるように、そう言われただけです。だから、ただここで一緒に過ごしたかっただけで……。
それなのに、突然「仕事とは別に会おう」などと言われて……。
頭の中が真っ白になった。
思考が、完全に止まってしまう。
『今日……仕事の話で会ったわけじゃ、ないってことか?』
――何と答えるべきなのだろう。
いや、それ以前に。自分が今、どんな顔をしているのかさえ分からなかった。
あまりに突然のことで、思考が追いつかない。
(……“事業の協力者”じゃなくて、“個人的に会いたかった”――だと?)
その言葉の意味を理解した瞬間、心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。
(何か……返さなければ。いや、考えろ。落ち着け。ユリアが望んでいる返事――彼女を満足させられる答えは……?)
生まれて初めて、自分が“うろたえている”と、はっきり自覚したそのとき――
「……っ、くしゅん!」
ユリアが小さくくしゃみをした。
思わず肩をすくめ、両腕で自分の体を抱きしめる仕草。
寒さに気づいた瞬間、思考よりも早く体が動いた。
それは、彼にとっても珍しい行動だ。
「え?」
着ていた上着をすぐに脱ぎ、そのままユリアの肩に掛けたのだ。
エノクは、自分にはちょうどいいその服が、ユリアには大きいことに、少し妙な気分になった。
自分の服を身にまとったユリア。
ユリアも決して小柄ではないが、彼の上着を着ると、すっぽりと包まれてしまう。
そうして上目遣いに見上げられた瞬間、顔に一気に熱が上った。
「皇太子殿下こそ、寒いのではありませんか?」
「いえ、私は実は、さっきから暑いと思っていたところです」
「あ……そう言われてみると、少し顔が赤いですね」
ユリアは、彼が「暑い」と言った理由を、すぐに理解した。
(……どれだけ顔が赤くなっていたのだろう。)
ユリアは「少し失礼しますね」と言って、そっと外套の襟元を押さえ、さらに身を縮めた。
その姿を見た瞬間――胸の奥が、不意に締めつけられる。
「私には……ちょっと大きいみたいです。やっぱり。」
「どうしても、男性と女性の体格差というか……」
「でも殿下のは、ほかの方よりもずっと大きくて……包まれている感じがします。」
今夜のユリアは、どこか無防備で――それがまた、彼の心をざわつかせた。
「だから、いまは少しだけ温かいんです。こうして二人で入れるくらい、布地が広いからでしょうか。」
そう無邪気に笑いながら、ユリアは外套をぎゅっと掴み、身を寄せるようにして布の中へ潜り込んだ。
その瞬間、清楚なはずの仕草が、妙に意識されてしまい――思わず、息を呑んだ。
「私が差し上げたルームスプレーの香りが、残っていますね。ラベンダーとスモークの香りが、ほのかにします」
顔を上げたユリアは、どこか嬉しそうに見えた。
「香水ではないのに、まだこんなにやさしく残っているんですね。不思議です……」
いつもの落ち着いた、どこか大人びた様子はなかった。
今日の自分が普段より落ち着かなかったのと同じように、ユリアも、いつもとは違っていた。
「そ、その……皇太子殿下。ルームスプレーだけでなく、香水も一つお作りして差し上げてもよろしいでしょうか?狩猟大会のお礼として……」
「ユリアにとって、それがあまり負担でないのであれば……ありがたい申し出です」
一度は、形式的に断るべきだったのかもしれない。
それでも、胸の奥には、込み上げてくる喜びがあった。
ユリアが、自分のことを考えながら、自分だけを――
(……香り、まで気にしてくれているのか。)
「この香り……私に、似合っていますか?」
「……ああ。」
ユリアの問いかけに、思わず即座にうなずいていた。
そして彼女は、少し恥ずかしそうに笑いながら続ける。
「ほんとは秘密なんですけど……この香り、殿下を思い浮かべながら作ったんです。」
くすりと、柔らかな笑み。
その仕草を見た瞬間――頭の中が、真っ白になった。
それからも何か言葉を交わした――はずなのに、その後の記憶が、妙に曖昧だった。
確かに楽しかった。
確かに、ユリアだけを見ていた。
それなのに――
(……どうして、会話の半分も思い出せないんだ?)
理解の及ばぬ違和感が、静かに胸の底へと沈んでいった。
けれども、いずれにせよ湖畔を歩きながら……楽しかったことは、間違いなかった。
「もしよろしければ……次は、私が令嬢をご案内してもよろしいでしょうか?」
エノク皇太子は、そして慌てて言い添えた。
「仕事ではなく、別の目的で」
「はい」
そうして次の約束を取り付けた彼は、自分の上着を羽織らせたまま、ユリアを馬車の前まで送り届けた。
「お返ししますね。貸してくださって、ありがとうございました」
彼よりも小さな肩に掛かっていた上着が、するりと滑り落ちる。
ユリアはそれを拾い上げ、エノクに手渡した。
彼は戻ってきた上着を受け取った。
だが、その場ですぐに着ることはしなかった。
……名残惜しかったのだ。
「……お気をつけて、お帰りください。」
それは、確かに別れの言葉だった。
もう、今夜は彼女と一緒にいられないという現実。
ユリアが乗り込んだ馬車が動き出すまで、彼はその場を離れず見送った。
――そのとき。
「殿下も……なんだか、足取りが軽くなられましたね?」
馬車の扉が閉まる直前、護衛騎士がそんな妙なことを言った気がした。
……いや、聞き間違いだろう。
今の彼には、周囲の声をまともに理解する余裕がなかった。
頭の中に残っているのは――
最後にこちらを見た、ユリアの顔だけ。
(せっかく選んだ場所だというのに……ユリアに謝らないとな。湖の景色を、ほとんど覚えていない。)
そう苦く思いながら、帰りの馬車の座席に身を沈めた。
それでも、胸の奥にはただ一つ――彼女の微笑みだけが、鮮明に焼き付いて離れなかった。
「殿下?一体どうなさったのですか?もしかして、どこかお加減が……?」
「……頭が痛い」
「え?どのようにお痛みで……医官をお呼びして――」
「知能の問題だ。俺の頭が悪すぎるせいだな」
「え?ええ?」
「……少し休ませてくれ」
「い、今、何とおっしゃいましたか、殿下!?」
そして、エノク皇太子の妙な様子は、翌日まで続いた。
夏だというのに、夜遅くまで仕事に意欲を燃やすのは、彼らしくないことだった。
「……ああ、そうだ。ところで君、女性と一緒に行くのに良さそうな場所を知っているか?」
彼がようやく冷静さを取り戻したのは──次の日起きた「とある決意」のせいだった。
デート場所を、ちゃんと選び直さなくてはならない。
そう思い至ったのだ。
「……何とおっしゃいましたか?」
「デート場所……のような所が良いのですが。」
堂々と言おうとしたのに、声はなぜか小さくなってしまった。
「ええと、湖がある場所は、できれば避けたいですね。この前行ったばかりですし。似た雰囲気だと困ります。」
「ということは、殿下は本当に“デートなさる”ということですか?前回も、そうだったのですか?」
「まあ……要素だけ見れば、似ていると言えるな。」
「こ、これは!私ひとりで判断できる問題ではございません!」
動揺した側近は慌てふためき、自分一人では手に負えないと悟ったのか、
次々と他の側近たちを呼び集め始めた。
そして──いつの間にか、エノク皇太子の信頼厚い幕僚たちがずらりと勢揃いしていたのだった。
それだけ、重みのある言葉だった。
果たして彼らは、手にしていた仕事をすべて放り出し、次の瞬間には駆け寄ってきた。
「こ、交際されるお相手ができたのですか?」
「……そういうわけではないが」
「ま、まさか、昨日のあのご令嬢に会いに行かれたのですか?」
「実は、そうだ。言い訳するようで悪いが……」
「うわっ!うわああっ!殿下!殿下!皇太子殿下!」
「……ちょっと」
「殿下が!仕事を放り出して令嬢に会いに行かれました!」
普段は冷静さのかけらもない側近たちが、示し合わせたかのように仕事を広げたまま、興奮しきって騒ぎ立てた。
「我らが殿下の初めての“職務放棄”が、ご令嬢のためだなんて――」
「まさか──“お相手に会うため”だなんて!」
「はあ……私はもう、思い残すことなく死ねますね……」
「“デート”という単語が、殿下のお口から発せられる日が来るとは……ああ……!」
エノク皇太子は事情を説明しようとしたが、もはや誰一人として聞く耳を持っていなかった。
彼らの喉からは、まるで亡霊の怨嗟のような叫びが次々と飛び出していく。
「お相手は、どのような方なのですか?我々も存じ上げている方なのでしょうか?」
「まさか──ユネットの代表ではありませんか?」
「“プリムローズ嬢”ですよね?狩猟大会でご一緒でしたし!てっきり、そうだと思っておりましたのに!」
その瞬間――皇太子宮は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
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